それは間違いなく、人生最高の全力疾走だった。
人生最高の全力疾走をしながら、おれは声の限り、大きく叫んだ。
「先輩方! スライムが来ます! 逃げてくださいっ!」
「なんて?」
間の抜けた質問に、律儀に答えを返している余裕はなかった。おれは最強(笑)のお間抜け先輩ガールを肩に担いでいるので、いちいちそんな問いに答えている暇はない。
なによりも、おれの背後を見れば、警告の内容が真実であることは火を見るよりも明らかだった。
「うおぉおおお!? なんだあれ!?」
「だからスライムだって言ってるでしょうが!」
「退避だ! 全員退避しろ!」
まるで津波のように追ってくる不定形の塊を目撃して、逃げるなという方が無理な話である。ほとんどの生徒が悲鳴に近い叫び声をあげて逃げ出す中、しかしジルガ先輩だけは冷静におれの横に並走してきた。
「ゼンラぁ! どうなってやがる! まるでスライムがプールの水を取り込んで巨大化したみてぇじゃねえか!?」
「あ、そうです。合ってます」
「なんでそんなことになった!? スライムが入っていたケースをプールに落とすようなバカがいるか!?」
「はい。頭打っておれの背中で寝てます」
「バカ野郎! だからあれほど会長には気をつけろと言っただろうが!」
「え、これおれが怒られるやつですか?」
それはちょっとさすがに理不尽が過ぎるんじゃないか?
「いやだぁ! あんなヌメヌメの塊、絶対触りたくない!」
「アリアぁ! オメーも泣きそうな顔してるんじゃねえ! オレたち三人に勝ったときの威勢はどうしたぁ!」
「は、はひっ!」
「シャキッと返事しろゴラァ!」
「しゃ、シャキっ!」
「……」
「ジルガ先輩ジルガ先輩。アリアはああいうヌメヌメしたやつ苦手っぽいんでダメです。戦力としては当てになりません。諦めてください」
「くそがぁ!」
言ってる側から、徐々にスライムとおれたちの距離は縮まっていく。
スライムはあの巨体でヌメヌメしているくせに、予想以上にスピードが早い。
走りながら漫才をしている場合ではない。このままでは追いつかれてしまう。
「ちぃ!」
後ろを見ていたジルガ先輩も、同じことを考えていたのだろう。
先輩は足を止めると、腰の二刀を即座に抜き放った。
「ジルガ先輩!?」
「先に行けぇ! バカどもぉ! ここはオレが引き受け……」
「ありがとうございますっ!」
「せめて最後まで聞けぇ!」
後輩として、先輩の好意は無下にできない。ありがたく、おれは全力ダッシュを続行した。
対して、七光騎士が誇る特攻隊長は、果敢にスライムに向けて挑みかかる。
「ザコスライムが少しデカくなったくらいでイキりやがって! いくぜ! このジルガ・ドッグベリーが、テメーを……」
ぬちゅっ、と。
挑みかかって、そのまま呑まれた。
七光騎士が誇る特攻隊長は、やはりセリフを最後まで言い切ることができずにスライムに呑まれていった。
「ジルガ先輩ーっ!?」
「そんな、ジルガ先輩が……」
「七光騎士最速とも謳われるジルガ先輩が……!」
唯一露出したジルガ先輩の親指が、びしっと立てられる。「オレはいいから、お前たちだけでも逃げろ」という、おれたちへのメッセージだろう。本当にありがとうございます。先輩の犠牲は……無駄にはしません!
不定形の怪物は、その味を堪能するかのように足を止めて、うねうねと蠢めく。結果的におれたちは助かったとはいえ、隣を走るアリアが顔を青くして叫んだ。
「じ、ジルガ先輩が! ジルガ先輩が食べられちゃったよ!?」
「食べられちゃったみたいだね」
「食べられちゃったみたいだね、じゃねえ! あれ大丈夫なのか!? 生きてるのか!?」
「安心したまえ、親友。スライムの主食は魔力そのもの。捕食した対象は消化されたり、肉体的な損傷を負うことはない。むしろ生命を維持しなければ、魔力を継続して摂食できないからね。体力は著しく消耗するし、多少苦しい思いもするかもしれないが、死ぬことは絶対にないはずさ」
「お前本当に詳しいな!?」
「ああ! 父の書斎にあったエッチなスライムの本に書いてあったからね!」
「エッチなスライムの本に!?」
「あ。今のは忘れてくれ」
「お前、今まで自信満々で語ってた知識、エロ本由来だったのか!?」
「エロ本ではないよ親友。歴史ある官能小説だ」
「お前達! 何をしている!」
馬鹿なやりとりをしながら校舎を目指すおれたちに、声が降りかかる。
この声は!
「ウッドヴィル先生!」
「正面玄関の一箇所だけ開けておいた! 早く飛び込め!」
指示に従って正面玄関に転がり込むのと同時に、まだ校舎に残っていたらしいクラスメイトたちが、ドアを締めて厳重に施錠。さらにどこから持ってきたのかわからない机やロッカーやらで、出入り口を固めて、バリケードにした。
「……た、助かったぁ」
「やれやれ。これで一先ずは安心かな?」
床に倒れ込んで息を整えているおれたちの方に、助けてくれたウッドヴィル先生が駆け寄ってくる。
「お前たち! これはどういうことだ!? まさか取り寄せたスライムをプールの中に落として水を取り込んで巨大化したわけでもあるまい!?」
「あ、先生。残念ですけどそれで大体合ってます」
状況把握早いな、おい。
そんな馬鹿な、厳重に管理していたはず……と。呟いた先生は、頭にタンコブを作って目を回しているイト先輩を見て、完全に悟ったような表情になって「ああ、うん」と頷いた。やはり状況把握が早い。生徒のことをよく見て、理解してくれている良い先生である。
「しかし、まずいことになったな……」
「というと?」
「今、二年や三年はほとんどいない。あの巨大化したスライムに対処できる人員は、お前たちと私だけだということだ」
言われて、たしかにと頷く。
そう。今日の訓練では一年生がグラウンドやプールなどの設備を優先して使用する予定だったので、指導役以外の二年生や三年生は、校外学習で出払ってしまっている。当然、引率役として付いていった先生方の多くもいない。そして、校内に残っていた数少ない上級生や先生たちのほとんどは、外で準備をしていた。つまり、逃げ切れていなかった場合、ジルガ先輩のようにあのヌメヌメスライムに呑まれてしまっているだろう。
ウッドヴィル先生は手を叩いて、この場にいる生徒たちを見回して言った。
「誰か! あのスライムの生態に詳しい者はいないか!?」
おれはレオの腕を引っ掴んで前に突き出した。
「先生! まかせてください! コイツは子どもの頃からエッチなスライムの本を読んでいたから、スライムに詳しいらしいんです!」
「えっちなスライムの本を!?」
「やめないか親友!」
男子たちがざわめき、女子たちがさっと距離を取った。
しかし先生は、食い気味に問いかけてくる。
「本当かリーオナイン!? えっちなスライムの本を!?」
「いいえ、先生。誤解です。ボクはリーオナイン家の誇りにかけて、決してエッチなスライムの本を読んだりは……」
「リーオナイン。私は一人の教師として、思春期の男子生徒のそういった感情にも理解があるつもりだ」
「いえいえ、ですから決してそのようなことは……」
「あれの撃退にお前の知識を活かしてくれれば、今後一ヶ月、お前の課題を免除してやる」
「ボクのすべてをかけて、エッチなスライムの知識を提供しましょう」
男子たちが歓声をあげ、女子たちはさらに距離を取った。
これでもうコイツのイメージは残念なイケメンで確定したな……
「せ、先生……! バリケードの隙間からスライムが!」
どうやら、ゆっくり対策を話している時間すらないらしい。
「くっ、やはり液状のモンスター……バリケードを築いた程度では、侵入は防げないか。リーオナイン! このスライムに、何か有効な攻撃手段はあるのか!?」
「ええ。おそらくこのスライムには、炎熱系の魔術が有効なはずです」
「本当か? 頼っておいてこんなことは言いたくないが、情報源は明確に……」
「具体的には流水系の高位の魔導師は文字通り成す術もなく捕まって、あんなことやこんなことをされていましたが、炎熱系の魔術が使える魔術士は、そこそこ抵抗したあとに涙目で取り込まれていました」
「すまない。そこまで明確にしなくていい」
そんなやりとりをしている間にも、液状のスライムはバリケードの隙間から漏れ出るように侵入してくる。
「ちっ……迷ってる時間はない、か。全員、武器を取れ! 炎熱系の魔術を使える者は、準備をしろ! 一斉に火を放つぞ! 校舎を多少焦がしても構わん! 思い切りやれ!」
先生の号令で、炎熱系の魔術を習得している数人が、前に出る。
「撃て!」
合図と共に、小規模とはいえ複数の炎が漏れ出るスライムに直撃。水と炎が反応して、水蒸気が空間に満ちる。
「うおっ……!?」
「効いてる……! 効いてるぞ!」
「やったか……?」
その瞬間。
やったか、と。安堵して呟いた一人の足元にスライムが絡まり、持っていかれた。
「うわぁぁぁぁぁ!」
「ああ、うん。やっぱり、火力が足りないみたいですね」
「レオくんのバカっ! これじゃ怒らせただけじゃん!」
アリアが叫んで、レオの頭をぽこじゃかと叩く。
プールの水を取り込んでそのまま大きくなった、ということは。あのモンスターの性質は、水そのものに近いのだろう。だから、炎をぶつけて蒸発させる、というレオの提示した対策は、きっと間違いではない。
ただし、大量の水を取り込んでしまったあのスライムを焼き尽くすには、圧倒的に熱量が足りていないのだ。
スライムの真っ先に目をつけたのは、やはり先頭で陣頭指揮を取っていたウッドヴィル先生だった。悪意に満ちた粘液の触腕が、女性らしい丸みを帯びた体に絡みつく。
「くっ、お前たちだけでも……逃げろ!」
「先生ーっ!?」
銀髪褐色巨乳でスタイル抜群の先生が、ヌメヌメのスライムに絡まれて取り込まれていく。
おれはあまり嘘を吐きたくない質なので正直に言うが、おれを含めた男子生徒のほとんどが走りながら背後を振り返って、その光景を脳裏に焼き付けた。意図しての行動ではない。動物的な本能に基づいた反射行動である。
「ウッドヴィル先生がスライムに!」
「なんてことだ……本で読んだシーンよりえっちだ」
「バカ野郎! 冗談言ってないで逃げるぞ!」
こうなってしまっては、もう上に逃げるしかない。
廊下は走るな、という基本的な学校規則を無視して、階段に向かってひた走る。追いすがってくるスライムの先端を剣で切り払ってみるが、気休めもいいところだ。どんなに鋭い刃でも、流体のスライムに対しては鈍らも同然。思い切り剣先を振るって当てるのが精々である。
「もうやだーっ! こっち来ないで!」
唯一、アリアの振るう剣だけはよく効くのか、刃を浴びたスライムがぎょっとしたように仰け反って距離を取る。理由は単純。刀身が、アリアの魔法によって赤熱しているからだ。
「アリア! お前の魔法でどうにかできないか!?」
「無理無理無理! 剣を熱したら効果はあるみたいだけど、あんまり温度を上げすぎちゃうと、刀身の方が保たないし……」
アリアの魔法は、触れたものの温度を上げることができる。剣を熱して刀身の温度を上げれば、スライムを焼き切ることができるとはいえ……アリア本人がスライムを苦手にしているので、このままではまずい……
「来ないでーっ!」
普段は聞けない女の子っぽいちょっとかわいい声を上げながら、アリアは襲ってくるスライムを焼いては切り捨て、切り捨てては焼いていく。おそらくこの場限りアドリブだと思うが、他の生徒の剣を拾い上げて、果敢に二刀流で大立ち回りを演じながら、刀身温度が上がりすぎて消耗した剣は捨てて、持ち替えていく。
……いや、強いな。アリアさんすごく強いな?
あれ? これなんか、意外と大丈夫そうじゃないか? むしろスライムに対して有効な手段がない自分のことを心配するべきじゃないか?
「親友! ここは二手に分かれて追ってくるスライムを分散させよう!」
「賛成だ! アリア! おれはレオと行く! 死ぬなよ!」
「なんでぇ!? なんであたしだけ置いてくの!?」
「いやだってお前なんか大丈夫そうだし……」
言いながら、捨ててきたイト先輩のことを思い出す。
「あ、やっべ。先輩のこと忘れてた……」
「問題ない。すでに会長は回収したわ」
「うおっ!? いたんですかサーシャ先輩!?」
いつの間にか会長を背負って隣を走っていたのは、クレイジーサイコレズ……ではなく、サーシャ先輩だった。
「私はこちらから逃げるから、あなた達はいい感じに囮になってあっちの方から逃げなさい」
「先輩に向かってこんなこと言うのもあれですけど、少しはジルガ先輩のこと見習った方がいいですよ?」
「すべては会長のためよ」
「あ、はい」
とはいえ、意識のないイト先輩を放置しておくこともできないのは事実。
ポンコツ会長のことはサーシャ先輩に任せて、おれとレオは階段を駆け上がる。と、まるでスライムの進路を塞ぐように、机や椅子が折り重なって落下してきた。
「二人とも、無事か!?」
「グラン先輩!」
やった! ようやく常識人枠のまともな人が助けに来てくれた!
先輩に誘導されて教室の中に飛び込み、追ってきたスライムをやり過ごす。
「アイアラスはどうした? 一緒じゃないのか?」
「アリアは置いてきました。おれたちがこの先の戦いにはついていけそうになかったので」
「そうか……ん?」
グラン先輩がおれの文脈のおかしさに気づく前に、質問を重ねる。
「先輩、他のみなさんは無事ですか?」
「いや……あのスライムは正面玄関以外からも侵入してきている。応戦はしたが……俺やサーシャ以外の人間はほとんど呑まれてしまった」
「そんな……」
「気を落とすのは早いよ、親友。きっとこの中に、反撃の糸口に繋がる情報が隠されているはずだ」
言いながら、レオは黒い装丁のハードカバーのページを、懸命に捲って読み込んでいる。
あ?
「お前、そのエロ本持ち歩いてたのかよ!?」
「エロ本じゃない! 『怪物の誘惑と蜜〜咲き狂う華達〜』だ!」
「エッチなタイトルだな……」
「なんだ、そのエッチそうな本は」
意外にも、グラン先輩が興味津々といった様子で手元を覗き込んでくる。
「いや、こいつ、スライムに詳しいんですけど、そのエロ本から知識を得ていたみたいで」
「『怪物の誘惑と蜜〜咲き狂う華達〜』か。なるほど。たしか、そのタイトルは発禁処分を受けて、絶版になった一冊のはずだ」
「グラン先輩?」
なんでそんなこと知ってるの?
なんでちょっと詳しそうなの?
「先輩、まさか!」
「恥じることはない、リーオナイン。こう見えて、俺も健全な男子学生の一人だ。男として、そういったタイトルに関しても、多少は嗜んでいる」
「先輩! 先輩と呼ばせてください!」
「言ってる場合か!」
叫んだ瞬間に、スライムが外の窓を突き破って侵入してきた。
「うお!?」
「危ない! ボクの聖書が!」
手元を狙ってきたスライムを回避したレオは、逆転の鍵であるエロ本をグラン先輩にパス。グラン先輩も、逆転の鍵であるエロ本を丁寧にキャッチ。早速開いて、中身を確かめる。
「ほう。これはこれは……」
「先輩! スライムのところ! スライムのところを読んで弱点を探してください!」
「ああ、わかっている! リーオナイン! スライムのえっちなシーンは何ページからだ!?」
「二章の134ページからです!」
「お前シーンのページ数暗記してるのか!?」
「ボクの頭脳を以てすれば、些細な努力だよ親友」
「べつのことに使え!」
おれとレオは必死に剣と槍を振るいながら、グラン先輩がページを捲る時間を作る。
「先輩っ! 何かわかりましたか!?」
「ああ……触手のシーンもえっちだ」
「それ絶対違うページでしょ!?」
「すまない。好きなんだ」
「あ、わかります。いいですよね、四章の女冒険者が落とし穴にかかって触手に呑まれるシーン」
「ああ……良い」
「スライムのとこ! スライムのとこを読んでください!」
おれがやけくそ気味に叫んだその瞬間、天井からみしりと嫌な音が響き、粘液が漏れ落ちてきた。
うおっ、やば……!
「避けろ!」
警告の声だけでは間に合わない、と判断したのだろう。一歩下がっていたグラン先輩はおれたちとスライムの間に飛び込んで身代わりになり、体を廊下へ突き飛ばした。
「せ、先輩!」
起き上がると同時、目が合ったグラン先輩は「ふっ……」とニヒルな笑みを漏らしながら、まだなんとか動く腕で本を投げ返してくれた。そして、おれたちの間にある扉を、がっちりと閉める。
「だめです先輩! それじゃあ先輩が……!」
「いや、俺はもうダメだ。お前たちだけでも逃げろ」
「グラン先輩!」
「リーオナイン。もし俺が、無事に生きて帰れたら……その本、また貸してくれ」
それが、おれたちを守ってくれた先輩の、最後の言葉だった。
「グラン先輩ぃいいいい!」
くそっ……めちゃくちゃ愉快な一面があるってわかったばっかだったのに!
「親友……これは、ちょっとまずいかもね」
気がつけば、おれたちは四方をスライムに取り囲まれていた。
有効な攻撃手段はない。
剣も槍も、まともに効かない。
唯一、役に立ちそうなのは、この手元のエロ本のみ……
「万事休す、か……」
「──若人の諦めが早いのは良くないぞ」
渋くて、良い声音だった。
その声が聞こえたのと同時に、おれたちを囲っていたスライムの一角が、粉々に吹き飛んだ。
は? 吹き飛んだ?
液状の、スライムが……?
「やれやれ。何か騒ぎが起きているようだったから、急いで来てみれば……まさか取り寄せたモンスターが暴走しているとは」
「あなたは……!」
粉塵の中から顔を出したのは、一人の騎士だった。
質実剛健な造りの甲冑。
灰褐色のマント。
薄くヒゲを生やした、彫りの深い顔立ち。
そして、王都に五人しかいない騎士団長の位を示す、肩章。
見覚えが、あった。
おれは、その名を叫ぶ。
「巨乳好きの上裸おじさん!」
「まってくれ」
「勇者様への第一印象は?」
「クソガキでしたね」
「え?」
インタビューに応じた現役最強の騎士団長は、にこやかに答えた。
〜勇者秘録・二章『勇者、その青春』より〜
※出版にあたって本文の表現は差し替えられています