空を飛ぶのが夢だった。
鳥があんなにも簡単に宙を駆けることができるのだから、きっと人間にもできるはずだと。そう思い上がってしまったのは、自分自身の魔法のせいだったのか。
あるいは、魔法が人の心を体現するのなら、その傲慢こそがゲド・アロンゾという少年の最初の間違いであったのかもしれない。
孤児であったゲドを引き取った家は、造船を生業とする職人の家系だった。子どもが生まれなかったことから跡継ぎを望んでいた義理の両親はゲドに愛情を注ぎ、ゲドもまたその愛に応えるために全力で造船技術を学び、磨いた。何かを作る、ということは何かをこの世に残すということで、それはきっと人生で一番意味があることなんだろう、と。血の繋がっていない父が心血を注いで作り上げた船が海を往く姿を見て、少年は強い憧れを抱いた。
「ものを作るということは、積み重ねなんだ。ゲド」
少年を肩車して、義理の父はやさしい口調で語った。
船を作るためには、まず緻密に構造を計算された設計図が必要であり、次に吟味された部材を用意し、それらを無事に輸送することで、ようやく組み立てに入ることができる。様々な人たちの努力と想いの積み重ねが、あの大海原を進む船なのだ、と。そう語る義理の父の言葉は、とても誇らしげだった。
「オレはお前の本当の父親じゃない。けど、これからたくさん、お前との思い出を積み重ねていくことができる。今すぐじゃなくていい。オレが、お前の父親でも良い。そう思えた時に、オレのことを父さんと呼んでくれ」
「うん。わかったよ。父さん」
「……え!? はやくないか!? ま、まってくれ。こういうのってなんかこう、もう少し時間がかかるというか……」
「だめなの?」
「……いや、すまない。だめじゃないさ。ありがとう、ゲド」
肩車されているせいで表情は見えなかった。でも、肩が小刻みに震えていることは、なんとなくわかった。
義理の父は、少年にとって本当の父になった。
義理の両親は、少年にとって普通の両親になった。
父さん、母さん、と。そう呼べるようになっても、すぐに親子になれたわけではない。命を懸けて救ってくれた、とか。貧しい場所から拾い上げてくれた、とか。特別で劇的な理由があったわけでもない。はじまりが他人である以上、どうしても互いに気を遣ってしまう部分があったのは、否定できない。
だから、少しずつ積み重ねていった。
朝起きて、おはようと挨拶を交わす。
いただきます、と一緒に食卓を囲む。
おやすみを言う前に、頭をそっと撫でられる。
長い時間と、交わした言葉と、惜しみなく注がれた愛情が……なんの変哲もない日々の積み重ねが、育ての親とゲドとの間に、血の繋がりを超える関係を作り上げていった。
だから両親の間に弟が生まれた時も、ゲドは純粋に喜んだ。血が繋がっていない、とか。自分はきっともう跡継ぎにはなれないだろう、とか。そんなことはどうでもよくて、ただ本当に、自分を愛してくれた人たちの間に、新しい命が生まれたのが嬉しかった。
ゲドは弟のことを可愛がり、弟もまた、ゲドのことを慕うようになった。兄さん、と自分の名前を呼んでくれる小さな坊主頭が、かわいくて仕方なかった。
自分に魔法があるとわかったのは、12歳の時。その性質と魔法の名をゲドはすぐに理解し、弟は特別な力を発現させた兄のことを、やはり尊敬に満ちた眼差しで見上げた。
「すごいね兄さん! その魔法があれば、絶対に騎士になれるね!」
弟の尊敬と憧れを、無下にはしたくなかった。騎士として国に仕える道を志しながら、しかしゲドの中にはほんの少しだけ疑問があった。
オレが騎士になったら、今まで父さんから学んできた技術は、どこにいくのだろう?
オレが必死に積み重ねてきたものは、やっぱり無駄になってしまうのだろうか?
「僕、兄さんからたくさん船のこと教えてもらったから! だから僕も兄さんに負けないようにがんばるよ!」
いや、そんなことはない。
弟がプレゼントしてくれた手作りの、小さな船のレプリカを、ゲドは笑顔で受け取った。
自分が父から受け継ぎ、積み重ねてきたものは、弟の中にもきちんと継がれている。だから、何の心配もない。自分の中に芽生えかけた黒い感情と、些細な違和感を、ゲドは見なかったことにした。
ほんの少しの部品の組み違いは、時に船の崩壊に繋がってしまうと。父からあれほど教えられてきたはずだったのに。
「大丈夫? 最近のあなた、疲れた顔をしているわ」
再び転機が訪れたのは、騎士として数年の従軍経験を得て、ひさしぶりに家に戻った時。
少し老けたように見える母にそう言われて、ゲドは心配ないと手を横に振ったが、父もまたゲドに向けて言った。
「ゲド。お前がやりたいことは何だ?」
やりたいこと。
単純にそう問われて、返す言葉に詰まった。
「お前に特別な力があることはわかっている。でもそれは、お前の生き方を決めるものじゃない」
積み重ねを、無駄にはしたくなかった。
ゲド・アロンゾには、夢があった。
「……空を、飛びたい。父さんみたいに、空を自由に飛ぶ船を作りたい」
鼻で笑われると思った。何を馬鹿なことを、と怒鳴られると思った。
空中を自由に飛行する術は、魔術の力を以てしても未だに確立されておらず、ゲドが語る夢はあまりにも無謀だった。
「おお、いいじゃないか。じゃあ作ろう」
「え?」
「雲海を切り裂いて、青空の中を自由に進む船! 最高だな! それこそ、男のロマンだ!」
「あなた、作るのはゲドなのよ? 横取りは良くないわ?」
「おいおいおい! 手伝うくらいはいいだろう!? オレはコイツの親父なんだから!」
豪快に笑う父と、優しく微笑む母。
二人に釣られて、ゲドも笑った。笑うのは、ひさしぶりだなと思った。
「ずっと、気にしていたんだ。お前はオレたちのために、自分が本当にやりたいことを我慢しているんじゃないかって」
「そんなことは……」
自分は既に、貰い過ぎなほどにたくさんのものを受け取っている。けれど、父は言葉を続けた。
「だから、嬉しいんだ。ようやくお前の口から、お前の言葉で、本当の夢を聞かせてもらえて、オレは嬉しい」
「……父さん」
「無理に騎士になる必要はない。ウチの家業も、継ぎたければお前が継げば良い。お前はオレたちのはじめての息子で……長男なんだから」
その日。ゲドは両親の前で、はじめて子どものように泣いた。
機会が良かったのだろうか。ゲドが所属する騎士団では、馬や船に変わる新たな移動手段が模索されており、予算と計画の許可はいっそ拍子抜けするほどにすんなりと下りた。自由に空を飛ぶことは、やはり多くの人々の悲願だったのだろう。
基礎設計。部材の選定。魔力を利用した動力の開発依頼。にわかに忙しくなった日々の積み重ねの中で、ゲドはたしかな充実を感じていた。父と弟と、肩を並べて船を作るのが本当に楽しかった。
数年の時間をかけて、迅風系の魔術を動力として組み込んだ、試作品が完成した。完成の記念として、父と母と弟を載せて、ゲドははじめて自分が作った船の舵を取った。小さな小さな、ヨットのような船だったが、乗り込んできた父と母の表情は、期待と幸せに満ちていた。
「初速を得るために、オレの魔法を使う。そのあとは風にのって、この船は飛ぶんだ」
実験に実験を重ねた。問題はないはずだった。ゲドの魔法で船体を浮かせたあとは、自分の力で空を飛ぶだけの力を、この船は持っているはずだった。
けれど、ほんの少しの部品の組み違いから、事故は起きる。
「兄さん! 操舵が!」
「わかってる! くそっ!」
「もう船体が保たない! 不時着しよう! 舵を安定させて……!」
「今やってる!」
記念すべき日になるはずだった最初の空の航海は、地獄に変わった。
空を飛ぶための機能は、問題なく動作していた。万が一、空中で落下してしまうことがないように、ゲドは目標に向けて飛ぶという己の魔法を活かして、二重に保険をかけていた。問題があったのは、単純に船体の構造の方だった。
「不時着する! 掴まれ!」
凄まじい勢いで山肌を削る舟底の衝撃に、歯を食い縛る。食い縛りながら、自問自答する。
どうしてこんなことになってしまった?
自分はきちんと積み重ねてきたはずなのに。
努力してきたはずなのに。
それなのに、どうして?
不時着の衝撃に耐えられず、母の体が空中に放り出されて。何も考えず、反射的に手を伸ばしたのは、完全に父と同時だった。
「バカ野郎」
そして、抑え込むように父に腕を掴まれた。
ゲドの体は、船に引き戻された。
「父さん! なんで」
「そりゃお前……親は、子どもを守るもんだろ」
ひさしぶりに感じた父の手はやはり大きくて。それが、最後に聞いた言葉になった。
手が届かなければ、魔法は使えない。母を抱き締めて谷の底へ落ちていく父の姿を呆然と見送りながら、意識は刈り取られた。
次に目覚めた時、ゲドは弟と並んで病院のベッドの上に寝ていた。
弟とゲドは助かった。父と母は助からなかった。それが、積み重ねてきた夢の結果だった。
「お前のせいだ!」
起き上がってすぐに、ゲドは弟の胸倉を締め上げた。
理由はシンプルだった。ゲドは自分の仕事にミスがないことを確信しており、自分よりも経験豊富な父がミスをするわけがなく……必然として、ゲドは事故の理由を弟に求めた。
違う。自分じゃない。僕のせいじゃない。ごめん。
そんな言葉が、弟の口から出てくることを期待していたのかもしれない。
「そうだよ。兄さん」
「……あ?」
「事故の原因は僕だ。僕がやったんだ。わざと船体が保たないように、そういう組み上げ方をしたんだ」
想像すらしていなかった弟の言葉に、ゲドはただ声を失うしかなかった。
能面のような冷たい表情は、ゲドが知っている弟の顔ではなかった。
「父さんも母さんも、兄さんのことばかり見ているから。帰ってきた兄さんのことを跡継ぎにしようとするから。だから、兄さんが成功しないように、わざと事故を起こしたんだよ」
どこから。
いつから。
何を間違えていたのだろう?
──すごいね兄さん! その魔法があれば、絶対に騎士になれるね!
兄さんは騎士になればいい。
──だから僕も兄さんに負けないようにがんばるよ!
家を継ぐのは僕だ。お前には渡さない。
違う。見て見ぬ振りをしてきただけだ。
家族だから。愛しているから。そんな言い訳をして、見たくなかった汚い部分に踏み込むのを、恐れていた。
「僕が……僕の方が、本当の子どものはずなのにっ……あの人たちは、兄さんばかりに愛を注ぐから!」
音を立てて、何か大切なものが崩れていく。
言葉を。信頼を。愛を、積み重ねてきたはずだったのに。
それは、こんなにも脆いものだったのだろうか?
「父さんと母さんを……殺すつもりじゃなかったんだ。こんなことになるなんて、思っていなかったんだ。許されることじゃないことは、わかってる。僕が……僕が悪いんだ。だからさ、兄さん……頼むよ」
泣き崩れる声音に、嘘はない。
嘘がないからこそ、それはどこまで痛々しく、強く、ゲドの心を揺さぶった。
「僕を、父さんと母さんのところに連れて行ってよ」
弟が差し出してきたナイフを、呆然と受け取る。
数秒の間があった。
受け取ってしまった事実を認識して、それからようやく否定の言葉を吐いた。
「できるわけがない……できるわけがないだろ! そんなこと! オレは、お前の……!」
叫びと同時に、力が抜けた手のひらの中から、ナイフが落ちる。
絞り出した言葉とは裏腹に、そのまま重力に引かれて落ちるはずだったナイフは、見えない力に引き寄せられるように浮かび上がって、弟の胸に突き刺さった。
「……え」
間抜けな声だった。
でも、自分の声だった。
そこでようやく、ゲドは自分が弟の心臓を見詰めてしまっていたことに気がついた。
殺意に翼を与えたのは、自分だった。
殺意を的中させたのも、自分だった。
心と魔法が、自然にそれを選択してしまっていた。
「兄さん……ごめん」
前のめりに倒れた身体が、甘えるように体重を預けてくる。
「……愛せなくて、ごめん」
積み重ねることには、意味があると信じていた。
努力は決して裏切らない。人が心を通わせた時間には意味がある。そう信じて、疑ったことがなかった。
違うのだ。
どんなに積み上げても、どんなに積み重ねても、崩れる時は本当に一瞬で。人の幸せは、風に攫われるように塵になって消えていく。
だから、今。生きているこの一瞬だけ幸せであれば、それで良い。
きっとそれが、空を飛ぶような自由な生き方なのだと、ゲド・アロンゾは気がついた。
らしくないことを思い出してしまったのは、傷の深さのせいだろうか。
火炎に飲み込まれる直前、傍らにいた悪魔を炎に向けて
「あー、くそ……ほんと、楽じゃない仕事は好きじゃねぇ」
とはいえ、直撃を避けたということは、決して無事だったという意味ではない。
炎に焼かれ、焼け爛れた体の右半分は、ほとんど感覚がなかった。片目の視界も失われている。あの勇者を語っていた少女と揃いになってしまった。思わず、自嘲めいた笑みが口元から溢れる。笑わなければやっていられない、という方が正確か。
傷だらけの体を引き摺りながら、ゲドはダンジョンの出口を目指す。
一先ず、最優先すべきは治療。そのあとはたらふくメシを食って回復に努めよう。依頼そのものは失敗に終わってしまったが、次のチャンスは必ず来るはず。あの最上級悪魔と魔王にとって、自分は貴重な人間の駒だ。
そこまで頭の中で算段を立てながらも、ゲドは地面に膝をついた。震える全身に、力が入らない。顔を上げれば、もう出口に繋がる光が見えているというのに。
「ああ……」
漏れ出す陽光が弱くなったのは、気のせいではなかった。
「……早かったな」
顔を上げると、あの少年が立っていた。
「おいおい。なんだよ。今度は、服着てるじゃねぇか」
「服を着ても追いつけると思ったからな」
「抜かしやがって」
別の学生から借りたのだろう。雑にコートとズボンを着込んだ少年は、やはり自然な動作でゲドに向けて剣を突きつけた。
「その傷じゃ、あんたはもう助からない」
「……そうだな」
「だから、おれが殺す」
殺してやる、とは少年は言わなかった。
その言い回しに、彼のまだ青い部分を感じて、ゲドは苦笑した。
「お前、人を殺すのは、はじめてか?」
「……二人目だ」
「そうかよ。なら、ちょうどよかった」
もはや抵抗する気はない。
地面に座り込んで、首を差し出す。
「後腐れもない悪党で、ちょうど良いだろ。オレで慣れておけよ」
逆光で、表情は見えない。
暗い影が、顔を黒く染め上げているようだった。
「あんた、名前は?」
「……ゲド・アロンゾだ。悪いことは言わねえ……殺したヤツの名前なんて、さっさと忘れちまいな。それは、お前にとって重荷になる」
「忘れないよ」
即答だった。
「絶対に、忘れない」
その瞳に中にあるものを垣間見て、盗賊は笑った。
ああ、なるほど。
これが、勇者なのだ。
きっとこれから先も、この少年は自分の中にたくさんの人の死を積み重ねて。たくさんの命を積み重ねて、そうして少しずつ強くなっていくのだろう。
だから、聞いてみたくなった。
「冥土の土産に、一つだけ教えてくれよ」
くだらない人生だった。
意味のない人生だった。
飛べない鳥に、価値がないように。何も生み出してこなかった人間の生には、欠片ほどの意義もない。
生み出したものは一つもなく、奪ったものの方が多かった。生きることに勝手に絶望した自分は、瞬間の快楽に溺れ、それだけを求め続けてきた。
だから、自分の生きた証は、きっと何も──
「……お前、名前は?」
「────」
「……良い名前じゃねぇか」
──それでも。
これから勇者になる少年の中に、自分という存在が残るのは悪くないと、盗賊は思った。
ダンジョンを出ると、アリアたちが待っていた。
「あの盗賊は、どうしたの?」
「殺したよ」
「……そっか。ごめん」
「アリアが謝ることじゃない」
答えながら、それを取り出す。
盗賊の懐には、一つだけ。手のひらに乗るような、小さな小さな、古ぼけた船のレプリカが入っていた。
「なにそれ?」
「……なんだろうな。おれにも、よくわからない」
あの盗賊が、どんな思いでこれを持ち歩いていたのか。その意味を、おれが知る術はもうない。
おれが知り得ることができたのは、彼の名前と魔法だけ。本当に、それだけだ。
同情はしない。哀れみもしない。情けもかけない。
だけど、なんとなく、そうするべきだと思った。
空を見上げて、その中に浮かぶ雲を見詰めて、船を投げる。
まるで翼が生えたように、小さな船は真っ直ぐに、どこまでも空を駆け抜けていった。