思い立ったが吉日、という言葉がある。
追放を言い渡されたその日に、おれは一年間世話になった寮から出て行くことを決めた。下手に日にちを置くよりも、その方が良いと判断したからだ。
「これでよし、と」
びっしりとカーテンを閉めた部屋の中は、ランプの明かりだけで薄暗い。
もう少し手間がかかると思っていたが、荷物をまとめるのは案外早く済んだ。差し当たり必要なものは背負えば持っていける範囲に収めたし、もう必要ない学習用品や制服などは置いていくことにした。処分を任せるのは立つ鳥が跡を濁すようで心苦しいが、多めに見てもらおう。
「親友、ハンカチは持ったかい?」
「タオルならリュックに入れたよ」
「バナナはいるかい? おやつは必要だろう?」
「お前、追放を遠足だと思ってんの?」
あまり認めたくなかったが、おれの荷造りが手早く済んだのは、このルームメイトのバカが部屋の片付けなど率先して手伝ってくれたおかげである。
レオ・リーオナインは、どこに隠していたのかもわからないバナナの皮を剥いてパクついていた。なにバナナ食ってんだコイツ、張り倒すぞ。
「キミがいなくなると寂しくなるね」
「嘘つけ」
「本当だとも、ボクほど友情に篤い男はいないよ?」
「バナナ食いながら言うな。あ、そうだレオ」
「なんだい? やっぱりバナナ欲しくなったかい?」
「バナナはいらん」
おれは既に畳んである制服の上に置いてあったそれを、レオに向かって放り投げた。
入学して最初に、このバカから奪い取ったもの。この学校で最も強い、最上位の七人のみが身に着けることを許される、最強の証。肩幕である。
いつもは涼しい表情ばかりのイケメンの顔が、めずらしく強張って固まった。
「……これは、どういうつもりかな?」
「どういうつもりも、クソもないだろ。それ、返しておく」
「こんな形できみから肩幕を返されることを、ボクが望んでいるとでも?」
うーん。それを言われると、ちょっと弱い。
おれも、レオとはもっと手合わせをしたかったし、正式な場できちんと決着をつけたかった気持ちがないといえば、嘘になる。
でも、追放処分になったこの身の上で、レオと公的な場で戦う機会はもうないわけで。
それなら、おれが勝ち取った肩幕は、コイツに返しておきたかった。
「じゃあ、預かっておいてくれ。で、おれが勇者になって戻ってきたら、もう一度。それを賭けて、決着をつけよう」
「……やれやれ、仕方ない。その時はちゃんと服を着ておくれよ?」
「当たり前だ」
どうやら、納得してくれたらしい。
リュックを背負うと、合わせてレオも立ち上がった。
「見送りはいいぞ」
「水臭いことを言わないでくれ、親友。そこまでは送っていくよ。友の門出を祝福するのは、騎士以前に人として当然のことだからね」
夜になっても制服を着替えてもいなかったレオは、キザったらしくネクタイを締め直して笑った。
そこまで言われてしまったら、断れない。親友の気遣いだ。お言葉に甘えるとしよう。
ゆったりと部屋の扉を開けて、閉める。
「……なんか、静かだな」
「こんな深夜だからね。もしかして感傷的になっているのかい?」
「うるせえ」
小声で言い合いをしながら、階段を降りる。
寮の中はひどく静かだったが、玄関の扉の前には、人の気配があった。
「早いな。もう行くのか」
「……なんでいるんですか」
「お前なら、今晩必ず出発すると思っていたからな」
「先生、おれのことよくみてますね……」
「一年も面倒を見ていれば、そりゃ生徒の考えていることくらいわかるさ」
どうやら、おれの先生はこちらの考えなど最初からすべてお見通しだったらしい。
騎士団長、グレアム・スターフォードは鎧を身に着けた完全装備で、腕を組んでいた。いつもは快活なひげ面が、今晩に限っては少し険しい。
「すまなかったな」
「何がです?」
「生徒を庇い切れなかった。俺は指導者失格だ」
「先生のせいじゃありません。自分で決めたことですから」
「うん、まあそうだな。よくよく考えなくても、べつに俺のせいじゃないな」
「せめてもう少し粘ってくれませんか?」
台無しだよ。
何しに来たんだこのひげ面おじさん。おれをからかいに来たのか?
とはいえ、気遣って見送りに来てくれたことには間違い無い。頭を下げて、礼を言う。
「ありがとうございます。わざわざ、見送りに来てくださって」
「ああ、それはべつに気にするな。俺だけじゃないからな」
「え?」
疑問の答えを聞く前に、先生は玄関の扉を勢い良く開け放った。
思わず、言葉を失う。扉の光景に、おれの疑問への明確な回答があった。
手前から、点々と。温かいランプの光が灯って、広がっていく。
学生寮の玄関から、一年間通った騎士学校への通学路。その街路樹と灯った光に沿って、ずらりと並び立っているのは、白い制服を着込んだ学生たちだった。
数え切れない人数だ。
同じクラスの同級生たち、だけではない。二年生も、これから卒業する三年生たちも。およそ考え得る限り、おそらく騎士学校の全生徒が、沈黙を保ったまま、整然と立ち並んでいた。
寮の部屋に人の気配がなかった理由が、これだった。あまりにも単純な答えだ。寮の中には、一人も人がいなかった。最初から、全員が外にいて、おれを待ち構えていたのだ。
「どうどう? びっくりした?」
「会長。あまりはしゃがないでください。お体に障りますよ」
「いやあ、会長の気持ちもわかるぜ。後輩の驚いた顔ってのは、いつ見ても健康に良い」
「それに関しては同感だな」
玄関のすぐ側には、見知った数人がいた。
イト先輩だけではない。
傷だらけの体を上から制服を羽織って誤魔化して、サーシャ先輩が、ジルガ先輩が、グラン先輩が、おれを見て笑っていた。
「先輩たちも……なんで」
「お前の考えなんて、俺だけじゃなく全員お見通しなんだよ。そして、なにより……お前を見送りたいと考えるのは、俺だけではなかったということさ」
そう言って先生が笑う。
おれは慌てて、レオの方を振り返った。
「レオ……お前、これ知ってただろ!?」
「もちろんだとも。しかし、サプライズは本人にわからないように仕込まなければ、意味がないだろう?」
イケメンは、やはり飄々と素知らぬ顔で抜かした。仕掛け人がすぐ近くにいたというわけだ。まったくもって、やられたと言う他ない。
先輩たちが、軽い調子でおれの肩を叩く。
「お前は、追放の身だ。今、この瞬間の門出に、俺たちは歓声も号砲も贈ることはできない」
「だから、私たちから贈れるものはこれだけよ」
「卒業生と在校生から、追放される馬鹿野郎に向けて、最後の餞別だ。しっかり目に焼き付けていきな」
三人の言葉を受けて、イト先輩が微笑んだ。
髪をポニーテールに括っているから、真面目モードであることはすぐにわかった。
纏う雰囲気が、がらりと変わる。
イト・ユリシーズは吊っていない方の腕を掲げて、生徒会長として号令を下した。
「──総員、抜剣」
鞘から剣が引き抜かれる音が、幾重にも重なって夜の静寂に響く。
壮観、という他なかった。
号令に合わせて、騎士たちの腰から引き抜かれた剣が、高く掲げられる。一糸乱れぬ動きで、銀色の刃がまるでアーチのように道を形作る。
月明かりを受けて輝くその銀光は、言葉も出ないほどに美しく、見惚れてしまうほどで。
視界に入るすべての剣が、おれの門出のために捧げられたものだった。
振り返ったイト先輩が、これ以上ないほど不敵に笑う。
「どうかな?」
「……どうもこうもないです」
込み上げてくるものを、なんとか堪える。
その剣で飾られた花道に向けて、一歩を踏み出す。
「こんなの、最高の餞別に決まってるじゃないですか」
「ふふっ……それは、よかったよかった」
イト先輩とグレアム先生とレオと。肩を並べて、銀色のアーチを潜っていく。
笑っている先輩がいた。泣いてくれている同級生がいた。言葉を交わさなくても、一人一人の顔を見て、前に進むことができる。それだけでも、おれには十分過ぎるお別れだった。
「先生」
「なんだ?」
「前に、おれに質問してくれたの、覚えていますか? どうして勇者になりたがるんだ?って」
「……ああ、そんなことを聞いた気もするな」
あの頃は、勇者になるのに理由なんて必要ないと思っていた。世界を救うために戦うのは、当たり前だと考えていた。
でも、今は違う。
勇者になりたい、理由ができた。
こんなにもやさしくて、すてきな人たちが生きている世界だから。こんなにもやさしくて、すてきな人たちが体を張って戦う世界だから。
だから、救いたいと。そう思えるようになった。
「……勇者ってのは、どこまでいっても称号に過ぎない。それは、人々が名前に込めた祈り。理想を押し固めた、実態のない幻想のようなものだ」
隣を歩く先生の瞳が、どこか遠くを見た。
「だから、お前が救いたいもの。お前が助けたいもの。お前が守りたいものに、中身が生まれたのなら……この一年は、無駄ではなかったと俺は思うよ」
「……はい!」
「べつに、わざわざ口に出して言う必要はないさ。思いは秘めるものだ。その気持ちは、胸にしまって持って行け」
大きな手が、おれの背中を叩く。
「馬を回してある。とりあえずは、それで王都を出るといい」
「ありがとうございます」
「気にするな。これくらいは手間の内にも入らん。それよりも、これからどうする?」
「そうですね。まずは、仲間を探そうと思います」
「ほう」
「おれと一緒に前衛を張れるような騎士が二人くらいに、支援に長けた魔導師と……あとは、そうですね。死ぬような怪我をしても生き返らせてくれる回復のスペシャリストがほしいです。あと、できれば全員、魔法持ちがいい」
「お前……中々無茶を言うな」
「それくらい無茶を望まないと、世界なんて救えないと思いますから」
「くくっ。それは、そうだな」
隣を歩く先生は笑って「それならちょうどよかった」と呟いた。
ん? 今、ちょうどよかったって言った?
何がちょうどいいんだ?
「一人目は、もう決まっているようだ」
いたずらっぽい声音でそう言われて、ふと前を見る。
馬を回してやる、と先生は言った。だが、誰が馬に乗って来る、とは一言も言っていない。
芦毛の馬が、駆けてくる、新調した軽装の鎧を身に纏って、風に靡く金髪は月の光よりも眩しくて、思わず笑ってしまいそうになるくらい、その姿は様になっていた。
目の前で、馬がぴたりと止まる。合わせて馬上から舞い降りた姫騎士は、おれの前で片膝をついた。
「……どうして」
「ご覧の通りです」
優雅な一礼に、言葉を失う。
「未来の勇者様を、お迎えに上がりました」
どうして、だなんて。
今さら、そんなわかりきった質問をしないでほしかった。
アリアは、顔を上げる。
彼は言葉が出てこないようなので、こちらから声をかけてあげた。
「すごい顔してるね。びっくりした? あたしが、きみのことを黙って見送るとでも思った? 拗ねて、見送りに来ないとでも?」
「いや、それは……」
「そんなわけないでしょ。だって、あたしはきみの騎士なんだから」
いろいろなことを考えた。
自分が彼に着いていくのは、彼の気持ちを無下にするんじゃないか、とか。彼が好きなのは、本当は自分じゃないんだろうか、とか。そんなことばかりを、ぐるぐるとぐるぐると、頭の中で考えて。
アリアはそれらが、すべてどうでもいいことに気がついた。
理由なんて、もっと単純でいい。
彼を一人きりで、行かせたくない。
彼の隣にいたい。
でも、置いていかないで、なんて。そんな言葉は、絶対に言ってやらない。
「一緒に行くよ」
思いを、口にする。
今はきっと、それだけで良い。
この心の中の熱が、決して冷めないものであることは、もう痛いほどに自覚してしまったから。
「……多分、厳しい旅になる」
確認をするように、彼は言った。
「うん。そうだろうね。だって、世界を救いに行くわけだし」
「辛いことも、たくさんあると思う」
「だから、あたしが支えてあげる」
「命の危険も、あるかもしれない」
「だから、あたしが守ってあげる」
一つ一つ。確かめる。確かめて、埋めていく。
それは、確認作業だ。
最初から、気持ちは決まっていたいたけれど。それでも、必要な確認作業。
「最初に会ったときのこと、覚えてる?」
「……ああ」
あの時は、朝だった。屋上から見上げる空には太陽があって、青空が広がっていて、白い雲が流れていた。
でも、これから先の旅路には、太陽が見えない曇りの日もあるのだろう。雨の日も、風の日もあるだろう。
太陽に照らされた、空の下だけではない。夜の闇の中を、歩いて行かなければならない。
だから、この月明かりの下で、もう一度。
これから勇者になる少年は、騎士の少女に向けて問いかける。
「アリア・リナージュ・アイアラスに、今一度問います。おれの騎士に、なってくれますか?」
その声に、応えよう。
その思いに、応えよう。
「貴方の言葉を待っていました。この身は、世界を救うその日まで、勇者の剣となることを……今一度誓いましょう」
顔を上げる。
差し出された手を取る。
多くの騎士たちが見守る中で。
勇者が、一人目の仲間を得た瞬間だった。
「ふっ……くく」
「……先生。なに笑ってるんですか」
グレアムが堪えきれない笑いを吹き出しながら、彼の肩を叩いた。
「いや、なに。これはもう、どう足掻いても無理だと思ってな。諦めろ。いくら意地を張っても、お前の負けだよ」
「先生はそうやって、他人事だと思って……」
「そりゃあ、他人事だからな。特に、教え子の色恋沙汰は見ていて楽しみが尽きん」
それは、完全に楽しむ口調だった。
アリアはむっとグレアムを睨む。女性に弱いところがある師は、わかりやすく目を逸らした。
からかうのは、別に構わない。
たとえからかわれても、アリアには旅立つ前にやっておきたいことがあった。
「イト先輩」
「なに? アリアちゃん」
「そのリボン。あたしにくれませんか?」
きれいな顔が一瞬だけ、きょとんとした表情になって。
アリアの中にあるものを察してくれたのだろうか。イトは、ふわりとした笑顔で頷いた。
「うん、いいよ。あげる」
自由に動く腕が、剣の柄を取る。
アリアは、目を疑った。何をしようとしているのか、わからなかった。
それに気がついた時には、止めるタイミングを失っていた。
イト・ユリシーズは、片手で軽く引き抜いた剣で、ばっさりと。
自身の長髪を、切って捨てた。
「せ、先輩!?」
「か、かかか、会長!?
「はいはい。みんな騒がない。たしかに髪は女の命だけどね。でも、これから旅に出る後輩に餞別を渡すんだから……
うん、すっきりした、と。
あくまでも飄々とした態度を崩さないまま、ショートボブのようになった頭を揺らして、イトは自身のリボンをアリアに手渡した。それは思っていたよりも使い込まれていて、けれど彼女がそれを大切に使ってきたことがいやでもわかった。
アリアは、受け取ったそのリボンで、髪をイトと同じポニーテールの形に結ぶ。
思っていたよりも、しっくりきた。というか、思っていた以上にしっくりきてしまった。
「うんうん。似合ってるよ」
「ありがとうございます」
「それ、汚してもボロボロにしてもいいけど、ちゃんと返しに来てね?」
「……はい。必ず返しに来ます」
一礼をして、アリアはイトの瞳を見た。
「イト先輩」
「ん?」
「あたし、負けませんから」
今度は、きょとんとしなかった。
歳上なのに、子どもっぽい笑みが、わかりやすく口元に弧を描いた。
「望むところだ、と答えておくよ」
尊敬する先輩と、固く握手を交わす。
これでもう、思い残すことはない。
「儀式は済んだか?」
「はい。ありがとうございます」
ポニーテールを揺らして振り返るアリアを見て、グレアムは微笑んだ。
しかし、彼の頭を軽く小突きながら、騎士団長は続けて口を開く。
「さて、出発の前にもう一つ。やっておくことがあるな」
「はい? 何の話ですか?」
「お前の罪状を、一つ増やさなければならん」
「いや、先生。本当に何の話ですか?」
「おいおい、鈍いやつだな。お前は追放される身の上だぞ? そんな男に、一国の姫君が騎士としてほいほい付いて行けるわけがないだろうが」
至極真っ当な意見を述べながら、騎士たちの輪が自然な形で、少年と少女を囲む。
否、囲い込む。
「卒業試験だ。男なら、甲斐性を見せろ。欲しいものは、奪って行くくらいの気概でな」
言われた意味を理解したのだろう。彼は息を吐きながら、頭を掻いた。
勇者と騎士。その契約は、もう結んだ。
だからこれは、さっきとは真逆。
国を出る、建前として必要な儀式だ。
少年と少女は、立場を入れ替える。
彼がアリアの手を取って、地面に膝をつく。
その姿はまるで、姫君に忠誠を誓う騎士そのものだった。
「アリア・リナージュ・アイアラス姫殿下」
「……はい。なんでしょう?」
「おれに、
告白に、堪らず口元が綻んだ。
彼のかしこまった口調が、おかしくて。でも、そんな些細なことが、愛おしくて。
「もう、仕方ないなぁ。今日だけ、特別だよ?」
アリア・リナージュ・アイアラスは、ずっとずっと、お姫様扱いされるのが嫌いだった。
籠の中の鳥、なんて。そんな風に自分を悲劇のヒロイン扱いする気はなかったけれど、己の身分と、それに付き纏う扱いを、好ましく感じたことなんてほとんどなかった。
彼が、変えてくれた。
彼と一緒に、変わることができた。
だから、今夜だけは──
「はい、喜んで。勇者さま、あたしを攫ってください」
──自分は、彼だけのお姫様になろう。
「……よっしゃ!」
「きゃっ! ちょっと!?」
膝まづいた姿勢から、自然に腰に手を回されて。アリアの身体は、彼に抱え上げられた。
「……あれ? アリア、なんか太った?」
「はぁ!? 太ってないです! 筋肉ついたんです! きみの方こそ、鍛え方足りないんじゃないの!?」
「はあ? おれのトレーニングは完璧だが? むしろこれからさらに筋肉をつける予定だが?」
「……」
「……」
ひとしきり言い合って、しばらく見詰め合って、それから堪えきれなくなって、少年と少女は笑った。
ようやく、いつも通りに戻れた気がした。
「じゃあ、先生。見てくれましたね?」
「ああ、たしかに見届けたぞ。極悪人の追放者が、隣国の姫君を口説くところをな」
「ひどい言い様だ……」
彼の言葉を受けて、グレアムが楽しげに肩を揺らす。
思い出に浸りながら、静かに王都を出る。本当はそんな出発が理想だったのだが、どうやらそう上手くはいかないらしい。
名残惜しいが、お別れだ。
「わたしもすぐに偉くなって助けに行ってあげるから、待っててね」
「はい、イト先輩」
「ボクも同じく、だね。キミというライバルがいないと、張り合いってものがない。すぐに騎士として登り詰めてみせるよ」
「おう、そうだな」
アリアを抱えたまま、彼はこの学校で最初に出来た友達の靴を、軽く蹴った。
「また会おうぜ、
「……ああ、もちろんだ」
別れの言葉は、もう必要ない。
「さて……では、第三騎士団、総員に告ぐ」
騎士団長であるグレアムの号令で、それまでニヤニヤと笑みを漏らしていた騎士たちが、訓練された動きで騎乗を開始する。
そして、彼とアリアが、馬に背に跨った瞬間。
すっ、と。大きく吸い込んだ息と共に、
「未来の勇者が、姫を
愛すべき馬鹿達の歓声が、爆発した。
時刻が深夜であることを気にする者は、もう一人もいなかった。
その声量に、その熱量に、背中を押し出されるようにして。二人を乗せた芦毛は、全力の疾走を開始する。
「……歓声も号砲も贈れない、ってさっき言ってたよな? 大嘘吐きもいいところだ」
馬の手綱を握りながら、少年は嬉しそうにあきれた声を漏らした。
「いいんじゃない? こっちの方が楽しいよ」
彼の腰にしっかりと腕を回して、アリアはその歓声に耳を傾けた。
二人を取り巻く第三騎士団の団員たちも、やはり騒がしい。
「団長! この二人はどこまで見送ればいいんですか!?」
「街道を出るまで追うふりをすれば十分だ! そのあとは市街に散って、全力で捜索しろ!」
「捜索じゃなくて捜索するフリでしょう? 参ったな! オレたちはこれから、学生二人にまんまと逃げられるわけだ!」
「減給処分になったら恨みますよ、団長」
「うるさい! その時は全員奢ってやる!」
団長の気前の良い宣言に、騎士たちからまた歓声の声が上がる。
騎乗する馬の尻に鞭を入れたグレアムは、速度を上げて先頭に出た。
「さて、お別れだ。アリア、このバカの手綱をしっかりと握るんだぞ」
「はい。わかりました」
「おれが尻に敷かれる前提ですか!?」
「もちろんだ」
そして、グレアムは彼に向かって拳を突き出した。
「お前が帰ってこられるように、俺も手を尽くす。この国を変えてやる。だから、無茶はするな。絶対に死ぬな」
「……はい」
合わせた拳の力強さは、きっと男同士にしかわからないもので。
「──。勇者になって、帰って来い」
片手は手綱を握り、片手は拳を合わせたせいで。
彼の名を呼ぶヒゲ面の騎士団長は、瞳から溢れるものを拭うことができないようだった。
しかし、彼もアリアも、それは見なかったことにした。
「……先生も、お元気で!」
「おう!」
手を振って、グレアムの騎乗する一頭が離れていく。合わせて、並んで走っていた第三騎士団の騎士たちが、三々五々に散らばっていく。
最後まで隣を走ってくれたグレアムの副官が、進む先を指差した。
「間もなく、街道です。お気をつけて」
「ありがとう」
「……待った! 右方向! あれは……憲兵隊か!?」
尖った警告の声に、背後を見る。
第三騎士団とはべつに、追ってくる濃紺の制服の集団があった。
「ああ、構えないでくれ! 見送りに来ただけだ! 敵意はない!」
先頭を駆ける人物の叫びに、残り三騎ほどの団員たちが、困惑しながらも道を空ける。
追いついてきた顔には、彼もアリアも見覚えがあった。
「よう、坊主。騒がしい夜だな」
「え……憲兵のおじさん!?」
入学式の日、最初に彼を捕まえようとした憲兵が、馬の背中で笑っていた。
「なんです? おれを捕まえに来たんですか?」
「いや、何故か深夜に出歩いていたガキどもにはお灸を据えてきたがな。今日のお前さんは、捕まえることはできんよ。なにせ、きちんと服を着ているからな」
「そりゃどうも」
「なぁに、礼はいらん。それよりも、長旅になるだろう? 持っていけ」
言いながら、並走する憲兵が馬上から投げ渡してくれたのは、しっかりとした作りの外套だった。彼とアリアの二人分。きちんと、二着ある。
それだけでもう用は済んだとばかりに、並走していた馬は踵を返した。
「達者でな! 坊主と姫さん!」
手綱を引き上げて、王都の治安を守る憲兵は振り返らずに、ただ一言。
「風邪ひくなよ」
「……はい!」
そのたった一言が、本当に嬉しくて。
お礼を言っても、言い切れないと思った。
グレアムが用意してくれた芦毛は健脚が自慢のようで、凄まじいスピードで景色が流れていく。
一年。長いようで、短い時間だった。
思い出が詰まった街は、もう背後。けれど脳裏には、走馬灯のように、様々な記憶が湧き出してくる。
駆け抜ける頬に感じる風は冷たく。
月明かりが薄く照らす地平線の先は、まだ暗く。
それでも、二人の胸の中に不安はない。この一年という時間の中で、たくさんの人から、貰い過ぎなほどにたくさんのものを貰ってきた。
見送る側は、泣いても良い。
旅立つ側は、笑っているべきだ。
だからアリアは、笑顔で彼に言葉を投げる。
「二人きりになっちゃったね」
「ご不満かな? お姫様」
「ううん。不満も不安もないよ」
「そりゃよかった」
「これからどうする?」
「そうだなぁ。とりあえずは、王都から離れて、逃げれるところまで馬で逃げて、それから……」
気負う必要はない。焦る必要もないと、師は言ってくれた。
たくさんの人と出会って、様々な風景を見て、頼れる仲間を集めるために。
そのためには……
「まずはどこかで、メシでも食おうか」
「うん。賛成!」
前途は多難。先のことなんて、何もわからない。
でも、それで良い。
勇者と騎士の冒険は、ここからはじまる。
──さあ、世界を救いに行こう。
彼の追放を黙って見送らねばならなかったのは、我が人生において、最大の痛恨といっても良い。
それでもあの夜、処分を受け入れた彼は、朗らかな表情で私に笑いかけてくれた。あの笑顔を、私は親友として生涯忘れないだろう。
たった一人の人間の双肩に、世界の命運を託してしまったことが、果たして正しかったのか。私には、未だにわからない。
しかし事実として彼は魔王を打倒し、世界を救い、勇者となった。彼が振るった剣のおかげで、我々は今日、この世界を生きている。
彼の名前を呼べる者は、もういない。
彼は勇者になった。その事実は、もう誰にも変えることはできない。
しかしだからこそ、私はかつて彼の名前を呼んだ一人の友として、宣言しよう。
──我が友愛は、永遠に不滅である。
〜勇者秘録・あとがき〜
著・王都第五騎士団団長 レオ・リーオナイン