今さら説明するまでもないことではあるが、おれたちは世界を救ったパーティーである。
これでも最強最悪の魔王を、真正面切って撃破しているので、まあそれなりに強い。正直、おれだけは例の呪いのせいで、見る影もないくらいに弱体化しているのが情けないところだが、他のメンバーは全盛期のままの力を保っている。
「騎士ちゃん、前」
「はいはーい」
「師匠、そこ割れます?」
「わたしに砕けないものはない」
「賢者ちゃん、そろそろ良い?」
「はい。二班はこちらのルートの探索に回します」
騎士ちゃんが出てくるモンスターを斬っては焼き尽くし、切り捨てては凍結させて、進行方向に邪魔な岩があれば師匠が拳で一撃粉砕し、賢者ちゃんが魔術で細々とした探索を行う。
はい。みんな強いですね。おれがやることが全然ないですね。
基本的に世界を滅ぼすくらいの敵が出てこない限りはピンチになることはないし、どんな敵も圧倒できるのが我がパーティーである。とはいえ、単純に目の前の敵をぶっ倒すわけではない、こういうダンジョンのちまちまとした探索はどうしても時間を食ってしまう。
しかし、おれの隣を歩く先輩は何か信じられないものを見るかのような目でこちらを見ていた。
「アホみたいにはえーな」
「そうですか?」
「おう。正直助かる。さすがは勇者殿だな」
「やめてください、先輩」
学生時代に散々ケツを蹴られてきた先輩に、こうしてストレートに褒められるのはどうにもこそばゆい。
「じゃあ、さすがは勇者殿のパーティーだな、と。そう言った方がいいか?」
「……そうですね」
そっちの方が、おれは嬉しい。
「お? もしかして今、あたし達のこと褒めてました?」
意外と耳聡いところのある騎士ちゃんが、兜のフェイスガードを上げていそいそと寄ってくる。
しかし、先輩は途端に嫌そうな顔になって「しっし」と腕を振って追い払う構えに入った。
「べつに褒めてないが?」
「昔から素直じゃないですね、先輩は」
「そう言うお前はアレだな。なんか昔よりも増したな、犬っころ感が」
「犬っ!? こんな良い女騎士を捕まえて犬とはなんですか!? 犬とは!」
「そのまんまの意味だ」
先輩と騎士ちゃんが言い合っているのを見ると、なんだか昔に戻ったみたいで微笑ましい。
まあ、たしかに騎士ちゃんのイメージってわりと大型犬だしな……などと考えていると、後ろからちょんちょんと背中をつつかれた。
「勇者」
「ん? どうしました、師匠」
「なんか、落ちてた。ひろってきた」
「これは……」
師匠が小さな両手で抱えてきたのは、剣だった。それも、ただの剣ではない。騎士ちゃんが扱うような大剣とも、一般的な冒険者がよく使う幅広の片手剣とも異なる。鞘に収められた、薄く細い造りの、けれどたしかな存在感を放つ一振り。
こんな特徴的な得物を使う剣士を、おれたちは一人しか知らない。
おれと先輩と騎士ちゃんは、黙って顔を見合わせた。
「会長のだな」
「ですよね?」
「多分そう」
問題。おれたちが知るドジっ子生徒会長先輩は、ダンジョンのど真ん中で身を守る武器を落として失くすような人物か?
「落としたのかな?」
「絶対落としたでしょ」
「ああ。間違いねぇ」
解答。そうです。
「ってことは、今あの人、武器無しか……ちょっとまずいな」
「でも、武器がなくてもわりとなんとかする気がしません?」
「それはそう」
だが、武器がなくて困っているのは間違いないので、早く届けて上げたほうがいいのは間違いない。ひろってきてくれた師匠にお礼を言って、おれはその剣を腰に差した。
「それにしても妙ですね」
「ん? 何が」
「このダンジョン。探索が簡単すぎます」
「ああ」
賢者ちゃんに言われて、そういえばそうだな、と。おれは頷いた。
たしかに、トラップの類いは少ないし、モンスターもそんなに強いヤツがいない。内部の構造も、規模のわりには単純であまり凝っていないように思える。
「勇者さんの先輩さん。周辺の調査もしたんですよね? このダンジョン、何が埋まってるとか、制作者は誰か、とか。そのあたりの情報はないんですか?」
「ああ、そこらへんの情報共有がまだだったな。すまねえ。簡単なものだが、ここにメモがある」
「一枚いただければ大丈夫ですよ。増やせるので」
手渡されたメモを受け取った賢者ちゃんは、それをさっと人数分に増やして配った。先輩は相変わらず「やっぱりありえねぇくらい便利だな、その魔法……」と苦笑いを浮かべている。
「……うわ」
淡々と文字に目をはしらせていた賢者ちゃんの横顔が、ぴくりと引き攣った。
同様に、騎士ちゃんの目が氷のように鋭く冷たくなって、無表情が常のはずの師匠の表情すら、嫌悪に歪む。
うんうん。まあ、そういう反応になるよね。
「『色喰い』ですか……」
今となってはもう思い出せない名前だが、もう二度と思い出したくもない憎たらしいあの顔だけは、今でも鮮明に思い出せる。
魔王軍、四天王。第一位。
おれたちにとって、もしかしたら
そんなヤツの名前が残っているダンジョンが、普通であるはずがない。
「ちゃんと警戒して進まないとね」
「ええ。何があるかわかりませんし」
「やだなぁ……あたし、アイツ嫌い」
「むしろ、好きな人間なんていない」
全員でもうこの世にいない相手を散々にこき下ろしながら、先に進む。
隣を歩く先輩が、腕を組んでこちらを見た。
「やっぱり、ヤバいヤツだったのか? 四天王の第一位は」
「ヤバいというか、とにかく性格が悪いというか……」
なんだろうな。一言で言うなら、
「人の心が大好きなヤツだったんですよね」
「……それは、悪いことなのか?」
「悪いですよ。世界を滅ぼそうとしてるのに、人間のことが大好きなんて、質が悪いに決まってるでしょう?」
そう言ってはみたが、思い返してみれば魔王の配下にいた連中は、どいつもコイツも人間に対して何かしらの執着が強かった。
四天王の第一位は、人の心を。
四天王の第二位は、人の生を。
四天王の第三位は、人の夢を。
四天王の第四位は、人の愛を。
それぞれが、人間の異なる部分を好いていた。
だからこそ全員が厄介で手強くて、最悪の敵だったのだ。
まあ、約一名は今は頼れる味方になっているのだが。
「人の心に対して理解があるってことは、人を罠に嵌める術も心得てたってことですからね」
「単純な戦闘でも強いのに、頭まで回るから困るよね」
「わたしが、純粋に殴り負けしたのは、アイツだけ」
「仕掛けた罠を、罠だと思わせないのが上手い。そう説明するだけでも、アレの悪辣さはわかるでしょう」
賢者ちゃんが締め括る形になって、また全員でうんうんと頷く。
頷いてから、気がついた。
そうだ。あの第一位は、気付けない罠を仕込むのが、異常に巧かった。
だからもしも……おれたちが全員揃ってこのダンジョンに足を踏み入れた時点で、仕掛けが
「賢者ちゃん、もしかして」
おれが、その可能性を口にする前に。
意識が、ぶつりと途切れた。
◆
どこにでもある、なんの変哲もないお話。
あるところに、一人の魔導師がいた。彼はとても優秀な魔術の使い手で、魔物が多く現れる地域に滞在し、それらを狩り尽くしては次の場所へと向かう。根無し草のような生活を送っていた。
とはいえ、住む場所や着るものに困っていたわけではない。腕の良い魔導師である彼を、魔物に脅かされる村の住人たちは好意的に歓迎した。人々からは感謝され、多くの場合、定住を求められた。しかし、彼はそれらの温かい申し出を断り、一箇所への滞在は長くても数週間に留めた。
「きみっておもしろいよね。ボク、きみのことがもっと知りたいな!」
だから、彼が彼女と知り合ったのは、偶然だった。
彼は今まで共に旅をする仲間を持ったことすらなかった。しかし、なぜか自分にくっついてくる彼女だけは、邪険にすることができなかった。
中性的な風貌の、変わった魅力を持った少女だった。自分のことはこれっぽっちも話そうとはしないくせに、相手のことはとても知りたがる。ニコニコと話を聞いて、本当に嬉しそうに目をキラキラとさせて。
冒険者は、自己中心的な性格の人間が多い。聞き上手、と言ってしまうのは簡単だったが、話していると不思議と心地良い彼女の魅力に、彼はいつの間にか惹かれていった。
「なあ、リリィ」
「なぁに?」
「俺と、一緒にならないか?」
彼から彼女への、シンプルな告白。
けれど、それはあっさり裏切られた。
「ごめん。それはできないんだ。ボクは人間のことが大好きだけど……キミのことが好きなわけじゃないから」
「……そうか」
なんとなく、告白する前から振られることはわかっていた。
なので、彼はそれ以上彼女に縋るような、情けない真似はしなかった。
「じゃあ、仕方ないな」
なので、告白とは別の方法で、彼は彼女を自分のものにすることにした。
「……え?」
手を触れた彼女の体から、力が抜ける。目から生気が抜け落ちる。
彼は魔導師であるのと同時に、魔法使いだった。
そして、自分の欲望を叶える為なら躊躇いなく魔法を使う人種であった。
「いいさ。今から、お前を俺に惚れさせてやるから」
彼が持つ魔法の名は『
その魔法効果は、触れた対象への
一度、触れてしまえば、その人間が望む光景を。あるいは、恐怖の対象を。自由自在に、意のままに見せることができる。それが魔法である以上、魔術で防御も解除も不可能な強力な幻術。悪辣極まる、精神攻撃。
この魔法があれば、触れた相手に刷り込みを行い、思うがままに操ることすら容易い……
「そっか! なるほど! そういう魔法か!」
「あ?」
容易いはず、だった。
「即死効果こそないけど、なかなか良い魔法だね! ちょっと効果範囲が狭いのが難点だけど、色々と応用が効きそうだし、便利な魔法だと思うよ! ボクは好きだな」
いつものように。
彼女はキラキラと目を輝かせて、彼の瞳を覗き込むようにして語りかけてきた。
魔法は、たしかに発動させたはず。
それなのに、なぜ?
「きみが誰とも仲を深めようとしないのは、その魔法が原因だよね? 触れてしまえば好きなように相手を惑わせることができるから、根本的に人を信頼してないのかな?」
「やめろ……」
「自己嫌悪、とでも言えばいいのかな? きみは、手が触れるような距離感の親しい人間を作りたがらない。もしかして、好きになった女の子って……ボクがはじめてだったりする? うわ、だとしたらごめんね。悪いことをしちゃった」
「やめろ……」
「そういう魔法を持っていたから、そういう心を持つようになったのか。それとも、そういう心を持っていたから、そういう魔法が形作られたのか。興味が尽きないよ。やっぱり、人の心はおもしろいね」
「やめろ、と……!」
「やめないよ」
細腕の、片手一本の、枝のような指先。
たったそれだけで、首を絞め上げられる。彼は、潰れる前の蛙のようにもがくことしかできなかった。
懐いていた感情が、白と黒のように裏返る。彼が彼女に対して抱いていた親しみは、一瞬で純粋な恐怖に塗り替わっていた。
「うーん……きみみたいな彼氏を作って持って帰ったら、アリエスは喜ぶかな? でもボク、さっきも言ったけどきみ個人のことはべつに好きじゃないんだよね」
「た、たすけ……」
「色魔法じゃなかったのは残念だけど、きみの魔法はいろいろ使えると思うんだよね。うん、大丈夫。いつもなら食べちゃうところだけど、そこそこ長い付き合いになったし……殺しはしないよ。安心して、助けてあげる」
その笑顔は変わらない。
その声音も変わらない。
自分に興味を持ってくれていた、美しい瞳の輝きすらも、何も変わらないまま。
「きみ、さ。ちょっと人間やめて……
何を言っているんだ、と。叫ぶことすら叶わない。
「実験をね……してみたいんだ」
最初から最後まで、彼女は彼のことを興味深く観察していた。
これは、どこにでもある、何の変哲もないお話。
人の形をした悪魔に騙された、哀れな一人の魔法使いの結末だ。
男の名は、もはや掠れて消えてしまった。
女の名は、トリンキュロ・リムリリィという。
◇
「やっぱり、人間じゃないね」
もう何度目になるかわからない。
手刀で切り落とした相手の首を見て、イト・ユリシーズは吐き捨てた。
「……そうだ。私は人間ではない」
フードの下の顔には、何もなかった。
幼児がとりあえず人の形に整えたような、無邪気で不細工なのっぺらぼう。
それが、イトが見た得体の知れない襲撃者の正体だった。
「でも、その姿が本体ってわけでもないでしょ?」
「……なるほど。やはり、目が良い」
「どうもどうも。ま、これ義眼なんだけどさ」
その瞳で、正体を見極めながら、イトは問う。
「で、答えてほしいな。キミは何?」
「そんなに良い目を持っているなら、もうわかっているだろう? 私は、人間ではない。モンスターでもない。そもそも、血の通った生物ですらない」
口の代わりの、空洞のような穴が歪んで笑う。
「私は、このダンジョンそのものだ」
魔王軍四天王第一位、トリンキュロ・リムリリィは考えた。
ダンジョンとは、迷宮。迷宮とは、冒険者に探索され、いつかは踏破されてしまうもの。どこに罠があるか、どこが正解の出口に続く道なのか。どんなに巨大で複雑な迷宮であったとしても、多くの人々が多くの時間をかければ、いずれ全てが解き明かされてしまう。
伝説と謳われたゴーレムマスターであり四賢の一人、ザイルディン・オセロはダンジョンそのものに命と意識を宿し、入る度に構造が変わる魔の迷宮を作り出したという。
なので、トリンキュロ・リムリリィは閃いた。
──そうだ。おもしろいから、それをパクってみよう!
魔法を持った人間の精神を一人分、そのまま丸ごとダンジョンの素材にする。
侵入される度に内部構造が変化するような複雑で繊細なシステムは、いくら四天王の第一位でも再現不可能だった。それほど精密な砂岩魔術の腕もなかった。
なので、トリンキュロ・リムリリィは逆に考えた。
──そっか。べつにダンジョンの構造には拘らなくてもいいや!
男の意識を、その肉体を、その心を。迷宮全体と一体化させてしまえば。そのダンジョンへ足を踏み入れた瞬間に、侵入者は魔法に触れることになる。
罠をちまちま仕掛けるなんて、面倒臭い。入り口を見つけた冒険者が、足を踏み入れた瞬間に、それで終わり。そちらの方がずっと効率が良い。
そして何よりも幸いなことに、ダンジョンの素材になった彼の魔法は、第一位が理想とする迷宮の条件を満たしていた。
その魔法の名は『
その魔法効果は、触れた対象に対する
「貴様たちは、もう私の中から出ることはできない」
魔法によって侵入者を惑わせる、心を持つ迷宮。それが、最高最強のダンジョンの在るべき姿だと。彼女はそう結論づけた。
「私の意識は、リムリリィ様の手によって、この迷宮全域に及んでいる。お前が今踏み締めている地面も、手をついている壁も、視界に入るすべてが、私自身だ」
「……そんなこと、ありえる?」
「どういう意味だ?」
「だって、そんなの……保つわけがないでしょう。キミの精神が」
イトの指摘は正しい。
根本的な問題が一つ。
人はそもそも、迷宮にはなれない。巨大なダンジョン全域に渡るほどの意識の拡張。人の自意識が、生の肉体を持たないそんな現状に、耐えられるはずがない。
なので、トリンキュロ・リムリリィはもう一つ。極めて単純かつ効果的な工夫を『彼』に対して施した。
「黙れ」
──そうそう。きみ、今からダンジョンになるから。そう思い込んでね?
「誰がなんと言おうと……私は、迷宮だ」
魔法効果は、触れた対象と自分自身に及ぶ。
己の魔法を、己に対して行使させる。
自分に、自分の魔法をかけさせる。
四天王の第一位は、魔法によって自分自身を惑わせ……幻惑の沼の中に彼の心を沈めることで、意識の崩壊という問題をクリアした。
「そして、貴様たちは既に、私の胃の中にいる」
イト・ユリシーズは、絶句する。
このダンジョンは、生きている。
トリンキュロ・リムリリィの手によってすべてを解放された男の意識は、迷宮と完璧に一体化している。
故に、その魔法効果の対象は、ダンジョン全域に及ぶ。
「残念だったな。幻想は……絶対に斬れない」
誰であろうと、決して逃れ出ることはできない。
イト・ユリシーズの意識は、ぶつりと途切れた。
◇
賢者は、夢を見る。
それは、緑に包まれた村の中で、多くの人々に囲まれて食事を楽しむ、フードを被っていない自分の姿だった。
騎士は、夢を見る。
それは、両隣に立つ母親と父親と、手を繋いで森の中を散歩しながら笑い合う、確かな温かさを感じる自分の姿だった。
武闘家は、夢を見る。
それは、ずっと追いつきたかった師父と、拳を合わせて試合を行う、成長した自分の姿だった。
そして、勇者は夢を見る。
◇
目を覚ます。
体を起こす。
周囲を見回す。
どこか、懐かしい部屋だった。
「まずは席に座ったら?」
手を晒せば透けてしまいそうな、艷やかな髪。
耳が蕩けて落ちてしまいそうな、甘い声。
おれは、それをよく知っている。
「……魔王」
「どうしたの? そんなにこわい顔をしないで。良い男が台無しよ」
おれが殺したはずの女の子は、にこりと微笑んだ。
落ち着いた雰囲気の部屋の中には、お茶の用意がされていて、テーブルの上に置かれたポットからは、紅茶の匂いが漂ってきていた。
「ほら。いつまで床に座り込んでいるの?」
手を差し伸べられた。
迷わずに掴んでしまった。
手のひらに体温がある。熱が伝わってきた。
「うれしい。あなたが来てくれて」
所作の一つ一つが、踊るようで。
見詰めているだけで、見惚れてしまいそうで。
彼女が、そういう女であったことを思い出す。
「どうして、おれはここに……」
「それはもちろん、あなたがわたしを殺したくなかったから、でしょう?」
「……おれが?」
「うん」
席に座り、カップに注がれた紅茶を飲む。
おいしい、と思った。
「大丈夫? つらかったでしょう?」
「いや、おれは……」
「大丈夫。大丈夫だから……」
手を握られて、その顔を見る。
やはり、おれが殺した女の子の顔だった。
「しっかりして。あなたは、
「……殺さなかった?」
「そう。わたしは生きている。だから、安心して。あなたは──」
おれは、この子を、殺していない?
「──あなたは、みんなの名前を呼ぶことができる」
……ああ、そうだったかもしれない。
おれは、この子を殺していなくて。
おれは、世界を救っていなくて。
おれは、みんなの名前を普通に呼ぶことができる。
それでいい。それが良い。
「ほら、あなたのために用意したのよ」
良い香りのするパイを、彼女は切り分けて皿に載せ、おれにすすめてきた。
やはり、とてもおいしそうだった。
けれど、彼女はなぜか、自分の分は用意しようとしなかった。
「食べないのか?」
「わたしは結構よ。べつに、お腹空いてないし」
「……そうか」
飲んでいた紅茶から、温かさが消えた。
食べていたクッキーから、甘さが消えた。
空気が冷えて、背筋が寒くなる。
だけど、その冷たさにおれは安心した。
「違う」
「え?」
「違うんだよ」
切り分けられた一つではなく、見た目だけはほかほかと湯気を立ち上らせている円形の大きなパイを手に取る。
繰り返しになるが、おれは勇者だ。当然、あのふざけた魔王と茶を飲んだこともある。
おれは、彼女のことを知っている。あいつは、これくらいのサイズのパイなら、一人で頬張って、平気な表情で食べきって無邪気に笑っていた。
「ちょっと、あなた何を……」
「お前は、魔王じゃない」
そうだ。おれはよく知っている。
あの子は、そんな澄ました表情で、目の前のお菓子に目もくれないような女の子ではなかった。
「──解釈違いだ」
勇者に、幻惑は通じない。
おれは、魔王のふりをしたそれの顔面に、パイを丸ごと叩きつけた。
こんかいのとうじょうじんぶつ
勇者くん
パイ投げ一級。勇者に幻覚は効かねぇ!(ドヤァとしてるが、普通に惑わされていたし、そこそこオチかけていた。魔王と何回かお茶したり喫茶店デートをした思い出がなければ危なかった。
賢者ちゃん
スヤスヤしてる
騎士ちゃん
スヤスヤしてる
武闘家さん
スヤスヤしてる
イト・ユリシーズ
剣がなくても手刀だけでわりとなんとかなってる女。仕方ないので襲撃者さんは魔法を使う羽目になった。幻想は斬れないらしいが……?
魔導師さん
この世で最も危険な女に惚れてしまった人。対人で有効過ぎる魔法を持っていたので、過去に色々あって人間不信気味だったらしい。人に好かれるために魔法を使ってしまった時点で、彼の命運は決まってしまったとも言える。
トリンキュロ・リムリリィ
魔王軍四天王第一位。色喰い。聞き上手で笑顔が素敵な中性的な可愛らしさを持つボクっ娘。人の心の探求を一つの目的としていたらしく、その延長線上の欲求として魔法使い狩りを行っていた。純粋なバトルも好きだが、穏やかな心の交流も好むタイプ。脳筋だが頭脳派。なんでもオールマイティにこなせてしまう厄介さを持つ。
自由奔放かつ最強であったために他の四天王たちからのウケは微妙だったが、魔王の遺産を確実に守るために最強最高のダンジョンを作ろうとする仕事熱心な一面もある。
今回の登場魔法
『
手札から発動して相手モンスターの効果を無効にできそうな、魔導師さん、もといダンジョンさんの固有魔法。自分自身と触れた相手を幻惑させる効果を持つ。触れた相手を即死させるようなシンプルな殺傷能力には欠けるものの、精神干渉できる魔法は中々貴重であり、それなりに汎用性も高い。色魔法マニアの四天王第一位も「使える魔法」と太鼓判を押すほど。
ダンジョンそのものと一体化した彼がこの魔法を使うと、足を踏み入れた瞬間に精神異常を誘発させるクソ強トラップとなる。とはいえ、入口で昏倒する人間が続出するとさすがに怪しまれるため、深い階層まで冒険者を誘導してからダメ押しとして使用するのが基本な模様(ダンジョンは探索が進めば進むほど、中の人数も増えるため)。
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