ルール無用。武器の持ち込みは自由。どちらかが、倒れるまで。
それが、血と欲に塗れた地下闘技場の絶対の掟だった。
金が欲しかったわけではない。ただ、金払いが良い武闘会には、やはり強い人間が集まった。より強い人間と戦えば戦うほど、乾いた心が満たされる気がした。
年若い少年と、決勝で当たった。
他人の試合になど興味がなく、他人の試合を見なくても勝つことはできたので、何故そんな少年が勝ち上がってきたか、立ち合った瞬間は疑問に思った。
立ち合いの次の瞬間から、直感の疑問は確信の警鈴に変化した。
初手で、自分が持ち得る最大の打撃を打ち込んだ。その後も、打って打って打ち続けた。
こいつは、なぜ倒れない?
どうして、わたしの拳を受けても、平然と立ち上がる?
その少年の強さは、言うなればおかしな強さだった。積み上げてきたものは感じる。積み重ねてきたものは、間違いなく在る。けれど、デタラメでめちゃくちゃで、理屈が通じない強さ。底知れない、深い闇に少しずつ飲み込まれていくような、そんな強さ。
はじめて、だった。
無我夢中で拳を振るった。全力を尽くした。師父から受け継いだ技を否定させないために、師父から受け継いだ強さを証明するために、勝たなければならなかった。
しかし、ムム・ルセッタはそれまで生きてきた1000年という時間の中で、はじめて闘技場というリングの中で、背中を地面につけた。そして、もう立ち上がれなかった。
負けた。完膚なきまでに。
地下闘技場は、ルール無用。武器の持ち込みは自由。勝敗の決着は、どちらかが倒れるまで。
つまり、倒れた相手をどうするかは、勝者が自由に決めていい。
死ぬかもしれない、と思った。1000年という時間の中で、はじめて人に殺されるかもしれない、という恐怖を覚えた。
リングに、剣を突き立てる音が鳴る。ブーツの音が、死神の鎌のように近づいてくる。
そして、勝者である少年は言った。
「ありがとうございました。いい勝負でした」
差し伸べられた手を、ムム・ルセッタは信じられない面持ちで、ただ唖然と見上げた。
殴られる。
彼女のただならぬ雰囲気に、赤髪の少女はそう思った。
「む。こわかった?」
だが、目を開けてみると、やはり無表情のままのムムが、少しだけ不思議そうな色を瞳に混ぜていた。
「?」
「こわがらせてしまったなら、もうしわけない。わたし、魔法を使う時、少し力んじゃう」
ムムの小さく細い指先が、小鳥に触れていた。
小鳥の、今にも消えそうな息遣いが、しかし今にも消えそうなまま、ゆったりと続く。鳥に表情はないが、それでも少しだけ、楽そうになったように見えた。
まるで、出血と傷の広がりが静止したように。
「これって……?」
「わたしの魔法。
その体は不変。
その心は不動。
されど、その拳だけは不変にあらず。
歩みを止めず、新たな強さを求めて、一日を、一秒を積み重ね、弛まぬ進化を続けてきた。
決して変化しない体の中で、その拳だけは成長を続け、研鑽によって輝きを増し続けた。
それは、全てを永らえ、長き時の中、決して色褪せることのない誇り高き黄金。
『
この世界を救った、最高の武闘家にして、魔法使いである。
けれど、
人の手は、拳を握り締めるためだけに、あるものではないと。ムムは、師父と彼に教えてもらったから。
「わたしは今、この子の出血を止めてる」
「それって……じゃあ、この子は助かるってことですか!?」
「ううん。助からない」
抱かれた淡い期待を、しかしムムははっきりと断言の形で否定した。
「わたしは、この子の時間を止めているだけ。治療しているわけじゃない。仮に、この子の全てを『静止』させたとしても、ケガの状態は、変わらない」
「でも、お医者さんに見せれば……!」
「ここから治療して、治すのは不可能。勇者も、それをわかってた」
あの馬鹿弟子はいつもこういう面倒なことをわたしに預ける、と。ムムは口の中だけで溜め息を吐いた。
それは、目の前の少女に突きつける、残酷な選択だ。
生き物は死ぬ。だから、選ばなければならない。
「ここからは、あなたに質問。あなたは、この子をどうしたい?」
赤髪の少女が、伏せていた顔をはっと上げる。
躊躇いながらも、指が伸びた。少女が指先で触れると、傷の広がりが止まって楽になった小鳥は、嬉しそうにくちばしを持ち上げた。
きゅっと、形の良い唇が絞られる。
「……少しだけ、この子のことをお願いできますか?」
「わかった」
ムムは小鳥を受け取った。少女が、テントの外に駆けていく。
指先で小さな体温を感じている時間は、思っていたよりも長くなかった。もしかしたら戻ってこないのではないか、とムムは思っていたが、その心配は杞憂だった。赤髪の少女は十分ほどで、手の中に小鳥とは別のものを抱えて戻ってきた。
「お花」
「はい」
それは、湧き水の出るこの場所にだけ咲いている、小鳥と同じちいさなちいさな花だった。その花を、少女は短い時間できれいに編んで、円の形にしていた。
「……この子に」
「わかった」
テントの外に出て、軽く土を掘る。その下に編まれた花を敷いて、小鳥の体をそっと寝かせてあげた。
拾われてから、ずっと一緒にいた少女が戻ってきたことが嬉しかったのか、ぴぃ、と。短く鳴き声が響いた。
「もう、大丈夫?」
「はい」
「悲しい?」
「……はい。おかしいですよね。さっき、たまたま拾って、わたしが勝手に同情して……」
「そんなことは、ない。生き物の死に、涙を流すことは、心が豊かな証拠」
自分よりも高い肩に、ムムはそっと寄り添った。
失われていく温かさを、少しでも埋められるように。
「わたしも、同じ。勝手に同情してきた男が、勝手にわたしを拾った」
だからか、と。
ムムはどうして自分が、こんなにもこの少女に入れ込んでいるのか、今さら気がついた。
「でも、だからわたしはここにいる。勇者に出会って、あなたにも出会えた。人生は、そういう偶然の繰り返し」
命は短く、儚く、脆い。
ほんの些細なきっかけで、命は唐突に消える。ほんの些細なきっかけがなくとも、命はいつか消える。
「この子は本当は、荒野で一人で死ぬところだった。でも、勇者とあなたが来た」
それは運命のいたずら。様々な出来事が自然に噛み合って生まれた、偶然の出会いだった。
「だから、あなたに見守られて、お花の中で命を終えることができる」
歌うように、ムムはそれを少女に説く。
「死ぬことは、悲しいこと。悲しいけど、自然なことだから……その終わりを、幸せな形にしてあげることはできる」
ムムは、小鳥から手を離した。少女は小鳥に手を触れた。
小さな体が、少しずつ冷たくなって、やがて小鳥は動かなくなった。
懸命に生きようとした一つの命が、静かに終わった瞬間だった。
「お別れは、できた?」
「……はい」
「そう。よかった」
「ムムさん」
「ん?」
「ありがとう、ございました……」
声は、震えていた。
無理をしている、と思った。
「もう一つ。人生の大先輩から、お節介なアドバイス」
小鳥を抱いていた、両手が空いた。だから、できることがある。
背伸びをしたムムは、赤髪の少女の頭を、なるべくやさしく撫でた。
「泣きたい時は、泣いて良い」
こういう時だけは、小さな身体が本当に不便だと、ムムは思う。泣きじゃくる子どもに胸を貸すのは、とても大変だからだ。
ムムは、忘れ物を拾いに行ったままいつまでも戻ってこない勇者を、迎えに行った。
あまりにも遅いからまさか、と思っていたが。どうやら、心配は杞憂だったらしい。
「なんだ。出る幕、なし?」
「ああ、師匠」
勇者は、倒した敵の残骸を積み上げて影を作り、その下で涼んでいた。
そのゴーレムの数は、およそ10体。サイズは遜色なかったが、明らかに強い魔力の残滓を孕んでいる。大きさだけなら、自分が倒したゴーレムの方が格段に上だが、それぞれの強さはこのゴーレム達の方が上だったろうと、ムムは思う。
「赤髪ちゃんは?」
「泣き疲れて、寝た」
「子どもか?」
「あの子は、子ども」
「それもそうか」
足元に落ちている石を適当に拾って、ムムはそれをくるくると回した。
「この数、よく一人で倒した。えらい」
「師匠と赤髪ちゃんの時間の、邪魔をされたくなかったので。ああいうことを教えるのは、絶対に師匠の方が上手いでしょう?」
「またそうやって、師匠を便利に使う」
「すいません」
勇者は苦笑を交えて、服についた埃をはたいた。
「……会ったときは、腕が鈍ってるって思ったけど。勘が、戻ったみたい」
「どうでしょう。おれなんてまだまだですよ」
「懐かしい」
「え?」
「わたしに弟子入りした時も、同じことを言っていた」
「そうでしたっけ?」
「そう」
あの日のことを、思い出す。
勝者になった少年は、倒れ込んだまま動けないムムを担ぎ上げ、賞金も責任も何もかも放り捨てて、その場から全力で逃走した。このままリングの中にいたら、ムムが殺されてしまう、と思ったらしい。
あれだけ命を賭けて戦ったくせに、金も貰わずに一目散に逃げ出したことが、あまりにも信じられなくて。ムムは少年に聞いた。おまえは、何が欲しかったのだ、と。
──あなたが欲しかったんです
憎らしいほどけろっとした表情で、少年は言った。これから先も強くなるために、自分の体の使い方を見てくれる師匠が欲しかった。おれにとっての優勝賞品はあなただ。おれの師匠はあなたしかいない、と少年は熱心に語った。
控えめに言って、あきれた。
敗北した相手の師匠なんて、できるわけがないし意味がない。負けた自分に、教えられることは何もない。最初はそう言って断り続けたが、少年は頑なに引かず。とうとう、ムムの方が根負けした。
修行といっても、ムムは人に拳の振り方を教えたことはなかった。仕方がないので、師父の教えを頭のなかで思い返しながら、少年に自分がやってきたものと、同じ修行をさせた。
結果、少年は3ヶ月足らずで、ムムが割るのに一年かかった巨岩を打ち砕いた。
はじめての弟子が、本当に嬉しそうに振り返った時。胸の中に、何か熱いものが込み上げてくるのを感じた。つい先ほどまで、固く握り締めていた拳を勢い良く広げて。笑顔で、拳を開いて、少年はやはり手を伸ばした。
──ありがとうございました。師匠
ムムも自然と、その手をとって強く握った。
温かかった。
思えば、あの時も同じだった。
ムムがはじめて岩を砕いた日、師父は馬鹿のように喜んだ。子どものように「その小さな体でよくやった!」だの「わしの時は3年かかったぞ!」などと、本当に馬鹿のように騒いで、ひとしきり騒いだあとに、静かに岩のような手を開いて、差し出した。
──それ、なに?
──む、そうか。お前はまだ知らなんだか。これは礼だ。
──礼?
──うむ。出会った時、別れた時。あるいは、相手に好意を示す時、相手の健闘を称える時。人はこうして、互いの手を握り合うのだ。
記憶の中の師父の笑顔と、少年の笑顔が、きれいに重なった。
拳とは、手を握って振るうもの。その硬さを以て、敵を砕くもの。
だが同時に、人と人が分かり合う時。その手を取り合うことを、人は『握手』と言う。
少年と手を繋いで、900年あまりの時間をかけて、ムム・ルセッタはようやくそれを見つけた。900年と少しの時間をかけて、ムム・ルセッタはようやく二度目の涙を流した。
師父があの日、自分に遺していったものは、ずっと変わらず、こんな近くに、
──ありがとう
自分の手の中に、あったのだ。
「もう行く?」
「はい。追手の追撃もこわいので」
「わかった」
また軽く、握手を交わす。
しかし、それだけでは物足りなくなって、ムムは勇者が積み上げていたゴーレムの残骸を、適当に打ち壊した。
「し、師匠?」
「少し待って」
もはやただの岩の塊になったそれを、また適当に積み上げて、ムムは自分が乗れる台座を作った。その上に立って、弟子を見る。なんとか、目線が彼よりも高くなった。
「うん。これは、良い」
すごく良い。これまでぴくりとも動かなかった表情が、自然に綻ぶ。
きっと師父も、こういう目線で自分のことを見ていたのだろう、と。ムムはそう思った。
勇者はいつも、賢者の頭を撫でていた。さっきはあの子の頭も撫でていた。撫でていてばかりでは、不公平だ。だからたまには、こうして撫でてやるのもいいだろう。ムムは、くすんだような赤色の勇者の頭に、そっと手を置いた。
「道中、無理はしないように。気をつけて」
「……師匠」
「なに?」
「師匠はやっぱり、笑ってる方がかわいいですよ」
「…………生意気」
なんとなく気恥ずかしくて、他の仲間がいる前では、師匠とそのまま呼ばせていた。
二人で修行をしていた半年間。彼が岩を砕けるようになるまで、ムムは自分のことを『師匠』と呼ぶのを許さなかった。岩も砕けない馬鹿弟子はいらない、と。意地を張っていたのだ。
ムムさん、と。
彼に名前を呼んでもらうのが、好きだったのかもしれない。
人の命は、いつかは尽きる。
人の命に、限りがあるように。愛は移りゆくもの。愛は、いつか消えてしまうもの。
それでも、もし。人を想い、世界を想う気持ちに永遠があるのなら。ムム・ルセッタは、彼とぶつけた拳ではなく、彼と交わした手のひらの中に、それを見た。
だから、愛そう。彼が思い出させてくれた大切な父の気持ちと、同じ愛を彼に注ごう。
彼女は、世界を救った勇者を愛している。
彼に好意を寄せる者が多いのはわかっている。
だからこそ、ムム・ルセッタは静かに思う。
愛は比べるものではない。愛の種類は一つではない。
久遠の時を生き続けるこの体にできるのは、彼を愛し、彼女らを愛し、彼と彼女らの行く末の、その幸せを祈ることだけだ。
故に。
──我が愛、永遠に不変。
今回の登場人物
・武闘家さん
近接格闘特化型無表情お節介焼き幼女師匠。自身の心身に刻まれた魔法によって、悠久の時を生きる拳聖。
長生きでそこそこ物知りだが、俗世から離れて拳ばかり磨いてきたので、最近の文化には疎いおばあちゃん。精神的にはパーティーの中で最も成熟しており、加入したあとは勇者を見守る良き助言役として、彼と彼女らを支え続けた。しかし、俗世には疎いしどこにいるかもわからないので、勇者の思い返す婚活相談からはナチュラルにカットされていた。基本的に勇者に対して後方保護者面をしているので、多分知ったら少し泣く。
パーティーメンバーの誰が勇者と幸せになるのか、やはり後方保護者面で見守っている。子どもができたら目一杯お祝いして、はしゃいで、騒いで、孫弟子に自身の流派を継がせようと画策している。
・師父
親バカ。彼の愛は、彼女の中で永遠に生き続ける。
・赤髪ちゃん
はじめて人の前で泣いた。
・ゴーレムくん
勇者のサンドバッグ。砂だけに。
・勇者くん
ちょっとリハビリして感覚を取り戻した。
今回の登場魔法
固有魔法『
魔法の研究は、魔術の黎明期から並行して進められてきたが、その性質についてわかっていることは少ない。心と体に刻まれたそれは、絶対に引き剥がせず、所有者が死なない限り、永遠に消えることはない。中でも、色の名を冠する魔法は、その特異性から権力者達の羨望の的として知られていたことが、最古の歴史書には記されている。
自身の身体と、その身体に接触した全てを『静止』させることができる。ムムが触れたものは、ムムが触れている間は動きが止まり続け、手を離せばまた動き出す。ムムの体が成長せず、時間が止まったままなのは、彼女の時間という概念が静止しているからである。
同時に、触れれば止まる、というのは何者も彼女を傷つけることができないことを意味する。長い時間をかけて、ムムは触れたものに対する静止の切り替えと識別を鍛錬したが、身体を傷つけようとする攻撃には、静止の魔法はオートで作動する。ムムが己の時間に対して静止の魔法を切ることができないのは、魔法が老いることを『時間による身体への攻撃』と認識してしまっているからである。
終わらない永遠、瞬間に焦がれる久遠。万物が頭を垂れる時の流れに唾を吐きかける魔法。