──それは正しく、運命の夜だった。
目も眩むような闇に覆われた空のもと、一つの街が火の群れに食われ、焼け落ちていた。
高く積みあげられた高層ビルは、乱雑に砕かれ崩れ落ち。
並び立っていた家屋は一軒一軒丁寧に、廃墟と化し。
住まっていた人々はすべからく死に絶えた。
──正しく地獄。
そう比喩しても、過言ではない有様の中、ひとりの少年はひた走っていた。
瓦礫を踏み越え、火を躱し──己を追い立てる"女"から身を守るために。
ただひたすらに、身体が許す限りの全力で宛てもなく、駆け抜けていた。
ここが何処なのか、少年には分からない。
何故このような状況になっているのか、少年は知らない。
どうして自分がここにいるのか、少年は理解していない。
ただ──まるで楽しむように追いかけてくる"女"に捕まれば、命は無いと言うことだけを、本能的に理解していた。
視界いっぱいに広がる火の海に身体と
肺が限界だと叫ぶのを無視し、何度も起き上がっては走る。ただ走る。
時折、いたぶるように飛来してくる鎌にその身を斬り裂かれ、血と涙を流しながら、それでも。
生きる為に、少年は走っていた。
──あるいはそれは、運命を変えた夜と言っても良いのかもしれない。
どうしようもなく、少年は追い込まれる。
どこまでも凡人でしかない少年の抵抗は、もう誰も使わないであろう倉庫へと追い詰められる形で終わりを告げた。
"女"は、言葉を発することは無かった。
その身をどす黒い、泥のようになものに覆われた女は、無感情に鎌を振り上げる。
命乞いなど意味はなさない。
あるいは、この逃走劇ですら、意味はなかった。
まるで咎人のように、少年は願う。
助けてください、と。
まだ死にたくない、と。
もっと生きたい、と。
少年は祈り願い──かくしてそれは、確かに聞き届けられた。
爆発するように風と光は溢れかえった。
天を目指すように、あるいは、天から舞い降りるように。
それらは急激に逆巻き、そうして
非力な少年へと向き合い、泥に覆われた女に背を向けて。
「魔人アーチャーこと、第六天魔王、信長じゃ! うむ、其方がわしのマスターになることを、許すぞ!」
少女のような声音なのに、どこか威厳を持っている。
軍帽にあしらった黄金の
──絶世の美女とは、こういう人のことを言うのだろうのと、少年は思った。
それに少しだけ遅れ、泥に覆われた"女"は鎌を振るい──炸裂音が、響き渡った。
宙に浮いた火縄銃から、煙が立ち上り、泥に覆われた女は腹を抑える。
「何じゃ何じゃ、物騒じゃのう──おい其方、我がマスターよ。やって良いのじゃろう?」
「え、は? ちょっ、何?」
「ふぅむ、ま、是非もなし、か。良い良い、そこでわしの活躍を目に焼き付けておれ!
──さぁ、鉄砲隊、構え!」
幾十のもの火縄銃が、宙へと浮いて"女"へと照準を合わせる。
泥に覆われた"女"が、身の丈ほどもある鎌を握り直し──殺し合いは、始まった。
──こうして、少年の運命は動き出す。
「うっはっはっはっはぁ! あやつ、意外と強くねー!? わし、ビックリなんじゃけど!」
飛ぶように、信長と名乗った女は街を駆けていた。
その脇には少年がぶら下がっていて、信長は時折、振り向きながら銃を放っている。
少年はそれを呆然としたように眺めていた。
映画の撮影──な訳がない。現実逃避し始めた脳を即座に律しながら、少年は目を凝らした。
正しく焼け落ちたという表現がぴったりな街並みに、未だに燃ゆる炎。
声の一つも発さず、ひたすらに追いかけてくる泥に覆われた女と、それを銃で牽制する信長。
なるほどなるほど、とても意味が分からない。
理解できるポイントが、もし信長が死んだら自身も死ぬ、ということだけだった。
「さて其方、状況は──まあ、分かっておらんじゃろうから……そうじゃのう、逆に、何なら分かっておる?」
「何にも分かってないってことだけは……あっ、今諦めたら死ぬってことだけは分かる」
「────ぷっ、はは、うははははは! なーにを当たり前のことを言っとるんじゃ! じゃが、正解じゃ、大正解。
確かにここで諦めたら二人諸共死ぬじゃろう……それは嫌か?」
「超嫌」
「良い、であれば魔力をきちんと回せ。それにその服──礼装じゃろう? ほれ、ちょっと使ってみせぃ」
「えぇ……?」
突然の無茶ぶりに少年は思いっきり困惑した。
そもそも礼装ってなんだよ、というレベルで無知なのだから、当然だ。
……が、この服はどうやら特別製らしい、ということを察することが出来ない程、頭が悪いわけでもなかった。
何か……気合とか入れれば、何かしら起こるかもしれない。
少年は割と安易な思考をしていた。
「ふんっ!」
「お? おおぉ? 漲ってきた、漲ってきたぁ! 其方、やるではないか!」
だから、この場合は礼装が優秀だったと言うべきだろう。
魔術礼装・カルデア。
そう呼ばれる、少年が身に纏っている礼装は、カルデアと言う組織が作り上げた至高の一品である。
マスターの意志に応じて、それは【瞬間強化】という魔術を発動させた。
それは一時的に、信長の魔力を跳ね上げる。
「うむ、うむ、良かろう、これならば支障なし──改めて目に焼き付けよ、マスター。
我が名は第六天魔王、織田信長──立ちはだかる者は、皆殺しじゃあ!」
──瞬間、信長は空へと浮いた。
高く、高く、月へと至るほどに飛びあがり────無限と言っても良い程の数の銃が、彼女を中心に螺旋を描く。
「三千世界に屍を晒すが良い──天魔轟臨! これがわしの、
同時、銃声は嵐のように響き連なった。
銃弾はさながらレーザーのように赤い軌跡を残し、その全てが泥に覆われた女へと殺到する。
泥に覆われた女は軽い身のこなしと、その鎌で数秒耐えた後に、銃弾の嵐へと飲み込まれた。
高層であった名残のある、半端な高さまでへし折られたビルの"現"最上階。
天井は吹き飛び野ざらしとなったそこに、少年と信長は並んでいた。
信長はともかく、少年の方は気が抜けたように仰向けになって倒れこんでいた。
「これ、何を腑抜けとるんじゃ、作戦会議の時間じゃぞ」
「作戦会議?」
「うむ──まあ、其方の場合はわしの方から、ある程度説明はした方が好さそうじゃがの。
例えば、わしの正体とか。其方、英霊って知っとる?」
英霊。
それは魔術世界において、最も強力な使い魔のことを指す。
聖杯戦争という大規模な儀式の時のみ、聖杯の魔力を以て召喚されるそれらの正体は、途方もないほどの過去から、見果てぬほどの未来まで含めた中で名を遺した英雄である。
あるいは、この星において、最も質の高い情報として刻まれたもの、と言っても良いだろう。
実在したか、実在しなかったのかは関係なく、少なくとも確かに『在った』者たち。
それが彼ら、である。
「えっと……つまり、信長は本当に、
「うむ、その通りじゃ。ビックリしたか? 気軽にノッブと呼んでくれても良いんじゃぞ」
「えぇ……」
日本に住まうものであれば、恐らく例外なく、一度は耳にしたことがあるであろう、戦国三英傑がひとり。
一地方の領主主の子として生まれておきながら、かの有名な桶狭間の戦いにて今川義元を打ち破り、急速に力をつけた戦国大名。
幕府再興の志を込め、『天下布武』の印を掲げ、ついには上洛を果たし、その後に独自の中央政権を確立した天下人。
神仏の類を恐れることはなく、あるいは、己こそが神仏の敵であるとでも言わんばかりのほどであった信長は、しかし天下統一を目前にして、重臣・明智光秀の謀反──本能寺の変により命を落とした。
──それが、今なお語り継がれる「織田信長」である。
「うむうむ、懐かしいのぉ本能寺。いやー、あの時はマジあっちかった」
「そんなサウナみたいな感想で本当に良いのか……!?」
良い良い、と信長は快活に笑う。
それを観察するように眺めながら、少年は思う。
教科書に載ってた信長の肖像画、全然違うじゃん、と。
まるで禿げてない……
というか、性別すら違った。どうやったら間違えるんだよ。
「何じゃ、わしが女なのがおかしいか?」
チロチロと火が灯っているだけの、闇夜の中でもはっきりとわかる黒髪は、闇を溶かして伸ばしたかのように、長く深い。
反して、赤と黒で織りなされた軍服の隙間から見える肌は、いっそ人工物かのように白いく、きめ細かい。
輝くように透き通っている緋色の瞳は、まるで焔をそのまま閉じ込めたように、赤々とぎらついていた。
女性の平均身長を数cmほど下回っているであろう彼女は、しかし恐ろしいほどに美しかった。
目が覚めるほど美しい、とは正しくこのことだろう。
「んー? なんじゃ其方、わしに見惚れておったのか? うはは! 隠さずとも良い、わしってば美人じゃからのー! 是非もないことよ!」
「なぁっ──」
否定をしようにも、見事に図星で少年は言葉を失った。
せめて紅潮してきた顔を隠すように、身体ごと背ければ、信長は怪しく笑みを深めた。
「く、くっくっく……愛いやつよのう、マスター。良いんじゃぞ? ほーれ、近う寄れ、ほれほれほーれ」
「ぐぁあ! 寄るな触れるな引っ付くな引っ張るなぁ!」
「良いではないか、良いではないか、好きになっちゃっても良いんじゃぞ~?」
「こ、この野郎……!」
ずいずいずいっと寄ってくる信長から距離を取りながら、少年は歯噛みした。
くそっ、このままじゃマジで好きになっちまう!
「ひ、卑怯だぞ……俺たち男子高校生は距離の近い女子が弱点なんだ!」
ついでに信長は客観的に見ても美女だ。
その言動にさえ目をつむれば、非の打ち所がないといっても過言ではない。
「いや、いくら何でもチョロすぎじゃろ……どんだけ
「言い返せないのを良いことに精神攻撃までしてくるのはズルだろうが……!」
少年は、彼女いない歴=年齢だった。
今年で十七歳になる予定の少年は、それについてちょっとだけ焦っていた。
そんな少年を信長は少しだけ憐れむように半目で見た。
「まったく、こんなのがわしのマスターだとは、情けないのぅ」
「追い打ちやめてよ……なんでよりにもよって、こんな人が召喚されたんだ……」
ジリジリと距離を詰めてくる信長から少年は間合いを取る。
せめてもうちょっとこう……ほかになかったのだろうか、と思う。
いや、助けてもらったのでそこに関しての文句はないのだけれど。
「ん、そういや言っておらんかったか。サーヴァントの召喚というのはソシャゲのガチャとはちょっと違うんじゃよ。
完全なランダムではなく、縁に引っ張られるものなんじゃ。
だから例えば、呼びたい英霊が使っておった物でも用意すれば、狙って召喚できるって訳じゃの。
まあ、運営に賄賂渡して排出率を上げてもらってるみたいなことじゃ」
「え、めっちゃ分かりやす……でもソシャゲとか知ってるんだ……」
どっからその情報仕入れたんだよ、と少年は思うが、しかしこれがサーヴァントの大きな特徴とも言ってよいだろう。
基本的に召喚されたサーヴァントというのは、聖杯よりその時代の常識等と言ったものがインプットされるようになっている。
「でも、それが今の話になんか関係あるの? 俺、ノッブの使ってた物とか、持ってないけど……」
「うん? だから言うたじゃろうが。必要なのは"縁"じゃと──つまり、其方はわしと何かしらの縁があるってことじゃな!」
「な、なんか嫌だ」
「まあ、その他には相性が良いサーヴァントが選ばれるとかもあるらしいがのぅ、はてさて、わしらはどっちなんじゃろうな?」
「どっちも肯定したくない……」
疲れ切ったように、その場に少年は座り直す。
信長はフッと鼻で笑った後に、近場の瓦礫に腰をかけた。
「と言っても、今回のコレは聖杯戦争と呼ぶには些か、イレギュラーが過ぎるようじゃがのう」
「イレギュラー?」
「うむ……どうにも、ただ事ではないようじゃからの。ま、聖杯戦争なんて儀式そのものがただごとでは無いんだけどネ!」
「良くこんな状況でテンション高くいられるよね」
「うじうじしとっても事態は好転せんからのう……其方とて、諦めずいたから今こうして生きとるんじゃろうが」
「む……」
それを言われては何も言い返せず、少年は口を閉じた。
実際のところは、深く考えることは無く、ただ走っていただけに等しいのだが、それでも生きようと思っていたことだけは確かだ。
今だって、死にたいとは思っていない。
となれば、するべきことはひとつ。
「事情を知ってる人を、探さないとだよな」
「心当たりでも?」
「うーん、まあ、多分?」
「なーんじゃ、煮え切らんのう。ほれ、ちゃんと申せい」
「いやさ、多分俺の他にもここに来ている人がいる……と思うんだよね。
俺、カルデアってところにいたんだけどさ、まあ何か色々あって、半壊しちゃったんだけど……とにかく、そこにあった機械の誤作動? かなんかでここに来たわけで。
その時、俺の他にもまだ二人、生きてたやつがいたんだよ。
だから、少なくとも俺よりは何かしら知ってるんじゃないかなぁ、って」
「ふぅむ、なるほどのぅ。指針としては充分じゃな──良し、ではそやつらの捜索から始めるとするか。」
トントントーン、と瓦礫を踏み抜いて信長は飛びあがる。
今にも崩れ落ちそうな部分に恐れもせず足を乗せ、グルリと街を見渡した。
「……いやっ、捜索ってそういう!? 目で見えるもんじゃないでしょ!」
「うはは! 黙っとれ黙っとれ、わしの眼力を舐めるでないわ」
「そこは視力じゃないんだ……?」
帽子をかぶっているにも関わらず、信長は目陰を作り目を細める。
視界に入ってくるのは、相も変わらず焼け落ちた街並みと、そこを徘徊しているスケルトン共くらいだ。
それでも、少年が言っていたことが本当であれば、どこかしらで戦闘が起きていてもおかしくはない──その彼らが、死んでいなければであるが。
アレだけ軟弱なマスターが生きていられたのだ、まだ死んでいるということは無いだろう、と信長思い目を凝らす。
「つっても、全体を見渡せるわけじゃないからのう。いっそヤバイ魔力が出とるあそことかは……いや、駄目じゃな。
わしはともかく、マスターが保たん──サーヴァントっちゅうのも面倒なものじゃ」
サーヴァントは使い魔だ。
マスターである人と契約を結ぶことで一時的に召喚されている、英雄の影。
魔力を供給され続けていなければ、自分自身で形を保つことすらできない、実体無き"何か"。
その点、あのマスターに恵まれたのは、ラッキーな方ではあるか、と信長は思った。
肉体は大して鍛えられておらず、精神力も褒められるほどではない。
けれども、土壇場で諦めない気持ちを持っていられることや、恐らく、一般人であろうというのにその身に宿した潤沢な魔力は素晴らしい。
磨けば光るダイヤモンド──というのは少々言い過ぎかもしれないが。
路傍の石ころというほどでもない。
「────む」
キラリと、何かが視界の端で光る。
それをちゃんと視認するまで、一秒もかからない。
信長は顔だけ動かしてそちらを向き──瞬間、十数の火縄銃を一斉に展開した。
光は魔力──魔力で形成された、必殺の矢。いいや、矢というよりは、それは剣と言うべきか。
矢のように創り直された剣が、空間を裂いて射出されていた。
それを、信長は迎え撃つ。
「放てぃ!」
小規模な爆発音が、連続して響く。
撃ち出された幾つもの弾丸は矢へと殺到し、刹那の拮抗の後に爆発を起こした──信長の全身を、巻き込むという形で。
「あぁっちちちちちちぃ!」
「ノッブ!? って、うぉぉぉおおおお!」
受け身も取らずに落下してくる信長。
驚きを脇に置いて、反射的に走り出す少年。
へーるぷ! と叫ぶ信長へと向かい、少年は走って、走って──ドンッ! と言う音と共に信長をキャッチした。
キャッチして、そのまますっころぶ。
信長を抱きしめて、背中を打ち付けるように。
「せ、セーフ……」
「うはは! ギリギリじゃったのう!」
「何を嬉しそうに言ってんだよ!」
「其方もわしを抱きしめれて嬉しいくせに~」
「う、うぜぇ……というか、さっきの爆発、なに?」
「あぁ、アレか? 聞いて驚け、攻撃じゃ」
「……ん?」
こーげき……こうげき……攻撃?
平和な世界で生きてきた少年が、少しの時間をかけて脳内で言葉を変換して、声を上げようとした。
「ほれ、第二撃、くるぞ!」
「うぇえ!?」
同時、壁が吹き飛んだ。
爆風が吹き込み欠片が舞い、火の粉が仄かに舞って散る。
その奥で、ギラリと何かが光った。
「超遠距離からの狙撃じゃのう──アーチャー同士という訳じゃな。良し、一旦退避じゃ、マスター!」
「りょうか──ぐぇっ」
返答を待たず、信長はひらりと少年を抱え込んだ。
そのまま跳躍、瓦礫を踏み越え、一気に彼女は加速した。
まだ形を保っている建造物を盾に、隠れるように疾走する。
「これ、どうすんの!?」
「そうじゃのう、何とかして近づければ良いんじゃが……。
この距離じゃとわしの攻撃、届かんのよな」
こちらの位置が分かっているのか、あるいはただの当てずっぽうなのか、はっきりとはしないが追ってくるような攻撃で、家屋は消し飛んでいく。
少年は思わず生唾を飲み込んだ。
「もしかしてこれ、ピンチってやつ?」
「まだそこまででもないわ、しかし、長引けば長引くほど不利ではあるがのう。
どちらにせよ敵は倒した方が得じゃろうし、逃げを決め込むわけにもいくまい」
「ふぅん……攻め手に欠けるってことか」
「そういうことじゃ、理解が早くて助かる、のう!」
下手な自動車よりもずっと速く駆けながら、ほんの少しの跳躍。
同時に展開した火縄銃を数発撃ち込めば、飛んできた矢とぶつかり爆発を起こした。
既に周りは半壊した家屋しかない。丸裸も良いところだ。
「こ、こえー……」
「まあ其方の場合、アレに巻き込まれたら即死じゃからのう!」
「怖がらせること言うなよ! え? ていうかだとしたらこれ、マジで俺だけ絶体絶命なの!?」
「安心せい、其方が死んだら自動的にわしも逝く」
「安心させる気ゼロじゃん……嫌だよ、そんな心中みたいなの……」
ドクン、ドクン、という自身の鼓動が、いやに響く。
緊張してるのかな、してるんだろうな、と少年は思った。
現実味が無さ過ぎて、理解力が低下している気がする。
信長でさえ、こうやって本当にここにいるのか分からなくなりそうで、自身を抱える腕を掴んだ。
右手の甲に刻まれた、赤い謎の紋様が見える。
「なあ、ノッブ」
「──ッ、なんじゃ」
「この手のやつ、なに?」
「はぁ? ……あっ、令呪のことを言うておるのか!?」
「いや分からんけど、何か手の甲に、赤い紋様が……俺、タトゥーとか入れた覚え無いんだけど」
「だから、それじゃ、それ! 令呪ってのはのう、わしへの絶対命令権……まあ簡単に言えばドーピング剤みたいなもんじゃ」
「違法じゃん」
「合法じゃ! 良いタイミングじゃし、使ってみせい!」
「どうやって?」
だから、本当に何も知らないんだってば、と少年は手の甲を眺めた。
アシンメトリーな形状の紋様だ。
こんなものが……?
「なんつったかのう、令呪を以て命ずる、とかだったかのう」
「えーと? 令呪を以て命ずる! えっと……何にしよう、あの、何? 敵のとこまで行け! とか?」
「ぐ、ぐだぐだじゃあ……」
「うっさい」
不意に、二人の耳朶を「キンッ」という音が叩く。
攻撃音ではない、かといって、自然に起こるような音かと言えばそうでもない。
発生源は少年の手の甲だった。じわりと焼かれるような感覚が走り、三画ある内の一画が、解けるように消える。
にひ、と信長が笑った。
「しっかり捕まっとれよ、後口は閉じとくことじゃな」
「え、ちょ」
ドンッ、という衝撃が走る。
瞬間、少年は目を閉じた──というよりは、開けていられなかった。
それほどまでの風圧、勢い。
まるで風そのものになったかのように、信長はスピードを上げて地を、空を駆ける。
飛来してくる矢は際限なく増える、けれども当たらない、当たらない、当たらない!
滑るように駆ける彼女に、掠りすらしない。
「うははははははは! 気持ちええのう!」
「いや、全然、良く、ない! こわ、い!」
弓を構え、矢を番えるのは泥に覆われたような一人の男だった。
目視してから数瞬、信長は火縄銃を展開する。
男の手から矢が弾かれると同時に、火縄銃は鮮烈に火を吹く。
銃弾と矢がぶつかり合う。火花が散って、辺りを破壊した。
「む……手強いのう、この距離でもアドバンテージを取れんか」
「…………」
男は無言で、けれども態勢を崩すことは無かった。
ひたすらに、矢を放ち、近づこうものならどこからか取り出した──あるいは、生み出して剣で反撃を繰り出す。
厄介じゃな、と信長は思う。
彼女とて近距離用の武装が無いわけではない。腰に差した日本刀──
相手がセイバーであろうとも、そう簡単に押し負けない自負すらある──が、ことマスターが邪魔だった。
その辺に投げ捨てるか? いやしかし、庇いながら戦わねばならないことに変わりはない。
その上、このマスターは戦闘力が皆無なのである。
もし狙われて、間に合わなかったとしたら一撃で死亡だ。
それだけは避けねばならぬ──ええぃ、面倒くさいのう! と、思った時だった。
スルリと腕の中から、重みが消える。
「──は?」
「なるべく早く、頼んだ!」
ゴロゴロと転がって立ち上がり、瓦礫に向かって少年は走り出す。
何を言われるまでもなく、少年は自分自身が荷物であることを、恐らく、この場の誰よりも分かっていた。
だからこそ、少年は誰よりも早く行動を起こした。
死にたくはなかった、当然だ。
けれどもこのままでは死ぬ、それも分かる。
だとしたら、この場でリスクを犯した方が、生存率は上がるだろう。
打算的な行為だ。少年はそう思う。
自分のことしか考えていない。
殺し合いの行く末を、自分自身の命を、勝手に彼女に懸けて逃げ隠れる。
卑しい人間だ、自分の命にここまでしがみつけるだなんて。
あんまりにも情けなくて涙が零れていた、それでも少年は走った。
自分さえいなければ、必ず信長は勝つだろうから。
分け目も振らずに走る、走る、走る。
少年は、そんな自分を悪だと思う。愚かだと断じる。
けれど、それはきっと、賢いものだけが取れる、この場における最善手だった。
その行動は、正しく、勇気ある者だからこそ取れる一手で。
勝敗を分かつ、究極の一手だった。
自らの意志で離れたマスターに、数秒気を取られた男と、すぐさま己の武器を展開した信長。
男の矢は少年の足を掠め、抉り飛ばして。
展開された火縄銃が放った全ての銃弾は、男へと吸い込まれるように着弾した。
「散れぃ!」
衝撃と痛みで、一瞬だけ男は意識を飛ばしかける。
その刹那で信長は鋭く踏み込んだ。
閃くは名刀、圧切長谷部。
現代では国宝として認定されているそれは、まるで闇夜を斬り拓くように振り抜かれた。
真っ赤な血が舞うことは無い。魔力がキラキラと、夜闇を弾くように輝き散った。
身体を真っ二つに別たれた男は、しかしピクリと指先を動かした。
弓を握る、矢を番える。
狙うはひとりの少年──の、はずだった。
「……は?」
ここまで来て、一言も発することの無かった男の口から、驚愕の声が漏れ落ちた。
──小さな石ころだった。
本当に小さい、小学生でも握ることができる程度の石ころ。
戦闘の余波で破壊され尽くしたこの戦場でなくとも、どこでも得るには困らないほどの、ただの石。
それが、何故か
真っ直ぐに、顔ではなく矢を番えようとしていた手に、ピッタリと当たるように。
──それは、
あのような少年が、ここまで計算していたのか? いいや、そんな訳がない。
ほんの少しの時間しか観察していないが、あの少年は明らかに怯えていた。
自らのサーヴァントに全てを委ねていた。
だからこそ、あの離脱という行動にあまりにも驚いたのだが──それでも、普通だった。
普通に怯える、普通過ぎるくらいの少年だったはずだ。
ただ、事実として石はぶつかり、手からは力が抜けて、矢は落ちた。
続いて男の上半身は落下して、落ち切る前に露と消えた。
「あ、当たった、ラッキー……てかもしかして俺、今石投げてなかったらヤバかった?」
矢とか番えてたよね?
飛んできていたら命が無かったことに、少年は普通にビビった。
石を投げたのは、本当にただの思い付きだったし、そもそも当たるかどうかすらも分かっていなかった。
運動に関しては得意でもないし、苦手でもないという塩梅だ。
瓦礫に身を隠した後の、少しでも役に立とうという、素人の浅知恵だったに過ぎない。
それが上手くはまっただけ──結果としては、そうなる。
「ほう……」
面白そうに、信長は笑みを深めた。
圧切長谷部を鞘に戻し、火縄銃も消した彼女は嬉しそうに歩み寄る。
「其方、やはり
「え、何を?」
「色々じゃよ。ようやった」
「ぐぇ、俺は子供かよ」
ぐしぐしと頭を押さえつけられるように撫でられて、少年は不満気に声を漏らす。
「わしからしてみれば、幼子も良いところじゃ」
「何だよそれ……痛っ」
「足をやられおったか……うーむ、わしってばアーチャーだからのう。
その上武将じゃったし! うはは、治す手立て持っとらん!」
「元気良く言うことじゃないだろそれ! うーん、歩くくらいなら、我慢すれば出来るな……」
「無理をするでない、担ぐくらいはしてやる」
「マジ? 悪い、助かる」
「良い良い、気にするな──ふむ、ここはちと、場所が悪いのう」
辺りを見回して、信長はそう呟く。
この炎上した都市を徘徊するのは何も、先ほどのような様子のおかしいサーヴァント達だけではない。
魔術か、あるいはサーヴァントの能力か、それは判別できないが、魔獣やスケルトンと言った──ひとまとめに言えば、エネミーがいる。
一個体の能力は然程高くはなさそうだが、しかし集まられたら面倒だ。
勝てないということは無いが、消耗することはなるべく避けたい。
それに戦闘行為はただでさえ、エネミーを引き寄せる。
ただでさえ、マスターである少年が負傷したのだ。
万が一、ということも考えれば、ここに残るのはあまり褒められたことでは無かった。
「一旦、ここから離脱するぞ、準備は良いな? マスター」
「お、お手柔らかに……」
「うむ、口は開くなよ──っと!」
少年を両手で抱え、トン、と信長は地を蹴った。
音は控えめに、されども風のように。
とはいえ、この地点から離れすぎるつもりも、信長にはない。
此処は、いっそ異常なまでの魔力を発生させている場所から、ほど近いところにあった。
恐らくこの街が焼け落ちた、その原因となるものがあるのだろう。
だとすれば、少年の言う「事情を知る者」がいるのであれば、必ずここに至るだろうし、そうでなくとも最終的には倒すことになる。
信長は聡明──という言葉で片付けて良いほどの英霊ではない。
言動の明るさや雑さのせいで隠されているが、元より余人とは隔絶した思考の持ち主である。
既にこの現状について、少ない情報から答えに辿り着こうとしていた。
(とは言え、一度に説明しても我がマスターは理解に苦しむじゃろうからのう……面倒じゃし、さっさと他の説明役が欲しいんじゃが! じゃが!)
トン、トン、と軽い身のこなしで信長は建造物を強引にのぼる。
高いところを選ぶのは彼女のくせだった。
全体の様子もある程度把握できるし、ちょうど良かったというのもあるが──今回は、それだけではなかった。
「ここ……病院?」
「うむ、せめて包帯でも欲しいと思っての。わしらが身に着けとる服だと、包帯にするには些かばっちぃじゃろう?
かといって、そのまま晒しとく訳にもあるまい。下手をすれば数日以上、この街で生きることになるかもしれんのだからのう」
「た、確かに……ありがとう、ノッブ」
「気にするでない、これも愛しのマスター殿の為じゃからのう? サーヴァントとして尽くしてるだけじゃ」
「なっ──愛しって、おまっ」
顔を真っ赤にした少年が見たのは、悪戯っ子のような信長の笑み。
──ち、ちくしょう! また揶揄われた!
恥ずかしさやら何やらで、少年は取り敢えず顔を隠した。
「うはははははは! 今更何を恥ずかしがっとるんじゃ其方は!」
「うっ、うるせぇ……慣れるもんじゃないだろ、これ! うっかり好きになっちゃったらどうしてくれんだよ……!」
「安心せい、その時はしっかりフッてやる」
「いや、フッちゃうのかよ……ダメじゃん」
少年を抱えたまま、信長はバシバシ扉を蹴り明けていく。
院内には、誰一人としていないようだった。
逃げたか、あるいは死んだか──まあ、どちらにせよ都合が良いのは確かであるが。
こうも誰もいないと、少々不気味ではあった。
「何か、幽霊とか出そうな雰囲気だよな」
「……? 何じゃ其方、幽霊とか信じちゃってる系かのう?」
「いや、信じるも何も、今いるし。俺を抱えてるじゃん、幽霊が。じゃあもういないってことは無いだろ」
「む、このわしを幽霊扱いとは、大きく出たのう。髑髏になりたいようじゃな?」
「今日一番の殺気飛ばすのやめてよ……幽霊も英霊も、違いが大して分からないんだよ。
俺からすれば変わらない──いや、もちろん、ニュアンス的な意味合いで、英霊の方が何か凄い! ってのは分かるんだけどさ」
それくらいなんだよなぁ、と少年は呟き、「ふむ」と信長は唸った。
言わんとしていることは確かに分かる。
何せこの少年は魔術師ですらないのだから、その疑問も当然のことだった。
「そうじゃのう……その認識で、大きくは間違っていないんじゃがな。
例えば、其方が想像しているような薄暗い、存在感があるような、無いようなといったものは残留思念、と呼ぶべきじゃ」
「残留思念? 文字通りの意味で、受け取って良い感じ?」
「そうじゃな、正しくその場に残留した思念──その者が死する直前に、強い思いや感情を抱いていた場合、その場には
それを観測した時、わしらの目にはそれこそ、幽霊のように見える時があるって訳じゃな……ま、大体の幽霊なんてパチモンじゃがのう! 幽霊の正体見たり枯れ尾花、とか言うしネ!」
「ふぅん、何だか思いのほか、ファンタジーな感じなんだな──あっ、ここ倉庫じゃない?」
ドンッ、と言う何度も響いた扉を蹴り明ける音が鳴り、広がったのはやたらと段ボールが積みあがっている空間だった。
「緊急時食糧」と書かれたテープが貼られているものが散見される。
「おっ、そうっぽいのう。食料と包帯──後は薬があれば良いが、こればっかりは専門じゃないと分からんしのう……。
ま、テキトーにかっぱらっとけばよかろう」
「手慣れてるなぁ……」
「慣れとると言うほどでもない──ほれ、救急箱に、包帯じゃ。特別にわしが処置してくれよう!」
「なんか不安なんだけど。大丈夫? やったことある?」
「…………大丈夫じゃ! 任せい!」
「今の間、なんだよ!」
「ええい、うるさいのう。大丈夫だと言うとろうに。ほれ、来い!」
「言いながら引っ張るなよ! あっ、くそっ、力強い!」
ズルズルズル、と引きずられて少年は信長にホールドされる。
少年は普通に青ざめて、信長はニヤリと笑った。
「そう怖がるでないわ、わしってば天才じゃからのう、このくらいおちゃのこさいさいじゃ」
「その割には手つきが怪しいんだけど……まぁ、もう良いや。
取り敢えず丁寧に、頼む……」
「うむ、任せぃ……では消毒じゃな。ちょっと染みるから、我慢するんじゃぞ」
消毒液を多量に吹っ掛けて、真っ白な綿でポンポンと叩く。
少年は普通に絶叫しそうだった。
恥ずかしさもあったが、何よりも痛い。当然である、少年の足はかなり削り飛ばされていた。
日常生活ではそうそう負うことはないだろう、と断言できるくらいだ。
とはいえ、病院に駆け込むほどでもない。
家庭で出来る程度の処置をして、後は時間経過で治すくらい。
そういうレベルの傷だったが、信長は残念ながら慣れていない。
彼女は結構勢い任せに処置していた。
「いたっ、いたたっ、いや痛い! その綿、俺の傷口抉るためのもんじゃないから!」
「うはは! すまんすまん。いやぁ、これ結構楽しいのう」
「楽しんでじゃないよ……いてっ」
「軟弱じゃのう、これくらい我慢せぬか」
「無茶言うなよ……」
クルクルッと少年の足に、包帯が巻きつけられる。
色々あったものの、最終的には上手くいったと言って良いだろう。
満足げに信長は息を吐いた。
「これで良し──具合はどうじゃ?」
「ん、まあ、悪くはないな」
「なーんじゃその反応は……まあ良い、どうせ今すぐは動かんしのう」
「えっ、そうなの?」
「当たり前じゃ、手負いのマスターを連れて散策する馬鹿がどこにおる」
「ん-、でも、ノッブなら勝てるだろう?」
「わしが勝っても其方が死んではおしまいじゃと言うとろうが……ただでさえ、普通の聖杯戦争とは些か、趣が違うようじゃしの。
今は"待ち"の態勢というわけじゃな」
「ふぅん……じゃ、しばらくは暇ってわけか」
ラッキー、ラッキー、と少年は壁へと寄り掛かる。
この名前も知らない、どこかも知らない都市に来て優に数時間は経過している。
いい加減、疲労が全身にべっとりと、まとわりついてるような気分だった。
休める内に休んでおいた方が良いだろう、と少年は脱力する。
「そういえば──その、聖杯戦争? って結局何なんだ?
あぁ、いや、人と英霊のタッグが七つあって、それが最後の一チームになるまで争うのは分かったんだけどさ。
結局それって、何の為に戦ってんの?」
「あれ? 言っておらんかったかのう。
願いじゃよ、願い。
例えば、大金持ちになりたい。
例えば、頭がよくなりたい。
例えば、不老不死になりたい。
そう言った、およそありとあらゆる願望を叶える道具が聖杯で、それを求めて戦う訳じゃな。
ゆえに、人は己が願いの為に英霊を呼び、使役し。
英霊もまた、己が願いの為に、呼びかけに応えるってのが基本じゃ」
「へぇ……それじゃあ、ノッブもまた、何か自分の願いがあったってこと?」
「阿呆め、基本じゃと言うたじゃろうが。わしがその範疇に収まるような器に見えるか?」
「いや、知らんけど……まだ会って数時間だからね? ノッブのこと、全然知らないから。
何なら女だってことに、未だにビビってるレベルだし」
「それ、単純に其方が女子に慣れとらんだけじゃろ……」
「ちょっと? 事実は時として人を傷つけるんですからね? やめてください……ていうか、それじゃあノッブは何で来たんだ?
願いとか、そういうのが無いんなら、何の為に?」
「……? 何じゃ、覚えとらんのか──助けを、求めていたじゃろうが。
まだ死にたくない。
生きることを諦めたくない。
誰か、誰か、助けて──って具合にのう! わしはそうやって伸ばされた手を、何となく掴んでやったにすぎん」
「へぇ、何となく…………いやっ、俺そんなフワフワした動機で助けられたの!?」
「別に良いじゃろうが、気の持ちようなんざで変わるもんでもあるまいし。
──それに、わしは諦めが悪い者が好きでのう。
誇れ、その生への執着が、わしを呼んだのじゃから」
「誉められてる気がしないんだけど……」
「誉めとるよ、超誉めとる。ほれ、近う寄れ」
「ん……本当、子ども扱いするよな」
「子供と言うよりは、殿と家臣と言ったところじゃがな、もちろん、家臣は其方じゃが。
ほーれ、よしよしよし、いい子じゃのう」
「マスターは俺って言ったじゃん……てか、家臣扱いですらないだろ、それ!」
うはははは! と陽気な信長の笑い声が響く。
少年は文句を言いつつも、乗せられた手をはねのけることは無かった。
そうするほどの体力が無駄だと思ったのも、意外と心地よいと思ったのも。
どちらも真実だ。
どちらに比重が傾いているかは、言うまでもないが。
「でもこれ、いつになったら動くんだ? まさか、完治まで待つとか言わないよな?」
「状況にもよるが、現状のままであれば、長くて三日と言ったところじゃな。
その辺が、其方が万全でいられるタイムリミットじゃろう」
「食料は三日分どころじゃないくらいあるように見えるけど」
「人は飯のみで生きられるものじゃないであろう……清潔さは元より、寝心地も良くなければ、日が経つ度に全体のパフォーマンスは落ちる。
此処とて完全に安全とは言えんのじゃから。
そも、其方は戦場なぞ初めてじゃろう。その上、勝手知らぬ地じゃ。
安定性が欠けておる、そしてこの安定性っちゅうもんは、意外と何よりも大事なことなんじゃ。
精神への負担は、時間が経てば経つほど、表層に現れて、一度表出すればもう止められん。
其方は見かけほど弱くはないが──だからと言って決して強くはない、ゆえに三日じゃ」
「ふぅうん……そういうもんなんだ」
「そういうものなんじゃ、だから今は休め。寝れぬと言うのなら、わしの膝でも貸してくれようか?」
「…………!? つまり、それって──」
膝枕!
男子であれば、いいや女子であろうとも、一度は夢見たことであろう行為!
己が恋人に、あるいは、好いているものにされるそれは、あぁ、経験したこと無いものであっても得がたいものであるということは分かる。
当然、少年も例外ではない。
例えばこれが、いつも通りの、もっと平和な時代と場所で。
自分も相手も同じ人間で。
もっと言えば同じ学校の、同じクラスの、ちょっと気になっている女の子であれば。
少年はすぐさま頷いたであろう。一も二もなくノータイムで。
しかし! 現状はそんな理想とはかけ離れていた。
場所はかなり物騒な土地にある、廃墟同然の病院の、しかも不気味な倉庫で。
相手は出会って数時間の絶世の美女な織田信長だった。
ついでに言えばさっきから手玉に取られている。
少年は思った。
このままで良いのか? と。
マスターとサーヴァント、それはつまるところ主従関係に他ならない。
このまま膝枕を享受すれば、この、言わば逆転してしまった関係が固定化されてしまうのでは? と。
「──よろしくお願いします」
「うむ、素直でよろしい」
二秒ほど考えた後に少年は「まあいっか」と思った。
どちらにせよ信長がいなければ自身の命は無いのである。
その時点でどっちが上でどっちが下とか、考えるまでも無かった、という訳だ。
それは信長が、少年自身から供給されている魔力によって形を成しているという事実も含めた上で。
ポフン、と少年は──それでも若干の躊躇いの後に、頭を信長の膝に乗せた。
「ほぅれ、どうじゃ? わしの膝枕は──って、寝るの早すぎじゃろ……。
やれやれ、肝が太いのか細いのか、良く分からんやつじゃのう」
すやすやと、少年はのび太君もかくやという速さで寝落ちしていた。
そんな少年の頭を、ゆっくりと信長は撫でた。
それからきっかり二時間後。
未だ夜が空を覆い尽くしている頃。
パチリ、と静かに信長は目を開けた──眠っていたわけでは無い。
サーヴァントと言う大枠から見れば織田信長という英霊は、魔力感知に長けている方ではない。
それも当然だ。
キャスターならいざ知らず、彼女はアーチャーなのだから。
とは言え、全くできないという訳ではなく、彼女は視覚を断つことで己の発達した感覚を広げていた。
それに何かが
「起きよ、マスター。朝──ではないが目覚めの時じゃ。急ぐぞ」
「んぅ……? 誰?」
「フンッ!」
「クソ痛い! え、なに? 何でビンタ……あっ、ノッブ」
「目は覚めたようじゃの、具合はどうじゃ?」
「左頬がめっちゃジンジンしてる」
「つまり万全ってことじゃの、良い良い、では行くぞ」
そっ、と滑らかな動きで信長は少年を担ぎ、立ち上がる。
トントン、とつま先で地を叩き、己のコンディションを確認。
──問題なし。
そう結論付けて、信長は窓を蹴り破るように飛び出した。
「相変わらず、豪快だなぁ」
「ちまちましとるより良いじゃろう? それに、少しばかり時間がなさそうじゃからの」
「と、言うと?」
「ん-…………ま、それは見てのお楽しみってやつじゃな!」
「おい、今絶対面倒くさくなっただけだろ!」
「喧しいのう、安心せい。すぐわかる」
徘徊するエネミーを蹴り潰しながら、信長は加速する。
駆ければ駆けるほど、雰囲気が──空間が厚みを増していくような。
重苦しいほどの魔力が、そこにはあった。
信長はともかく、それでも少年が平気なのは、それだけ着ている礼装が優秀だということに他ならない。
あるいはそれは、少年自身の素質である可能性も否定はできないが。
やがて信長の目は複数の人影を捉えた。
「……のう、其方の知り合いについてなんじゃが、超でっかい盾とか持っとった?」
「いや、そんなゲームのキャラみたいな人、知り合いにいないが……」
「ふむ、じゃあその知り合い共に、特徴とかはあったかのう?」
「特徴? えぇっと……髪の毛がオレンジ色の女子がいると思う。後は……眼鏡かけてる、白衣の子」
「ほーん……少々違うが、まあ良いか。うし、口閉じとれ! 舌噛むからのう!」
グッと一段階、深く信長は踏み込んだ。
ここまできたように、風の如く優しく、柔らかく、それでいて早いのではなく。
まるで稲妻の如く、彼女は加速した。
オレンジ色の髪を一結びにした少女を追い抜いて。
身の丈ほどもある巨大な盾を構えた少女も飛び越えて。
杖を握った、同じ英霊であろう男の脇を抜け。
闇を凝縮したような剣を握った、一人の騎士へと彼女は飛び込んだ。
「なにも──」
「まずは挨拶じゃ、遠慮せずに受け取れぃ」
いつ抜いたのか。
抱えられている少年にすら、追うことの出来ない速さで抜刀された圧切長谷部がギラリと閃いた。
正しく銀の剣閃。確実に不意を突いたその一撃は、しかし超反応とでも言うべき速度で躱された。
圧切長谷部の先端が、薄く騎士の首を斬り裂き少量の血を飛び散らせる。
「──甘いッ!」
「それはどうかのう」
黒の剣が振り抜かれようとした直後、火縄銃は展開された。
五丁展開された内、三丁が剣の勢いを殺すべく盾となり──残された二丁が、騎士の眼前でを吹いた。
同時、破壊された火縄銃が溜め込んでいた魔力の行き場を失い爆発を起こす。
それを契機に、信長と騎士は互いに素早く距離を取った。
「不意を突いたつもりだったんじゃがのう、仕留めきれんかったか……あやつ、中々の猛者じゃな」
「うん、まあ、それは分かるんだけど。取り合えず降ろしてくれない? 超怖い」
「おっと、そうじゃったな」
「あでっ、急に離すなよ」
いてて、と少年はゆっくり立ち上がってから前を見た。
晴れつつある煙のその先に、黒の騎士は剣を構え立っている。
流石に無傷とはいかなかったようで、目を覆うように装着していたバイザーは破壊され、露になった黄金の瞳は鋭く細められていた。
「マスター」
「分かってる、すぐ下がる……なんか、出来たら頑張って援護とかするから」
「うむ、頼むぞ──じゃが、令呪はいわゆる"とっておき"じゃ。無駄撃ちはせぬようにな」
「りょうかい」
背を向けた少年は、小走りで後ろに回り──ピタリと足を止めた。
何せ視界にいるのは一人の男性と、その奥にいる二人の少女だ。
男性は如何にも「魔法使い!」といった風貌で、恐らくはサーヴァント。
少女たちでさえ、片方──オレンジの髪の少女──は記憶の通りだが、もう片方は全然記憶と食い違っていた。
眼鏡つけてないし、白衣じゃないし……。
やたら露出の高い鎧つけて、バカでかい盾を持っている。
マジで誰? と少年は思った。
「おう兄ちゃん、こまけぇことは分からねぇが──取り合えず、味方ってことで良いんだよな?」
「えっ、あ、うーん、多分?」
「何だそりゃ、締まらねぇなぁ」
「そっちが敵じゃないなら、少なくとも今は、敵じゃないよ」
一瞬、男は目を見開いた。
それからうっすらと、口角を上げる。
「──ククッ、それもそうか。俺はキャスター。
後ろの嬢ちゃんたちに力を貸してるサーヴァントだ。
よろしく頼むぜ……前にいるのは、兄ちゃんのサーヴァントだな?」
「ああ、えぇっと……アーチャー? って言ってた。
戦闘は全然分からないから、そっちで適当に頼む、それじゃ」
「おう」
キャスターを追い越すように、少年はまた駆け出した。
少女たちのもとへ向かうように。
それを横目で見ながら、度胸はあるようだな、とキャスターは思う。
少しだけの観察でわかる。
この少年は、後ろの少女たちと同様、ド素人である、と。
言葉違わず一般人。
だが見込みはある、頼もしくはないが、不安要素にはならないだろう。
大したものだな、とキャスターは笑い──少女による驚嘆の叫びが響く。
「せんぱい!? 生きてたんですか!? よ、良かったぁ……ていうか、逆に何で生きてるんですか?
絶対死んだと思ってわたし、めっちゃ泣いちゃったんですけど!
謝ってください、誠心誠意!」
「ちょっと、
そうでなくとも、もうちょっとこう……何かあっただろ!」
「何かってなんですか、何かって──まったく、こんなに可愛い後輩に泣かれてたんですよ?
乙女の涙ですからね?
しかも現役JKのですよ?
わかりますか?
もうちょっとこの重みを考えてください。」
「いや、普通に死んでる思われてたことにショックだから、こっちは……。
まあ、良いんだけど。それより、そっちの人は?」
つい、と少年は目線を動かして盾を持った少女を見る。
薄紫色のショートヘアーに、これまた同じく紫色の瞳。
前髪は片目を隠すくらいには長い。
……うん、うん。この辺は記憶通りだ。少年はそう思った。
「あっ、マシュ・キリエライトです、そうです、あの、瓦礫に潰されてた私です」
「いや、うん、それは凄い分かりやすい説明なんだけど、本当にそれで良いのか……?
このままだと、本当に潰されてた女の子っていう認識になっちゃうんだけど……」
少年が、苦言を呈すると同時に、甲高い金属音が高らかと響いた。
信長と、黒の騎士の得物がぶつかり合って弾き合った音。
それに合わせてキャスターは走り出し、マシュはハッとしたように盾を掴み直した。
「申し訳ありません、時間がないようです──マスター! マシュ・キリエライト、出ます!」
「あっ、うん、気を付けてね、マシュ!」
立華が叫ぶと同時にマシュは地を蹴りつける。
その加速は、およそ人には不可能な速度で、少年は目を見開いた。
「あの子って、サーヴァントだったのか?」
「何か違うらしいですよ、サーヴァントじゃなくて、デミ・サーヴァント──人と英霊のハイブリッドだって言ってました」
「何それかっこよ……」
「全然格好よくなんてないわよ」
凛、としたような女性の声が、二人の間を割くように響く。
無論、マシュではない。
かといって信長でもないし、当然立華でもない。
声の主は、銀髪の女性だった。
「……誰?」
「何で分かんないのよ!? 一度会ってるでしょう!?」
「えぇ……?」
困惑しながら、少年はじっと女性を見る。
丁寧にケアされた、長い銀の髪。
赤みの入った金の瞳は、如何にも不機嫌そうに細められていて、服装は自分や立華と違って白色の礼装じゃない。
が、しかし。
どこかで見たことはあった。
「少し待ってちょうだい、もしかして覚えてないのかしら? 本当に?」
「いやっ、見たことあるような気はしますね」
「あ、ありえない……私はカルデア現所長、オルガマリー・アニムスフィアです!
貴方の上司よ! まったく……」
「上司……あっ、説明会の時の人!」
「はい、そうです……はぁ、こんなのが増援だなんて、ツイてないわ……」
「ん、失礼ですね。俺はともかくノッブは強いですよ。マジで」
「ノッブ?」
「はい──ほら、あそこで高笑いしながら戦ってる女です」
声が響く。音が連なる。
血が舞って、それでもサーヴァントたちは止まらない。
斬り捨てられた銃は度々爆発を起こし、それを貫くように銃弾は空を翔ける。
それらを勘と経験、それから普通を超越した反応を以て、騎士は躱す。
それでも躱しきれなかった攻撃による傷は、しかしたちまち修復されていた。
「──チッ、セイバー、貴様、聖杯から魔力を直で受け取っておるな?」
「だとしたら、どうした。諦めるか?」
「くくっ、嘗めるでないわ」
剣と刀がぶつかり合う。
これで何度目の鍔迫り合いだろうか。
少なくともとうに数十は越えていて──信長は、押されつつあった。
キャスターの援護とマシュのカバー。
この二つがあって、なお優位を保っていたのは黒の騎士──セイバーであった。
セイバーはその名の通り、剣の扱いに長けた英雄。
どれだけ信長が協力であろうとも、接近戦では数歩劣る。
かといって、マシュに全てを任せるわけにはいかない、と信長は考えていた。
(どう見てもド素人なんじゃよな──そのくせ、やたら細かい技術は優れとるんじゃが……。どうにもアンバランス、任せきれん)
このまま、普通に戦えば押し負ける。
それほどまでに、あのセイバーの実力は高く、何よりも無限と称してよいほどの魔力を有しているのが大きかった。
生半可なダメージでは倒しきれない。
それはつまり、一撃で殺さなければならないということだ。
「面倒くさいのう……それにこれがラスボスって感じもせんから、気乗りせんのじゃが──是非もなし、か。
マスター! 聞こえとるか!」
「
令呪が一画、燃えるように信長の力へと移り変わる。
十全以上の魔力を流し込まれ、信長は笑った。
──異質だった。
あるいは、異常と言い換えても良いかもしれない。
兎にも角にも信長は、久方振りに震えるような興奮を覚えていた。
少年は、どこを見て、何を聞いても、どこにでもいるような一般人だった。
平和な世界で生まれ。
暴力の伴うような喧嘩なんて一度もしたことはなく。
実に穏便に、平和に生きてきた。
そんな少年が普通、
戦況を、味方と敵の差を分析し、今何が必要か、判断できるだろうか?
ほんの数時間しかともにしていない、英霊の思考を読んで、言葉も交わさずに先読みできるだろうか?
答えは否だ、もしも普通であるのなら、凡人であるのなら、見ているだけ精一杯であるべきだ。
ゆえに、信長は笑う。
これは──時代が時代であれば、英傑にすらなれる才能である、と。
「くくく──天魔轟臨!」
展開されるは三千丁の火縄銃。
その一丁一丁が、途方もない魔力を誇る、正しく決死の一撃。
それを迎え撃つようにセイバーは剣を構え──
「させ、ません!」
ガァァン! という音とともに、巨大な盾とぶつかり合った
素人の一撃だ。されどもその膂力は、サーヴァントと変わらない。
火花を散らし合う拮抗が、数秒続いてマシュは弾き飛ばされる、が、入れ替わるようにキャスターの魔術が飛んだ。
襲い掛かる無数の炎。
セイバーは、しかしそれを力づくで薙ぎ払った。
魔力を急激に放出し、鍛え上げた膂力と技術で打ち払い──
「仕舞いじゃな、疾く、失せるがよい」
炸裂音が連なり爆発じみた音が響き渡る。
赤色の軌跡を描き、銃弾はセイバーを一瞬にして撃ち抜いた。
腕も、足も、腹も、方も、胸も、頭も。
余すことなく、銃弾が暗い尽くし、セイバーはその場に膝をついた。
既にその身は、光へ還ろうとしている。
「聖杯は、守り通す気でいたが、ふっ……己が執着に傾いたがゆえの、敗北か」
「──?」
「どう運命が転がろうとも、私一人では同じ末路を迎える、ということなのだろうな、これは。
おい、お前ら。そうだ、そこのマスター共。
聖杯を巡る、七つの戦い──グランドオーダーは、今この時より始まった。
覚悟だけは、決めておくことだな」
「おい、貴様何を言うて──」
スルリと、セイバーは音もなく姿を消した。
それは聖杯戦争が終わったことを示す合図。
セイバーに続くように、キャスターも姿を消していく。
「で、何でノッブは平気そうなんだ?」
「うん? 気合じゃ、気合。なーんとなく、まだ嫌な予感がするからのう。とはいえ、全力で抗っとるから最早身動き一つできんのじゃがな! うはははは!」
「何笑ってんだよ……ていうか、嫌な予感?」
「うむ、なんちゅーか、ドロドロしてて、いまいち気持ちよくない波動をビンビン感じるんじゃよなぁ」
「あ、曖昧……!」
たかが勘、されどもそれは、一級のサーヴァントの勘だ。
馬鹿にできたものではない、と固唾を飲んだ少年はふと右手の甲を見た。
そこにはまだ、うっすらとだが一画令呪が残っている。
「それに、セイバーが言っておったことがイマイチ分からぬ。
あやつは何を──」
カツ、カツ、という音がした。
そろって視線を向けた先には、緑色のハットを頭にのせた、一人の男。
「お見事、と一先ずは言っておこうか、カルデア諸君。
あぁ、何とも想定外すぎて、私の寛容できる範疇を超えているが。
それでも、まずは、おめでとう、と言ってやる」
「────レフ? レフなの? レフなのよね!?」
オルガマリーの声が響く。
それは間違いなく喜びの声だった。
歓喜が込められた、感動の再会を喜ぶものの声だった。
「やあオルガ、元気そうで、何よりだよ」
「ええ、ええ! そうなのレフ! 本当に、本当に大変だった!
予想外のことだらけで頭が壊れそうだった──でも! 貴方が無事だったなら、もう大丈夫よね。
何とか、できるわよね?」
オルガマリーは走り出した。
止めようとするマシュの声を、手をすり抜けて。
彼女はレフという男のもとへ、駆け寄った。
それは──その様子はまるで、茶番のようだ、と少年は思った。
どう見てもレフは普通ではない。
なにせこの場に彼が現れただけで、酷い身体の重さと、怠さが襲い掛かってきているのだ。
先ほどのセイバーよりも、邪悪に見える。
なんにせよ、近づいてはいけなさそうな相手だというのは、優にわかるというのに。
所長は何をやっている? 本当にアレは、味方なのか?
分からなかったがゆえに、少年は躊躇った。
躊躇ったが故に、オルガマリーを止めることはできなかった。
声をかけることも、その手を取ることも。
できた、はずなのに。
「ああ、本当に、予想外のことばかりで──腹が立つよ、オルガ。
キャンキャンキャンキャンと、相も変わらず、耳障りな娘だな。
死んでなおこれなのだから、手に負えない」
「……え? 死んでるって、どういうことなの?
レフ、ねぇ、あなた、何を知っているの!?」
「君の知らない、君のことをだよ──君、生前はレイシフト適性がなかっただろう?
だというのに、何故君はここにいられるのか、一度でも考えたかい?
──いや、ふふっ、すまない。無いだろうね、君のことだ。
だから、教えてやろう。
君はね、死んだんだ、オルガ」
「……? 何、それって、どういう」
「肉体がレイシフトに耐えられないのなら、肉体がなければよい──という理論かな。
おめでとう、オルガ。
君は死んだことで、往生際悪く、死に際に残した残留思念のみになって、初めてレイシフト適性を獲得したんだ。
だから、残念ながら君は、カルデアには帰れない。
何せ肉体がないのだからね!
戻ったその時点で、君は真の意味で死ぬだろう」
「な、にを、言って……」
残留思念。
それは人が、死の際に残す強烈な感情。
常識を超越し、その場に残ってしまうほど、強く念じられた思い。
まだ、死にたくない。
もっと、生きていたい。
こんなところで、死ぬわけにはいかない。
だって、だって、だって!
まだやるべきことが残っている!
やらなくてはならないことが、残っている!
失敗するわけにはいかない、くたばるわけにはいかない!
やだ、やだ、嫌だ!
そういう、死を否定する強い思いがあった。
それが、今のオルガマリーの正体。
レフは彼女の手を、優しく、しかし強く握った。
「だが、それでは少々芸がないというものだ──これが何か、分かるかい? オルガ」
空間が、ぐにゃりと歪む。
円形に、まるで別の空間と繋がるように。
「それ、カルデアス……? 何でこんなところに──いいえ、それよりも、どうしてそんな真っ赤に!?」
「良く見たまえ、これがお前たちの愚行の末路だ。
カルデアスの示す青は人類の生存を意味し、赤はその逆、だろう?
つまるところ、これが人類の末路でもあるという訳だ。
そぅれ」
「なっ、あ……身体が、浮いて、なんで──カルデアスに、引っ張られて──」
「言っただろう? このまま死なせては、芸が無いと。
オルガ、君は良く言っていたね。
カルデアは君の宝だと。
トリスメギストスも、カルデアスも、君の宝なのだと。
であれば、ふふ、あぁ、それに触れることを許そう。
私からの、慈悲のようなものさ。遠慮しなくて良い」
「い──いや、嫌よ。やめて、やめてレフ!
だって、カルデアスよ!?
高密度の情報体、そんなものに触れれば、分子レベルまで分解されて──」
「無限の死が、君を襲うだろうね。ではさようなら、オルガ──君との時間は、とても、とても不愉快だった」
オルガマリーの身体が、完全に宙に浮く。
ふわりとレフの手を離れ、彼女の身体はゆっくりと、カルデアスへ向かう。
彼女の声が、悲鳴が、響いていた。
それを目の当たりにしながら、少年たちは動けない。
「令呪を以て命ず、ノッブ、所長を殺せ」
「────承った。良くぞ決断したな、マスター。褒めて遣わす」
乾いた音が一発、空へと響く。
展開されたのは、たった一丁の火縄銃だった。
令呪を以て、なお一丁しか展開されることの無かったそれは、しかし確実に、オルガマリーの脳天を撃ち抜いた。
ぱぁ、と鮮血が舞い。
ぐたりと、身体から力が抜ける。
一瞬、目を見開いた後に、オルガマリーは絶命した。
「──おや、つまらない真似をしてくれたな、少年」
「悪趣味なよりは、マシだと思って」
「ふん……まあ良いさ、所詮お遊びだ。
──さて、改めて自己紹介をしよう。
私はレフ・ライノール・フラウロス。
貴様ら人類を処理する、その2015年担当者であり──その役目はもう、ほとんど終えた。
後はゆるりと、2016年を迎えれば、それで全てが終わる」
「……?」
「分からないか? 2015年に繫栄してた、貴様ら以外の人類は全て、例外なく滅ぼした、と言っているのだ。
いいや、正確には世界ごと、滅ぼしたというべきかな。
貴様らが今も生き残っているのは、カルデアスの強力な磁場に守られているにすぎん……それも、2016年を迎えれば終わるだろうが。
何せ何もかもが、この宇宙から消滅するのだから」
「……やばい、ノッブ。全然ついていけない、翻訳してくれ」
「其方……いや、是非も無し、か。知識無いからのう、我がマスターは」
「もしかして俺、今ディスられてる?」
「事実を言うとるだけじゃ……」
グラリ、と突然世界は揺れた。
ただの地震という訳ではなく、文字通り空間ごと揺れるように、全てが鳴動する。
「おっと、この特異点も、そろそろ限界か──では、さらばだカルデア諸君。
さようなら、精々、最後に祈りでも捧げることだな」
「え? ちょっ、ま──」
ニコリとレフは笑って、姿を消した。
まるでサーヴァントが退去するように。
光に解けて、消え失せる。
「いなくなった……けど、どうすんの? これ」
「そりゃ当然、其方もカルデアとやらに帰るのであろう。
ほれ、見てみぃ、白い光に包まれとろうが」
「あ、本当だ」
レイシフト、という技術によって少年はここまでやってきた。
帰りも同じことで──しかし、信長はそこに含まれはいない。
彼女は彼女で、その身を光にほとんど解かしていた。
「要するに、お別れって訳じゃのう。わしがいなくとも、寂しくて泣くでないぞ?」
「いや、泣かないから……多分」
「何ちょっと不安になっとるんじゃ、其方……ま、じゃがこれで明確な"縁"は出来たじゃろ──何かあれば、また呼べ。
絶対にじゃぞ? 良いな?」
「そこまで念押されると断りたくなるんだけど……ま、本当に、機会があったらな。
その時は頼むよ、それじゃ」
またね、と少年は言い残して姿を消した。
同時に、信長も空へと身体を解かす。
それはもうあっさりと、彼らは別れを果たした。
これは、終わりから始まった少年の、運命の物語。
これより少年を待つは、七つの時代、七つの聖杯、七つの戦争。
長く、重く、苦しい旅の、始まり始まり。