静寂の温度   作:山石 悠

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静寂(しじま)の温度 中

 夏休みに入ったにも関わらず、学校の熱量は相変わらずだった。むしろ、部活に一日を使える分、今の方がずっと活気に溢れているのかもしれなかった。

 普段であれば、日差しがずっと強く照り付け外の明るさが増せば増すほどに、この図書室は薄暗く寒々しい場所のように感じる自分がいた。いつも胸の片隅にあるはずの外の熱に対する名残惜しさのようなものが、今日だけは俺の中に存在しなかった。

 

「あー…………涼しい……」

「教室もこれくらい涼しかったらいいのにね」

 

 学校に空調が効いている部屋というのはあまり多くない。特に教室なんかは大した効力も発揮できない名ばかりの冷房がせっせと仕事をしているが、結局は外よりマシくらいの暑さでしかない。窓を開けた方がずっとマシだ。

 ただ、こんな暑さだからこそ、いつも図書室にいるたびに去来する感傷的な思考が熱で解けていた。その点に関していえば、この暑さはありがたいものではあるのかもしれなかった。

 

 夏休みの期間、午前授業がある登校日に限っては図書室が開放されている。登校日は全部で十日なので、各週の昼休みと放課後それぞれの当番に一日ずつ割り振られている。その一日である今日は、水曜放課後の担当である俺と笹森さんの当番だった。

 そんな世界で一番暑い昼過ぎの図書室だが、相変わらず生徒が訪れる様子はなかった。登校日の授業が終われば誰もがそそくさとそれぞれの用事に飛び出して行く。その目的地はここではないどこかで、俺達に分かるのはその背から感じる青春の熱量だけだった。

 

 倒れてしまいそうなほどの熱に浮かされた学校の中で、図書室は誰にも知られていない砂漠のオアシスとなっていた。

 

「あぁ、めっちゃ机冷たくて気持ちいい……」

「アイスみたいにどろどろだね……」

 

 左頬で冷えた机の冷たさに浸っていると、視線の先にいる笹森さんが笑っている姿が見えた。そういえば、今まではあまりこういう姿を見せたことはなくて少し恥ずかしくなったが、上手く取り繕う方法も言い訳も思いつきはしなかった。

 まあ、別に引かれているわけでもないようなので、もう別にいいだろう。

 

「暑いのは苦手なんだ」

「でも、中学は陸上やってたって言ってなかった?」

「やってたよ。まあ、だからこそ苦手になったというか」

 

 夏は大会もあって、別に陸上に限らず屋外スポーツ全般のシーズンになる。もちろん大会前なので練習にも熱が入るわけだが、トラックもフィールドも日陰の下にあるわけじゃない。熱中症にならないようこまめな休憩を入れるとはいえ、それでも日差しは照り付けてきて暑い。

 あの頃の熱はもう二度と俺の中に戻っては来ないとはいえ、走ることは今でも好きだ。だけど、あの外から炙られるかのような熱はずっと好きになれる気がしなかった。俺はずっと、自分のうちに生じた熱量しか受け入れることができなかった。

 

「笹森さんは暑いの平気なの?」

「どうかな? 私はそもそも外に出ないから、そこまででもないかも」

「そっか。中学も図書委員って言ってたね」

「うん。……あ、でも、体育とか、寝るときはやっぱり辛いから、そんなに好きじゃないかも?」

「その理由だと、笹森さんって冬もダメそうだね」

「え? なんで分かったの!?」

「いや、そりゃ分かるって」

 

 まるで本を読んでいるときのような表情の変わり方をする笹森さんがおかしくて思わず笑ってしまう。

 

 お互いのことを話す時間はそう多くはなかったが、それでも中学時代やそれ以前のこと、普段の生活のことはある程度把握していた。だからこそ、クラスも違うから見たこともないが、騒々しい日差しに汗ばんだ手をかざして目を細めたり、必死になって両手に息を吐きかけている笹森さんの姿を想像することはあまり難しくなかった。

 

「笹森さんって、結構分かりやすいよね」

「そ、そう?」

「まあ」

 

 初めて出会ったあの頃には横顔しか知らなくて、何を考えているかも分からなかった笹森さんのことが、今ではもう簡単に想像がつく程度には分かるようになっていた。

 それはたった数か月に渡る、九十分の繰り返しに過ぎなかったはずだ。だけど今となってはもう、図書当番のある日々の方が当然で、夏休みの方が違和感を覚えるほどだった。

 

「割と感情が顔に出てるよ」

「嘘!?」

 

 指摘すると、笹森さんはかなりショックだったようで、慌てて自分の顔に手を当てて確かめ始める。だから、そういうところだと思う。

 

「私、基本的に反応薄い方なんだけどな」

「薄い……?」

 

 予想外の言葉に驚く。

 俺の知っている笹森さんの姿は本を読んでいる時がほとんどではあるが、かなり感情が表に出ているように思う。話すようになってからも、読書の時ほどではないが表情豊かにリアクションする姿を見ることもある。

 

「うん。ちょっと人見知りな方だから、人前に出るとちょっと硬くなっちゃうというか。話すだけなら大丈夫だけど、表情はずっと仏頂面だって言われるよ」

「じゃあ、俺相手の時も結構緊張してたの?」

「そりゃ、すっごいしてたよ。もう本読んでるくらいしかできることなかったもん」

「あ、そうなんだ」

「だって明石君、全然本読むタイプに見えなかったし。そもそも他に誰も来ないから、仕事するってわけにもいかないしで。もう何していいか分かんなかったよ」

 

 それこそ帰りに話をするようになるまで、笹森さんはずっと本を読んでいるだけだった。帰りの戸締りの前に少しだけ言葉を交わすその時は、確かにほとんど表情を見せていなかったような気もした。

 俺にとってそんな笹森さんの姿は図書室に馴染んでいた証拠のように思っていたが、笹森さんからしたらそうでもなかったのかもしれない。

 

「でも、そういう明石君も、結構そわそわしてなかった?」

「いやもう、そりゃそうだって。図書室なんて授業中以外で来たことないし、私語厳禁なんだろうなーとか、利用者来たらどうすりゃいいんだよとか。俺だってめっちゃ困ってたんだから」

「あ、そこからか」

「そこからですよ。なんなら利用者来た時どうすればいいかなんて、今でも分からないからね」

「うーん、それは私も分かんないや」

「え、えぇ……?」

「私だって自分にしかやったことないもん」

「そっか、確かに」

 

 当時は分からなかった相手の様子が今こうして分かるようになったのは、つまるところ俺達がお互いのことを相手に見せるようになったからでもあった。

 どちらかが一方的に詰め寄るようなものではなく、お互いに一歩ずつ踏み出していく。だからこそ、たった、と呼びたくなるような短い時間であっても俺達はこれほどまでにこの時間を当たり前にできたのだろう。

 

 だらけた俺も、顔に出てしまう笹森さんも。全てはそうした歩み寄りの結果だった。

 

「そもそもさ、すぐに表情に出るのってなんだか挙動不審な感じがしない?」

「挙動不審?」

「うん。なんていうか、気持ち悪いっていうか。明石君はそう思わない?」

「いや、別に──」

 

 咄嗟に否定の言葉を口にしたところで、ふと言葉に詰まる。何かを言いたいと思ったはずなのに、その言葉が全く浮かんでこなかった。

 俺はその感情の正体に手を伸ばして、ほとんど無意識的に口を開いていた。

 

「──そんなことないと思うけど」

 

 結局、俺の口から出てきたのは当たり障りのない表現で、本当に口にしたかった言葉は全く出てこなかった。自分の中で奥歯に物が挟まったような違和感があるが、それは今すぐに取れそうなものではない。

 だけど、笹森さんはそんな俺の様子は特に気付いてないようで、なんだかひどく安心したように大きく息を吐いていた。

 

「そっか。ありがとう、明石君。ちょっと安心した」

「いやいや」

 

 愛想笑いを浮かべながら、俺も心の中で大きく息を吐いた。

 俺は自分が何を言おうとしたのか、自分でもよく分からなかった。

 

「…………」

 

 話題が切れて、特に話すこともなくなった俺達はいつも通りそれぞれの作業に移っていく。

 

 宿題を取り出しながら、返却手続きをする笹森さんの方を見る。

 あの形を得なかった言葉は、いつか笹森さんに伝わる言葉に。俺が笹森さんに伝える言葉になるのだろうか。

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

 図書室に入ると、もう既にいくつかの机には人が集まっていた。十人ほどで使う広い机は委員達のやる気のなさを反映するように、後ろから埋まっているようだった。開始までは時間があるからと見知った顔を探して席の様子を伺うが特に見当たりもしないので、中央より少し前辺りの人がいない場所へ移動することにした。

 机の上に乗せられていた椅子を下ろし、正面の方を見るとホワイトボードには「第五回図書委員会」と歪んだ字が書かれている。図書委員長は字が綺麗ではない。

 

 おおよそ月に一度開催されている図書委員会だが、今回の議題は開催まで約二ヶ月を切った文化祭の件らしい。

 聞いた話では図書室は例年休憩室として開放されているとのことだったが、わざわざ委員会の議題にするほどのことなのか俺には分からなかった。

 

 委員会の時間まではまだ少し余裕があり、みんな好きに話している。普段なら俺もそれに倣っているが、今日はあいにくとクラスメイトは課題提出で遅れるらしいし、数ヶ月に渡る図書当番生活の中で沈黙には慣れてしまった。

 

「……暇…………」

 

 ふと眠気にも近い感覚に襲われてぼうっとしていると、視界や思考が徐々に霞がかったように白んできた。

 先ほどまで明確な言葉として認識できていたものが、俺の知らないただの音になっていく。はっきりとしていた線や音の輪郭が曖昧になって、まるで一人だけ違う場所にいるような気分になる。頭の中に散らばっていた、明日までの宿題のこととか、文化祭で何をするかとか、そういう取り留めのないものが、スノードームに舞う雪のように俺の中で浮き上がっては沈んでいく。

 

 俺はいったい、走るのをやめて何になろうとしているのだろうか。自分の中の燻るような火はトラックから何処へ行きたいと思うようになっているのだろうか。

 図書委員になったところで、笹森さんのように読書に熱中しているわけでもない。何か仕事をするようになったわけでもない。ただ毎週水曜放課後の九十分を、宿題をしながら笹森さんを見ているだけで過ごしていていいのだろうか。

 

 答えの出ない問いだけが泡のように浮かんでは弾ける中で、外の景色はゆっくりと移り変わっていた。人は徐々に増えていて、賑やかしい話し声は大きくなっていた。だけど、今の俺にはそのどれもがどうでもよくて、まともに頭の中に入ってこない。

 

「…………」

 

 時間の感覚すらも失っている中、ふと「ここ、空いてる?」という声が唐突に俺の無意識に飛び込んできた。

 曖昧だった世界が一気に色と輪郭を取り戻し、思わず肩が跳ねると、そこにいたのは図書室で一番見慣れた顔だった。

 

「さ、さもり、さん?」

「うん。おはよう、明石君」

「え? おはよう……?」

 

 少し前まで意識を飛ばしていたせいで、咄嗟に言葉の意味を理解できない。

 慌てて眠気を飛ばすみたいに頬を二度叩き、思考がはっきりした段階で何故かこのシチュエーションに覚えがあることを理解した。

 

 ハッと笹森さんの方を見ると、笹森さんは笑いを噛み殺していた。

 

「いつもと逆だね」

 

 それは図書当番の終わり際で行われるやり取りだった。違うのは、俺と笹森さんの役が普段とは逆だということ。今日は笹森さんが俺を現実へと引き戻していた。

 

「ごめん、なんか話し相手もいなくてぼうっとしてた」

「ううん。私こそいきなり話しかけてごめんね。……ここ、大丈夫?」

「え? うん。全然。俺以外誰もいなかったはずだし」

「そうなの? じゃあ遠慮なく」

 

 笹森さんは俺の左側に椅子を下ろして座った。その様子には何も特別なことなんてなかったが、なんだか妙に居心地の悪さを覚えた。なんだか嵌っているはずなのに絵柄に違和感があるジグソーパズルのような気持ち悪さだった。

 笹森さんは座った直後に一度だけ首を傾げてから、ホワイトボードの方を指さした。

 

「まだ何も始まってないよね?」

「全然。委員長もあそこで先生と話してるし」

 

 ホワイトボードの横では委員長と先生が話している。具体的な内容はここまで届いてこないが、表情を見る限り真面目な話をしている様子ではなさそうだった。

 開始まではまだ十五分はあるし、人も半分ほどしか揃っていないので何かを始めることもないだろう。

 

「でもプリントとか持ってなさそうだから、何も配られない可能性もあると思うし」

「あ、そっかそっか」

 

 ホワイトボードの方で話している委員長と先生が、俺達の視線に気付いたところで俺達はちょっとバツが悪そうに視線を逸らして、なんでもないと無言のアピールを送った。

 

 少し空気が変わって話題が少し切れたところで、俺と笹森さんは相変わらず居心地の悪さを感じながら並んでいた。高校に入ってからの日々の中で沈黙には慣れたものだと思っていたのだけど、もしかしたら俺の勘違いだったのかもしれなかった。

 部屋の中はいつも以上に声や言葉に溢れていて、外からの熱はさっぱり伝わってくる様子がない。外の様子が分からなくなる程度にはここも騒がしくて、俺達が感じている違和感の原因はもしかしたらそういうところにあるのかもしれないと思った。

 

「…………」

「…………」

「…………あ」

 

 黙り込んでいた空気を破ったのは笹森さんだった。

 

 何かに気付いたらしい彼女は「ちょっとごめんね」と言って、机の上に乗っている椅子を動かして俺の右側に移動して腰を下ろした。

 確信はないが、予感だけはあるような。その僅かに躊躇いがちな行動をした笹森さんは、今度は先ほどとは違って小さく何かを納得したように頷いている。

 

 俺にはその行動の意味が分からなくて、戸惑う気持ちを隠し切れないまま笹森さんの方を見ると、不思議な収まりのよさみたいなものを感じた。それは理由も意味も分からないくせに納得だけはできる、曖昧な理論みたいなものだった。

 

 そんな俺の不思議そうな表情を見て、笹森さんは「な、なんだかね!」と言い訳するように手を振った。

 

「さっき座った時から思ってたんだけど、明石君が私の右にいるのってなんだか変な感じで」

「あ」

 

 その証明はとてもシンプルで、無意識のうちに出来上がっていた互いの話だった。

 

 図書当番の時も、鍵を返しに行く道中も。どんな時も常に俺が左で笹森さんが右にいた。それは何か約束をしたわけでもなんでもなく、ただ一番最初の偶然が続いていただけ。

 俺達の納得は、見えない確率の上で成り立った結果の後付けでしかなかった。だけど、そういう不安定な関係が、この右手が届く距離に笹森さんがいることが、いつのまにか収まりのよさを感じるようなものに変わっていたらしい。

 

 俺達は互いとの距離や位置が自分の中で決まってしまうほどに、その存在が形作られているということでもあった。

 

「よく気付いたね」

「本当にたまたま。なんか受付が目に入ったから気付けただけ」

 

 それを当然にできる人に出会えるのは何度あるのだろうか。一方的にじゃなく、双方的に相手との収まりのいい位置を見つけることができたという事実は、なんだか胸の内で何かを囁く声のようにも思えた。

 

「…………」

「…………」

 

 二人で顔を見合わせて苦笑する。

 先ほどのような居心地の悪さはない。今はいつもより暖かな沈黙が俺達の間に存在していた。

 

 音の波がゆっくりと引いて、世界は俺と笹森さんのいるこの島だけかのような錯覚に陥る。少しだけ右手を持ち上げてから、自分でこれをどこにやるつもりだったのか理解できずに元の位置に戻す。

 

 ここだけ季節が逆転したかのような心地に浸りながら、笹森さんも俺と同じような暖かさを感じていればいい。

 ただ理由もなくそう思った。

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

 学祭の準備ということだったが、休憩所となる予定の図書室に対してやることは、実際のところ飾り付けくらいしかなかった。いつの間にか買い出されていた飾り用の折り紙だとかが受付の傍の机に並べられていて、暇な図書委員達が、放課後だというのにわざわざ図書室へと足を運んで作業している。

 そのおかげでというべきか、利用者ではないものの俺は初めて俺と笹森さん以外のいる放課後の図書当番を経験していた。

 

「……よし、おっけ」

 

 できた折り紙の輪っかを眺める。

 利用者は来る気配もないので、図書当番である俺も宿題を仕舞い込んだまま、いそいそと内職に勤しんでいた。隣にいる笹森さんも、今日ばかりは本を開かずに何かを作っているようだった。文庫本が小脇に積まれており、笹森さんは時折それを覗きながらペンやマスキングテープを使って何か作業を進めているようだった。

 

 先ほど委員長から呼ばれていたのでおそらく何か別の作業をしているのだとは思うが、具体的には何をしているのかはよく分からなかった。

 

「笹森さん」

「どうしたの?」

「気になってたんだけど、それなにしてるの?」

「これ? ポップだよ」

 

 笹森さんが手元にあったポストカードを俺の方に見せてくるので少し近付いてみると、そこには本の紹介が載っていた。学園ミステリのシリーズで、学校で起こる事件や謎を主人公がヒロインに頼まれながら解き明かしていくという内容らしい。

 笹森さんの傍に積まれていた文庫本が、おそらくそれなんだろう。

 

「休憩所だけど、せっかくだから図書室にあるオススメの本を紹介したいんだって。一応、学校とか文化祭をテーマにしてほしいって言われたんだけど、パッと思いついたのがこれしかなくて……」

「いや、思いつく時点ですごいと思うけど」

 

 少なくとも俺には一冊も思いつかないし、適任を探すなら笹森さんしかいないと思った。

 

「本屋さんにある感じで作ってるつもりなんだけど、読みたくなるようにできてるかな?」

「どうだろう? 俺はそもそも全然読まないから……」

 

 確かに少し興味は出る内容だが、これで読みたいかと言われるとよく分からなかった。

 だけど、笹森さんは俺の言葉を正面から否定するように「ううん」と首を振った。

 

「読んでるかはあんまり関係ないと思うよ。むしろ、委員長さん的にはこれを機に図書室に来る人を増やしたい、って感じのことを言ってたから、明石君みたいにあんまり読まない人の意見の方が大事かも」

 

 「私だと、だいたい読みたいって思っちゃって参考にならないんだよね」と、笹森さんが苦笑した。確かに読むジャンルすら問わない笹森さんにかかれば、そもそもポップなんてなくなって読みたくなってしまうものなのだろう。

 

「そういえば、明石君は本読まないの?」

「俺は全然かな。当番初日にちょっと読もうとして挫折しちゃってさ」

「そうなの? どれ読もうとしたの?」

「えっと、確かあそこらへんにあるやつで……」

 

 俺が大体の本棚の位置を指さすと、笹森さんは「うわぁ……」と声を漏らした。何かまずかったのかと不安になる。

 

「あそこの本は、どれも最初に読むにはちょっときついのが多いよ。タイトルとかは覚えてる?」

「なんだったっけ? ちょっと見ないと分かんないな」

「じゃあ、ちょっと見にいかない? 明石君が選んだのちょっと気になって」

「分かった」

 

 二人で受付を離れて本棚の方に向かう。

 本棚の位置は受付からそう遠く離れてはいない位置にある。棚には上の方が薄いオレンジやピンクのような背表紙の本が並んでいる。下に書いてある文字を見る限り同じ出版社が出している本だということは俺でも分かる。

 

「ここの出している本は、それこそ教科書で見るような作品が多いから、いきなり一人で読むと難しかったり、退屈だったりするんだよね」

「あ、そうなんだ」

 

 そんなことも知らなかった。

 そもそも、図書当番初日には本が種類別で置かれていることすら理解できていなかったと記憶している。今は流石に多少分かるようになったが、それは笹森さんがいろんな本を借りるからだし、笹森さんから読んだ本のことを聞いてきたからだった。

 

 同じ見た目をした本の中から記憶をたどっていくと、ふとある本が目に入った。

 

「あ、これだ」

 

 取り出すとやはり表紙にも覚えがあった。紫の線で五人の人間のイラストとよく分からない言葉が書かれている。

 確か、序盤の家族構成だとか舞台となる場所の地図だとか、そういうものを見せられたせいで早々にリタイアしたのだった。

 笹森さんはそれを見て渋そうな顔をした。

 

「どうしてこれにしようと思ったの?」

「これ、確かこれ十二冊くらいあったでしょ? だから、月一で読めば俺でも行けるかなって」

 

 口にしてから、今思うと無茶だったなと思った。まあ、やる気だけはあったんだと思う。

 それは笹森さんも同様だったようで、慌てたように手を振った。

 

「いやいや! これは無茶だよ。これ、世界一長い上にすっごく難しいんだから。明石君みたいに普段から読まない人が読んだらパンクしちゃうって」

「え、これ一番長いの?」

「ギネスに載ってたと思うけど」

「えぇ……」

 

 とんでもないものに手を付けようとしていたことを知って、俺が早々に諦めたのも仕方なかったのだと察した。

 

「明石君、授業以外で本とか読まないよね?」

「うん。そうだね」

「だったら、それこそカウンターの前で委員長が毎月作ってるオススメとか読む方がいいと思うよ。あんまり読まない人でも読みやすそうな作品中心で構成されてるし」

「へぇ、そうだったんだ」

 

 実際のところ目には入っていたし、月が変わるごとに目を通しては見ていたが、特に惹かれることもなかったので読もうと思ったことがなかった。

 

「笹森さんだったら、どの本オススメするの?」

「私が明石君に?」

「そうそう」

 

 それはちょっとだけ気になった。

 テストのこと、中学の頃のことは共通項的に話してきたが、そうではない話題についてはまだほとんど知らなかった。俺は笹森さんが何を読んでいるかは知っているが、逆に言えばそれ以上の、本を選ぶ基準とか何をどう楽しんでいるのかはあまり知らなかった。

 

「笹森さんが読んでる本はちょっと気になってたよ」

「いつも帰りに布教してるもんね」

「うん。……だから、まあ、笹森さんが面倒じゃなければ。ちょっと教えてほしいな、と……」

「ううん。私も明石君が読んでくれるの嬉しいし。せっかくの図書委員だもん」

 

 そう言うと、笹森さんは立ち上がって「こっちこっち」と手招きした。小説が多く置かれている棚の方だった。

 

「ドラマとか漫画でもいいんだけど、明石君はどういうお話が好き?」

「そもそもそういうのも見ないかな。中学はそれこそ部活漬けだったし、今もバイトばっかりやってるから」

 

 ずっと自分の中にある熱をぶつけて生きてきた。

 今のバイトだって何か欲しいものがあるわけでもなく、無為に生きるくらいなら金でも稼いでる方がマシだったからに過ぎない。

 あまり何かを見るとか読むとか、受動的な行為はあまり好きではなかった。

 

「ごめん。参考にならないよね」

「全然。そういうのもちゃんと参考になってるよ。明石君自身の考えだもん」

「そうなの?」

「もちろん」

 

 笹森さんは本当に気にしていないようだった。

 

「じゃあ、次の質問。感情移入とかはしたい方?」

「どうだろう? 笹森さんはしてるの?」

「私は結構してるよ」

「なら、俺もしてる方がいいかな?」

「なら?」

 

 笹森さんが首を傾げた。でも、そう言うしかなかった。

 

「別に私のに合わせる必要はないよ? あんまりピンとこなかったら『分かんない』とかでもいいし」

「いや、ごめん。そうじゃないんだ」

 

 笹森さんの指摘はもっともだったけど、そうではなかった。

 おそらく自分の読書のスタイルに合う方が読みやすいとか、そういうことがあるんだろうけど、別に俺自身がどっち派かなんてどうでもよかった。そもそも俺は笹森さんの指摘通り、自分が感情移入をしているのかどうかすら分からない。

 

 ただ俺がまた本を読もうとするのなら、それは俺自身に合うかどうかよりも、

 

「多分、俺が笹森さんみたいに、楽しそうに読みたいだけなんだと思う」

 

 俺が笹森さんの口車に乗せられて本を読もうと思ったのは、つまりはそういうことでしかなかった。俺は今まで通り、自分の中にある欲求に従って動いていた。

 

 笹森さんは少し固まって何も口が開けていないようだった。

 磁石の同じ極同士を無理やりくっつけようとするみたいに、泳いでいる視線が俺に向かう瞬間に別の方向に逸れていた。

 

「え、えっと……」

「ん?」

「そ、それって、どう…………あー……、いや、私、そんなに楽しそう?」

「うん。すごく」

 

 それはわざわざ口にするまでもなかった。

 同じ本を読んだ人なら、きっと笹森さんの表情だけでどの場面か察することだってできそうだと思った。

 

「……明石君は変だと思わないの?」

「どうして? 楽しいなら別にいいんじゃないの?」

 

 少なくとも嫌そうに読んでいるよりはずっといい。ご飯を美味しく食べている人みたいなものだと思う。

 俺の返事がどれほどの意味を持っていたのかは分からないが、笹森さんは「そう、なんだ」と呟いた。

 

「俺は楽しそうに読んでる姿、好きだよ」

 

 笹森さんの中にある熱のすべてがそのページに向かっていることがよく分かるから、俺は結構好きだった。

 あの頃の俺が足の疲労を忘れて走り続けていたように、笹森さんは時間も周囲のことも忘れて目の前の文字を追い続けることしかできないのだと理解していた。

 

 ちょっと恥ずかしい言葉だったかもしれないが、それは間違いなく本当のことだった。

 

「そ、そうなんだ」

「うん。だから、できれば俺も笹森さんが自分で本を選ぶときみたいな判断基準の方がいいかな。笹森さんが感情移入するなら、俺も感情移入しやすい作品がいい」

 

 それが正しいのかは分からない。

 そもそも俺は純粋に本が読みたいわけではないのだと思う。それはどこか不誠実な気はしたが、俺にはそうする以外に自分にあった本を見つけることができなかった。

 

 でも、笹森さんはあまり嫌な顔を見せなかった。

 

「なるほどね……ちょっと待ってて」

 

 笹森さんは少し考える素振りを見せながらも、目的地が決まっているかのように移動し始めた。

 それはいつものような足音もしない忍者のような足取りではなく、答えの分かっている迷路のような進み方だった。

 

 いつもとは違う意思のあるような足取りに少しだけ戸惑ったが、その歩みはしばらくして止まった。

 目線が本棚のあちこちを走り始めて、目的のそれがどこにあるのかを探していた。

 

「えっと……あった」

 

 笹森さんが本棚から本を引き抜くのを、横からのぞき込む。

 

「たぶん、明石君にお勧めするなら、これが一番かなって思う」

「これ?」

 

 笹森さんはあるところで歩みを止めると、三冊の文庫本を俺の前に出してきた。サブタイトルを見る限り、どうやら全三巻の小説らしい。

 表紙にはどこか見慣れたトラックの写真があって、きっと陸上の話なんだと気付いた。

 

「サッカーをやめて陸上をすることになった男の子の話なんだ」

 

 この主人公が始めたものこそが俺のやめたものではあったが、確かにどこか似ているかもしれないと思った。それに、何よりもタイトルの表現は走っていた時の俺の気持ちを言葉にしてくれたもののようだった。

 

「私が明石君なら、これを読んでみるかなって思うけど、どうかな?」

 

 笹森さんがこちらを見る。

 

 興味があるのか、読みたいのかはやはりよく分からなかった。

 だけど、俺の中で上手く言葉にできていない気持ちがあることだけは確かだった。それは笹森さんに対する申し訳なさというか後ろめたさみたいなものでもあったし、この小説に対する共感みたいなものでもあった。

 

 俺は笹森さんの手に収まっていたうちの、一巻を手に取った。

 

「じゃあ、一巻を借りてみたいんだけど。……いいかな?」

「もちろん!」

 

 

◇ ◆ ◇

 

 

 あの日、俺は初めて本を借りた。

 一日に読めるのは十ページ程で、とっくに返却期限も来て延長までしたが未だに読み終わっていない。

 

 正直なところ、あの時の感情の正体も、どうして読もうと思ったのかも、今ではもう分かっていて。それは純粋な読書への興味ではなかった。

 だから、本当はもうこれを読み続ける必要はないのかもしれなかった。

 

「…………」

 

 だけど、俺はそれでもまだページをめくり続けていた。

 それはきっと、俺が走り出したように彼が走り出すまでのそれを、彼の中にある熱の届く先を見届けたいからだった。

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