ある新人トレーナーは、三女神に囚われた。 作:まやキチ
“選抜レース”の行程を終え、お昼が過ぎる頃。
本来なら、終わった時の慰労も兼ねて“お茶会”を予定していたが――キャンセルのメールを送る。ドタキャンになるが、今日はもうそんな気分じゃなかった。
――
レースの疲れからか――「そうしようとしていた」と言ってくれたのが救いだった。
「………」
わたくしは“夢”を頼りに、あるレース場を訪れた。
そこはトレセン学園の外れにある、設立当時からある古い場所。
所々、経年劣化している為、最低限使えるようには維持している程度の……人気もなく、静かな場所。
よく、トレーニングに使っていた……いえ、
わたくしとトレーナーさんが通うはずだった、そんな場所。
―ーレースの熱を冷ます為でしょう。
他にも何人かが静かに過ごしているので――邪魔にならないように、端の観客席に腰掛ける。
ターフを眺めていれば、出てくるのは“夢”の事。
あの素晴らしくて愛おしい、わたくしの運命を決めた特別な“三年間”。
――『ここならお嬢様然とした言葉を意識しなくても大丈夫だよ!さぁ、かっとばせー!ドナルド嬢!』
「……誰がハンバーガーチェーンのマスコットですの。……可愛くありませんし」
ここは“夢”が囁く、思い出の場所――激情を抑えるのには、一番丁度良かった。
あんな……あんな……!
わたくしがもっと早くに気づいていれば。
わたくしがもっと近くに居れば。
わたくしがもっと――貴方を、
あんな――泥棒ウマに付け込まれる事なんて無かったのに。
――――――
―――
―
――トレーナーの再起動は、結局お昼過ぎまでかかった。
何を言っても応答せず、床に倒れ込んで、死んだ魚のような目で縦横無尽に部屋を転がり始めた時はいったいどうしようかとも思ったが――丁度、お昼時になったので、引きずるようにカフェテリアに行って食事したら、案外ケロリと治った。
敬うべきは、B定食(ステーキもりもり)だ。
男の子は肉を食わせれば大人しくなるってママが言ってた。
やっとこさ会話が成立するようになったトレーナーは――私の走りを確認したいと言い出した。
やはり論より証拠。間近で見たいのだろう。
……トレーナーに私の激遅走りは正直見て欲しくないが――そんな事言っては本末転倒なので、頷いて。
さっそく、とばかりに必要な物を持ち出して、意気揚々と私のお気に入りのレース場に繰り出したん……だけど。
だけどもね。
「「「「「……………」」」」」
私たちは今――
「あの……トレーナー」
「うん」
「……率直に言っていいですか」
「うん」
「――こわいです」
「おれも」
あれー?おっかしいなー?
私がいつも使ってる、このレース場って、ちょっと古いから人気が無いはずなんだけどなー?居ても数人の名も無き頑張り屋さんしかいないのになぁー?
「いつも静かで、全然人がいないんですよー」「じゃあ、気にせず延び延びと走れるねー」なんて和気藹々だったんだけどなー?さっきまでなー?
いや、静かなんだよ?――誰一人として話してないからね?
人も居ないよ?――ターフの中にはな!
ただ私たちが来た時には、いやがったのだ。
なんだお前ら暇なのか。それも内外で名が上がる今年注目のエリィィィィィト共じゃねぇか。なにしてんだ、こんなとこいる暇があるならトレーナーんとこ行けよ行っていや行ってくださいお願いします!
「「「「「……………」」」」」
ひぅ。視線の圧やばぁ。
ていうか、この人ら――あの時に睨んできた連中じゃん……。
えー、エアグルーヴ先輩といい、いったい何なの……。
「と、とととトレーナーぁ……」
流石に無理だ。これは無理。
こんな場所で走るくらいなら、ハルウララと併走してた方がマシだ。
私が全速で頑張って走ってる時に「みんなはやいねー!すごいねー!」なんて、平気な顔で言ってくるのを、生暖かい眼差しに晒されながら聞く方が絶対っ、マシだ。
帰ろう。トレーナーを持てただけで今日はもう頑張ったよ……!
「いや、走るぞ?」
「えっ゛」
「まあ――違うとこはもう皆使ってて空きがないだろうし。普通のレースはこの何十倍もの輩に見られるからな。予習ってことで。やってれば帰るよきっと」
んんんん!!たしかに!
でも、でも……あのやべぇ面前で、私の……あんな、走りを……。
「
トレーナーは私を呼ぶ。
別に窘めてるでも、呆れてるでもない。ただ――私を呼んでくれた。
うぅ……!
そうだよね。せっかく私を選んでくれて、期待してくれて!
さっき、頑張ろうって思ったんだから……!!
「が、んばります」
……よし!やるぞ!
大丈夫、大丈夫よ!――笑われるのにはもう慣れてるからなガハハ!
……ハハハ。
「うん!頑張ろうな。大丈夫だよ。たぶんここ静かだからゆっくりしてるだけだろうしさ。もしそれでもアレなら――俺がうまぴょい伝説でも踊って注意引くから」
「ふふっ、そうならないようにがんばりまーす」
恐る恐る――ターフの中に入る。視線はさらに強くなった。
うぅ……!歴戦の猛者みたいな面しやがって……こちとらか弱い乙女だぞ!
でも、冗談を言って和ませてくれたトレーナーに背く訳には……!
あっ……。
そう言えば舞台に出る人って、確か観客を畑のカボチャだって思い込んで緊張を和らげたりするって聞いた。
私も、私も!
「「「「「……………」」」」」
う、うわぁーあのカボチャ、ティアラっぽいのつけてるーめずらしー。あれはヘッドギア?うわぁ、未来的だね!あとは向日葵と王冠と注連縄に薔薇にお面に羊にナリタにメジロにうおおおおおおお!
いや、思い込むにしても個性的過ぎて無理だこれ!
「うぅ……」
畜生ッ、足が震えて来やがった……!
こ、これはやはりトレーナーに撤退を――!
「ふふ~ん、ふ~んふ~ん」
くそっ!あっちはノリノリでストップウォッチとかセッティングしてやがる!アレ絶対、トレーナーっぽい事が出来て喜んでる顔だよ!
アレを曇らせるには私の根性が足りない!
「………」
前門の虎に、後門のイケメン……か。
このままでは埒が明かないので――意識して、深呼吸をした。
何度か繰り返す内に――なぜだか、妙に落ち着いてきた。
「――あ」
走る時――誰かに見られている感覚はいつもあった。
良いものじゃない。それは嘲笑と憐憫だ。
遅い私を嗤って、どんなに頑張っても変わらない私を気の毒に思う……そんな目だ。
いつもだ。
でも――今は違う。
まっさらで暖かい目が――私を見ているんだ。
それが、すごく心強い。
……あと、あの仕事が楽しい!と輝いてる目を裏切れないってのもちょっとある。
「………できます」
「よーし!じゃあ、中距離2000mで!全力じゃなくてもいい。とにかく、走り切る事を意識して!」
よし!
さっき学んだ必勝法、周りキョロキョロで少しでもマシなコンディションにするぞ!
「……ふんっ、ふんっ」
「………ん?」
「ふんっ、ふんっ、ふんっ」
「………」
「………」
「……もういい?」
「あっ、はーい。あざまる水産でーす」
――よーい、どんっ!と合図で、私は駆け出した。
「はっ……はっ……はっ……!!」
………くそっ!やっぱ実力がないと意味ないかキョロキョロは!
うーん。やっぱりトレーナーが付いただけで変わったりするかとも思ったけどだめかぁ。
走りながら思う――わたし、おっせぇ……。
いやね?真面目だよ?
速いって噂の走法を使ってるし、中距離での呼吸ペースとかそういうのも意識してやってるよ?
それでも、おそい。んー、トレーナーも残念が――――
「「「「「……………ッ」」」」」
おい誰だ――今、
観客席の方から聞こえたぞおい。
お前それアレだろ?「うわコイツマジおっせぇ!おっ、いかん……今笑ったら誰が笑ってるかわかっちゃうぅ……!まだだ……まだ耐えろ……ぷくく」とか思ってんだろ絶対。
上等だ――次、吹き出したヤツ覚えとけよ。
明日、目に物見せてやるからな。下駄箱の中に増えるワカメちゃんたんまり入れといてやるからなお前な。
精々、笑わないように腹筋を締めとくんだな!
「はっ……はっ……はっ……!!」
コーナーを曲がる。
チラッと横目を向ければ――トレーナーが真面目な顔で私を見つめていた。
あ……かおがいい……顎に指を添えてると大人な雰囲気が増して、特に……!
私の一挙手一挙動をちゃんと見てくれ――あっ、苦笑いで前見ろって指差された。
反省。ちょっと不真面目だった。
「はっ……はっ……――ふっ……!」
少しして、最終コーナー。
ラストスパートを掛けて――ゴールイン。
順当に変わらず、いつも通りの走りをする事が出来た。
いつも通り――特に感想もない。
“君の走りが確認したい”というトレーナーのオーダーを満たせたのだけが幸いの、遅い走りだ。
息を整える私にトレーナーが近づいてくる。
あらかじめ私が用意していたタオルとドリンクを持ってきてくれた。
「お疲れさま。ほい」
「あ、りがとうございます……ふぅー。それで、どうでしょう」
「んー。まあ――遅かった」
――内角深めストレートッッ!!
つい、グフっと呻きがこぼれる。
そっかぁ……なんのかんの優しそうなトレーナーから見てもそうかぁ……。ふふ、凹む。
「でも、ちゃんと光るとこはあった」
おっ……?
「途中……あー、前半かな?ちょっと足取りを強くしたとこがあったね。スパートをかけるには変なところだったけど――力強い踏み込みだった。適したとこでやれば良い“ペースアップ”に使える」
足取りを強く……?
あっ、もしかして増えるわかめちゃんの時?
怒りで無意識に踏み込んでたのかも。
「あと、コーナーを曲がった後、俺の方を見た。余所見はもちろんダメだけど――その間、ペースが乱れる事もなかったし、コース取りも安定してた。……ここが走り慣れたバ場ってのもあるんだろうけど、これを自在に使えるようにすればそれは君の武器になる。走りながら違うことを出来るって事だからね」
………。
まさかの余所見をめっちゃ拡大解釈してくれた。
……いや、でも確かにそうかも……?
「モブ子。今の君の実力は確かにダメダメのダメ子ちゃんでチョバリバのチョモランマかもしれない」
そこまでは思ってない。
「だけどね?――
がっしりと肩を掴まれる。無理くり合ったような視線。
トレーナーの目には、びっくりするくらい純粋な期待が寄せられていた。
「これは……あの、目標――行けるぞ」
えっ、えー……?
ほんとに?こんな、私が……?
「……すごい……すごいぞ――
トレーナーはブツブツと呟きながら、策を練っているようだったけど――半分も聞こえない。
すごい胸がドキドキする。
だって、だってこの人は――私のドンくさい無様な走りから、こんなにも可能性を見い出してくれて……認めてくれて……。
「………っ」
ふと、目頭が熱くなる。
生きてて良かったぁ……!これ帰ったら絶対に友達に自慢しよう……!
今日は記念日だ……!
私とトレーナーの記念日にしよう!
ふふっ、ふふふ!
あっ――そうだ。ついでに観客席にいる輩にも自慢しよう。
お前らのように才能に恵まれなかった底辺でも、良いトレーナーが付くんだぞってな!
ふーははは!見ろ上級ウマ民どもめっ!
――――。
あれ、誰もいねぇ。
あっ――もしやあまりの熱血ぶりにこうしちゃいられねぇってトレーニングに戻ったな?
くくく、今年のダークホースとして恐れ戦くがいいわ!
私……もう何も怖くない…!!
「――おっ、お待ちなさい!!」
ひぃ!?ごめんなさい!調子に乗りました……!?
ん……?いつのまに目の前に……って。
この人――観客席にいた、メジロカボチャだ。
「……ッ!……ッ!」
えーっと、メジロで紫っぽい髪の子はぁ……――マックイーン。
そう、
今年のエリート共の中でも――血統で約束された実力者。
勿論、バカみたいに鼻に付く。
けど、この人――お菓子食べるとすぐに体重変わっちゃうって聞いてから親近感沸いちゃってなぁ……。
トウカイテイオーに、減量中に目の前で菓子をそれは旨そうに食べるのを見せつけられる、ていう特大の煽りをされてて、本当に哀れに思った記憶がある。
アイツほんとクソガキだよな。そこだけは友達になれると思う。
そんな憎めない彼女は――めっちゃ憎しみの目で私を見てくる。
えっ?なにかした?
「……あ、あなっ……この、どろぼっ……!!」
もうなんか、言葉よりも先に怒りが先んじて何も発せられないって感じだ。
顔真っ赤に何か発しようと口をパクパクしてから――結んで。
ギンッッ!と鋭く睨みつけられた。
「わたくしは!絶対に――認めませんッ!!断じて!絶対に!許しはしませんから!」
心の底から吐き捨てるように叫ぶと――その視線は、トレーナーに向く。
「あっ、貴方も貴方です!まだ知り合って一日もしないような関係でありながらあのような距離感で掴んでまくし立てあろうことかあんな走りに可能性を見いだすなんてわたくしにはあんなことをしてく――――」
――あっ……。
あー、これはぁ……アレだ。
さっきのエアグルーヴと同じ臭いがするな?
チラッとトレーナーを見ると――めちゃくちゃ首振ってくる。
いやいや。いやいやいや。
絶対面識あるってこれ。幼少期とかになんか約束したでしょ。節操ねぇなこのトレーナー。
ほんと都会なボーイだ。そこだけは減点ポイント。
「絶対に……!」
メジロマックイーンは真っ赤な顔に涙を湛えながら――
「絶対に認めませんから!貴方様の浮気者―――!!!」
叫びながらものすごいスピードでレース場を飛び出して行った。
おお、アレが話題のマックイーンの“先行”走り。すっげぇ安定感だぁ。
にしても……。
「トレーナァー?」
「いっ、いや待って!ほんとにほんとに知らないんだけど!?」
「知らない人があんなに叫びますぅ?」
まったく……。
――待てよ?もしかしてあの時の睨みって……?
エアグルーヴもそうだし、マックイーンもそうで……まさか――
まさか――全員と面識があんの、このトレーナー!?
「ぷっ、プレイボーイ……!」
「なっ!心外ッ!心外で侵害ですよモブ子さん!こちとら女性経験も関係すらもなかったんですが!?」
「はい、うっそー!東京の男の子は皆、最初はそう言うってお母さんが言ってましたー!」
「偏見の固まりだなぁ君のお母さんは!?ちょっと問い質したい!」
「あっ、そうやって外堀を埋めていく手口ですねっ!?卑劣極まる……男ならまっすぐぶつかって来てください!」
「くそっ、これだから思春期のピンク脳はぁ……!」
――結果。
結論はまとまらず、不毛な水掛け論の繰り返しをしていたら――もう夕方になっていた。
なんかすごい無駄な時間を過ごした気がするけど、ちょっとトレーナーと仲良くなった気がする。
「だから、絶対に子供の時に結婚の約束とかしたんですってば」
「それは無いってばさ。モブ子、小説の読み過ぎー」
「でも、確信は?」
「……ないけど」
「なら、忘れてるだけでしたんですってー」
「もうこのやり取り十回くらい繰り返したよ」
連れ立って、校門まで歩いていく。
トレーナーはこれからまた地獄の一時間半を乗り越えていくので、今日はこれで解散だ。
「もー。女の子は約束に敏感なんですから、気をつけるんですよ?」
「はいはい。思い出せたらー―ちゃぁーんと謝りますよーだ」
「おっ、言いましたね。私のメモリーに録画しましたよ」
「へいへーい」
校門に着いた。
どっちからとも静かになる。騒がしさが無くなって、ちょっとドキドキする。
「モブ子」
「あっ……はい」
トレーナーは静かに手のひらを差し出した。
意図はすぐに分かって――私はそれを強く、握り締めた。
「――これから“三年間”、一緒に頑張って行こうな」
「はい!目標も、達成……できるといいな……?」
「ははは、弱気だなぁ」
笑い合って――手を離した。
「んじゃ、またな。明日から本格的にトレーニングするから、“寝不足”にはならないように!」
「はーい」
トレーナーはそう言って、校門を出て行く。
その背が見えなくなるまで見届けてから――私も踵を返した。
寮へと歩く道すがら。
――ふと、広場の“三女神像”に目が向く。
……そういえば、あの人――私を選んだのは、三女神のお導きとか言ってたな……。
………。
………。
「――こんな、素敵な出会いをありがとう。
―――――
――
―
――
どんな時もわたくしは、そうした感情を抱いた時は無かった。
今までも、あの“三年間”も。
この身を焦がすような激情は、決して。
「あの娘は、あの人の価値をわかってない……!」
あの人は間違いなく天才だ。
わたくし達、メジロ家の悲願を達成させてくれたのは勿論。目標になかったクラシック三冠・春シニア三冠・秋シニア三冠も成し遂げた――とんでもない人なのだ。
そんな人が、あんな、あんな――弱い、ウマ娘を担当するなんて!
わたくしが、一番ふさわしいというのにぃ……!
「うぅ……トレーナーさんのバカ……どうして、わたくしのことを覚えてなさらないの……」
自分でもバカなことを言っているとは思う。
全ての根拠は“夢”だ。突拍子もない――“三年間”。
言ってしまえば、妄想だ。
なのに――そう呼ぶにしては、
「はぁー……」
だが――もう遅いのだ。
あの人の頑固さは知っている。どんな目標を掲げているか知らないが――きっと成し遂げるだろう。その間、ずっと専任でつきっきりで。
この胸の痛みは――永遠に付きまとう。
「明日、隕石が落ちてこないでしょうか。――
そうすれば、後はきっと“一心同体”パワーでわたくしのことを思い出して、幸せハッピーエンドが……!
――コンッ、コンッ、コンッ。
ふと、ドアがノックされる。
トレセン学園内でメジロ家が用意した――サロンのドアが。
……誰だろう?
ライアンやパーマーには、今日は一人にしてほしいと伝えたはず。清掃員……にしては早すぎる時間帯だ。
「……どなたです。夜半であることはおわかりでして?」
『すまない。シンボリルドルフだ。火急の用があってね。時間は掛けないことを約束する』
……
……………。
まあ、このまま泥棒ウマの抹殺計画を練るよりかは不毛なことにはならないか。
「どうぞ」
「――失礼する」
そうして入ってきたのは、茶毛で白の前髪が特徴的な凛々しい女性。
――シンボリルドルフ。
“皇帝”の異名を持つ、今の段階では――
このトレセン学園での、絶対的な力の象徴。
……まっ?全盛期の七冠の時でも、よゆーで蹴散らせますけどね?あの人と一緒……い、うぅ……!あの泥棒ウマ……!
「お茶でもご用意しますか?」
「魅力的な提案だが、言った通り時間は掛けないよ」
早速だが、と。
強い視線がこちらに向く。
「君はまだトレーナーは居ないようだが――これから、見通しはあるかな」
思い出すのは、あの人の顔。
「……ありませんわ」
「ほう。この“中央”でも、メジロ家のご令嬢は満たせないか」
「ええ、ええ――
本当のことは言うつもりは欠片もない。
“夢”のことなど――他人から見れば、気狂いの類だろう。
「でも、いいのかい。このままでは
「ええ、別に」
ほんの今朝のわたくしなら違う答えを出しただろう。
でも、今のわたくしは――そんなのどうでもいい、ですわ。
トレーナーが居ないから『トゥインクル・シリーズ』に出られない?
ふん、あの人の下で走れないなら価値はない。
そもそも――
妥協して他のトレーナーを選ぶくらいなら、泥棒ウマ殺害計画でも練ってた方がまだ有益ですわ。
……家の力を使えば、完全犯罪というものが出来るかしら?あとでじいやに聞いてみよう。
「――そうか」
会長は、私の言葉に満足気に頷いた。
……?あら?てっきり、トレーナーを決めろと催促に来たとばかり。
「そんな君に朗報だ――今、私はトレーナー無しでの『トゥインクル・シリーズ』の特例出走について理事会に訴えていてね」
「概ね、認められた。条件はまあまあ厳しいが――そのぐらいは問題ない。あとは、まとまった数の署名が必要でね。もし、君が“ソレ”を望むなら、この書類を記入してほしい」
渡された書類には――まさしくその内容が記されていた。
公的判に、理事長の印がある。
「
そう言うだけ言うと――踵を返した。
言葉の通り、長居はしないのだろう。
「お待ちになって」
だが――疑問がある。
「……なにかな」
「申し出は助かりますわ。正直、渡りに船ですし」
「それはよかった。あっ、何なら今受け取るが――」
「――ですが」
なぜ、この人は――
「何故、貴女がこのような物を推進するので?だって、
「――言わないでくれ」
返されたのは食い気味の拒絶だった。
その言葉は、かすかに震えていた。
……なにか、トレーナーとトラブルにでもなったと考えるべきかしら?無敗でクラシック三冠を取れるくらいなのだから、相性は良いでしょうに。
まあ、特に個人的なことには興味はない。単なる疑問だったし。
「すみません。出過ぎたことを」
「……いや、いいんだ」
そう言うと、書類のことだけは考えてほしいとだけ言って出て行った。
「ふぅむ」
書類の記述を軽く流し読む。
条件については問題ない――考えるのは、先のこと。
これから、あの泥棒ウマは――『トゥインクル・シリーズ』に出るだろう。
仮にも、あの人が担当するのだ。
あの無様な走りも――化ける可能性がある。
「そういえば……貴方様とは一緒にいましたが――正面から戦ったことはありませんわねぇ……」
ふと――血が騒ぐ。
「ふふふ、
そうすれば、きっと貴方も思い出すはず。
わたくしを、この――メジロマックイーンを。
そうしたらまた、あの“三年間”の続きを、絶対に――――
「もし、勝てなくても。メジロパワーでなんとかしましょう。大丈夫、“名家は力、存分に振るうべし”ってあの人も言ってましたしね」