ある新人トレーナーは、三女神に囚われた。 作:まやキチ
理解すれば、簡単な事だった。
そしてだからこそ。
どうしようもなく、悍ましい事だった。
――――――――――
思い出す……というのは語弊があるような気もする。
だが、言うなれば確かに――
――――――――――
――――――――――
私が“彼”を見出したのは四月の初旬。
日が沈み始める、青と橙が混じる――
“選抜レース”が終了して、程なく。
「むふふ、むふふふ……!」
私は浮かれていた。
“理事長”としての日課である学内巡回をしながらも――周囲を見回るよりも、手に持つ扇で緩む口元を隠すのが精一杯だった。
それほどまでに嬉しい事が起きていた。
「劇的ッ!まさか――
そう。それはまさしく快挙と言わざるを得ない事態だった。
数値にしておよそ90%は越すだろう。
契約していないウマ娘もそれぞれの事情により断っただけで、契約には前向きだと聞いた。
それはつまり、在校するウマ娘全員がトレーナーを持つ事が出来た……あるいは出来る環境である、という事。
実にすばらしい事だった。
トレーナーに巡り会えないという事は、スタートラインにすら立てないのだ。
取り残され、鬱屈に才能を費やす生徒が居ない。
実に、実にすばらしい!
「順調ッ!これで私の夢も実現出来るやもしれん!」
私の夢――全てのウマ娘が、各々のレースで輝く事が出来る世界。
その第一歩としてまさしく順調の一言。
これで“新レース”を声高に宣言すれば――大盛り上がり間違いなしだろう。
「喜悦ッ!歓喜ッ!……ぬふふ!」
舐められぬよう、封印していた子供のような笑いもついつい漏らしてしまう。
さて、これから忙しくなろう。大変な毎日が舞い込んでくる。
だが、それは喜びに満ちた忙しさ……厭うことがあろうものか。
そう。
これからの未来――これからの“三年間”の展望に浸りながら歩いていた。
その時だ。
――誰か、咽び泣くような声が聞こえてきたのは。
「むむっ!――何奴ッ!」
辿れば、それは近くの草むらから聞こえてくる。
私は、迷い無く声の主へと向かった。
どんな事であれ、この学園で悲しむ事があれば――それは私の管轄。
理事長としての責任感に燃え、颯爽と飛び出した私……だったが。
「うぇ……ひぐっ、うぇえええん……!!」
――子供のように泣く成人男性に、流石に二の足を踏んだ。
うん、誰だってビビるだろうアレは。
大人としての尊厳は当の昔にターフの向こう側へと走り去っていたようで、もうアレだ。まさしくアレだ。
滂沱ッ!
「ああああああっ!んくっ、ひぐぅ……!!」
――“彼”の事は知っていた。
試験成績は上位。私との面接でも語り上手で、熱意に満ちた好青年。
これは良きトレーナーになる!!
――と。
私は確信していたのだが。
「わぁああ――げほっ、んごぼぉあ!…………ふぅ。………。………。えぇぇぇん!」
まさかこうなるとは。
あんまりにあんまりな泣きように、知らず私は顔を覆ってしまっていた。
ここまで泣きわめくとはいったい何があったのか。
「注目ッ!どうしたのだ、新人トレーナーよ!」
「あっ……り。……り゛し゛ち゛ょ゛お゛おおお……」
「わわっ!……ちゅ、注意ッ!淑女にみだりに抱きつこうとするでない!」
ゾンビの如く迫ってきた彼に、扇で額をペチペチと諫めながら話を聞く。
聞けば、単純。
大抵は先にトレーナーと契約していて、そうでなくとも話している内に「あっ……持ち帰って検討しますぅ」という何とも遠回りな世知辛いお断りを入れられたらしい。
そうして時間だけが過ぎ。
気がつけば空に浮かぶ、夕暮れの橙。
――これからを絶望し、泣いてしまっていたのだ、と。
「……うむぅ……。事実ッ。実績のない新人トレーナーは上を目指すウマ娘たちにとっては賭けに等しかったりもするが……まさか全員とはな……」
「ぐすっ……口説き文句だって用意したのに……!」
「口説き文句?」
「君と出会えたのは、“三女神”のお導きかな――って……ロマンあっていいですよね……?」
「ま、まぁ……そうともいえなくもないのではないか?」
「ですよねぇ……」
――これ以上ダメージを与える必要はない。
私は言葉を濁し、慰めを込めて肩を撫でた。
……それが刺さるのはマーベラスサンデーかマチカネフクキタル辺りではないか?まぁ、刺さらなかったからこうしているのだろうが。
「理事長……俺は、どうすれば……クビ?」
「否定ッ!流石にそれは無いが……」
私は扇を口元に寄せる。うーむ。
トレーナーとして担当を持てなかった者は――また一年後の“選抜レース”まで待つか、日々の生活の中でウマ娘たちと交流していって見つけるしかない。
その間。職員と共に事務作業や、用務員として働く事になるが――正直、彼の才覚をこのまま沈めているのは惜しい、と“理事長”である私が囁いていた。
涙でぐちゃぐちゃになった彼を見つめる。
少し頼りない青年であるが――
ここで会ったのも何かの縁だろう、と私は考えていた。
「………むむ」
「……。……?」
例えば――
チームを持つトレーナーや、担当をより緊密にサポートしたいエリートトレーナーが求める役職だ。
筆記成績が優秀である事を示せば、数多く誘われるだろう。そこで経験を積み、それを実績として――己の担当をスカウトする。
少なくない者が通る道だ。
「………」
「あ、あの……?」
――
多少やっかみがあるだろうが、中央から来たともなればそれが箔となり、担当も付くだろう。数年、経験を積ませた後に戻せば、中央で立派なトレーナーとして手腕を振るってくれるはず。
急だし突然過ぎるが――
優秀な通訳も用意出来る事だし、海外のノウハウを持つ新人を有するというのもまた……――
「………うむー」
「り、理事長……?あの、真顔で見られるのは、ちょっと怖いんですけど……」
「――難儀ッ!」
「なにが!?」
しかし。
――私はそこでふと、たづなの顔が頭に浮かんだ。
私の秘書として十二分に働いてくれる彼女。
とても助かるが――いかんせん仕事量が多過ぎていた。
私の直属の部下が彼女一人というのも多分にあるだろうが、それでもだ。
残業はせぬよう、誰かに仕事を渡すように。
そう何度か言い募ってはいるが、「私がやった方が早いですから」と就業時間に詰め込むだけ詰め込んでしまう。
確かに“わかっている”彼女がやれば仕事は早いだろうが――そうではないだろう。
どこかで――
しかもこれから忙しくなるのは確定している。
トレーナー業とは些かに違うが、ウマ娘に関わる事が多いし――そこから担当の話に行く事もあろう。
知らず、口角が緩んだ。
「ふふふ……!」
「こ、こわい……きっと穀潰しをどう“処理”しようか悩んでいるんだ……トレセンの地下労働施設みたいなとこで地下帝国とかつくら――」
「疑問ッ!クビでなければなんでもよいか?トレーナーでなくとも?」
「えっ、アッハイ!なんでもやります!」
「――ヨシッ!」
「……あっ、なんかしくった気がする……」
バサッ!と扇を広げる。
何がなんだがわからぬ顔をした彼に――私は満面の笑みを見せつけた。
「任命ッ!――理事長補佐、“庶務”!」
最初はなにいってるのこのひと……のような顔をして。
段々と言葉の意味を飲み込み始めたのか目が大きく丸まっていく。
その瞳には、もう涙は無かった。
「えっ、ええええええ!?」
こうして。
“彼”はトレーナーとしてではなく。
たづなの下――ひいては、私の下で働く事になったのだ。
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――――――――――
「挨拶ッ!おはようっ、たづな!」
「あら、理事長。おはようございます。今日もいい天気ですねぇ」
「同意ッ!各バ場も絶好の良バ場と聞いている!今日のレースが楽しみだ!」
「ふふ、そうですね」
“彼”が庶務として、私の下で働き出して一年が過ぎた。
諸々の雑務を要領良くこなしてくれる彼の存在は――私が思った以上に、たづなと……私の負担をも軽くしてくれた。
任せるところは任せ、やらねばならない事により集中する事が出来る環境によって、てんてこ舞いな忙しさは鳴りを潜めた。
仕事量自体、去年と変わりがないのに――こうしてのんびりと、共に生徒達と混じって学舎への道を歩く。
そんな優しげなゆとりが出るほどに。
「あっ、おはようございます!理事長!たづなさん!」
「うむっ!おはよう!今日も一日頑張るのだぞ!」
「怪我だけはしないように気をつけるんですよ」
「――はい!」
朝日に照らされる生徒たちは、今日も今日とて一段と輝いて見えた。
トレーナーの下、日夜トレーニングを重ねているからか――それとも“新レース”を走る事を夢見ていてくれているかはわからない。
だが、生徒達一人一人が各々の輝きを持って歩んでいるのがわかる。
まるで、夢のような光景だった。
学舎が間近に迫り、“三女神像”前の広場に着く。
「――おはよう!おはよう!」
――溌剌とした青年の声が辺りに響き渡る。それを耳にした私たちは顔を見合わせ、苦笑した。
また――彼が“ボランティア”をしているようだ。
見ると、Yシャツとスラックス――“庶務”の腕章を身に付けた彼が、通りがかる生徒達一人一人に朝の挨拶をしていた。
業務には無いのだが、いつからか“彼”はこうして挨拶運動をするようになっていた。
本来なら、業務に差し支える朝早くの活動は止めるべきだと思うが――
「あっ、庶務さん。っはよぉーす」
「おはよう、ナイスネイチャ!眠そうだね」
「そりゃ朝ですもん。寧ろ、ネイチャさん的になんでそんな元気なのー?って感じなんですけど」
「――そりゃあ毎日がマーベラスだからかな!」
「ちょい。そんな事言ってたら「マーベラース☆」ほら、本人出てきちゃったじゃん」
「マーベラス!」「マーベラス?」「マーベラス☆」「……っ!マーベラァース!!」
「あの……目の前で異次元の会話すんのやめてもらっていいです?」
「庶務さん!おはようございます!」
「おおっ!おはよう、スペシャルウィーク。今日も元気だな」
「ええ!今日もトレーニング頑張ります!」
「よきかなよきかな。あっ、そういえば君のお母様から荷物がまた届いてたぞ。中身はナマモノだったから、早めに取りにいきなさい」
「わかりました!」
「やぁ、モルモッ――庶務くん。今日もご苦労なことだねぇ」
「何も飲まないよアグネスタキオン」
「まぁまぁ。声を張って喉が乾いただろう?私の特製ドリンクはどうだい?トレーナーくんも大変気に入って――今、レース場を駆けずり回ってるところだよ」
「……後で見に行くかぁ。ていうか、あんまり苛めるなよな。だからあの人、頭がダートみたいになってるんだぞ」
「おいおい、冤罪はやめてくれ。アレは私が会う前からああだった」
――見ての通り、大変好評だった。
ああしてすれ違う生徒と話している光景は一種の恒例になってきていた。
アレが一年前、大半のウマ娘からスカウトを断られた新人だと誰が思うのだろうか。
そう思うほどの人気っぷりだった。
「庶務さぁーん!おっ、はよー!」
「おわっ!?こら、トウカイテイオー!あぶな――って、よじ登ろうとすんな!」
「にししっ!そーやってぼーっとしてるのがわるーい!テイオーさまに逆らっちゃだめだぞー!」
「ああくそっ、落ちてもしんないからな!」
「はーい!……にしし」
気が付けば、どこからか飛び出したトウカイテイオーが“彼”に飛びついていた。
少しもがくと――定位置となっている背中にしがみつく。たらんと垂れた尻尾はまるで彼から生えているように見えるくらいだ。
呆れたように笑う彼とご満悦な彼女の顔も近い。
…………。
「……ちょっと密着し過ぎではないか?」
「嫉妬ですか?理事長?」
「ちっ、ちがう!」
なっ、何を言うのかこの秘書は。
まるで意味がわからんぞ。私が言ったのはあくまで公然での男女の振る舞いとしてどうかというだけで理事長補佐としての自覚が足りないのではないかという話だそもそも彼は私に対して何故あんな風に笑ってくれないし構ってもくれ――――
アレは良くない。それは確かだ。
私は理事長として当然の注意をするべく彼に近づいていく。……誰かの呆れたため息など聞こえないったら聞こえない!!
――――――――――
――――――――――
「そういえば、どうしてです?」
「はい?」
「唐突ッ。どうした、たづな」
「いえ。単純に気になって……それで、どうしてです?」
「………」
「………」
「……あの、主語がナッシングなんですが」
「もう二年の付き合いですよ?無くてもわかるでしょう」
「いや、無理ですよ!?」
それは、理事長室での事。
“新レース”を一年後に控え、諸々の準備を整えていたある日。
三人でのんびりと事務作業をしていると――たづながいきなり無茶ぶりを始めた。
文字通り付き合いも長くなり、ある程度具合が分かってきたからか、時折こうして冗談を交わすくらいには仲が深まっていた。
「それで――どうしてです?」
「えぇ……なしてそこで押し通ろうとするんですか」
「ああ、函館ラーメン……いいですね。外れたら、今晩奢ってもらうって事にしましょうか」
「いや、ほんとになしてぇ!?」
とはいえだ。
たづなが、こう……甘えるような。幼げな絡みをするようになるとは思わなかった。コロコロ転がるような彼の反応に、悪戯な笑みを浮かべている。
それだけ心を許しているという事。二人の上司として喜ばしい事なのだろうが………ちょっと複雑。
むむむ、と真剣に悩み出す彼は見てて愉快だが――こそっと助け船を出す事にした。
「アレではないか?君とダイタクヘリオスがやった野外ステージでの……」
「あっ――なんでうまぴょい伝説を完コピで踊れるかって事っすか」
少し前。
どういう訳か、ダイタクヘリオスと彼が野外ステージで『皆テンションブチアゲライブ』なるものをやっていた時の事。
突如として、彼が余興として、うまぴょい伝説を踊り出したのだ。
これで例えば、ぎこちなさや恥じらいがあればウケた事だろう。
だが彼がやったのは――満面な笑みもキャピキャピ感も完備の、
その“ガチさ”にさしものダイタクヘリオスも引いていた。
アレを見てウケてたのはハルウララと――ゴールドシップくらいではないか?
「違います。あんなのに興味はありません」
「がーんっ!な、なんて事を言うんですか!?あの完成度に到達するまでにどれだけの鍛錬の日々を……!」
「知らないです。あの“ちゅう”のとこでアドリブを利かせた激寒ダンスの話はもうやめです」
「ひ、ひどい。流石の俺もアレは恥ずかしかったから変えただけなのに……!みんな、きゃぁぁぁ!って盛り上がってくれましたよ……?」
アレか。
“ちゅう”のとこを、フジキセキ寮長がやるような気取った感じにした奴。ウィンクもキマってた。
ちなみに彼の言う、きゃぁぁぁ!は黄色い声援だと思うのだが――真実は共感性羞恥である。
…………。
私はちょっとドキっとしたのだが………う、うむ。それは言わないでおこうかな。
「じゃあ、アレですか、俺が商店街に異様に顔が利く理由」
「違います。ハルウララさんと仲良しなだけでしょう」
「マーベラスサンデーと話が出来る理由?」
「お互いフィーリングでしょう」
」
「ぐっ……!俺が料理をするとどうあがいても炭になる理由!」
「そういう星の下で産まれただけ」
「ぐっ……ぐぬぬ……!ご、ゴールドシップと会う度にスーツを引き千切られる理由!」
「………それは確かに知りたいですね。どうしてです?」
「そんな事俺が知りたいですよお馬鹿ミドリ!このラーメン狂い!“太り気味”になっちゃえ!」
「――あっ?」
「ひぃ!」
……ゴールドシップか。
あの子もなぁ……前は注意していたのだが、「ああん?そもそもどの面下げてアタシに話しかけてんだって話なんだよ。ヘラヘラしやがって……なんかオラついて来たな……よし――」と高確率で引き千切りに行くからやめたんだよなぁ……。
特に彼との接点も無いはずなのにどうしてああなのか……。
まあ、いいんだけど――私好みのスーツに仕立てられるし。
その度に申し訳なさそうにしながらも嬉しそうにするから、貢ぐのがやめられん。
それにゴールドシップが“三女神像”にペンキをぶちまけた騒動と比べればなんでも―――
「はぁぁぁぁ。貴方にはガッカリです。こんな事もわからないとは……モテませんよそれでは」
「……こんなダル絡みをすんのが女性なら一生モテなくてい――いいててって!?」
「な・に・か・い・い・ま・し・た?」
「いいいいっててな――あのっ、ゆめ……じゃない!やよいさん!これ、パワハラ!パワハラです!」
むむっ。
気がつけば、彼が正座をしていて耳を引っ張られてるではないか。
……まあ、勢いで悪口でも言ったんだろうけど。彼も彼で、たづなに大抵気安いからな。仕方ない。
「――合法ッ!」
「ちくしょう訴えてやる!――やよいさんのお母様に!」
「ひっ、卑怯ッ!……たづな!」
「了解です――そんな気も起こさなくなるまでやります」
「ああああああ!」
許可の下、たづなは満足するまで彼の耳をこねくり回すと――ため息混じりに“正解”を告げた。
「はぁ、私が聞きたいのは――
おお、確かに。
それは私も気になるな。
彼女達の名前は大抵長い。その為、親交のある者同士は縮めて呼ぶ事が多い。
彼のキャラ的にそうだし、縮めて呼んだところで彼女達も拒否はしまい。
だが――彼は一貫してそう呼んでいる。
地味に私も気になっていた事柄だ。
耳を庇っていた彼が「ああ、それは」とつぶやく。
「ただ単に特別扱いしないことってのもありますよ?俺はトレーナーではなく――“庶務”ですし」
「おお、感心ですね」
「それに、そういうあだ名は――
うむ。
彼も彼なりにしっかりと考えていたんだな。まさしく、感心ッ。
謎も解けてすっきりしたところで、のそのそと――三人で事務作業に戻る。私も判子を死ぬほど押さねばな。
………。
………。
………。
「ちなみに」
「はい?」
「あだ名をつけるとしたらどういう風にするのです?」
「ああ……例えば?」
「背中ひっつき虫のトウカイテイオーさん」
「――イオちゃん」
「ナイスネイチャさんは?」
「――イスネさん」
「……ナリタタイシンさんとか」
「――リタたん」
「………」
「………」
「……独特ですねぇ」
「その方が絶対に忘れない感じがしていいでしょう?まっ、呼ぶことはないっすけど」
確かに独特だ。
現に私に対しても二人きりの時はよく分からない名前で………。
むっ……?
あだ名……?特別、贔屓……!?
!!
はわっ!
はわわわわわわわわわわわわわ
――――――――――
――――――――――
私の“彼”が庶務として私の下に来て三年目――“新レース”を今年に控えたある時。
各地で起きた大雨の影響で、新レース用に準備していた芝の多くが駄目になってしまったのだ。
駆けずり回るように各所に問い合わせても、期間までに芝の生育は間に合いそうにないと返ってくるだけ。
たづなや一部の理事会の面々は、今年は延期にするか、ダートのみでの開催するしかないという。
だがダメだ。それではダメなのだ!
三年前。“新レース”の開催を宣言した時の――生徒たちのあの輝くような目を。日に日に、期待と希望に満ちていったあの輝きを。裏切るような真似は決して許されない。
私は諦めきれず、自らが所有する農場で芝を生育し始めた。
居てもたってもいらずやった――無謀な事。
やらずともわかる。私一人で足掻き、幾らか形になったところで、そんなものはレース場の数%に満たない。
日夜努力し、睡眠を削り、命を削ろうとも。
私の目の前に広がるのは、小さな芝と――大きな絶望だけだった。
「…………」
その日。
私は満身創痍だった。疲れ切っていた。
このまま行けば、芝が足りず、レースが開催出来ない。
私は皆の失望に包まれるだろう。そんな未来は――現実になろうとしている。
業務もままならない。
私は気が付けば、学内を歩いていた。
すれ違う生徒たちはそんな私を痛ましそうに見つめてくる。
……ダメだとはわかっている。
庇護しなければならない彼女たちに心配をかけさせるなど“理事長”として言語道断だ。今すぐにでも、虚勢でも――いつもの姿を見せるべき。
だが、何故だがそういう事もしたくない。
「………」
ふと、私はどうして歩いてるのだろう?と疑問に思った。
心配されたい訳じゃない。歩きたい気持ちでもない。
今すぐにでもベッドに籠もって眠っていたいほどの疲労の中……どうして?
こうも――
「あっ……」
学内のある一画。
花壇が多くあるところで――私の“彼”の背中を見つけた。
それに途方もない安心感を覚える。私は吸い寄せられるように彼へと近づいていく。
私、がんばったよね?
親の七光りだとかなんとか言われながら必死になってがんばってがんばって……でも、もうどうしようも――――
「貴様何をやったか分かっているのか!?」
――急な怒鳴り声に我に返る。
身を窄めるように小さくなる……いやいや、なんで隠れてたのだ私は。……まるで母のような怒号だったから条件反射か?
しかし、改めて花壇の陰から覗き見れば。
彼を囲むように、怒り心頭のエアグルーヴに困り顔のシンボリルドルフ、我関せずのナリタブライアン、おろおろと彼にすがりつくトウカイテイオーがいた。
重要な、私の彼も――地べたに正座だ。
なっ、なんだ?
生徒会の面々(トウカイテイオーは違うが)が彼に何の……?
「だって……だって……!」
「ええい!駄々を捏ねるな!うっとおしい!」
「お、怒らないであげてエアグルーヴ!庶務さんだって必死で……!」
「何を部外者面をしているテイオー!貴様も共犯だって調べがついてるんだ!正座しろ!」
「ひぃ、ひぃいん!バレてたー!カイチョー助けてぇー!」
「う、うーん……出来れば助けてやりたいんだが……」
「……はぁ」
と、とりあえず。私の“彼”が不当に貶められている可能性もある。
彼はどんな時もウマ娘の事を第一に考えていた優しい人だ。そんな人がこう怒鳴られるのは間違っている!
私は力をフンッ!と入れ、抗議しようと立ち上が――
「よくも私の花壇にミントをぶちまけてくれたな貴様らぁ!!」
――る事はなく、座った。
……何をやっているのだ私の庶務は。
「いっ、いや!エアグルーヴの花壇にやるつもりは無かったんだ!」
「だが、現にそうなってるんだろうが!見ろ!この惨状を!」
エアグルーヴが示した先は、彼女が世話している花壇だ。
彼女は花の生育を趣味にしていてとても色鮮やかに咲かせてくれると学内で評判だ。
理事会も時折、その花をイベント事に使用したいと彼女に頼むほどだ。
そんな花壇は――
「……き、きれいじゃん!
等間隔に植えられた美しい花の隙間という隙間に、大量のミントが浸食していた。物によっては埋め尽くされて隠れているのもある。
トウカイテイオーのフォローも空しく、エアグルーヴの額に――もう一つ青筋が走った。
「くっ、くくくく……!」
「わっ、笑ってる……!笑ってるよ、庶務さん……!」「……し、知ってるかいトウカイテイオー」「な、なあに?」「笑みとは本来、威嚇だという事」「い、今知りたくなかった!」
「そこに直れ、このたわけどもがぁぁぁ!!!!」
エアグルーヴの怒号が突き刺さる。
半泣きの彼とトウカイテイオーの泣き声を聞きながら、ふと周りの花壇もミントが大量に生い茂っているのに気がついた。
他の区間は基本的に学園用……つまりは私たちの管轄なので一向に構わないが……どうしてここまで……?
「まぁまぁ、エアグルーヴ。彼らも反省しているんだ。今はそのくらいにしてあげよう」
説教の嵐が吹き荒れる中。
その隙間を狙って、シンボリルドルフが“差し”の一言をさらりと通した。さっ、さすがは“七冠ウマ娘”……!タイミングが絶妙だ!
私も半泣きの彼は可哀想で見てられなかったから助かる。
「ですが!」
「原因究明が第一だろう?それに、彼らだって君の花壇にやろうという意志は無かった。不慮の事故だろう?」
「うっ、うん……。きっと、ばらまいた種が、エアグルーヴの花壇に入り込んじゃって……」
「だ、そうだ。庶務くんもテイオーも花壇が元の姿になるまで尽力してくれるだろうし――私達、生徒会は“彼”に恩がある。君自身にもだ。……違うかな、エアグルーヴ」
「ぐっ、ぐぬぬ……」
恩?
私の彼が何かやったのだろうか?……まあ、日々尽力してくれてるし、その際に出来たものだろう。
「ほ、ほんとにごめん……エアグルーヴ。君のきれいな花たちを汚すつもりは本当に無かったんだ。あの時は……その、我を忘れてて……ああ、別に言い訳したい訳じゃなくて!あの、えっと……だから、俺を怒るのはいいけど――トウカイテイオー
「……庶務さん……」
私の彼の言葉は謝意が真摯に伝わってくるほど――強いもの。
半泣きの瞳に見上げられたエアグルーヴは、静かに目を閉じた。
「………。………。……まあ、確かに貴様には世話になった事も多いし、今回の件も予想を外れなければ同情に値する。元の美しさに戻るまで手伝おうという条件を守るのであればゆる………ゆる……――待て。さっき貴様、テイオー“たち”と言わなかったか」
「あっ……」「ちょっ、ちょっと庶務さん!なんで言っちゃうのさ!?」
「おい」
「はっ、はい!」
「――吐け」
「えっと……マヤノトップガンとニシノフラワーとダイタクヘリオス、ナイスネイチャとツインターボにマチカネタンホイザと、ライスシャワーにミホノブルボンとぉ……技術協力者としてアグネスタキオンと。あとは――」
「………はぁぁぁぁぁぁ」
出てくる出てくるミントバラマキの共犯者に怒る気力も失ったのか、深々とため息を吐くエアグルーヴに同情しかない。
私の彼の過失であるし、後でいくらか球根でも見繕う事にしようか。
シンボリルドルフはそんな彼女の肩を叩いて労ると、彼の方を向く。
「それで、どうしてこんな事を?」
改めてそう問いかける。
それは私も知りたい。私の彼はたまに突拍子もない事をやって周囲を驚かせる事はあったが――こういう実害が出るようなことは決してしなかった。確かにその一線は守っていたのだ。
なのに、どうして?
「……新レース用の芝が足りないってのは知ってる?」
囁くようなその言葉に、私は心臓を握られたような圧迫感を覚える。
「……ああ、知っているとも。我々もその件については萎靡沈滞の心地だ」
「………なんて?」
「哀れに思っているとのことだ、このたわけ。それがどうしてこの暴挙に繋がる?」
「ゆめみちゃんがね。頑張ってるんだ」
そりゃあそうだろう――アレが、私のあだ名だ。どこにも私の面影が無いから分かるまい。ていうか、二人だけの秘密にするって約束したのに……!
シンボリルドルフだけは、すぐに納得したように頷いた。
「たづなさんですら諦めるのも視野に入れてる中さ。一人で、たった一人で……芝を作っているんだ。一から」
「……理事長が。特に最近は疲労困憊だと思っていたが」
「理事長の事だったのか……流石、会長」「……どっから“夢見”なんて出てきたんだ?」「ぶーぶー……ボクもあだ名で呼ばれたいぃー……」
「あの背中を見てたらさ……居ても立っても居られなくて……!」
ぎゅう……と膝を握る、私の彼の背はかすかに震えていた。
見られていたのも驚きだったし――ああも感情を震わせてくれた事にも驚いた。
……嬉しさのようなものが溢れてくる。見ていてくれたんだ。
………。
――ん?
「だからそれがどうしてミントテロに通じる?」
「芝の生育が間に合わないなら他のなにかで代用できないかなって調べてたら、ビワハヤヒデから『発育スピードを考えるならミントが良い』って教わって……」
「……なにやってるんだ姉貴は……」
ナリタブライアンが頭を抱える。
暴挙の片棒を家族が担っていたのがショックだったのだろう。
そんな彼女に気づかず、私の彼は静かに周りを見渡した。
実に、決意に満ちた凛々しい表情で――
「新レースなんだから――
「「「「思わない」」」」
満場一致だった。
色々やって貰った私も含めて――満場一致だった。
私の彼は、いつもなんだかんだ同意してくれるトウカイテイオーですら「それはない」と首を振った事に狼狽したように立ち上がる。
「いや、いいじゃん別に!芝もダートもあるんだから――
「良い訳ないだろう!?」
「ああー!なんだこらミント差別かこらぁ!ミント2000m走ってみてから言えやこらぁ!」
「ミント2000m……」「呼び名からして違和感の塊だよ……」
錯乱する私の彼。困惑するウマ娘たち。
私としてもこうなる前に彼に相談していれば。
一人で抱え込まず協力していれば、彼がここまで思い詰める事は無かったのに……!
空気を一新するように、シンボリルドルフは咳払いをした。
「……まあ、理事長を思う気持ちはわかるが、それは流石に暴挙としか――」
「やってみんとわかんないでしょうが!」
「――ぶっ……!」
急に――シンボリルドルフが吹き出した。そのまま口を抑えてわなわなと震え始める。
えっ、なに?えっ、なんで笑い出したのあの子……?
しかしどうやら困惑しているのは私だけのようで――周りはすぐにうんざりしたような表情を浮かべた。
「ためしてみんと、やってみんとわかんないよね?シンボリルドルフ。ためして……みんと、やって……ミント」
「ぷっ、あははは!わかった!……わかったから、やめっ……!」
……成る程、ダジャレか。ゆっくり言われてやっとわかった。
どうやらシンボリルドルフはそういうのに耐性が無いらしい。なんだか意外だ。
イケる……!と私の彼の顔がしたりと笑っていた。このまま押し通すつもりのようだ。
……君も大概、たづなと似ているよな。
「おい、テイオー。そのたわけの口を抑えてろ。話が進まん」
「はーい。ほーら、庶務さん。お口チャックの時間だよー」
「――むぐぐぐ!」
トウカイテイオーは、ちゃっちゃと私の彼に覆い被さって口を塞いだ。
手際の良さから見て、ああいうのは日常茶飯事のようだった。
………。
ほんと思うんだが――近過ぎやしないか。これは理事長注意の必要があるぞ。
「……ふぅ。ありがとう、テイオー。やはり庶務くんはダジャレの才能があるな。いつか共に語り合いたいと心から思うよ」
「……心底やめて欲しいんですが」
「――ともかくだ」
仕切り直すようにシンボリルドルフは、私の彼と視線を合わせた。
「庶務くん。君の気持ちは私も分かるよ。もしエアグルーヴやブライアンが苦難に立ってしまったら、この私も平静ではいられないと思う」
「会長……」「……ふん」「えー、カイチョー、ボクはー?」
「ふふ、勿論君もさテイオー。だがな、庶務くん。厳しい事を言うようだが――
「むぐっ!」
一瞬、冷たいとも感じたその言葉。
だがそうではないとすぐにわかった。
彼女の表情は――とても優しげだったから。
「君は理事長のひたむきな姿に心を揺さぶられた。だから何とかしたかったのだろうが、そうじゃない。君は彼女の補佐だ。なら、彼女の“杖”として――支え、共に頑張るべきだったんじゃないか?」
「むっ!……むぐ、むぐぐ」
「無論、このままでは駄目かもしれない。しかしだからこそ、話し合うべく、彼女の側にあるべきだ。……違うかい?」
彼女の言葉に――私の彼は目を見開いた。
もう大丈夫そうだとトウカイテイオーが離れる。
「そうだ……俺はおたわけだ……ゆめみちゃんの為と思って――結局、やった事はゆめみちゃんの努力を否定する事じゃないか……!」
………。
そうじゃない。君も――たづなだって、理事会だってそうだ。
きっと皆も、苦渋の決断だったのだ。考えて考えて考えて――それでも駄目ならと、たとえ憎まれ役になろうとも、彼女達は私に代替案を提示したのだ。
私がやった事なんて、それをただ感情的に拒絶しただけ。
「俺は“庶務”だ。彼女をサポートするのが仕事!なら、最後まで彼女の意志のまま、支えてあげるべきだったんだ!」
ああ、でも。ああして。
私の彼が奮起した……あの姿を見れた。それだけで――今までの無為に思えた足掻きが報われたような。
そんな気がした。
「ミントぶちまけてる場合じゃねぇ!今すぐ、ゆめみちゃんの手伝いに行かなきゃ……!!」
「ああ、勿論私達も手伝おう。新レースの開催は――今や、我々生徒にとっても悲願なんだ」
「シンボリルドルフ……!」
彼女の言葉に、私の胸が熱くなる。
ウマ娘の為と頑張ってきた事に確かに意味があったとわかって。
「……しかし、会長。このまま我々が向かったところで焼け石に水でしょう。もっと人手を増やすべきかと」
「うむ。そうだな。有志を募ろう。商店街や生徒たちに書類を――」
「いや、一分一秒が惜しい。そんな暇はないよ」
バッサリとそれを否定した私の彼は凛々しく立ち上がる。その背にはトウカイテイオーがしがみついていた。ちゃっかり娘め……。
「じゃあ、どうするのだ貴様」
「――任せて」
そうして――校舎の方に体を向けて、すぅ……と息を吸った。
……?
なにをす――――
「ウイニングチケットォォォオオ!!」
きぃぃぃん!
と、一瞬耳鳴りが走るような大声が響き渡る。
呼んだ名はその大声がピタリと似合う元気娘、ウイニングチケットだ。
確かに在校生の全員と友達な彼女が呼びかければ生徒たちはすぐに集まるだろう。
……しかし、ここは校舎からそれなりに外れた場所だ。ウマ娘の耳がいいからって流石に――
「なああああああにぃいいいいいい!!」
いや、届くんかい。
「今すぐ皆を校舎裏に連れてきてぇぇえええ!!」
「わかったぁああああ!!タァイシィイイイイイイン!!!」
ついでとばかりに誘爆したナリタタイシンが哀れだ……。
しかし、これなら確かに……!!
「ヨシッ!これで一先ずは解決だな!他の人手は心当たりがある!任せろ!」
それだけ言うと私の彼は一目散にと駆け出した。
……急な大声を直に浴びて目を回しているトウカイテイオーをブラ下げて。
「……ふふ、どうやら発破をかけ過ぎたみたいだね」
「……我に返った事は嬉しい限りですが、やはり突拍子がないのは頂けません」
「それが庶務くんの魅力さ」
「……否定は、致しませんが」
耳を抑えながら苦笑を浮かべたシンボリルドルフとエアグルーヴは歩き出す。
だが、同じく耳を抑えているナリタブライアンはどういう訳か動かない。
「………」
「ん?おい、ブライアン。貴様も来い」
「ああ、少し待て」
そう返した彼女は――こちらの方を向いて……?
「(よかったな)」
パクパクと声を出さずに喋る彼女の口元はニヤニヤとからかっていた。
そしてそのまま彼女達の後を追っていった。
………。
~~~~~!!き、気づかれていたのか!
も、もしやシンボリルドルフたちも!?いや、そんな訳……!
……まあ、いいか。
――よかったのは事実だ。
「……よしっ」
私はすくりと立ち上がる。
こうしていられない。皆が立ち上がってくれるのであればしょぼくれている場合ではないのだ。
間髪入れずに私も彼の後を追いかける。
瑞々しいミントの香りが、いつのまにか先ほどまでの憂鬱感を吹き飛ばしていた。
その後、滞りなくウイニングチケットによって集められた生徒たちと、彼とハルウララが呼んだ商店街の人々。
さらには職員たちの家族や、どういう訳かメジロ家の面々まで出張って来て……芝は――瞬く間に規定の量に達した。
よかったですね!と嬉しそうに笑う、私の彼。
三年の間に実ってきた想いが、形になったのはその頃の話だ。
――――――――――
――――――――――
新レースは先の苦難が幻だったかのように――華々しく開催された。
レース場はどこもかしこも大盛況。テレビの話題も、視聴率でさえほぼ独占と言っていいほどだった。
繰り広げられるのは――切磋琢磨し合ったウマ娘たちのぶつかり合い。
共に命を燃やし尽くすような熱意と清廉さ。
見ているだけで呑み込まれるような――美しさ。
感動があった。涙があった。奇跡があった。
――誰もが勝者を礼賛し、誰もが敗者を労った。
私の夢が、綺羅星のように光り輝いて――目の前に広がっていた。
ああ……。
ああ……。
なのにどうして。
その光景を共に喜んだはずの君を、
――――――――――
………
……
…
――夢見がひっじょーに悪かった。
そうとしか表現できない。私の気分は最悪だ。
何の嫌がらせだ。
あの素晴らしく輝かしい夢をまた見るなど――どうしようもない現実がより際立って、気が滅入ってしまうではないか。
多くのウマ娘がトレーナーと契約した?
――寧ろ、トレーナーを拒否した者だらけなのだが?
それに――“彼”が私の側に居ないじゃないか。
その時点で、どうしようもないではないか。
早朝。
朝露が垂れる静かな時間――私は誰もいない“三女神像”前の広場に立っていた。
「……この夢は、いったいどうして」
ウマ娘たちに対して起こる不可思議な現象は、もっぱらこの“三女神”の御力と言われている。
つまり――
「………」
考えたところで答えが出る訳はない。
“三女神像”はそっぽを向いていて――
「……はぁ」
やめだやめ。このままでは本当に気が滅入る。
適当にコーヒーでもシバきながら書類と向き合うしかないのだ。夢のおかげでやった事のある書類が多いから捌く事に大した苦労はない。
そこだけは、感謝だ。
「……っよぉ!……」
「……ばっ……!」
そこでふと。
近くのレース場からどこかのトレーナーとウマ娘のかけ声が耳に入った。
こんな早くから朝練とは気合いが入っていて何よりだ。
……ふぅむ。
ここは、ひたむきに頑張っている者達に目を向けて気分転換でもするか……。
「よぉし!いい感じだぞモブ子!じゃあ、もう一本!」
「うぅ……!意外とスパルタぁ……!」
いや、それがまさに“彼”だとは思わなかったけど。
担当にしたというモブリトルとトレーニングをしていた。その顔は、実に生き生きとしている。
トレーナーとして働いている事が嬉しいと言わんばかりだ。あの輝きは見た事がない。
……私は、彼の道を途絶えさせてしまったのだろうか。
やっているトレーニングには見覚えがあった。
――“ショットガンタッチ”。
勢い良く投げたボールが地面に届く前に走ってキャッチするというものだ。それも自分で投げ、自分で取る。
瞬発力を鍛える、良い“スピード”のトレーニングになるだろう。……ちょっと突拍子もないが、それが彼らしくて。
なんだか、泣けてくる。
「――むっ?あれ、理事長」
ぼぉ……と見ていると彼に気づかれた。
ただ単に、当たり前にそう呼んでいるのに――どこか空虚に感じてしまう自分が気持ち悪かった。
彼はもう、“ゆめみちゃん”とも呼んでくれない。
記憶の中ではついぞ――由来を語ってはくれなかった、あの愛おしい名前を。
モブリトルも私に気づいたのだろう。慌てて頭を下げてくる。
私は、努めて、笑顔を浮かべた。
「感心ッ!こんな朝早くからトレーニングとは精が出るな!」
「あはは……恐縮です」
「……早朝なら誰も見てないぞ!ってうまぴょい伝説を踊らそうとする人ですけどね」
「モブ子……しぃぃ!」
担当してまだ半月程度だと言うのに――とても仲が良いようだった。
先のトレーニング風景もそうだったし。
まさしく――
「………これもまた、“運命”か」
今の現状。
悲しさしか待っていないように思える未来を打開出来るのは――
「奇遇ッ!君とはぜひ話しておきたかったのだ!」
無論、“秋川やよい”という私も。
「俺……ああいや、私と?」
「うむっ!というのもだな――その目、その輝き!その面構えからして、君は他の者と違うと感じていた!」
「……おっ、おお……」
「――流石ッ!私の見込んだ男だ!」
「……すっごい誉められる……まだ何もしてないのに……」
いいや。するさ。
君は必ず素晴らしい、輝かしい事をやってのける男だ。
「確信ッ!トレーナーとして――ウマ娘の夢を支える立派な杖となる者よ!」
「はっ、はい……!」
「是非、君に“新レース”の成功に協力してほしい!」
「「新レース?」」
むむっ。
そういえばまだ学園内に通知してなかったな。彼も彼女も知らないのは当然だろう。
私はなんだが――安堵した。
“彼”がいるなら大丈夫だと。
たとえ私の側を離れたとしても――彼は彼で何も変わりはしないのだ。
必ず、
そういう確信が――私にはあった。
「ふっふっふ!聞いて驚くがいい!今から三年後、私たちは新たなレースを作る予定なのだ!それは、全適正・全距離に対応した大規模レース――」
ああ、だから。
どうか貴方に“夢見”させてほしい。
この鬱屈感を吹き飛ばすような――輝かしい道筋を、見せて欲しい。
バサッ!と扇を広げる。
何がなんだがわからぬ顔をした彼に――私は満面の笑みを見せつけた。
「開催ッ!――URAファイナルズ!」
ぽかん、と口を開ける彼らの背、地平線からが日が登り始める。
その日を浴びながら、私は確かに――目覚めたのだ。
それに。
あの“三年間”の中で彼の好みは完璧に把握しているし、理事長として緊密にサポートすれば――すぐに仲が深まるだろう。
贔屓と言わば言うがいい――確かにその通りだしなっ!
なあに。
この“三年間”くらいは彼女に譲ってやろう。
その次の未来は――どうなるかわからないのだからな!
――――――――――
さぁ、もっと。さぁ、もっと。さぁ、もっと。
そこは、崩れ落ちた本の草原。
淀んだ物語の雲、蕩けた文字に染まる空。
――“彼女達”は恍惚に溺れる。
不意に覗いたあの輝き。
絶えないように。潰えないように――忘れないように。
さぁ、もっと。さぁ、もっと。さぁ、もっと。
祝福を貴方に。
与え、重ね、包み込む。
……それが、確かに祝福であったのは――。
さて……いつのことだったか。
――――――――――