ある新人トレーナーは、三女神に囚われた。 作:まやキチ
これは私の座右の銘に等しい。
持論だが――。
生物である私たちは、一様にその“限りの有る時間”に囚われており――その中でどうするか、どうなるかは各々の裁量に委ねられる、と考えている。
生かすも生かさぬも潰すも磨くも腐らせるも自由なのだ。
その自由の中で、私が重要視するのは――どう、成るかだ。
私には目標がある。
それは――どこぞより授かった“
誰よりも早く、速く、疾く。
ウマ娘という種族の限界を。誰もが到達し得ない果て、臨界点を超えたい、と。
走るという行為に特別な意味を抱くウマ娘にとってはある種普遍的な願いかもしれない。特筆する必要もない誰もが浮かぶ空想の類と感じるやも。
しかしそれでも――私にとって、それは途方もないほど大切な“夢”だった。
だからこそ。
私はそれを果たすべく、日々、研鑽と研究を重ねていた。
――“時間は有限”なのだから。
それなりに遊べるほどの余りはあるが、立ち止まれるほど有り余っている訳ではない。
時間が無限にあれば話は別だが――
――故に。
もう、こんな“夢”に囚われたくない。
というのは、私の紛れもない本音でもある。
「………」
目の前には小鍋が二つ。
これまた二つの小さいコンロの上、火に掛けられている。
その中は、様々な素材を煮込んだ液体に満ちている。それぞれ、紫と青の色。
コポコポと茹だった泡が弾ける度、粗悪な香水を雑多に混ぜ合わせたような甘ったるい匂いが広がっていく。
私は適度にかき混ぜながら、具合を確かめる。
――“夢”の通りであれば。
ほどよく粘り気があり、彼の頬程度であればいい。……証明しようもないのは止めてほしいんだが。
「ふむ……まぁ、こんなものか。トレーナーくん、どうか――してるね、まったく……」
確認して貰おうと振り向き――
まったくもって頭が痛かった
“夢”は私にとって有益なものを多数与えてくれたが――それよりも深く、重いモノも押し付けてきていた。
私という存在が、揺らいでしまうほどに。
「あと、は。冷ますだけか。トレーナーくん………じゃない。……はぁ、私がやるのか」
任せよう、と当然のように下がった足をひっぱたく。
コンロの火を止める。あと常温になるまで待てば、準備は完了だ。
「………ふぅ、疲れるな。トレーナーくん、紅茶ぁ―ー……」
一息入れようと振り向いた先には、埃が被ったティーセットが冷たく鎮座している。
「……もういい」
叩きつけるように椅子に腰掛ける。
やることもなく、煮沸しておいたフラスコを眺めた。
空洞なソレは、ぐにゃりと研究室を写している。
棚に清廉と並んだ文献。実験器具は、綺麗にメモリを宙に浮かせていて。
きっちり管理している薬材の数々は――まさしく“夢”のような色合いをしていた。
「……君のせいだよ、トレーナーくん。……なぁ、聞いている、の……かい……」
誰もいない。
――フラスコには、誰も写っていない。
私は、机に突っ伏した。
「……まったく。度し難いな、私は」
そう。本当に、まったくもって、度し難い。
度し難く――だからこそ、今すぐにでも、どうにかしないといけなかった。
全ての原因は“夢”だ。
突如として私の脳内を蹂躙した、美しい“三年間”の夢。
この狭すぎる研究室と広すぎた願望を持っていた私に訪れる、はずだった――蕩けるほど甘い蜜月。トレーナーである“彼”との日々。
鮮烈なまで見せつけられたソレに――私は、
情けない話だ。
“夢”があまりにも私好みで限りないぐらい理想的なせいで、私は今、この瞬間、この“現実”を認識出来なくなってきている。
映画に影響されてヒーローに興じる子供よりも数歩抜きん出た間抜けさだ。
「……んぅ、頭が痛い……」
今の状況は深刻だ。
“夢”と“現実”がひどく曖昧で、ふとすれば境界が狂って――
大抵はすぐに我に返る。
だが、特筆して最悪なのが、夢も現実も私は研究をしているものだから、特に違和感も無く二つが混じり合い……ああなる。
ふとした時に――“
「……っく」
起こる度に、私はありもしないはずの喪失感と駄々でしかない苛立ちに悶えるしかない。
不平をぶつける相手は側にいてくれない。私以外の女に忙しいのだ。
……。
……ていうかだ。
「……“夢”の私は、どれだけ彼の事を気に入っていたんだ……!!」
私はそれを痛感しっぱなしだった。
いや、気に入っていたなんていう虚飾はよそうか――依存していた。
なんだアレは?
一言二言話す度に“彼”を呼ぶのは本当にどうにかしているぞ。出会った当初はともかく、最後の方は大体の意志決定に彼の意見を求めてるじゃないか!どこまでお気に入りなんだ!?
君も君だぞ!
私がいつも研究室にいるからといって、「じゃあ一緒にいる方が色々効率がいいなー」と研究室の一角で業務を済ませないでくれないか!?
だからああなるんだぞ!
つまりは、一日の大半一緒にいるってことだろう?親密になるに決まってるだろう!?依存するに決まってるだろう!?!
しかもなんだ?
君は、とても従順な男で?
研究を好意的に理解し、少しでも補助できるようにと知識をつけ、どんな時でも円滑に実験が行えるよう、関係各所に根回しと挨拶回りするという至れり尽くせり?
さらにはマッサージやお茶汲み、食事だって作ってきてくれ、果ては家事すらも?
さらには一般的な美醜で捉えれば、悪くないと来ている!
つまりはだ。ああ、つまりだ。
“彼”は――
………。
………す。
ーー好きになるに決まってるじゃないか!ふざけるな!
「……うぅ……とれぇなぁくぅん……」
自分にこんなヘタれた声が出るのも驚きだ。
あまりの現実との乖離に気色悪さすら感じるが――納得しかない。
それはああなる。誰だってああなる。堅物の塊のエアグルーヴとか、どんな時でも綺麗な“体”を崩さないフジキセキくんとかでもぜぇったいにああなる。
出会って一週間で彼に依存し始めた私を賭けてもいい。
しかもそれだけではない。
私が探求していた――果てへの道のりを、彼は見させてくれた。
あのまま進んでいれば……私は、“アグネスタキオン”にふさわしい存在になっていたと確信している。
「………うぅ」
と、思ったところで――全ては寝物語。
幻想や妄想と嘲ってもいい。
あの日、あの“選抜レース”の日――
“彼”は、私を選ばなかった。明け方まで経っても姿を見せず、意気消沈した私の目の前で――誰とも知らないウマ娘と笑いあっていた。
なぁ、トレーナーくん。あれから私は一歩もこの研究室から離れられないんだ。腫れた目元が一向に治らないんだ。君が氷で冷やしてくれないからだよ。わかったら早く私の元においでよ。なんであんなウマ娘――――
「―――っっ!!」
私は自分の頬を叩き、思考を中断させる。何度も叩いていれば澱んでいた思考がはっきりしてきた。
「ダメだな。黙ってると思考がズレていく。トレーナーくん。なにか話を――ああもう!!」
反射的に叫んだ。
もう八方ふさがりだった。意識に逃げ場が無く、疲労だけが苛んでいく。
ともかく。ともかく!ともかくだ!!
このままでは生活もままならない。何しても辛いだけで正直しんどくてたまらないし、現実問題、誰かと話す最中ですらこうなりそうで肝が冷える。
なんとかせねば、と私は考え――打開策として思いついたのが、またしても“夢”の産物。
目の前にある二つの液体。
私の現状を打破し得る、まごうことなき救世主だ。
「……ふふふ、コレで苦しみながらもコレで救われるとはね。なんとも皮肉じゃあないか。なぁ、トレ――……誰か、ガムテープを持ってきてくれないか……この口を塞いでくれ……」
「――なにをしているんですか」
ふと――入り込んで来た、ぶっきらぼうな低い声。
聞き覚えのある、私の友人の声だった。
フラスコを覗き見る。
写っているのは――扉の前に立つ、真っ暗な夜とそれに浮かぶ月のような瞳を持つ彼女。
「……やぁ、カフェじゃないか」
――
私の友人で、実験にも快く参加……してくれないし、お茶は二回に三回は断られるし、話す時は大抵仏頂面のままだが――心の友。
だから、今は会いたくなかったんだが。
「……どうしたんだい?君が私を訪ねるなんて珍しい」
「………」
「……カフェ?」
声をかけるが反応はない。
フラスコに写る彼女も石像のように微動だにしない。
……どうしたのだろうか?
カフェが塩対応なのはいつものことだが、無視はよほどの事が無ければしないんだが……。
「……
彼女にしては呆然とした声が聞こえてきた。
聞き慣れないその声色には、困惑がありありと描かれている。ふらふらと月が部屋を見回すように揺れていた。
……ふぅン?
「見ての通り、研究さ」
なにをしているかと言われても――こうとしか言いようがない。
常と変わらぬ研究室。
そこに私がいる意味などそれしかないだろう。
そりゃあいつもとは違う試みだし、今作っているのはとんでもない悪臭だけれども。
「……そう、ですか」
「そうとも。ああ、立ち話も何だね。紅茶を淹れようか。トレ――……ト、ト、トレーを!用意するとしようか」
「……いえ、結構です」
カフェは部屋に足を踏み入れてきた。
「そんなに没頭するなんて、何を作っているんですか?」
「ああ、これかい?――
「……ほんとに、何を作ってるんですか」
「変な“悪夢”が続いてねぇ」
「………」
そう。
これは、“夢”の私が――寝ぼけて彼に対してとんでもなく恥ずかしい醜態を晒してしまった事を忘れさせる為の作った代物だ。
とはいえ、焦りながらと急ぎながらという、研究にとって相性最悪のコンディションが災いし、その記憶どころか一ヶ月分の記憶が消し飛んでしまって、我を忘れて泣きじゃくって謝るという――結局、とんでもなく恥ずかしい醜態を晒す事になったという、曰く付きでもある。
しかし、これが今の私には必要だった。
失敗は成功の母とはよく言ったものだ。びっくりするほど笑えんが。
カフェはじっとりと私を見つめていると――少しして首を振る。
「……?どうしたんだい」
「いえ。よくはわかりませんが、それ飲んだら休んだ方がいいですよ」
「あ、ああ。そうするよ」
彼女はそう言って机に何かを置くと――踵を返した。
……ふぅン?
何かとは袋だった。見れば、学園近くにあるコーヒーショップのロゴがある。
中にはサンドイッチとコーヒーが入っていた。
……か、カフェが私に……?
あの徹頭徹尾私をスルーするカフェが?私に?差し入れ?
……そういえば、さっきからちょっとやさしい気もするし……。どっ、どうしたんだいったい?
「………あの」
カフェの突然の優しさに困惑していると、件の彼女に声を掛けられた。
覗き見れば彼女の姿は、ドアに手を掛けた辺りで止まっている。
「おや。他になにか用でもあるのかい?ああ、この差し入れはありがたく頂くよ。流石親友だね」
「………。………」
「んぅ?カフェ?」
「――その薬、あとで私にも作ってくれませんか?飲みたいです」
カフェが言った事を、私は一瞬理解出来なかった。
理解出来たとて、冗談とも思ったが――彼女がそういう冗談を好んでないのも知っている。
だが、私の答えは決まっていた。
「すまないね。これはちょっとばかし劇薬が過ぎる。誰かに勧められるものじゃないんだよ」
まぁ、そんなものを彼に飲ませた私が言えることでもないかもしれんが。
「……そうですか」
「なにか忘れたいことでもあるのかい?」
「忘れたくはないんです」
「……?
「はい」
「……??わからないな」
「そうですね。私にもわからないです」
「???」
要領の得ないふわりとした会話をして、カフェはするりと去っていった。
んー、なんだか釈然としないな。
「まぁ、いいか」
私は差し入れを側に置いて、改めてテーブルに向き合う。
今の私は、彼の食事以外味を感じないという幻覚から来る味覚障害が出てるからあまり要らない。
これは次の私に下げ渡すとしよう。
フラスコを手に取る。
とはいえ、ここまでくれば工程は単純。
常温になった二つの液体をフラスコにそそぎ入れるだけ。すると化学反応を起こして、どろりとした液体になる。
これで完成。
怖気が走るような色合いの薬。
――私の“夢”を終わらせてくれる薬が出来上がった。
「………」
あとはこれを飲むだけ。それで全て終わる。
口を開く毎にかきむしりたいほど沸き上がる喪失感も、身体全体の水分を奪い尽くすような涙も。
全部が全部。
「……っ」
“夢”で有用な部分は全て抽出してノートに書き込んである。
事の顛末として、都合良く濁した手紙を――後の私へと遺した。賢明な私なら、知らない方がいい事だと察してくれるだろう。
ついでに小腹を満たす軽食まで追加されたと来た。
全て万全だ。
不測の事態でも益は決して逃さない。隙の無い立ち回りだろう。
――
何の実りもない分かり切ったものなど捨てて、次の研究に移るべきだ。
それが――――
――『
“夢”が声をあげた。
「………っ」
――『こぅら、ネスタちゃぁーん?さっき休むっつったでしょうが。はい、器具没収です。ごー、仮眠室、なう!……あー?紅茶ぁ?……ったく。しょうがな――あっ、お客様。肩揉みと膝枕のオプションは六時間ほど研究を行わないというのが条け――あっこら駄々こねないの!やめなさい、五歳児でもやらないよそんなすごいやつ!』
「……ぐ、ぅ……このっ……!どうしようもない、甘えた私めっ……!」
――『んー、ネスタちゃん。効率は分かるけどさ。トマトとチキンとその他諸々スムージーはない。食事じゃないよ。餌でもないよ。表現する言葉すらないよ。えっ?ーーなんだったら俺が料理?』
「わからないのか!?無駄なんだ!彼の一途さはこの無様な私が証明していることだろう!?」
――『ネスタちゃんの夢?そりゃあ実現できるよ。君がいっぱい頑張ってるのは俺が知ってるし、真摯に取り組んでるのだって“三女神様”だってわかってる。だから、大丈夫――
「彼の一番は私じゃない!あの日、あの場所でそれがもう確定しているんだ!私はもう終わっているんだよ!!」
――『ネスタちゃーん。レース準備で――なにその駄々っ子ポーズ。んあー?温泉旅行?……そういや福引きで当たってたっけ……?いやでもアレ確かペアの一部屋でしょ?流石にちょ――あー!わかった!わかったから!URA優勝すれば一緒に行ってあげるから!だからやめなさいって二歳児でもそんな激しいことしませんよ!?』
「こんなもの抱えてたって……苦しいだけだろう……!!」
それを表すなら、抵抗だった。
――
今の私があるように、“夢”の私のようになものがあるに違いない。
がなるように乱立するソレに、視界が何重にもブレて吐き気と頭痛がこみ上げてきた。
「……トレーナーくん……!トレーナーくん……たすけて……!」
零れた弱音は、誰にも届かず消えていく。
延々と襲ってくる痛みと苦しみにうずくまるしかなかった。
――コンッ、コンッ、コンッ。
ふと、ドアがノックされた。
重い頭を起こすと――ドアの向こうに誰かの気配がある。
『あのーごめん。だれかいますかー』
眩む脳内が拾ったのは、くぐもった男の声。きっと用務員とかトレーナーだろう。
……なんだ?
また、ノックの音が響く。
居留守でもしようかと思ったが、開けられても面倒だ。……適当に追い払おうと、血の味がする口を開いた。
「んぐっ……なん、だい?」
『ああ、よかった。いやあの……こっからカフェテリアに行く道を……その、教えてもらいたいんです。はい』
「……道?」
『迷っちゃって』
……
どういう思考回路してればそれで迷うんだ。
脳に認知障害でもあるのか?
私のトレーナーくんもたまに方向感覚が狂ってたが、それはもう痴呆の域だろう。
まぁ……なんでもいいか。
答えを窮する必要もないので――さっさと道を教えた。
『おお、わかった。ありがとね、これでまたモブ子の呆れ顔を見ずに済むよ』
「そうかい。なら、とっとと行くことだね」
『おう。あっ――お礼しなきゃね』
「……別に、いらないよ」
そんなもの渡されても邪魔だし。
しかし、男はそんなものお構いなしに――コトリ、とドアの前に何かを置いたようだった。
『まぁ、お礼というか……それにカマケたお願いなんだけど』
「……なんだい?」
『実は、俺が担当してる子がいるんだけど……あっ!モブ子って言うんだけどね?ほんと良い子で、へこたれない努力家でね?昨日なんか筋肉痛なのを隠して無理矢理やるもんだから――』
「そんな下らない話はどうでもいい。早くどこかに行ってくれないか」
『あー……ごめんね。じゃあ手短に。それでね。最近、食事も見直そうってなって――お弁当、作ってるんだ』
そういえば“彼”もよく作って、きて……くれて?
『でも、初めての試みで上手く行ってるか良く分かんなくてさぁ。誰かに味見して欲しかったんだ。これも縁ってことでお願いしていいかな。あっ、気持ち悪かったらそのまま捨てていいからね』
眩む脳内が起きあがる。
くぐもった男の――いや、“彼”の声。聞き間違えるはずがない!
『……なんかあったかは知んないけどさ。ご飯でも食べて少し落ち着けば解決策は見えてくるよ。んじゃ、道案内。ありがとね』
まって。
「待ってくれ――!」
沸き上がる衝動に任せ、勢い良く立ち上がる。
そのせいでめまいに眩んで、転ぶそうになるのを慌てて机に手を突いた。
それがフラスコを持つ手で反動で割れて薬が手元を濡らしたが――そんな事はどうでもよかった。
「トレーナーくん……!!」
ふらつく足を引っかけながらドアに駆け寄ったがもう誰もおらず。
見覚えのある風呂敷に包まれたお弁当だけがそこにあった。
――『ネスカフェちゃんたち!お弁当の時間だよ!今日は自信作!』
ふと、“
トレーナーとの二人三脚。
常に感じていたうきうきわくわくも――数ヶ月が過ぎれば、少しは落ち着いて。
私とジャラちゃん含めた底辺ズの“うちのトレーナーの方がすごいんだぞマウント”のネタもテンプレ化すれば、自ずと客観的にトレーナーのことを見れるようになっていった。
イケメンで、とても熱意がある人で、イケメンで、殆どの場合私を優先してくれる、イケメンで。
他には、トレーニング方法が奇抜で突拍子もない事ばかりだけど――私が今までやってきたものはお遊戯だったのでは?と思うくらい筋肉痛地獄から抜け出せないほど、トレーナーとして優秀とか。
話上手もさることながら聞き上手で、打てば響く会話にストレスはなく、方針の食い違いや不和が起きそうにもないとか。
たまに、私の気分を害したのではないかと極端に下手に出るとことか、ぞくぞ――んんっ!
愛嬌に思えて、余計魅力的に感じてしまう。
そんな超優良物件。
私の生涯分の運とかたぶん寿命も二十年くらい使ったと言っても過言ではない、最高のトレーナー。
だけど。
ちょっと悪いとこもある。
どこからともなく現れてくる“幼い頃に結婚の約束をした系”のウマ共も然る事ながら――
――
特に理由はないが、今日は紅茶の気分だった。
「すんませんおばさん。紅茶二つ」
「はーい。確かぁ……片方はすっごく熱くていいんだっけ?」
「あっ、はい。あの人は遅れて来ますから」
「……私も長年ここでお茶出してるけど、あそこまで地理を把握出来ないトレーナーさんって見たことないわぁ」
「でしょうね」
「あっ、紅茶はテーブルに運んであげるから早く座っちゃいなさいな。つらいでしょう?」
えっ、やった。
筋肉痛がひどすぎてリアルミホノブルボン歩行してた甲斐があっ……ったた!
時刻はお昼時。
裏切り者ジャラちゃん(あと半年は根に持とうと思う)と別れた私は、一人、カフェテリアの隅っこにある喫茶スペースでトレーナーを待っていた。
最近のルーティンだ。
この時間は皆メシをかっ食らっている為、人はまばら。
なのでゆっくりとくつろげる。筋肉痛のせいで、バキバキの実の全身バキバキウマ娘になっている私には、この待つ時間も意外と丁度よかった。
「……くぅ、治ったとこがまた痛い……なんであんなトレーニングがここまで効くの……?」
軽くマッサージしながらこの数ヶ月やってきたトレーニングを反芻する。
瓦割りもそうだが、ショットガンタッチ。果ては犬掻き。タイヤ引き(はたらくくるまver)。
やってることはめちゃくちゃなのに――
走りの速度はメキメキ……とは決して言えないが、少しずつ上がっていってるし――足以外にも身体全体にうっすらと筋肉がノるようになって、ちょっと鏡の前に立つのが楽しくなった。
成長を、実感できていた。
この実感があるからこそ、筋肉痛もさほど苦じゃない。モチベーションの維持の重要性がよくわかった数ヶ月だった。
「はい、お待たせ。……こっちの方が熱いからね」
「あざまるです」
おばさんが持ってきてくれた紅茶を受け取る。
シンプルなカップに淹れられたストレートティー。
私は善し悪しは分からないが、鼻を突き抜ける独特の風味は好きだった。
「……んー、さぁって。今日はどんぐらいで来るかなぁトレーナー」
最初こそ、来ない不安に怯えた事もあったが――今は慣れた。
本人が遅刻したくて遅刻している訳ではないのは知っている。体質のせいであれば……ちょっとやべぇ迷い方するけど。
ゆっくり紅茶でもシバいて待ってよう。
「………」
ふと。
ぼぉ……と、していると。
頭に浮かんでしまうのは――
正直言って、あんまり良くない。
どういう訳か、日に日に。どこか暗く重くなっているように感じていた。
そう分かってしまうほどには。
私は――イラつく才能の塊どもが跋扈する、あの一歩進むごとに唾吐きたくなるような学園生活を、それなりに気に入ってたらしい。
クラスメイトのキングヘイローは未だに教室に顔を見せないし。
ウンスも表面上は元に戻ったが、笑顔が今まで以上に辛気くさくてイライラするし、そのせいかスペシャルウィークたちも元気がない。
オペラオーパイセンサマのゲリラライブもないし、ダイタクヘリオスが大学デビュー失敗した陽キャみたいに塞ぎ込んでるし、アグネスタキオン博士もよからぬ実験を延々とやってるらしく異臭騒ぎであの辺出入り禁止になった。
タイシンも部屋から出てこないから一緒に通販も見れない。
とにもかくにも。
いろんなとこで暗い顔しか見ないのだ。
前はどいつもこいつも、人生バラ色~!みたいなムカつく面してやがったのにだ。これじゃあトレーナー自慢で見返してやることがロクに出来やしない。張り合いがねぇ。
さらにはなんだ?
生徒会長が“特例出走”――トレーナー無しでのトゥインクル・シリーズの出場権を作ったと来た。
……正直、今はトレーナーと一緒にいるのでそのことについてはどうでもいいが――もし居なかったら、底辺ズとデモでもやってただろう。
――そんな抜け道を用意するなら、
まぁ、私含めた底辺ズはトレーナーにありつけたので、ほーん、まっええんちゃう?程度で済むだろうが、一部で『ずるい』のなんの文句出るだろう。
もう……所々の空気が悪いこと悪いこと。
トレーナーとのあらゆることが上手く行ってるから――それが、よりいっそう目立っていた。
「………」
……なんとかしたい、なんて口が裂けても言えないけど。
別に連中とは友達でもなんでもないし、一番の友達のジャラちゃんは裏切り者だったし。
でも、まぁ……なに?
――
「……私だけ嬉しいとか、空気読めてないみたいじゃんか……」
つぶやいた言葉を飲み込むように、紅茶を一口飲む。
――びっくりするぐらい渋く感じた。
「砂糖……うげっ、空だ」
テーブル備え付けの砂糖壷に手を伸ばせば、空っぽ。
隣のテーブルとか、おばさんに頼めば一発だろうが――いい感じに座っちゃったせいで欠片も動きたくないのが本音だった。筋肉痛いたいし。
いいや、我慢しよ。
「……トレーナー、はやく来ないかな」
変に暗いこと考えちゃったせいか、ひどくもの悲しい。
こんな事なら、バケツかぶったまま廊下にぶっ倒れてたメイショウドトウでも連れてくんだった。……なにしてたんだろ、アイツ。
「……まぁ。まぁまぁ!実に寂しいティータイムですわねぇ、モブリトルさん?」
のぼー、としていた私の視界に突如として割り込んできたのは――
私は――顔を背けて渋い茶を啜った。
「………」
「あっ、あの……?モブリトルさん?」
「………」
「むっ、無視は卑怯ですわ!挨拶くらいきちんと返してくださいませ!」
「えー、煽ってきたのそっちでしょ」
「そうですけどっ!こういう場合、皮肉には皮肉で返すのが伝統でしょう!」
「どこの伝統よ。メジロライアンの愛読書?それともドーベルお嬢様の黒歴史ノート?」
「――っ!決闘ですわっ!メジロ家への侮辱を感じました!手袋を拾いなさい!」
「投げてから言え」
仕方なしに顔を向ければ、ぷんすこ怒るウマ娘。
彼女は、いつかのメジロカボチャ――メジロマックイーンだ。
どういう訳かこのお嬢様はあれ以降、私のことを目の敵にしているらしく、顔を合わせる度に突っかかってきていた。
まぁ、あれだけトレーナーとの関係を認めないと叫んでいたしな。なんかあるだろうとは思ってはいた。
でもなぁ、この子――
「んんっ。いいですわ。そんな事より、ほら――
気を取り直すように咳払いしたメジロマックイーンが、にんまりした顔で差し出したのは――スティックシュガーだった。
………なんかなぁ。
「あんがと」
とりあえず助かったのでありがたく受け取って、紅茶にぶちこんだ。
渋みがだいぶ収まって飲みやすい。
……こうなるとなんかお茶請けが欲しくなってきたな。
出来れば……クッキー、とか。
「まぁ!気丈ですわね。屈辱にいつまで耐えられるか見物ですわ」
「………んー」
「なっ、なんですの」
でも、出来ればカロリーを控えめにぃ……そうだ。
おからで出来たクッキーとかいいかも。低カロリーで甘さ控えめだし、お茶にピッタリ合う。
……そうだな。
「……いや、すっげぇこわいなーって思ってさ」
「っ!そうでしょうそうでしょう!わたくしが行ってきた数々の妨害にそろそろ精神が参ってきましたわね?ふふ、やめてほしいと思うのであれば、トレーナー契約を――」
「――うん、
「……えっ?」
「それもおからで作ったクッキーみたいに最悪。ほんと気が参るわーさいてー。もしこんな状態で本物が目の前にあったら命乞いしそー」
「………まぁ、そうなんですの」
私の言葉を聞いたメジロマックイーンは、気づかれないように……と思っているんだろう面で、チラチラと購買へと視線を向け始めた。
「……つかぬ事をお聞きしますが。あなた、トレーナーさんが来るまでここにいますわよね」
「いるね」
「――私用が出来たのでちょっと失礼しますわ」
「ごゆっくらー」
メジロマックイーンはダッシュで――購買に向かっていった。
後ろ姿を眺めていれば、脇目も振らずにおからクッキーの袋を握りしめ、列に並びだす。ふりふりと揺れる尻尾は随分とご機嫌だ。
嫌がるものを見つけられましたわ!しめしめですわ!と、背中に書いてあった。
………。
「チョロ過ぎんか、あのお嬢様」
しかも、嫌がらせも詰めがデロ甘だし。
私は最初、メジロ家の権力で妨害でもしてくんのかなぁとか思っていたのだ。
校舎裏に連れてかれるとか、教師を裏で操るとか、カッターキャーとか。
でも、やってくることと言えば、菓子と称して砂糖を手渡し、彼女曰く皮肉で突っかかってくるだけだった。びっくりするほど実害が無い。
……ああいや。
確か一回、私を待ち伏せて足を引っかけようしてきた事があったな。
でもその時――すごい辛そうな顔で葛藤してたけど。
どうやら、トレセン学園の生徒相手に足への攻撃は流石に可哀想なのではと思ったらしい。つうか普通に声に出してた。
そのせいでタイミングが遅れて、私が通り過ぎた後に、足を引っかけようとするという――どう反応すればわからない行為されたのだ。
その後明らかにほっとした顔で、覚えてなさい!と言い捨てた彼女は――後日、メジログループの高級クッキー缶を差し出してきた。
足をかけるのは道理に反しましたわ、としよしよと謝りの言葉も添えて。
……うん。
この子、ほんと
どうすればあんな嫌がらせ適正:Fのウマ娘に育つんだろう。
現に今も、誰も引っかからないような古典的な戯れ言にまんまとだまされているし。
……さて。
「……アイツの分の紅茶も貰ってくるか」
貰ってばかりじゃ悪いし。
メニューで一番高いロイヤルミルクティーにしといてあげよう。お嬢様にゃあ安物かもしれないけど。
よっこいしょ、と痛む身体で立ち上がって、おばさんに注文を頼む。ちこっと聞いてたのか苦笑いだった。
またテーブルに運んでくれるらしいので、ひょこひょこと戻ってると――込み合っている購買から、見慣れたピンク色のちっこいのが出てくるのが見えた。
「……
「あっ、リトルちゃん!」
私のぼそっとした呟きを拾ったらしく、いつものポカポカ笑顔で近寄ってくる。
手にはビニール袋を持っていて、見慣れたメーカーのスポーツドリンクとかゼリーが透けて見えていた。
「……なにそれ、あんたにしてはローカロリー過ぎない?」
「えっ?あっ……これはね!キングちゃんのお昼なの」
「キングヘイローの?」
……そういえば、この子。キングヘイローのルームメイトだったか。
つまりお見舞いって事か。
「あいつは元気?」
「んー。ずっと寝てるからわかんないの」
「――
「うん、ずぅーと。おそなえ物は減ってるからときどきは起きてるみたいだからね、いつでも食べられるように置いてるの!」
「ふーん……あと、お供えはやめような。あいつ死んでることになるから」
「あっ、そっか。ご、ごめんねキングちゃん……」
しょぼしょぼと落ち込んだハルウララ。
そこで、ピンク色の髪に枝毛を見つけた。良く見れば、尻尾も少し痛んでいるし、制服もどこかくしゃくしゃでぎこちない。
……そういえばキングヘイローのやつ、時々そういう世話してるって言ってたな。
アイツが出来ないから……。
………。
「およ?頭になにか付いてる?」
「……マリモみたいな埃ついてるから取ってるだけ。気にしないで」
「そうなの?ありがとう!……まりもってなぁに?」
「ハヤヒデ姐さんみたいなやつ」
「えっ!私の頭に羊さん乗っかってるの!?」
いや、羊て。どっちかって言うなら、アルパカかアルビノのムックじゃないかな。
「キングちゃん……今日も笑ってるかな」
「あいつが?」
「うん!すっごくニコニコしてる時があるの。良い夢見てるみたい」
「へぇ、良い夢ねぇ」
「私も良く見るんだ!見るとすっごく元気になるの!今日もがんばるぞー!って。……
「はは、あるある」
んー……。
まぁ、手櫛じゃあこのぐらいが限界か。
あとで夜に浴場でこいつ捕まえよう。化粧品はジャラちゃんの使お。
「ほい、取れたよ」
「ありがとー!じゃあ、キングちゃんのとこ行くねっ!」
「おう。……あっ、アイツ今どこにいんの?そっちの部屋?」
「ううん!――“
「うい、転ばないようにね」
ハルウララはたったかとカフェテリアから出て行った。……ぐしゃんぐしゃん揺れるビニール袋の中身は、着く頃には残骸になってそう。
……にしたって“保健室”か。
寝てるだけって言ってたけど、あそこにいるならまあまあ悪いのかね?いや、悪いなら実家帰ってるか?んでも、アイツ実家と折り合い悪ぃって言ってたし……。
……
友達、ってわけじゃあないけど。クラスメイトのよしみってやつ?
「さぁ!モブリトルさん!他意はありませんがこちらを差し上げますわ!ええ!他意はっ!ありませんがっ!」
ふと、横からドヤ声が掛けられる。購買から帰ってきたらしい。
チラリと見てみれば、得意げな顔をしたメジロマックイーンが――ある物を差し出してきた。
――綺麗な皿に盛られた、
……なんでおからクッキーだけじゃないの。なんで良さげな他のも買っちゃうの。
これアレだよね?並んでる最中に「……これだけじゃ可哀想ですわ」とか「彩りがありませんわね……」とか考えたでしょ絶対。
趣旨を意識しようよ。初志貫徹しようよ。なんで嫌がらせなのにアフターケアしようとするの。いや、これじゃあビフォーケアだわ。
やる前にケアしてるから嫌がらせでもなんでもないじゃんこれ……。
「……はぁぁ」
「ふふ、そう恐怖を押し殺さなくて結構ですわよ?とことん怯え――」
「ありがと、一つ貰うわ」
「えっ?どうぞ……あっ、モブリトルさん!いけません、それは貴女の嫌いなーー!」
「んー!……っぱ、トレセンのは美味いわ。他のとこだとモサモサパサパサで食えたもんじゃないのが多いからなー」
「……は?」
「ミルクティーここ置いとくわよー!」
「あっ、サンキュおばさん!」
「……は?」
「ほら、なにぼさっとしてんの。適当につまもうよ」
「………」
「おっ、バタークッキーもあんじゃーん。これが一番美味しいんだよねー。流石お嬢、お目が高い」
「……た……」
「ん?」
「――謀りましたわね!?」
「なんて、んぐっ、卑怯で、んぐっ、下劣な方で、んぐっ、しょう!人を騙し、んぐっ、陥れ、んぐっ、ようなんて……んくっんくっーーぷふぁ!信じられませんわ!!」
「信じらんねぇのはそのお嬢らしからぬ豪快な食い方ね。一瞬、枝豆とビールに見えたんだけど」
「こんな方が、あの人の担当だなんて……だなんて!道理に反します!世界の理に反しますわっ!たとえ三女神様が許そうともこのわたくしが許しませんっ!……おばさま!ミルクティーおかわりですわっ!」
「はーい、ミルクティー一丁まいどー」
「居酒屋かな?」
『小咄:クッキーこわい』に激怒したメジロマックイーンは、一通り怒鳴ったかと思うと、一緒の席で茶をしばき始めていた。
悪態の大嵐は、時間が経つ毎にクッキーと語彙力を見る見る内に減らしていく。
トレーナーを待っている間のBGMと考えれば、気にならない。そもそも怒り方が独特過ぎてイラつきもしないけど。
ふんだらかんだら、喚くお嬢様を眺める。
……なんか、思ってたキャラと違うよなぁ、この子。
そりゃあクソガキテイオーに煽り散らされてた時はこんなんだったけど、それ以外は如何にもな意識高い上流階級みたいな感じで、死ぬほど鼻に付いたのに。
「ほい、おかわりね。熱いから気をつけてね」
「感謝致しますわ!……それで聞い――……あちっ!」
おかわりのミルクティーで勢い良く、舌を火傷したヤケドマックイーン。
「……うぅ、いふぁいでふわ……」
……ほんと愉快な人種だったんだな。
見方って大切。ついでにこれで才能がなければ笑顔で握手してたんだけどなぁ……。
「さぁ!トレーナーさん!ここがカフェテリアですよっ!学級委員長たるもの!道案内はお手の物です!」
――元気溌剌な声が辺りに響き渡った。
犬みたいに舌をへっへとしているメジロマックイーンから目を外す。
見れば、七三ヘアに光るデコの、やかましい学級委員長(広義的概念)の
「……うん、ありがとう。サクラバクシンオー……」
ていうか――私のトレーナーだった。
ハリウッド版ピカチュウみてぇなシワシワ顔を晒しているあの人は、やっぱり迷子になっていたらしい。
「なんの!と、言いますか……私の事は桜子、と呼んで頂けると嬉しいのですが……」
「……ごめんね、俺担当の子しかあだ名で呼んじゃいけない天与呪縛にかかってるの……」
「そうだったんですか!」
んな訳あるかい。適当こき過ぎでしょ。
「では、トレーナーさんの担当にしてください!それで解決ですねっ!バクシン的です!」
「……ごめんね、宗教上の理由で担当は一人までって決まってるの……」
「ちょわっ!?宗教に入っておられたのですか!初耳です!」
「……うん、モブリトルスト教って言うの……」
語呂最悪。モブスト教でいいじゃんそこは。
「わかりました!では、今日は出直します!学級委員長たるもの――
「……うん、ごめんね……」
「いえ!では!日課の巡回に戻りますっ!今日こそテイオーさんの花占いを止めねばなりません!このままでは学園は花無き不毛の地になってしまいますので!」
バクシーーーンッッ!と颯爽と去っていくサクラバクシンオーは、先の通りバカであった。
……私のトレーナー人気すぎひん?
なにあの学級委員長()もねらってんの?どうしよ、名前とか書いといたほうがいいかな。私のものだって……冗談だけど。
シワシワ顔のトレーナーは少し辺りを見回して、こちらに気づくと――とぼとぼと近づいてきた。
すとん、と座ってしょぼしょぼするトレーナーを、お労しい……と、少し回復したメジロメックイーンが背中を撫でる。
「……また迷った。ここの校舎入り組み過ぎてない……?」
「まあ、大きい建物ですからねぇ」
軽い方向音痴なとこがあるトレーナーにとっては鬼門なのだろう。私も最初はよく移動教室で地獄を見ていた。
とはいえ、だ。ならずっと私が出迎えに行くって訳にもいかない。……いや、私としては一向に構いはしないけども――これから三年間。私のトレーナーとしてここに通うのだから、慣れた方がいいに決まっている。
だから、心を鬼にして――こうして待ち合わせにしていた。
尚、トレーニング前は時間の無駄なので、速攻で私が迎えに行っている。
「……次は地図でも用意しようかな――んんっ!さて、遅れてごめんねモブ子。はい、お弁当」
「ごちになりまーす」
落ち込んでいても仕方ないと切り替えたトレーナーは――綺麗な風呂敷に包まれたスタンダードなお弁当を手渡してきた。
布の隙間から覗く銀色の箱は、今日もズシリと重い。
「まぁ……お弁当?手作りのようですが、貴方様が作った……?」
「うん、そうなんだメジロマックイーン。モブ子の調子もいいから、食事管理もやってみたいと思ってさ」
「素晴らしい試みですわ、流石貴方様!……しくじりました、手作りのお弁当……その手がありましたのね……!!」
何やらぶつぶつと悔しげにしているメジロのお嬢様は置いといて――風呂敷を解いて、蓋を開ける。
ふわりと醤油のいい香りが鼻を撫でた。
「……おぉ、今日も美味しそう」
「そう言ってくれると作った甲斐があるよ」
大きめのおにぎりが二つと、ちょこちょこ楊枝が刺さっている鶏肉とお野菜の煮物。
カフェテリアに常備されているお弁当より大きさも品目も少ないが、シンプルと言い換えられる。
そして、シンプルだからこそ――その完成度は如実に伝わってくるのだ。
羨ましげで悔しげにお弁当を覗いたメジロマックイーンも目を見開いた。
「まぁ……まるで料亭のよう……」
お嬢様であるこの子が言う通り――
まるでピラミッドの黄金比のように計算され尽くした端正な形をしている三角おにぎり。一口大のゴロゴロとした煮物は醤油で黒く染まっているが、決して染まりきっておらず、綺麗な彩りを残したまま、しかし旨味が食べずとも伝わってくる。
つまりは――まるで、食品サンプルのような、“綺麗”な形。
……食べるのに結構躊躇するレベルなのだ。
「トレーナー……お弁当屋さんの才能ありますよ、ガチで」
「ですわ……メジロ家の専属お弁当係兼わたくしのトレーナーになりません?」
「はは、素人の頑張りをそこまで評価されるのは嬉しいよ」
本当に心の底からの賛辞なのだが――本人曰く、初めてやったことらしいので、まったく信じてくれない。
いやまあ、信じて「お弁当王に、俺はなるっ!」って言って、私のトレーナー止められたりしそうだからそれでもいいんだけど。
めっちゃくちゃ、分けてくれ、と目で訴えてくるお嬢様の手に煮物を二つほど乗せてやってから、さぁいただきますと手を合わせたとこで――トレーナーが自分の分を出していないことに気が付いた。
いつも、一緒に食べるのに。
「トレーナーの分はどうしたんです?」
「んー?……あー」
トレーナーは少し目を泳がせると、苦笑気味に紅茶を啜った。
「んにゃあ、
「そうですか」
「まぁ!でしたら、わたくしとラン――」
――ぴんぽんぱんぽーん。と、アナウンスが流れる。
『全校生徒、並びに全トレーナーに連絡致します』
聞こえてきたのはたづなさんの声で、どこか固い雰囲気があった。
『理事長より、新レース“URAファイナルズ”とトゥインクルシリーズの“特例出走”に関しての説明を行います。昼休憩が終わり次第、第一ホールへとお集まりください』
繰り返します、と続くアナウンスを聞いたメジロマックイーンは残念そうに耳を伏せた。
「……くぅ、なんてタイミングの悪いぃ……」
「私的には最高だったかな」
「むむむ!……こほんっ、お先に失礼しますわ。メジロ家の令嬢たるもの。誰よりも早く着いていなければ!」
チラチラとトレーナーになにかアピールしながら颯爽と去っていったお嬢様だが、トレーナーは「お嬢様って、大変だねぇ……」って違う心配をしていた。
周りの面々もゾロゾロとカフェテリアから出て行く。
なんだなんだと期待半分、なにがあるんだと不安半分と言ったとこだろうか。
トレーナーと目を合わせて頷きあう。
そして――私たちはぬぼーっと、集団を見送った。うん、今日もお弁当がうまい。
と、言うのも。
最近、トレーニングしているとどこからともなく出現する理事長から――もう全部聞いているんだよね。“特例出走”の件もそこ情報だ。
理事長からも、近々説明会をやるけど君たちは来なくてもよいぞ!と何故か笑顔でサボってもいいと言われていた。
いや、まあいいんですけどね。知っている内容の集会とか、こっちも嫌だし。
大変だなぁ、と。
ずる休みした家の中で登校する級友たちを眺める気持ちで、しみじみと弁当を味わっていると、トレーナーが窓の外を見て「んん?」と首を傾げた。
「あの子もサボりかな?」
「はい?……どの子です?」
「ほら、あのベンチで寝てる……」
トレーナーが指し示す方向には――“三女神像”前の広場。多くの人やウマ娘が第一ホールに向かう為に通っている中。
広場のベンチで、横になって目を閉じているウマ娘がいた。
遠目でも分かる。
均整の取れた長身に、綺麗な芦毛、特徴的なヘッドギア。そんなウマ娘は、この学園には一人しかいない。
「ああ――
「……だれ?」
「えっ、知んないです?結構有名ですけど」
「いや俺、モブ子以外あんまりと言いますか……」
「そ、そうですか。………ちなみにここの生徒会長の名前は?」
「えーっと……し、ションボリルドルフ!」
「誰ですかそのゆるキャラ」
……いや、まあ?
私だけを見ていてくれるのは?実際?嬉しい、みたいな?ですけど?
それでもある程度は覚えておいてほしいな――会長ガチ勢はけっこーいるから。
トレーナーは、彼女はじぃーっと見るが、やはりわかんないのか、こっちに視線を振ってきた。
「……どんな子なん?」
「そうですねぇ――」
私は周りと隔絶しているように微動だにしないあの人を見つめる。
「――
「不思議ちゃんな感じ?」
「不思議ちゃんてか、不可思議さんというか」
前なんか、あの広場の噴水の中にぷかぷか浮いてて、何してんすかと聞いたら「いや、ちけぇとこの方が良い感じに飛ぶんじゃねぇかと思ってよ」と意味不明な供述していた。
ちなみにどこに?と聞いたら――“エデン”だそうだ。……とりあえず、カウンセラーの人に一報入れた私は悪くない。
「……ふーん。強い子なの?」
「強いですよ。……面白い話ありますけど、聞きます?」
「どのくらい面白い?」
「近くの居酒屋でたづなさんが酔った勢いでうまぴょい伝説を熱唱した話くらい」
「――聞く。あとでその話も教えて」
「はーい」
アレは少し前のことだ。
ある、いけ好かない先輩グループがいた。
名前はもう覚えていないけど性格悪いが実力はそこそこ、GⅢレースくらいなら問題無く走れるくらいの実力者だった。
でも、この学園にはその上の上のGⅠを走れる連中もバンバンいるので、奴らはもっぱらその不満を――私たち底辺ズに向けていた。陰口とかで。
トレーナーもおらず、選抜レースも勝ち抜けない私たちを嗤うことで――中途半端の実力しかない自分たちのプライドを慰めていたのだろう。
まぁ、そのことについてはどうでもいい。
私たちも、アイツらの下駄箱に増えるわかめちゃんとかセミの抜け殻詰め込みまくったから。こっちも悪い。
本題は、そいつらの悪意が――
彼女は、変な人だった。
いつもは“三女神像”の広場のベンチで寝ているかそうでないか、みたいな人で――
だから、弱いと思ったのだろう。
そいつらは私たちにやったみたいに陰口を言いまくった。……欠片も効いてなくて涼しい顔で寝ていたけど。
それに痺れを切らして結構やべぇことも口走り始め、ある一人が――こう、言った。
――「
その嘲りが、どういう訳か――ゴールドシップさんは気に入らなかったらしく。急に起き上がると仕返しとばかりに連中を煽り出した。あっちが可哀想になるくらいには。
それから、あれよあれよと言う間に話が進んで――レースをして、負けたら退学するって話になった。
話を聞きつけて、たくさんの生徒が詰めかけた。
そして詰めかけた誰もが――ゴールドシップさんが負けると思った。
だって、あいつらは7人でゴールドシップさんは1人。つまりは、あいつらの内1人が一着を取れば勝ち。残りの6人が進路妨害すれば、その確率はより上がる。
絶対に無理だろう。そう、私も思った。
変に同情してたのもある。彼女も私たちと同じで恵まれない底辺だと。
――レースが始まった途端、その認識は変わったけど。
まさに――
最初から最後方。少しして、中盤のタイミングで一気にスパート。
まるで――
突然抜かれてビビった連中も追い縋ろうとするけど、そのまま大差でぶっちぎってゴール。
ペースをこれでもかって乱されて汗もだらだらで息切らしたヤツら。
それに向かって、ゴールドシップさんは、汗一つない涼しい顔で「もういいか?」って、まるで下らないママゴトに付き合わされたみたいな顔でそのまま去っていった。
もう度肝が抜かれるも何もだ。
あんな何もしないような彼女が――まるでシニア級も顔負け、ドリームトロフィリーグすらなぎ倒しそうな走りをしたんだから。
ちなみに。
それっきり連中のプライドやら何やらはバッキバキ。
進退を勝手に賭けた件と詰りやいじめの件で、理事長と生徒会長にこっぴどく叱られたこともあって、成績が落ちるとこまで落ちてそのまま退学していった。
……わたしたち底辺ズには、落ちぶれたウマ娘に対して――“歓迎しよう、盛大にな!”の仲間入り歓迎会という煽りをやるのが常だったが、流石にあいつらにはやらなかった。
つまり。
長々、話して何が言いたかったかと言うと――
「――つまりはですよ?あの人は強いんです。……この学園の最強って、名実共に生徒会長ですけど――
「へぇ」
「興味無しかい」
「だって、名実最強なのはうちのモブ子だしー」
「はいはい、千年後の話はまだ早いですよおじいちゃん」
と、いった感じで、この学園の最強談義は基本的には、生徒会長であるシンボリルドルフか、ゴールドシップさんの二強だ。いつか戦ってほしい。
裏切り者ジャラちゃんは会長信者なので――是非、ぼっこぼこのぼこにしてもらいたいものだ。
トレーナーは紅茶のカップを眺めならがら、唸る。
「にしても、そんな強いのかぁ。“追込”……モブ子の参考にしたいし、その子のトレーナーさんと話してみたいなぁ」
「でも、この学園には居ないみたいですよ。噂じゃあ、どっかの高名なトレーナーみたいです」
「ふーん、そっか」
「本人が言うには、『ファイナルファンタジータクティクス大全みたいなトレーナーならいるぜ』って」
「……それ
「そうなんですか?」
よく知んないけど。
トレーナーはするすると紅茶を飲むと、ふとニヤリと笑った。
「でもま。モブ子はその子も倒して、“無敗の七冠ウマ娘”になるんだから頑張ろうね?」
「いやいやいや。そりゃム――」
「はい、ムリって言わなーい。やるっと言ったらやるのです。DO it!」
ていうか、そのネタまだ引きずるんすか。
そりゃあなんのかんの目指す目標ではあるけど、ふつうにムリではあるでしょう。
今、ホールで話しているだろう“URAファイナルズ”だって、私には遠い雲のように思えるのに。
「わかんないぜ?」
私のネガティブを拾ったのか、ニヤリと不敵に笑い飛ばそうとするトレーナーには――謎の自信が漲っていた。
……“URAファイナルズ”は、今から三年後に開催される。
実力とファンを兼ね備えた選りすぐりのウマ娘、“スターウマ娘”だけが出走できるレースだ。
そもそも実力がペーペーである私には現実的じゃない。ハルウララが有マ記念を優勝するぐらいには現実的じゃない。
「期待しておくことだね。気が付けばあら不思議――七冠かぶってゲート前にいるってなるからさ」
「それ本人に言いますか……」
……まあ、言われた通り、期待しておこ。
期待して――これからも頑張りますーだ。
「まあ、そんな夢物語の前に“メイクデビュー”戦が先ですけどねぇ」
「そうだねぇ。まあ……鍛えたモブ子の敵ではないだろうけどね!」
「はいはい、この筋肉痛まみれのウマ娘には過言な誉め言葉ですよ」
あと、数ヶ月後。
――――デビュー戦がゆっくりと迫っていた。
――目の前に、お弁当がある。
「………」
これには見覚えがあった。
近くの商店街――そこで、私が“彼”に対して買い与えたものだった。風呂敷は同じ色、銀色の鉄で出来た古めかしい箱には――見覚えがある、製造番号が刻まれていた。
よく覚えている。
だって――私が初めて、
「トレーナーくん……」
あの声、扉越しでも忘れるはずがない。
どこぞ知らぬウマ娘の尻を追いかけた薄情者だが……それでも、私のところに来てくれた、人。
するり、と風呂敷を解く。
蓋を少し浮かせば、醤油の香りが鼻を撫でる。……部屋が臭いので、換気扇を回した。
……今は細かいことはどうでもよかった。
ただ、思い出に浸りたかった――私とトレーナーくんの絆の一端を。
蓋を取る。
「おお……」
そこにあったのは――均整のとれた三角おにぎりと楊枝の刺さった煮物だった。
「………」
んん?
「……――
待て。
いや、設計思想はそのままだ。米が多く、取り立てて箸などを使わない。品目だって同じだ。
だが。
こんな完成品じゃない。
だって、トレーナーくんは――
「……んむ。んまい……うますぎる……」
最初なんて炭だった。
栄養素だけがそこにあった物体だったんだ。
しかし、そこで諦めることなく――勉強し、料理が上手なクリークくんやアケボノくんたちに協力してもらって、少しずつ……少しずつ美味しくなった。
……君は知らないだろうね。
自分の為に、苦手なことを必死に努力してくれるのが――
「……違う。違う。トレーナーくんは稀に見る不器用でこんな三角には握れなくて諦めて丸型にしていた。煮物だって切り口が不揃いだったし味もしょっぱすぎることが多かった」
それでもそれでも。
私にとっては――
それなのに――
「……
完食し終わり、私の脳内を駆けめぐるのは疑問だった。
まるで――突き詰めていったような完成度だった。料亭に出せる……とはいえないシンプルさだが、それでも誰もが食べたがる暖かさのある一品だ。
……違う人物だった?いや、この私が錯乱していたとはいえトレーナーくんの声を聞き間違える訳がない。
「……ん?」
私は――ふと。
――
「そもそも――どうして、トレーナーくんの弁当がこんなにも上手になっている?」
“夢”の通りであれば――トレーナーくんは、まだ料理のりの字も知らないダメダメ社会人のはず。
……“夢”が間違っている?いや、そんなはず……
「待て、待て。この“夢”は、いったいなんだ?」
あまりにも鮮烈で現実に沿っているから自然に受け止めてしまったが――そもそもこんなものはあり得ないに決まっている。
普通、信じるはずがない。
なのに、信じた。
私の存在、私の魂、私というウマ娘が――
この、不可思議な現象を。
「……面白いじゃないか」
冷静に、客観的に捉えれば。
これは――得難い経験じゃないか。未来の予知だぞ?遙か過去の存在したのも怪しい存在の一員になったんだぞ?
こんなの――研究しないと、もったいない。
「……そうだ。そうだ。研究だ!この現象を理解し、突き詰める……そうすれば、トレーナーくんだって……!」
――目が覚めたような心地だった。
淀んだ視界が開け、栄養が注がれた脳味噌が動くのを感じる。
そうと決まれば、止まっている時間はない。
――
さっさとこの現象を物にして、トレーナーくんの目を覚ましてやる必要がある。
その為にもまずは――
「まずは同一人物であると確定するところから始めよう。さぁ!トレーナーくん、手を出したまえ!採血の時間だよ!君が注射がきらいであることは理解しているが、まず……は……」
――目の前には誰もいない。
無論。
「………はぁぁぁ。まずは口調の矯正からだな。トレーナーくんの前でトレーナーくんを呼ぶのはさすがに嫌だ」
まずは思考を落ち着けるか。
私は倒れた椅子を拾い上げようと一歩進む。
……。……?
足下を見れば――メモリの入ったガラス片がいくつか踏んでいた。
そこから辿れば、床に投げ出された本が目についた。
「――――」
――
表すならその程度。目を一回瞬きした。
一度、辺りを見回す。
「これは……ああ。カフェが珍しく、優しさを見せる訳だ。だいぶ、“夢”に引きずられていたようだね」
――
整然と並んでいたはずの本は辺りに散らばり、実験器具は棚の中で無残な姿で割れていて、薬ももう零れ溢れーー耐え難い悪臭が広がっていた。棚には生々しい足の跡が残っていた。
成る程。
私は自分が思っていた以上に――“
“夢”と“現実”を考えながら、そもそもずっと“夢”の中にいたなんて冗談にしてはタチが悪い。
ぽろぽろと記憶の隅には叫んで暴れている私が写った。
「掃除も追加か。……トレーナーくん、は、居ない。私かぁ……私がやるのかぁ……これをぉ……?」
夜通し掛かりそうだ、と私はため息を吐いた。
カフェが持ってきてくれた冷めた差し入れが、この“現実”を呆れたように見ているように感じた。
繧上◆縺励?縲√%繧後′縺ソ縺溘> 縺ュ縺医? 縺薙l繝シ 縺薙l繝シ
-
『そうだ、北海道に行こう』
-
『青い雲、“恋”の空』
-
『歪む金の航海図:うまぴょい伝説編』
-
『月無き夜にルナティックな彩りを』
-
『』未達成:“彼”の部屋へ
-
『ルート削除・菊花賞』未達成:保険室へ