あなただけに見せる姿
晴天透き通る、春の終わりを感じさせる空。暖かな風が吹く練習場を私は駆ける。
先日のレースから休養日を十分に摂った翌週。軽いジョギングやウォームアップで済ませていた日々から通常の練習に切り替わった。
額から流れる汗を振り払い、前へ、前へと突き進む。本番さながらの闘志を抱き、コーナーを曲がる。最内を意識したが、若干スピードの減速と噛み合わずに膨らんだ走行となった。
「ドーベル!最短距離を意識してもう5m前から減速を心がけるようにしよう」
「分かってるわよ!!」
すかさず飛んできたトレーナーの指示に対し、大声で返す。今回だけではなく、本日の練習中、幾度となく指摘を受けそのたびにやや乱暴とも取れる返答をしている。
日没が近いとはいえまだまだ明るさの残る時間帯。当然ながら多くのウマ娘が滞在しており、当然生徒達にも私達の会話が届く。
「メジロドーベル先輩、かっこいいなあ・・・。先週のマイラーズCでもダントツだったし。中央に入学できて良かったわ」
「本当ね。でも、さっきまでの会話、担当のトレーナーさんと仲が悪いのかな・・・?」
「かもしれないわね。ずっと険しい顔してるし」
ヒソヒソ声の会話だったが、ウマ娘としての聴力がその小さな音を一言一句逃さずに拾い取る。それを無視し、ひたすらに練習に打ち込む。練習場を使用できる時間は有限なのだ。無駄な行為は出来る限り削っていく。
もとの定位置に戻って、再びスタートを切る。徐々にスピードを上げていき、指示通りの箇所から減速をしてコーナーを曲がる。今度は目標通り、内ラチギリギリにに沿った曲線を描いて曲がることが出来た。
「よし!その調子だ。ドーベル、あと5本行くぞ」
「ええ」
喜ぶトレーナーを視界に収めつつ、険しい表情を変えずに小走りで再び所定の位置につく。
その後も坂路、ダートと一通りの練習をこなし汗を流す。本来なら最後、次のレースを想定した距離走を行うのだがレース明けであること、次の予定はまだまだ先であることからランニングでの締めとなった。
走り終わった後、メモを取っていたトレーナーに近づき報告を行う。
「トレーナー、終わったんだけど?」
「おう、お疲れさん。クールダウンしてからいつも通りミーティングだ。体冷やさないようにしろよ」
「分かってるっての」
朗らかに返すトレーナーにそっけなく返事をし、タオルを受け取って練習場を後にする。先程小声で会話をしていた2人が自分とトレーナーをチラチラと見ていたが、気づかないふりをして寮に向かった。
メジロドーベル。
中央トレセン学園に席を置く者で彼女の名を知らない者はまずいないと言っていい。一般層への知名度に関しては皇帝や帝王、異次元の逃亡者に遠く及ばないが、レースファンに彼女のことを聞けば様々な答えを得られるだろう。
『女帝の後継者』
『クールビューティー』
1年前、ノーマークの状態から重賞を次々と獲得していきエリザベス女王杯ではあのエアグルーヴに競り勝っての勝利を収める快挙を成し遂げた。1着間違いなしと言われていた女帝に土を着けたその衝撃はファンの間を駆け巡り、一気に彼女の名を上げることとなる。
その後も、11月のマイルチャンピオンシップ、4月の大阪杯で1着を獲得とG1での快進撃が止まらず、昨年末から重賞レース全てで負けなしであり、早くも今年度URA優勝候補に挙げる声も出始めている。
また、レースの際は険しい顔を崩さずその瞳にギラギラとした炎を灯すが、叫ばず、声を出さずに走り抜いて静かにターフを去る。ウイニングライブでは笑顔を見せるが、他の生徒に比べれば少ない頻度と言わざるを得ない。
その立ち振る舞いが逆に人気を呼び、男女問わず彼女のファンとなる者が多い。先の2人もエリザベス女王杯での走りに魅せられ、中央トレセン学園の門を叩いたウマ娘である。
授業の予習復習もそこそこに運動場に乗り出し、一挙手一投足を目に焼き付けようと遠巻きに観察をしていた。この2人と似た考えを持つウマ娘は多く、練習に打ち込みながらもメジロドーベルの練習光景を見ては熱い視線を送る新入生徒がチラホラと見受けられた。
そんな状況で、数日、1週間、数週間と時が経っていくと、ずっと彼女を見ていた者は多かれ少なかれ、ある同一の懸念を抱くようになった。
「おや?どうしたんだ二人共。もうすぐ練習時間は終わるぞ」
「え?・・・エアグルーヴ先輩!?」
ターフに残って話し合いをしていた2人にかかる声。顔を上げた両者は目の前に立っている人物を見て驚きの声を上げる。
「す、す、すみません!?今すぐに」
「ああいや、多少なら遅れたって構わないさ。それより、先程まで何やら話し込んでいたみたいだが悩み事か?私で良ければ聞くよ」
「あ、ありがとうございます!いやでもそこまでしてもらう訳には・・・」
「なに、生徒のメンタルケアも生徒会の仕事さ」
鋭い目つきながら穏やかな表情で2人に話しかける人物はエアグルーヴ。生徒会副会長として、レースを走るウマ娘として幅広い人気を集める女帝は、手を振って話しやすいようにジェスチャーを取る。
威風堂々たる中に優しさを織り交ぜたその態度に2人は熱っぽい視線を送り、慌てて自分たちの感じている疑問を伝えた。
「・・・・・・ああ。あの2人についてか」
「は、はい。ずっと言い合っていましたしお二方とも険しそうな表情でしたので・・・外野がとやかく言うことではないのですが、気になってしまいまして・・・エアグルーヴ先輩もご存知なんですか?」
意見を聞いたエアグルーヴは、制服についたマークから2人が新入生だと判断した。たしかにそれなら疑問に思うよな、と彼女は思った。
2人の疑問を解決すべく、エアグルーヴは再び口を開いた。
「なるほどな。あの2人については心配いらないぞ。何故なら・・・・・・」
シャワーを浴び、制服に着替えて寮の廊下を歩く。
次の目標レースはGⅡのローズS。夏を跨ぐ期間があるため、長期的な調整をしていくこととなる。
そのため毎日細かなミーティングをする必要は無いのだが、私の足は気持ち早めにトレーナー室へと向かう。
何度も何度も通ったルート。足だけでなく逸る気持ちを必死に抑え、トレーナー室の扉を叩く。
「入るわよ」
ノックをし、入室をする。データ入力を行っていたトレーナーが、おう、と返事をしそのままミーティングが始まる。
本日の指摘点もそこそこに今後の大まかな練習日程、夏合宿の暫定内容などこの先の取り決め事項が多かった。
疑問に思った箇所はその都度トレーナーに確認を取り、納得の行く状態で全ての伝達事項を受け取った。
昨年からの好成績のおかげで、夏合宿は前年までと違う最新施設を使用できると聞いている。より実力を伸ばせる環境に身を置けると思うと、今からでも気持ちが高ぶる。
・・・・・・それはそうと。
「トレーナー。そろそろいい?」
「ああ、構わないよ」
ミーティングが終わってからの第一声。トレーナーの肯定返事を聞き、彼をソファに誘導する。
腰を下ろすのを確認し、彼に向かって飛び込んだ。
「・・・っと」
抱きついてきた私を、バランスを取って受け止めるトレーナー。それを気にせずに私はぎゅうううううううううと力を込めて彼を抱きしめた。
中央トレセン学園に入学して半年頃、私の評判は最悪だったと言っていい。
男性恐怖症を克服できないまま来たことで、最初に男性トレーナーNGを打ち出さざるを得なくなった。その後、担当となった女性トレーナー達とはことごとく反りが合わずに短い期間で3人と契約→解除となった。
レースに出場しても下から数えたほうが早い順位。たくさんの人がいる前でアガってしまい、実力を出すことが出来ずに敗退を繰り返した。実力を十全に出しても勝てていたかどうかは非常に怪しいが。
こうなるとメジロ家という看板に期待してスカウトしてくるトレーナーもいなくなる。元々人数比的にウマ娘は買い手市場だ。選抜、模擬レースで結果を残せれば引く手数多だが裏を返すとめぼしい所がないウマ娘は誰からもスカウトされない。早い話、自分もそのグループに入った訳だ。
トレーナーを持たない(持てない)ウマ娘は、教官と呼ばれる人の元で指導を受けることになる。その担当教官も男性だったことで練習中、幾度となく萎縮、反発をしてしまった。
教官は10人ほどのウマ娘を抱えているので反抗的な者に時間を割く義理もなければ余裕もない。結果、私は1人でぽつんと練習をする日々となった。
全ては自分の蒔いた種であり自業自得。黙々と練習を続けるもトレーナー無しの独学で勝てるほどレースは甘くない。最初の半年間、私は参加した全てのレースで入賞0という不名誉な記録を打ち立ててしまうことになる。
メジロ家の落ちこぼれというトレーナー間で飛び交っている噂を何度聞いたことか。全くの事実であるのだがそれが私を更にトレーナー不信にさせていった。
マックイーンやライアンには余り思い詰めないほうがいいと声をかけてくれたが、その気遣いが嬉しく、同時に自分が情けなくなった。同期の2人は早々にトレーナーを見つけ、この前のG3レースでも好成績を収めたという埋められない差。私一人で勝手にメジロ家の評判を落としているのがただただ悔しかった。
ウマ娘であれば誰しもが持つ、走る喜び。その感情も薄れてきた私は地方学園への編入も考える時間が増えてきた。
そんな折、急遽私と契約を結ぶトレーナーが現れた。それが今のトレーナーである。マックイーンが私の現状を生徒会に報告、その陳情を受け取ったエアグルーヴ先輩が直々にトレーナーを見つけ、私につけたと後から聞いた。
私が男性恐怖症ということを知ってなお男性トレーナーをあてがってきたのは、今にして思えばエアグルーヴ先輩の慧眼だった。ただ当時の自分はそんなことまで考える余裕がなく、素直に受け入れることが出来なかった。
マックイーンと尊敬する先輩に手を煩わせてしまった以上、自分から契約解除を申し出るだなんて恩知らずな真似は出来ない。ただその意識が余計にストレスになり、練習初日から彼に強く当たってしまった。
練習の指示一つを聞こうとしても、萎縮をしてしまいそれを隠すように反抗的な態度を取ってしまう。
根気強く私との距離を縮めようとする彼に対し、拒否反応からひどい言葉を投げかけてしまう。
「あなたが嫌いなの!トレーナー風なんか吹かさないで!もう放っておいてよ!!」
と面と向かって発言してしまったこともある。 その言動一つをとっても、あちらからその場で契約解除を伝達されても不思議ではなかった。
指導者がいたところでこれではまともに上達なんて出来るはずもなく、2ヶ月後のレースでは初めての最下位をとった。極度の緊張からトレーナーから託された作戦を無視して走り、最後はスタミナ切れでの大失速。
ひどいなんてレベルじゃない展開に観客からは嘲笑の声も聞こえてきた。
レース終了後、トレーナー室に呼び出された時は
(ああ、これでまた契約解除されるのかな・・・)
と諦めの感情となり、それならそれでもいいと思った。どうしようもない自分に、これ以上関わってほしくなかった。
「・・・入るわよ」
声を掛け、部屋に入る。最低限の家具しか置かれていない殺風景な部屋の奥に、パソコンと睨み合っていた彼の姿を確認する。
「おう、今日はお疲れ様」
「思ってもいないことなんて言わなくていいわよ」
ねぎらいの言葉にすら、突き放すような返答をする。今後一切、私なんかを気にしないでほしい。そんな気持ちなのに口に出すとこのような言葉になってしまう。
2ヶ月かけてもらって、何の成果も出せなかった。それなのに、諦めようとしないトレーナーが嫌だった。その努力に応えることが出来なかった自分が嫌だった。冬が近い季節、私とトレーナーの間には強い隙間風が吹いていた。
そんな私を見て、口に手を当てて考え込む仕草を見せるトレーナー。しばしの沈黙が流れ、解除を申し出るなら早く切り出してほしいと険しい表情になる。
「ドーベル、一つ提案がある」
「何よ」
「・・・・・・デメリットもあるが、お前を勝たせることが出来るかもしれない方法、試してみる気はないか?」
彼の口から出た言葉、それは予想外のものだった。入賞すらしたことがない自分が1位を取れる方法?虚言も大きすぎると笑えてくる。
だけど、トレーナーの目は本気だった。そのアンバランスさが飲み込めず、私は嫌悪感を抱く。
「ふざけないで!・・・・・・私の今までの成績は知ってるでしょ。本気で言ってるの?」
「ああ、もちろんだ。俺は可能性のないことは言わない・・・・・勝ちたいだろ?」
声を荒げた私に、冷静さを纏ったトレーナーの声が届く。何故、ここまで辛抱強く付き合ってくれるのか、わからなかった。
でも、最後の言葉を聞いて私の心が揺さぶられる。勝ちたいのか?当然だ。ウマ娘として生を受けた以上、走り続けたい。そして走るからには誰よりも早く駆け抜けたい。
もう一度、トレーナーをみる。散々、数え切れないほどに強く当たってきた。それなのにまだ私を見てくれている。
・・・・・・どうせこのままなら、1人になっても状況は変わらない。それなら一度、大言壮語をするトレーナーの意見を聞いてみようと思った。
一歩、前に踏み出す。トレーナーの瞳が微かに揺れた。
「・・・・・・いいわ。聞かせて」
私は初めて、彼を正面から見つめた。
結論から言えば、トレーナーの意見は賭けに近いものだった。
私の抱える問題点は3つ。『男性恐怖症であること』『人目が怖く、レース本番でアガってしまうこと』『自分への自信が持てないこと』である。
いずれも精神面から来るものであり、だからこそ一筋縄では行かない。簡単に克服できるのであればここまで苦労しない。
彼の案は私の考えの外にあるものだった。簡単に説明すると、2つ目の問題点(レース本番での緊張)を克服するために1つ目の問題点(男性恐怖症)を利用するというものだった。
「ドーベル。君の男性恐怖症はまず萎縮、そしてそれを隠すための反発から来るものだと思っている。それは間違いないか?」
「・・・・・・ええ、そうよ」
「その反発の精神、本番にまで持っていけたら緊張はしないよな?」
「は?」
トレーナーの言っていることが理解できず、間抜けな返事をしてしまった私に、さらに説明をしてくれた。
レース本番にて、緊張という感情以上の『何か』が頭を占めていればいい。生半可な気持ちでは効果がないが、それを上回る感情を私は持っている。
欠点と欠点の乗算で利点に変えてしまおうという博打である。
「本番で反発する精神を抱えたまま走るためには常日頃から持っていないといけない。だからこそ練習時から意識する必要がある。だからドーベル、練習時は俺に遠慮なく怒りを抱け」
「怒り?」
「そうだ。これからの練習、あえてドーベルの今のレベルよりも上のランクにする。練習時間も伸ばし、毎日がヘロヘロになるくらいにな。おかしなところがあればすぐに檄を飛ばす。それに対し、怒れ。『トレーナー風を吹かせて』でも『男が指図するな』でも何でもいい。抱えた感情のまま、俺にぶつかってこい。萎縮は絶対にするな。」
本気で語るトレーナー。そこからは自らが憎まれ役を買って出るという不退転の決意が見て取れた。
「・・・・・・ただ、デメリットもある。恐らく毎日のように言い合い、いや怒鳴り合いになるだろう。それを見た他のウマ娘が君に対してどんな感情を抱くか・・・。もしかすればメジロ家の風格に傷をつけることになるかもしれない。それ以前にドーベルも感じているだろうがこの案は博打に近い」
声を落とし、目を伏せるトレーナー。しかし、そのときには私の答えは決まっていた。
「私の評判だなんて、とっくに地の底よ。それに、メジロ家の風格に関しては問題ないわ。今の状態、負け続けている現状が最低最悪の泥塗り行為なのよ。そこから脱却できるのであれば、何だってやってやるわ!」
そう宣言した日から、私達はようやくスタートラインを切った。
翌日から、それはもう毎日のように喧嘩が起きた。何故この練習をするのか、こっちの方法が効率がいいのではないかなど思ったことは全てトレーナーにぶつけた。もちろん、私とトレーナーではレースにおける知識量に多大な差があるためいつも私が打ち負かされていたが。
トレーナーは宣言通り、私の全てを受け止め、そしてぶつかってきた。最初から最後まで私のことを第一で考えてくれた。
練習内容での激論も私を最も良い状態に仕上げるため。練習中転んで足を軽くひねってしまった時は、有無を言わさず私を抱えあげ、「ちょ、何するのよ!?」という間もなく保健室まで運んでくれた。
トレーナー室への忘れ物に気づき、夜にこっそりと取りに行ったら明かりが漏れていて、中でパソコンとにらみ合いながら私の練習内容について必死に考えている彼が見えた。
その姿を見て、私も全力で答えた。勝つために、彼にぶつかっていった。彼の博打とも取れる案を失敗させたくないため、怒りの感情を忘れないようにした。
私達の姿を見たウマ娘から敬遠される機会も増えた。トレーナーとの仲がうまくいってないように見えた友達から心配されることも多々あった。それでも私は下がらなかった。
そして迎えた、オープン戦。休日開催に加えこの後にGⅡレースもあるということで観客の入りは上々の日。今までのわたしであれば最悪のコンディションといっていいレースに挑戦することとなった。
控室で私は目を閉じる。何度倒れかけたか分からない猛練習の日々。そんな中幾度となく飛んでくるトレーナーの激を思い出し、怒りのボルテージを上げていく。
同時に、託された作戦を心で復唱する。ギラギラとした闘志を抱え、それでいて片隅には冷静さを持つ状態。
「・・・・・・ドーベル、勝って来い!」
「ええ!!」
トレーナーの激に対しキッと表情を細め、気合を入れる。振り向かずに控室を出て、ターフへと足を踏み入れた。
たくさんの歓声、人。それを視界に収めて、私は『特になんとも思わなかった』。
ゲートにいち早く入り、瞑想をする。沸き立つ怒りと共に頭の中で思い浮かぶのは昨日の作戦会議。
『ドーベル、今回の1600mは他のウマ娘を一切意識するな。今まで何度も繰り返し練習し、体に刻み込んだタイムを意識して走れ。今回のレース、能力においてはお前の1強だ。いいか、もう一度いう。ドーベル、自分のペースさえ崩さなければ絶対に勝てる。自信を持て!』
私の問題点である3つ目、『自分に自信が持てないこと』。これはもう実力をつけ、勝利を積み重ねることでしか改善できない。だからこそ、今日のレースは重要だ。
出走間近。目を開いて、前方の景色を見る。ゲートの網目越しに見えるそれは、いつもより広がって見えた。
ゲートが開く。その瞬間、私は風になった。歓声が聞こえるが、それを無視して駆け抜ける。
(ここまであいつに従って努力をしてきたのよ!絶対に走り切るわ!)
走り始めてすぐに、私は先頭に躍り出た。逃げの作戦をとったわけではない。自分のペースに従った結果、どんどんと後続との差が広がっていったのだ。ゴールまでの距離が縮まるに連れ、遠くなっていく足音。その情報を極力排除し、自分の身体に耳を傾ける。
自信を持てなかった自分。緊張で満足に走れなかった自分。その影を振り払うかのように、過去と決別するようにターフを蹴る。
最終コーナーを抜けて最後の直線。誰も視界に映らないターフの景色。トレセン学園に入ってから、初めて見た景色を私はトップスピードで駆け抜けた。
終わってみれば10バ身以上の大差。最初から最後まで影をも踏ませない圧勝劇が、私にとって念願の初勝利となった。
(勝った・・・初めて勝った!!)
走り終わり、そのまま控室に歩を進める私。ウイニングライブまではまだ時間があるため、まずはトレーナーに報告をすることに決めた。レース後にミーティングをすることは決めていたため、歓喜の気持ちを押さえつつ控室の扉を開ける。
「トレーナー、入るわよ。勝っ・・・・・・」
部屋に入った瞬間、身体に衝撃を感じた。えっ、と思ったが、すぐに状況が頭の中に入ってくる。
トレーナーが、私に抱きついていた。
「は!?ちょ、ちょっと何する・・・・・・!!」
抗議の声をあげようとして、トレーナーの顔を見て声が止まる。
トレーナーが泣いていた。私よりも遥かに大人の彼が、大粒の涙を流し、それを隠すように顔を背けて泣いていたのだ。
「おめでとうっ・・・ドーベル・・・」
絞り出すような声だった。普段の激とは比べ物にならないほどの小さな声。それを聞いて、今までの猛練習の日々が、そしてそれを文字通り支えてくれた彼の姿が蘇ってくる。
その途端、私も視界がぼやけて来た。
「・・・何よ。私以上にあなたが泣いてどうするのよっ・・・・・・」
彼の頭に手を載せ、引き寄せる。私の涙が見えないように、視界を塞いだ。
あれだけ嫌悪していた男性からの抱擁。しかし、今の自分に、負の感情は全く浮かんでこなかった。
・・・・・・思えば、この時点でとっくに私は、一途な彼に惹かれていたのだと思う。
「んむぅ~・・・・・・」
トレーナー室のソファで私はトレーナーに抱きついていた。彼の胸板に顔を埋め、グリグリとマーキングのような仕草を取る。
トレーナーはそれに苦笑しながら私を抱きしめ、耳を優しく撫でてくれている。弱い部分を重点的に撫でられ、時折変な声が漏れてしまう。
初勝利を収めてからは私のレベルに合わせた練習に戻ったが、練習方法自体はそのまま継続した。
レース本番のアガり症、自信のなさについては勝利を重ねることで完全に克服し、男性恐怖症についても前よりは緩和されていると自覚している。
それでもお互いの気持ちを率直にぶつけ合うやり方は、私から告白して恋仲になってからも変わらなかった。
新しく打ち立てた目標、GⅠ勝利にURA制覇。それを達成するには今後も並々ならぬ努力が必要となってくる。トレーナーも私もその目標に向け、練習では常に最善を目指した。お互い公私をはっきりと分けて取り組もうと決めたことで、議論は今まで以上に活発となった。今でもほぼ毎日練習場でぶつかり合っている。
その反動というべきか、練習以外ではベッタリとトレーナーに甘えるようになった。というより甘えないと生きていけない。練習が終わった後や休日にいたるまで、時間を見つけてはトレーナーに抱きしめてもらっている。
「んんっ・・・・・・トレーナー、もうちょっと優しく・・・」
「えい」
「あっ・・・んっ・・・はふぅ・・・・・・」
耳の付け根をいじられ抗議の声を上げるが、どこ吹く風で裏側までなぞられ、力が抜けてしまう。
想いが結ばれて約1年。甘えているうちに私の弱い部分を全部見つけられてしまった。この前なんかは耳を咥えられた上に何度も甘噛みされて、しばらく立つことが出来なかった。
練習の時は私を第一に考えてくれるのに、プライベートな時はやめてといっても聞いてもらえない事が多い。私も本気では言ってないが。
人当たりがいいと言われているトレーナーの素顔は、ちょっぴりエッチで、いたずら好きだ。他の人は知らない、私だけが知っている顔。
目を閉じてこの幸せを享受する。これまでの、そしてこれからの日々に思いを馳せて、私はトレーナーに身を委ねた。
・・・・・・余談ではあるが、二人の関係性において不安を持った生徒がいるとエアグルーヴやメジロマックイーンが逐一説明をするため、新入生以外にはほぼバレている。
恋仲であることを隠し通せていると思っている2人が真実を知るのは、まだ先の話となる。