久々の中編になります
・数話構成になります
・トレウマ要素薄め
・亀更新
・中編連載中、他短編を先に投稿する場合があります
【重要】
2026年7月23日時点で、ウマ娘化が発表されていないウマ娘が登場します。苦手な方はブラウザバック推奨です。
これが、私の走り(1)
サイレンススズカに憧れていた。
美しい栗毛。絹のように流れる長髪。走るために生まれてきたかのような、無駄のない理想的なスタイル。その全てが、幼い私には眩しく見えた。
ただ綺麗だったからではない。ただ速かったからでもない。
彼女は、私の知らない場所を走っていた。
スタートから先頭に立ち、その後、レースが終わるまで誰一人影すら踏ませない。最初から最後まで、先頭を譲らない。駆け引きなど関係ないとばかりに後続を引き離し、そのままゴールまで駆け抜ける圧倒的な勝ち方。ライバルが終盤迫ってきたと思ったら、逃げウマに残っているはずのない末脚で逆に引き離す。
それは、私にとって夢のようなレースだった。幼心ながら、その姿に一目惚れした。
サイレンススズカに、夢を見ていた。
あの走りの先には、きっと誰も見たことのない景色があるのだと信じていた。
だれも寄せ付けない。私の前を走るウマ娘はいらないと言わんばかりの、ある種の傲慢とも感じる走り。
彼女のレースは全て見た。生中継がある日はテレビの前に座り込み、一瞬たりとも見逃すまいと瞬きさえ惜しんだ。画面越しに聞こえる実況も、観客の歓声も、蹄鉄が芝を叩く音も、何もかもが私の胸を震わせた。
当然、録画もした。暇な時間があれば繰り返し見た。何度も何度も、同じレースを見た。展開も、実況も、どの辺りで後続との差が広がるのかも、全部覚えていた。
それでも飽きることはなかった。むしろ見るたびに、胸の奥に熱が灯った。
お母さんからは、何度見るの、と呆れられた。
けれど仕方ない。彼女の全てが、私を虜にして離さなかったのだから。
そして、夢の終わりは突然だった。
悲劇は、時として喜ばしい出来事以上に人々の記憶へ深く刻まれてしまう。
誰よりも、誰よりも、もっと先へ。
貴女なら行ける。
貴女なら、きっと誰も知らない場所まで走っていける。
誰もがそう信じて疑わなかったあの日のレースで、文字通り、貴女は一人で遠くへ行ってしまった。
スタートから先頭に立ち、どんどんと後続を離していく彼女。
誰もついていかない。いや、ついていけない。同じ舞台、同じレース場を走っているのに、影を踏むことすら敵わない。
画面の中で刻まれた通過タイムを見た瞬間、テレビ越しに私は歓声を上げた。
『57.4』
圧倒的なまでの速さ。傲慢なまでの強さ。
実に二十バ身以上の差が、見る者全てを熱狂させていた。実況の声は上ずり、観客席のざわめきは膨らみ続け、レース場全体が一つの巨大な夢を見ているようだった。
サイレンススズカなら、どこまでも行ける。
その場にいた誰もが、画面の前にいた誰もが、きっと同じことを思っていた。
その夢が醒めるのは、一瞬だった。
大欅に差し掛かった瞬間、彼女の走りが変わった。
ほんのわずかな違和感だった。何かに躓いたような、そんな小さな動作に過ぎなかった。
……けれど、幼い私にも分かった。
何かがおかしい。
先ほどまで風そのもののようにターフを切り裂いていた脚が、急速に力を失っていく。あれだけ離していた後続が近づいてくる。抜かれていく。誰も触れられなかったはずの背中が、次々と追い越されていく。
そして彼女は、第4コーナーへ辿り着くことなく、ターフへ力なく倒れ込んだ。
あの瞬間、レース場には沈黙が支配した。悲鳴よりも深い絶望だった。
ざわめきすら遠のいていた。実況の声も、観客の声も、テレビの向こう側で起きているはずの全ての音が、急に遠くなった気がした。
私はただ、画面を見ていた。程なく救急車が到着し、運ばれていく光景こそが夢ではないのかと思った。
奇跡を祈った。祈ることしかできなかった。
けれど神様は、優しくなかった。
レース復帰は到底望めないほどの怪我だと分かり、数日後、彼女は入院先の病院で引退を表明した。
嘘だと思いたかった。いつか戻ってくるのだと信じたかった。
その後も意味もなく、私はあらゆるレースをテレビで見続けた。もしかしたら、次のレースで。もしかしたら、次の季節で。もしかしたら、画面の向こうでまたあの栗毛が先頭に立っているかもしれないと、ありもしない期待を抱きながら。
……けれど、彼女がレースで駆ける姿を再び見ることは叶わなかった。
月日は流れていく。
有馬記念が終わり、翌年のクラシック三冠が始まり、再び天皇賞・秋の季節になり、また別のスターが現れ、別の歓声が生まれた。
トゥインクルシリーズは止まらない。
レースは続く限り、勝者が、歴史が刻まれる。
新しいライバルが誕生し、新しい物語が紡がれ、競い合い、未来へと進み続ける。
それは喜ぶべきことだろう、別にたった一人のウマ娘がターフを去ったとしても、世界は終わらない。観客はまた別の名前を叫び、新聞はまた別の勝者を讃え、画面の向こうではまた別のウマ娘が光を浴びる。
彼女以上の成績を残すウマ娘も現れた。
彼女以上に、多くの記録を刻むウマ娘も誕生した。
彼女以上に、人々の記憶へ残るウマ娘もいたのかもしれない。
私自身、新しく誕生した幾人のスターに惹かれ、応援した事実がある。
それでも。心に刺さった刃は抜けない。
幼少時、貴女に憧れ、貴女の悲劇を見たその時から。
私の中の時計は、止まったままだった。
私は貴女に夢を見た。貴女のその走りに、大きな夢を見た。
そして、私以外の大勢の人々も、きっと貴女の走りに同じ夢を見ていた。
誰にも追いつかれない背中。誰にも触れさせない影。
ただ一人、どこまでも遠くへ行ってしまうような、あの逃亡劇。
あの日終わってしまった、もう二度と見られないはずの夢。けれど、だからこそ忘れられない夢。
その続きを、誰かが見せなければいけない。
『誰かが』
……そう思った時、冷え切った胸の奥で小さな感情が灯った。
(……だからこれは、きっと私への使命なのです)
かすかに浮かんだ思考を肯定するように、私は最終直線をトップスピードで駆け抜ける。
『金鯱賞』
中京レース場の直線は、決して短くない。最後の坂がある。そこで脚が鈍るウマ娘は多い。早めに脚を使えば、後方で溜めていた者たちに差される危険がある。逃げる者にとって、最終直線は坂であり、ゴールを阻む巨大な壁そのものである。
けれど、その日の私の脚は止まらなかった。遠き日の記憶である幼少時から成長し、すらりと伸びた細い手足。そのしなやかな足に力を入れる。
一歩進むごとに、栗毛の長髪が風によって靡く。そして何より、最後まで先頭を譲らない逃亡劇。既に重賞を制しているウマ娘が混じるレースでも関係ない。
誰にも、私の前には出させない。
息が熱い。最後の坂に入り、私の肺を焼きこがさんとする。
脚には確かな疲労が積み重なっている。
それでも、私の身体は知っていた。
逃げる者が見るべきものは、複数の足跡が聞こえてくる後ろではない。
前だ。
ただ前だけを見て、誰よりも先にゴール板へ辿り着く。それこそが、逃げという脚質に許された唯一の答え。
観客席から音が押し寄せてくる。誰かが叫んでいる。
実況の声が、ひび割れそうなほど熱を帯びている。
『逃げる逃げる! 強豪揃いのレースで、見事な逃げ切りだ! ジャックドール先頭でゴールイン!! 今年の金鯱賞を制したのは、逃亡者ジャックドール!』
ゴール板を駆け抜けた瞬間、全身を支えていた力がようやく緩んだ。
すぐには止まれない。速度を落としながら、私はゆっくりと息を吐く。
観客の歓声が遅れて耳に入ってくる。スタンドのざわめき。どよめき。驚き。興奮。名前を呼ぶ声。拍手。
全てが混ざり合い、ひとつの熱になって押し寄せる。その正体が、実況者の驚きの声とともに明かされる。
『な、何とレコード!? レコードタイムです!!堂々の逃げ切り勝ちとともにレコードまで記録しました!』
なおもどよめく実況と大勢の観客。足を止め、呼吸を整えた後に一礼する。
歓声がさらに大きくなった。私の名前を呼ぶ声が聞こえる。手を振る者がいる。信じられないようにこちらを見ている者もいる。
……その中に、別の名前を呟く声が混ざっていることに気づいた。
―サイレンススズカ―
本当に小さな声だった。本当に、無意識のうちに口から出た言葉だったろう。
けれど、分かった。私の耳に、はっきりと届いた。その名前を、そのウマ娘を誰よりも知っていたから。
胸の奥が熱くなる。ラストスパートの時とはまた違う高鳴りを感じてしまう。
以前から、そう呼ばれることはあった。
栗毛の長髪。
逃げ。
先頭を譲らない走り。
表面的な共通点を拾って、彼女の名前を私に重ねる人はいた。
けれど、今日のそれは違っていた。
『金鯱賞で栗毛のウマ娘が逃げ切り、レコードを樹立した』
その事実が、観客の記憶を刺激している。
テレビ中継を見守っていたファンも、レース場に駆けつけたファンも、きっと同じものを思い浮かべている。
あの日、夢が始まった日。
誰も追いつけなかった、異次元の逃亡者。
異様な雰囲気となったレース場にあらためて一礼して、私は静かにターフを去る。
背筋を伸ばして、できるだけ落ち着いた歩調で。けれど胸の奥では、どうしようもないほど熱が渦巻いていた。
あの日止まってしまった時計の針は、まだ止まったままだ。
それでも、今の私は確かに前を向いている。
……私は、あの日の夢の続きを見せるために走っている。
『逃げ』とは、レースにおける脚質の一つである。
先頭に立ち、そのまま誰にも並ばせることなく勝ちきる走り方。
一見すれば、先頭を走っているのだから他のウマ娘との駆け引きは少ないように見えるかもしれない。馬群の中での位置取り。様子を窺い、相手の仕掛けを待ち、最後の直線で脚を爆発させる差しや追込に比べれば、単純な走り方に思えるかもしれない。
けれど、それは大きな間違いだ。逃げこそ、最も戦略と精神面が重要な脚質だというトレーナーは多い。
逃げとは、孤独。
誰一人、自分より前へ出させない走り方。逆を言えば、他のウマ娘が視界に入らない走り方でもある。
すぐ後ろから聞こえる足音は誰のものか。警戒すべきあのウマ娘は、今どの位置にいるのか。
後方で脚を溜めている者は、いつ仕掛けてくるのか。
その情報を、逃げる者は正確には取り入れられない。もちろん、振り返れば確認はできる。けれど、そのわずかな動作すらタイムロスになる。フォームが乱れる。集中が削がれる。前を向いて走り続けるべき者にとって、後ろを気にすることはそれ自体が隙になる。
逃げとは、理想。
必要なのは、自分への信頼。脚を温存する者の末脚を振り切る粘り腰。無理についてこようとする者の末脚を先に削り取るレース展開。
理想のタイムから逆算し、そのペースを崩さなければ勝てるという自分の脚への信頼こそが、必要不可欠となる。
精密機械のようなペース配分。後続のペースを乱す幻惑。レース展開によって、その二つを瞬時に使い分ける臨機応変な対応。
大前提として、それらを支える実力。全てが揃って初めて、逃げという脚質に挑戦できる。
そして、逃げとは……
「……ふぅ」
タオルで汗を拭う。
梅雨の季節ということもあって、ジメジメとした蒸し暑さが身体に纏わりついていた。走り終えた直後の肌に湿気が張りつく感覚は、決して心地良いものではない。息を吸っても空気が重く、肺の中まで水気を帯びているように感じる。
鬱陶しい思いはするが、気候だけはどうしようもない。私だけに降りかかる悪条件ではない以上、受け入れて対応するしかない。
もっとも、その煩わしさを顔に出すような真似はしないが。
「トレーナーさん、それではもう一本お願いします」
近くに立っていた青年……私のトレーナーにタオルを渡し、早足でターフへ向かう。
軽く脚を伸ばして地面に馴染ませる。シューズ越しの足裏に伝わる芝の感触。湿度を含んだ夜気。照明に照らされて白く浮かび上がるコース。
脚の疲労はあるが、さして問題はない。多少疲れているくらいの方が丁度良い。
辺りはすっかり暗くなっていた。練習場に残っているのは、私とトレーナーさんの2人だけ。
天候が安定しないことで、はじめから室内練習を選択したウマ娘が多いこともあり、いつもより静かなターフでトレーニングをすることができている。
トレーナーがストップウォッチを構えた所を見て、静かに目を閉じる。
グッと身体を沈めながら想像するのは、理想の私。理想のレース。
頭に思い浮かべるのは、コンマ単位で計算された完成形の逃げ。自らの限界を冷静に分析し、極限のバランスで成り立つ緻密なペース配分。
勝つための逃げ。
自分の脚を信じながらも、決して過信しない。後続を引き離しすぎず、しかし楽もさせない。息を入れる場所を決め、仕掛ける場所を決め、相手が脚を使わざるを得ない展開を作り上げる。
差し、追込勢を『逆に追い込む』。最後まで取っておきたいであろう末脚を消耗させる。
瞬間、目を見開いた。逃げはスタートが命。
元々得意とは言いがたかったものを、何度も何度も練習することで克服した。トレーナーさんと一緒に、フォームを直し、反応を磨き、初速を鍛えた。
飛び出すように脚を動かす。序盤の加速は二ハロンまで続き、そこで一度息を入れる。無駄に脚を使い続けない。けれど、後続に楽をさせるほど緩めもしない。
呼吸、歩幅、腕の振り。その全てを一定に保つ。
そのまま中盤を進み、終盤手前に差し掛かったところで、溜めていた脚を使う。
序盤の加速に惑わされた相手は、逃げウマには残っていないはずの末脚……逃げ粘りを捉えきれない。
ラストスパートを、最後まで減速せずにトップスピードで駆け抜ける。
風の吹かない夜に駆け抜ける、一陣の疾風怒濤。逃げのお手本とも言える、教科書のような走り。自らの強みを十全に発揮し、相手の強みを潰す。
それは、私とトレーナーさんが積み上げてきた走りだった。
私一人では辿り着けなかった。彼一人でも形にはできなかった。
互いに未熟だったからこそ、何度も失敗し、何度も修正し、何度も悩み、少しずつ磨いてきた。
最高速でゴール板を後塵に排し、徐々にスピードを落とす。わずか二分にも満たない走りは、今の私を満足させるのに十分だった。
上がる息を整えながら、確かな手応えを感じたまま後ろを振り返る。ストップウォッチを持ちながら駆け寄ってくるトレーナーさん。その表情を見て、先に笑みがこぼれた。
分かりやすい。私のタイムが良かった時に見せる顔をしていた。
「完璧だよ、ジャック!」
大げさに喜ぶトレーナーさんの声が、静かな練習場に響いた。
「入りの三ハロンも良かったし、中盤の息の入れ方も綺麗だった。終盤手前で無理に上げすぎなかったのに、最後の伸びが落ちてない。本当に良かったよ!」
彼はストップウォッチを見ながら、少し早口でそう言った。
こういう時の彼は、普段よりも感情が分かりやすい。穏やかで、優しげで、どちらかと言えば感情表現が得意ではない人なのに、良い走りを見た時だけは言葉が増える。
はしゃぎすぎです、と思いながらもつられてクスリと笑った。
これではどちらが成人なのか分からない。
……私は、名家に生まれたわけではない。
地元で幼い頃だけ神童と呼ばれ、中央トレセン学園に入学して自分の立ち位置を認識させられた。そんなウマ娘の一人だった。
自分で言うのも何だけど、上澄みではある。けれど、その上澄みの中にも明確な格差があることを、私は否応なしに実感した。
ここには、本物がいる。当たり前のように速く、当たり前のように強く、当たり前のように人の視線を奪うウマ娘たちがいる。
名家に生まれたアドバンテージ。誰もが羨む天性の才能。
それに奢ることなく、努力を積み重ねてきた者達が居住む魔境。
私の努力など、彼女たちの才能と努力の前では容易く霞んでしまうのではないかと思ったことも、一度や二度ではない。
トレーナーさんも、誰もが知る名トレーナーというわけではなかった。むしろ無名も無名の新人トレーナー。
優しそう、というよりは可愛らしい顔立ちと背丈。スーツ姿よりも学生服の方が似合うのではないか。そんな失礼なことを考えてしまった回数は、一度や二度ではない。
選抜レースで、地元で伸びていた天狗の鼻を折られて惨敗続きだった私。
優秀なウマ娘に声をかけようにも、実績のある中堅、ベテランに割り入るだけの実績が無かったトレーナーさん。
偶然だったのか。波長が合ったのか。
それとも、互いに足りないものを抱えていたからこそ、ちょうどよかったのか。
今となっては分からない。けれど確かなことが一つある。
未熟な私と、新人トレーナーが出会った先にある今。二人で編み出した、努力の結晶がこの『逃げ』だった。
確かな手応えとともに、火照りが残る息を体内から吐き出す。
「今日はここまでにしよう。かなり良い負荷がかかってる。これ以上やると明日に残るよ」
トレーナーさんがタブレットに何かを入力しながら言った。その言葉に、私は一度頷く。
確かに、今日のメニューは十分こなした。予定していた内容は全て終わっている。これ以上は自主練の領域だ。
……なので。
「トレーナーさん。私はもう少しだけ残ります」
「え?」
タブレットを操作している手が若干慌てるように止まった。
「残るって……自主練?」
「はい。軽く流すだけです」
「それなら俺も見るよ。暗いし、疲労もある。万が一があったら困るから」
予想通りの返答に心の中で微笑む。彼はそういう人だ。
私が残ると言えば、自分も残ると言う。練習を見るのが仕事だから、という建前を使いながら、私の事を心配してくれている。
分かっていたからこそ、少しだけ強く首を振る。
「いえ。今日は本当に大丈夫です」
「でも」
「トレーナーさん、明日のメニュー調整も残っていますよね。それに、データ整理も。私の練習を見るだけが仕事ではないはずです」
言いながら、少しずるい言い方だと思った。
トレーナーという仕事は、練習場に立っている時間だけでは終わらない。むしろ、それ以外の業務の方が膨大だ。
メニュー作成。
映像確認。
ラップ分析。
想定される対戦相手、ライバルの研究。
栄養管理。
体調管理。
次走の想定。
ぱっと思いつくだけでこれだけある。この他にも業務はあるだろう。
トレーナーさんはとても頭の良い人だ。そんな彼でも夜遅くまでトレーナー棟に残り続けなければ終わらない仕事の山。
もし私が頼めば嫌な顔一つせずに見てくれるだろう。だからこそ、彼の時間を削りたくない。
それは嘘偽りない本心である。
……本心の半分を占める理由である。
「……本当に、軽くだけ?」
「はい」
表情には出さない。
目にも、できるだけ出さないようにした。
感情は目に出やすい。友達からはよくそれでからかわれているため、他の人以上にバレバレなのだろう。
意識して平常心を平静を装う。
トレーナーさんはしばらく私を見ていた。何かを言いかけて、やめる。
薄々、気づいているのかもしれない。でも、小さく笑みを浮かべてくれた。
「分かった。無理はしないこと。違和感があったらすぐやめること。終わったらメッセージを送ってね。あと、ミーティングは今日はなしで」
「はい。ありがとうございます。トレーナーさんもあまり遅くならないでくださいね」
笑顔の奥に見える心配の色。それでも最後には小さく頷いてくれた。
トレーナー棟へ向かう小さな背中を見送る。
その姿が見えなくなるまで待ってから、私はゆっくりと息を吐いた。
辺りはさらに静かになっていた。夜の練習場に残っているのは、もう私だけとなっていた。
照明に照らされたターフは、昼間とはまるで違う場所のように見える。観客はいない。実況もない。ライバルもいない。聞こえるのは、自分の呼吸と、遠くで鳴く虫の声だけ。
空を見上げると、雲の切れ間から星が覗いていた。人工的な照明に少し霞んではいるけれど、それでも確かに輝いている。
一度目を閉じる。トレーナーさんと積み上げてきた逃げは、私の誇りだ。それは間違いない。
精密に刻むラップ。相手の脚を削る展開。最後まで落ちないスピード。
勝つために必要な全てを詰め込んだ、私とトレーナーさんの合作であり、努力の結晶。
けれど、胸の奥にあるもう一つの走りを私は消せなかった。
計算された逃げではない。
勝つためだけの逃げでもない。
それは、もっと遠くへ行く走り。
誰もついてこられない速度で、ただ一人、夢の向こう側へ行ってしまうような走り。
私が幼い頃から追い続けている、理想化された栗毛の背中。
実在した彼女そのものではないのかもしれない。
私が記憶の中で何度も見返し、何度も憧れ、何度も夢見たことで作り上げてしまった幻影なのかもしれない。
それでも、その背中は今も私の前を走っている。
私はスタート位置に立った。
今度は、さっきとは違う。
ぐっと身体を沈め、息を吐く。
閉じた脳内が、『あの人』の幻影を描く。
後続の脚を削る展開も考えない。
ラップの整合性も、最後の粘りも、勝つための最適解も、一度だけ意識の外へ置く。
必要なのは、圧倒的な速さ。
あの日、『57.4』で刻まれた異次元の通過点。そこへ少しでも近づくための走り。
合図はない。誰も見ていない。
目を見開き、歓声一つ無い無人のトレーニング場を駆け出した。
最初の一歩から、先ほどより明らかに速い。
身体が前へ倒れ込む。流れるような流線型の走行体勢が、爆発的な加速を生み出す。
序盤から抑えない。息を入れない。身体が許す限り、前へ、前へと進む。
それは、トレーナーさんと築いた走りとは違っていた。
あまりにも粗く危うい走り。勝つための走りとして考えれば、褒められたものではない。
けれど胸の奥は熱かった。
視界の先に、栗毛を靡かせた背中を一瞬垣間見る。
まだ届かない。それでも、以前よりは近い。そう思えた。
本格化を迎えた身体は、以前とは違う。脚は強くなった。心肺も鍛えた。
レースで勝ち、レコードを刻み、多くの人が私に夢を重ねた。
今年こそ。今の私なら。
胸の奥で、強い意志が形になる。
逃げとは、夢。
『あの日終わってしまった夢の続きを、私なら見せられる』
夢中で異次元の幻影を追いかけ、気づけば既に一周していた。
減速し、苦しい中で呼吸を整える。
徐々に近づけている。その手応えも、確かに感じる。
見せたい。いや、見せてみせる。
誰もが忘れられずにいる、あの鮮烈な輝き。
もう二度と見られないはずの逃亡劇。そう……
(あの日止まってしまった時計の針。私が動かします)
観客の居ない一人舞台。夜のターフで演劇を終えた私は、満天の星空に静かに誓いを立てた。
自分の好きな馬は
1位 パンサラッサ
2位 サイレンススズカ
3位 ツインターボ
4位 タイトルホルダー
5位 ジャックドール
6位 メイショウタバル
7位 イングランディーレ
です。分かりやすいなコイツ。