中編投稿したばかりですがすみません、筆が乗ってしまったのでマンハッタンカフェ短編です。3000文字程度とかなり短め。
数年前思いつき、そのまま寝かせていたものですが一旦形になったので投稿します。
いつもとは少し違った書き方になります。
コラム第100回記念『喫茶 まんはったん』
ウマ娘のレースは、今やプロ野球やJリーグにも並ぶメジャーな興行となった。
日曜日の重賞ともなればテレビの地上波で生中継が組まれ、駅前の大型ビジョンには勝負服を身に纏ったウマ娘たちが映し出される。グッズ売り場には行列ができ、応援タオルを首に巻いた小学生から、勝負服を模したネイルを施した御婦人まで、客層を選ばない人気ぶりである。
街の書店にはウマ娘専門の雑誌棚が一角を占め、最近では海外人気の高まりを受けて空港の売店でも関連グッズの取り扱いを始めたと聞く。
かつては一部の熱心なファンだけが集うものだったスタンドも、今や親子三代で訪れる家族連れで満席になるというのだから、時代の移り変わりというのは恐ろしいものである。
……という訳でその人気にあやかり、私が執筆するウマ娘コラムも無事に第100回目を迎えることが出来た。
私のような零細文字書きの書くコラムが雑誌の一番人気だというのだから、出版社の未来が大変心配で夜も眠れそうにない。せめてもの売上の助けになるよう、出涸らしの頭を絞って筆を執ろうと思う。
第100回記念ということで、今回はいつものような名馬、名レース紹介から離れて、ちょっとした体験談を書きたいと思う。
舞台は、都心から電車を乗り継いで小一時間。緑豊かな景色の中、ひっそりと佇む一軒の喫茶店だ。
看板に大きな文字はなく、木製の小さなプレートに焼き印で店名が刻まれているだけ。知る人ぞ知る、という言葉がこれほど似合う店も珍しい。
この店を営んでいるのが、あるウマ娘の元トレーナーと、現役を退いた本人……マンハッタンカフェその人なのだと聞いて、私は取材と称して押しかけることに決めた。
白状すると、これは半分どころか九割方、私自身の私情である。彼女が現役の頃、私は彼女のレースを追いかけ続けたファンの一人だった。
木のドアを押すと、頭上でカウベルが小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
奥から顔を出したのは、写真で見た記憶よりいくらか柔らかな顔つきになった元トレーナーだった。
エプロン姿がすっかり板についていて、穏やかな笑みを浮かべている。整った目鼻立ちに、涼しげな一重の目元。若々しさを感じさせる佇まいは、30を過ぎているようにはとても見えない。
現役時代は所属先のウマ娘たちの間でも密かに人気が高かったという噂を、今更ながらに思い出す。当時は本人を巡って陰でGⅠレースにも劣らない熾烈な駆け引きもあったと聞くが、結局のところ、彼の隣の定位置を射止めたのは他ならぬ担当ウマ娘だった。
「……いらっしゃいませ」
静かな声が響いた。元トレーナーの後ろから、マンハッタンカフェがそっと顔をのぞかせる。漆黒の長髪をスラリと伸ばし、静かな輝きを放つ金色の双眸をより際立たせている。現役時代から評判だったその美貌は、更に磨きがかかったように見えた。
凛とした佇まいはそのままに、纏う空気はずいぶんと柔らかくなったように思う。トレーナーがカウンターの向こうへ戻ると、彼女は当然のようにその隣に立ち、少しだけ体を寄せた。トレーナーの肘に自分の肘をこつん、と当てる。それだけのやり取りに、二人分の長い年月が詰まっているように見えた。
案内された窓際の席に腰を下ろすと、カウンターにアルコールランプの小さな火が灯された。
マンハッタンカフェが取り出したのは、独特の形状をしたガラス器具――サイフォンだった。
下部のフラスコに湯を張り、上部のロートを軽く傾けて差し込む。布フィルターの位置を指先でそっと整える仕草は、驚くほど丁寧だった。フラスコの口元を布で軽く拭い、水滴の一つも残さないよう気を配る様子からは、長年の習慣として体に染み付いた几帳面さがうかがえる。
火にかけられた湯がやがて沸き立ち、ぽこ、ぽこ、と小さな泡を立て始める。しばらくすると、湯はガラス管を通って一気に上部のロートへと吸い上がっていった。琥珀色に染まった湯気が立ちのぼる中、彼女は挽きたての粉を静かに投入し、竹べらでゆっくりと円を描くように撹拌する。
その所作は驚くほど静かで、まるで何かの儀式のようだった。
「……お待たせしました」
やがて運ばれてきたのは、透き通るような琥珀色のコーヒーと、添えられた一切れのチーズケーキだった。
まずカップに鼻を近づけると、香ばしさの奥にほのかな甘い香りが潜んでいるのが分かる。
一口含むと、驚くほどすっきりとした口当たりの後から、じんわりと甘みが追いかけてくる。サイフォン特有の澄んだ味わいに、思わず二口目、三口目と杯を重ねてしまう。
この感動をどうにかして読者に伝えたいのにありきたりな褒め言葉しか出てこず、珈琲に関する教養の無さを本日ほど恨んだ日はない。
添えられたチーズケーキは、口に入れた瞬間にほろりと崩れるほど滑らかで、コーヒーの後味とちょうどよく釣り合っている。聞けば、コーヒーは一貫してマンハッタンカフェ、焼き菓子の類は彼の受け持ちなのだという。
食べ進めながら、それとなく店内を見渡す。壁に飾られているのは現役時代の写真ではなく、名も知らぬ画家の静物画が数点だけだった。
長距離GⅠに於いて無類の強さを誇り、3度の栄冠を掴み取るという偉業を残したというのに、栄光を飾り立てるつもりはこの二人にはさらさら無いらしい。
その代わりというべきか、二人の距離の近さは隠しようもなかった。トレーナーが洗い物をする合間に、マンハッタンカフェがふきんを差し出す。渡す際、口元をわずかに緩めていた。
トレーナーが小声で何か言うと、彼女は「……もう」と小さく呟きながら、彼の肩を軽く小突く。かと思えば、二人並んでカップを拭き、肩が触れ合う距離のまま黙って作業を続けている。
声高に惚気るでもなく、しかし目の前で延々と繰り広げられるこの空気に、こちらが少々当てられてしまったことを白状しておく。
食後、レジで会計を済ませながら世間話をしていると、豆の量り売りもしているという話になった。せっかくの機会なのでおすすめを尋ねると、マンハッタンカフェが少し考えてから私が飲んだ珈琲のものを提案してくれた。
その場で焙煎したてを渡せるとのことで、マンハッタンカフェが奥の焙煎機の前に立つ。トレーナーが手際よく生豆を計量し、それをそっと彼女へ渡す。
焙煎機がゆっくりと回転を始め、パチ、パチと豆のはぜる音が店内に響き始めた。二人でその音に耳を澄ませて確認し合う横顔は、驚くほど近い。焙煎の終わった豆を袋に詰める間も、二人の肩は触れたままだった。
「……またのお越しを、お待ちしております」
小さな声で見送られながら、まだほんのりと温かい豆の袋を鞄にしまい、店を後にした。
あれだけの栄光を築いた二人が今は小さな喫茶店を構え、当たり前のように寄り添っている。言葉を交わさずとも成立してしまう距離の近さに、部外者である私はただただ羨ましさを覚えるばかりだった。それこそが、彼女たちが選んだ次の道なのだろう。
片や、顔を合わせれば笑顔ではなく文句と皮肉の応酬となる我がカミさんではあるが、今日くらいは日頃のなけなしの感謝と共にコーヒーを淹れてみるのもいいだろう……鞄の中の袋を軽く撫でながら、私はゆっくりと帰路についた。