事前に教えてもらっていた執務室のフロアと案内板を一応照らし合わせてから、エレベーターに乗って数字を押し込む。……最初のこの、おなかの中だけが動いているような独特の浮遊感が、私は昔からあまり得意じゃなかった。
ぽす、と壁に寄りかかる。今日も今日とて携えた愛用の
数千単位の学校が集まってできた学園都市、キヴォトス。
私が在学するミレニアムサイエンススクール――通称ミレニアムは、数ある学び舎の中でも三大学園のひとつに数えられる程度には、大きな教育施設として知られている。
名門としても名高いほかの二校と比べると、歴史は大して長くない。それでもうちの高校がそんなご大層なネームバリューを持つことができたのは……高い技術力と徹底された合理主義で、科学の最先端を突き詰めてきたから。
けれど、その冷血とも呼べる運営方針のもとに切り捨てられてきた思想や団体は、決して少なくなかった。私たちの部活……「レトロ風ゲームを作る」ことを目的とするゲーム開発部も、VRですら古い今の時代から逆行するものとして(あと日頃の素行が普通に良くなくて)一度、廃部の
にっちもさっちも行かなくなった私たちが、最後の悪あがきとして頼ったのが――このシャーレだった。
ポーン、という優しい電子音で我に返る。執務室――先生のオフィスがある階に到着した音だった。ぼーっとしていたけれど、どうやら途中で誰かと乗り合わせたりはしなかったみたいだ。
エレベーターを降りて、取り敢えず正面に見えたガラス張りの扉に近づいていく。初めて訪れる場所の嗅ぎ慣れない匂いと、朝の静寂に響く自分だけの靴音が……ちょっぴり、不安をあおる。
(……こ、ここで合ってる、よね……?)
きょろきょろと視線を
ピピッ。カチャッ。
……開いちゃった。いや開いちゃったというか、開けちゃったんだけど。
え、いいんだよね、だって入口と執務室は同じカードで入れるようにしてあるって言ってたし、このイ、インデペン、デント……なんとかかんとかって下にも多分シャーレって書いてあるし、ということは入っても大丈夫なんだよね、これ……?
もちろん答えてくれる人は誰もいない。仕方がないので覚悟を決めて、コの字型の取っ手を……そっと握る。
「……し、失礼しま~す……?」
「――はぁ〜い、いらっしゃいませ~☆」
恐る恐る踏み入った部屋の奥から、どの推測とも異なる甘く間延びした声が届く。最悪の場合、いきなり例の13.97mm弾がおでこに飛んでくる想定でいたので、結構な肩透かしだった。
……次いで現れた女の人に、私は思わず息を
(わあ……)
こういうのを……
歩みに合わせて、明るいロングヘアと右側に結わえた輪っかがふわふわと揺れている。着崩したクリーム色のカーディガンの内から、真っ白なブラウスと黒チェックのプリーツスカートが覗く。
いかにも女性らしくメリハリのついた
(キレイな人――ッじゃなくて!)
「お、おはようございます!」
今すぐにでもスケッチしたい衝動をどうにか抑えて、まずは挨拶。……なんだかずっと見ているのも失礼な気がして、思わずお辞儀の角度が深くなってしまう。
「うんうん、おはようございます。才羽、ミドリちゃん……で、合ってますか?」
かけられた声に顔を上げると、くりくりと大きくて優しそうなタレ目と視線が絡んだ。
「は――はい! ミレニアム一年の、才羽ミドリです! 今日はよろしくお願いします!」
声が
さっきまでとは明らかに違う意味で硬くなってしまっているのが、自分でもよく分かった。
(う、うちの部活にはいないタイプの人だ……)
まあ、そもそもうちは
理系の学校特有の変な人ばかりが目立つミレニアム全体で考えると、こういった柔らかい雰囲気の人は絶滅危惧種にも等しいような――
そこまで考えてふと、くすくす、と笑みをこぼすお姉さんに気付く。
「え、えっと。なにか……?」
「……うふふ、ごめんなさい。何というか……緊張できゅっとなっちゃってるのが、あんまり可愛らしくって……」
そう言って口元に手を添えて笑う姿も、なんだか上品で。どこかお嬢様
……それはそれとして今の言葉にどう反応していいのか分からず、言語化出来なかった感情をもにょもにょと口の中で転がす。
「あ、申し遅れました。私、アビドス高等学校二年の、
その学校の名前に、私は聞き覚えがあった。
(アビドス……? ってどこかで……えっと……)
私が記憶を辿って二の句を継げないでいると……ポン、という優しい
「それじゃあ、まずは出勤記録をつけましょうか。こちらへどうぞ、ミドリちゃん」
「うわ、は、はい。……あのっ」
「うん?」
振り返られて、小首を傾げられる。
「えっと……よ、よろしくお願いします。……ノノミ、さん」
「――あはっ♡ うんうん。こちらこそ、よろしくお願いしますね~☆」
同じ挨拶を繰り返しただけの、ガチガチの一幕だったけれど。
私の初めてのアルバイトは、今のところ穏やかにスタートを切れたのだった。