八雲みたまは恋をされた。一目惚れだった。
一人の青年を巡る、魔法少女の恋模様。
pixivにて開催されたweb合同の参加作品です。
店の前の木に止まった蝉が、これでもかと鳴き声を上げていた。ちょうど窓から見えるその姿を、保澄雫はカウンターに片肘をつきながら眺めていた。蝉は一週間しか生きられないというのはただの迷信だと、喫茶店にアルバイトに来ている大学生の四谷葵が言っていたのを、ぼんやりと思い出していた。その葵は今、いつもの窓際の指定席を参考書で占領している十咎ももこの向かいに座って、くるくると器用にペンを回しながら数学の問題を解いていた。店のエプロンを身につけたまま。
「……葵君、いま仕事中でしょ?」
「接客中だよ。なあ?」
あっけらかんと葵がそう言うと、声をかけられたももこが少しびくりとした後に、首が取れるほどの速度で首肯していた。雫は小さく溜息をついて、それから店の中を首を軽く動かして眺めた。平日の真昼間、店内には地域のお年寄りが二人座っているだけで、その二人組も談笑に夢中で、飲み干されたコーヒーカップが寂しそうにしていた。雫はもうひとつ溜息をついて、蝉の声が席からの話し声をかき消していることに少しだけ感謝をした。
雫とももこが通う神浜市立大学附属高校が夏休みに入ってから、早いもので既に半月が過ぎていた。元々実家の喫茶店を手伝っていた雫は、夏休み中もいつも通り仕事を続けていた。父親の友人の息子だという神浜市大の大学生である葵がアルバイトに来たのは今年の春のことで、今ではすっかり喫茶店の一員として馴染んでいたし、雫も遠慮なく話せる関係になっていた。夏前からは今日のように二人で店番をすることも珍しくなくなり、夏休みに入って両親が親戚の家に遊びに行ってしまってからは、週に一度の定休日以外は毎日顔を合わせていた。雫にとっては彼のような年上の男性と交流することには少しだけ違和感があったが、彼の纏うどこか懐かしい煙草の匂いと、それとはあまり似つかない陽気な性格と、妙な事ばかりに博識な語り口とが、微妙な違和の原因なのだと感じていた。
「この数字、どっから出てきたんだ……」
「これとこれを掛けると、ここと同じになるだろ? それで……」
もはや店員というより家庭教師になっている葵の姿を横目に見ながら、雫は小さくあくびをした。
「うーん……よくわからん……」
「葵君、ちょっとお願い」
頭を抱えているももこの隣を通り、雫の方を見もせずにひらひらと手を振る葵に見送られて、雫は店の外へと出た。涼しげなドアベルの音と共に蒸した夏の空気と蝉の叫び声が店の中になだれ込み、雫は一瞬眉をしかめた。後ろ手で扉を閉めながら、ズボンのポケットから煙草の箱を取り出すと、店先に置かれた銀色の灰皿へと足を向けた。雫が高校生でありながら愛煙家であることは近所では有名で、いちいち注意をしてくるような顔見知りもいなかったから、堂々と箱を小突いていた。ふと気配を感じて顔を上げると、ちょうど雫の視界から建物の陰に隠れるあたりに、店の方を窺うような人影が見えた。雫は咥えかけていた煙草を箱に戻しながら、その影の方へと歩んだ。無意識に触れた左手に嵌められた指輪は、いつもと変わらない綺麗な薄紫色をしていた。
「ちょっと……」
声をかけてから、それに驚いて振り向いた少女によく見覚えがあることに気付いた。
「……みたまさん?」
「あらあ、雫ちゃん。びっくりした……」
オーバーに胸を撫でおろす八雲みたまの後ろから、二つの少し小さな影がひょっこりと顔を出した。雫にとっては後輩で、店にいる十咎ももことよく一緒にいる二人組だった。
「十咎さんなら、店の中にいますけど」
灰皿に戻りながらの言葉に、みたまは違う違う、と軽く言った。
「ほらぁ、最近ももこったら、よく雫ちゃんの店に来てるじゃない?」
「……まあ、来てますね」
その目当てが葵であることは、いちいち本人に聞かなくともわかる話だった。
「野次馬よ、や・じ・う・ま」
「レナちゃん、あの人、やっぱりカッコいいよね~」
「まあ、ジュニアにでもいそうな顔ね。ももこが好きそうな顔」
「じゅにあ……?」
「アイドル候補生みたいな、ってこと」
確かに……なんて相槌を打っている秋野かえでと、その隣で品定めでもするような眼をしている水波レナ。それに十咎ももこを加えた三人組は、この神浜市ではそれなりに名の通った魔法少女トリオであり、二人の付き添いのような主催者のような出で立ちの八雲みたまは、神浜市の隅で調整屋という怪しげな商売をする魔法少女であった。そして雫もまた、魔法少女である。気を取り直して煙草を咥えた雫の横で、みたまが店の窓を眺めていた。
「入ればいいのに……」
「お邪魔するのもねえ……」
ライターの火が煙草に移り、その先から紫煙が立ち上るさまを、ふたりはぼうっと眺めていた。そうして雫は肺の中に煙を導きながら、店の中を覗き込みはじめたみたまの横顔を、少し離れたところからきゃいきゃいと何かを話している二人組の姿を、ぼんやりと眺めていた。
その日は、何も特別なことのない平凡な目覚めで、みたまはすっかり日が傾いた頃に誰もいない調整屋のソファの上にいた。完全に目覚めていない頭を抱えたまま、視界の隅から隅までを覆う打ちっぱなしのコンクリートの上に、今日の日付と予定を滑らせていた。
みたまがももこの恋心を知ったのは、そんなよくある日の中で、彼女が調整屋の稼業としてももこのソウルジェムを調整している最中のことだった。夏の長い日が沈む頃にももこが調整屋の戸を叩いた時、みたまは今日初めての食事であるカロリーメイトを口に咥えながら、情報を求めてSNSを巡回しているところだった。
「来たぞー、調整屋」
「む、もごもご……」
「飲み込んでから喋れよ、まったく……」
二度三度咀嚼したのちにごくりとものを飲み込んで、それからみたまは改めて口を開いた。
「いらっしゃぁい、ももこ。待ってたわよぉ」
軽く膝を払ってみたまは立ち上がった。今日はももこが調整を受けにくる日で、それ以外に予定はなかった……はずだと、みたまは口内で反芻した。
「さ、準備できてるわ。早速始めちゃう?」
「ん? ああ、じゃあよろしく。今日はやけにせっかちだなぁ。後に予定でもあるのか?」
「やだぁ、無いわよそんなの。今日はももことふたりきり、なんだから」
「あのなぁ……。アタシにそのケはないっての」
みたまは気付かれないように軽くももこの後ろを見回したが、やはりいつもの二人組はついて来ていないようだった。
「ほら、これはサービス」
ももこは施術代のグリーフシードと一緒に、通学鞄から健康志向なお茶のペットボトルを一本取り出して、その二つを乱雑に机に置いた。みたまは置き去りだったカロリーメイトの空箱をさっと手に取って、視界の外にあるはずのゴミ箱へ投げ込んだ。
「気が利くのねえ、ちょうど喉が渇いたところだったのよ。さすがももこ」
「珍しくグッドタイミングってわけか、そりゃよかった」
ペットボトルの封を切って、みたまは軽く口をつけた。そうしてすぐに蓋を閉めてテーブルの上に置き直した後に、くるりと後ろを向いた。
「さ、遅くなる前に始めちゃいましょ」
彼の姿を初めて見たのは、完全な偶然だった。新西区にある雫の実家の喫茶店は、ももこと雫が同級生であるということも、同じ魔法少女であることもあって、お互いが中学生の頃から時たま訪れていた。その日、中学を卒業して高校一年生になりたてのももこは、ほんの気まぐれで喫茶店に立ち寄った。
「いらっしゃい……なんだ、十咎さん」
「なんだとはなんだよ、ご挨拶だなあ」
保澄雫は愛想がないように見えて意外とお茶目な少女なのだと、ももこはここ数年の付き合いの中で感じていたから、この程度の冗談の言い合いは日常茶飯事だった。一番窓際のテーブル席がももこの特等席で、いつも通りにその席に座ると、雫がタイミングよくお冷とおしぼりを提供しに来た。
「いつもの?」
「いつもの」
それだけで注文が通じるくらいには、ももこはこの喫茶店に通っていたから、その日に感じた違和感が何なのかをすぐに気づくことができた。
「……ん、あの人は?」
普段なら雫の両親がいるところに、見慣れない男性の後姿があった。ももこより少し背の高い彼は、遠目から見ても分かるスタイルの良さがあり、いつかライブで見た男性アイドルの姿とよく似ていた。
「あの人は四谷葵君。最近アルバイトで入ってきたの」
お盆を前で抱えるように持った雫が、軽く葵と呼ばれた青年に顔を向けた。奥のテーブル席に座った地元の初老の二人組と談笑しているその姿はとても仕事中には見えず、雫が深く溜息を吐いているその理由も、ももこは言われずとも察することができた。
「あはは……」
「笑い事じゃないんだけど……」
もう一度浅く溜息を吐いてから奥に引っ込んでいく雫の後姿を、ももこは苦笑しながら眺めていた。氷の浮いたお冷を一口含むと、初夏のさわやかな暑さで火照った体に涼しく染みた。冷たいおしぼりで手を拭いてから、首筋や顔も同じように拭っていると、近づいてくる人の気配を感じて、ももこはついと顔を向けた。
「お待たせしましたぁ」
一目惚れをした。そうとしか言い表せない衝撃が、ももこの全身を駆けた。珈琲とケーキを乗せた盆を手に持った青年が、隣に立っていた。端正な顔立ちで、綺麗な二重の眼がももこを見ていた。形のいい唇が、ゆっくりと何かを告げていた。女子の中では長身であるももこを越える背丈が、テーブルに影を落としていた。黒い靴が床材と奏でる硬質な音が、小気味よくももこの体内に響いていた。その細く綺麗な指が、注文をテーブルに運んでいく様を、瞬きもせずに見つめていた。ソーサーとテーブルが触れる微かな音でさえ、はっきりと聞き取ることができた。その青年の一挙手一投足を、瞳が勝手に追いかけていた。伝票を丸めて立てた後、軽くお辞儀をして去っていくその後姿を、ただ茫然と眺めていた。
十咎ももこは一目惚れをした。ふと我に返ったときには、珈琲はすっかり冷めてしまっていた。
春の桜が散り、葉桜が茂り始めた頃、ももこはすっかり常連となった喫茶店へと歩を進めていた。レナとかえでには色々と言い訳を凝らしてはいたが、もう薄々感づかれているのはももこもわかっていた。雨が降る新西区はすっかりコンクリート舗装ばかりで、ローファーが水溜まりを踏み抜かないように気を付けながら歩かなければならなかった。ビニール傘の向こう側は水の屈折でうまく見えず、足元に気にしながら歩いていたももこには、ふわりと香った煙草の匂いが誰のものか分からなかった。
「お、今日も来たな」
雨音と一緒に鼓膜を揺さぶった声が、ももこの心臓を打ち鳴らした。顔を跳ね上げると、喫茶店の壁に寄り掛かった葵が、右手に持った煙草の灰を灰皿へと落としていた。橙色のフィルターを形のいい唇に挟むと煙草が先から灰に変わり、赤い火が徐々に根元へと迫っていった。煙草を口から離した後に高めな鼻からひとつ息を吸って、それから煙を深々と吐き出した。一連の流れを恍惚と眺めていたももこは、葵の怪訝な目と目が合って、はっと気が付いた。
「え、あ、うん……」
「おっと、あんまりサボってると雫ちゃんに怒られるからな。ほら、入った入った」
半分ほどまで灰になった煙草を灰皿の中に捨てて、葵は店のドアを開けた。ももこは軒先で傘を振っていると、後ろで葵がドアを開けたまま待っていることに気付いて、そそくさと店の中へと入っていった。
「いらっしゃい。ほら葵君、サボってないで接客」
カウンターでサイフォンの面倒を見ていた雫が、少し棘のある声と一緒にラミネートされた季節のおすすめメニューを差し出してきた。
「へぇ、いちごサンドかぁ……」
かわいい、と言いかけて、ももこは思わず口を閉じた。
「うまいぞ、これ。珈琲に合うし」
「そ、そうなんですか……」
相変わらずももこは葵を前にすると動悸がおさまらなかった。彼の目と目が合うたびに心臓が口から飛び出るようだった。ここ数ヶ月で、ももこは四谷葵という青年のことを少しずつ知れてきていた。大切なことは、今年に入ってから今まで彼女がいないことと、頭がいい女性が好きなこと。それから、本人も意外と勉強ができること……。
結局いつもの珈琲セットを頼んだももこは、通学カバンの中から教科書とノートを取り出した。彼の足音が雨音に混じって響いて来るのを、今か今かと待ちわびながら……。
記憶の混濁から覚めると、みたまはいつも手のひらに親指を押し付ける。いつか何かで読んだ、夢を夢だと認識するためのルーティーンだった。左手の親指が右手のひらを突き抜けない事を確認して、みたまは知れずに浅くなっていた呼吸を整えた。
魔力の調整は、相手の魂そのものであるソウルジェムに干渉し、魔力の流れを補正することで成り立つが、その為には他人の心の内部に自分の感覚を入り込ませる必要がある。魔力を混入させるその過程で自身と相手の魂の境目を区別できなくなり、相手の存在が自分の中に流れ込み、本来干渉する必要のない相手の記憶や感情と同調してしまう時があった。
みたまはひとつ深呼吸した後に、もう一度ももこのソウルジェムに手を伸ばした。眠るように深く息をしているももこはみたまの変調には気が付いていないようで、つうと垂れた冷や汗を手袋で拭った。僅かに乱れた魔力の流れをいつものように補正した後、ももこの肩を叩いた。
「はい、おしまい」
自分の声が震えていないことを確認しながら、みたまは努めて明るく言った。ゆっくりと目を開けたももこは少しの間そのまま横たわっていたから、みたまがふらりと眩暈を覚えた後に、半ば倒れこむようにソファーに座り込んだのを見ることは無かった。
「……ん、ああ」
もう終わったのか、なんて呟きながら伸びをするももこの姿をぼんやりと見つめながら、みたまはからからに乾いた喉がはりついていくのを感じていた。何か言葉を発するとももこに感じ取られてしまいそうで、彼女がベッドから降りて服を整え、いつものポニーテールを結い直している姿を見つめていた。
「いつもありがとな。んじゃ、今日はレナとかえでと待ち合わせしてるから」
じゃあな、と鞄を抱えて調整屋を出て行くももこの姿を、みたまはにこやかに手を振りながら見送っていた。扉が閉まる音が聞こえた後に、みたまは大きく息を吐きながら、ソファーに沈んでいく身体に任せるままになっていた。ふと視界の端に、ももこが持ち込んだペットボトルが見えた。みたまは健康志向を謳う味の薄い緑茶が嫌いだった。一口だけ減っていたそれを手に持つと、裏に後付けされたシンクの方へと歩いて行った。
「煙草、吸いますか?」
そう聞かれて、みたまはにこりと愛想笑いを返した。
「やだわぁ、調整屋さんは十八歳よ?」
雫はひどく怪訝な顔をした後に、差し出しかけていたメビウスの箱をポケットにしまった。すっかり短くなった煙草を灰皿の中に放り込んで、くるりと踵を返して扉に手をかけた。
「野次馬はいいですけど、迷惑にならない程度でお願いします」
呆れたように店に戻っていく雫に最後まで笑顔を向けながら、みたまは案外つまらないこの野次馬行為にすっかり飽きてしまっていた。レナとかえでは今では二人で妄想話に花を咲かせているばかりだし、ももこは葵の所作に見とれるばかりで行動を起こそうともしないのだった。
視線を感じた。みたまは喫茶店の窓を見た。葵がみたまを見つめていた。彼は考えるようなそぶりを取ったまま、一時停止を押されたように固まってみたまをただ見つめていた。目が合った。確かにイケメンだと言われるだけはある、とみたまは思いながら、いつも通りの営業スマイルを返した。さっと葵の顔に朱がさして、それから気まずそうに視線を逸らすのを、みたまはじっと眺めていた。みたまは自分の中で、蛇がむくむくと鎌首をもたげてきているのに気づいていた。
「ねえ、レナちゃん、かえでちゃん。そろそろ帰りましょうか」
段々と痴話喧嘩になりつつある二人の間を取り持つように、みたまは片手ずつをそれぞれの肩においた。それではっとしたのか二人の顔が揃ってみたまの方を向いて、レナは気まずそうに、かえでは困ったように頷いた。
「う、うん……」
「レナちゃん、ごめんね……?」
「ふん。まあ、レナも熱くなっちゃったし……」
二人の謝り合いを背中で聞きながら、みたまはつまらなそうに空を見上げた。快晴だった空には少し雲がかかり、太陽が流れてきた雲に隠れて、厳しかった日差しが少し和らいでいた。いつの間にか耳障りな蝉の声は消えていて、ずりずりと靴が擦れる音ばかりが三人を囲んでいた。
「それにしても、かっこよかったねえ、あの人」
かえでの呑気な声。
「ま、ももこがホレるのもわかるわ。ああいう顔のブロマイド、いっぱい持ってるし」
レナも珍しく棘のない声だった。
「あの、みたまさんはどう思いました?」
「そうねえ……。かっこいいわよねぇ、葵君」
「ですよねぇ。ももこちゃん、がんばってほしいなあ」
顔を少し赤くして、夢でも見るようにぼうっとして。みたまは後ろを振り向きもせずに歩き続けた。
「やあ。今日は珍しい三人だね。何をしているんだい?」
聞き慣れた声で話しかけられて、みたまは反射的に目線を下げた。歩道の少し先に、キュゥべえがいた。地面に直接座っているその姿は猫のようにも見えた。
「あ、キュゥべえ。ももこちゃんの様子を見に行ってたんだよぉ」
「ももこの? ああ、最近通い詰めている、あの喫茶店の事かい?」
「なんだ、知ってるんじゃない。白々しい」
キュゥべえを交えてまた賑やかになった会話をにこやかに眺めながら、みたまは昼下がりの帰り道をゆっくりと歩いて行った。
「なあ十咎、あの美人さん知ってるか!?」
数学の問いに打ちのめされていたももこの目の前で一緒に考えていたはずの葵が突然身を乗り出してきたから、ももこは驚いて持っていたシャーペンを床に落としかけた。
「うわぁ!」
「あ、帰る! あの人だよ、あの人! 一番背が高い……」
「えーっと、あいつは……」
振り返って窓を見たももこには、店を離れていくその後姿には嫌という程に見覚えがあった。
「調整屋……」
「チョウセイヤ?」
聞き返されて、はっとした。
「じゃなくて、アイツはみたまっていうんです。八雲みたま。あいつなんでこんなとこに……」
「へえ、みたまさんって言うのか……。キレーな人だなあ」
頬に赤みがさした葵の、少し興奮したようなうわずったトーンの言葉は、ももこの眉間に深い皺を作り出した。はっとしたももこはそれをすぐに戻したから、天井を仰いでいた葵に気付かれることは無かった。そうして一呼吸置いた後に、調整屋のことをすっとぼけなかった自分の馬鹿正直な言動をひどく後悔した。冷めた珈琲の苦みが舌を刺した。
「そんなに顔赤くしちゃって、一目惚れでもしちゃいました?」
そんな言葉をするりと言えてしまう自分の口を縫い合わせてしまいたい気分だった。これが自分の望んだ願いの結果だと思うと、余計に自分を殴ってやりたい気分にもなった。
「かもなあ。俺、一目惚れなんて初めてだよ」
「……そうですか」
それから先のことを、ももこはよく覚えていなかった。その後すぐに喫茶店を出て、一目散に家へと帰って行ったことだけは確かだった。
夜になって、ももこはレナとかえでと魔女狩りの約束をしていることを思い出した。やりかけの宿題と参考書が適当に詰め込まれた鞄は、開ける気にもならないまま部屋の隅に放り投げられていた。いつもの要領で窓から家を出たももこはすぐに魔法少女へと変身して、屋根伝いに集合場所の公園へと向かっていた。日が落ちても蒸し暑く纏わりつく不快な夜の空気を全身に受けながら、ももこは無意識に同じ場面ばかりを繰り返し思い出していた。
“一目惚れでもしちゃいました? ”
思えば、ももこが魔法少女になったきっかけも、また片思いだった。どうして自分の恋はこうも上手くいかないのかと、モカウサギが似合わない自分の姿を思い浮かべた。
“俺、一目惚れなんて初めてだよ”
ももこが葵に告白していないのには理由があった。しようと思えばいつでも言える勇気がももこにはあったが、けれど失敗するであろう現実を突きつけられた後に無謀な突撃をしようと思えるほど、その一目惚れは軽いものではなかった。ダメで元々とはよく使う言葉だったが、絶対に失敗したくないことも、それなりにあるつもりだった。だからももこは、葵に勉強を教わることにした。それが純粋な下心でしかないことは、ももこが一番よく分かっていた。分かってはいたが、好きな人と関われる興奮と、彼の理想の女性に少しでも近づけているのだという感覚は、そんな躊躇をやすやすと跳ね飛ばしてしまうのだ。
「やあ、ももこ。今日も魔女退治に精が出るね」
公園の車止めに、キュゥべえが座っていた。
「……なんか文句あっかよ」
「いいや? むしろ喜ばしいことさ」
ぶっきらぼうな返事にも、キュゥべえはいつも通りのすまし顔だった。ももこは鼻を鳴らして、その横を素通りしていった。キュゥべえはいつもとは違って肩に飛び乗ることも後ろをついて来ることもなく、ただじっとももこを見つめていた。
「いらっしゃい……あ、みたまさん」
「どうも〜。まだやってるかしら?」
閉店前の閉め作業をしていた雫の喫茶店には、もう客は一人もいなかった。客席を拭きあげていた葵はドアベルの音で気付いて、その動きがぴたりと固まった。
「ええ、まあ。そんなに時間はないですけど……」
「珈琲だけでいいわよ。今日はもう疲れちゃって」
「じゃあ、その辺座ってください。すぐ出すので」
片付けずに置いていた金属のポットに水を入れコンロにかけていると、みたまを席に通した葵が表から慌ててすっ飛んできた。彼は雫の呆れた目線の前で呼吸を整えると、上気したままの頬と下げきれてない口角をなんとか押さえ込もうとした。
「雫ちゃん、あの人と知り合いなのか!?」
何を今更、と雫は思って、けれど確かにみたまがこの店に来るのは初めてだし、今日の昼に話していた時には葵はももこの勉強を見ていたから、それを知る機会はなかったような気がしてきた。
「うん、まあね。たまにお世話になってるから」
もちろん何がとは言わない。雫が葵から視線を外して珈琲の準備をしていると、すっかり落ち着いた調子の葵は手持ち無沙汰に盆を触っていた。
「な、なあ。あの人……みたまさんに、俺を紹介してくれないか?」
「……なんで?」
「なんでって、そりゃ……」
湯の沸いたポットが鳴いて、雫はコンロの火を止めた。
「みたまさん、すげえ綺麗じゃん。ぜひともお近付きになりたいんだよ」
雫の中で、何かがぐらりと傾いた。
「……ねえ、葵くん。十咎さんのこと、どう思ってる?」
唐突な問いに、葵は鳩が豆鉄砲を食ったようになった。
「十咎ぇ? どうって……まあ、かわいい後輩ではあるけど」
「それだけ?」
「それ以上あるかよ」
「……そう」
雫はサイフォンの中に落ち始めた珈琲を眺めていた。それから口を開くのには、あまり時間はかからなかった。
「わかった。じゃあ、一緒に来て」
魔力で穴を埋めた剣の腹で衝撃を受けて、ももこはそれでも踏ん張った。いつかテレビで見た高圧洗浄機のような水の圧力は、その飛沫が掠った肩口を鋭く切った。徐々に弱まる水流を防ぎきり、剣についた水分を振り払うと、ももこは背中に隠れていたかえでを一瞥した。
「かえで、大丈夫か?」
「う、うん! ありがとう、ももこちゃん」
ももこは自分の背丈より二倍は高い椅子の脚を見上げて、その上に鎮座している水瓶を抱えた魔女を睨んだ。魔女の周囲に群がる毛玉のような風貌の手下を相手取っていたレナが、いつのまにか隣に戻ってきていた。
「ももこ、いい加減魔女を叩かないときりがないわよ」
「わかってる。かえで、いけるか?」
うん、と頷いた戦友の姿に頼もしさを覚えて、ももこは前を見据えた。
「アタシが本体を叩く。かえでは援護、レナはかえでの護衛!」
ももこは自分の中に燃え盛る炎が沸き上がってくるのを感じていた。レナが一歩下がって。ももこの視界には魔女の姿しかなくなった。周囲を取り囲む手下が散発的に攻撃を仕掛けるが、ももこの進路近くから地面を割って生い茂る植物たちがそれを阻む。ももこは植物の蔓を足場代わりに蹴り飛ばしながら、はるか頭上にいた魔女の目の前まで飛び上がった。魔女がその水瓶をももこに向けたその時、ももこは大きく振りかぶって、自分の剣を思い切りその瓶の中にぶん投げた。
「二度も同じ手が通じっかよ!」
ももこの背丈ほどもある剣が瓶に突き刺さり、そこから赤い炎を発して、亀裂の中を焼き切っていった。ももこは足元に伸びてきた蔓をもう一度蹴って飛び、新しく魔力で生成した剣の、その鋭い切っ先を魔女へと向けて吶喊した。
「くたばれぇ!」
ももこの剣は椅子の上に固まった魔女の身体を突き抜け、その座盤に深々と突き刺さった。ももこが剣の柄を足で押し込みながら宙返りで離脱すると、魔女は泣き叫ぶような断末魔を上げたまま、結界を崩壊させていった。ももこは魔女が座っていた椅子の下に硬い音を立てて落ちたグリーフシードを拾い上げると、後ろで待つレナとかえでの方に振り向いた。
「おつかれさん。ソウルジェム、大丈夫か?」
そう言いながら右手を上げると、腕を生暖かいものが伝ってきた。それでももこは肩口に切り傷が出来ていることを思い出した。思い出すとじんじんと痛みが染み出してきて、左手で傷口を覆った。それを見ていたレナとかえでは、慌ててももこに駆け寄って、かえでは変身を解かないままももこの手を払って傷口を見た。
「ももこちゃん、ちょっとごめんね」
「かえで……こんなん掠り傷だけどな。ありがと」
かえでの魔法に治療されている間、ももこはじっと座っていた。レナはじっとももこの顔を眺めていた。暖かい光に包まれている時に、ふとレナが口を開いた。
「……ねえ、ももこ」
「ん?」
「あの人に告白、しないの?」
思わずむせた。いきなり動いたももこにびっくりしてかえでが少し後ずさった。
「はぁ?」
「だから。告白。好きなんでしょ? あの喫茶店の人が」
レナも少し顔を赤くしていた。ももこは軽く咳払いをしたあとで、レナの顔を真っすぐ見た。
「……まあ、ね。好きだよ。アタシは、葵さんのことが好き」
「うん」
「……でもさ、正直、自信ないんだよね。アタシは頭悪いし、ガサツだし、全然女の子っぽくないからさ。でも、ダメで元々って感じじゃあ、行きたくはないんだよ」
「あのねえ……。ももこ、アンタ勘違いしてるんじゃないの?」
レナは呆れたように声を出して、それに何か言おうとしたかえでを、ももこは手で制した。
「あんな男に、いつまでも彼女ができないって、そう思ってるわけ?」
「……いや、それは」
「さっさと告らないと、他の女に取られるでしょって言ってんの。アイツはアンタの事なんて、待ってくれてるわけない」
冷たいように聞こえて、ももこはレナが自分を心配してくれてるのだと感じていた。
「……そう、かもなあ」
夏の夜、じんわりと汗ばんでくる気温の中で、ももこの気のない呟きが虚しく広がっていった。
雨だった。ももこは飾り気のない透明のビニール傘をさして、夕方の新西区を歩いていた。防水スプレーをかけた靴を水溜まりに落とさないよう足元に気を付けていると、後ろから肩を叩かれて、ももこは体ごと振り向いた。
「今日も来るの? 今日は葵君、いないけど」
雫がいつも通りの不愛想な目でももこを見ていた。
「あ、そうなんだ」
「どっちでもいいけど」
ももこの背中を追い抜いて小洒落た傘が喫茶店の中に入っていくのを眺めていて、ももこは初めて無意識に喫茶店へと足を運んでいたことに気付いた。それを自覚した途端、顔に熱いものが上ってきて、ももこはしばらく閉ざされた扉の前で立ち尽くしていた。けれど彼がいないことを知った後では、そのドアベルを鳴らす気にはならなかった。
家に帰ろうと踵を返したももこは、ふと視界の端に見慣れた背中が映っているのに気付いて目を向けた。長い髪をひとつ纏めにした先を軽快に揺らしながら、ビニール傘の向こうで女の子らしく笑っている横顔は、ももこがいつも見る営業中の顔とは違うように見えた。そしてその隣には、みたまよりも二回りほど背の高い青年が、ビニール傘越しに何かを話していて、その姿は背中だけでもももこの視線を奪っていた。
「……あ」
思わず声が漏れた。雨音で二人が何を話しているかは聞こえなかった。ももこは遠くなっていく背中を、ただ見ていた。二人が視界から消えるその時、ももこは自分のスマートフォンが鳴っているのに気付いて、慌てて鞄から取り出した。
「もしもし、かえで?」
「あ、ももこちゃん、いま大丈夫?」
妙に焦っているようなかえでの声に、少しだけ嫌な予感がした。
「ん、まあ、大丈夫だけど。どした?」
「ちょっと、二人きりで話がしたくて……。あ、その、変な話じゃないんだけど、相談っていうか、その」
「あー、わかったよ。んじゃあ、雫のとこの喫茶店でいいか?」
ぐるりと見まわした時に、目の前におあつらえ向きな喫茶店があった。ももこは結局、今日もそのドアをくぐっていった。
異性から好意を向けられるのは案外嫌なものでもないな、とみたまは隣で話す葵の整った顔を眺めていた。雨の日に遊びに誘われたみたまは、面倒さよりも好奇心の疼きに抗わないまま、葵の隣でビニール傘を広げていた。葵は今を時めく大学生らしく様々なデートスポットを知っていて、みたまは彼に連れられるがままに新西区を歩いていた。みたま自身は腐っても魔法少女であったから、万が一の事が起きても一般人に負けるとは到底思っていなかったので、強い好意と僅かな下心を持った葵のエスコートを素直に受けていたのだが、結局それにも早々に飽きが来て、喫茶店の前に帰ってくる頃には、みたまはいつも通りの営業スマイルを張り付けたまま、話半分に相槌を打つだけになっていた。異性からの好意は悪い気はしないものの、興味のない相手からではそれに乗り気になるわけでもない。みたまは流れていく景色からこの会話が終わる時を考えていた。ちらりと視界に映った時計は四時半頃を指していて、二人の時間が始まってからまだ三時間近くしか経っていなかったのだと思った。視線を戻すと、人通りが少ない道の中に、見慣れた背中がふたつ、喫茶店に向かって歩いているのを見つけた。
「……ねえ、葵さん。もう少し、一緒にいませんか?」
そう呟いて、くるりと後ろを向いた。隣で嬉しそうに何事かを話す葵をあしらいながら、みたまは喫茶店とは逆方向に歩き出した。
かえでがドアを開けた頃には、ももこは二杯目の珈琲を飲み終わっていた。バイト帰りのかえでは少し大きめの手提げ鞄を椅子の上に置いて、ソファー席に座るももこの対面の椅子に座った。アイスティーを注文して、グラスで出てきたそれをストローで一口含んで、それでようやく落ち着いたかえでを、ももこは努めて明るい雰囲気のまま待っていた。
「で、相談って?」
本題を切り出すと、かえでは息を呑んで、童顔を真っ赤に染めた。それからアイスティーのストローをくるくると回し始めて、何度目かの挑戦の後にようやく口を開いた。
「……あのね、ももこちゃん。わたし、告白、されちゃったの」
「……はぁ!? 誰に!?」
「ちょっと! 声が大きいよぉ……」
ももこは手で謝りながら、ひとつ咳払いをした。手元のカップを傾けたが、中身は一滴も入ってはいなかった。
「あのね。わたしがこのみちゃんのところのお花屋さんでお手伝いしているのは、知ってるでしょ?」
「あ、ああ。知ってる」
「そこにね、よく来てくれるお客さんがいたんだけどね。わたし、その人とよくおしゃべりしてたんだけど、今日ね……」
かえでが話し始めたのは、ももこにはあまりにも眩しいシンデレラストーリーの序章だった。ある日突然、白馬に乗った王子様が自分を迎えに来てくれる……。そんな御伽話を信じるほどももこは子供ではなかったが、ロマンチックな恋物語には心が惹かれる少女でもあった。
「はぁ……そんな事がねえ。かえでも隅に置けないねえ?」
「からかわないでよぉ……」
口では何とでも言えた。ももこは雫をテーブルまで呼びつけて、珈琲のおかわりをねだった。
「いいんじゃないか? かえでも、そいつの事が気になってたんだろ?」
「うーん、そう、なんだけど、ね……」
恥ずかしそうに顔を真っ赤にするかえでを、ももこは素直に笑う事が出来ないまま、空のカップを傾けることしかできなかった。怪訝な顔の雫から珈琲を受け取ると、その後姿を見ることなくももこはぐいと胃に流し込んだ。舌の奥に熱さと苦みが突き刺さって、それでもももこの中にかかった靄は晴れなかった。
「ほんとにわたしで、いいのかなぁ……?」
少し上の空になったままそう呟くかえでと、ももこはその日中目を合わせる事が出来ないままだった。
「やあももこ。そんなに落ち込んで、どうしたんだい?」
かえでと別れ、暗くなった道を一人歩くももこの肩に、キュゥべえがひらりと飛び移ってきた。ももこは反射的にそれを手で払おうとしたが、キュゥべえはするりと平手を避けて、首の周りを回って反対側の肩に落ち着いた。
「アンタには関係ないよ」
ぶっきらぼうにそう言った後で、キュゥべえなら何でも話を聞いてくれるじゃないか、と思った。
「ふうん。まあ、それでもいいけど。ももこ、最近ソウルジェムを綺麗にしたかい?」
「……いや、そういえばしてないな」
左手を持ち上げて、中指にはまった指輪を見やった。普段は透き通るような朱色に輝くそれは今は少し濁っていて、街路灯の白い光を吸い込んでしまうようにくすんでいた。
「……これが真っ黒になったら、アタシは魔女になるんだろ」
「そうさ。だから、ちゃんと気をつけた方がいい。グリーフシードの予備は?」
「ああ……あるよ。確かこの辺に……あった」
鞄から使いかけのグリーフシードを取り出してソウルジェムに当てると、宝石の内で蠢く穢れが黒い球体に吸い込まれていく。その様を眺めていると、ももこの心の中にあった重りも、すうっと消えていくような心持ちだった。
「それはもう危ないから、僕が処理するよ」
「わかってるよ。何年魔法少女やってると思ってんだ」
ももこが肩口に乗ったキュゥべえにグリーフシードを渡すと、長い尻尾を器用に操ってグリーフシードを頭に乗せて、それを曲芸のように投げ、背中に空いた穴の中へと放り込んだ。
「きゅっぷい。ももこ、気持ちが落ち込んでる時は特に気をつけた方がいいよ。魔女は人の心の弱みに付け込んでくる。それは魔法少女であっても例外じゃないのさ」
「……忠告どうも。なあ、キュゥべえ。それより、ちょっと話を聞いてくれないか?」
「なんだい?」
キュゥべえはいつも平坦で同じ調子の声を出すから、ももこの話にどれだけの興味を持っているのかはさっぱり分からなかった。
「アタシはさ、好きな人が、いるんだよ。でも、その人は別の人が気になってて。……アタシが告白しても、正直勝てる気しないんだけど、でも、諦めきれないんだよ」
キュゥべえは何も言わずに、器用に前足で顔を洗っていた。
「……なぁ、どうしたらいいと思う?」
短い沈黙があった。
「ももこ、君は相談する相手を間違えていると言わざるを得ないね。僕には生憎、君たちの言う所の恋愛という概念を理解できない」
冷たい物言いだったが、声色はいつもと全く変わらない可愛らしい声だったから、それが本当に突き放しているのかどうかさえ、ももこには分からなかった。
「繁殖のための番が欲しいのなら、そう伝えればいいじゃないか。君たち人間の求愛行動は、主に言葉によって成り立っているのだろう?」
「あのなぁ……!」
怒りが起こりかけて、しかしそれは爆発することはなかった。ももこの肩から飛び降りて、視線の先できょとんとしたように首を傾げるキュゥべえには、本当に恋愛も交際も何も分かっていないのだと、そう思わざるを得ず、そう思ってしまったら、ももこはそれに怒りをぶつけるのがあまりに馬鹿らしくなってしまったのだった。
「……もういい。しばらくアタシに話しかけないでくれ」
ゆらゆらと尻尾を揺らすキュゥべえに背を向けて、ももこは帰路を急いだ。背中にずっと突き刺さる視線が、あまりに気持ち悪く心を刺激した。
深夜に調整屋の扉を開けたみたまを待っていたのは、ソファーに我が物顔で座るレナの姿だった。みたまはまた一つ面倒なものが増えたとげんなりしながら、レナの横を通って施術台に腰掛けた。
「あら、レナちゃん。今日は調整の予約、あったかしら?」
「ないわよ。ただ、みたまさんに聞きたいことがあって来たの」
「聞きたいことぉ?」
できる限りいつも通りの調子を装いながら、みたまは帰りがけに買ったペットボトルの水を一口飲んだ。レナの目付きの悪い視線が突き刺さっているのは、みたまには何の圧力にもなってはいなかった。
「あの男……ももこが好きなあの男と、どういう関係なの?」
「やだぁ、ただの友達よ。おともだち」
適当に受け流しながら、みたまは今日の記憶を遡っていたが、しかし街中でレナを見かけた記憶は無かった。
「あんな仲良さそうにしてて、ただの友達ぃ?そんなわけないでしょ。誤魔化さないでよ」
「ごまかしてないのに……顔が怖いわよ?」
みたまが一瞬目を離したその時、急に響いた衝撃音で、みたまは思わず振り向いた。レナがテーブルを蹴り飛ばした音で、座っていたレナは立ち上がって、みたまの方へとずんずん歩いて来ていた。
「バカにすんじゃないわよ!アンタは前々から気に入らなかったけど、いい加減頭にきた!」
レナに胸倉を掴まれて、みたまは背の低いレナの顔の位置まで無理やり屈まされた。蓋をしたペットボトルが衝撃で床に落ちて、蓋が間に合って良かった、とみたまは場違いなことを考えていた。
「アンタ、ももこには借りがあるんでしょ?戦えないって散々守ってもらってて、何も感じないわけ!?」
「……レナちゃん、あなた、勘違いしてるわ」
レナの手を優しく外して、みたまの反応に呆気にとられたレナの前で軽く身形を整えた。
「あれは、ももこが勝手にやってるだけよ。わたしは守ってくれなんて一回も言った覚えはないわ」
気が付いた時にはももこは調整屋に入り浸っていて、みたまが口を滑らせて言った言葉を馬鹿正直に飲み込んで、それから腐れ縁のようになってしまっているだけだった。
「それに、それとこれとは別の話じゃない。どうしてレナちゃんが口を突っ込んでくるのかしら」
少し口が悪くなってきているのは自覚していたが、みたまの腹の底にぐつぐつと煮え始めたものから湯気が立ち上っているのを、我慢できなくなってきていた。
「アンタが最初に、野次馬しようって言いだしたんじゃない。それに、ももこの事はレナにも関係あるし」
憮然とした態度で言葉を並べるレナに、みたまはすっかり呆れたように溜息を吐いた。
「まあ、今日は帰った方がいいわねぇ。これから調整の予定が入ってるし……」
みたまは調整屋から追いやるようにレナの背中を押していった。レナも何か言い返そうとみたまの顔を見て、しかし言葉が喉から出てくることはなく、結局されるがままに調整屋の扉をくぐっていってしまった。誰もいなくなった調整屋の中で、みたまは大きく伸びをした後、ひとつ深呼吸をした。
「……どうせ、邪魔になったら捨てるくせに……」
それから足の一本折れたテーブルを、入り口から見えない場所へと放り投げた。
「調整屋、いるか?」
「ふあぁ……あら、ももこ。朝早いわねえ」
「悪い、まだ寝てたか?」
「今起きたところよお。どうしたのかしら」
「いや……。ちょっと、話をな。昨日、調整屋と葵さんが一緒に歩いてるのを見たんだよ」
「……ふうん」
「葵さんと知り合いなのか?」
「まあ、そうねえ……。知り合ったのはつい最近だけど」
「つい最近?」
「雫ちゃんを通して、紹介されたのよ」
「そっか……」
「ももこは、あの人のこと、好きなんでしょう?」
「うっ……ストレートに言うなぁ」
「告白とか、しないの?」
「それ、レナにも言われたよ。……なあ、調整屋」
「なあに?」
「葵さんと、付き合ってるのか?」
「まさか」
「本当か?」
「本当よぉ。だから、まだあの人はフリーじゃないかしら」
「……そっか」
「でも、たとえ告白されたとしても、わたしはあの人と付き合う気はないわよ」
「え?」
「だって、わたし達は魔法少女だもの。色恋にうつつを抜かしてると、魔女に足元掬われちゃうわよ?」
「魔法少女なんて、カンケーないだろ」
「……あなた、本気でそう言ってるの?」
「どういう意味だよ」
「わたし達は、もう普通の人間じゃないのよ。恋だの愛だの、そんな事を言ってられる立場じゃないのよ」
「そんなわけないだろ。アタシは人間だよ」
「違うわよ。普通の人間が、魔女と戦う?」
「そりゃ、そうだけど……。でも、アタシはただの人間だろ。アンタもそうだし」
「……馬鹿ね」
「はぁ?」
「じゃああなたは、あの人に自分は魔法少女で、命の危険を孕んだ使命を持ってますって、そう伝えるつもり?」
「……いつまでも隠し通せるわけないから、いずれそうなると思うよ」
「相手がそんな事、信じると思う?」
「信じざるを得ないだろ。魔法少女も魔女も、現実にいるんだから」
「でも、彼はそれを見ることはできないし、関わる事もできないのよ。……もし、やめろって言われたら?」
「そんな簡単にやめられないだろ」
「そうね。もう二度と、普通の人間には戻れない。じゃあ、どう答えるの?一緒に居たら危険な目に遭わせることも、承知してもらうの?」
「それは……」
「……魔法少女はね、魔女を倒すための存在なのよ。それ以上でも以下でもない。普通の人間と普通の交流を取れるなんて、思わない方がいいわよ」
「そんなわけない。アタシもアンタも、みんな普通の人間となんも変わらないだろ」
「分からず屋ね……。あの人を殺していいのなら、好きにしなさい」
「ころす、って……」
「言っておくけれど、比喩じゃないわよ。あなたと付き合ったら、いずれ彼は魔女に食われて死ぬわ」
「アタシが守る。そんなことは絶対にさせない」
「そう言った魔法少女は他に何人もいたわ」
「なんでそんなこと知ってんだよ」
「忘れたの?わたしは記憶を読めるの。普通の恋愛を頑張ろうとした魔法少女は、みんなすぐにいなくなった」
「アタシはそうはならない!」
「いいえ、なるわ。ももこ、あなた、最後にいつソウルジェムを綺麗にした?」
「昨日だよ」
「それが昨日綺麗になったソウルジェムに見える?」
「……え?」
「教えてあげる。わたし達魔法少女のソウルジェムはね、魔法を使う以外にも濁っていくのよ。……絶望でね」
「絶望……」
「この宝石はね、わたし達の感情を映すものでもあるの。わたし達が絶望していくほど、黒く、深く穢れてゆく……」
「穢れきったら、魔女に、成る」
「そういうことよ、ももこ。分かったら、この話はきっぱり諦めなさい。最後の忠告よ」
「嫌だ」
「……」
「アタシは絶対に諦めない。好きな人を好きでいる事の何が悪いんだよ」
「そう……」
「アタシ、今から行ってくる」
「……後悔するわよ」
「しないさ。じゃあな」
調整屋から飛び出したももこは、一目散に葵の待つ喫茶店へと向かった。喫茶店は昼前の時間は少し混んでいて、こんな時でもタイミングが悪いのかとももこは辟易した。レジを打っていた雫に葵を呼んでほしいと言うと、店が落ち着くまで待ってくれと軽くあしらわれて、ももこはしばらく手持ち無沙汰なままぶらぶらと新西区の街を歩き回っていた。日が南中を超えた後にもう一度店へと行くと、客の数はまばらになっていて、カウンターで暇そうに佇む葵の姿が見えた。そんな姿も絵になるように見えてきて、ももこは自分の気持ちをしっかりと確認してから、その扉を開いた。
「いらっしゃいませ……お、十咎か。よく来るなあお前」
綺麗に口角を上げて笑顔を見せる葵の顔を見ただけで、顔が赤くなってくるのが自覚できた。ももこは深呼吸をして無理やり気持ちを落ち着かせると、挙動不審にならないように最大限の努力をしながら葵の目を見た。
「葵さん。いま、大丈夫ですか?」
気付けば既にカウンターには雫が立っていて、葵が持っていた盆を勝手に回収してしまった。
「んー……わかった、そこでいいか?」
客の座っていない席に腰掛けた葵が、対面にももこを促した。少し硬めのソファーに座ったももこは、自分の中に根拠の無い勇気が湧いてくるのが妙に恐ろしかった。
「葵さん。アタシは……」
どう言えばいいかは、少し前にしっかり考えた。確かめるように口を動かしてから、ももこは前を向いた。
「初めて見た時から、あなたのことが好きです。アタシと、付き合ってください」
沈黙があった。頭を下げたももこはしばらくそうしていたが、気まずくなってそろりと視線を上げると、困ったように頭を掻く葵がももこを見ていた。背筋に冷たいものがぞわりと走った。
「……悪い。それは、受けられない」
時間が止まった。
「俺、他に好きな人がいるんだよ。次に会った時に告るつもりで。だから、十咎の気持ちには応えられない。すまん」
頭を下げる葵を見ていた。腹の底からおかしな笑いが湧いてきて、ももこは乾いた笑い声を小さく上げた。
「……そう、なんですか」
頬を冷たいものが伝った。自分が思っていたよりもずっと衝撃を受けていることが、ももこには何よりの衝撃だった。
「……すいません。今日は、帰ります」
葵は黙っていた。ももこはよろよろと席を立って、場違いに爽やかなドアベルを鳴らした。
「なんでだよ……なんで……」
一度認めてしまうと、涙が止まらなくなっていった。みっともなく泣きじゃくるももこの隣を、人々が怪訝な顔をして通り過ぎて行った。憎たらしいほどの晴天の下で、失恋の涙は蝉の声にかき消されて消えた。
雫はその日も、いつも通りに喫茶店に立っていた。相変わらずの夏の日差しは厳しく刺さり、蝉は元気に泣き叫んでいた。本来の出勤時間より遅く出てきた葵が慌ただしくカウンターに来た時には、もうほとんどの準備は済んでしまっていた。
「葵くん、遅い」
「それどころじゃねえって!」
息も切れ切れに、汗だくの顔を拭こうともしない葵の姿を見て、雫は彼が次に何を言うのかを理解できてしまった。
「十咎が行方不明になった!」
それにどう答えればいいのか、雫は少し考えた。それから開店直前の喫茶店に座っていた唯一の客をちらりと見やった。徹夜明けのみたまは、隅の席で呑気に大欠伸をしながら、コーヒーカップを揺らしていた。