「ガンビーノ………るして、くれ…ガンビーノ………許して…」
悪夢に魘され、ガッツの繊細な心の本音が漏れる。
新鮮な女の死体から零れ落ちるように生まれたという忌むべき事実。
そして、そんな自分を拾い愛してくれたであろう白痴の奴隷女シス……、だが、そんな母と呼ぶべきシスは流行病に罹って顔面が崩れた挙げ句に苦しんで死んだ。
お気に入りの愛妾を失って以来、養父・ガンビーノは、ガッツへ見せたなけなしの愛情も失って心底ガッツを厄介者として扱うようになってしまった。
シスが死んだのは縁起の悪い拾い子・ガッツのせいだ、と。
戦場で片足を失ってからは、より暴虐性に拍車がかかってガッツへの攻撃性が目に見えて増えた。
数年前に銀貨3枚で同性幼児性愛者の変態傭兵に〝夜〟を売ったのも、他でもないガンビーノであった。
そして、その問答の際にとうとう突発的な事故で養父・ガンビーノを殺してしまい、以降は生まれ育った傭兵団に居られなくなって流浪の日々だ。
それらの何もかもがガッツのトラウマとなっていた。
目をこじ開けて、体を起こせ。
ガッツの心はそれを望むのに、しかし血を失い過ぎた体は尚も眠りを求めた。
(う…)
だがガッツは無理矢理に瞼を持ち上げた。
重い。
鉛のように重い。
だが遠い意識の中で、自分の体を這い回る蛇のような感触が、ガッツのトラウマの一つを刺激して、ガッツは悪い夢から醒めたくて眠りに抗う。
(触るな……オレに、触るな…!)
錆びついた鉄の扉の音まで聞こえそうな重みの
(女…?)
悪夢を振り払う為にこじ開けた瞳が見たものは、やはり夢だったらしい。
(水晶みてぇな…空みたいな、瞳……こいつは…エルフ?)
まだオレは夢の中だ。
ガッツは確信する。
戦場で育ったガッツは、子供が寝入り時分に聞かされる童話など知らぬが、それでも絵本に出てくる一般的な妖精物語等は知っている。
薄暗い意識の中で見た女はエルフのように美しい。
戦場で見飽きるぐらいに見たレイプされる女子供達のどんな肢体よりもそれは美しく艶めかしかった。
「ガッツ」
薄桃色の唇が己の名を紡ぐ。
(こい、つ…なんで、オレの名を…)
そんな疑問も夢だと思えばすぐに消える。
これは夢だ。
夢だから、それでいい。
「何も考えず…今は眠って……大丈夫。私がいるから」
女は肉の乗った、シミ一つ無い白い太ももをガッツの下腹部に乗せて擦り、女の細い指がガッツの胸板を這う。
「もうおまえを離さない。放さない…。決して…」
女の白い頬が薄紅に火照っている。
(あぁ、こいつぁ…やっぱ、夢…だな)
どれだけ肌と肌が触れ合おうとも、銀貨3枚の夜以来…誰にも ――特に男だが―― 触られるのを嫌ったガッツでさえ、全く嫌悪が湧かない。
おとぎ話の女神様相手なら、ガッツとて多少の融通を利かす程度は、女の温もりに興味はあったらしい。
その夜、ガッツはもう悪夢を見なかった。
◇
「おまえなんか、あのままグリフィスに殺されちまえば良かったんだ…!」
まどろみから目覚め、随分と若い傭兵共だと驚きながら ――自分も少年の域の年齢なのを棚に上げて―― 彼らの活気ある陣をふらふらと歩くガッツだったが、男だらけの中で目を引いた褐色の女をちょいと眺めていたら突然そんな言葉を投げ掛けられた。
おまけに、その言葉が水気ある唇から飛び出す直前には傷口目掛けてジャブまで打たれた。
(…っ、なんなんだ、あの女っ!)
さすがのガッツも傷みに呻いて蹲っている所に、ガッツと同年代らしき男の爽やかな声がガッツの耳に届く。
「無理もないさ。キャスカのやつは誰よりもうちの団長に
金髪の髪を後ろでまとめた彼は、幾つものナイフを研ぎ、まるでペンを回すかのような気軽さでナイフを弄んでいる。
チラリとガッツを見て、悪戯小僧のような笑みを浮かべながら、プンスカと怒って歩き去る褐色女を指差す。
「それがグリフィスの命令で二日二晩、あんたとグリフィスが添い寝をするのを指を咥えて見てなきゃならなかった。血ィ流しすぎて冷え切ったあんたの体を温めるためにって言っても…何も団長自らそんな事しないでもって、オレでも思ったからな。キャスカの怒りはごもっともさ」
彼が投げた一本のナイフが、水浴びをしていた傭兵の桶に小気味良い音を立てながら突き刺さって、水浴び男は「何てことしやがるジュドォー!」と中々の剣幕で怒っているが、ガッツは興味も無さげに彼らから目をそらし、そしてその人物に吸い込まれた。
キャスカがこちらに罵倒を浴びせる寸前まで、彼女が熱心に話し込んでいた銀髪の女。
そいつがガッツをジッと見ている。
まるでおとぎ話の妖精のような現実離れした美女の目が、ガッツの視線と交わって、ゆっくりとその女がガッツへと寄ってくる。
「今ので目が覚めた…?」
(…空色の、瞳…)
「おまえ、夢の…」
夢の女が目の前にいる。
ガッツは狐につままれたような目でボケっと女に見入ってしまいかけたが、すぐに瞳に力を入れ直して女の視線を受け止めていたが、それは唐突に始まった。
「あなたが欲しい」
銀髪の美女は突然そう言ったのだ。
「…は?」
ガッツが呆気にとられる中、周りの者達は盛大に、そして思い思いに吹き出していた。
遅い朝食を口からぶち撒ける者。戦友との談笑中、友の顔に唾を吹きかけてしまった者。整備している武具の手を滑らして、思わず指を切ってしまう者。ずっこける者。実に様々だ。
「グ、グリフィス!?どうしちゃったの!?あいつに何かされたの!?い、いや、でも…私、きちんと見張ってたし…変なことは…でも見落としたとか…!」
先程の褐色女・キャスカは一目散に走り寄ってきて、グリフィスの肩を揺さぶって正気かを確かめるようだったが、正気を失いかけているのはキャスカだろう。
ギロリと振り返ったキャスカの視線がガッツに突き刺さる。
周りの男どもの視線もだ。
ガッツでさえ痛いと感じる程の刺々しい視線の嵐だ。
「お、おまえは誰なんだよ。いきなり変なこと言いやがって…イカれてんのか?」
周囲の視線を跳ね除けながら、ガッツは何とかグリフィスという名前らしい銀髪の女に切り返す。さっき傷口を殴ってくれた女が言ったからグリフィスという名はもう分かった。が、それでもまだ自己紹介はされていない。まずはテメーが名乗れ。そういうガッツの意地だった。
だが、その流麗な銀髪をなびかせる絶世の美女の空色の瞳を見た途端、昨晩の悪夢を振り払った女の肌色の夢をまざまざと思い出して、ガッツは女特有の芳しい何かに飲まれそうになるのも耐えねばならなかった。
「すまない。先走ってしまった…私はグリフィス」
その美女は、まるで子供のように無邪気に笑って、そして先行しすぎた自分を恥じてみせた。
「っ」
それを見て、周囲の団員も、そしてガッツでさえも息が詰まって胸がおかしな鼓動を打った。
妖艶な美女でありながら、その笑顔は屈託のない童女そのもので、そのギャップの破壊力たるや凄まじい。
そこから先は、敢えてグリフィスが忠実に
(…!ガッツ…ガッツ…!ガッツ…!!今すぐあなたを、この手で……――!!)
思わず伸びる手をぐっと抑えて、グリフィスはガッツと言葉を重ねていく。
余りにも懐かしく、もう一度味わえると思わなかった極上の味。故郷の味。
母の温もりにも等しい。
父の温かさにも似る。
かつて満月の夜に見た一夜の夢の如く、月下の少年となってガッツの背によじ登り、キャスカに抱かれたかのような、あの無償の愛。無限の愛。あれこそが永遠。
何も見返りは求められず、ただ愛が己を包み込む、あの安心感。
ガッツが目の前にいる。
ガッツが隣にいる。
ガッツが存在する鷹の団は、まさにグリフィスにとって親の胎内だった。
ここにはグリフィスが求める全てがある。
気を抜けば、今にもガッツに抱きついてしまいそうだ。
今の自分ならそれが許される。グリフィスは、今、自分が女である事を知っているからその激情を抑えるのも一苦労だった。
(同じ名でも、かつての延長に在っても、グリフィスはグリフィスでも今の私は女だ。ガッツ、おまえの愛を受け取る資格が私にはある。おまえを独り占めしたって許される…!)
少しばかり煽ってやれば、やはりガッツは一騎討ちに応じてくれた。
「てめぇが勝ったら、兵隊にするなりひん剥くなり好きにしな!」
「…フフ、やはりそう言った…」
そして始まる。
ここから全てが始まった。二度目の始まり。
ガッツが期待通りに動いてくれると嬉しい。安心する。
そしてガッツが突飛なことをして、己の意に反する事をすると、新たな一面を知れて驚かされ、新鮮さを感じ、そしてさらにガッツに惹かれていく。
グリフィスの想いの強さはガッツの全身を焼き尽くさんばかりで、この一騎討ちは男と女の情愛にも等しい夢のひとときだ。
力を抑えようとしても、ガッツへの想いと共に溢れてきてしまう。
一瞬、フェムトとしての力が漏れて、その拍子にガッツの大剣が宙を舞った。
「っ!?」
グリフィスの細剣が、ガッツの大振りを弾いた。
ガァン、という音と共に地に転がった一振りは、中程に深い亀裂すら入る。
「す、すげぇ!さすがグリフィスだぜ!」
「あの大剣を…ぶっ飛ばして割っちまいやがった!」
「女の細腕で…!やっぱグリフィスは戦いの女神だ!」
喝采に湧くギャラリーを尻目に、グリフィスとガッツはひたすらに互いの瞳を交差させて、そしてギリィっと歯を食いしばって未だ闘気を衰えさせぬガッツを見た途端、グリフィスは弾けるように跳んだ。
「がっ!?」
肺から空気が飛び出て、意識がくわんくわんと僅かに遠のいたが、
(…っ、このヤロウ!!)
ガッツはマウントから繰り出されるであろう拳のラッシュか、或いは止めの剣撃が来るのを予想してガードを固める。
「やっちまえー!」「やれやれー!」「イルの腕とダンの仇だ!殺しちまえグリフィスー!!」
そんな野次が飛び交うが、グリフィスの耳には届いていない。
彼女が見るのはガッツだけ。
彼女の耳に届くのは、ガッツの吐息だけだ。
ガッツを見下ろすグリフィスの頬が赤く紅潮している。
「ぐっ…!」
グリフィスの白い手が、ガッツの腕を掴み、捻り上げる。骨がきしむ。
(お、女のくせに…こんな細い腕のどこに馬鹿力があんだよ!?)
ガードをこじ開けられ、無防備になったガッツの顔。
(来るなら来やがれ!剣だろうが槍だろうが、拳だろうが!まだ口があるんだぜ!食いちぎってやらぁ!!)
獣のように猛り狂うガッツだが、次にグリフィスが繰り出した一手には全く対処出来なかった。
ある意味で完敗だ。
何の抵抗も出来ず、ただ一方的にやられた。
食いちぎってやるという気概すら、へし折られてしまった。
「ンむ!!?っっっ!!!?むぅぅ~~~~~っ!!!???!?」
美女の顔が近づいてきて、唇を唇が覆ったのだ。
温かく滑ったものが、自分の中にねじ込まれる。
脈打ち、ぬらぬらと液で濡れ、そして絹以上にきめ細かく柔らかい肉が、ガッツの無骨な歯を舐め、舌を絡め取る。
「っ!!」
ゾワゾワとした痺れが、ガッツの背を這う。
熱く吹き荒れる、怒り以外の火炎のような感覚が、脳天の芯から溢れて、そしてまだ女を知らない童子の一物に、男たらんとする血潮を吹き込む。
あぁ、たまらない。
なるほど、男が戦場で女を襲うわけだ。
娼婦という仕事がどこにでも蔓延るわけだ。
こんな女の中に、男の肉を入り込ませて支配したいという衝動。
そしてその衝動を果たす相手の女は、イイ女であればある程、男の熱が膨れ上がる。
ガッツは初めてそういう感覚を理解した。
絵画の中から飛び出したような最上級の女が、自分に跨って、赤い顔で、潤んだ瞳で、舌と舌を唾液で必死に絡ませる。
雄として最高の感覚。
だがガッツはそれに抗おうとする。
戦場で見てきた無様な弱卒と同じように快楽に飲まれて腰を振るのは御免被るし、何より女にどこまでも好きにされるなぞ彼の痩せっぽちのプライドが許さないのだ。
しかし自分を抑え込む女一人程度を、ガッツはどかせずに藻掻くしか出来ない。
信じられない膂力。
信じられない快楽。
(…っ、オ、オレは…飲み込まれねぇ!!)
「がァァァァァっ!!」
「っ!?」
ガリ、っと僅かに肉が削がれる。
グリフィスの舌が、ほんの微かにガッツに食いちぎられたが、それでもグリフィスは尚舌を捩じ込んだ。
熱に染まりつつも、グリフィスの瞳は見開き、ガッツだけを凝視し続けて、とうとうグリフィスを退かす事はガッツには叶わない。
グリフィスは、彼女自身の意志でようやく彼を口づけから解放してやる。
「……私は、欲しいものは絶対に手に入れる」
「…ぐ…て、てめぇ……」
今もガッツの胸の上に跨り見下ろしてくる絶世の美女の唇が、唾液と血で汚れ、そして赤と銀の液はガッツとグリフィスの口をねとつく糸で紡ぐ。
「約束だ。…おまえは私のもの……ガッツ」
上下で睨み合う男女。
だが、二人は忘れていないだろうか。
ここが陣のど真ん中である事を。
「…グ、グ…グリフィスが…グリフィスが…キ、キス…した……」
キャスカががくがくと肩を震わせて、そして今にも泣きそうな顔で決闘を終えた二人を見る。
彼女以外も概ね同じようなもの。
「…な、なななな!?」
「うわああああああ!!!グリフィスがっ!オレたちのグリフィスがっ!!!」
「う、うそだろーーーー!!?オレたちの女神が!!!あんな何処の馬の骨かもわかんねぇヤローに汚されたぁーーー!!」
「あの黒髪野郎!!モツをさばいてやる!」
見事で激しい剣の打ち合いに見入っていたギャラリーは、一瞬にして怒れる暴徒になる。
比較的温厚なジュドーやピピン、リッケルト達は、衝撃を受けつつも暴徒を必死に宥めようと努力しているが…。
(…しまった。つい…興奮して…)
完璧な女神が、表情を変えずに心でペロリと舌を出す。
彼女は、ガッツが関わると完璧ではいられなくなる。
それはかつても今も変わらない。
「お、落ち着いて、みんな」
皆の余りにも必死で、血涙まで流してそうな詰め寄りっぷりに、グリフィスですらやや気圧されてたじたじだ。
特にキャスカがすごい。
「な、なんで…!なんでなのグリフィスぅ~!あんな奴になんでチューするのよぉー!う、ウゥわーーーん!!」
泣き叫びながらグリフィスの胸をポカポカ叩いてすがりつく。
そんな事をすれば、当然ガッツはキャスカにも座られて二人分の重量に「ぐぇ」と苦しむが、そのおかげで寧ろ暴徒と化した男連中からは守られるのだから皮肉だ。
(…どうしようかしら)
騒ぎまくる鷹の団を見渡して、グリフィスは静かに嘆息する。
しかしその溜息は、どこか幸せな色を含んでいた。
ちなみに、ガッツの身が危ういと察したグリフィスが、彼の保護の為に今晩も自分の部屋にガッツを泊める事を強行宣言した結果、またも鷹の団で一波乱があったのは言うまでもない事だった。