日が沈み、藍色に染まる空。ターフの上は少し肌寒い風が吹き渡る。
普段なら誰もいないその時間に,今日は珍しく人が集まっていた。
興味,感心,心配,呆れ…様々な感情を込めた視線はターフの上の2人に向けられる。
1人は,言わずと知れた有力バ〝ナリタブライアン〟。そしてもう1人は,新人トレーナーになったばかりの銘無だった。
「本当に銘無さんが走るのですか?あのナリタブライアンと。」
「私が聞きたいくらいですよ…ハァ、頭が痛い。」
観客エリアから心配そうに質問するたづなに対して、頭を押さえながら東条トレーナーは何度目か分からない溜息をつく。
(全く…夜間のターフ使用許可を欲しいと言ってきたから何をするのかと思いきや。)
ナリタブライアンの話をした後に,彼は今日も行われた模擬レースを観に行ってしまった。
まぁ仕事も特別急ぐものもなかったのでそのまま行かせてしまったのだが,まさかそこから戻ってきて開口一番に「今夜,模擬レースを行いたい」と来るとは思わなかった。
しかも走るのはウマ娘ではなくて,彼本人だという。確かに対ウマ娘鎮圧員である彼は私達一般人とは身体能力は比べ物にならないだろうが,相手は何も鍛えていない普通のウマ娘でさえ成人男性の3倍以上の身体能力を持つ。
そんな彼女らとレースをするとなれば,勝負にすらならないことは簡単に予測できる。
それなのに,私の反対意見になかなか折れない彼に対して助け舟を出したのは私のチームの1人,〝皇帝〟の二つ名を持つシンボリルドルフだった。
「銘無トレーナーとナリタブライアンの模擬レースですか?何も問題はないかと思いますよ。きっと理事長達も承諾するでしょう。」
トレーニング終わりのミーティングのために,偶々その場に入って来たルドルフは事情を話せば,一寸の迷いもなく,そう言い切った。
「私は彼の走りを見た事があります。それに,もしかしたらナリタブライアンを救う一つの糸口になるかもしれません。どうか私からもお願いしたい。」
そう言って頭を下げるルドルフを見て,私の方が折れてしまった。そして必要な書類をたづなさん経由で理事長に渡したら,即OKが出たと聞いた時は耳を疑った。
「たづなさんも…よく了承しましたね。いつもなら理事長の気まぐれを止めてくれるかと思ってましたよ。」
「まぁ…いつもならそうですが。今回ばかりは私自身の好奇心が勝ったと言いますか…ごめんなさい。」
目を逸らし,申し訳なさそうに話すたづなさんにまたため息を吐く。ストッパーである彼女も賛成してしまっては最早誰も味方してくれないだろう。
しょうがないと割り切って,私は改めてターフの上に立つ2人を眺めるのであった。
「…本当にアンタが走るんだな。」
「中にはレースを控えているウマ娘だっているからな。何かあっては困る。今回は俺で我慢してくれ。」
「チッ…」
ウォームアップ前のストレッチをしながらそう話す彼に小さく舌打ちをした。
(バカにしているのか?それなりに鍛えてはいるみたいだが所詮は人間…私達とは身体能力が違う。)
日中助けられた身としては断る事ができないとはいえ,こんな形では余計自分の渇きは満たされないだろう。鬱憤が溜まりイライラとしてくる。
そんな私を無視して,今度は彼から話を切り出して来た。
「ただ模擬レースを走るのもつまらんな…一つ条件をつけるか」
「条件…?ハッ!確かにな。なんでも良いぞ?時間差か?距離か?何をしても勝負にすらならないと思うがなー」
「10バ身」
「…何だと?」
聞き間違いか?そう思ったが彼はもう一度同じことを話した。
「レース中,10バ身相手から離された時点で負けとする。その際,勝敗が途中で決まってもレース自体は最後まで走ってもらうがな。
あぁ,レース内容は昼間君が走っていたものに合わせるつもりだ。マイルは兎も角,短距離は君に向いてなさそうだしな。どうせ走るなら互いに得意なモノが良い。」
「正気か?ウマ娘の速度を知らないわけではないよな?一応アンタもトレーナーだ。」
「中長距離なら時速54〜60キロってところか?ラップなら12〜13秒だ。まぁ確かに速いが…勝負出来ないほどではない。
それともビビっているのか?今ならまだ辞めることもできるが…どうする?」
ブチッ
私の中で何か切れる音が聞こえた。それと同時に煮えたぎっていた熱が下がり,逆に頭が冷えてくる。
目障りだ。もう2度と観たくない。ならば…私の取る手段は一つだ。
「いいだろう…それほどの自信があるならば,さぞアンタは速いんだろうな。」
「ならば私からも一つ提案だ。アンタが負けたら…この学園から出ていけ。いや,それだけじゃ物足りない…トレーナーバッジも何もかも捨てて貰おうか。」
静かな怒りと,殺意を込めた低い声が響いた。
観客エリアで何人か目を見開いていたが,知ったことか。
「いいぞ,それで。」
「…!」
「さて,互いに体も解れたことだ。そろそろ始めるか。」
あっさりと。プレッシャーも何も感じさせず男は私の横を通り過ぎ,スタート位置へと向かっていく。
私は一瞬思考が止ままたのち,腹の底から熱いモノが込み上げてくる感情と共に奥歯を噛んだ。
「あらら…ブライアンちゃんお怒り気味ね。あれだけの事言われたら無理もないけど。」
ターフの真ん中から,2人を眺めながらそう話すのは,ルドルフのチームメイトであり同学年の〝マルゼンスキー〟だった。
「確かにな。しかし,普段の銘無トレーナーならあんな事は言わないさ。」
「作戦って言いたいの?だけど流石にムリなんじゃない?
そう話すマルゼンスキーに対して,ルドルフは「ふふっ」と小さく笑った。
「どうしたの?」
「何,君のその意見はあながち間違いではないと思っただけだよ。」
「…ジョーダンはよしこちゃん,よ。さて,じゃあ私はスタート位置に行ってくるわ。ゴール役よろしくね♪」
スタート旗を片手に彼女は2人のいる方へと向かう。その姿を見つつ,ボソリと呟いた。
「冗談ではないさ。すぐに分かる。」
数分後,目の前のゴールを最初に迎えるのが彼であることを願いながら私もまたゴール位置に向かっていった。
「最後に今回の内容の確認よ。距離2000,右回り,良バ場。途中10バ身離された場合も負け。その際でもゴールまで走り切ること。
そして…銘無ちゃんが負けたらトレーナーバッジを返却,この学園からも去る。2人ともそれで良いわね?」
「あぁ」
「異論なし」
「そう…じゃあ,悔いのないようにね」
2人の返事を聞き,マルゼンスキーは静かに息を吸う。
「只今より,ナリタブライアンと銘無トレーナーの模擬レースを開始します。」
凛とした声がレース場を通る。
緊張が伝わりピリピリと空気が張り詰める。
レース,スタート
バサリと旗が振られると同時に,2人は勢いよくスタートを切る。
「「なっ…!!?」」
そして直後の光景に,周りも…そして共に走るナリタブライアンも声を上げた。