「また負けた!」
「アッハッハ!当然!走りに関しては私の専売特許ってね。」
ふと思い出したのは,昔彼女と出会ったばかりのこと。当時組織に入ったばかりとはいえ,彼女の身体能力…こと走ることに関しては頭ひとつ抜けていた。
きっかけは忘れたが,なんかの拍子で彼女と競争することになって,負けた。そこから何回か戦うも,全敗していた。
「まぁそう落ち込むな。現役時代でもお前ほど私に迫るものなんていなかったよ。まさか1バ身以内にまで追いつかれるなんて夢にも思わなかった。」
「それでも勝てなきゃつまらない!」
まだまだ幼かった俺は,そう喚いて彼女をよく困らせたっけ?
「分かった。分かった。じゃあもし,お前が今後私みたいなのとレースすることがあった時の為の作戦を教えよう。」
「作戦?」
「そう,作戦…といってもやる事はシンプルだけど。」
優しく俺の頭を撫でながら彼女は人差し指を立てて話してくれた。
「お前の持久力は私達よりも優れている。
だから,最初から最後まで。全速力で駆け抜けてしまえ。
速度は敵わなくても勝手に相手がバテるはずだ。」
所謂,大逃げというやつだな。
当時は,ウマ娘に関わるような言葉に疎く理解できないことも多くあったがその度に彼女が教えてくれたのは今となれば感謝しかない。
まぁ,まさかこんな形で実行に移すことになるとは思わなかったのはここだけの秘密だ。
「チィッ!!なんだあの加速は!?」
奥歯を噛む。地面を蹴る足に力を込める。
もっと,もっと前へ進むために自然と体は前に倒される。
しかし,それでも追いつかない。追いつけない。
目の前を走る男は,既に6バ身半を先を進んでいた。
スタート旗が振り下ろされると同時に,彼は倒れるように前に沈み込み勢いよく駆け出した。
すぐに失速するだろう。慌てる必要もない。そう思っていた少し前の自分を殴り倒してしまいたい。
200,400,600と距離が伸びても,彼の速度は全く落ちない。段々と離されるその現実を見て私も加速する。気づけば全力疾走と変わらない速度で芝の上を駆け出している。
(こんな事があってたまるか!ただの人間に負けてたまるかぁ!!!!)
〝10バ身離された時点で負け〟
最初は冗談だと思ったその条件が,今となれば私を締め付ける鎖となっていることに気づいた時には既に遅かった。
「ハァァァァ!!!!」
この後のペースなど知ったことか。あの男の背中だけを目掛けて,苦しい心臓と脚に檄を入れるように私は叫んだ。
彼女の声が聞こえる。後ろから迫ってくる足音も。
既に残り距離は800。9バ身つくかつかないかという差を彼女は全力で詰めてきているのが分かる。
(やはり先行するよりも,前方を追う方が力の出やすいタイプか。さて,まだ伸びてくるか?)
彼女のレースは一度見た。恐ろしいのは後半から終盤にかけての追い上げ。集団をものともせず抜け出し,駆け抜けるパワーとスピード,スタミナが彼女には既に備わっている。
「ゼッ!ハッ!ハッ!」
ラスト600。彼女の激しい息遣いと,地面を蹴る轟音が聞こえてくる。おそらく数秒後には抜かれるだろう。
空気が重い。息も詰まる。目の前の相手を食いちぎらんとする圧力が襲いかかる。
(こりゃあ並の選手じゃ心折れるわけだ。)
そう思う最中,視界の端に彼女の顔が飛び込んできた。
息も絶え絶えだろう。脚も体も重いだろう。苦しくて仕方ないだろう。
それなのに,彼女の口元と目は楽しそうに笑っていた。
「…だ」
(ん?)
ボソリと,本当に小さく彼女の声が聞こえた。そして一瞬彼女の鋭い目がこちらを捉えた。何かを求め,希望に縋るような瞳だった。
「まだ…!終わらせるな!」
あぁ…凄いな,お前は。
悪かった。散々煽ったくせに,途中で手を抜こうとしたことをどうか許して欲しい。
トレーナーとしてお前の走りを直に見たいと思ったが,ヤメだ。全身全霊で走るとしよう。
地面を掴む足の指に力を込める。風圧に負けぬよう体を沈める。目の前に捉えるのは,既に1バ身先を行く彼女ーより遥か先のゴールのみ。
「行くぞ、ナリタブライアン」
次の瞬間,彼の足元の地面は爆ぜた。
「ー来たか!」
抜いた数秒後に背後から聞こえた爆音。先程とは全く違う威圧感。まるで目の前の獲物を狩る獣のようだ。
(あぁ,そうだ。これだ!この感覚だ!私が求めていたものは!)
食うか食われるか,勝つか負けるかのギリギリの緊張感。
互いに鎬を削り合う高揚感。
そして是が非でも私が勝つのだという本能を曝け出すこの感覚。
渇いていた心が満たされるようだ。
体は重い。脚も鉛のようだ。
いくら息を吸っても酸素が回らない。心臓の音が全身に響いて裂けそうだ。
あぁ,限界だ。限界寸前だ。
だが,それでも私は勝ちたい。
負けたくない。負けたくない!
「負けて…たまるかァァァ!!!!」
咆哮と共に最後の一滴まで振り絞る。欲しいのは今,ここでの勝利のみ。あとはもう何もいらない!
しかし,現実はそう甘くなかった。
黒い影が静かに。呆気なく,私の横に並ぶ。
たった50足らずの間に,彼は速度を上げ,追いついてしまった。追いつかれてしまった。
彼はこちらに目を向けず,そこからさらに加速してあっという間に抜き去っていく。風を切り裂くように走るアイツの背中は,瞬く間に小さくなっていった。
「クッ…ァァァァァァア!!!!」
悔しさの入り混じった声で叫ぶ。追い縋るように目の前に手を伸ばす。
視界は狭まり,白くなり始めた。プツンと糸が切れた人形のように体から力が抜けていく。
「ブライアン!」
うるさい…少し黙ってくれ
誰かの呼ぶ声を最後に,私は意識を手放した。
「ぅ…ん…」
目が覚めると,知らない部屋の天井が目に入る。
重い体を起こす気にもなれず,首だけを動かして周りを見る。医務室ではないみたいだが,自分がベッドに寝かされていることは理解できた。
体を起こすと,いつのまにか掛けられていたタオルケットが落ちる。頭を触ればいつも身につけている標縄も外され,靴も脱がされていた。
どうなっているんだ?状況が理解できないままでいるとガチャ,と扉が開く音がした。
「アンタは…」
部屋に入ってきたのは,先程私とレースをしたあの男だった。肩にはクーラーボックスを提げており,こちらに来ると向かいのベッドに腰を下ろした。
「覚えているか?君,ゴールまで走り切った後に倒れたんだぞ。おそらく脱水と疲労…あとエネルギー切れってところだな。」
「走り切ったのか…私は?」
「やっぱ意識飛んでたのか。流石にお前が倒れた時は焦ったけどな。たづなさんやおハナさんも居てくれて助かった。
症状はハンガーノック…簡単にいえばガス欠だよ。」
ガパッ,とクーラーボックスの蓋を開けると彼は経口補水液やオレンジジュース,カロリーメイトやゼリー飲料,バナナなどを取り出し私の前の置いていった。
「まずは水分を摂って,そこから食べれそうなものから口に入れればいい。寮の方へはルドルフたちが説明しているから,お咎めはないだろう。もうしばらくは休むといいさ。」
そう言いつつ新たに飲み物を取り出す。それは私ではなく自分用だったみたいで、彼は中身を一気に飲み干してしまった。
私もペットボトルの蓋を開けようとする。うまく力が入らず少し苦戦していたら彼が代わりに開けてくれた。
程よく冷えた経口補水液は普段ならあまり美味しいと言えたものではないが,今日はすんなりと飲むことができた。瞬く間に空になった容器を差し出せば,彼は受け取ってくれた。
「体は痛くないか?問題があれば夜間診察をしているところもあるからそこにいくが…」
「今のところは問題ない。気にするな。」
「そうか。明日の朝出る場合もある。その時は教えてくれ。すぐに病院に運ぶ。」
「あぁ…それでいい。」
短い会話が終わり,沈黙が続く。
2本目に飲んだスポドリを半分ほど飲み込み,口の中が潤うのを感じつつ食べ物に手を伸ばす。その中に明らかに異質なものがあり,思わず手を取ってしまう。
「アンタ…レース終わりのヤツにミニ羊羹はないだろう…」
よくコンビニのレジ近くで見かけるソレの端を摘みながらそう言えば,彼は同じものを既に一口食べていた。
「案外バカにできないぞ。炭水化物よりも手早くカロリーが取れるし,すぐにエネルギーに変わるからな。ある程度水分を含んでいるから喉が渇いて余計な水分を取ることもない。
あとはまぁ…俺の好物の一つだな。本来ならスポーツ用のやつを渡したかったが生憎手元になくてな。気になるなら今度渡すか?」
「結構だ。」
甘党か,その見た目で。
甘い物は別段好きというわけでもないが,一度手に取ってしまった物を下ろすのも忍びない。
袋を開けて,口の中に放り込む。
小豆と砂糖,ちょっぴりとした塩味が口の中に広がる。しばらく咀嚼した後に飲み込んだそれは意外にも疲れた体にスッと染み込むようだった。
その後も彼に用意された携帯食は瞬く間に私の胃袋に収まってしまった。正直物足りないが,先ほどよりは体に力が戻ってきたのを感じる。
「…一つだけ,聞いていいか?」
「なんだ。」
食べたそばから渡していったゴミを纏めている彼に尋ねれば,手を止めて彼は応じてくれた。
「正直私は…アンタはただの人間だと思っていた。だけど違った。体力も,スピードも,全部私より上だった。アンタは普通じゃない。一体何者なんだ?」
ウマ娘と男性が結婚した場合,大抵はウマ娘が誕生する。勿論,男が生まれる場合はあるがその身体能力はどれだけ母の血を濃く引いたとしても,ウマ娘には遠く及ばない。
なのに,彼の身体能力はそれを遥かに上回るものだった。過去に実例がないだけと言われればそれまでだが…
ジッと隣の彼を見る。私の質問に対して彼は少し悩むように顎に手を当てていたが,決心したように息を一つ入れた。
その直後,シュルンという音とともに彼の腰ーちょうど私達の尻尾が生えている辺りからフサフサの…黒い尻尾が一つ生えた。
「…は?」
「まぁ,そうなるよな。ということで正解だ,ナリタブライアン。俺は人間ではない。君達と同じ亜人種…〝人狼〟だよ。」
頭を見ればピコン,と一対の黒い耳が生えている。爪先は鋭く,体も一回りほど大きくなっている。見開いた琥珀色の瞳も窓から差し込む月夜に照らされてより輝いていた。
「ちょ…ちょっと待て。信じられるか,そんな話!?」
人狼の存在は知っているが,それはあくまでゲームや漫画,童謡の中の話だ。実在しているなんて誰も思うわけがない。目の前の情報で頭がパンクしてしまいそうだ。
「なら触ってみるか?ホレ。」
「わぷっ!」
ぽふん,という音とともに私の顔に彼の尻尾が当たる。フワフワで毛並みの良いそれは枕にしたらさぞ気持ちの良いことだろう。
恐る恐ると尻尾に触れる。時折揺れてくすぐったいが,妙に落ち着く。試しに抱きしめてみようかというところで彼は尻尾を私の顔から離した。
「少しは信じてもらえたか?」
そう言って尻尾も耳もしまい,先程の姿ー人型(それも正しいのか分からないが)に戻る彼の言葉に,私は頭を抑える。
「…信じ切れないが,合点はいく。成る程,人狼だからこそアンタは私とレースをするなんてことを提案したのか。」
「まぁな。それでも最高速度ではウマ娘にはまず勝てない。だから,俺は走る前からお前を煽り,プライドを刺激した。
10バ身の条件もその一つさ。案の定,自分のペースで走ることができなかったろう?
さっきのレース,結果は…言わずとも分かるな?」
そう言われ,私はベッドのシーツを掴んだ。
そうだ。私は負けた。負けたのだ。
初めて,全力で走った。
目の前の相手を追い,差し込んだ。
しかし結果としては,差し返された上に大差負け。しかも,ゴールに辿り着いたかどうかも記憶にはないほどに。
そこまでしても,彼には勝てなかった。完敗だ。
あぁ…悔しい,悔しい。悔しい!
「フッ…グッ…ウゥ…!」
視界が滲む。ポタポタと涙が伝い落ちていく。
こんなにも負けるのが悔しいと思うのは…自分が惨めだと思うのは一体いつぶりだろう。
もしかしたら,初めてかもしれない。
まだ親しくもない,私を負かした男が隣にいるというのに,私の目から涙は止まらなかった。
そんな私を見て,彼は私に問いてきた。
「悔しいか?」
「ズッ…当たり前だ…」
「また勝負したいか?」
「当たり前だ!」
彼の問いに食い入るようにそう叫ぶ。このままで終われるか。終わってなるものか!拳を握り,彼を睨む。
「そうか。お前が今まで負かした相手も,今のお前と同じ気持ちだろうな。」
「…どういう意味だ?」
今の私とは相反するように,穏やかな笑みを浮かべて彼は続けて話す。
「お前の経歴,少し調べさせてもらったよ。
ビワハヤヒデの実妹にして,小学生の頃から無敗…名だたるレース学校や教室に通うも誰も敵うものはいない。そして最後に訪れたのがここ,トレセン学園というわけだ。
だが,模擬レースを何度も行うもお前は負け知らず…そのうちに全力を出すことを恐れてしまったお前は,相手が居なくなることを恐れてしまった。
だがな,ブライアン。この学園の生徒はお前が思っているよりも弱くはない。
今日お前に負けた選手は,トレーナーと共に一からメニューを見直し取り組んでいる。次にお前と走る時に勝てるように。勿論,他の選手も同じだ。
それに,まだお前はデビュー前だ。まだ戦っていない格上のウマ娘なんてごまんといる。海外に目を向ければ尚のことだ。」
「何が言いたい?」
「つまり,だ。お前が知らないだけで,お前の渇きを満たす相手はまだまだ沢山いるってことだ。
現に,俺のような存在がいて負けるなんて,夢にも思わなかったろう?」
自分の胸に拳を置きながら彼は笑う。
あぁ,そうか。そうだな。
勝手に挑んで,落胆して,諦めて…私は私だけの価値観に囚われていたようだ。
そうじゃなかった。外に目を向ければ,まだ私の知らない相手がいる。知らない世界がある。
これからだ。私の飢えも渇きも満たすのは,これからだったのだ。
そしてそれを一緒に満たすことができるのは…
目の前の男を見る。経歴には興味がない。新人かどうかもこの際どうでも良い。
これはカンだ。だけど,信じるには充分だ。
「アンタ…担当バはまだ居ないよな?」
「勿論。チームリギルのサブトレとはいえ新人なものでね。」
やれやれと態とらしく手を広げるが,彼はすぐに真剣な顔つきになる。随分と察しの良いことで助かる。
「良いのか?リギルや他のチームじゃなくて。」
「アンタが良い。私を負かして,散々能書き垂れてくれたんだ。今更断るほどひ弱でもないだろう?」
そう言うと,彼は笑った。挑戦的で,熱く滾るような火が彼の目に宿っていた。
そしてそれは,私も同じなんだろう。
「分かった。お前の実力に恥じぬよう,全力を尽くしてサポートする。
そういえばちゃんとした自己紹介はまだだったな。銘無だ。好きに呼べ。」
「改めて,ナリタブライアンだ。いつかお前も負かしてやるから,楽しみにしていてくれ。
そして…これからよろしく頼む。どうか私の渇きを満たしてくれよ,トレーナー?」
互いに差し出した手を強く握る。
彼らの栄光への道を照らすように,空には眩い星と三日月が輝いていた。