あのレースを終えた晩から数日。めぐるましく環境が変わったーというわけではないが,まぁそれなりに忙しくはなった。
ナリタブライアンとの書類契約とそれの提出。チームリギルからのサブトレーナー退出手続き。トレーナールームへの備品移動。改めて室内トレーニングルームやプールの予約手順や,ジュニア期〜シニア期までの各手続きの案内の確認など…まぁ色々だ。
チームリギルにサブトレーナーとして在籍していた期間は短いが,研修の時から1番世話になったチームではあった。おハナさんが指導してきた選手達からも沢山学ばさせてもらった。
「次からは敵同士だな。それもあくまでレースの上でだけ。何かあればすぐに頼りなさい。応援しているわ。今度時間が合えば,お祝いついでに呑みましょう。私の奢りだ。」
おハナさんからチームを抜ける際に優しく笑いながら,送り出してくれた。勿論,リギルのチームメンバーも同様だった。特に彼女…シンボリルドルフは。
「ルドルフには悪いことをしたなぁ…応援すると言ったのに。」
今もまだ鮮明に覚えている。
この学園に来た初日,2人きりの生徒会室で聞いた彼女の偉大な夢。
俺はそれを応援すると、支えると約束したのに,大したことは何もできなかった。
だが,彼女はその夢を現実のものとしつつある。
デビュー戦を制し,その後のレースも勝ち続けだ。この学園初となる〝無敗の三冠バ〟〝絶対のウマ娘〟〝皇帝〟シンボリルドルフ
世界を震撼させ,学園内外にして有名となった彼女はその信頼と実績のもと,高等部一年にして異例の生徒会長に抜擢された。
あの時の小さい彼女が,今や遠くの存在になってしまった。誇らしいような寂しいような,そんな感じだ。
「おい」
「ん…もう終わったのか。」
「あぁ,次のメニューをよこせ。」
「その前に水分を取れ。あとタオル。」
ボトルとタオルを手渡せば彼女は素直に受け取る。汗をかいているものの息が切れた様子はない。流石の身体能力だ。
ナリタブライアン…デビュー前だというのにその実力はすでにルドルフ以来の三冠バになり得るとさえ言われている。新人トレーナーとして俺が初めて契約を結んだウマ娘。
新人トレーナーになったばかりのものが担当バ…それもこんな有力バと契約を結ぶことになるとは誰が思うだろうか。
(これは周りからも相当の恨み妬みを買うだろうな。特にブライアンを率いれようと躍起になっていたトレーナー陣から。)
頭にはあの日のレースでブライアンを何とか自分のチームに誘い入れようとしていたトレーナー達の顔が浮かぶ。申し訳なさは微塵も感じないが感情に支配された人間というものは何をしてくるか分からない。特にこういう業界での黒い話なんて学園に入る前から耳にしているし,現場に来てからも見てきた。
まさか自分がその対象になり得ることになるとはなぁ…いや,遅かれ早かれなっていたやもしれん。
「おい,どうした?」
「ん,あぁ…すまんな。少し考え事だ。お前は気にしなくていい。次のメニューに行こう。」
「そうか。ならいい。」
無愛想に返す彼女に次のメニュー伝えれば,すぐにトレーニングに向かっていった。より速い奴らと競い合い,勝つためにはトレーナーと契約を結び,デビュー戦に勝たなければならない。
まずはその最初の関門を抜ける。レースに絶対はない。だが,それに近づくことはできる。
ウマ娘には〝本格化〟と呼ばれる時期があるというが,彼女は今それに入ろうとしている。体の成長もこれからがピークに向かっていくと考えれば今は体作りを中心にしつつ得意なものを伸ばしていくことがいいだろう。
(スピード,パワーはいいとして…あとはスタミナ配分だな。なんせあの負けん気の強さだ。囲まれても抜け出せるとは思うが,外から大きく抜け出した方が幾分かマシだ。)
ブライアンの脚質は先行〜差し…あの負けん気の強さと異常なまでの勝利への飢えを考えれば性格的にも合っている。
まぁ多少その性格が故か,予定より早く仕掛けてしまうではあろうが…デビュー戦前にそこまで直せる時間はない。そこは後回しにして問題はないだろう。
彼女の走っている様子をまとめながら,次のトレーニングはどう組んでいくか頭の中で組み上げ始める。ブライアンも俺も,まだスタートラインにも立っていない。これからが本番だ。
そう思って再度ブライアンに視線を向けようとすると,後ろから足音が聞こえてきた。スン、と鼻を鳴らす。そして匂いの正体が分かり心の中で盛大にため息をつく。
「何か御用で?」
振り返った先には,先日話した中堅トレーナーが薄っぺらい笑みを浮かべてそこに立っていた。
あの男に,今の私のトレーナーにレースで負けてから私は彼とパートナー契約を結んだ。
私とレースを終えた次の日から契約手続き,トレーナー兼ミーティングルームの準備と備品準備。チームリギルのサブトレーナーから退席し,数日も経たない内にトレーニングメニューを組み上げてきた。
正直レースに出れればトレーナーなんて誰でも良いと思っていたが…毎日のように付き纏ってきたアイツらに比べれば今のアイツの方が何倍もマシだ。まぁ,まだメニューに物足りなさもあるがアイツのことだ。言えばすぐに改善してくるだろう。
彼の組んだトレーニングメニューに取り組んでいると,嫌な男の声が耳に届く。
ジャージの袖で汗を拭いながらその方を向けば,私のトレーナーがあの中堅トレーナーに責められているのが目に入る。
鬱陶しい。これで何度目だろうか?
既に担当トレーナーを決めた私に「まだ遅くない」「絶対に後悔する」とお決まりの台詞を並べて移籍を求める声を聞くのは。いい加減諦めて欲しいものだ。
まぁ,アイツなら問題なく対処するだろう…そう思った矢先だった。
バチン!と一つの鈍い音とともにトレーナーの顔が横に仰け反った。
「な…!?」
怒り心頭と言わんばかりに顔を赤くし,息を荒くしている男に対してトレーナーは少し顔を歪ませていた。相当の力で叩かれたせいか口の端からは血を流しているのが見えた。
それを見て,私は考えるよりも速く2人の方へ駆け出した。
痛い。鉄の味が口内に広がり,嫌な匂いが鼻につく。
まさか公の場で叩かれるとは微塵も思わなかった。周りにはブライアン以外にもトレーニングをしている者達がいるというのに。
端から流れ出た赤い液体を指で拭いながらも目の前の男を見れば,まだ怒りは収まらないようで顔は赤いままだった。
まぁ,俺が叩かれた事などどうでも良い。これくらいの傷ならすぐに治る。それよりも問題なのは…
「やめろブライアン。」
「何故だ?」
すぐ横にまで来ていた彼女のジャージの首元を引っ張り、こちら側に寄せる。納得いかないとでも言いたげな彼女の瞳は苛立ちと怒りが混ざっていた。
「落ち着け,レースに出れなくなるぞ。それでもいいのか?」
「…分かった。」
まだ耳は絞られたままだが,少しばかり落ち着きを戻した彼女を見て此方も一息つく。流石に現役のウマ娘が暴れられたら無傷で取り押さえるのは流石に厳しい。
件の男に目を向ければ,先程のブライアンに怯んだのか少し青ざめていた。よくもまぁコロコロと顔色が変わることだ。
「まだ私達に用事がおありで?これ以上あるというならば貴方自身の首を絞めるだけになりますが…如何しますか?」
「…後悔するぞ。その前に彼女から身を引くことだな。」
最後にそう吐き捨てて彼は逃げるように去っていった。とは言え,それなりに今の一連の流れを見ていた者も多いことだし,理事長らに何かしらされるだろう。
そして次に視線が向けられるのは当然自分達である。こう言ったものが苦手なブライアンにこのまま練習をさせても意味がないだろう。
「嫌な思いをさせてすまない。このまま切り上げるか?」
「いや…まだやり足りない。」
そうはいうものの,明らかに気が立っているブライアンをこのまま放っておく訳にもいかない。あまり人気のなく,トレーニングもできる場所はないかと少し考えると一つ思い浮かんだ。
「ブライアン,場所を移すぞ。」
「くどい。移りたいならアンタだけでいけ。」
「そんなイライラしながら走っても意味がないだろう。それに今から行く場所はスタミナつけるには申し分ないと思うぞ?」
俺が折れないと分かったのかブライアンは1睨みした後一つため息を吐いた。どうやら移動してくれるようだ。
「…場所は?」
「学園近くの裏山。俺は諸々揃えていくから先に待っていてくれ。」
「分かった。」
渋々と返事をするも彼女はそのまま練習ターフ場から裏山へと向かっていった。俺も彼女の後に続いてその場を後にし,トレーナールームに戻り必要なものを揃えて裏山へと向かった。
「遅い。」
「すまない,少し手間取った。」
私が着いてから暫くしてトレーナーはやって来た。背中には大きめのリュックを背負っていた。
「で?一体何をするんだ。」
「裏山を山頂まで走って降りるを繰り返す。以上。」
「…それだけか?」
「まぁな。そのかわりこれを付けろ。」
そう言って彼はリュックを下ろすと中から手首につける重りとマスクを取り出し渡して来た。そしてもう1組同じものを取り出すと自身に装着し始める。
「アンタも走るのか?」
「山道は視界も悪く足元も不安定だ。何かあったらその場にいなければ対処できないから念のためな。」
そう言って重りとマスクを装着し終えると再度リュックを背負い直すトレーナーを見て私も同じように装着する。重りはつけた事はあるがマスクトレーニングは初めての経験だ。
「そんなにキツイメニューとは思えないが?」
「ハハハ!流石だな。まぁやれば分かる。早速だが行ってみよう。」
そう言うとトレーナーは裏山へと足を踏み入れ,私もその後を追う。あまり立ち会った事はないが確かに足元は整地されていない場所が多く不安定だった。芝やダートとは違う環境にスタミナを奪われる。
更にマスクの影響で普段通りに呼吸しようにも十分な酸素が入ってこない。強制的に呼吸が乱されるのを感じてしまう。
それに反してトレーナーは重りもマスクも,山道もどこ吹く風と,快調に登り進んでいく。それを見て無性に腹が立ち私もペースを上げた。
そして無事山頂に到着するも,呼吸の乱れる私に対してトレーナーは息が上がらず平然としていた。本当に人間かこいつは…いや,人間ではないが…
「お疲れ。初めてで今のペースに着いて来れるなら充分だな。一息入れたらすぐ下るぞ。」
「ゼ…ハ…分かった…」
そう言ってリュックからボトルを取り出すと私にパスして来た。それを受け取り口に含みながら私は一つ疑問をぶつけてみた。
「アンタ…その状態でそんな身体能力なら人狼化したらどれほどのものになるんだ?」
時速60キロで3時間は走れる持久力を持つウマ娘以上のスタミナ。そして私とのレースで見せつけたスピード。あの時も,今も彼は人の姿のままであった。もし人狼化できるとしたならば…
「ん?あぁ…もしかして漫画やゲームみたいな人狼化のことを言っているのか?悪いが俺はできないぞ。」
「は?」
「だから,できないの。ああいう変身は。」
信じられない。そう思うも、彼は申し訳なさそうに頭を掻きながらそう答えた。
「…冗談だろ?あの時は耳や尻尾が生えていたじゃないか。」
そうだ。あの夜,彼は黒い毛に覆われた尻尾を私の顔に当てて来たし,ピコピコと動く耳だって確かにみたはずだ。できないわけがない。
しかし彼は自嘲気味に笑いながら話してくれた。
「それが俺の限界だ。俺は他の動物ベースの亜人種と違って完全な人狼化も獣化もできない。所謂半端者だ。俺の身体能力は先天的なものよりも,後天的に得たものが多い。幸か不幸か俺の回復力は亜人種の中でも一際でな。それで騙し騙しやっているわけだ。」
つまり…コイツは無茶をし続けている,と言うことか?対ウマ娘の鎮圧任務も,あの時のレースも,もしかしたら今のトレーニングでさえも?
「…すまん。余計なことを言った。」
心配するな,そう言わんばかりに彼は笑って話してくれた。私の手に握られるボトルを回収する。
「今の俺はナリタブライアン,お前のトレーナーだ。お前がレースで勝てるように,渇きを満たせるように助力するのが仕事だ。それに関することなら,出来る事はするつもりだ。
だからブライアン…お前はレースのことだけを考えて欲しい。」
「アンタは…さっきみたいな事が起きても同じことを言うのか?」
きっとコイツは、私が知らない所で他のトレーナーにも責められているのかもしれない。私といる時でさえ移籍の話をされるのだから,当然そう考えてしまう。
それに,実際に手を出されたが今回が初めてだとしても,今後はないとは言い切れない。
半端な亜人とはいえ彼も人外的な身体能力がある。手を出したら最悪命を奪いかねないことからも彼はきっと手を出さずに耐えてしまうのだろう。
普段ならここまで他人など気にもかけないが…コイツは違う。そんな気がしてならない。
そんな私の不安を感じたのか,トレーナーはポン,と私の頭に手を置いた。
「優しいね,ブライアンは。大丈夫、ただではやられないさ。それに味方になってくれる人達も居るから安心して欲しい。」
私の耳に当たらないように気を遣いながら,優しく彼は頭を撫でる。それを突っぱねる気は全く起きなかった。
「私が勝ち続けるば…アンタは何も文句は言われないのか?」
自分でも驚くくらいの細い声でトレーナーに問う。答えは決まっている質問に彼は答えてくれた。
「それは分からん。だが,そうだな。勝たないことには何も始まらないのは確かだ。」
2人で勝とう。そう話す彼の言葉に私は頷いた。