忍術学園の狛犬   作:デスブリンガー

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忍術学園の狛犬

「あーーっ!?」

「ぎゃあああぁぁ!?」

 

その日、事務室から小松田さんがやらかした時の悲鳴は聞こえたが、吉野先生のお茶をひっかぶった時の「あっちぃぃ!!」の悲鳴は聞こえなかった。

 

「吉野先生、茶は無事です」

「薄井君、助かりました」

「僕全然無事じゃありませんけど!?」

 

いつものように茶を運んでいた小松田さんがこけて、吉野先生の顔にあわや茶がかかろうとした瞬間吹っ飛びそうになった湯呑みと盆を狛が取って事なきを得た。小松田さんはいつものように顔から畳に着地した。

昨日の研修では狛治郎は呆然としてしまったが、二の轍は踏まない。濡れた畳を拭いたり、お湯を被った吉野先生に冷や水を渡していたら山のような書類を処理する時間が確保できないと悟ったからだ。

 

「あ、誰か来た」

 

いつものセンサーに反応して小松田さんがいそいそと入門表を手に外へ出た。狛も捕物用の棒を持って後に続いた。吉野先生から「まだ治りきっていないんだから」と苦言を呈されたが、こればかりは国境を守っていた身として染み付いた習慣である。

先日の諸泉という男の例もある。

来客は小松田さんの後ろに控える紺の忍装束の狛を見てゲテモノを見たように半目になった。

 

「うわぁ…子山羊の群れに山犬がいる」

 

左目以外包帯だらけの壮年の男ーーー雑渡昆奈門がげんなりしながら言った。初っぱなから失礼な男である。

 

「こなもんさん、おはようございます。入門表にサインを」

「はい、いつもおつかれさん。その子新入り?」

「はい、先日付けで事務室に配属されたーーー」

「薄井狛治郎と申します」

 

小松田さんの後ろに控えていた狛が静かに名乗った。

 

「あれぇ?屯所に首持っていった時『与六』じゃなかった?」

 

底意地悪そうに雑渡が笑うと狛はその切れ長の目を細めた。

 

「その様子からして、いつぞや市で托鉢しておられた虚無僧ですね?何やらお探しとは思いましたが」

「そりゃあれだけ暴れりゃ君、目立つでしょ?」

「あ、なんだ。こなもんさんコマさんに会ってるんですか?」

「市で何回かね。あと最近ここの近くでも会ったよ。ね、助かったでしょ?やっぱり絞られた?」

 

からかうように聞いてくる雑渡に、思わず狛は目を見開いて「あれアンタだったのか?」と呟いた。「おおっ、コマさんが猫を捨てた!」小松田さんも別の意味でビックリである。その反応に満足したのか雑渡はケラケラ笑った。

 

「それで?ここで働いているってことは匿ってもらうため?それとも弱味握られて飼い殺し?」

 

このクソヤロウ。

狛は心中で吐き捨てた。小松田さんも「人聞き悪いこと言わないでくださいよぉ」と口を尖らせて非難した。「わかってるよ」と雑渡も軽い。

狛の中で雑渡は「敵じゃないが嫌なやつ」に認定された。

 

「色々ありましたけど、うちで治療費分働くことで示談成立したんですよ」

「伊作くんたちならお代とらないだろうに」

「けじめですって。今はリハビリ兼ねて手伝ってもらってますが、コマさんすぐ仕事覚えちゃって。コマさん、この人タソガレドキ忍軍の雑渡昆奈門さん」

 

小松田さんははじめての後輩を誇らしげに紹介した。手伝うというより既に狛がメインで事務作業している。吉野先生が「机が見える…!」と感激していたのは記憶に新しい。

学園長が狛に課した条件は三つ。

治療費を学園内の労働(ひとまず事務員として)をもって返済すること。

その間一切の殺人(戦の参加も含む)を禁ずる。

保健委員の診察は絶対受けること

以上であった。

経緯を顧みて、血に酔う前に殺しは当分やめておけと学園長に釘を刺された。よって手持ちの忍具は学園の用具室の奥に封印された。

 

「てことは、昨日うちの尊奈門畳んだの君?」

「あ、すいません。僕いつものことだって教えとくの忘れていて…は組のよい子たち守ろうとしてのことなんです」

「…弟弟子が師匠に奇襲かけるときと同じだったので、つい」

「何だろう、今の一言で君んとこの修行風景わかった気がする」

 

諸泉尊奈門が以前土井半助に(文房具で)あしらわれて以来、雪辱のために学園を訪れては襲撃をかけにくるのは恒例と化していた。そしてその都度土井が返り討ちするのも日常だった。

だが昨日の昼は違った。

例のごとく屋外授業中の土井を狙って苦無で突撃した瞬間、不穏を察知した狛治郎に茂みにあっさり引き摺りこまれて四肢脱臼の憂き目にあったわけである。昼下がりの中庭に骨が外れる音がで響いた。断末魔は「腰ぃっ!?」だった。残念、外したのは股関節だ。

「土井先生、シめますか?『教材』にしますか?」と夕飯の献立を聞くように物騒なことを聞いてきた狛に一年は組一同がドン引いた。

ちなみに尊奈門は土井先生の計らいで医務室にて無事治療された。「肩の脱臼は散々やったが股関節脱臼は初めて手をつけた」と、保健委員たちは後に語った。

 

「まあ、優秀な事務員だこと(白目)」

「よもや自分で治せないとは思いませんでした…」

「肩と手首ならとにかく、四肢全部は私でもちょっと無理だなあ」

「え?最初の修行でやりません?」

「狛さんや。右近左のじいさんが本当におかしいんだって」

 

話せば話すほど狛治郎の闇の深さと言うか、薄井の人でなし加減が浮き彫りになるのは気のせいか?さすがの小松田さんも呆れている。

何でも敷き詰めた焼石の上を走らされたとか、断崖絶壁から叩き落とされたとか、部屋いっぱいの毒蛇たちのど真ん中に放り込まれたとか、一人で城館二つ制圧したとか…しかもまだ序の口だと言っていた。

三歳から水の上に浮かべた莚の上を走らされて沈んだら生の竹棒でしばかれる等々な伊賀の修行も大概だが、やはり引く。忍者は憧れだが本場に生まれなくて良かったと小松田は話を聞いて思ったものだ。

閑話休題。

 

「まあ、別にお礼参りにきたわけじゃないからそう固くならなくていいよ。しかしクサクサしてるもんかと思ったら存外馴染んでる」

 

「殺し殺されしてたとこから急に『殺すな』ってなったらしんどかろうと思ったから安心したよ」と雑渡は揶揄した。

お互い、下手な武将より殺してきた外道だと目を見てわかった。特にこの若造は本来よくしつけられた猟犬だ。命じれば即座に、あるいはどこまでも追い詰めて標的を仕留めるだろう。そして終わればケロリとした顔で帰ってくる。

それを察して狛も「よくも言う」と思いつつ、ぶっきらぼうに返す。

 

「…学園長の温情を無下に出来ませんよ」

「情けは人の為ならず、自分のためだもんねー。良い子たち助けてきた甲斐があったじゃない」

「あー…」

 

ニコニコ笑いながら狛の肩を叩く小松田の言葉に雑渡は得心した。なるほど、新しい首輪(命令)と情で縛ったか。何度か伊作たちを助けているらしいが、存外感情(色)が残っていると思った。

 

「ところでご用は?」

「保健委員いる?」

「伊作君なら今日医務室にいますよ。伏木蔵くんは実習だからもうしばらくかかりますね」

「んじゃ待たせてもらうかな?」

 

門を潜る時「ああ、そうだ」と雑渡は思い出したように狛の方を見た。

 

「君を追っかけていた役人たち。君がここに担ぎ込まれた翌日お殿様死んじゃったから、もう追ってこないよ」

 

白い包帯の下にある片目が愉悦で歪んだ。

 

「だから言ったろ?『助かる』って」

 

「あの人も医務室の診察に?」

「医務室にってより保健委員にかな?夏休み明けくらいに伊作くんが介抱して、一年ろ組の伏木蔵くんと仲良くなってからちょくちょく」

「一忍軍の組頭がそれでいいんかい」

「いいんじゃない?部下が迎えに来るけど学園長先生も何も言わないし。たまにうちのこと助けてくれるし」

「なんと言うか、本当に凄まじいですね」

 

医務室で療養中もそうだが、狛を見舞いに来た(あるいは野次馬しにきた)面々の顔を思い出すといかに此処が中立地帯という名の混沌地帯か理解した。甲賀五十六家に混じって伊賀者はまだわかるとして、堅気の子供も普通にいるし、名前だけしか確認してないが尼子の鉢屋衆もいると来た。

それを言えば「与六さん、真面目なのいいけど頭固すぎ」ときり丸に呆れられた。

ちゃんとサインしたらどこの誰であろうと入れる時点でかなりカルチャーショックだったが、ここの雰囲気が和やかなのはそういったおおらかさからくるのかもしれない。

「何言ってんの、そっちも大概でしょ?」とは言われるが、それとは別の意味だ。越後なら侵入者は生かして返さないのが基本である。

いや、そういえば内偵に入った森蘭丸を、公が直々城下を案内して終いには酒宴に招いた話があったような…?

 

「小松田さん」

 

若いが聞き覚えのある声に狛は肩をはね上げた。立花仙蔵である。

 

「仙蔵くん、文次郎くん、おはよう」

「おはようございます。これからしばらく実習忍務に着きますので、外出届けです」

「はい確かに受け取りましたぁ」

 

小松田さんはいつものように業務をこなしているが、隣にいる狛は戦々恐々である。

詮議が終わって医務室に帰された次の日、優雅と言える所作で彼は見舞いに来た。

入ると同時に白皙の美貌に余人ならうっとりするような笑顔で「お加減はいかがですかな?」と敬語で言われて、狛は思わず飲んでいた薬湯を膝の上にこぼした。戦慄で

若い父のことばかりに意識がいって狛はすっかり彼のことを忘れていたのだ。何故か間が悪かったやら、彼には殆んど会わなかったから完全に油断していた。自分の知っている半分以下の歳であっても、狛は師匠とは違う意味で立花仙蔵という男に逆らえなかったし、敵に回したくなかった。

あちらからしたら正体の知れない他人だからなんとかそれらしく振る舞っているが、自分を探していた旨を伝えられた時は生きた心地がしなかった。正直裏山までマラソンに付き合わそうと飛び込んできた七松小平太に感謝したくらいである。

仙蔵としては人となりを見極めるついでにチクリと嫌味を効かせたつもりだったが、医務室は異様な緊張感に包まれていた。

あれから当然と言えば当然だが、警戒とまでは行かずとも常に意識の隅に置かれてる気がして居たたまれない。ニコリと笑って「経過はよろしいみたいですね」と言われたら「おかげさまで」と返さねばならない。その間も内心不審に思われてやしないかと気が気でないし、後ろに控えている文次郎がジト目で見ているから嫌な汗が止まらない。

 

「伊作が出来れば天井裏でなく夜具で寝て欲しいとこぼしていました。常在戦場は結構ですが、あまり無茶がすぎるとせっかく塞がった傷に障りますよ?」

 

「うん、それ僕も昨日やられた」小松田さんが割って入った。「布団にいないから黙って出ていったと思ってしばらく焦っちゃったよ」「すいません」

 

「いやぁ、昔寝首をかかれたことがあるのでどうしても横になるのは不安というか…まあ、努力します」

「横になるのに努力はどうかと思いますが…完治するまでと考えれば良いのでは?」

 

修行と委員会のために睡眠時間を削っている同室にとの違いに仙蔵は苦笑いした。

「体バッキバキにならない?」「慣れですよ」と小松田さんと話しながらチラリと狛は文次郎を見た。彼の知っている潮江文次郎と顔は全く変わらなかったが、それでも文禄で最後に見た彼よりは血色はあるし、目の下の隈も薄かった。この頃が一番夢に燃えていた頃なのだろう。

大丈夫、と狛は自分に言い聞かせた。

この人は大切な人を失くして心身ともに病む前で、殆んど他人だから、急に怒鳴ってきたりしない…だから失礼がないように平静にと努めようとしたがーーー

 

「コマさんコマさん、僕を盾にしないの」

 

駄目だった。完全に体が怖気づいてる…!

狛はふと殺気を感じて小松田さんの肩越しに覗いた。そこにはひきつった笑顔に青筋を浮かべた潮江文次郎と呆れたように半笑いの立花仙蔵がいた。

 

「薄井さん、ーーーちょっと話しましょうか?」

 

こまはにげられない!

 

 

一方その頃、大川学園長は庵の縁側で新野からの報告を受けていた。

 

「コマの具合はどうかの?」

「怪我の分は、概ね順調です。このまま健康な生活を送れば、味覚障害も含めて内臓の負担も回復しますよ。昨日みたいな無茶しなければ…」

「完全に右近左のシバき方じゃったなアレ。…どうも敵を仕留めるためなら自分を一切省みんきらいがあるのぉ」

「私としては、そこを含めて精神の方が心配です。今は大分安定していますが、療養中もかなりの頻度で悪夢に魘されていて、それ自体に麻痺しています。なんと言うか、生きるのを半分諦めているようにさえ感じますね」

 

元気な生徒たちを相手にしている分尚更思ってしまう。

聞けば顔も声も忘れた母が腐った亡者となって自分の腕や背中にしがみつき引きずり倒そうとする夢らしい。

子供を連れて逝こうとする親はいないと諭しても、「だといいですね」と寂しげに苦笑するあたり重症だと新野は判断した。

忍なら時には心を殺さねばならないが、盗み、奪い、殺しを続けていて心が傷つかぬはずがないのだ。その傷を嘘の笑顔で誤魔化す者。感情を磨耗させていく者。大なり小なり狂って、はてはその狂乱に溺れる者。もはや何のためにこの道を選んだのか?それすら忘れて死にながら生き続ける者たちを新野も大川も学園に携わる前から散々見てきた。

狛は苦しみを忘れるために磨耗したのだろう。だが傷に傷を重ねても、それは治ったことにならないのだ。

 

「わしらは死にながら生きるために忍になったのではないと何度も言い合ったはずなんじゃがなあ…」

 

『わしらの様な者は生きようとしたらそこで終わりよ』

 

死人のように嗤いながら言い捨てた梟を思い出す。

師匠が右近左と聞いて、番犬の『狛』と手駒の『駒』を兼ねてコマと名付けたのだろうと察するのは早かった。狼と違い超人としてでなく道具として育て上げたのだろう。

それを本人が受け入れてるせいか、どうも自分を含めて周りを資源と数えているきらいがあった。

だから詮議の最後、退室する前に狛がぽつりと伝えたことは聞き捨てならなかった。

 

『梟はまだ諦めきれておりません』

 

何を?と問えば「己のが武名を」と短くかえされた。

忍術は人間を化生に変える外法だ。古い忍になると己の心の有り様もわからなくなるという。

それだけ目立てば逆に身を危うくすると奴は熟知しているはずだろうに、誰もが大なり小なり抱く功名心が老いてから噴き出したのか。

狡知に長け他人の運命に散々介入しておいて、自分の人生を大事にすることに暗い忍たちを見ると情けない気持ちになった。

奴とはそういった信念の違いから言葉でも刃でもかなりやりあったと思う。回数なら、色々手遅れな大鴉よりずっと上だ。

もし、未練がましく残った功名心の結果がお蝶や狼や狛であるなら、大川は一生梟を許さないだろう。

あと仁義信じる信じない以前に約束ぐらいは守ろうな!貸した金とか貸した銭とか!!あ、思い出したら段々腹立ってきた。

 

「新野先生、わしちょっと梟狩してくる」

「学園長先生落ち着いて!今は狛治郎くんの話でしたよね!?」

「あ、そうじゃった。吉野先生と小松田くんとはどうかの?」

「思った以上に仲良くなってますね。最初は小松田くんのおっちょこちょいに辟易していましたが、半日したら完璧にフォローに入ってました」

「伊作といい、乱太郎といい、穏和な人間には弱…じゃなかった。相性は良さそうじゃな」

 

逆に留三郎や小平太のような我の強い者にはちょっと距離を起きたがる傾向があった。多分元来の性格が関係しているだろう。時折一年生より情緒が幼く見える時がある。大川は狛の心の一部が幼い時分で止まって動けなくなっていると気づいていた。

 

「小松田くんの人の良さが功を成しましたね。歳も近いし。根本治療は無理でも、精神的支柱が増えれば大分改善されると思います」

「やっぱり人間性は時間をかけて育てるしかないわな」

 

大川はうんうんと頷いた。どこぞの馬鹿が『人間性は希釈してからが本番!』とか抜かしてたが、棄てるだけの人間性だって誰かとの繋がりと時間があってこそのものだ。

ここで治療費分働くことを提案したのは正解だった。期間限定だが鬼の追跡者2号の誕生である。

その時、門の方で騒がしい声が聞こえた。

 

「あ!逃げた!?」

「いや、学園から出てない!多分何処か隠れてる!」

「待てコラぁ!今日こそ一発ぶん殴る!!」

 

どうも野村から聞いた父の話が文次郎にバレたか?敷地の外に逃げないだけマシだが、あの調子では面と向かって話し合うのは当分先だろう。二人は苦笑いした。

 

「…生徒らに馴染むのはしばらくかかりそうじゃな」

「ですね…」

 

 

胡蝶之夢という言葉があるように、きっと都合のいい夢なのだろうと狛は思うときがある。

本当の自分は大阪へ行く途中でのたれ死んでいて、今の自分は今際の際にみた夢の中ではないかと

でなくばこんなに助けられることもないし、そもそも都合よく忍術学園に助けられるのもおかしい。

だから「ひとまず事務員として小松田くんの補佐をするように」と大川学園長から言われて、今度こそ耳を疑った。てっきり殺されるか、生かす代わりに危険な仕事を当てられて使い潰されるかと思い込んでいたから、思わず聞き返してしまった。

 

『私のような者を置いて平気なのですか?』

 

すると学園長は「そりゃお主が梟の使いで来てるなら考えるがな」と前置きした。

 

「うちは来るものの貴賤は問わん。逆に聞くが、お主に困る理由はあるかの?」

 

治療費も払えるし、役人に粗探しされんですむぞい?そう言われてしまうと答えに詰まってしまう。師匠の下にいた頃はその身分から、城下では父との確執が災いして鼻つまみ者扱いされてる狛は歓迎されることに慣れなかった。

むしろ「いや、堅気のお子さんもいらっしゃるから」とか「流派が違いすぎるから」とか自分から理由をつけようとした。だが、腹の中では今までずっと蹲っていた幼い情動が暴れ始めていた。

両親の見てきた場所にいていいのか?

あの明るく楽しい場所にいていいのか?

ーーー明日に期待していいのか?

再び厄介な希望の芽(欲求)が勢いをつけて殻(理性)を破ろうとして、抑えようとしたが今回はもう無理だった。

はっきりと断ればいいのに言葉が出ない。狛は自分がどんな顔をしているかわからなくなってたまらず片手で顔を覆った。

もう観念するしかなかった。

 

『ーーー謹んで、承ります…』

 

『うむ、決まりじゃな!』と学園長が快活な声に教師陣から呆れたため息が聞こえて、詮議は一旦お開きになった。その間、狛は顔を上げられなかった。

きっと今の自分の顔は、嬉しいのと不安とが混じってとんでもなく情けないことになっていることだろう。

 

それから医務室に戻ると、狛が治療後ここで働くと聞き付けた生徒たち(主に一年は組)が詰めていた。「ね?大丈夫だったでしょ?」と乱太郎に笑顔で言われて、その後各々から歓迎された。

教師陣から「まだ全部話してないんだろ?」と言いたげな視線を寄越されたが、一番若手の土井半助からは生徒を助けてくれたことに謝意を述べられた。

先輩の小松田秀作も抜けているところはあるは色々話してくれるし、嫌味のない性格もあって思った以上に気さくに接している。仕事を溜めるのが玉に瑕だが。

かくいう自分はここの生徒と違って叶えたい夢もなく、いきる意味も見出だせずいるが、多くの善意とおおらかさのお陰で何とかうまくやれるかもしれないと狛は思った。

例えこれが本当に夢でも、せめて我が身に換えても守りきるくらいはしてみせようと。

目下問題はーーー

 

「そこぉ!」

 

袋槍の刃先が顔の横を掠めた。悲鳴を上げなかった自分を褒めたい。完璧に気配を断っていたつもりだが、やはり若くても潮江文次郎という男は誤魔化せないらしい。あるいは現実逃避していて気配が漏れたか。ともかくここは放棄して別の場所へ移動する。

 

「まぁてぇぇぇぇえっ!!」

 

いや、無理だから。韋駄天走りしながら狛は怒声を上げる文次郎に内心で呟く。文禄の越後にいた頃から彼からは全力で逃げねばならぬと決まっていた。

これは最早死ぬのが怖いとかまた苦無で斬られるかもとかと言う話ではない。脊髄反射である。

 

狛はこの時代に来てから、文禄の時代から来た以外でずっと誰にも言ってないことがある。

彼の幼名は潮江文吾。

父文次郎から一文字頂いて、母すみがつけた名である。

 

只今追ってくる父(15)を撒く方法を募集中である。




とりあえずここまでで一旦切ります。
また日常回と出来たら転載します
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