猫ノ下雪乃さん。   作:滝 

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猫ノ下雪乃さん。

 特別棟の廊下を歩きながら見る中庭は、新緑に染まっている。

 つい数週間前まで校舎の角で(わだかま)っていた桜の花びらは一体誰がどこにやったのか、もはや影も形もない。いつしかズボンのポケットに手を突っ込む頻度も減り、俺は肩に背負った鞄を揺らしていた。

 奉仕部の部室が近くなってくると、前から見知った顔がやってくる。

 ──雪ノ下雪乃。

 俺の⋯⋯なんと言うのが正確な表現なのだろう。彼女の言葉を借りるなら、パートナーというのが、今のところの正しい表現だろうか。

 こうやって雪ノ下に廊下で会うというのも珍しいが、ある意味必然だった。今や奉仕部の部長は我が妹の小町であり、一番に部室の扉を開けるのは彼女の仕事だ。

 彼女の方も俺に気付くと、ふわりと微笑みながら歩みを進めた。やがて声を張らなくても言葉を交わせるほど近づくと、雪ノ下は鈴が転がるような声で言う。

 

「こんにちにゃ、比企谷くん」

「おう⋯⋯お?」

 

 うーん、そうそう。うちのパートナーはこんなにお茶目で⋯⋯ってそんなわけあるか。何かの冗談だろうかと思って雪ノ下の顔を見ると、彼女も彼女で不思議そうに首を傾げていた。

「⋯⋯変わった挨拶だな」

「え、ええ⋯⋯。でも、そんなつもりは」

 本気でさっきの言葉遣いの意味が分からないようで、雪ノ下の顔は朱に染まり始めていた。いや、なら言うなよって話なんだが。

 あれだな。きっと猫動画の見過ぎで猫の言葉で話してみたくなっただけだな。うん、きっとそうだ。

 俺はガラリと扉を開けると、雪ノ下と一緒に部室に入った。案の定先に来ていた小町は、いつもの長机に肘をついて片手にスマホを握っている。

「お、二人一緒なんて珍しい」

 小町は顔を上げると冗談めかして言うが、雪ノ下は先程の違和感からか取り合う様子はない。雪ノ下はその言葉に反応する代わりに、いつも通り簡単な挨拶を口にした。

 

「こんにちにゃ、小町にゃん」

 

 そう簡単でとってもキュートな⋯⋯って待って? またにゃんとか言ってるよこの子。可愛いから自重して?

「へ⋯⋯。こ、こんにちにゃ」

 小町は小町で、動揺しながらも乗っかっていた。君も可愛いから自重しなさい。じゃなくて。

「お兄ちゃん⋯⋯」

 俺が座るなり小町はこちらに椅子を寄せると、こっちこっちと手招きして耳打ちしてくる。

「あのさ⋯⋯。そういうプレイは二人きりの時だけにしてくれない?」

「ちげぇよ⋯⋯。俺にも意味分かんないんだっつーの」

 プレイとか生々しい言葉を使うのは止めようね。ほら、俺たちってジュブナイルでセンシティブだからさ。

 雪ノ下は自分で言ったことの意味が分からないらしく、またも首を傾げている。一体彼女に何が⋯⋯と兄妹揃って考え込んでいると、元気よく部室の扉が開かれた。

「やっはろー!」

 と、お決まりの謎挨拶と共に部室に入って来たのは由比ヶ浜だった。

 また「こんにちにゃ」とか言い出すのだろうかと思って雪ノ下を見ると、歯を食いしばるようにして彼女は口を噤んでいる。

 しかしそんな表情も、挨拶を返さないという行為も由比ヶ浜にとって違和感でしかないだろう。由比ヶ浜は挨拶が聞こえていないと思ったのか、雪ノ下の席の隣に座ると、至近距離でもう一度言う。

「やっはろー! ゆきのん」

「⋯⋯⋯⋯」

 雪ノ下は困ったような顔をして、俺の方を見る。流石にこの距離で無視はできないだろう。俺はうむと頷くと、雪ノ下はようやくその挨拶に返す。

 

「こ、こんにちにゃ、由比ヶ浜にゃん」

 

 直後、硬直する由比ヶ浜。しかしそれも一瞬の事で、次の瞬間由比ヶ浜は雪ノ下を抱き締めていた。

「⋯⋯嬉しい。ゆきのん、あたしにも冗談言ってくれるようになったんだ」

 違う。絶対に違うぞそれ。感動のベクトルが明後日過ぎる。

「ち、違うのよ⋯⋯。普通に喋っているつもりにゃのに、勝手に⋯⋯」

 まるで解せないとでも言うように、雪ノ下は右手で口を覆う。

 冗談でなければ何なのか。雪ノ下の困惑が伝播したように、由比ヶ浜もうーん? と首を傾げた。

 俺が口を開きかけたその瞬間、コンコンと軽いノックの音が響く。

「お疲れさまでーす」

 ノックの音から間髪置かず、ガラリと入ってくる人影が一つ。一色いろは本日もきゃぴるんゆるふわ〜っと部室に入るなり、定番地化している椅子へと腰掛ける。当然のようにそこにいるけど、一応部外者である。

「⋯⋯どうしたんですか?」

 俺たち黙りこくっているのが不思議だったのだろう。一色はそう言うと亜麻色の髪をさらりと揺らした。

 この状況を正しく説明するには、何もかもが足りていない。だからその身で以てお知り頂くのが早かろう。

 どうしたものか困惑している雪ノ下に、俺はもう一度頷きを返した。

 

「⋯⋯こんにちにゃ、一色にゃん」

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

「つまり、さっき先輩と会った時からこんな調子だと」

「ああ、そういう事になるな⋯⋯」

 

 手短に状況を説明すると、一色はうーんと腕組みをして首を傾げた。

 本気で意味不明だし、本人も何がなんだか分かってもいない。現状を端的に話すならば、雪ノ下は猫語を話すようになった。以上。

「雪乃さんがお兄ちゃんに会う前に、何かありました?」

「⋯⋯いえ、特に変わったことは」

 雪ノ下は顎に手をやり暫しの回顧のあと、やはりというかそう言った。つまりは本人にもさっぱり、この状況の原因は分かっていないということだ。

「ってことは、先輩に会ったのが原因?」

「んな人をウイルスの発現元みたいに⋯⋯」

 一色にそんな意図はないと思うが、思わず俺は項垂れる。俺に人を猫化させる能力なんてあるかっつーの。

「でもそれなら、あたしたちも同じ状態になってなきゃおかしいよね⋯⋯」

 由比ヶ浜のフォローに、みんな揃いも揃って黙りこんでしまう。

 やはり、原因不明。

 どうしたものかと考えていると、ガタッと音を立てて雪ノ下は自分の座る椅子を由比ヶ浜の近くに移動させた。ただでさえ近くにいるのに、そうする事で彼女たちの距離はほとんどゼロになる。

「ちょっと、ごめんにゃさい⋯⋯」

 雪ノ下はそんなとんでもなく可愛い謝罪を口にしながら、由比ヶ浜にピッタリとくっついた。余りにも唐突で思ってもみなかった行動に、彼女以外の誰もが硬直する。

 ⋯⋯いや違うな。みんな瞳の中にハートマークを作って顔に「キュンです」と書いている。っべーわこの雪ノ下さん。恥じらいながらキュンキュンの実をばら撒くとは一体どういう了見だ?

「ど、どしたの、ゆきのん?」

「こうしていにゃいと、落ち着かなくて」

 そう言うと雪ノ下は、何を思ったのか由比ヶ浜の肩に頬擦りし始めた。⋯⋯いや、ホントに何やってんのこの子。

「あ⋯⋯っ。雪乃先輩、そんなことしたらファンデが──」

 そこまで言って一色は、言葉を失った。彼女の凝視する先の由比ヶ浜の肩口には、少しの色もついていない。

「は? マジかこの雌猫。ノーメイクでこのレベルとか狂ってる」

「うわぁ、相変わらず言い方やばいなーこの人」

 雪ノ下に驚愕する一色に、小町はドン引きしていた。いろはす言い方ー。

「ゆきのん⋯⋯」

 そして頬擦りを受ける由比ヶ浜は最初こそ戸惑っていたものの、今では恍惚とした表情すら浮かべて雪ノ下の頭を撫でていた。なんだこの尊い光景は。けしからんもっとやれ。

「⋯⋯どうしますこれ」

 一色の問いに小町は腕を組んでううむと考え込むが、その次の言葉が出てこない。一頻りうんうん唸ると、小町は苦し紛れに言う。

「やっぱりショック療法とかですかね」

「ショック療法⋯⋯。って、どんなショック?」

「⋯⋯目覚めのキス、的な?」

 ちらりちらりと、何かを訴えかけるように小町が俺を見てくる。やらないよ? それにショッキングな出来事にカウントされてる時点で、俺の扱いが分かるんだよなぁ⋯⋯。

「うわ、急に乙女発言とか引く」

「うぅ⋯⋯流石に今のは小町的にポイント低い⋯⋯」

 恥ずかしいことを言った自覚はあるのか、小町は頭を抱えて小さくなる。

 苦渋の提案も、まあ仕方のないことだろう。どうしてこうなったか不明では、解決策の案すらまともに出てこない。

「しかしまあ、このまま帰すわけにも行かないよな⋯⋯」

 雪ノ下は今もまだ実家から学校に通っているから、もしこの状態のまま帰宅すると厄介なことになりそうだ。良くて病院行き、最悪療養施設に収容なんてこともありえるだろう。行動はともかくとして、精神まで異常を(きた)しているわけではない彼女への対応として、それは忍びない。

「あ、じゃあ今日はうちに泊ま⋯⋯」

 由比ヶ浜は元気よく言い始めたかと思うと、途中で言葉を切った。

「ダメだ。今日はパパ、休みで家にいるんだった⋯⋯」

 その答えに、俺もうーんと腕組みをして俯いてしまう。

 由比ヶ浜の家に泊まるとなると、恐らく由比ヶ浜の家族とともに食卓を囲んだり、何かと顔を合わせることもあるだろう。ガハママはともかく、ガハパパがどんな反応や対応をするのか、まったく読めない。

「うーん、それを言うとうちもうまいこと誤魔化せる自信はないですね⋯⋯」

 一色も難しい顔をしながら、そう呟く。つまりは、今日のところは普通に家に帰すしかあるまい。

「帰る前に元に戻ればいいんですけど、それも難しそうですね」

 小町はそう言うと、自らの意見を肯定するかのようにうんうんと頷く。

「喋る時も、にゃって言ってしまわないような言葉を選べばいいんじゃないかな?」

 由比ヶ浜の意見に、俺もふむと頷きを返した。確かに「にゃん」とか「にゃー」とか言わなければ、怪しまれる事もないだろう。

「ゆきのん、『なにぬねの』って言ってみて」

「⋯⋯にゃにぬねの」

 恥ずかしそうな顔でまた「にゃ」と言ってしまう雪ノ下の姿に、一同顔が綻ぶ。いや、和んでいる場合じゃない。

「じゃあ、雪ノ下。あいうえおから順番に言ってみてくれ」

「ええ、分かったにゃ」

 その返答一つとってみても、普段の雪ノ下の立ち振舞いとのギャップから悶えてしまいそうになる。いや、ちょっと口元が緩んでしまうのは仕方のないことだから睨むのはやめよう?

「あいうえおかきくけこさしすせそたちつてと。にゃ、にゃにぬねのはひふへほまみむめもやゆよわをん」

「うーん、わっかんないですねー」

 五十音順に言ってみて貰ったが、確定なのは「なにぬねの」が「にゃにぬねの」になってしまうことぐらいだ。それにさっきの会話の例からいくと、「わかったわ」が「わかったにゃ」になってしまうように、言葉の組み合わせが発動条件であるらしい。

 時間のある限り色々と試してみるが、結局雪ノ下の猫化と言える現象は消えず、どんな時に猫言葉になってしまうかが少しだけ分かっただけだった。

「どーしよ⋯⋯。そろそろ完全下校時間だね」

 由比ヶ浜の声に時計を見上げると、時は既に夕刻。あと五分としないうちにこの部屋を出て、それぞれの帰途につかなくてはならない。

 ふと由比ヶ浜にくっついたままの雪ノ下に、一同の視線が集まる。さあ、どうしましょうか、この猫ノ下さん。

 

「ご心配には及びません」

 

 その視線に答えるように、小町は腕組みをしたまま頷いた。そして耳目が集まり切ったのを確認すると、俺を見ながら言う。

 

「兄が送って行きますので」

「⋯⋯はい?」

 

 

 







お読み頂きありがとうございました。
この話は憑依タグを着けた方がいいのだろうか……そんな事を悩みながらの投稿です。
短めの話をそこそこのペースで投稿して行けたらなと思います。
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