完全下校時刻を過ぎた校内は、人影もまばらだ。
しかしまばら、ということは、全くいないというわけではない。むしろ人の数が少ないせいで、より目立ってしまうということにもなり得る。そう、例えば──今この時のように。
「⋯⋯あのー、雪ノ下さん?」
「にゃ、にゃにかしら」
さっきからすれ違う生徒のことごとくが、俺たちの姿を唖然として見てくるのだ。それは勿論、校内一の美少女と名高い雪ノ下雪乃が、一人の男子生徒の腕に自ら腕を絡めて歩いているからに他ならない。ついで言うと死ぬほど可愛い声でにゃんにゃん言いまくっているわけだが、それは俺だけが知っていればいい話だ。
「ちょっと、歩き難いんですけど⋯⋯」
「ごめんにゃさい⋯⋯。でもこうしていにゃいと、不安で⋯⋯」
その言葉の通り、雪ノ下は俺の腕に絡みつきながらも、怯えるようにキョロキョロと辺りを見回しながら半歩後ろを歩いている。そんな様子も他人から見れば、中々に奇妙な光景だろう。遠巻きにも俺たちを見てくる視線が、ねっとりと絡み付いてくるようだった。
「まあ、いいんだけど⋯⋯」
春も深まった昨今、完全下校時刻とはいえまだまだ辺りは明るい。できる限りさっさと敷地内を出たいのだが、こうも縋りつかれていては歩みも必然的に遅くなる。
ようやっとと言った調子で学校を後にするが、やはり雪ノ下の足取りは重い。というかさっきより遅くなっている気がするし、俺の腕を抱きしめる力も強くなってきている気がする。
「⋯⋯ちょっと休んでくか」
雪ノ下がこくりと頷きを返したのを見ると、学校から出てすぐのところにある公園に入った。休憩スペースのベンチに腰掛けると、雪ノ下はさっき由比ヶ浜にそうしたように、ピッタリと俺にくっついてくる。いつものサボンの香りが、俺の鼻腔を満たす。それでもって、近い。
「なあ、部室出てから変だぞ。⋯⋯いや、部室に来る前からだけど」
「仕方にゃいじゃない⋯⋯。さっきも言ったけれど、こうしてにゃいと落ち着かにゃいの」
にゃんにゃん言いまくっている自覚はある所為で、雪ノ下はそう言いながら頬を染めていく。クソ可愛い。いや脳を
このあと俺は、雪ノ下を家に送り届けなければいけないのだ。いったい彼女のこの状況を、なんと説明すべきなのだろうか。そもそも説明した方がいいのか? あと雪ノ下家に行ったら、ご飯を食べていきなさいとか普通に言われそうなんだよなぁ⋯⋯。
「その、比企谷くん⋯⋯」
一人思案に耽っていると、不意に雪ノ下が俺を呼ぶ。彼女は僅かな不安と哀願を乗せた瞳で、俺を見ていた。
「なんだ?」
俺がその目を覗き込むと、雪ノ下はそっと目を逸らしながら言う。
「どこでもいいから、撫でて欲しいのだけど⋯⋯」
「ふぁっ⁉︎」
どこでも⋯⋯というキーワードの可能性に、俺は思わず変な声を出してしまった。
どこでも、どこでも⋯⋯って言ったら、普通は頭、だよな? でも俺、手汗やばない? 大丈夫? っていうかなんで撫でるの? 八幡、ゆきのんのことよく分かんないや⋯⋯。
「⋯⋯早く」
「お、おぉ⋯⋯」
雪ノ下に催促されて、俺は右手で彼女の頭を撫でる。もちろんズボンで手汗を拭うのは忘れない。天使の輪っかを作る艶々の髪が、指の間で滑る。なんという撫で心地であろうか。こんなのこっちが昇天するまである。
「ふぅ⋯⋯」
俺が撫で始めると、雪ノ下は安心し切った顔で目を瞑る。そしてピッタリと額を俺の肩口につけると、グリグリと押し付けてきた。
なんだこの生き物⋯⋯。天使か? あ、そう。天使なのね。納得。
もはや俺たちの姿は側から見れば、公園内でイチャつくバカップルに他ならない。それでも俺は安心しきった雪ノ下の表情を見ていたくて、結局彼女の髪を撫で続けるしかなかった。
「なあ⋯⋯」
暫くそうしていると、俺の頭の中で一つの疑問が浮かんでくる。見ての通り、雪ノ下は言葉だけではなく、行動まで猫化しつつあった。であれば、これにはどう反応するだろうか?
「お手」
そう言って俺は、空いていた左手を彼女の前に出した。雪ノ下はその言葉にジロリと一瞬俺を厳しい目つきで見るが、次の瞬間吸い寄せられるように俺の左手に鼻を寄せていた。
すんすん、と俺の手のひらの匂いを嗅ぐ。そして──。
「──っ!」
ペロリと、猫がそうするように雪ノ下は俺の中指の先を舐め上げた。少しザラ付きのある舌が本物の猫のようで、思わず背中が跳ねる。
「にゃ、にゃにをさせるのっ⋯⋯!」
「へ⋯⋯。いや、すまん。つい出来心で⋯⋯」
流石に自分でもその行動は想像もしていなかったのか、雪ノ下はパッと俺から離れて距離を取る。何をさせるのって雪ノ下さん。あなたこそ何をしているのでしょうか? いや、ちょっと想像はしてたけど。
「まったく⋯⋯」
雪ノ下はいつもの頭痛を抑えるポーズをしたかと思うと、次の瞬間にはまたピッタリと俺にくっつく。雪ノ下はさっきも自分で言っていたように、そうしていないと落ち着かないらしい。
「⋯⋯撫でにゃさい」
「あ、はい⋯⋯」
再び催促⋯⋯というか命令されて、俺は雪ノ下の長い髪を指で梳く。さっきから心臓がバクバクとうるさくて仕方ない。
「⋯⋯比企谷くん」
目を瞑ってされるがままになっていた雪ノ下は、ふと顔を上げると、上目遣いで俺を見た。一発退場レッドカード。反則級の可愛さに成仏しかけていると、雪ノ下は続ける。
「その⋯⋯。比企谷くんからも、して欲しいのだけど」
「⋯⋯何を?」
「これ⋯⋯」
そう言うと雪ノ下は、俺の肩に頬をつけてスリスリと甘えてくる。
あかん。
これあかんやつだ⋯⋯また脳が蕩けてしまう。理性が死ぬ。思考が息絶える──。
「な、なんでだ?」
思考回路が焼き切られてしまう前に俺が訊くと、雪ノ下はしっとりと濡れた瞳で俺を見ながら答える。
「だって⋯⋯。きっとそうしてもらったら、もっと安心できるから」
そう言うと、雪ノ下はそっとその長いまつ毛を伏せた。ちょっと諦めが混じった表情に、俺は完全に心を鷲掴みにされてしまう。⋯⋯いや、たぶん結構前からだけど。
「い、いいのか? やったらやったで気持ち悪がられたりしたら、ちょっと立ち直れないんだけど」
「してと言っているのに、そんなこと言うわけにゃいでしょう⋯⋯」
そうですか、言うわけにゃいですか⋯⋯。俺はゴクリと唾を飲むと、雪ノ下の肩に、彼女がさっきそうしたように額を擦り付けた。
そしてそのままスーリスーリ⋯⋯。
──温かい。
──柔らかい。
──めっちゃいい匂い。
雪ノ下の手が、俺の髪を撫でつける。まるで胎内にでも戻ったかのような深い安堵と、何もかも許されていくような感覚。
これが雪ノ下の母性か⋯⋯。これは、いい⋯⋯。いや、控えめに言って至高だ。俺は最上の慈しみを受け、もはや何も考えられない。
俺はそっと、目を瞑る。
ピョコピョコと撫でつけられては起き上がってくるアホ毛で遊ぶように、雪ノ下は何度も何度も俺の頭を撫でつけるのだった──。
「あの、比企谷くん⋯⋯」
雪ノ下にそう言われて目を開けると、もう辺りは暗かった。一体どういうことだ? さっき目を閉じた時は、まだ明るかったはず⋯⋯。
「⋯⋯もう十分よ」
「へ? お、おぅ⋯⋯」
恥ずかしそうに言う雪ノ下から、若干の名残惜しさを感じながらそっと離れた。俺はポケットから携帯を取り出し、ロック画面で時刻を確認する。
⋯⋯⋯⋯ふんもげぇぇぇっ!
もう一時間以上経ってるじゃねぇか⋯⋯。
「も、もう安心できたか?」
「えぇ⋯⋯」
そう言って顔を真っ赤にした雪ノ下が立ち上がると、俺もふらふらする頭と身体を何とか起こして立ち上がった。
「そろそろ行くか⋯⋯」
雪ノ下は何も言わずにコクリと頷くと、俺の後をついてくる。そしてもはやそうするのが当然かのように、俺の腕を絡めとりピッタリとくっつく。
「⋯⋯あのー、雪ノ下さん」
「ごめんにゃさい。離れるのは、まだ無理みたい⋯⋯」
はぁーっと、深く息を吐く。
こうなれば、仕方あるまい。
俺は手の甲を握ってくる雪ノ下の手を握り返すと、一つの覚悟を決めるのだった──。
お読み頂きありがとうございました。
この二人は一生イチャついていればいいと思います。