激しい嫉妬と怒りの炎から解放されて暫し。
俺と雪ノ下はそれぞれ風呂を済ませると、またリビングのソファに隣り合って座っていた。寝るにはまだ早過ぎるし、かと言って俺ひとり自室に引きこもってしまう訳にもいかず、俺はなんとなくつけていたテレビを見詰めていた。
「⋯⋯⋯⋯」
そう、ひたすらに、じぃっとテレビを見ていた。雪ノ下に、じぃっと横顔を見詰められながら。
流石に風呂上がりで熱いからか、ピッタリくっついてくることはなかったが、この絡みついてくるような視線は何なんでしょうねぇ⋯⋯。
「⋯⋯なぁ」
なんか俺の顔についてる? と聞こうとした時だった。雪ノ下はソファから立ち上がると、テレビの前に座り込む。
「そこにいられると、テレビ見えないんですけど⋯⋯」
俺がそう言っても雪ノ下がどく様子もなく、むしろ不満そうですらあった。小町から借用しているパジャマは雪ノ下には小さ過ぎるらしく、ヘソが見えそうになって目のやり場に困る。あとなんでまた猫耳つけてるの? 可愛いからいいんだけど。
「⋯⋯構いにゃさい」
そして雪ノ下は、少しだけ拗ねた表情でそう言った。
は? マジかこいつ。一体今日だけで何回俺の思考能力をぶっ飛ばす気だ? 可愛過ぎて心臓飛び出るかと思ったわ。
ソファの上で身を丸めてゴロゴロと悶えていると、その様子ですら雪ノ下はじっと見つめてくる。⋯⋯なんだこのクソ可愛い精神的責め苦は。
「⋯⋯分かった。いいだろう」
俺は姿勢を正し、平静を装ってそう言うと、ポンポンとさっきまで雪ノ下が座っていたソファを叩いた。小町も風呂に入っていていないから、丁度いい。彼女の希望を叶えつつ、一つ実験しようじゃないか。
雪ノ下は尖らせていた唇を引っ込めると、そそくさと寄ってきて俺の脚を枕にしてソファに寝転んだ。まだしっとりと濡れている髪はヘアバンドでまとめられ、その湿り気をズボン越しに伝えてくる。
⋯⋯いや寝転べって意味でソファを叩いたんじゃないし想像以上に恋人感出ちゃって恥ずかしい上に下から見上げてくるとか可愛さ三倍マシになるから本当に気を付けて?
「こいつはどうだ?」
期待のこもった目にドギマギしながら、俺は足元に転がっていた玩具の猫じゃらしを拾い上げた。雪ノ下がカマクラと遊ぶ為に、小町が貸し出していたものだ。
カマクラはそんなに活発な性格じゃないからもう大して遊ばなくなってしまったが⋯⋯。猫ノ下さんなら、どうだろうか?
「ほれ」
雪ノ下の眼前にそれを垂らすと、彼女は暫くそれを凝視していた。そして俺が僅かにそれを動かした瞬間、雪ノ下の猫パンチが飛ぶ。
「遅いな」
俺がすんでのところでそれをかわすと、不敵に口角を引き上げる。
「にゃんですって⋯⋯」
雪ノ下は体勢的に不利と判断したのか、起き上がるとソファに座ったまま俺に相対した。彼女の瞳の中には、メラっといつもの炎が揺らめいている。
「ほら」
「⋯⋯っ」
ソファの背もたれに、座面に、俺のももの上に猫じゃらしを遊ばせては、繰り出される雪ノ下の手を避け続ける。猫じゃらしなんてものは、当然ながら長さがある分操る者の方が有利だ。
雪ノ下の手を避け続けていると、彼女は段々本気になってきたのか、猫じゃらしを操る手に狙いを定めて手を出した。
「よっ」
猫じゃらしを右手から左手に持ち替え、高く上げる。なおも雪ノ下は、手を出すのをやめない。
「⋯⋯⋯⋯」
ついに猫じゃらしを持つ手を押さえられ、その瞬間俺たちの動きは止まった。
俺の手を握り込む、雪ノ下の白く細い指。その長いまつ毛は本数が数えられそうなほどに近く、吐息は鼻の頭を掠めていく。炎の消えた瞳に捉えられて、目を逸らすことすらできやしない。
「あのー⋯⋯」
不意にかけられた声にビクッと背筋が伸びる。
パジャマ姿の小町は、ガチでキスする二秒前な俺たちを見て、ぐんにょりしていた。
「イチャつくんなら、部屋でやってくれませんかねぇ⋯⋯」
いや、イチャつくって⋯⋯。
違うもん! ぼくは猫ちゃんと遊んでいただけなんだよぅ!
「ただいまー」
なんて脳内で幼児退行していると、そんなありえない声がした。
壁にかけられた時計を見上げ、そして小町と目を合わせる。両親が帰って来るには随分早い時間だが、しかし間違いなく母親の声だった。
「お兄ちゃんっ」
「お、おぅ⋯⋯」
とりあえずこの場でじっとしている訳にもいかない。小町に声をかけられると、俺は立ち上がって雪ノ下を引っ張り起こした。
「お母様が帰ってきたの? だったら挨拶を」
「いや、いい。やめてくれ⋯⋯」
パジャマ姿で猫語を操る美少女に挨拶なんてされたら、俺が洗脳したとでも思われるのが関の山だろう。実の親にまで犯罪者扱いされちゃうのかよ。
「ここは小町が証拠隠滅しておくから、早く!」
小町にグイグイ背中を押されて、リビングを出ると雪ノ下ごと俺の部屋に押し込まれる。
ガチャと扉が閉まると、しんと静まり返った自室に雪ノ下と二人きり。あれこれ、なんで俺の部屋なの? 小町の部屋に匿ってくれればよくない?
「⋯⋯まあ、とりあえず適当に座っててくれ」
「ええ⋯⋯」
とは言っても座れるところなんて勉強机の椅子かベッドぐらいなものだ。雪ノ下はベッドに腰掛けると、ポンポンとその隣を叩いた。どうやら隣に座れ、ということらしい。
俺は雪ノ下から握り拳一つ分だけ間を空けて座ると、キョロキョロと部屋の中を見回した。我が愛読書『異世界に転生した
「と、とりあえずあれだ。小町も落ち着いたら迎えに来てくれるだろうから、待つしかないな」
そう言ってみたが、声は上擦っていて緊張しているのがバレバレだった。
ついでに言うなら多分小町は迎えになど来ないだろう。またも彼女の計略にはまったのだ、俺たちは。
「その⋯⋯」
雪ノ下はそう言うと、俺の空けた握り拳一つ分を詰め、ぴったりとくっついて左の手の甲を握り込んでくる。近い。今日一日でだいぶ慣れたつもりだったのに、また手の中に変な汗をかいてくる。
「私をご両親に紹介するのは、恥ずかしい?」
「は⋯⋯?」
その問い掛けに、俺は随分と間抜けな声で返してしまう。
そんなわけ、ないに決まっている。こんな素敵な、かの⋯⋯こい⋯⋯? ⋯⋯俺のパートナーが恥ずかしいなんて、あり得ない。
「私じゃ、足りにゃいのかしら⋯⋯」
うん、ちょっとシリアスになりかけてたのに「にゃ」とか言っちゃうせいで台無しだよ⋯⋯。
俺は左の手を反転させると、雪ノ下の手を握り返した。
「なにも不足なんてないだろ。あるとしたら、俺の方だ」
もしこんな状況じゃなくたって、両親に紹介しようものなら何を言われるか分かったもんじゃない。母親は雪ノ下が何か弱みを握られていると勘繰るだろうし、親父からは
「そう⋯⋯」
安心したようにそう言うと、雪ノ下は俺のももを枕にしてベッドに寝そべった。いや、無防備過ぎるでしょ。
「あの⋯⋯」
「⋯⋯にゃに?」
「今日、甘え過ぎじゃない?」
「仕方にゃいのよ⋯⋯。こうしにゃいと、どうにかなってしまいそうにゃの」
真っ赤な顔をして恥ずかしがりながら見上げられると、可愛過ぎてこっちがどうにかなってしまいそうなんですよねぇ!
なんなのこの子、ナチュラルボーンキラーなの? 美人でかつ可愛いとかチートかましながらにゃんにゃん言ってくるとか殺傷能力高過ぎる。今日俺何回死ぬの? 死ねってかこれ。いや生きる。
「撫でて」
「あ、はい⋯⋯」
雪ノ下はヘアバンドを取ると、まだ少しだけ濡れている長い髪を広げた。眼下に広げられた光景が女神過ぎる。
俺が頭を撫で始めると、雪ノ下はそっと目を閉じた。見たこともないぐらい嬉しそうで、恍惚とした表情を浮かべる彼女の姿はまるで一枚の名画だ。
「比企谷くん」
完璧な造形を持つ絵画の中の女性が、俺の名前を呼んだ。うっすらと開かれたその
「⋯⋯好き」
薄桃色の唇がその言の葉を紡いだ瞬間、俺は文字通りにぶっ倒れた。ベッドに上半身を投げ出して天井を仰ぐ。これ以上雪ノ下のことを見ていたら、次の瞬間何をしでかすか分からなかった。
「⋯⋯急にどうしたの?」
どうしたもこうしたもない。猫化なんて特殊な状況とは言え、無防備過ぎるんだよ、この子⋯⋯。
「何でもない⋯⋯」
雪ノ下は起き上がって見下ろしてくるが、俺は咄嗟に両手で顔を覆った。今、もの凄い気持ちの悪い表情をしているのが、自分でも分かる。
「⋯⋯可愛いわね」
悶える俺に向かって、雪ノ下は笑み混じりにそんなことをのたまった。は? 可愛いのはあなたなんですが? 何これ俺完全に手玉に取られてない? もういいや絶対勝てないし。好きにして(諦念)。
雪ノ下は倒れたままになっている俺の胸に丸めた手を置くと、寝床の寝心地を確かめでもするかのようにフミフミしてくる。いやこれ、確実に寝床として確認されてるな⋯⋯。
「にゃんだか、凄く眠くなってきたわ」
⋯⋯へぇ、そんにゃんですか。よくこの状況で眠くなれますね。でも猫だからしょうがないか。うん、俺の胸板を枕がわりにうとうとちゃうのは猫だから仕方ないよね。そんなわけあるか。
「⋯⋯ベッド、使ってくれ」
「ダメよ。あなたが寝床なのに」
雪ノ下の頭をポンポンと優しく叩いて起きあがろうとしたが、ぐっと体重をかけられてしまって動けない。いや雪ノ下自身は軽いのだが、無理に退かせるなんてできなかった。
雪ノ下は俺が起き上がれないようにパジャマの襟ぐりを掴みながら顔を寄せてくると、ふわりとボディソープの香りが鼻腔を満たす。え、近い。可愛い。死ぬ。
「──っ!」
余りの神々しさ可愛さ尊さから目を逸らすと、湿り気とザラつきが俺の頬を撫でた。つまりところ、舐めた。雪ノ下が、俺の頬を。
「⋯⋯⋯⋯」
俺がお口をパクパク絶句していると、雪ノ下はハッとして頬を染め始める。
「ご、ごめんにゃさい⋯⋯」
どうやら先程の行動はまた無意識の物らしいが、よくよく考えてみて欲しい。俺はただの捻くれた高校生で、雪ノ下は超が付くほどの美少女であり、ここは俺の部屋で、二人はベッドに寝転がったままで、マイリトル八幡はガッチガチのバッキバキだ。俺の胸板に押しつけられている二つの膨らみには、俺の心臓が早鐘を打っているのが伝わっているだろう。
──もう、無理だ。
俺はガバッと雪ノ下を起こすと、ベッドから起き上がった。
「雪ノ下──っ!」
不安そうに見詰めてくる彼女を見て、俺はその先の言葉を失った。
そうして俺は何も言わないまま、部屋を後にした。
* * *
──八幡は走った。
愛する人を守る為に。
──八幡はトイレに入った。
愛する人を守る為に。
──八幡は擦った。
愛する人を守る為に。
──八幡は放出した。
愛する人を守る為に。
──八幡はトイレを出た。
愛する人を守る為に。
彼は賢者になった。
* * *
「すまん、待たせた」
俺が部屋に戻ると、ベッドに腰掛けたままだった雪ノ下は立ち上がりすぐさま俺の元にやって来る。もはやそうするのが当然かのように、ピッタリと俺にくっついた。
「心配したじゃにゃい⋯⋯。何も言わずに、急に出ていくんだもの」
「悪かった。でももう大丈夫だ」
俺はキリリと表情筋を引き締めると、常にない程に爽やかな笑顔を浮かべながら雪ノ下の頭を撫でた。俺の笑顔が爽やか? そんなことあるの? あるのだ。何故なら俺は賢者だから。っていうかなに自然に雪ノ下の頭撫でちゃってんの? できるのだ。何故なら俺は賢者だから。
「⋯⋯」
雪ノ下はもはやいつも通りといった
「イカくさい⋯⋯」
「────」
ZEKKU.
絶句しかできないわこれ。猫ノ下さん、鼻まで利くようになったのん?
「ききき気のせいじゃない?」
「いえ、確かに匂うにゃ⋯⋯。さきいか⋯⋯いえ、スルメイカでも食べていたの?」
当然ながら何も食べてなどいない。むしろ食べてしまいそうになるのを必死に我慢していたのである。俺の努力(気持ちよかった)をイカ臭いの一言で
「ああ、まあちょっと小腹が空いてな⋯⋯」
「そう⋯⋯。ちょっと気になるけど、まあいいでしょう」
俺が適当ぶっこくと、雪ノ下は当然のようにベッドまで寄り添ってくる。しかしやっぱり、この流れは⋯⋯。
「あの、だな⋯⋯。俺は床で寝るから雪ノ下はベッドで」
「駄目だと言ったでしょう? くっついていないと、無理にゃのよ」
そっかぁ、無理にゃのかぁ⋯⋯。俺も賢者モードとは言え、色々無理してるしそこまで持つかなぁというところなんですけれども。
俺は努めて心を無にしてベッドで仰向けになると、あいも変わらず雪ノ下はピッタリとくっついてくる。俺の二の腕をちゃっかり枕にして、脇の辺りにまたささやかな膨らみが押しつけられる。やばい。俺の中の賢者が阿呆になる。いやもうなってるか? おーい賢者さん?
「あの⋯⋯」
リモコンで照明を落とすと、薄暗がりの中で雪ノ下は俺を見上げてくる。眠たそうに蕩けた目が新鮮で、うっかりキュン死にするかと思った。
「こんな状態とは言え、ごめんにゃさい⋯⋯。その⋯⋯色々我慢してるわよね?」
あ、自分でも分かってましたか。というか今これを言われるという事は、トイレで云々かんぬん色々バレていらっしゃる?
しかし、これなんと答えるのが正解か、もの凄く難しい質問なんですが⋯⋯。我慢してると言えば「やっぱり比企谷くんもそこら辺のお猿さんと同じなのね。いつから発情していたの?」なんて罵倒を食らいそうだし、していないと答えれば「私に魅力が足りにゃいのかしら⋯⋯」って可愛く凹まれてしまうやつじゃん。いやでも流石にこの状況なら、罵倒まではいかないか⋯⋯?
「してる⋯⋯けど大丈夫だ。お前の姉さんには『理性の化物』なんて二つ名をもらったぐらいだからな」
「あの人の話はしにゃいでちょうだい⋯⋯」
陽乃さんの話題を出した途端に、雪ノ下は眠そうだった目を物憂げに伏せた。まあ噂してたらうっかりひゃっはろーって現れちゃうような人だからな。
「⋯⋯本当に大丈夫?」
大丈夫じゃない、と言ったら、どうなるのだろうか。それこそ許されてしまえば、お持ち帰りもいいところである。
「大丈夫だ。安心して寝てくれ」
「そう⋯⋯。ありがとう」
雪ノ下はそう言うと、上半身だけ起こすとふわりと顔を近づけた。あ、と思った瞬間には時すでに遅く、目を逸らすこともできずに全てを見届けてしまった。
──ペロッ、と。
悩めかしく蠢く雪ノ下の舌が、俺の鼻を舐めるのを。恥ずかしそうな表情が、一瞬の内に歓喜の表情に変わっていくのを。
「おやすみなさい」
そう言って彼女は、また俺の腕の中に収まると一頻り頬を擦り付け、やがて心底幸せそうな表情を浮かべて目を瞑った。俺の脇に触れたままの雪ノ下の膨らみが、規則正しく上下する。
あかん。
これあかんやつやで。
俺の中の賢者が阿呆になってしまうではないか。おーい賢者さん? ヤァ僕ハチマンゆきのんとエッチしたいエッチしたいエッチしたい! あ、ダメだこいつ。
「雪ノ下⋯⋯?」
やがて聞こえてきた寝息に俺は雪ノ下の方を見るが、返事はない。どうやら本気で寝たらしい。
さてとそれじゃトイレに⋯⋯とそっと身を起こそうとすると、その瞬間雪ノ下の腕が俺の首に絡み付いた。起き上がることが、できない。
「比企谷くん⋯⋯」
むにゃむにゃとやたらと甘ったるい声が、熱っぽい吐息が俺の耳朶を愛撫する。テントは既に、設営を完了している。
「好きぃ⋯⋯」
──嗚呼、頼む。
お願いだ。後生だから。
俺をトイレに行かせてくれぇぇ!