猫ノ下雪乃さん。   作:滝 

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比企谷八幡は噂される。

 

 翌朝の比企谷家の朝食は、洋食だった。

 チーンとトーストの焼ける音がして、小町は最後の一皿を運ぶと同時に着席する。

 

「じいぃぃ⋯⋯」

 

 そして見詰める先は俺の顔であり雪ノ下の顔である。俺は死んだ目でそれを受け止めると、ウインナーを嚥下した後に訊く。

 

「⋯⋯なんだよ」

「お兄ちゃん、ゲッソリしてない?」

「してるけど⋯⋯」

 

 するに決まってんだろ。一睡もできなかったし、賢者は阿呆になるし、本当に色々大変でした。まる。

 

「雪乃さんは、お肌がツヤツヤしているような⋯⋯」

「そう? 昨日、ぐっすり眠れたからかしらね」

 

 そう返す雪ノ下は、本当にいつも以上にお肌がツヤツヤのすべっすべであった。今朝がた起き抜けに雪ノ下から頬擦りされたことによって確認済みだから間違いない。朝から殺傷能力が高過ぎて一回死んだ。

「おかしいな⋯⋯。昨日は何もなかったはずなのに⋯⋯」

 小町はそう呟くと、トーストを千切りながら首を傾げる。やっぱりこいつ、確信犯だったか⋯⋯。

「雪乃さん、起きたら血がついてたとかなかったですか?」

「それはにゃいけれど⋯⋯。どういう意味?」

「やめろ小町⋯⋯」

 朝から妙に生々しい質問はやめて頂きたいものだ。このままいくと咀嚼中のものを盛大に吹き出す未来しか見えない。

「じゃあ⋯⋯。気持ちよかったですか?」

「⋯⋯? ええ、気持ちよかったけど」

「──ぶはっ」

「そ、そうですか⋯⋯」

 ほら見ろ、プチトマト飛んでったじゃねぇか。いやこれはわざとじゃない。あと小町ちゃんも自ら進んで勘違いしにいくのやめてね? 雪ノ下さんは⋯⋯まあこういう子だから仕方ないか!

 小町はいつもよりずっと急いで朝食を食べると、食器をシンクに片付けるなり鞄を引っ掴んだ。

「小町はちょーっと用事があるので、先に行きますね! 食器は帰ってきたら洗うので片付けだけお願いします!」

「え、ええ⋯⋯」

 ぽかんとしている俺たちを置いて、小町はさっさと出ていってしまった。そして残されたのは、向かい合って食卓につく俺たちだけだ。

「⋯⋯まあ、まだ時間あるから、ゆっくり飯食ってから行くか」

「そ、そうね⋯⋯」

 急に余所余所しくなる雪ノ下の態度が、どうにも面映い。二人きりになると、どうしても意識してしまう。

 彼女のことを。

 一緒に朝食を食べているという、このシチュエーションを。

「⋯⋯比企谷くん」

 そう声をかけられて、俺は口の中にあるスクランブルエッグを嚥下しようと急ぐ。

「学校、一緒に行きましょうね」

「⋯⋯おう」

 スクランブルエッグと一緒にその言葉の意味を飲み込むと、俺は小さくそう答えた。

 それはまあ、やぶさかではないというか、バラバラに登校しようとしてもまたくっついて来るんだろうなとか。

 だけどその前に、一つだけ釘を刺しておかなくてはならない。

「猫耳は外していけよ?」

「え⋯⋯」

 俺の指摘に雪ノ下は急に不安そうな顔になると、起きてからずっと付けっぱなしだった猫耳を撫でた。そんなに落ち着くのかよ、その猫耳。俺もちょっと付けてみようか⋯⋯いや、盛大に事故るに決まっているから止めておこう。

 

「つけていっちゃダメかしら⋯⋯」

「ダメなんだよなぁ⋯⋯」

 

 いいわけねぇだろ、と思いつつも、俺は制服猫耳姿の雪ノ下を心のスクリーンに焼き付けるのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 俺が教室に足を踏み入れた瞬間だった。

 数瞬前までは騒々しかった教室は一気に静まり返ると、無遠慮なまでの視線がいくつも刺さる。

 ⋯⋯なんだこの空気。いやこれは自意識過剰だろうか。きっとこれは天使が通ったとかいうやつだろう。そうか、俺の正体は天使だったか。

 

「⋯⋯おはよう」

「⋯⋯おう」

 

 自分の席に着くなり、不本意ながら本年度もクラスメイトとなった葉山が話かけてくる。それを合図にしたように、ようやく教室の喧騒が戻ってくる。

「はよはよ〜ヒキタニくん」

「⋯⋯おはよう」

 葉山と同じく先に登校していた海老名さんも挨拶をしてくれるが、どうにも含みのある表情を浮かべている。それは葉山も同じだし、時折こちらに視線を寄越してくるクラスメイト諸君もまた同じだった。

「なあ、なんかあったか?」

「さあ⋯⋯」

 俺が訊くと、葉山は用意でもしていたかのようにさらりと爽やかにそう言った。この反応は、何を訊いても話さない時のやつだ。

「私としては、ナニかあって欲しいんだけどなぁ」

 愚腐腐、と相変わらずの笑みを浮かべる海老名さんは、幸か不幸かこれが平常運転である。イレギュラーな雰囲気の中でのいつもの光景というのは、妙な安心感があった。

 葉山と海老名さんが話題を変えたのを合図に、絡み付いてきていた視線も離れていく。俺は一つ重たい息を吐くと、机に肘をついて目を瞑った。昨晩一睡もできなかったせいで、眠気も限界だ。

 俺はいつものように「おぉ」とか「うむ」とか意味のない相槌を打つことすら投げ出して、うとうとと微睡むのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 私が三年J組の教室内に足を踏み入れた瞬間に、喧騒が止んだ。

 この状況には既視感がある。これは二年程前、まだこの国際教養科に誰もが馴染んでいない頃、よくあったことだ。

 けれど 今日(こんにち)に至っては私が教室に入るだけで起こり得ることではなく、後ろに誰かいるのだろうかと思って振り返ってもそこに誰の姿もない。

 おかしな状況だ。それを言えば今の自分の状況が一番おかしいのだけど。

 登校する時はなんとか必要以上にくっつかずに歩けたのはよかったけれど、まさかそれぞれの教室に分かれるのにあんなに離れがたくなるなんて。

 

「おはよー」

 

 自分の席について授業道具一式を机に仕舞っていると、そんな朗らかな声が届く。クラスメイトの和田塚さんだ。このクラスの中では、一番よく話しかけてくれる相手だった。

「おはよう」

 そう返すと、彼女は私の前の席に座って顔を寄せてくる。もちろんそこは彼女の席ではない。教室の中で交わされる視線が、こちらに集まってくるのが分かった。

「あの、さ⋯⋯。ちょっと訊いていい?」

 何故だか、嫌な予感がした。

 悪意のない、そうであるが故に無遠慮な好奇が、その顔に浮かんでいたからだ。

「雪ノ下さん、ひょっとして彼氏できた?」

 教室中の耳目が集まりだしているのを察知したのか、和田塚さんは私の耳に口を寄せると小さな声で言った。その瞬間に色々な記憶が錯綜(さくそう)して、頬に熱がこもっていくのが分かった。

 まさか教室でこんなことを訊いてくるとは。今年の始め、葉山くんと噂になってしまった時ですらここまで直裁(ちょくさい)に訊ねられるはなかったのに。

「にゃ、にゃんでそう思うのかしら」

 しまった、と思わず口を押さえる。しかし和田塚さんは気にもしていない様子で続けた。

「あ、動揺するってことは本当なんだ」

 どうやら私のおかしな口調も図星と捉えられただけらしい。どちらにせよ、芳しくない状況には変わりはないけれど。

「どうしてその質問が出てきたのかしら?」

 気を取り直して訊き直すと、彼女はもう一度私に顔を寄せてくる。

「⋯⋯昨日、ヒキタニくん、だっけ? 男の子と一緒に帰ってたでしょ」

 その名前が出された瞬間、蹴り上げられたかのように心臓がどくんと高鳴った。あれを⋯⋯見られていた?

「昨日の部活帰りに見かけちゃってさ。雪ノ下さんてそういう噂少なかったから、意外で」

 クラスメイトの口から比企谷くんの名前が出てきた違和感よりも、見られていたという事実に思わず頭を抱えてしまう。その仕草もまた奇異に映ったのか、そわそわした視線が集まってくるのを感じる。

「ち、違うのよ、あれは⋯⋯」

 そこまで言って、続きを言うことを諦めた。ああしていないとどうしようもなかったと正直に言ってしまえば、それはただの惚気(のろけ)になるだろう。

「え? じゃあ付き合ってないの?」

「⋯⋯そういう訳じゃ」

「じゃあ、付き合ってる、と」

「⋯⋯多分」

 おそらくそれが、一番正しい答えだと思った。付き合うとかどうとか、何も言い交わしていないのだから。

「へぇ⋯⋯。雪ノ下さんって、そういうと絶対はっきりさせるタイプだと思ってた」

 それは私でも、そうだと思う。彼女の言うことも私の見方も、中々に正しくて、だからこそもどかしい。誰かさんの影響のお陰か、言葉に対して臆病になっている気さえした。

「じゃあね」

「待って」

 訊きたいことを訊ね終えたのか、そう言って立ち上がろうとした和田塚さんの腕を掴む。すんでのところで離席を阻止すると、今度は私の方から顔を寄せた。

「その、このことは⋯⋯」

「あ、うん。大丈夫。誰にも言わないから」

 そう小声で言うと、彼女は目だけでぐるりと周りを見た。

「でもあの噂、もう結構広まってると思うから、どこか他のところで聞いても私の所為にしないでね?」

 そう言われて、私は少しだけ顔を上げて視界を広く取った。ぐるりと視線を移動させていくと、男子を含めそのことごとくと目が合う。どうやら状況は思ったよりも悪いらしい。

「ええ、分かったにゃ⋯⋯」

「にゃ、ってなに。彼氏に言わされてるの?」

 口を押さえる私にひっそりとした笑みを向けると、和田塚さんは「じゃあ」と言って今度こそ私の前の席から去っていった。

 そうやってようやく纏わりつく視線が一つずつ離れていくと、少しだけいつもの光景を取り戻す。

 もちろんそれは、完全に元通りとはいかなかったけれど。

 

 

       *       *       *

 

 

 ざわざわとした喧騒で、俺は目を覚ました。

 午前中の授業をほとんど睡眠不足の解消にあてていたが、どうやら四限目にしてガチ寝してしまったらしい。時計を見上げるともう昼休みになって十五分ほど経っている。

 完全に購買パン争奪戦に出遅れてしまったが、飯抜きは流石に避けたい。そう思って教室の出入り口の扉を見ると、数人の女子生徒たちと目があった。その瞬間彼女たちは口元を抑えて何事かを囁き合うと、別の女子グループと入れ替わってまた見覚えのない女子生徒たちと目が合う。なんかキャアキャア言ってるな。動物園にでも来たのかな?

 なんだ、これ。葉山を見に来ているのかと思って彼の方を見るが、食べ終わった弁当箱を片付けているところだった。キャアキャア言われるような仕草ではない。

 

「おい、なんか見られてるぞ」

「ああ、君が(・・)ね」

 

 葉山はこともなげに、勘違いしようもないことを言ってくる。言っている言葉の意味は分かるが、この状況の意味が分からない。

「⋯⋯なんで俺なんだよ」

「まさかとは思うが⋯⋯身に覚えがないとでも言うのか?」

 含みのある言い方に、ちょっとイラッとしてしまう。八幡、こいつの喋り方、キライ。

「あー⋯⋯。私も昨日公園で見かけたんだよね」

 公園──というキーワードを聞いた瞬間、血の気が引いた。昨日、公園での出来事と言えば、思い当たる節は一つしかない。あれを、見られていただと⋯⋯?

「⋯⋯意外だったよ。まさか学校内で、あそこまで人目を気にしない行動をとるなんてね」

 葉山の言葉に、思い当たる節がもう一つ増えた。それもバッチリ見られていらっしゃる? え、無理。待って、無理しんどい。

「マジかよ⋯⋯」

「それはこっちの台詞だけどね」

 葉山の皮肉にすら何も返す気になれず、俺は頭を抱えた。昨日の出来事を思い返すたびに、血の気が引いていく。

「遂に吹っ切れたか?」

「遂にってなんだよ⋯⋯」

 それだといつかは吹っ切れるみたいな言い方じゃねぇか。いやなるのか? っていうか、もうなってるか。

「その⋯⋯。そんなに目立ってたか?」

 俺がそう訊くと、葉山は海老名さんと目を見合わせた。

 

「正直、目立っていたし──」

 

 葉山がそこで言葉を引き継ぐと、海老名さんはとてもいい笑顔で言った。

 

「めちゃくちゃラブラブだったね」

 

 隼人くんともしたらいいのに、などとのたまう海老名さんの言葉すら頭には入って来ず、俺はもう一度頭をかき抱いた。

 

 ──拝啓、昨日の俺へ。

 俺の平穏を、返せ。

 

 

 

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