放課後になり部室に向かう道すがらも、それはいつもの様子と一線を画していた。
学年も男女も関係なく、視線という名の細い糸が何本も絡み付いてくる。それを引き千切りながら人の少ない道順を辿っていたら、随分遠回りになってしまった。
「⋯⋯うす」
がらりと入口の扉を開けると、部室には既に全員揃っていた。ちなみに全員のうちには当然のように一色も含まれている。
「あ⋯⋯。やっはろー、ヒッキー」
由比ヶ浜は雪ノ下に絡みつかれながら、いつもより控え目に謎挨拶を口にする。うーん、雪ノ下さんは今朝から何も変わってませんねぇ。知ってたけど。
「来ましたね、渦中の人が」
そう言う一色の前で、小町はげっそりした表情で黙り込んでいた。小町も小町で色々大変でした、と言外に言っている。
「⋯⋯話を聞こうか」
俺がそう言うと、何故か雪ノ下は由比ヶ浜に絡みつくのをやめて、椅子ごとこっちにやってきた。そして俺の真横に椅子を下ろすと、さっきまで由比ヶ浜にそうしていたようにピッタリとくっつき腕を絡めてくる。
「ヒッキーにゆきのんとられた⋯⋯」
「ごめんにゃさい、身体が勝手に⋯⋯」
「本当そういうの他所でやってくれませんかね」
一色はそう言って砂糖でも吐きそうな表情をしているが、その他所に自ら突っ込んできてるのはあなたなんですよねぇ⋯⋯。ほら小町ちゃんも突っ込んで? と彼女の方を見るが、俺と雪ノ下の姿を見てまたゲンナリしていた。なんかゴメンね? 色々しんどいだろうけど我慢してほしい。
「⋯⋯それで、その渦中ってのは?」
昼休み、葉山たちとの会話からなんとなく予想はついているが、それでも聞かねばなるまい。
「あー、はい⋯⋯。それなんですけど」
さてどう言おうか、とでも言うように、一色は少しの間を取った。その僅かばかりの時間が不安なのか、雪ノ下は何も言わずに俺を見上げてくる。可愛い。あなたの上目遣いは心臓ぶっつぶしてきそうなぐらい可愛いので乱用は避けて頂きたい。
「雪乃先輩にどうやら彼氏が出来たらしい、と。昨日、ベッタベタくっつきながら下校する姿、結構な噂になってて」
ほらやっぱり、と言うには随分とハードモードである。そこまで大勢に見られていたとは思えないが、少ない人数、限られた人にしか見られなかったからこそ、噂話は加速したのだろう。
「けどやたらと雪乃先輩の方からくっついていっているし、どこか怯えた感じがしたから、その相手の目つきの悪い男に弱みを握られているんじゃないか、と。それが噂の一つ目です」
え、何その言い方。二つ目もあるってこと? 犯罪者扱いされてる噂だけでも十分ダメージ受けたんですけど⋯⋯。
「もう一つの噂は、学校の近くの公園でひたすら目付きの悪い男の方が雪乃先輩に頬擦りしていて、雪乃先輩も満更でもない様子だったから、やっぱり付き合ってるんじゃないかという話ですね」
「⋯⋯⋯⋯」
──終わった。
海老名さんだけではなく、その他大勢⋯⋯かどうかは分からないが、人に見られた上に下級生たちにまで届くほどの噂になっているとは⋯⋯。
「ちなみに葉山先輩と一緒にいるところを見て正統派ヒーローの葉山先輩、ダークヒーローの比企谷先輩、なんて対比をする子もいましたね。クソ気付きやがったかボンクラどもめって感じですけど」
⋯⋯うん、人が白目剥きそうになっているところにしれっと何を言っているのかなこの子は。
予想していた事態よりずっと悪い状況に頭を抱えていると、小町が低い声で呟く。
「その噂の所為で、『比企谷先輩って小町ちゃんのお兄さんなんでしょ』って、一日質問責めですよ。家ではどんな感じなのーとか。はぁ、面倒くさ、しんど⋯⋯」
「あー、うん。なんかごめんね? いやマジで⋯⋯」
小町ちゃんいろは先輩の口調がうつってきてますねー。いやしかし実際兄妹の恋愛関係の噂なんて、学校で聞きたくないだろう。しかもアホみたいにベッタベタしてたなんて噂は、負うダメージがデカすぎる。
「早く元に戻らにゃいと⋯⋯」
と、顔を真っ赤にした雪ノ下さんはそう言うけど、それが上手くいかないから現状困っているのだ。
どうしたものかと考えていると、さっきから黙ったままだった由比ヶ浜はぎっと音を立てながら椅子から立ち上がる。
「よし、決めた」
ほう⋯⋯これは由比ヶ浜さんが解決に向けて一丁やったるわって話、でいいのだろうか? 流石ガハマさん。略して流石浜さんだな。
「あたしも猫になる」
Why.
全然意味が分からない何故そうなる、と思っている内に由比ヶ浜は自分の椅子を俺の左隣に持ってくると、雪ノ下と同じように肩口に頬を擦り付けてくる。
見上げてくる目は遠慮がちに俺を見詰め、丸められた手は俺の胸板を叩く。そして頬を赤らめながら、常よりもずっと甘い声でぽしょりと言った。
「にゃ、にゃーん⋯⋯」
⋯⋯は?
なんだこの可愛いの。由比ヶ浜は犬属性じゃなかったのか? やるならやるで恥ずかしがってんじゃねぇよ可愛いな。こんなのキュン死に不可避で命がいくつあっても足りな──。
「比企谷くん?」
横顔に突き刺さる視線の冷たさに、思わず
え、これ俺が悪いの? 完全にもらい事故じゃない?
「うわぁ⋯⋯積極的に拗らせにいったよこの人」
「結衣さん⋯⋯頑張れ⋯⋯頑張れ」
一部始終を見ていた一色はドン引きし、小町は何故か両手を組んで祈りを捧げていた。君は誰の味方なのかな?
「どうやら本気で元に戻す方法を見つけないといけないようだな⋯⋯」
別に本気を出していなかったわけではないが、このままではまずい。学校で噂の的になるなんて想像もしていなかったが、この感覚はろくなものじゃないのだ。
このトンデモ事態の解決の糸口は、悔しいがこの状況からでは見つけることができていない。そうなるとアイデアの源泉となるよう助力を求めることになるのだが⋯⋯この事態の解決に適任なのは、残念ながら一人しか当てがなかった。
「ちょっと外に出てくる」
俺が立ち上がろうとすると、雪ノ下にぐいと腕ごと引っ張られてそのまま着座した。えぇ⋯⋯なんか次に言うこと分かっちゃったんですけど。
「勝手に離れにゃいで。どこかに行くのなら私も一緒にいく」
「いやー、それはちょっと⋯⋯」
そう可愛く言われても、連れて行くわけにはいかない。これから繰り広げられるであろう会話の内容を聞いたら、きっと雪ノ下は呆れるだろうし。
「ちょっと電話してくるだけだから。少しぐらいなら我慢できるだろ?」
「まあ、少しぐらいだったら⋯⋯。では行く前に撫でてちょうだい」
「⋯⋯へい」
さわさわ、と濡れ羽色の長い髪を撫でる。八幡、ちょっと慣れてきたよ! 八幡はレベルが上がった! 羞恥心が5下がった! ほーれ喉元かいかいでごーろごろ!
「ふ、にゃぁ⋯⋯」
俯いたまま雪ノ下は、一体どこからその声を出したのか、マックスコーヒーの如き糖分過多な声を出す。ねこのんはレベルが上がった! 攻撃力が八万上がった! おいこれ一生勝てねぇだろあと俺なにやってるのバカなの死ぬの?
「じゃ、じゃあ、ちょっと行ってく──」
「待って」
脳が蕩ける前に行ってしまおうと立ち上がる寸前、今度は左の腕を引っ張られる。えぇ⋯⋯何これ、無限ループ?
「あたしも撫でてくれたら、行っていい、よ?」
Why.
いやそんな赤い顔して上目遣いで言われるとですね、八幡さんとっても困っちゃうんですよ。はいそこ小町ちゃん、「キター!」って腕突き上げない。それにしても古き良き2ちゃん用語が死語扱いになってるし意味が分かるだけでおじさん認定には異論を唱えるしかないな。
「いや、由比ヶ浜にする理由ないだろ⋯⋯」
「じゃ、じゃあ邪魔する」
ひしと絡みつく腕に力を入れると、由比ヶ浜はじっと俺を見詰めてくる。ダメだこのワンコ、じゃなかったニャンコ強すぎる⋯⋯。あと当たってるから。やらかいの当たってるから本当勘弁して下さいお願いします。
「分かったよ⋯⋯」
諦めて由比ヶ浜の頭を撫でると、予想外にツヤツヤすべすべとした髪の感覚が新鮮だった。なんかこの子、雪ノ下ばりにトリートメントとか気を使ってそう。
「やべーなあのたらし。死ぬ時は隕石直撃とかで死ぬんじゃない?」
「勝手に兄の死因を決めないでください。っていうかいろは先輩、混じらなくていいんですか?」
「は? 自分から火傷しにいくわけないでしょ」
うーん、いよいよ教室だけじゃなくて部室まで居心地が悪くなってきましたヨ!
ということで、この場は一旦離れるのが得策であろう。
「ほら、人肌恋しくなったらこいつがいるだろ」
俺は椅子から立ち上がると雪乃を促して由比ヶ浜の隣に、さっきまで俺の座っていた席に押しやると、当然のように雪ノ下は由比ヶ浜の腕に絡み付いた。いつもと逆だ。尊いからお前ら一生ゆる百合してろいやして下さい色々はかどるから。
「早く戻ってきてね」
「約束ね?」
うーん、なんでガハマさんものっかって来たのかなぁ。
本当にもう、可愛いから自重して欲しい。
俺は部室を出ると、本校舎と特別棟を繋ぐ空中廊下のベンチに座り込んでいた。
スマホをシュシュっと操作すると、幸か不幸か履歴の中からすぐにその名前を見つけることができた。その名前をタップしてからスマホを耳に当てると、ワンコールでその相手は電話に出る。
「我だ」
俺はすっと息を吸うと、一息に吐いてから言った。
「⋯⋯一つ頼みがある」
「断る。美少女と校内でイチャコラこくクソボッチ崩れは逝ね」
そして秒で切られた。なんだとこの野郎。言うに事欠いてクソボッチ崩れ呼ばわりは許さねぇ。
速攻で再コールすると、今度はコール音すらせずに通話が開始される。
「待て。俺はボッチ崩れなんかじゃねぇ。現在進行形でボッチだ」
「戯言を。ボッチは学校中の噂になったりなどせん。我は詳しいのだ」
「別にボッチが噂の的になってもいいだろうが⋯⋯。いや全然よくないけど、それとボッチは関係ないだろ」
「では何故ボッチを自称する?」
「ボッチって言うのはあれだ、心の在り方だ。頼れる者は常に己が一人。心は雄弁、口は寡黙。不戦が故の圧倒的勝利。それがボッチだ」
「口が雄弁な上に今普通に頼ろうとしてたと思うんだが⋯⋯」
素で突っ込まれた。いやぁバレちゃいましたか!
電話の相手こと材木座はスピーカーの向こうで、大仰に溜め息をつく。
「まあ良い⋯⋯。話を聞こう」
「ああ、頼みってのはあれだ。お題に対して小説のあらすじを考えて欲しい」
「ほう?」
小説、というキーワードに材木座の声色が変わる。まあやつの脳内では、小説イコールラノベに変換されているだろうが、それはそれで構わない。
「タイトルは『ある日突然美少女が猫化した件について』だ。できるか?」
「誰に物を言っているのだ」
高笑いが電話口から聞こえ、思わずスピーカーから耳を離した。頼んどいてあれだが、うぜぇ。
「ちなみに納期は明日だ」
「⋯⋯は? 貴様は鬼か? 編集者か? 人の心がないのか?」
いや編集者が鬼畜みたいに言うなよ。あれは仕事してるだけだろ。社畜使命を全うしてるって考えるだけで、同情しちゃうんだよなぁ⋯⋯。
「ということで、頼んだ」
「致し方あるまい⋯⋯。まあ我が貴様に救いの手を差し伸べるのはいつものことだ。今回も大船に乗ったつもりで待つがいい」
うわぁ、やっぱこいつうぜぇ⋯⋯。
しかし半分ぐらい本当だから、反論するつもりも起きなかった。こいつとの与太話に着想を得たりして解決策を考えだしたこともあるし、ことあるごとに手伝いを頼んでいたのは記憶に新しい。
「待てよ吉報! 答えは我の中にある!」
そう言って材木座は一方的に電話を切った。これでとりあえずは、一歩ぐらいは前に進めたのだろう。
さて、部室に戻るかと立ち上がって歩き出すと、ふと気付いてしまう。
⋯⋯あいつ、納期とか守れるのか?