完全下校時刻を越えれば、昨日先送りにした問題に直面することになる。
それすなわち、猫化したゆきのん、通称ねこのんを彼女の実家まで送り届けることだ。流石に二日連続で外泊するというのは、普段の雪ノ下の行動からは異常と捉えられてしまうだろう。
「あのぉ、由比ヶ浜さん?」
しかし。
しかしである。
そのミッションに於いて、何故由比ヶ浜さんも帰途を同じくしているのでしょうか。あとなんで俺の腕に絡み付いてくるの? とっても柔らかいんですけど。
「にゃに?」
わざとらしくそう言うと、ふふっと由比ヶ浜は吹き出した。なんかこの子、楽しんでない?
俺は「んんっ」と喉の調子を確かめると、しかつめらしい表情を作って言う。
「私はこれから、雪ノ下さんを家に送って行きます」
「なにその言い方⋯⋯。はい。知ってますけど」
俺の口調を真似するように、由比ヶ浜は訝しげな顔をしてそう返す。
「どうして一緒に帰っているのでしょうか?」
俺の問いに、右腕に絡み付いた雪ノ下が無言のまま俺を見ていた。責めるでもなく、ただの観察。そうであるが故に、得体の知れない恐ろしさを感じる。
「流石にゆきのんの家まではついてかないけど⋯⋯。だめ?」
そんな風に駄目かどうかと問われると非常に答え辛いのだが、はっきり言って駄目である。何故ならばここは、学校だからだ。
校舎を出てからというもの、部活帰りの生徒たちの視線は絡み付いて離れることを知らない。特に男子生徒からの視線は、まるで
「駄目、っていうかさぁ⋯⋯」
これ、また明日ロクでもない噂になってるやつじゃないの。雪ノ下と噂になるだけでも相当な心労だったのに。
「だって、ゆきのんばっかり噂の的になったら大変じゃない?」
そう、だけれど。確かにこうすることでその的は分散するけれど。
このまま行くと俺には二股疑惑がかけられ、炎上することは男子生徒たちからの視線で分かりきっている。
「むしろ余計におかしな噂立つ上に、お前まで巻き込んじゃうだろ」
「でもヒッキー、こういうの好きでしょ?」
「は⋯⋯?」
由比ヶ浜の一言に、右隣からの凍てつくような冷気が流れてくる。おかしいな。絡み付いてくる腕も手も温かいのに、何故だか視線の刺さる頬が冷たすぎて痛い。
「だってヒッキーの好きな本に書いてあったし」
「俺の、好きな、本⋯⋯?」
「小町ちゃんが教えてくれたの。なんだっけ、題名がすっごく長いやつ。ハーレム作りしたいんじゃないの?」
まさか小町のやつ⋯⋯我が愛読書『異世界に転生した
「そう。比企谷くんは私だけでは飽き足らずハーレムを作りたかったのね?」
隣を歩く雪ノ下は、俺の腕に絡みつきながら永久凍土を思わせるような冷たい視線を送ってきていた。対する左隣の由比ヶ浜は「あたし全部読んだよー、えへへ☆」ってな感じでほんわかしており、まるで春の日差しの如く穏やかな表情を浮かべている。あらやだ、温度差が凄すぎて八幡風邪ひいちゃう!
「違う⋯⋯。誤解だ。誤解すぎる。俺は──」
「でも、主人公の人、言ってたじゃん。世の男でハーレムに憧れないやつはいないって」
「いやそれ、ただのフィクショ──」
「ヒッキーも、その⋯⋯色んな人としたいの?」
あまりにもぶっ飛んだ問いかけに、知らないうちに脳が思考を放棄した。っべーわ、このガハマさんぱねぇ。物語に感化され過ぎでしょ⋯⋯。
「⋯⋯⋯⋯俺にそんな趣味はない」
「答えるまでに間があったわね」
どういうことかしら、と雪ノ下は目だけを笑わせて俺を覗き込む。もちろんその瞳の奥はまったく笑っていない。怖いよ! 今までトップスリーに入るぐらい身の危険を感じるよ!
「やっぱそういうの好きなんじゃん」
由比ヶ浜はそう言うと、絡ませてくる腕に力を込めた。俺の肘にあたっている柔らかいもののことは、もうスルーしておくしかないだろう。それにしても柔らかいな大きいな駄目だ全然スルーできてねぇ。
それにしてもハーレムなんてものは物語の中だからこそ楽しめるのであって、仮に現実になったとしてそれを楽しめるのはよほどの強心臓だろう。そのうちどこかで火がついて傷害事件、最悪もっと酷い事件でこの世をおさらばになる可能性もある。
「⋯⋯俺はちゃんと否定したからな」
俺がそう言うと、両の腕に込められた力が強くなる。
しかし、まあ、うん。自分でも分かっている。
両手に花状態でそんなこと言っても、説得力ないんだよなぁ⋯⋯。
* * *
バス停で由比ヶ浜と別れると、雪ノ下の案内のもとバスと電車を乗り継ぐ。
運よく二人分空いていた座席に隣あって座ると、数瞬とおかずに雪ノ下は俺の腕に絡み付いてくる。側から見れば電車の中ですらイチャつく完全なバカップルである。
「あのさぁ⋯⋯」
「⋯⋯にゃに」
小声で答える雪ノ下は、ベタベタにくっつきながらも軽く俺を睨んでくる。俺の言わんとしてることなど百も承知だから言うなと、その目が語っている。
すっと背筋を伸ばして視界全体で車内を見ると、いくつかの視線が集まっているのが分かった。無理もない話だと思う。雪ノ下一人で乗っていてもそれなりに見られるのだろうが、そんな美人ちゃんが目つきの悪い男に付き纏うかのようにくっついているもんだから、その視線の強さたるや身体を突き抜けてなんなら車外まで飛んで行っちゃうレベル。本当もう、みんな外の景色でも見ててよぉ⋯⋯。
「⋯⋯なんでもねぇよ」
本当はなんでもあるのだが、まあ学校の中でやられるよりはずっとマシだろう。
やがてゆっくりと電車が次の駅でとまろうと減速すると、雪ノ下はくいくいと俺の袖を引いた。どうやら次が彼女の家の最寄駅らしい。
そそくさと電車から降りて駅から出ると、ようやっと絡み付いてくる視線から逃れられる──が、その腕からは逃れられない。改札を通る時に一瞬離れた後に、雪ノ下は即座に俺の腕を取ったのだ。まあもう、分かってましたけどね⋯⋯。
藍色の空の下を、二人で歩いていく。どうやらこの辺りは高級住宅街、とでも言うべきエリアらしく、一つひとつの家がでかい。家だけではなく、庭まででかい。
さてどれが雪ノ下さんのお宅かしら⋯⋯と見回しながら歩いていると、ふとした疑問が湧いてくる。
昨晩、雪ノ下はうちに泊まった。雪ノ下は無断外泊などするタイプじゃないし、家にはどう説明したのだろうか?
「そういや昨日うちに泊まった時、親御さんにはなんて説明したんだ?」
そう訊くと、雪ノ下はキョトンとした顔をして俺を見てくる。
「普通に、比企谷くんの家に泊まると言ったけれど」
「」
「ちょっと、どうして黙るの?」
マジか、こいつ⋯⋯。
思わず絶句してしまった俺に、雪ノ下は腕を抱き締める力を強くして非難を向けた。
まあ雪ノ下さん、嘘つけないもんね⋯⋯。っていうか許可しちゃったのかよ母のん。
「あと、今日はご飯を食べていくように母が言っていたのは伝えたわよね?」
「いえ、聞いてませんけど⋯⋯」
「あら、由比ヶ浜にゃんに気を取られて聞いていなかったのかしら?」
にゃふふ、と雪ノ下は楽しそうに笑った。っていうかなんでそんなに嬉しそうなの?
まあ雪ノ下を家まで送り届けることで、そう提案されるかも知れないことは想定してたからいいんだけど⋯⋯。いや、全然よくねぇな。むしろこの状況からお宅訪問の上に晩御飯をご相伴にあずかるという流れは完全に詰んでいる。
「ここよ」
俺が超えるべきハードルの高さに途方に暮れていると、雪ノ下は立ち止まった。くっついたままだったせいで、急にブレーキをかけられてつんのめりそうになる。
「ははぁ⋯⋯」
目の前に鎮座するのは、極道の妻とかに出てきそうな純和風の大きな門だった。メインの扉だけではなく潜り戸まであるし、高級住宅街の中にあってなお異様なまでの存在感を放っている。
⋯⋯っていうか本当にそっち系の家に見えるな。建築関係ってそういう関係の人間も多いと聞くし。⋯⋯本当に違うよね?
「行くわよ」
「おう⋯⋯」
雪ノ下は名残惜しそうに絡めていた腕を離すと、当たり前だが自然にその門を潜った。
こっちはもう、大魔王の座するラストダンジョンに挑むRPGの主人公の気分だ。
⋯⋯俺、無事に帰れるのかな。