猫ノ下雪乃さん。   作:滝 

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次回で最終話です!


恋人同士、だから。

「ただいま」

 

 雪ノ下は玄関に入ると、見える範囲には誰も居ないというのに廊下の奥に向かってそう言った。

「お邪魔します⋯⋯」

 続く俺もそれに倣って言うと、まるでそれが聞こえていたかのように廊下の奥から人影が現れる。和装の麗人の名前は⋯⋯そういや名前は聞いたことないな。雪ノ下の母親は俺と目が合うと恐ろしいほど柔和に微笑みを向けてくる。

「いらっしゃい、比企谷くん。やっと来て頂けたわね」

 表情は笑っているし、目だって笑っている。けど雰囲気は笑っていないというか、本当に俺が来訪したことだって喜んでいるかどうか分からないぐらい、内包しているものに深みを感じる。それにしても母のん、家でも和服なんですね。

「もうすぐ食事ができるところだから、待っていてね」

 少しだけ口調を砕けさせると、ついて来いと言わんばかりに颯爽と俺たちに背を向ける。俺は雪ノ下と一瞬目を合わせると、その背中に続いた。

 

 リビングに通されると、ソファに座るように促される。純和風の建物だったが、主室はリビングダイニングキッチンというものらしい。

 雪ノ下は着替えてくると言って自室に向かったので、今や二十畳以上はあろうかという部屋の中は俺と雪ノ下の母親だけという奇妙な空間になっていた。

「比企谷くん、苦手はものはある?」

「トマトは無理ですね」

「そう。なら今日の献立は大丈夫ね」

 秒で返した俺に、くすりと笑みを零すと雪ノ下の母親は調理台へと向き直った。その笑みは雪ノ下が時折見せる柔らかな笑みとよく似ていて、どうにも落ち着かない気分になる。

「お待たせ」

 そう言って雪ノ下はリビングに戻ってくると、俺とは半身分間を空けてソファに座った。

 ロングスカートに包まれた脚をもじもじしているのは、おそらく俺とくっつきたいのだろう。しかしいかに猫の習性と言えど、この状況において理性に勝るものはないらしく、すんでのところで我慢しているようだ。

「⋯⋯⋯⋯」

 ソファの座面の上で、遠慮がちに雪ノ下の手が伸びてくる。ちらとこちらを窺う目と視線がかち合うと、何ともむずむずした気持ちになる。猫ノ下さん、全然我慢できてないですね⋯⋯。

 しかし、まあ。

 幸いソファの背もたれの影になっているから、手を繋ぐだけならば向こうから見えることもないだろう。俺が手をすっと座面の上を滑らせると、おずおずと雪ノ下の手も近づいて──。

 

「ただいまー」

 

 そんな明るい声が、背後から突如として降ってきた。互いにしゅっと手を引っ込めると、声をした方を振り返る。その瞬間にっこりと笑いかけてくる声の主と目が合った。

「ひゃっはろー、比企谷くん。やーっと、うちに来てくれたね」

「ははは⋯⋯。どうもお邪魔してます」

 乾いた笑いを漏らしながら、陽乃さんに軽く会釈する。なんとなく想像してたけど、やっぱりこの人も同席するのか。いや、元々彼女の家なのだから当たり前と言えばそうなのだが。

「姉さん、どうして⋯⋯」

「どうしてって、こんな面白そうなイベントに来ないわけがないでしょ?」

 馬鹿げた質問をあしらうかのように、陽乃さんは雪ノ下の質問を一笑に付した。雪ノ下の口振りするからすると、彼女が元々住んでいたマンションには今も陽乃さんが住んでいるようだ。

 陽乃さんはぴったりとくっつくように雪ノ下の隣に座ると、それを避けるように雪ノ下は俺の方に身体をずらす。あれー、おかしいよ? 結局なんか近くなってるよ?

「ねえねえ、雪乃ちゃーん」

 甘えるような声を喉に絡みつかせながら、陽乃さんは雪ノ下の顔を覗き込む。

 

「彼氏の家で初めてのお泊まり、どうだった?」

 

 突然のぶっ込みに俺も雪ノ下も動きを止めた。キッチンまで聞こえるようにか、わざとらしいぐらいはっきりとした声は聞き逃しようもない。

「かれし⋯⋯」

 雪ノ下が口にしたうわ言のような言葉に、俺の思考は回転を取り戻す。ここはこいつに答えさせるべきじゃないだろう。うっかりにゃんにゃか言い出されても困るし、何より正直に話しすぎるとあらぬ誤解も生じかねない。

「泊まりに来たって言っても、小町の泊まりに来て欲しいってわがままに付き合ってもらっただけなので。実際小町のところに遊びに来たようなもんですよ」

 俺はキッチンに立つ雪ノ下の母親にも聞こえるように、ハキハキとそう答えた。すまん、小町。兄を助けてくれ。今度雪見だいふく奢るから。

「ご飯、出来たわよ」

 俺たちの会話を聞いていたかどうかは分からないが、ダイニングの方から雪ノ下の母親が呼びかける。はーいと軽く返事をした陽乃さんに付き従うように、俺たちも食卓についた。

 食卓に並ぶのは、懐石料理然とした和食の数々だった。鯛の切り身や色鮮やかなだし巻き卵、きっちりと蓋までしてある吸い物らしきお椀などはまるで料亭のそれである。

「比企谷くんが来てくれるのが嬉しくて、つい作り過ぎてしまったわ」

 呆気にとられる俺の表情から心中を察したのか、雪ノ下の母親は微笑みかけながらそう言った。ついってレベルじゃねぇぞこれ。

「いただきます」

 陽乃さんがそう言ったのを皮切りに、俺たちも口々に言って箸を手に取る。さてまずは⋯⋯と小鉢に盛り付けられた湯葉を口に運ぶ。

「え、うま⋯⋯。なんだこれうま過ぎる」

 味覚から伝わった衝撃に、思わずそう口に出していた。まじかよこれ、見た目だけじゃなくて中身も料亭ばりじゃねぇか。あんまり行ったことないけど。

「あら嬉しい」

 雪ノ下の料理の腕はやはり御師さんがよかったからなのか、などと一人納得していると、雪ノ下の母親はあどけないぐらいにころころと笑っていた。まあ褒められて悪い気はしていないだろうが、隣に座った雪ノ下はそわそわした視線を俺に送ってきている。言外にうっかりしたことを言うなと、目だけで伝えてきていた。

「昨日は雪乃がお世話になりまして。何かご迷惑になるようなことはなかったかしら」

 雪ノ下の母親は未だ箸を取らないまま、俺の方を見てそう言った。迷惑ではないけど、色々大変だったんだよなぁ⋯⋯。

「いえ、そんなことは。それよりもうちの妹のわがままに付き合わせてしまってすいません」

「あら、気にしなくていいのよ。雪乃も望んでしたことなのだし」

 そうよね、と雪ノ下の母親が視線を送ると、雪ノ下はこくこくと頷いた。ここは喋らない方が得策と踏んだか。それも雪ノ下らしい選択だ。

「ねえ、比企谷くんちで何してたの?」

 しかし何も喋らない雪ノ下に違和感を覚えたのか、陽乃さんは雪ノ下に向けてそう聞いた。

「そうね⋯⋯。比企谷くんの家の猫と遊んだりとか」

 雪ノ下の答えに、ふむと陽乃さんは一瞬言葉を溜め込んだ。しかしまた次の瞬間には、なんとも快活に言い放つ。

「つまりニャンニャンしていたってことだね」

 あまりにも図星過ぎて、豆の煮物を吹き出すところだった。

 確かににゃんにゃんしてましたね。本気で言い訳できないのが困る。結局同衾(どうきん)しちゃってるあたり、何もありませんでしたというのは色々あり過ぎてるし。

「仲が良さそうで何よりね」

 そう言う雪ノ下の母親は一見笑っているが、腹の内で何を考えているか分かったものではない。外堀を埋められた挙句に内堀にセメントを流し込まれているような気分だった。

 それっきり否定も肯定もせずに黙りこくっていると、六人がけのテーブルの空席に目がいく。雪ノ下の家は四人家族だったはずだから、俺が本来座っている席は彼女の父親の席なのかも知れない。

「お父さんなら出張中だから今日はいないよ」

 その様子を目ざとく見つけた陽乃さんが、俺に向けて言う。あー、超安心した⋯⋯。雪ノ下家に訪問するだけでも十分やばいのに、父のんと遭遇なんて本当やばい。語彙力皆無になるぐらいやばい。絶対殺される。

「そうですか」

 下手に社交辞令で「いやーお会いしたかったのに残念ですねははは」なんて言おうものなら、即座に先々の予定まで取り押さえられてゲームエンド。それが最近少なからずこの家と接触してきたことで得られた教訓である。雪ノ下家こっわ。

「ねぇ、比企谷くん」

 父のんとの邂逅がないと分かって胸を撫で下ろしたのも束の間、陽乃さんは愉快そうに口の端を持ち上げながら言う。

「ご飯食べ終わったら、お姉さんの部屋に遊びにおいで」

 こともなげに恐ろしいことを言い出した陽乃さんに戦慄していると、雪ノ下は彼女に向けて睨め付けると言うには余りにも弱々しい視線を送っていた。陽乃さんはそれを流し目で受け流すと、付け足すように言う。

「あ、もちろん雪乃ちゃんも一緒にね」

「あら、何かしら。まあ、若い人同士でしか話せないこともあるわよね」

 そう言って 慇懃(いんぎん)に俺に笑いかけてくるが、雪ノ下の母親の言っていることは陽乃さんに根掘り葉掘り訊いて来いと言っているようなものだ。やはり一筋縄でいかない雪ノ下家、恐ろしい⋯⋯。世にも奇妙な物語に寄稿したら採用されるんじゃないのこれ。

「いやー、流石に年頃の女性の部屋にお邪魔するのは⋯⋯」

「あ、私の部屋ってことが気になるなら、雪乃ちゃんの部屋でもいいよ」

「にゃにを⋯⋯」

 そこまで言って、雪ノ下は口を噤んだ。俺の方までひやりと背中に汗が滲む。

 しかし陽乃さんはそれを動揺と受け取ったのか、殊更に口角を引き上げる。

「あー、そうだよね。部屋には見られたくないものもいっぱいあるよねぇ。彼氏の隠し撮り写真とか、机の中に隠してたりして」

 けらけらと余りにも軽薄に笑う陽乃さんに、ぷるぷると頬を染め上げながら震える雪ノ下。

 いやいや雪ノ下がそんなことをするはずが⋯⋯。

 

「姉さん、黙って⋯⋯」

 

 無いよね? え?

 ⋯⋯おーい、雪ノ下さん?

 

 

       *       *       *

 

 

 食事を終えると俺たちは宣告の通り、陽乃さんの部屋を訪れていた。

 ぐるりと一度だけ見回した部屋の中は、まるで断捨離したてのように最低限の調度品しかない。──と思いきや壁だと思っていたそれはびっしりと中身の詰まった本棚だったりして、まるで文学少女の部屋と言った様相だ。

 

「さて、それじゃ色々聞いちゃおうかなー」

 

 陽乃さんはデスク前の椅子に座ると、俺たちにベッドに座るよう手を差し向けた。

 渋々ながらも他に腰掛ける場所もない俺と雪ノ下がベッドに腰を下ろすと、陽乃さんは一拍だけ間を取ってから問いかける。

「昨日、何があったの?」

「いえ、だから昨日は小町が──」

「私は雪乃ちゃんに訊いてるの」

 さっきと同じ言い訳を通そうとした俺の言葉を、ぴしゃりと陽乃さんは遮ってくる。雪ノ下が余りにも口数が少なかったが為に、何か裏があると踏まれているらしい。⋯⋯まあ、本当にあるんだけど。

 雪ノ下は口を引き結ぶと、陽乃さんの視線から逃れるように俯いた。その様子を、陽乃さんが見逃すわけもない。

「やっぱり何かあったんだ。正直に答えてくれたら、お母さんには上手く言っておけるかも知れないんだけどなぁ」

 むう、と俺が腕組みをしながら雪ノ下を横目で見ると、彼女とばっちり目が合った。致し方ない、と俺が頷くよりも少し先に、雪ノ下はこくりと小さく頷いた。

 

「信じられにゃいと思うけれど、全部話すにゃ⋯⋯」

 

 

 

 

 事の顛末を全て話を終えると、陽乃さんは意外にも疑いの言葉一つすらなく、腕を組み組み考え込んでいた。

 なんとも居心地の悪い沈黙が存分に流れ切ると、陽乃さんははっと目を開けて言い放つ。

「それって、雪乃ちゃんがしたいことが、現実になっているだけじゃないの?」

「いや、なんでそんな話に⋯⋯」

 ないよな、と雪ノ下の方を向くが、返ってくる答えはない。

 あの、なんで雪ノ下さんは黙り込んで両手を握り込んでいるのでしょうか。あ、でもこいつなら猫が好きすぎて猫になりたいとか思っていたりしそうだよな。

「比企谷くんとイチャイチャしたい気持ちが強過ぎたんだねぇ」

「⋯⋯⋯⋯」

 そんなことを言われてしまうと、今度はこっちが地蔵タイムである。なんつーこと言い出すんだこの人。

 はてさてそこのところどうなんでしょう? と雪ノ下の方を見ると、肩口がプルプルしているのが見えた。あー、うん、はい。八幡分かった。さっきからの流れで理解したので説明しなくていいです凄く恥ずかしいので。

「まあ、それはいいか。ところで比企谷くん」

 陽乃さんは俺の方に向き直ると、にんまりと唇で三日月を作った。隠すことすらしない嗜虐的な表情に、思わず背筋が凍りそうになる。

 

「雪乃ちゃんとは、付き合ってるってことでいいんだよね?」

「は⋯⋯?」

 

 予想だにしていなかった質問に、素っ頓狂な声が漏れる。この人、さっきから人を散々彼氏呼ばわりしておいて、なんのつもりだろうか。

「ちゃんと答えてくれたら、色々協力できるんだけどな」

「にゃっ⋯⋯。姉さん、さっきと話が──」

「私は上手く言っておけるかも(・・)知れない、としか言ってないよ」

 なんたる狡知(こうち)。しかしこれは、協力の言質を取っていなかった俺にも非があるだろう。

 陽乃さんの質問の「付き合っている」という言葉は、誰にもに通じる表現でありながらも、あまりに模糊(もこ)とした言葉のように思える。だから俺と彼女の関係性も、その言葉が意味する範囲には入るのだろう。

 だからそれを認めてしまうのは、きっとまちがいじゃない。けれど俺たちのことを、そんな枠に嵌めようとするのは──。

「早く」

「あ、はい⋯⋯」

 えぇ⋯⋯めっちゃ真面目に考えてるのに、それすらカットしてしまうのん? この流れをぶった斬られるのは消化不良気味なんですけど。

 ──しかし、まあ。

 まちがいではないのならば、それを伝えるべきなのだろう。元よりそれを認めることで、前進するものもあるのだろうから。

 

「お、お付き合いをさせて頂いております⋯⋯」

 

 もうちょっと他に言い方なかったのかよ、と自分で突っ込むが、やはり今の俺で捻り出せる言葉はそれぐらいだった。

 そっと雪ノ下の方を窺うと、またも目が合う。顔が赤い。多分それは、俺の方も。

「ふーん⋯⋯」

 折角正直にそう答えたのになんだその興味なさげな声は、と陽乃さんの方を見ると、興味津々の目とかち合った。っべーわこれ、この表情、後でめちゃめちゃ弄られネタに使われるやつじゃねぇか。

「じゃあ今度から私のことはお義姉(ねえ)ちゃんって呼ぶこと」

「それは無理です」

「否定が早いなー」

 実に愉快、とでも言うように、陽乃さんは俺の拒絶にすら上機嫌に笑って見せる。

 

「まあいいや。後は任せておいて」

 

 ね、笑いかける顔は確かにお姉さんらしくて、そしてそれ以上の存在で。

 俺は無敵の大魔王の前に、震え上がるしかないのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 雪ノ下の家を出ると、思っていたよりも冷たい風が頬を撫でつける。

 玄関まで送ってくれるのかと思っていた雪ノ下は、何故か俺と一緒に外に出て来ていた。必死に俺にくっつこうとしているのを我慢している様子なのも、どうにも解せない。

 

「なあ、わざわざ外まで送ってくれなくても」

「いいから」

 

 俺の言葉を遮ると、雪ノ下はつったかつったか先に行ってしまう。そして角を曲がると、不意にそこで立ち止まる。

 雪ノ下は遠慮がちにこちらを見詰めていたかと思うと、ひしといつも通り俺の腕を取った。いやいつの間にいつも通りになったのん?

「家の周りは監視カメラがあるのよ」

「ほう」

 やはり裕福な家というのは、高級住宅街にあってもセキュリティには余念が無いらしい。そこまでしなくてはならない理由は考え出すと止まらなくなりそうだからやめておこう。

「はぁ⋯⋯」

 雪ノ下はそう深く息を吐くと俺の肩口にぐりぐりと額を擦り付けた。立ち込める彼女独特の香りに、思わず心臓が乱れる。

「比企谷くん、その⋯⋯」

 俺は頭を撫でた方がいいのかなーどうなのかなーと考えていると、こちらを見上げてくる目に捕まった。その瞳の色は常よりずっと(いとけな)く、どこか懇願するような雰囲気を湛えていた。

「⋯⋯比企谷くんも、して貰っていいかしら」

「ああ、はい⋯⋯」

 昨日のあれですね、と俺は少なくない人に見られていたらしい昨日の行為を思い出した。流石に今日は、知り合いに見られるということはあるまい。

 立ったままだとやり難いなぁ、などと考えながら、昨日と同じように雪ノ下の肩に額をつける。気恥ずかしさに蓋をして、さっき彼女がそうしたようにぐりぐりとそれを擦り付ける。

「ふふっ」

 一瞬、誰が笑ったのかと思った。勿論この場にはそんな声を出すのは一人しかいなくて、そう思ってしまったのはあまりにもその声が明るかったからだ。

「比企谷くん」

 そう呼ばれて顔を上げた瞬間、ペロリと。

 頬を舐め上げられ、俺は一瞬硬直する。だけど一瞬だ。何故なら人間は慣れるから。どんな刺激的なことも非日常でも、繰り返されれば馴れざるを得な──。

「その⋯⋯。比企谷くんも、舐めて貰っていいかしら⋯⋯」

「────」

 俺の平常心は脆くも崩れ去り、ぴきんと頭にヒビが入ったような気がした。いや比喩ではなくて本当に割れてしまったかも知れない。

「⋯⋯どこを?」

「ほ⋯⋯。頬っぺた、を⋯⋯」

 頬を、と言うのに戸惑ったのだろうか。雪ノ下は恥ずかしそうにそう言ったが、むしろそっちの言い方の方が恥ずかしい。

「⋯⋯本気で言ってるのか?」

「⋯⋯残念にゃがら本気よ」

 奥歯を噛み締めるような表情を浮かべながらも、その意思は固いらしく俺から目を逸らすことをしない。

「参考までに、何故そうしないといけないか、教えて貰えますでしょうか⋯⋯」

「⋯⋯そうしにゃいと、離れられそうににゃいからです」

 そっかぁ、離れられにゃいかぁ。じゃあしょうがないね! 八幡、ペロペロしちゃうよ!

 ⋯⋯となるわけもなく、先程から変わらず俺の手足も視線も、硬直したままだった。雪ノ下もそれを言うのは相当に恥ずかしいのが、顔は真っ赤になっている。

「ちなみ気持ち悪がったりとかは」

「⋯⋯しません」

 ですよねぇ。これで「するに決まっているでしょう」とか言われたら人格疑うところだったわ。むしろ疑いたかった⋯⋯。

 ごくり、と唾を飲み込むと、真正面に雪ノ下を捉える。その顔は羞恥に濡れているのに瞳には期待がこもっていて、ぞわぞわした感覚だけが背中を走る。

「⋯⋯いくぞ」

「はい⋯⋯」

 そっと雪ノ下が目を瞑ったのを合図に、俺は顔を寄せる。まつ毛は震え、唇で彼女の吐息を感じる。

 そして、ペロリ、と。

 俺は雪ノ下の頬を舐め上げた。滑らかな舌触りだけが、いつまでも口内に残る。

 そして顔を離そうとした瞬間──ふわりと嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を満たし、舌とは違う柔らかさが頬に伝わる。

 

「────」

 

 身体を離して、お互いを見つめ合う。

 カラッカラに乾いた口がひゅーひゅーと間の抜けた音を立てて、俺は唖然として彼女を見詰める続けることしかできなかった。

 こんなの、舌で頬を舐め上げるのに比べたら、なんでもない事のはずなのに。

 

「⋯⋯恋人同士、だから」

 

 俺の肩に両手を置いた雪ノ下は、元から赤かった頬を更に真っ赤にさせて、そう呟いた。思わず雪ノ下の肩に手を置くと、彼女は身じろぎしてその手から抜け出す。

 

「また明日。おやすみにゃさい」

 

 そう言って雪ノ下は、僅かな足音を立てながら俺の前から走り去っていった。

 ⋯⋯マジかよこいつ。またやりやがったな。やりっ放しの投げっ放し。ざわつくこっちの内心なんか、お構いなしだ。

 

 熱が触れた頬に手を当てると、未だに火照りは冷めやらない。

 多分ずっと、その熱は冷めやらない。

 

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