翌朝登校すると、学校の敷地内に入った瞬間から好奇の視線が集まってくるのを感じた。
気のせいだと思いたいが、思い当たる節がある。残念ながら物凄くある。
時折目の合う男子生徒からは何でこいつがみたいな表情をしているし、女子生徒はヒソヒソと何事かを囁き合ってはきゃいきゃい言っている。なんか悪口言われてる気分になるからやめてくれないかなぁ⋯⋯。いや実際悪口なのか? しかしまあ、思い当たる節の所為で何も言い訳はできない。
やがて昇降口について下駄箱を開けると、その中に一通の洋封筒を見つけた。ラブレターなんかに使われそうな薄ピンク色のそれは、もちろん恋文などではないことは分かりきっている話だ。
知っている。知っているぞ、俺は。きっとこれは、剃刀とか入ってるやつでしょ? 嫌がらせについては詳しいんだ。
どこぞでこちらの様子を見ているやつが居ないか周りを見てみるが、人の波が途切れたところなのか周囲には誰もいない。意を決してえいやっ、と封を破り、封筒を逆さにする。──と、出てきたのは一枚の紙だった。
『死ね』
Oh...
余りに稚拙な一文に、俺は拍子抜けしてしまう。剃刀じゃなくてよかったぁ⋯⋯。あと生きるから。超生きる。今まで苦汁を舐め続けた人生だったから、甘い汁だけ吸いながら生きて行きたいと思いました。
けどこれの原因は昨日のアレか、雪ノ下と由比ヶ浜に腕を取られながら帰ったからだよな。周りから見たら充分甘い汁吸ってるように見えるんじゃね? 学校内でも指折りの可愛いどころ綺麗どころと堂々二股なんて本当死ねって感じだよね。やだ八幡ったら手紙の主の気持ちが分かっちゃった!
「大丈夫か?」
しゃがみこんで手紙の主に共感していると、不意に声をかけられる。見上げると葉山隼人が、紙に書かれた二文字を見て顔を
「おい止めろ、そんな顔すんな。自殺までは考えてねぇ」
「流石にそこまでは心配してないが⋯⋯」
あ、そう。と相槌を打って、俺は紙を拾い上げつつ立ち上がった。振り返って見れば、また生徒の波が昇降口に押し寄せようとしていた。
そのまま突っ立っているわけにもいかず、上履きに履き替えると教室に向かう。葉山は俺の隣に並ぶと、また同じ質問を投げかけてくる。
「大丈夫か?」
「何回訊くんだよ⋯⋯。ダメージ受けてるように見えるか?」
「そうは見えないが⋯⋯。君は隠すのが上手いからな」
知った風なことを言われると、どうにもむず痒い。それが事実ならば尚更だ。
教室に入って自分の席につくと、またも集まってくる視線を感じる。その視線一つひとつに目を合わせるとすっと逸らされるのは、なんとも落ち着かない気分だ。
「で、昨日のあれはどういうことだ?」
「また見てたのかよ⋯⋯」
前の席に座った葉山は俺に顔を寄せてくると、周りに聞こえないように小さな声で問うてくる。どういうことかなんて、こっちが訊きたい。
「わざと見せているように感じたけどな。違うのか?」
「まあ、ある意味わざとだけど⋯⋯」
俺が言うと、葉山は驚きに目を瞠った。そして次の瞬間には、その目に慈しみのようなものが浮かんでいる。
「結衣、頑張ってるんだな」
「頑張りが飛躍し過ぎだけどな⋯⋯」
本当、ガハマさんってば大胆。そう言えば今頃由比ヶ浜の方も大変なんじゃないか──と思っていたら、興奮した鼻息が近付いてくる。
「三股をかけられあれはどういう事だと詰め寄る隼人くん⋯⋯。八隼伝説のドロドロ回来ましたワー!」
酷く興奮した様子の海老名さんは、俺たちに近寄るなりブシャーと鼻血を噴射しながら後ろ向きにぶっ倒れた。あわや頭から着地するかと思われた瞬間、小さな影が彼女を支える。
「海老名ちゃん、ティッシュ、はい」
「おお〜⋯⋯。おとみ、ありがと」
海老名さんを支えたその人は、おとみ⋯⋯とみ、とみ⋯⋯。そうだ、富岡さんだ。
学級委員長でもある富岡さんは甲斐甲斐しく海老名さんを介抱すると、近くの席に座って遠慮がちに俺を見てくる。
「あのー、比企谷くん⋯⋯」
「⋯⋯なんでしょうか」
なんだかとっても言いにくそうな口調に、俺も思わず畏まってしまった。ぞわりとした違和感が、背中を走る。おおよそこう言う時の悪い予感は当たるのだ。
「浮気はよくないと思います」
瞬間、教室の中から音が消えた。っべーわ、おとみちゃん、ぶっこみやべー。べー⋯⋯。
「あれ? でも雪ノ下さんも一緒に居たなら、二股⋯⋯? 葉山くんも入れたら、海老名ちゃんの言うように三股⋯⋯」
「うんうん。ドロドロ底無し沼からの寝取り合戦、燃えるねー」
もう⋯⋯もうやめて! どう考えても、俺が三股疑惑をかけられるのはまちがっている! 変なチェーンメールが回って来ちゃうから本気で止めて下さい特に最後の疑惑はマジでやめろ。
俺が白化して消え入りそうになっていると、葉山はくつくつと笑いを漏らしながら、面白おかしそうに言った。
「モテる男は大変だな」
⋯⋯こいつ、絶対許さねぇ。
* * *
放課後になると、俺はチャイムが鳴るなり足早に教室を後にした。
今日も今日とて昼休みに突き刺さる視線ときたら昨日より一層鋭さを増し、大変寿命の縮むひと時だった。ずるずる教室に残ってまた観察対象になるぐらいなら、さっさと去るのが一番だ。
人目を避けながら、遠回りで特別棟へと向かう。続く空中廊下に差し掛かると、見慣れた二つの背中が見えた。背中まで伸びた清流の如き黒髪に、くるっと巻かれたお団子頭。雪ノ下は相変わらず由比ヶ浜に纏わりつくようにその腕を取っていて、大層歩きにくそうだ。
特別棟へと向かう人影は俺たち以外にはおらず、足音で気付いたのか彼女たちは示し合わせたように振り向いた。
「⋯⋯比企谷くん」
「ヒッキー⋯⋯」
そう言うと彼女たちはすっとその腕を解き、俺に道を譲るように二手に分かれた。何これ、俺はモーゼになったのん? と思っていると、あっという間に両腕を取られ、さながら連行されるエイリアンである。
「行きましょうか」
「うん!」
「えぇ⋯⋯」
何これ、ここまで来るとネタじゃん。やるなら振り切って猫ノ下さんには「猫ゆーきの! 猫ゆーきの! ニャー!」とかやってもらいたい。いやちょっと想像しただけで悶えそうだったからやっぱりやらなくていい。
それにしても、またこんなのを見られたら明日の下駄箱は今度こそ剃刀入りのラブレターが仕込まれるんじゃないの? そのうちそこらの木に呪いの藁人形を打ちつけられたりとかしたら、流石の俺もノーダメージとはいかないんですが。
そう言えばこの子たちは大丈夫だったのかしらん? と考えながら歩いていると、大して距離もないからあっという間に部室に着いてしまう。両手が塞がっている俺の代わりに、由比ヶ浜が勢いよく入口の扉を開けた。
「やっはろー!」
「あ⋯⋯結衣さん⋯⋯」
二人に引き摺られるように、部室に入る。そこに居たのは昨日から引き続きゲンナリしている小町と──何故か彼女に抱きつき頬を擦り寄せる一色いろはの姿だった。
「先輩っ! にゃーん!」
そして一色は俺の姿を見るやいなや、椅子から飛び出すように立ち上がり、俺の胸に突進してきた。両隣の雪ノ下も由比ヶ浜も我関せずと抱きつき、額をぐりぐり俺の鎖骨のあたりに擦り付けてくる。
おい、なんだこのあざといの。流石に「にゃーん」はわざとらしいだろところで何故俺は両側から液体窒素並みの冷たい視線を受けなきゃならないんだ? 絶対おかしいでしょ。
「はっちまーん! プロットができ⋯⋯ふんもげぇぇっ!」
そんなカオスな状況の中に、混沌の渾名を欲しいままにするワナビ作家がバーンと扉を開いて現れる。真正面から一色、右舷左舷には雪ノ下と由比ヶ浜に絡みつかれる俺を見て、材木座は拳を握ってぷるぷると震えだす。
「この⋯⋯この⋯⋯っ! 八幡のハーレムクソ野郎ぉぉーー!!」
そう言って材木座は部室を飛び出した。
なんなの、これ。
* * *
やたらとくっついてくる一色を引き剥がし、飛び出して行ってしまった材木座を連れ戻すと、俺たちは部室の中で沈黙のまま顔を突き合わせていた。
相変わらず俺の両腕は雪ノ下と由比ヶ浜に絡みつかれているし、小町は今にも俺に飛びつこうとしている一色をどうどうと取り押さえ、それを目の当たりにしている材木座はふしゅるるるると気味の悪い音を立てている。
「⋯⋯とりあえず、一色の方から話を聞こうか」
「って言われても、わたしもどうしてか分かんにゃいんですよね〜。お米にゃん、とりあえず離して?」
「駄目です。⋯⋯まあ、いろは先輩は部室にくるなりこんな感じですね」
一色はそう答えながら、小町の手から逃れようと身を捩る。最初は小町にくっついていたところを見ると、どうやら演技ではなく本当に雪ノ下と同じ状況になっているらしい。
「何か変わったことはなかったのか?」
「変わったこと⋯⋯。とりあえず話すにももっと近い方がいいと思うのでそっち行っていいですか?」
「駄目です」
俺の代わりに小町が答えると、隙あらば俺に飛びつこうとする一色を取り押さえ続ける。ここまでくるとあざといなんてもんじゃないな。
「仕方ない⋯⋯。材木座の話を聞くか」
「えぇ⋯⋯我仕方なし? 頼まれて来てるんですが?」
材木座の力ない突っ込みをスルーすると、
「その出来たというプロットを読ませてもらおうか」
「ヒッキー、なんでそんなに偉そうなの⋯⋯」
「⋯⋯時々本気で人格を疑いたくなるのよね」
「ぬぅぅ⋯⋯釈然とせぬ。納得いかぬぞぉ⋯⋯」
なんだかんだと文句も聞こえてくるが、材木座は読んで欲しいという欲には勝てないのかプルプルと震える手で原稿用紙を渡してくる。
俺の出したお題、『ある日突然美少女が猫化した件について』のプロット。いわゆる物語のあらすじのようなものだ。
『私、花宮夢子は花も恥じらう高校二年生。成績は常に学年トップでラブレターは毎日来ちゃうぐらいの美少女だけど、私は恋愛になんて興味ないの。だって私の恋人は猫ちゃんだから! 人間なんてやめちゃって猫になって、そして猫さんと付き合いたい! そう思いながら今日も見かけた野良猫さんを撫で撫で。とってもいい気分で学校に向かっていたら、あれあれ? 頭の上に耳があるよ。なんで? 尻尾も生えてきてやだスカートがめくれちゃう! ああもう、これから私、どうなっちゃうの〜⁉︎』
⋯⋯これプロットじゃなくて次回予告だな。
「0点」
「酷評⁉︎ 鬼、悪魔、編集者!」
俺の評価に反駁する材木座の声を聞きながら、しかしなるほどと頷いた。雪ノ下の方を見ると、俺は静かに問いかける。
「なあ。様子がおかしくなった日に、猫を触ったりしなかったか?」
「⋯⋯したわね」
僅かな時間首を傾げると、雪ノ下はそう答えた。
「⋯⋯いや、前に何か変わったことはなかったかって訊いた時に『なかった』って言ってたよね?」
「猫ちゃんを撫でるのは特に変わったことではにゃいでしょう?」
ああ、まあそうですね⋯⋯。猫大好きフリスキーだもんね、雪ノ下さん⋯⋯。
俺は深く納得しつつ、今度は一色に問いかける。
「一色は?」
「ここに来る前、校内に野良猫がいるって呼ばれて、その対応はしましたね。まあ、ちょっと触ったところで逃しちゃったんですけど⋯⋯」
「ひょっとしてその野良猫というのは、毛が短くて真っ白の子かしら?」
「そうです、その子です」
一色と雪ノ下の会話で、僅かな希望が段々と確信へと変わっていく。これは材木座先生、本当に答え見つけてきてしまったのかも知れない。
「探すか、その猫」
俺がそう投げかけると、こくこくとそれぞれが頷きを返す。⋯⋯と、その中で構って欲しそうなわざとらしい咳払いが聞こえてくる。
「うおっほんおほほん。八幡よ、その前に我に言うことがあるのではないか?」
ちらっ、ちらっと見てくるその仕草が大変鬱陶しい。いや、毎度世話になっておいて酷いな俺。
しかし今回の材木座の働きは、労うのに十分値するだろう。仕方ない。奴が欲しがっている言葉を、素直に伝えてやることにしよう。
「お前も猫を探すの手伝ってくれ」
「酷使⁉︎ 鬼、悪魔、八幡!」
「いや八幡は悪口じゃないだろ」
そうだよね? と俺が順繰りに視線を送ると、目が合うなり彼女たちはそっと顔を逸らした。
あれ⋯⋯。悪口じゃないよね?
ね?
* * *
白い猫を見つけたら、全員に場所を共有。取り逃がさないよう、単独行動はせず全員集合してから対処に当たる──。
それだけ決めると俺たちは散開し、校内を
「あのー、雪ノ下さん」
「にゃに」
「⋯⋯大変歩き難いです」
「奇遇ね。私もよ」
まあもう分かってたからいいんですけど⋯⋯。こうもくっつかれていると校内を調べ回るにも歩みは遅くなるし、これ見せびらかして歩いているようなものなんですよねぇ⋯⋯。
幸い学校の内外を区切る塀伝いに歩いている分にはそれほど人に会うわけではないが、ここに来るまでにばっちり何人かの生徒に見られてしまっている。
「一色も我慢してくっつかずいられたんだし、気の持ちようでなんとかなるんじゃないのか?」
同じ状態の一色は小町に連れられて半ば強制的にだが離れて行動しているし、何より昨晩雪ノ下の家に行った時はちゃんと意識的に離れることはできている。
だから俺の言葉通り、なんとかはなるはずなのだ。ちらりと雪ノ下の顔を窺うと、深刻そうに顔を伏せていた。
「⋯⋯⋯⋯」
MUGON.
いや黙り込むのやめて下さいよ凄い気まずいじゃないですか。っていうか何も言わないというのは、ほとんど認めちゃってるんだよなぁ⋯⋯。
「⋯⋯否定は出来にゃいわね」
ほらね、まあそういうことですよね。正直に答えてくれたあなたには八万ポイント進呈します。使い道は私とくっつく権利の取得です。もう持ってますかそうですか。
「その⋯⋯くっつくの、駄目?」
俺の顔を覗き込み返すように雪ノ下は首を傾げると、
「⋯⋯駄目、じゃないけど」
「ならいいじゃにゃい」
雪ノ下はふっと口元を綻ばせると、絡み付かせてくる腕に力を込めた。本当こいつ、何なんだよ。可愛すぎるだろ。
いつの間にか止まっていた歩みを再開すると、塀沿いを歩いていく。植え込みの根元や木の上にも注意向けながら暫く歩くと、ポケットの中で携帯電話が震えた。それは雪ノ下も一緒だったらしく、自由になっている方の手で携帯電話を取り出して通知の中身を確かめる。
『ホシを中庭で発見!』
ロック画面の中に、小町から届いた短いメッセージが表示されている。俺は雪ノ下と顔を見合わせると、中庭に向けて走り出──。
「待って」
走り出そうとした俺の腕を、雪ノ下はぐいと引っ張ってその動きを封じ込めてくる。なんか身に覚えがあるぞこの状況。昨日もこんなことありませんでしたっけ?
「その⋯⋯。中庭に行く前に、抱きしめて欲しい、です⋯⋯」
雪ノ下は顔を俯かせると、か細い声で、しかし聞き漏らせない程度に滑舌良くそう言った。前髪から覗く頬が、これ以上なく赤い。
「一応、理由を聞いてもいいでしょうか⋯⋯」
「だって治ってしまったら、もうこんなこと出来にゃいし、きっと言えにゃい⋯⋯」
ぽしょぽしょと答えるその声が甘すぎて、耳に全神経が集中してしまう。お陰で何も、考えられやしない。
「⋯⋯いいけど」
もうこうなってしまったら、結末は分かっている。彼女の望む通りのことをしないと、俺は一歩も動けないのだろう。
さあ行くぞ、俺は雪ノ下を正面に据える。カプセルの中で謎の液体に浸かって回復を待っている人みたいに僅かに腕を広げると、雪ノ下は一歩だけ俺の方に踏み込んだ。ふわりと嗅ぎ慣れた、サボンが香る。
「⋯⋯⋯⋯」
雪ノ下の腰に腕を回してそっと抱き寄せると、鳩尾の辺りに柔らかい感触が広がる。馬鹿みたいに心臓は早鐘を打ち、こんなに激しく動いてしまえばその鼓動が彼女にまで伝わってしまうかもしれない。
いやしかし、それにしても。
彼女のさっきの一言は訂正しておかなくてはなるまい。何故なら雪ノ下の言葉は、まちがっているから。
「あのさぁ⋯⋯」
「⋯⋯にゃに」
こんなこと言うのは柄じゃないし、なんなら今すぐ死にたいレベルで恥ずかしい。だけどちゃんと言わなくては、抱擁を解くのも難儀しそうだった。
「別にもう、出来ないってことはないだろ。その⋯⋯恋人同士、なんだから」
「そ、そう、よね⋯⋯。ええ、分かっているつもり⋯⋯」
背中に回された雪ノ下の腕に、ギュッと力がこもる。
早く猫を捕まえなければいけないのに、猫に捕まって動けない。
多分もう、一生捕まえられていて、逃れられないと思った。
逃げるつもりも、ないけれど。
* * *
「お兄ちゃん、おっそい。何してたの?」
「いやすまん、ちょっとな⋯⋯」
中庭に到着すると、俺たちの姿を見つけた小町は腰に手をやりわざとらしく溜め息をついた。うっかりあれから五分も抱擁していましたなどと、例え妹相手だろうが言えない。むしろ妹の方が言えないわこんなの。
見れば一色も由比ヶ浜も既に集合している。材木座は⋯⋯あ、連絡するの忘れてた。
「それで、どこだ?」
「あれ、あそこ」
小町の指の先を見ると、件の白猫が生垣の中で丸くなっていた。どうやら午睡をお楽しみのようだが、こちらとしては都合がいい。
「あいつに触ったら猫化する可能性があるから、ここは雪ノ下か一色に捕まえて貰う必要があるな」
「ええ、私がやるにゃ」
皆の前に来るとさっきまでのデレっぷりはどこへやら、雪ノ下は悠然と髪を払って見せる。語尾に「にゃ」がついてなきゃ、様になったんだけどなぁ⋯⋯。
「でも、触る前に起きちゃったらどうするの?」
「その時は校舎の角に誘い込んで、捕まえるしかないな」
由比ヶ浜の質問に答えると、それを聞いていた一色もあい分かったと頷きを返した。
一通りの作戦会議を終えると、雪ノ下はゆっくりと例の白猫ににじり寄っていく。一歩、また一歩。俺たちも息を殺し、その一挙手一投足を見守り続ける。
そして雪ノ下の手が、あと数十センチで猫に触れるかという、その瞬間──。
なんの音も立てていないはずなのにその白猫はぱっと目を見開くと、雪ノ下の姿を認めるやいなや猛然と走り出した。
「あ、ちょっ⋯⋯」
一色が雪ノ下のすぐ横を走り抜ける猫に手を伸ばすが、すんでのところで避けられてしまう。これはまずい、と思った瞬間、一色のすぐ後ろから人影が飛び出した。
「任せて!」
一体その華奢な身体のどこにそこまでの瞬発力を備えていたのか、由比ヶ浜は大きく一歩を踏み出し、猫に飛びかかる。スカートがちらりと捲れ上がり、白い太ももがに目が行ってしまいそうになるのを必死で逸らす。ちなみに下着はパウダーブルーとでも称すべき淡い青であった。
「やった⋯⋯!」
由比ヶ浜が両手で猫を掴み上げたのを見て、小町が喜びの声をあげる。
しかし、由比ヶ浜の様子がどうもおかしい。びくーんと固まってしまったかのように、猫を捕まえた時の格好のまま動かないのだ。
当然その猫は、その隙に由比ヶ浜の手から逃れようと身を捩る。
「あっ、結衣さん⋯⋯!」
由比ヶ浜の手から飛び出した猫を、小町は手を伸ばして受け止めようとする。しかし後少しのリーチが足らず、その手で触れただけで猫を捕らえることは叶わない。
小町は手を伸ばしたまま固まっている間に、その猫は猛ダッシュで中庭の彼方へと駆けていく。俺が追おうと一歩踏み出した時にはもう、何十メートルも離され校舎の影にその姿が消えるところだった。
「ヒッキー⋯⋯」
硬直が解けたのか、俺の方にやってきた由比ヶ浜は小さな声でそう言った。そしてひしと俺の腕にしがみつくと、うりうりと俺の肩口に頬を擦り付ける。⋯⋯なんかこれ、見たことある光景なんですが。
「由比ヶ浜にゃん?」
「ごめん、ゆきにゃん。身体が勝手に⋯⋯」
「おい、それって⋯⋯」
対抗するように俺の腕を取る雪ノ下に対して、嬉し恥ずかしと言った様子で俺に頬をスリスリしてくる由比ヶ浜。こういう時の悪い予感は、当たるのだ。
「こ、小町⋯⋯」
「いろは先輩っ! にゃーん!」
「ちょっとお米にゃん、離して。先輩に抱き付けにゃい!」
今にも俺に飛び付かんとしている一色に、辛抱堪らんと言った様子で後ろから抱きつき頬を寄せる我が妹。
「ゆきにゃん、あのね⋯⋯ヒッキー舐めてもいい?」
「由比ヶ浜にゃん、にゃにを言っているの?」
「はあ、やっと捕まえた⋯⋯。先輩、逃げにゃいで下さいね?」
「いろは先輩ぃ⋯⋯。お兄にゃんより小町とくっついて下さいよぉ⋯⋯」
おかしい。
こんなはずじゃなかった。
あと一歩、もう少しだったのに──。
「どうしてこうにゃるんだぁぁぁ!!」
中庭を突き抜けた俺の叫びに紛れて、どこからか「にゃーん」と鳴き声が聞こえた気がした。
あとがき
最後までお読み頂きありがとうございました。
これにて『猫ノ下雪乃さん。』完結です。
私がこういったコメディなのかギャグなのかよく分からない話を書くと、大体とっ散らかって終わります。でもこういうオチの付け方が個人的には好きなので、許して欲しい。
さて、次のお話はR-18の八結雪の予定です。
ある程度書き溜めてから投稿する予定なので、暫く投稿はお休みさせて頂きます。
ではまた次の作品で!