ポーン、と美しい音色が響いた。ピアノの前に座っているのは、年相応の無邪気な笑顔を浮かべたジャックである。ジャックはピアノの音色が気に入ったのか、何度も繰り返し、鍵盤をリズミカルに叩いた。
「ジャックはピアノが好き?」
「うん!」
マスターである玲霞の問いかけに、ジャックは顔を起こす。その瞳は常ならぬ興奮に輝いていた。玲霞はそんなジャックの様子に機嫌が良くなったのか、後ろから抱き抱えるように、自身の手を鍵盤に置く。
「なら少し弾いてみましょう」
そこから奏でられたメロディは、曲というにはあまりにも拙い音の集合体であった。
だけど、ジャックはそんな音に笑みを深める。後ろから最愛の人に身を寄せられ、その人と一緒に音を紡いでいる。その瞬間瞬間が、愛おしくて、幸福で、心を落ち着かせるのだ。
ずっとこのまま終わらなければいいのに。
そう思ったのは、ジャックなのか、それとも玲霞なのか。
「楽しい、ジャック?」
玲霞はふとジャックを見て言った。
それはこの演奏に限った質問ではない。「私と居て楽しい?」彼女の質問には、そんな幅広い部分が隠れていた。
けれど、それを読み解く力など、まだこの幼い少女には無い。ジャックはピアノについて聞かれているのだと思い、ニッコリと笑顔を咲かせる。
「とってもたのしいよ、
「ふふふ。私もジャックと一緒で満たされてるわ」
玲霞がそう言うと、ジャックは鍵盤から手を話し、マスターの体へと身を預けた。
「また、あしたもやりたいなー」
その言葉に玲霞は「そうね」とだけ返す。
残念だが、今夜にはこのシギショアラを発つ予定だ。そろそろ、トゥリファスに向かわなければ、聖杯とやらが手に入らない。この一時的な隠れ家も、今日でお別れとなってしまう。そうなれば、ピアノを弾く機会など無いに等しいだろう。
「ピアノがなくても、歌ならいつでも聞かせてあげられるわよ」
玲霞は苦笑いを浮かべて言った。
こくん、とジャックはそれに対し首を縦に振る。少女が求めているものは、満たされる行為だ。玲霞が発するものであれば、少女はなんだって満足できた。決してピアノだけに限ったものではない。誰が、という部分がジャックにとって一番重要なのである。
それを理解している玲霞は、ふふふ、とまた笑いジャックの頭を優しく撫でるのだった。
☆★☆
「なあ、デク野郎」
日が沈み始めた頃、承太郎とセイバーは二人でベンチに腰掛けていた。セイバーの表情には、明らかに落胆の色が見て取れる。承太郎はそんなセイバーを一瞥もせず、「なんだ?」とだけ返した。
「なんで此処には、遊園地も高層ビルもねぇんだ? 観光できると思ったのに。本当にオレの時代から1000年以上経ったのかよ」
露店で買った焼き菓子を、半ばやけ食いしながらセイバーは悪態をつく。承太郎と街を散策している時から、セイバーはこうして十回は文句をたらしていた。
いい加減それも聞き飽きた承太郎は、ルーマニアの観光ブックを片手に広げる。
「どうやら、ここいらは中世の街並みが保存されているらしい。都心部に行けば、お前の望むそれらが見えるかもしれねーな」
「なんだ、そりゃ。折角浮かれてたってのに……この街に来る奴らは、何が楽しくて来てんだ? わざわざ古いところなんか見てよ」
周りを見ながら唾棄するようにそのセリフを吐き捨てるセイバー。
今でこそ、高層ビルや遊園地なんか見慣れている人も多くいる現代において、逆にこういった中世などの歴史を感じる街並みは貴重に感じるものだ。
だが、過去の人間であるセイバーからすれば、そんなものどうでもいいのは至極当然。そのためにステーキ巡りとかをしていたのに、まだ納得がいっていないらしい。
「それにしてもマスター遅えな」
そう言って、セイバーは暇そうにベンチの上でだらける。
「そういや、デク野郎はなんか聖杯に望むもんあるのか?」
藪から棒に投げつけられた質問に、少しばかり考えを巡らせる承太郎。
何でも叶う願望器。確かにその単語には人を惑わすくらいに大きな魅力がある。何でも叶うということは、もしかしたら死んでいったアブドゥルやイギー、花京院なんかも蘇らせることができるかもしれない。あれほど鮮烈だった戦いの負債を帳消しにすることができるかもしれない。
だが、それでも承太郎は願望器に何も願わないだろう。失ったものというのは二度と手に入らないし、そんなきな臭いものに願いを叶えて貰おうするほど、承太郎は奇跡というものに執着していない。
己の道は仲間達とともに己の手で切り拓くもの。
それに高望みをした者はいつだってその身を滅ぼしてきた。無償の奇跡なんてこの世にありはしないのだ。
「聖杯とやらには興味が湧かんな。勝手に奪い合っていろ、といった感じだぜ」
そんな答えが不満だったのか、セイバーは不機嫌気味に承太郎の顔を覗き見る。
「じゃあ、なんでこの大戦に参戦してんだよ、オマエ」
「ある男を倒すためってやつだ」
「……復讐か?」
目を伏せながら暗い声で話すセイバーに、承太郎は素直に自分の経緯を話す。
「いいや、ある男が原因で母親が病気にかかっている。男を倒さない限りそれが治らないから、その男を倒すってことだ」
「なんじゃ、そりゃ。呪いか何かかよ」
「簡単にいうとそんなものだぜ」
「ふーん」
セイバーはどこか納得したように相槌を打つと、少しばかり自分の母親について思い出す。
モルガン。アーサー王の異母姉であり、あのマーリンに比肩するほどの魔術師。自分の母親でもあるその女は、常にアーサー王を恨み妬み嫌っていた。
そんな母親だったからか、モルガンはセイバーを復讐の道具として作り、育て上げた。そこに愛情があったのかは分からないが、セイバー自身はそんなものを感じたことはついぞなかった。
セイバーは親の愛情を知らない。いや、親そのものを知らないと言って良いのかもしれない。父親であるアーサー王には、自身の出自を明かした時に拒絶され、最後まで子供として、次期王として認めてはくれなかった。
だから、目の前で必死に親を救うために戦っている存在が、不思議で仕方なかった。子供を蔑ろにする親しか見てこなかったセイバーにとって、母親を大事にする承太郎は、見たことのない家族のあり方をしている。
「……母親ってのは良い物なのか?」
「まあ、いて困らねーな」
「……そうか」
そんなどうしようもない言葉が行き交う。お互い似たもの同士な二人は素直に親への感情を表現することができなかった。ここに獅子劫がいたら、きっと彼も子供に対する素直な気持ちを吐くことができず、この場の空気をさらに重くしたことだろう。
「ま、お前みたいなブスッとした奴を愛してくれてる女だ! そりゃ、大層肝っ玉がすえた女だろうよ!」
良い加減、沈黙が嫌になったのか大声をあげながら気丈に振る舞うセイバー。
それと同時に獅子劫がちょうど情報収集を終えて帰って来たのか、道の奥から歩いて来るのが見えた。
「お前ら何やってんだ?」
「お! マスター帰ってきたのか! あ、そうだデク野郎。今日の昼にやったやつ、マスターにも見せてやってくれよ」
「やれやれ。良いぜ、任せな」
「あぁ? 何だ何だ?」
無駄にテンションの高いセイバーが、先ほどまでの空気を払拭しようと、承太郎の背中をバシバシ叩きながら提案する。承太郎もそれを披露することは吝かでないらしく、口にタバコを5本くわえて、それぞれに火を付ける。
タバコを吸う獅子劫はわかる。五本一気に吸うとかただのバカでしかない。ヘビースモーカーでもやらないその吸い方に、驚きを隠せない獅子劫だったが、承太郎の奇行はそれだけでは終わらなかった。
何と、そのタバコを口の中に入れてしまった!
さらに、隣からセイバーが飲み物を突き出すと、承太郎はそれをそのまま口につけて飲んでしまう! 全部飲み終わったのか瓶を口から外すと、口を再度開いて先ほど中に入れたタバコを取り出した。そのタバコの火は……消えていなかった!
「がははははは! なんだその隠し技は!?」
「だろ、マスター! コイツのこれどうやってんだよ!! 意味わかんねー! ギャハハハハ!」
「……」
ぷかあ〜〜
二人が承太郎の隠し芸に笑っていると、承太郎は無言でタバコの一本一本をまるで生きているかのように動かし始める。
またその動きが面白かったのか、それとも承太郎が平然とした顔で奇行を繰り返す姿がツボに入ったのか、二人は腹を抱えて笑い出した。
「「ギャハハハハハハ!!!」」
ようやく笑い終わったのか獅子劫は乱れた呼吸を直しながら話し始める。
あともう少し続いていたら、腹がねじ切れていたかもしれない。
「ヒ、ヒィ、帰ってきて早々変なもん見せるな、全く……」
「それより獅子劫。ジャック・ザ・リッパーについての情報は何か手に入ったのか?」
笑わしていた張本人である承太郎は、至って平静な声で尋ねた。そのギャップでまた笑いそうになった獅子劫は、グッと己の喉を締めて我慢する。
「ぷ、く……い、一応初期の被害者であるブカレストのチンピラやギャングも調べてみたが、流石アサシンってところだな。奴に繋がりそうな痕跡は現場に残っていなかったよ。これだけ鮮やかに犯行できるなら神秘も隠匿してほしいもんだがね」
そうやって今日一日調べた結果の情報を共有しながら、獅子劫はセイバーのほっぺについていた食べカスをさりげなく伝える。セイバーはそれに気づいて、そっと食べカスをとった。
「だが、モルグで死体を見てきて一部ゲットしてきた。あいつらがもし肉体の一部を食わずに残していたら、そこから本拠地を暴けるかもしれん。そっちは今日一日どうだった?」
聞かれたセイバーは承太郎を指でさしながら退屈そうに答える。
「退屈だった。が、まあ……特に他のマスターやサーヴァントの気配はしなかったな。デク野郎と街を散策してみたが、これと言った成果は無い」
「ま、そんなもんだろ。活動するなら今夜だろうしな」
「おっし、じゃあそろそろ暴れられるってことだな」
そう言って立ち上がりながら武装化するセイバー。承太郎もそれに伴ってベンチからゆっくりと立ち上がった。
「そういうこと。基本の作戦はこうだ。黒のアサシンと縁があるジョジョを、まず餌に使う。ジャック・ザ・リッパーがジョジョを襲ったところで、俺とセイバーが叩く挟み撃ち戦法だ。相手がアサシンだからセイバーと俺は一緒に行動。ジョジョは悪いが単独だ。何かあったらすぐに連絡を取り合うとしよう」
「「了解」」
そう言って、三人は歩き始めた。
ここからは長い夜になる。
☆★☆
草木も眠る深夜。街灯や部屋の明かりが溢れているくらいしか明かりがないこのシギショアラで、1組の男女が時計台の上で話していた。
「マスター。あなたはどう思いますか」
「どう思うとは?」
話を振ったのは黒のアーチャーである。
「ダーニックの今回の采配についてです。切り裂きジャックと、そのマスターを生きて連れてこいとは」
「ええ、確かに妙ですね。現状、敵対しているサーヴァントを連れて行ったところで、仲間になる可能性は極めて低いでしょう。それに相手はアサシン。自身の砦に招き入れることは無謀と思われます」
フィオレは街を見下ろしながらアーチャーが考えていることに対して同意する。だが、その声色には疑念だけではなく、何か違う感情が混じっているように思えた。
アーチャーが黒の陣営に最大の不満を持ったのは、バーサーカー襲撃の日であった。
赤のライダーとアーチャーを退け、バーサーカーを捕縛した手腕は見事だと彼も考えている。だが、その後の黒のライダーの謀反。それだけはいただけない。サーヴァントの中でも、一番親密に関わっていたアーチャーからすれば、ライダーの行動は不可解な部分が多過ぎた。
なぜあのタイミングでライダーが謀反を起こしたのか。
考えを深めてみるものの、その答えは一向に出そうになかった。
マスターとのパスが繋がりにくいことに、何か関係している。そんな勘とも言えるものは働いているが、それを証明する証拠が彼には決定的に欠けていた。
そんなアーチャーの考えを汲み取ったのか、フィオレは病的な笑みを浮かべる。
「まあ、何か策があるのでしょう。私たちは命令されたことだけをやりましょう」
「マスター……」
それではまるで傀儡だ、アーチャーはそう思う。
誰かに命令され、思考を放棄することほど愚かしいものはない。アーチャーから見たフィオレという少女は、実に聡明な考えを持っているはずの人間だった。それは召喚した初日、彼女と少し話をしてわかったことである。
それなのに、今はそんな聡明さも陰りがある。あの清廉潔白な瞳には、何か良からぬものが混ざり映し出されていた。
その理由を聞くべきだろうか。
アーチャーは逡巡する。けれど、フィオレが言い出さない以上、そこに踏み込んだとしても解決できるようには思えなかった。
結局は彼女次第で祈るしかない。己の無力さに喪失感を覚えながらも、アーチャーはそう割り切る。弟と話をするときのフィオレを何度か見たが、弟に対しても心を開けていない現状、触れ合って数日の己にできる事はないのである。
だから、せめてもその問題が解決へ進むように、アーチャーはフィオレに告げる。
「この聖杯大戦。どうも先が見えなくなってきました。マスター、どうか無理だけはなさらぬようお願いします」
「ええ……分かっています」
そんな話をしていた時、ケイローンの目に、ある二人組が映る。片方はサングラスをした大男に、もう一人は鎧を見に纏っている騎士。その姿は、遠見の魔術で見たことのある赤の陣営たちだった。
「マスター、赤の陣営を見つけました。どうしますか」
「彼らの目的も切り裂きジャックです。赤の陣営が現れたのなら、まずそちらを優先します。黒のアサシンからしたら私たちはどちらも敵、最悪2対1になるような戦いに出てはこないでしょう」
「良い判断です。それではサーヴァントはお任せを」
「ええ、私は獅子劫界離を」
そう言って、ケイローンはサーヴァントではなくそのマスターである獅子劫に向かって矢を穿った——。
その先制攻撃にいち早く気づいたセイバーは、マスターを蹴り飛ばすと、その矢を剣で叩き切った。
「黒のアーチャーか!? セイバー予定変更だ、黒のアサシンよりまず先に奴らを叩くぞ!」
「了解、敵のサーヴァントは引き受けた!」
「マスターの方は俺に任せろ!」
それだけの言葉を交わすと、二人はそのまま違う方向に走り去る。セイバーはケイローンが射撃している時計台に、獅子劫はできる限り狙撃されにくい裏路地へ入った。
獅子劫は走りながら承太郎に連絡するため電話をかける。コールが一回鳴った時に相手が電話を受け取る音がしたため、承太郎の声を聞くよりも早く獅子劫は用件を伝えた。
「現在、黒のアーチャーと思わしき陣営から襲撃を受けた! 俺は今からそのマスターと戦う! ジョジョはさっさとそこから離れろ! 流石にサーヴァントと1対1はマズい! 分かったな!」
それだけ言うと、携帯を切った瞬間、視界の端に飛び込んできたのは何か背中から生やしている少女。その少女は左右に立ち並ぶ建物に背中から生やした何かをくっつけてバランスをとると、三階はあろう高さで獅子劫を見下ろしていた。
獅子劫はゆっくりと動かしていた足を止め、相手の顔を見るため見上げる。
「自己紹介は省いて構わないよな?」
男が笑い、少女はそれへ退廃的な微笑みで答える。
「そうでしょうね。お互いに名を知らないはずがありませんし」
ニッコリと微笑むフィオレに、携帯電話を仕舞いながら獅子劫は違和感を覚える。
「あんた、何か変なものに取り憑かれでもしたか?」
「……それは、どういう意味でしょう」
「いや、見たまんまを言っただけだ。気に障ったなら、無視してくれて構わん」
獅子劫は警戒心を強めながら、ホルスターの散弾銃に手を伸ばした。途端、周囲一帯の魔力密度が濃くなる。
最早、お互いに武器へ手を伸ばしている状態。フィオレは獅子劫のフリーランスとしての実績を知っているし、獅子劫はフィオレが一族の逸材と言われるほどの、高いセンスを持つ魔術師だと知っている。
お互いがお互いの手の内を把握できているこの場で、これ以上の軽口は不必要だろう。
ならば——。
そんな黒と赤の陣営の戦闘を見守る者が一人。まるで全ての盤面を操るように、高らかに笑みを深めた。
次回、ジャックVS承太郎