「これは……」
ジャンヌの目に飛び込んできたものは、大きな破壊痕だった。
数台の車はひしゃげ、人体と思わしき者が転がっている。どれもこれも、ひどい損傷具合だ。慣れていなければ、胃のなかのものを逆流していたかもしれない。
「ジョジョ……!?」
はっと我に帰り、ジャンヌは承太郎の死体が無いかを確認する。
もっと後方で別れたはずなのに、なぜかここに承太郎と乗ったバイクが転がっていた。つまり、彼はここで一悶着巻き込まれたことを意味している。
被害者なのか、加害者なのかは別としても、彼の身に危険が迫っているのは確かだろう。
隈なく探してみた結果、どうやら承太郎の死体がないのだけは確認できた。
しかし、代わりにジャンヌはあるものを見つけていた。
それは、彼女がヘルメットと一緒に残していた旅行鞄だ。バイクは戦斧と思わしきもので壊れているのに、それだけは無事だった。もしかしたら、承太郎が庇っていてくれたのかもしれない。
旅行鞄を裏返すと、そこには一枚のメモが貼られていた。見たところ言語は律儀に英語で書かれている。
要約すると、「厄介ごとに巻き込まれた。悪いが、これでタクシーでも使ってくれ」とのことらしい。旅行鞄の中には、彼の財布と携帯が入っている。あんな冷徹そうな立ち振る舞いをするくせに、優しい時はきちんと優しい彼の為人が見て取れた。
「とりあえず、無事……ということですよね」
胸をギュッと握り締めながら、深い安堵のため息をジャンヌはついた。
あの啓示はひとまず回避できたということでいいだろう。あのまま、赤のランサーのところへ連れて行かなかったのが、やはり正解だったらしい。もし、連れて行っていたならば。そう考えるだけでも血の気が引いた。
「でも、ジョジョのこの対応力……。魔術師でもマスターでもないと思っていましたが、一体……」
安堵と同時にふと湧いた疑問がジャンヌの頭を悩ませた。
☆★☆
高速道を走る車の中。一人のホムンクルスの少女と承太郎は、一息つく暇もなく急いで移動を開始していた。
説明するまでもなく、車内の空気はあまり良くない。
慣れない車の運転に集中している承太郎に比べ、ホムンクルスの女の方は、そんな承太郎を横目で見ながら、表情筋が死滅したような無感情を張り出していた。
さて、この二人が何故こんなところにいるのかというと、それは少し前に遡る。
ゴルドの肉体から突如として異音が流れた時、嫌な予感を感じ取った承太郎は間一髪のところでスタープラチナの時止めを発動。スタープラチナの射程距離にいた少女の首根っこを掴み、そのままできるだけ遠くへ大きく跳躍して、爆発を逃れたのだった。
少女のホムンクルスはいつの間にか移動していた事実にひどく驚愕しながらも、承太郎が助けてくれたという事実を認識。その後、敵の更なる追撃を恐れ、まだ動ける車を掻っ攫うと、そのまま逃げるように出発し、現在に至ったのである。
ここまで、承太郎と少女の間に交わされた会話はほとんど無い。承太郎も寡黙な人間であるし、少女の方も嬉々として人と会話をするような質ではないため、沈黙が破られることはなかった。気まずいとも言える空気が二人の間に漂うが、承太郎はそんな事気にもならないのか、車のスピードを最大限加速させた。
「なぜ私を助けた」
沈黙を破ったのは少女の方であった。
不意に掛けられた質問に承太郎はすました顔で答える。
「偶々近くにいて、それで偶々引っ張ってきた。それだけだぜ」
そんな承太郎の返答が気に食わなかったのか、少女は眉毛をピクリと動かすと、苦言を呈する。
「理解しがたい行為だな。私はお前を殺そうとしていたあの男の消耗品だぞ。犯罪者が使用していた凶器を、そのまま捨てられるのは可哀想だからと言ってお前は持ち帰る質なのか?」
少女がこう言ってのけるのも当然といえば当然で、彼女たちに求められていたのは鋳造主の役に立つことのみ。魔力を吸い取られるためにと鋳造されたホムンクルスはサーヴァントの魔力炉に、戦闘用として鋳造されたホムンクルスは敵の雑兵を狩取るだけの肉人形に、身の回りの世話係として鋳造されたホムンクルスは反抗せぬ隷属種に。それぞれ、用途は違うが、ユグドミレニアに使い捨てられる命として彼ら彼女らは誕生させられた。
そんな風に、戦うため、破壊するため、そして死ぬために産み出された彼女は、己を助けた承太郎の行動が不思議で仕方が無かった。
ましてや彼は先ほどまで殺し合いをしていた間柄だ。彼女が人間かホムンクルスかという問題点を抜きにしても、助ける義理はこれぽっちもありはしない。
それなのに、承太郎はさも当たり前を言っているかのように、ホムンクルスに一瞥もくれてやることなく告げる。
——理解できない。
——不思議で仕方ない。
——許容範囲を超えている。
そのような言葉が、少女の頭の中に煩雑する。
「随分と口が回る女のようだな。だが、その問答は今必要か? 近くにいたからつい無意識に引っ張ってきた、それ以上でもそれ以下でもないことは自明の理だぜ」
「……」
「さて、こっからどうしたもんかだな。まずは獅子劫に連絡か……」
承太郎はそう呟くと、運転中であるに関わらず、獅子劫から渡された携帯電話をポケットから取り出した。
「私はどうすればいい」
少女はそんな承太郎の姿を見つめながら、己を助けだした男に、己の成すべきことを尋ねてみる。鋳造主を失い、己に責務を課す相手がいなくなったため、その代役を承太郎に押し付けようとしたのだ。
所詮、少女はホムンクルス。消耗品として使い捨てられるはずの彼女は、結局のところ消耗品として誰かに擦り潰される生き方しか選べなかったのだ。
その質問を聞いて承太郎は鬱陶しそうに吐き捨てる。
「それぐらい、てめー自身で考えな。てめーの面倒を見る気はねえんだぜ」
「……」
承太郎はそうやって少女の問答を真面目に取り合ってくれなかった。それぐらい彼にとってはどうでもよくて、当たり前で、一々説明する価値のない質問だったのだ。
少女はそれを理解すると押し黙ることしかできなかった。これ以上何かを言えば、この2メートル近くはあろう巨体から鉄拳が繰り出されるかもしれないと感じ取ったからだ。現に、承太郎のこめかみには少し青筋が立っている。
少女はこれ以上の問答を諦めることにした。そして、思い出す。ゴルドの爆発により死んだ同胞のことを。別に悲しみに暮れるとか、憎しみに囚われるなんて事はない。ただただ、その事実を噛み締めるように、少女は己にあるのかすら不確定な心で咀嚼する。
ふと、こんな気持ちだったのだろうかと少女は思案した。
一人のホムンクルスが今朝方、供給槽から逃げ出したと聞いた。その時、彼はきっと仲間の顔を見たに違いない。仲間の思いを聞いたに違いない。一人だけ助かるかもしれないという事実に、その逃げ出したホムンクルスも少女と同じような感情を抱いたのだろうか。
いくら考えたところで、所詮その逃げ出したホムンクルスと別人の少女には答えを出せない。どれだけ考察を深めようと、できるのは想像だけだ。人生経験の薄い少女はそんなことにも気づかずに、勝手に逃げ出したホムンクルスと自分を照らし合わせる。それは、自身の感情を発掘するのではなく、一同胞である誰かの感情を模倣しているだけとも気づかず。鋳造主を失い、ひょんなことから定められた運命を脱した少女は己の価値と責務を模索し始めた。
そのように突然静かになった少女に、当然、承太郎が考えのリソースを割くわけもなく、携帯に登録されている番号にコールする。
2回ほど呼び出し音がなると、ガチャリという相手の受話器を取る音が聞こえてきた。
「おい、獅子劫か」
『おう、ジョジョ。定期報告にしては随分と早いが、どうかしたのか』
聞き覚えのある野太い声が承太郎の耳に入る。
とりあえず、承太郎は早速本題に入ろうと切り込んだ。
「ああ、アクシデントが起きた。それも飛びっきりクレイジーなアクシデントがな」
『クレイジーなアクシデント? 一体何があった』
そこから承太郎は、自身の身に起きた事柄をわかりやすく説明し始めた。
「黒のマスター、ゴルド・ムジークに襲撃された。どうもダーニックの指示らしい。俺の名前も知っていた」
『なんだそりゃ。無駄に早ぇな、おい。つまりあれか、やっぱりダーニックはD I Oってやつを召喚していて、お前を潰しにきたのか?』
「分からん。が、ゴルドの頭に埋め込まれていた肉の芽。あれは見た事がある。D I Oと同じく吸血鬼がいるのは確実だぜ」
承太郎の重苦しい声で、電話越しの獅子劫にもその緊張感が伝わる。
『吸血鬼、ね。俺の知っているものとは大分違うな』
その言葉に一瞬だけ疑問に承太郎。だが、きっと魔術師なりの吸血鬼の定義でもあるのだろうと勝手に納得した。
「とりあえずだ、これからそっちに合流する」
『ああ、それがいいな。顔と名前が割れてるなら、お前さん一人で情報収集は危険すぎる』
「どこで落ち合う」
『ひとまず、シギショアラだ。トゥリファスに乗り込むにも、一緒の方がマシだからな。俺はこれから赤の陣営の神父に会ってくる。明日の朝には着くと思うが、それまで体でも休ませてくれ』
「分かった」
それだけのやりとりをして、承太郎はピッと携帯の通話を終わらせる。
向かう先はシギショアラ。ここからなら大して時間も掛からないだろう。獅子劫は朝に着くと言っていたが、こちらならそれよりも早く着ける。
目的地が決まったところで、承太郎は一人の少女のことを思い出した。それは目の前にいるホムンクルスではなく、突然、バイクから出て行ってしまった金髪の少女の方だ。
いま思えば、彼女も聖杯大戦の関係者であろうことは明白である。なぜ、あそこまで無関係と信じ込めていたのか自分自身でも怪しく思っている。もしかしたら、ゴルドが言っていた赤のマスターとは、彼女の事だったのかもしれない。
なんにせよ、今となってはもうそれを確かめる手段がない。承太郎はレティシアを置いて、先に飛び出してしまったのだ。一応、最後の義理として財布と己の携帯は置いてきたが、彼女が本当に赤のマスターなら、それも不要だっただろう。
次に会うときは敵か味方か。
そんな出口の見えない思考を繰り返していると、承太郎の横から声が上がる。
「おい」
承太郎はその声の主人がわかっているため、ひどく睨みの効いた一瞥をくれてやった。
「なんだ」
「私は考えた。お前戦争に参加するのだろう? ならば、それについていく。元来た場所に帰ってもどうせ私は何も変わらない、変えられない」
少女は何やら決意を固めたのか独り言のようにそう呟くと、それっきり何も喋らなくなった。いいや、例え少女がこの場でこれ以上口を開けたとしても、彼女は同じことしか繰り返さないだろう。
そんなどうしようもない事を悟ってしまった承太郎は、くたびれた様に呟くのだ。
「やれやれだぜ」
★☆★
同刻、シギショアラの山上協会。
そこに神父服に身を包んだあどけない少年顔の男、シロウコトミネと、暗闇のドレスを身に纏った退廃的な美女 セミラミスが長椅子に座っていた。
シロウは何処か疲れたような表情をしており、セミラミスはそれを見ながらくつくつと笑っている。どうも、シロウは同陣営のマスターに呼び出さ非難されたらしい。
「で、本当なのか、赤のランサーが脱落したというのは?」
そんな頓馬な声を出したのはセミラミスであった。
シロウが非難された理由というのも、赤のランサーが脱落したことにあった。
赤のランサーのマスターであったフィーンド・ヴォル・センベルが何か体に異常を感じ、手の甲を見てみれば、刻まれているはずの令呪が消失してしまっていたらしい。
さらに、意識を体に向けてみれば繋がっていたはずのランサーとのパスも消えていたそうなのだ。
そのことについての説明を求められ、シロウは先ほどまで彼ら五人のマスターに軽い弁明をしていたのだが、結局シロウも何故ランサーが敗退したのか分からないのである。
それ故、原因の追求をするということで、一先ず五人のマスター達には落ち着いてもらい、明朝再び報告するということになった。
「ええ、今先ほどランサーのマスター達から不平を言われてきました」
「ふん。ほとんど働いていない知性と理性でまだ文句を垂れるだけの余力が、あの傀儡どもにあるとはな。だが遠見の魔術も奴らの宝具撃ち合いにより掻き消えた。おかげで媒体も鳩も塵芥だ。どのように赤のランサーがやられたのか、勝敗結果はどうなったのか、それすらも分からん」
セミラミスの言う通り、カルナとジークフリートの宝具の衝突は凄まじい影響を及ぼしていた。それこそ、あそこ一体の魔術は全て彼らの神秘によって掻き消される程度には凄まじいと言える程だ。結果、遠見の魔術で盗み見していたシロウとセミラミスでは最終結果を把握するには至らなかった。
あの勝負の決着をきちんと知っているものがいるとすれば、その場に居合わせたジャンヌともう一体の謎のサーヴァントくらいであろう。
「いえ、勝敗はきっと黒のセイバーの敗北でしょう。私の気付きでそれは確信していました」
頭の部分をトントンとリズミカルに指で叩きながらそう言うシロウに対し、セミラミスは下顎を摩りながら思考を巡らせる。
「汝の言うことが正しければ、ランサーの脱落はありえんはずだ。第三者がランサーを討ち取ったとでも言うのか? 言っておくが、我の遠見の魔術ではルーラー以外映らなかったぞ?」
「サーヴァントのスキルかもしれません。結果はどうあれランサーの敗退はこちらにもかなりの痛手です。仲間が一人倒れてしまいました」
「仲間? ——駒の間違いであろう?」
「アサシン」
ぴしゃり。
シロウの冷ややかな目線がセミラミスに突き刺さる。それが妙に面白かったのか、セミラミスは口元を小さく歪ませ笑った。
「いやなに、言葉の綾だ。許せ、マスター」
言葉を受けてシロウもそれ以上追求する気はなくなったのか、静かに目を伏せる。
「こちらの残存するサーヴァントはランサーを除いた計6騎。あちらは最高峰の戦力であるセイバーを失い、アサシンとは未合流のため数ではこちらがまだ有利……ですか」
シロウの言う通り、黒と赤どちらも失ったサーヴァントの数は一騎ずつ。それに加え、黒の陣営は合流できていないサーヴァントがいることを考慮すれば、まだ赤の陣営に戦力が傾いていた。
相手がどのようなサーヴァントを有しているのか掴めていないシロウ達だが、それでもバルムンクを使う英霊はまさしく黒の陣営にとっても最高戦力の一角であったに違いない。カルナを失った戦力的マイナスを考慮しても、相手の陣営の力を大幅に削れたことはプラスと考えてもいいだろう。
残り黒が手にしていると思われるサーヴァントで予想がつく強大な敵は、ルーマニア原産の英霊 ヴラド3世くらいだが、ここに懸念事項が一つ産まれていた。
本来ヴラド3世ほどの英雄を呼ぶのであれば、ライダーかランサーでの現界が望ましい。というよりも、それくらいしか適したクラスが無いとも言える。
もし黒の陣営がヴラド3世を召喚しているのであれば、ランサーかライダー、どちらかのステータスが高水準を保っているはずなのだ。
だがここで問題が発生している。
現在シロウ達が情報を掴んでいるのはサーヴァント“五騎”のステータス。その中にあるライダーのクラスは、とてもルーマニアの知名度補正を受けたサーヴァントのステータスとは思えない程のものだった。では残るランサーがヴラド3世なのでは無いかと考えるが、そうもいかない。
そう、“五騎”というのは、未だ合流できていないアサシンを差し引いても一騎少ない数なのだ。
黒の陣営のサーヴァントでステータスが明らかになっているのはいずれのクラス。
セイバー。
アーチャー。
ライダー。
キャスター。
バーサーカー。
この中に、ヴラド3世の最後の適正となり得るランサーは存在していない。
余程、ユグドミレニアがうまく隠蔽しているのか、それともヴラド3世の固有スキルのせいで赤の陣営が認知できていないのか、はたまたそれ以外の何かがあるのか。
どちらにせよ、いまだ明らかにされていない残り一騎のサーヴァント情報に関して、シロウは胸のざわめきを覚えずにはいられなかった。
「しかし、マスターよ。こちらのバーサーカーは単独でミレニア城塞へ突撃。キャスターは能無しの劇作家。セイバーに関しては今から会うため分からぬが、いやはや……先が思いやられるではないか」
思考を埋没させていたシロウは、セミラミスの声でふと我に返る。
その反応を訝しげに思ったセミラミスは、眉間にグッと皺を寄せるが、反面シロウは優しげな笑みを表情として浮上させ、その視線を躱した。
「まだ戦争は始まったばかりです。どうなるかは分かりませんよ。戦争とは戦準備でほぼ勝敗が決まるものです」
「ふん。その点で言うなら、貴様はこの聖杯戦争において一人抜きん出ておるな。何しろ60年待ち望んでいたのだからな。いやその点で話すのであれば、あちらのダーニックという虫けらもは変わらぬか」
シロウはその言葉に無言で頷き、長椅子から立ち上がると祭壇に飾られたキリスト像に祈りを捧げる。
「ですがアサシン。私は勝ちますよ」
この言葉にどれほどの決意がこもっているのか。
それは常人では理解できない範疇の熱量であるが、それをぶつけられた当のセミラミスは涼しげに、ただ静かに微笑んだ。
「当然だ。汝は精々、我を楽しませるがよいぞ」
☆★☆
——自分は一体、魔力供給槽から逃げてなにがしたかったんだ。
そんなどうしようもない自問が何十回、何百回と脳裏に木霊する。
今現在、命の恩人であるアーチャーとライダーは作戦会議のため部屋を出払っており、ホムンクルスが一人いるだけで他は誰もいない。静寂が支配している空間で、ホムンクルスはなにをするでもなく、天井のシミを数えるようにベッドの上から仰ぎ見ていた。
今日、ホムンクルスは初めて死の恐怖というものを味わった。今まで一分おきに正確な鼓動を刻んでいた心臓が、死ぬと分かった瞬間、けたたましいくらいに動き始めたのだ。
そこからの行動は早かったように思える。強化ガラスを魔術で壊し、歩く行為を度外視して鋳造された体を使い逃げ、その結果ライダーに救われた。
一つの文章にすればなんて事のないように思える出来事だが、ホムンクルスに取っては命を救われたという事実がとても重要な事であった。
だがその希望も幾ばくか経てば自然と薄れていく。変わりに現れるのは、垣根無しの絶望だけだ。
——逃げ出したからといってどうする
——あと余命三年という事実にどう反応すればいい
——これからの人生、何を目的に、何を目標にして生きればいい
不安とも呼べる感情がホムンクルスの心を圧死させるべく、重荷となってのしかかる。
なにもかも分からない。己の為すべき事、為したい事が読み取れない。
例え体は完成形として誕生させられたとしても、このホムンクルスの心は生まれたての赤ちゃんのように脆く、儚いものであった。
とにかく目先の目標だけでも何とかしよう。まずは、歩き始める事から始めなければ。
両の足でしっかりと踏み締める。柔らかく脆い足だが、供給槽から逃げ出した時と比べればしっかりとした足取りである。体も倒れることはなさそうだ。ベッドなど、掴めるものさえあれば、この部屋内を隈なく歩くことさえ出来そうな錯覚を覚えた。
とりあえず今は先のことは考えず、歩くことにだけ集中だ。
そうホムンクルスが決意した時、静かにその扉は開けられる。
「……誰だ?」
「やあ、やはりここにいたのか。逃げ出したホムンクルス。良いや、今は魔術師かな?」
ホムンクルスが視線を向けた先、扉の前に立っていたのは、黒のキャスターであるアヴィケブロンであった。