たった一人であの怪獣優生思想を相手取る可能性を前にして、怖くないかといえば嘘になる。戦う術だったダイナゼノンはグリッドナイト同盟と共にフジヨキ台を去った。考え得る最悪の事態を想定して蓬は走る。蟻塚の如く集まった群衆を掻き分け、辿り着いたスクランブル交差点の真ん中で、まるで台風の目のように人々に避けられながら、遥か空を見上げる三つ編みの少年の背中を見つけた時、蓬は深く息を吸い込んだ。
「シズム君‼」
人目も憚らず蓬は叫んだ。辺りの人間に奇異に見られながらも、蓬は一心に見据え続ける。ただの人違いであればどれだけ良かっただろうと、ほんの一時とはいえ同じクラスで見かけた少年の風貌と瓜二つの姿を認めて、蓬は歯を噛み締める。
背中を向けたまま、シズムらしき少年は動かない。生きとし生ける人を意に介さないその雰囲気が、ミステリアスだった彼の面影を更に彷彿とさせる。最後の怪獣の中で対話した時のように隔絶とした距離のままで、蓬は足りない分の覚悟を、夢芽の顔を思い出しながら奮い立たせた。
ピンと指先を伸ばした右手を、蓬は対象に向ける。
もう、この手を使う時が来なければいいと願っていた。
手の甲に刻まれた〝S〟の字によく似た傷跡と向き合いながら、蓬は人差し指と中指、薬指と小指をそれぞれ寄り添わせたまま開いていく。
指の境目からかつてのクラスメイトとよく似た少年の後ろ姿を瞳に捉え、眦を決し声を発する。
「インスタンス――――!!」
それはただ一時、怪獣を振り向かせる〝だけ〟の、蓬の手に備わった不全の力。相手の心臓よりも奥深く、種のような核を掴んで縛り付ける、自由とは程遠い意志の綱引き。
その感触を知る前に――蓬が言い切らぬ内に、少年が振り返った。
息を呑んで彼を見つめる。時が凍ったような瞬間に雑踏も雑音も掻き消えた。一本の線に結ばれたようにお互いを認識しているのに、少年の目線は髪に隠れてよく見えない。あの時のシズムと同じように、少年は何かを言いかけて、
時間が動き出したかのように人々が視界を横切り、過ぎ去った視界の先で、確かにいた筈の彼は音もなく消えていた。初めからそこにいなかったかのように、蓬だけが取り残された。
安堵はない。ただ、何かを掴みかけた右手を伸ばし切って、蓬は立ち尽くす。仮に今までの事がただの幻なら、自分が向かうべきは病院になるだろう。
全ては杞憂。怪獣はもう、この世界に残っていない。
それでも、想う。
見えないものを見ようとして、いなくなった人を探し続けるのは、もうたくさんで。
交差点を行き交う人々は、誰も蓬に目もくれない。これから行う思い付きだって、きっと気にも留めないだろう。今度は一呼吸の間もおかず、蓬は寝起きのルーティンのように何気なく、指を開いたまま右手をくるりと返した。
シズムが、自らの内側の怪獣を解き放ったように、指の境目から世界を覗き見た。
「――――ドミネーション」
混線した回線がクリアになり、ノイズというノイズが蓬の五感から締め出され、見る間に視界が都会の風景から書き換わる。
回路の中に閉じ込められたかのように三色の線が縦横無尽に駆け巡った、広いようで狭い世界。赤青緑と信号のように明るい色を際立たせた、夜よりも暗い空間。
蓬の中に在る怪獣の世界で、対峙する者はいない。
『やっぱり君は、本物の怪獣使いの才能があるみたいだね』
辺りに響いた、聞き覚えのある少年の乾いた声を聴いて、蓬は驚愕と同時に目を伏せる。背中に感じる〝彼〟の方へ、振り返ることはしなかった。
「……そこに居たんだ、シズム君」
絡まった縁は、まだ断ち切れていない。そこに敵も味方もないのだと――言葉に出来ない懐かしさだけが、掌中に収まっている。蓬が感慨に浸る間もなく、シズムの声は尚も続く。
『君は一度、怪獣になった俺と繋がった。ここに居る俺は、その繋がりから流れ込んだ余剰に過ぎない。怪獣の力は理の外にある。君達の境界の綻びが、君の中に居る俺を呼んだんだ』
淡々と語る物言いは、その言葉の是非よりも真実味を帯びて耳に入り込んでくる。どこか人をかどかわすような、それでいて導くような、人の理解を離れた怪獣の思想。彼を始めとした怪獣使いは、本来なら遥か昔の人間で、怪獣によってその身体が滅びないよう繋ぎ止められていた。広がる痣に苦しめられていたガウマを、蓬も目撃している。怪獣の力の有無はそれだけ怪獣使いにとって影響を及ぼし、それは未成熟な蓬の才でも例外ではないのだと、今起きている現実を受け入れた。この残り火が篝火にならないよう、火の始末をつけるのが蓬の使命。頭でそうとわかっているのに、身構える気にはなれなかった。
「……友達が言ってた。今日は、死者のお祭りだって」
『自由に受け取ればいいよ。それが君達の理屈なら。もうとっくに、この世界から怪獣は失われたんだから』
自分の思想にすら執着がないのか、シズムはどこまでも淡々としている。彼とは、戦うことでしか話し合えなかった。わかり合えないことだけわかって、互いの正しさを押し付けるならいつまでも平行線で、残滓に過ぎない彼と、あといくつ言葉を交わせるだろう。そう思うと、予てからの悔いは堰を切って溢れ出した。
「でも、シズム君が俺の中に残ってるってことは、シズム君の心残りだって、どこかにあるんじゃないかな……。俺は、知りたいよ。シズム君の事も」
怪獣の代弁者のように振る舞う、シズムという少年の人物像は、今に至るまでも掴み切れない。怪獣優生思想なんて大仰な名前を名乗っても、蓬にとってはクラスメイト。好きな教科や嫌いな教科、昨日見たテレビの話もしたりして、そんな未来があったかもしれない、蓬の平凡な日常の内側にいた人。
自分の未練を他人に押し着せる烏滸がましさを、余計な真似だと自分で思う。怪獣に頼るでもなく誰かを繋ぎ止めるのなら、時に強引な手段も必要になるのだと、お節介なあの人の顔が思い浮かぶ。力を貸して欲しいとは言わない。言葉が届くかは、シズム次第だから。
無数の回路に縛られた世界で、無言の間が空いた。
背中を向けたままそうしていると、彼がいなくなったのかと錯覚する。指の境目に眼を押し付けたまま、瞬きの合間にはこの夢から醒めるような不安が込み上げた。
『……帽子』
「え?」
ぽつりと、神妙な雰囲気にそぐわない単語が出たせいで、蓬は思わず聞き返す。さっきまで世界の危機が肩に乗せられていた気がするのに、落差に戸惑う蓬を脇に話は進む。
『俺の帽子、落としたままだから。落し物は拾った人が届ける、それが君達のルールでしょ? だからたぶん、見つけた人が困ってる』
まるで深刻さがないのに、彼が怪獣の何たるかを語るように言いうものだから、一人だけ肩肘張っていた蓬の立つ瀬がなくなる。プールサイドを走らないよう指摘されたあの日のことも、校内に落ちていたトマトージュースの紙パックを拾い捨てたシズムの事も、蓬は全部憶えている。怪獣で世の中をひっくり返そうと革命を目論んでいても、彼の人となりに矛盾はなくて、それがやけにおかしかった。
「……ははっ、あははっ」
『……何がおかしいの?』
蓬の笑い声に怪訝とするシズムの反応すら、余計にそのおかしさを加速させた。初めて会った時からそうだった。彼が蓬に示すのは純粋な興味のみ。その在り方がまるで初めて遊ぶゲームのルールを訊く子供のようで、憎み切れずにいる。
最初に歩み寄ってくれたのは、シズムの方だから。お腹を抱えそうなくらいくつくつと笑って、悪気はなかったとだけ、伝えたくて。
「ごめん。わかんない、わかんないけど……それがシズム君なんだなって」
『……』
「ねぇ、シズム君」
後ろに立つ彼は答えない。
でも今は、気配だけならわかる。
怪獣の力は常識を覆す。その可能性を最も重視しているシズムの前でなら、どんなに有り得ないことでも口にしていい気がした。どこかで生き返っているかもしれないお姫様と会いたいと、自分の目的をガウマが吐露した時、その奇跡に夢芽が惹かれたように、今思えばあれも怪獣の思想の入り口であったかもしれない。何かに縋りたくなる事なんてたくさんある。例えばそれは神様で、例えばそれは怪獣で、シズムはその形や色を具体的に知っていた。彼の考えに染まって、同じ土俵に立つことはもう出来ない。それでも蓬は、ただのクラスメイトに言わずにはいられなかった。
「――もしも、誰も傷つけずにまた会えたら、その時はさ、一緒に串カツ、食べに行かない?」
それがどれだけ虫の良い話でも、綺麗ごとでも。
最先端の怪獣使いとしてでなく、〝麻中蓬〟として、シズムと対話を求める。
『……どうして? 食事なんて、俺には必要ないけど』
本物の怪獣使いは案の定、人の道理に疎かった。シズムの言う通り彼が食事をしている風景を、蓬は見た覚えがない。恐らくはそれだけに留まらず、彼は人としての機能に囚われていないのだろう。眠るという概念すら、忘れているのかもしれない。生物としての活動のあらゆる欠点を削ぎ落として、一人で完結している。他人を必要としない生き方は、それが叶うならどれだけ素晴らしい事だろう。両親の離婚に振り回される事も、変わった名字で他人を気遣わせる事も、母親の再婚相手を煩わしく思う事もきっとない。この世のありとあらゆることがしがらみなら、蓬も心から同調する。でも、それだけじゃなかったから。
「俺、好きなんだ、串カツ。無駄になるかもしれないけど、もしもシズム君の口にも合ったら、俺は嬉しい」
お腹が減らないと、一緒にご飯も食べられない。
あの河川敷でお腹を空かせたガウマと会った時、全てが始まった。
あの人が何もかも完璧だったなら、蓬はきっとここにはいない。夢芽や暦やちせだって、一生集まる事のない赤の他人だった。支える事も支えられる事も全部必要で、あの高架下の寄り道が、今の蓬を形作っている。
何もかもが偶然で、始めは億劫だったガウマとの付き合いが、傷と血肉になっていく。自分を巻き込んでくれたあの人のように、シズムとも向き合えたら良い。背中合わせにそう祈って、蓬は目を伏せた。
『……やっぱりわからないな、君は。こういう時は、どんな反応すればいいの?』
まるで同級生との会話にもルールがあるかのようにシズムはそう尋ねた。返答の前に置かれた一泊の間は彼の関心を少しでも惹けたのだと、自惚れてもいいのだろうか。お互いの顔も見えないまま、蓬は絵空事を重ね続ける。
「笑ったら、いいと思う」
冗談が得意な大切な女の子の悪癖が、お節介をアシストする。
言い切ると同時に瞼を下ろして、シズムの結論を待ち侘びた。いつまで経っても返事は来なくて、目を見開いたその時には、世界は光と音を取り戻していた。
鳴り響く歩行者信号の音色。
静止した世界が動き出したかのように、街中の雑踏が息を吹き返す。
ネオンの明かりが照らす看板にひしめいた街を背景にして、遠く陽炎のように、シズムは蓬の先に立っている。
振り返って、蓬を見つめている。
彼の瞳は前髪に隠れて、表情は上手く掴めない。その口許が微かに綻んでいるように見えたのは蓬の願望かもしれなくて、白昼夢染みた現実を補強するように、彼の周りを忘れようもない人達が囲っていた。
白を基調として各々が左袖に異なる色のラインを施した、人目を惹く煌びやかな軍服。その派手さに見合った美貌を放つ女性がいた。着崩したその衣装に負けじと真っ赤な頭髪を片側だけ垂らした強面の男も、人の良さそうな雰囲気のマッシュヘアーの青年も、蓬はみんな憶えている。
誰の目にも留まらず、ここにはいない人のように並ぶ彼らに、呼びかける術を蓬は持たなかった。
今宵はハロウィン――死者のお祭りはもう幕を引く頃合いで、蓬は怪獣を支配する手を下ろす。心の片隅に置いていた小さな疑念。怪獣優生思想と雌雄を決したという事は、彼らを終わらせたという事に他ならない。怪獣となったシズムが撒き散らしていたのは何者をも拒絶する反発の力で、5000年前から一度蘇った彼らが降りかかった死そのものを、もう一度否定しないという保証もどこにもない。彼らの未練に手向けを贈る資格は蓬にはない。それでも彼らが、この世に留まらない事を選ぶというのなら、それは安らかな眠りに、繋がってくれるだろうか。
スクランブル交差点を埋め尽くす勢いで人々がなだれ込む。怪獣優生思想の影法師は濁流に呑まれて見えなくなった。残された蓬の肩に誰かがぶつかる。どれくらいここに立っていたのだろうか、永遠のようで一瞬のようで、この夜どれだけ歩いても感じなかった疲労が全身に圧し掛かる。経験から推測するなら、インスタンス・ドミネーションの反動。人波に乗ろうとしてもフラついて、すれ違う人達が投げる視線が痛かった。
「蓬!」
苦し紛れに行進に混ざろうと歩き出した時、その声は鮮明に蓬の耳に届いた。一体どれだけ探してくれたのだろう。走るのだって得意じゃない筈なのに、振り返れば人混みを掻い潜る夢芽の白装束姿があった。
蓬のパーカーの裾を必死に掴んで、夢芽は息を切らして膝に右手をつく。横断歩道の中央で立ち止まる蓬達を邪魔臭そうに避けていく人達も、今は気にならなかった。
「……夢芽。戻るまで、待ってって」
「ハァ……蓬が……急に走り出すから……心配、したんだよ……」
ぎゅっと裾を掴む力は思ったよりも強くて、喪う痛みを知っている彼女を不安にさせた申し訳なさが今更募った。夢芽が顔を上げるまで待って、蓬は伝えるべき事を真っ先に言う。
「……ごめん。これでたぶん、全部済んだから」
「……済んだって、何が?」
怒り心頭とは言わないまでも、夢芽の低い声音には一人だけ納得している蓬を責め立てるトーンが滲んでいた。到底すぐには話せる自信はなくて、世渡りの処世術として染み付いた愛想笑いを浮かべる。
「取り敢えず、説明は後で」
「一番大事な事なんだけど……」
夢芽の真顔がどんどん険しくなっていく。蓬の小手先なんて通じない。躊躇なく壁を破ってくる。そんな彼女だから、時に煩わしかったり、時に有難かったり、そんな気持ちを繰り返す。探してくれたありがとうも、心配させてごめんも、口にしないと伝わらない。蓬に呆れて裾から離れた夢芽の左手に、蓬は言葉よりも先に右手を伸ばす。未知を掴んだ感覚が、繋いだ手の感触に上書きされる。夢芽の目はまだ非難を訴えてるけど、心なしかその口許も柔らかく緩んで見えた。これだけ近くに居てもわからない女の子と、蓬は歩幅を合わせる。
今日何度もあったように、誰かのジャケットと肩が触れかけた。
視界の隅を過ぎ去った、ピンク色の髪。
さらしのように巻いた、黄色の包帯。
蓬よりも頭一つ分高い背丈から降り注ぐ、囃し立てるような文句。
「――もう離すんじゃねぇぞ
――蓬」
懐かしい声がした。
忘れようもない声だった。
忘れたくない声だった。
振り返った先に声の主は探せなくて、この夜を彷徨った〝怪獣使い〟に想いを馳せる。
いつの日か花火の夜に蓬達を見守ってくれたあの人は、きっと死者のお祭りでも顔を出さないんだろう。事の真偽よりも何よりも、彼の存在を感じ取れた事が、泣きたくなるくらい嬉しかった。眦にこみ上げた涙を飲み込む。それは本当の彼に会った時まで、取っておこうと思った。
蓬は前に向き直る。
誰かに押された分肩が近付いた夢芽の方に、より深く手を握り込む。
相手を確かめるように、目を合わせて、
「――離さないでね」
二度とはぐれないように、蓬はそう口にした。
「――離れないでね」
それが当然の事のように、夢芽が微笑み返した。
都市に満ちた活気と談笑が、雑踏に紛れる蓬や夢芽を、その他の誰かに変えていく。すれ違う人の数だけある物語を見過ごして、死者の祭りに繋ぎ合う生者の手。夜の帳の下りた街を彼女の隣で、青信号の光を潜る。