完全にしくった。
今すぐにでも走り出したい衝動を堪えながら、麻中蓬は焦り気味に校内を歩く。
まだ日の高いお昼休み。十月末を迎えたフジヨキ台高校の廊下の窓には、剥がし忘れた学園祭用の張り紙がチラホラ目に留まる。名残惜しいお祭りの痕跡はそれだけでなく、学校には男女一組で歩く面々が増えたようにも思う。学園祭をきっかけにして、浮足立った気持ちで成立したカップルも、それに紛れて以前から付き合っていたカップルも表立って出てくるようになったのだろう。数にすれば本当に些細な変化かもしれないが、敏感にも意識してしまうのは、蓬自身も付き合ってる人がいるからで――目下、彼女への詫びと言い訳を考えてる真っ最中である。
南夢芽。秋の空のように読めない彼女の心模様にさざ波を立てたのは、一時限前の授業の事。
今日の体育の内容は、バスケ。蓬の得意分野である。
彼女の前だから、という見栄で熱が入ってしまった事は弁解のしようもない事実であり、実際蓬が点を取る度に振り向けば、どこか誇らしそうに顔を綻ばせる夢芽と目が合った。でもそんな儚い夢も長くは続かず、現役バスケ部のブロックを何度も抜き去って集めた注目はいつしか多くを巻き込んで、図らずも蓬は黄色い歓声を浴びる運びとなった。
繰り返すも、動機は恋人への見栄である。
しかし当の夢芽本人は、外野の女子に思わず手を振った蓬の事を、快くは思わなかった。
まだ何も話してこそいないが、授業の終わり際、警戒する猫の様に尖った雰囲気を放った夢芽の仏頂面からは、三か月以上の付き合いとなった蓬には十二分に察せられる不機嫌がありありと見て取れた。
ので、現在進行形で彼女を探し、蓬は奔走中である。
学園祭の時と変わらないな――夢芽の気質を知りながら原因を作ったのは自分なのに、彼女に歩み寄っていく過程を、どこか楽しんでいる自分もいる。ナイトさんの事は言えない。もうこの街を去ってしまった素直じゃない大人の人を思い出して、一階、二階と階段を上がる。バスケ後の疲労感は、少しも身体に残っていない。先の一件の言い訳になるが、最近妙に身体の調子が良過ぎるのだ。バイトも学業も交際も並行して、疲労を伴わず得る充実感はいっそ怖いくらいで、これも彼女といるからだろうかと、単純な自分が改めておかしい。
渡り廊下に出る最後の階段。降りてくる男子とすれ違い様、視界の端に飛び込む白い軍帽。
顔の形の様な金の帽章は忘れようもなく、階下に降りていく学生を目で追う。確認出来たのはクラスに一人はいそうな短髪の男子で、蓬の知る奇抜な格好の転校生とは似ても似つかなかった。
「……な訳ないか」
人違いだった事にほっとする。きっと、今朝の事で錯覚してしまったのだろう。もしまた会えたとしても、蓬個人では対処のしようもない。嵐のように過ぎ去って街に爪痕を残した出来事と、〝彼〟は切っても切り離せない関係だから、〝彼〟が再び現れれば、それは凶兆に他ならない。対抗する術をもう持たない蓬にとっては、この先会わない方が望ましい世界の住人。
でも、シズム君のことは――
もう少しだけ、わかりたかったと思う。
お互いに譲れなかった選択。結局目を合わせることのなかった対峙のイメージを振り払い、渡り廊下の戸口の前に立ち止まる。窓ガラスにはハロウィンの張り紙が、目線の位置に貼られていた。
開けっ放しの通り口の先、鉄柵に乗りかかる様に腕を組んだ女子高生の姿を横から、安堵と共に蓬は見つめる。
明るいミルクティカラーベージュのロングヘア―から覗ける横顔は、檻に閉ざされた動物の様につまらなげな拒絶感で周囲を遮断している。あ、怒ってるなと蓬の予想は確信に変わり、それこそゲージ越しの猫に手を伸ばすその前にと、漏れかけたため息をぐっと飲み込む。
鉄柵の上を橋の様に見立てて人差し指を歩かせた。こんな時の彼女のパーソナルエリアを不用意に詰めるのは危険だと経験則が物語っている。下手に言葉を選べば、要点を得ない会話を彼女は聞き入れない。数多浮かぶ選択肢から一つに絞り、蓬は切り出した。
「――夢芽。……一緒に、ご飯食べに行こう?」
緑の瞳を横に滑らせて、南夢芽がこちらを振り向く。
眩い日に晒されながらも、朴訥とした表情は感情が読み辛い。
流れる雲が渡り廊下を影で覆う。夢芽は暗がりに沈むようにまた俯いて、ぽつりと、
「……ここでよくない? 教室で食べなくても」
抑揚のない声に滲む言葉通りの嫌気。一応会話はしてくれることに蓬は内心ほっとして、体育の件は避けながら当たり障りなく話を進める。
「教室で食べるだけでも、皆夢芽に慣れてくから。昼休みくらいどこでもって、思うかもだけど……学園祭の後だし、皆も夢芽の事少しずつ、受け入れてきてるみたいだし」
ピクリとも動かない横顔。その怜悧な表情がともすれば怒っているように見えたり、彼女が無意識に生む誤解は数知れず。付き合ってる蓬にはそうでなくとも、客観的な南夢芽の印象は〝近寄りがたい〟や〝浮いている〟という評価に突き詰まる。だが一夏の人間関係や、彼女自身のささやかな勇気の歩み寄りに、周囲の見方が変化してるのもまた事実で、蓬はいつも通りに右手を差し伸べる。
「夢芽がクラスに馴染んでくれたら、俺は嬉しい。だから、」
彼女がここで閉じ籠る時は、誰かに手を引かれたがってる時だ。
その特定の〝誰か〟に視線を遣って、夢芽は鉄柵に寄りかかって乗り上げていた足を渋々下ろしていく。
「別にご飯くらい、皆で食べても味変わらなくない?」
言いながら蓬の手を取って並ぶ夢芽の顔はまだ硬い。繋ぐ手の感触も疑念を抱えているかのように心身が離れて、触れるだけに留まっている。むくれてる時は分かり易いと思えるようになったのは、彼女が甘えてくれている証だろうか。それが思い上がりにならないよう努めて、蓬は慣れた苦笑を零す。
「情操教育大否定。……まだ、怒ってる?」
「……なんで?」
怒ってる。短い問答に答えを得て、蓬は再度考え込む。まさか自分がバスケで張り切ったから、女子の賞賛を浴びて恋人の顰蹙を買ったのだと理解はしても頭から説明は出来ない。具体のない抽象的なやり取りに互いの感情だけは交換してるのに、正解のない異性との付き合い。手は繋いでいるのに顔を合わせてくれない夢芽の機嫌を直す為にフル回転した思考は、先刻のハロウィンの張り紙をくっきりと頭に浮かばせた。
「夢芽。十月三十一日の放課後って、空いてる?」
「……」
漸く彼女が目だけでなく顔ごと動かした。彼女からやや見上げてくる角度になると、蓬は背丈の成長を実感する。期待を秘めた澄んだ緑の瞳。真摯に見返して、蓬は言う。
「ハロウィンのイベント。一緒に行きませんか? 二人で」
見つめ合って、息を呑む間が空いた。ともすれば眠たそうにも見える夢芽の目は少し見開かれて、怒りを逃がして平時に戻る。
「……蓬。その日、クラスで学園祭の打ち上げだけど。そのハロウィンで」
「あっ、でし、たっけ……」
勢いで墓穴を掘った後悔。夢芽の機嫌を優先するあまり、大事なクラス行事を失念していた。何も言わなければ夢芽も蓬も参加していたところを、態々〝二人〟と特別感を煽れば、それを見逃す彼女ではない。案の定、氷の様に頑なだったその口元は綻んでいた。
「いいよ。二人で抜け出そう」
「……そういう意味じゃないんすけど」
「蓬が言い出しっぺだから。約束だよ」
さっきまで引き籠ってたのが嘘みたいに、彼女が前に踏み出す。
手を引かれならがら告げられた特別なフレーズ。世の中で守らなければならない大切な物。こと今にあたっては、全くもって厄介な土産を残してくれたものだと蓬は思う。それを教えてくれたあの人の顔を思い出したら、破る事なんて絶対に出来ない。蓬の心情を見越してるから、夢芽は悪戯好きな子供の様に微笑うのだ。
「……はい、約束」
何度も心奪われたその笑顔の温度は、日々と共に変わりつつある。
手を繋ぐことの恥ずかしさも段々と薄くなって、日常の中の小さな非日常も、掌に収まっていく。
歩幅を合わせながら、長さも細さも違う柔らかな指が絡まる。
そっちは恥ずかしくない?――耳を赤くして蓬は言う。
慣れたつもりだったでしょ?――夢芽が不敵に微笑う。
ぶ厚い雲が通り過ぎて、並んだ足が日向を出る。