一
その人物が闇の中で最初に感じたものは、激しい痛みと閉塞感だった。痛みが身体のどこからくるか探ってみれば、身体中からだった。全身のいたる所の骨が軋んでいる。棺桶に閉じ込められ、そのまま押し潰されていくように感じた。
そして苦痛を伴う暗黒は恐怖を生み出した。自分は永遠にこのままなのではないかと。逃れる術を思案しても、何も思い浮かばない。果てしない不安に駆られ、息が詰まりだす。
すると、闇の中に何者かの声が響き始めた。聞き取ることはできなかったが、その声が現実と悪夢の境をさまよう自分へ覚醒を促す呼び声だということはわかった。無我夢中で全神経を呼び声へと傾ける。
重い瞼がゆっくりと開いた。
「ディーナ! 目が覚めたんだな! 本当によかった!」
責苦のような夢から解放されたその人物の顔を、男が覗きこんでいる。呼び声の主だ。
「お前、十ヶ月以上も眠ったままだったんだぜ! 心配させやがって…!」
暗く渋い紫色の髪が後頭部に丸みを帯びながら首元まで伸びており、整った輪郭を形作っている。切れ長な深紅の瞳の中には安堵の光が輝いていた。
ディーナと呼ばれた人物は、口を開かずただ呆けた様子で彼を見つめ返している。
「まだ意識がはっきりしてないな…。水と、何か食えるもんを持ってくるから、ちょっと待ってな」
男はディーナが横になっている寝台の側から軽快に立ち上がり、家の外へ出て行った。男がこちらに背を向けた時、ディーナは彼の背中にコウモリのような黒い羽が生えていることに気づいた。男が出て行った後は、寝台から視線だけを動かし家の中をぼんやりと眺め始めた。
簡素な木造の平屋である。目についた家具は、男が使っていると思われる寝台と、石造りの暖炉と、本が数冊仕舞われている書棚、そして丸太脚のテーブルと椅子くらいだ。
部屋の景色が見慣れてくると今度は、自分の身体をどうにか動かしたいと考えた。長きにわたる眠りは驚くほど身体から筋力を奪っており、思うように力が入らない。慎重に右向きに寝返りを打ち、左手に力を入れて起きあがろうとする。すると左手が柔らかい羽毛に触れた。白い鳥類の翼である。しばらく呆然とその翼を触っていたが、それが先程の男と同じように自らの背中に生えている羽だということに気づいた。
それから小さな呻き声をあげて、やっとの思いで上体を起こした。正面を向くと、白い羽の生えた一人の女と目が合った。瞳を凝らすと、そこに立っていたのは人ではなく姿見だった。
鏡の中の女は、腰まで真っ直ぐに伸びた栗色の髪と新緑の様な鮮やかな瞳を持っている。実年齢よりもあどけなさを感じさせる風貌だ。
昏睡状態から目覚めたばかりの彼女の佇まいはひどく弱々しく、顔面からは血の気が失われている。そしてディーナは鏡に映るものが自分自身だと確信することができなかった。単に、長い間臥せっていたため変わり果てた自らの容姿に落胆したからではない。自分の顔を覚えていないからだった。顔だけではなく、自らに関する全ての記憶が彼女から欠如していた。
二
「おい、勝手に動いて大丈夫なのか? 無理するなよ」
黒い羽を持つ男が水飲みと食事の皿を両手に持ちディーナの側へ舞い戻った。ディーナは男から水飲みを手渡され、喉を潤した。そして男の顔色を窺いながら消え入るような声で尋ねた。
「ディーナというのは…私の名前なの? あなたは……誰?」
予想どおり男の顔が凍りつく。
「まさか自分のことまで…。本当に俺の名前すら言えないのか……!?」
男の問いにディーナは頷くことしかできなかった。男と自分の過去の関係は把握できないが、自分を悪夢から呼び起こし、懸命に世話をしてくれる彼を傷つけたことを心苦しく思った。
男はうなだれ歯を食いしばったように見えたが、すぐに顔を上げた。
「とりあえず、食え!」
男は匙で食事をすくい、ディーナの眼前へ突き出した。ディーナは言われるがままに食事を口に含む。茹でた芋を潰して調味料を加え作られた料理は、彼女の身体に染み渡った。久方ぶりの食の喜びにディーナの顔が綻びると、男も微笑んだ。
食事が終わると、男は話し始めた。
「お前はディーナで、俺はゼロ。ここはお前と俺が二人で暮らしてる家。そう、ここは…俺達だけの箱庭だ」
「箱庭…」
「俺達はまぁ…兄妹みたいなやつだな! 事故で大怪我をして眠ったままのお前を、俺が今日まで甲斐甲斐しーく看病してたって訳」
空になった食器を片しながら、ゼロは努めて明るく当時を振り返った。
ディーナは失った記憶を取り戻す手がかりを少しでも掴もうとゼロに問いを投げかけた。
「私はどうして事故に遭ってしまったの…?」
「ある日、俺は高熱を出して寝込んでしまったんだ。俺の様子を見兼ねたお前は山へ薬草を取りに行くと言って家を出て行った。その日は酷い嵐で…雷も鳴っていた。お前は山の中で落雷に巻き込まれたんだと思う」
「病気のあなたを一人残して山へ薬草を取りに行ったなんて…お医者様を呼べなかったの?」
ゼロは決まりが悪そうに笑った。
「それは…見てのとおり俺達は慎ましい暮らしをしてたから…つまり、医者にかかる金がなかったんだ。そして、嵐が去って、俺が山の中へ入って行くと、お前が血まみれで倒れているのが見つかった」
ゼロの瞳の奥に虚ろな陰が浮かんだ。事故現場の様子を思い返して、その凄惨さがもたらした衝撃が蘇ったのだろうとディーナは思った。
「まあいいさ。とにかくこうしてお前が目を覚ましてくれたんだからな! そのうち俺達のことも思い出せるだろ」
ゼロの表情に明るさが戻る。
「今日はもう休め。ずっと眠ったままだったんだ、あんまり長く話してるとくたびれちまうぜ」
「あの…ゼロ、さん? もう一つ聞きたいことが―――」
「ゼロでいい。俺達は兄妹みたいなもんだって言ったろ。どうした?」
ディーナはゼロに残っていた疑問を問うた。
「俺達の背中の羽? 本当に綺麗さっぱり忘れちまったんだな…」
ディーナを寝台に寝かせ、毛布をかけ直してやりながら、ゼロは苦笑した。
「この世界の人間には誰にでも生えているものだ。飛ぶことはできないから、ただの飾りだと思っていればいい」
寝台の縁に腰掛けながら、ゼロはそっとディーナの頬を撫でた。一通りの謎が解け、食欲が満たされた彼女の元に心地よい疲労感と眠気が訪れた。ゼロに見守られる中、再び瞼を閉じると、あっという間に眠りの中へ落ちていった。闇の中で恐怖と苦痛を受ける夢を見ることのない、回復に向かうための安らかな眠りだった。
三
ディーナが意識を取り戻してから一週間が経過した。彼女は寝台から足を降ろし、約十ヶ月ぶりに地面に立つ感触を味わった。初めは視界の高さが大きく変わった上に平衡感覚が保てず目眩がしたが、壁に手を突きながら呼吸を整え、着実に歩みを進めた。そして玄関先までたどり着き、水汲みから帰ってきたゼロを出迎えることができた。
「ゼロ、おかえりなさい」
「お前、もう歩けるのか…!?」
ゼロは慌てて水の入った桶を地面に置いた後、彼女の華奢な両肩を抱き抱え、椅子に座らせた。
「うん、自分でもびっくりするくらい気分もよくなってきたの。ゼロのおかげだね」
嬉々として自分の身体の状態を話すディーナの顔色は血色がよく、一週間前に比べ強い生命力を感じさせた。そして表情が非常に豊かになった。ディーナを包み始めた柔和な雰囲気は、生来彼女が持ち合わせていたものだと窺い知れる。
「頼むから、無理はするなよ」
ゼロは安心してため息を吐き、もう一方の椅子へ座った。
「それと…お前が歩けるようになったら伝えようと思っていたことがある」
ゼロは今までになく深刻な面持ちでディーナを見据えながら口を開いた。
「記憶喪失になっているお前は、この世界のことも何もわからないままだろう? だから、お前の体力が完全に回復して、この世界の常識に慣れるまで、勝手に家の外には、出ないで欲しいんだ」
彼のただならぬ様子に押され、ディーナは思わず居住まいを正した。
「俺達の家があるこの丘の下には、街がある。街にいる連中の中で、羽の色が黒い人間には乱暴な奴が多いんだ。事情を知らないお前が街に出ると…危険な目にあうかもしれない」
目の前にいる黒い羽の青年は、自分の健康の回復を願って尽くしてくれているというのに、自分に危害を加える黒い羽の者もいるという話がディーナには想像がつかなかった。ただ、ゼロが自分を欺くための嘘を話している様子も感じられなかった。
「しばらくの間、街への買い出しなんかは俺が一人で行ってくる。だから、約束してくれ。俺がいいと言うまで、絶対に外に出ないと…!」
緊張で強張ったゼロの表情を少しでも和らげようと、ディーナは精一杯の笑顔で彼の懇願に答えた。
「わかった、絶対に外に出ない。だから、そんなに心配そうな顔をしないで…」
張り詰めていた空気が和み、ゼロはふっと笑みを溢した。
「よっし、それじゃあこれからこの家でちゃんとリハビリしなくっちゃな!」
ディーナは力強く頷いた。
「はやく私の記憶が戻って、一緒に街へ出かけられるようになるといいな」
ゼロは微笑みを湛えるだけであった。
四
箱庭での生活は穏やかに過ぎていった。ディーナの体力はみるみる回復していき、いつしか家の仕事もこなせるようになった。二人で薪を割り、ささやかな畑から野菜を収穫し、近くの川で魚を釣り、隙間風や雨漏りが起こる家の中を修繕したりした。
ディーナは無断で家の外へ出ないというゼロとの約束を従順に守った。そもそも、彼との生活が愉快でしょうがなかったため、外の世界には大して興味がわかなかったというのが実情である。決して余裕のある生活ではなかったが、ディーナにとって箱庭での日々は満ち足りたものであった。ただ一つ、失われた自身の記憶が彼女を苦しめていた。
そのうち、二人が暮らす家に冬が訪れた。家の周りの木立は葉を落とし、街から離れたわびしい場所も相まって物悲しい眺めを生み出していた。そしてある日、家の周囲が冬化粧に染まった。
雪の降りしきる夜、ディーナが身を屈めて暖炉に薪をくべていると、ゼロが隣に座り、ディーナの肩に毛布をかけた。ディーナもゼロの肩へと毛布を回し、二人は一枚の毛布にくるまりながら、暖炉の火にあたった。暖炉の火が爆ぜる音以外、二人の世界に音は無かった。
二人はしばらく暖炉の火を眺めていたが、やがてディーナが囁くようにゼロに語りかけた。
「私ね、あなたがいなければ今頃こうして生きていなかったと思ってる。あなたは私の命の恩人で、きっと記憶を無くす前の私にとってもかけがえのない人だったと思う」
ゼロは沈黙したまま炎の揺れを見つめている。
「だから、一日でもはやくあなたとの思い出を取り戻したいの。それなのに…どうしても思い出せない。事故にあったという時のこと、思い出そうとすると、頭が割れそうになって、酷い吐き気に襲われて…息ができなくなってしまう…。本当に……ごめんなさい」
感情が堰を切ったように溢れ出し、ディーナの声を震わせた。ゼロは首を横に振った。
「無理に思い出そうとしなくていいんだ。謝る必要もない。それに俺はむしろ…このままでもいいと思ってる」
「…どうして?」
「お前が事故にあう前もさ、俺達にはいろいろ…思い出したくもないようなしんどいことがあったんだ。その時俺はお前に一番伝えたかったことを伝えきれなくて…そしたらお前は事故にあって、大怪我を負ってしまった。お前が眠り続けている間、ずっと後悔してたよ。どうしてもっとお前を大切にできなかったんだろう、お前が側にいてくれれば、他には何もいらないのに…って」
懺悔のようなゼロの言葉に、ディーナは互いが相手のために苦しみを背負っていたのだと知った。
「だからお前が目を覚ましてくれた時、俺は誓ったんだ。たとえお前の記憶が戻らなくても、俺はお前とのこれからの生活を守り抜こうって。もう迷ったりしない。お前のためならどんなことでもできる。例え、それがどんな罪に問われようとも」
そして、ディーナへはにかんでみせた。
「悪りぃ、結局俺の独り善がりだな! でもよ、記憶を取り戻すことが辛いなら、俺のために無理して思い出そうとしなくていいんだ。俺は今のお前とこの暮らしが続けばそれでいいと本気で思ってる。お前にどんなに嫌われようと、この気持ちだけは変わらない」
今、ディーナに向けられているゼロの眼差しや言動の一つ一つに、嘘偽りが無いことが彼女には分かった。暖炉のせいばかりでなく、身体の奥がじんじんと温まっていくのを感じた。
「嫌いになんて…なるわけない」
ディーナは潤んだ両目尻を人差し指で拭い、ゼロへ微笑みかけた。そしてゼロは胸の中にディーナを抱き留めた。乾いた音を立てて毛布が床に落ちる。
「ずっと…ずっと一緒にいような…」
ゼロの心臓の鼓動を聞きながら、ディーナは瞼を閉じた。暖炉の炎が二人の翼を照らし、背後の床に巨大な影を映し出していた。
五
ディーナが意識を取り戻してから、一年余りが経とうとしていた。水を汲みに来た川のほとりに咲き始めた花が、ディーナが目覚めたばかりの頃ゼロが枕元に飾ってくれたものと同じであった。薫風に吹かれ、ディーナは肺の中いっぱいに外気を吸い込み、水桶を持って家路を急いだ。丘の下の街へ買い出しに出かけているゼロが間もなく帰宅するため、食事の準備を済ませる必要があった。
ディーナが家に着いて間もなく、突然玄関の戸が荒々しく叩かれた。ディーナは身を竦めて玄関を見やった。
「我々は異端審問官です! ゼロ殿、中にいらっしゃいますか? 扉を開けてください!」
威圧的な男の声が、ゼロの名を連呼している。ディーナはゼロの不在を説明し早々に立ち去ってもらおうと、玄関に近づき鍵を開けた。すると、大きな音を立てて扉が開かれ、男が二人どかどかとディーナに一瞥もくれず部屋に踏み込んで来た。
漆黒の法衣と帽子に身を包み、背中に黒い羽を生やした壮年と中年の男達である。意識を取り戻してからゼロ以外の人間を見たことがなかったディーナは、男達の姿と異様な雰囲気に動揺を隠せなかった。
「家主は不在のようだ。戻るまでここで待機するとしよう」
「あの、家に何の御用で―――」
ディーナが口を開くや否や、壮年の男が彼女の右頬に強烈な平手打ちを食らわせた。ディーナはよろめきその場に倒れ込む。口の中が切れて、血の味が広がった。
「家畜の分際で、気安く話しかけるな!」
「まったく、奴隷に服まで着せるなんて…ここに住むのがオカルトマニアの変人だという噂は本当だったのか」
中年の男が嘆息した。ディーナは右頬を押さえたまま起き上がることができず放心状態になっている。
「どうせこの奴隷もそのうち殺されるんだ、主人が帰ってくるまでの暇つぶしに痛め付けてやろうか! 白い羽にしては上玉だ」
壮年の男がディーナの身体になめるような視線を投げ、いやらしく笑いながら彼女の髪を乱暴につかみその顔を自らの顔に引き寄せた。
「お前の勤勉ぶりには頭が下がるよ」
ディーナは男達の話を微塵も理解できなかったが、このままだと自分は殺されるかそれに類することをされるという推測をした。だが、恐怖で身体が凍りつき、悲鳴を上げることもできなかった。
「彼女を離せ!!」
聞き慣れた声の方を向くと、ゼロが玄関口に立っていた。その表情は怒りで鬼神のように変貌している。
「ゼロ……!」
ディーナは持てる力の限りゼロを呼んだ。中年の男が仰々しくゼロを迎え入れる。
「おっと、問題の飼い主様のお帰りですね?」
「貴様ら、人の家に押し入って何をしているんだ!」
「暴れるなよ! こいつの首が折れちまうぞ?」
ゼロが壮年の男に掴みかかろうとすると、男はディーナの髪を掴んでいた右腕を離し、今度はその腕で彼女の首を締め上げた。気道が圧迫され、ディーナが顔を歪める。
「やめろ!」
ゼロがその場に静止し、悲痛な叫び声をあげる。
「我々とて同じ黒い羽のあなたに手荒な真似などしたくはないのですよ。ただ、あなたに異端の疑いがかけられた以上、我々も動かないわけにはいかなくてね」
中年の男のゼロに対する態度は正に慇懃無礼を体現したようなものだった。ゼロが吐き捨てるように答える。
「異端だと? 俺達二人はこの家で静かに暮らしているだけだ…! 貴様らの世話になるいわれはない!」
「ところがその暮らしぶりとやらが問題なのです。随分前から街の住民から通報がありましてね。黒い羽の男が白い羽の奴隷も連れずに自ら買い物をして、果ては自分で釣った魚やつくった野菜を売ってあくせく働いていると! まぁ、その程度なら物好きの道楽程度で済んだのでしょうが――」
中年の男は挑発的な口調でとうとうと話し続ける。
「ある善良な市民が、いつもどおり街にやって来て買い物を済ませたあなたを尾行したのです。すると、あなたは奴隷を首輪もつけず放し飼いにし、あろうことか同じテーブルで食事をとったり、一緒に畑仕事をしていたというではないですか。しかも、いくら奴隷を愛玩動物として可愛がるにしても、服まで着せるのはいかがなものでしょう? そういう訳で、あなたの奴隷への接し方に異端の疑いがかけられたのです」
ゼロは身をわなわなと震わせ、異端審問官達を睨みつけている。
「奴隷? 愛玩動物? ふざけた言い方をするな!」
「おいおい、どうして奴隷一匹にそこまで怒ることができるんだ?」
壮年の男がディーナの首に腕をかけたままひやかしを入れる。ディーナは酸素が薄れているせいで、段々と意識が遠のき始めていた。自分はここで死ぬかもしれないという諦めはあった。しかし、理屈は未だにわからないがゼロが異端として捕まることは許せない。彼が異端審問官達の追及から逃げ切れることだけを願った。
「ちがう! 俺は…こいつのことを一人の人間として、ずっと…あ、愛…」
「お、お前!? 何を!?」
ゼロが言い淀んだ言葉に、壮年の男の顔が引きつった。
「ゼロ殿、落ち着いてください! それは恋と呼ばれる、単なる人間の発情期の勘違いです! あなたのように若く、活力がみなぎっている年頃の人間は陥りやすいものなのですよ」
中年の男は訳知り顔でゼロを諭そうとする。
「あなたはこの奴隷に欲情していただけです。なに、恥ずかしがることはありません。欲情とは、この世界の美徳の一つであり、高貴なる黒い羽の子孫を繁栄させるために必要不可欠な原動力なのですから!」
ゼロは拳を握りしめ、俯いている。
「愛などという人心を惑わすまやかしを口にすることが、自らの身を滅ぼすということくらい、あなたも御存知でしょう? さあ、自分の行いを認めなさい!」
中年の男は自らの教えを一息にまくしたて、ゼロの反応を窺っている。
ディーナも薄れ行く意識の中、ゼロを見守っていた。自分のことなどどう貶めた言い方をしてもいいから、とにかくこの場を言い逃れて欲しかった。
ゼロが俯きながら口を開き、沈黙を破った。
「貴様達の言うように俺の想いは…一方的なものかもしれない……」
顔を上げたゼロの瞳には、怯まぬ決意の色が刻まれていた。そして、ディーナから最後まで目を逸らさずその言葉を口にした。
「だが、それがどんなに罪深い行為でも、俺はこいつのことを愛しているんだ」
音も無く静かにゼロの頬を雫が伝い、細い顎から滴り落ちる。その涙には一点の後悔もない。込められたものは、ディーナに捧げられた痛々しいまでにひたむきな真心だけだった。
「な、なんと邪悪な…! ゼロ、貴様を連行する――!」
異端審問官達の慌てふためく声を最後に、ディーナの意識は闇に溶けていった。
箱庭は蹂躙され、跡形も無く崩れ去った。