BLACK/MATRIX REACT   作:suiru

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第二章 ゴルゴダの牢獄

 

 

 ディーナは一人、闇の中にいる。それは紛れも無い現実の中であった。目隠しと猿ぐつわを着けられ、囚人護送用の馬車に押し込められたのだ。馬車は不規則なリズムで揺れ続け、彼女を何処とも知らぬ場所へと運んで行く。

 異端審問官によって意識を奪われた後、目を覚ますと、ディーナは手足を縛られた状態で家の床に倒れていた。ゼロの姿は何処にも無い。しばらくすると異端審問官達が再びディーナの前に現れた。彼らはディーナの足の拘束だけを解き、護送の馬車を停めている、丘の下の街まで彼女を歩かせた。街への道中、ゼロの行方を問うディーナの声に異端審問官達は誰も耳を貸さなかった。

 街へ着くと、そこに住む人間達にディーナは目を疑った。街には黒い羽の人間も白い羽の人間もいた。だが、彼らの立場にはあまりにも大きな隔たりがあった。白い羽の者達には首輪がはめられていた。首輪は鎖に繋がれ、黒い羽の者達がその鎖を握り彼らを犬のように連れ回している。そして白い羽達は男も女も関係無く一糸纏わぬ姿であった。対照的に黒い羽達は、目がチカチカするような色の布や宝石で自らを着飾り、街を闊歩していた。中には黒い羽の物理的な束縛から離れ、街の清掃や物売りに従事している白い羽もいたが、彼らは皆何かに怯えるように周りを気にしながら常に落ち着かない様子だった。

 ディーナが馬車に乗る寸前、目の前を白い羽の男を連れた黒い羽の男が通りかかった。その黒い羽は、四足歩行の白い羽をうすのろと罵り、彼の腹を蹴り飛ばした。白い羽が仰向けに倒れ込み、その視線が瞠目しているディーナと合わさった。白い羽の瞳からは何の感情も読み取ることができず、ただ奈落の底のような虚無が広がっていた。

 その瞳を思い出し、ディーナは馬車の中で身震いした。相次いで起こる惨事に混乱し、身体を馬車の揺れに預けるばかりだった。異端審問官に打たれた右頬の痛みだけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。

 

 

 

 

 馬車が停止し、ディーナは外に引きずり出された。平地をしばらく歩き、地下へ続く階段を降りたかと思うと、拘束具が外され、背中を突き飛ばされた。ディーナは冷たい石の床の牢屋の中へ膝をついた。

 看守が牢に鍵をかけ、その足音が遠ざかっていくと、獄舎内は静けさに浸った。ディーナは床にへたり込んだまま俯き、動くことができない。

「ゼロ……」

 呟きが虚しく石の壁に反射し、消えた。

「こいつは驚いた! 新入りは女だと聞いてたもんだから、どんないかつい化け物がやって来るかと思っていたが…」

 背後で男の声が響いた。驚いて振り向くと、ディーナがいる部屋から廊下を挟んだ真正面の牢屋の中で、白い羽の男が寝台に腰掛け、物珍しげに彼女を眺めている。たくましい身体付きの大男だ。剥き出しの上半身の筋肉が力強く隆起している。金髪を赤いバンダナで無造作に束ね、右目を黒の眼帯が覆っており、残された左目は鋭い光を放っていた。

 大男は威勢よくディーナに話し掛ける。

「よぉ、ねーちゃん。お前は何をしでかしたんだ? ここに連れて来られたってことはお前も俺と同じ、七つの大罪を犯した死刑囚なんだろう?」

「死刑囚!? 私達が!?」

 ディーナは飛び上がり、両手で鉄格子を掴んだ。

「なんだ、知らなかったのか?」

 ディーナは何も知らない。彼女は箱庭の中でゼロに庇護され、自分にとって綺麗なものにだけ囲まれて生きていた。そして自分の世界そのものであったゼロは、背中の羽の真実を告げないまま彼女の前から消え去った。彼が異端審問官達に連れ去られた理由すらも定かではない。

 自分を打った異端審問官の笑みが、ゼロの涙が、腹を蹴られて倒れた白い羽の男の瞳が、ディーナの脳裏をよぎる。

「教えてください、私は記憶を失っていてこの世界のことを何も知らないんです」

 真実を知りたいという衝動が、彼女の口から溢れ出した。

「私は黒い羽の男性と二人で暮らしていました。そこへ異端審問官と呼ばれる人達が現れて、彼と私が同じように服を着て、一緒に畑を耕して、食事をしていたことが、異端だと言いました。そして彼が私を愛していると言った途端、彼は連れ去られたんです。どうしてゼロは、捕まらなければならなかったのですか…!? お願いです、教えて―――」

 鉄格子を握る手に力を込め、ディーナは大男に答えを請うた。

「お前の主人は随分と…邪悪な奴だな…!」

 大男はディーナの身の上に愕然としながら、異端審問官も発していた邪悪という単語を口にした。

「俺の名はレブロブス。…殺される理由もわからないまま死ぬお前があまりにも無様だから教えてやる。俺達白い羽を持つ人間は皆、黒い羽の奴らの奴隷として支配されているんだ。生まれてから死ぬまで牛馬のようにこき使われ、死ねば道端に打ち捨てられる! 街によって白い羽の扱いに多少の差はあるみたいだが、連中は俺達が同じ人間だとは思ってねえ」

 レブロブスが苦々しく世界の理を語り始めた。

「それからもう一つ、この世には七つの大罪ってもんがある。自由、偽善、人権、弱者、友情、愛、平等。これに関わる罪を犯した奴は羽の色を問わず裁かれるって訳だ。一方で七つの大罪と真逆のことをすりゃ、周りからは立派な奴だと持て囃されるのさ。詐欺師も盗賊も人殺しも英雄だ。ま、白い羽が黒い羽に逆らおうとすりゃ、即刻殺されるがな」

「それじゃあ…私の御主人様にあたる人は、奴隷として接しなければならない私に愛を告げたことで七つの大罪を犯してしまった…?」

「そういうことだ! 当の本人が何処に連れて行かれたかは知らねぇが、大罪人が所有していた反抗奴隷としてお前も同罪になったんだろう。ここはゴルゴダの牢獄の、生け贄の待合室と呼ばれる死刑囚の吹き溜まりだ」

 レブロブスの話は、ディーナが世界に抱いていた疑念を振り払った。しかしそれは、彼女の中に新たな苦悶を生んだ。

「…愛なんてのは大昔の暇人どもが退屈しのぎに編み出した空想だ。主人の空想のせいで死ぬことになるとは、お前は気の毒な奴だな」

「空想…ゼロの言葉が……?」

 ディーナの視界が狭まり、レブロブスの姿が遠ざかる。そして、ゼロの言葉が頭の中で蘇った。

『お前のためならどんなことでもできる。例え、それがどんな罪に問われようとも』

『それがどんなに罪深い行為でも、俺はこいつのことを愛しているんだ』

 ゼロは知っていたのだ。愛を口にすれば自分の身がどうなるのかを。ディーナを見捨て、異端審問官達に従えば助かる道はあった。けれども彼はそれをしなかった。誰もが妄想、空想と口を揃えて嘲るもののために、自らの命を投げ打つ価値はあったのか。

 耳元で金属音が響き、ディーナは我に返った。床を転がって来た赤い球が彼女の部屋の鉄格子に当たったのだ。よく見るとそれは赤く熟れた林檎の実だった。

「俺もお前に同情するぜ。隣にいる、事情通を気取ったデカブツのせいで、知らなくてもいい真実を聞かされる羽目になったんだからな」

 ディーナが林檎を拾い上げると同時に、彼女から向かってレブロブスの部屋の右隣にある牢屋の奥で男の声がした。

「知らぬが仏、見ぬが秘事、ってな…」

 林檎を右手に持った若い白い羽の男が、牢の薄暗がりから現れた。艶のある黒髪を肩まで伸ばし、調和のとれた目鼻立ちをしている。体格はレブロブスと比べれば格段痩躯に見えてしまうが、彼の瞳にはこの場の誰よりも剛直さと自尊心の色が籠っていた。自負に満ちた表情は彼から形容しがたい気品を漂わせ、身に付けている粗末な麻の囚人服と不釣り合いであった。

「あなたは…?」

 ディーナが鉄格子の向こうにいるもう一人の男が何者か問うた。

「俺の名はガイウス。白き羽の義賊」

 ガイウスと名乗ったその男は壁に背をもたれさせ、手にしていた林檎に齧りつく。レブロブスは隻眼を見開いた。

「ほお! 金持ちの黒い羽の家ばかり襲っていた盗賊、疾風のガイ様か! 大層な二つ名が付いたもんだぜ。実のところは、そいつらを殺して奪った金を貧乏人共に配って悦に入っていただけの、偽善者だってのによ!」

「今し方、お前も話していただろう。本来、窃盗も殺人も黒き羽の連中が礼賛している偉業さ。俺が牢に入れられた理由は、羽の色という先天的事象によるものだ。俺は生まれてから一度も自分の行いを恥じたことはねぇ」

 ガイウスは眉一つ動かさず、芯だけになった林檎を床に放りながら言葉を続けた。

「そういえば、俺も聞いたことがあるぜ。パンデモニウムの闘技場で、最強の白き羽なんてのを自称し天狗になった剣闘士が、この世には初めからありもしない自由とか言うものを追い求めて闘技場を脱走し、あっけなく捕まったという話を。その世間知らずの名前は、筋肉馬鹿のレブロブス、とかいったな」

「てめぇ、もういっぺん言ってみろ!」

 寝台から立ち上がったレブロブスが威嚇するように拳で鉄格子を殴打すると、けたたましい反響音が獄舎内に広がった。

 二人の死刑囚の気迫にのまれ、ディーナは林檎を両手で抱えたまま呆然と彼らを眺めていた。

 

 

 

 

「貴様ら、何を騒いでいやがるんだ!」

 レブロブスとガイウスの間に不穏な空気が流れ始めると、騒ぎを聞きつけた黒い羽の三人の看守達が現れた。ディーナ達の牢屋の前で立ち止まると、一人の看守が辺りを見回した。

「見張りのピリポはどこにいる!」

「ぼ、僕は…ここにいます!」

 頓狂な声と共に、ディーナ達の眼前の、藁の筵が被せてあった小山が動き出し、その中で身体を丸めていた黒い羽の少年が身を起こした。今まで気配を殺し微動だにしていなかった少年の隠密のような業にディーナは呆気にとられ、ピリポと呼ばれたその少年を凝視した。

 年の頃はディーナと同じか、わずかに下である。小柄な体躯と、奔放に跳ねた黄土色の髪と、困り果てたように下がった眉尻が、母親とはぐれて孤独に震える子犬を彷彿とさせた。風貌に悲哀を感じさせる理由はそれだけでなく、彼の服がつぎはぎだらけのボロであり、黒い羽の者であるにも関わらず奴隷と見紛うような姿であったからだ。

 ピリポは他の看守達の前に直立し、遥かに体格のいい彼らをおずおずと見上げている。

「ピリポ! てめぇはまた毛虫みたいに丸まって隠れてやがったのか! 警備も満足にできない木偶の坊が!」

 看守の一人が怒号を飛ばし、鉄拳がピリポの顔面を歪ませた。それが合図であったかのように、他の看守達も次々とピリポを痛めつけ始めた。看守達は加減と言うものを知らない。ピリポはその場に蹲り、急所である頭に両腕を回した。彼は看守達の怒気が治まるのをひたすら黙って耐えている。

「や、やめて…!」

 突如始まったリンチを目の当たりにして、ディーナは悲鳴を漏らした。自身が異端審問官に悪意を剥き出しにされ、暴力を振るわれた時の光景がまざまざと頭の中に浮かび、身体が強張った。

「まーた始まったか。このもやし野郎はよ、監獄一の臆病な看守で、他の看守共から毎日焼きを入れられてんだ。さんざ殴られても一言も言い返さねえでいやがる腰抜けだ!」

 レブロブスがピリポを見下ろしながら忌々しそうに舌打ちをした。

「黒い羽の社会の中で、罪深い弱者が淘汰されるのは自然の摂理。こんな惨めな姿を晒し続けるくらいなら、俺だったらとっくに首を吊ってるがな」

 ガイウスは冷ややかな嘲笑を浮かべている。

「待合室の居心地はどうかね? 諸君!」

 すると、老獪さの滲む笑い声と共に一人の黒い羽の男がディーナ達の牢屋の前へやって来た。身の丈はディーナとさほど変わらない小男だが、見事な口髭がこの牢獄での彼の威光を示すかのようであり、顔に刻まれた皺の中で獲物を狙う猛禽類のような目がぎょろぎょろと動いていた。

 ピリポを取り囲み暴行していた看守達は機敏な動きでその男の前に整列した。

「てめぇが獄長のカロンか。こんな辛気くせぇ所に押し込めやがって…殺すならさっさと殺せ!」

 レブロブスが怒りを露にして場の空気を震わせたが、カロンと呼ばれた男はそれを一笑に付した。

「笑止! 七つの大罪を犯しておいて、簡単に死ねると思っているとは! 諸君らには、大悪神を封じ込める生け贄という身に余る大役を用意してある!」

「大悪神の生け贄? 俺達をどうするつもりだ」

 今度はガイウスが顔をしかめると、カロンは自慢の口髭を弄びながら牢の死刑囚達をせせら笑う。

「焦らずとも、もうじき身を以って知ることになる。愛や自由などと戯言を語る愚かな罪人共! これから始まる無限地獄に、心を入れ替え我に泣いて感謝するがいい!」

 豪快な高笑いを残し、カロンは待合室を後にした。三人の看守達もそれに続く。最後の一人が置き土産とばかりに倒れているピリポを蹴飛ばし、ディーナ達を睨み付けた。

「生け贄共、よく聞け! この牢の奥には、お前達では到底謁見することが適わない、やんごとなき身分のお方がいらっしゃるのだ! これ以上その方の御気分を害さないよう、大人しくしていろ!」

 

 

 

 

 カロン達が立ち去った後、ディーナは横向きに倒れたままのピリポが死んでしまったのではないかと息を止めて見守っていた。彼の背中が微かに動いているのを確かめ、僅かながら気が休まった。

「やんごとなきお方だぁ? どうしてそんな奴がとっ捕まってるんだよ」

 レブロブスが看守の言葉を怪しんでいると、ガイウスが記憶を呼び起こしながら口を開いた。

「そういやぁ…宗教都市リベイラを治めていた大神官が、権力争いに敗れて数年前に投獄されたって話を聞いたことがある。そいつもここの牢の中にいるんだな」

「神官は街の支配者になれる程強い権力を持っているの?」

 世界の常識を得ることに貪欲になっているディーナは必死にガイウスの言葉に耳を澄ましている。

「黒き羽の奴らは、白き羽達を支配する大義名分として、自分達が創世記戦争という御伽噺の中に出てくる偉大な神の子孫だと信じ込んでやがる。その中でも大神官と呼ばれる黒き羽は、神に匹敵する力を持つ者として畏れ敬われてるのさ」

 レブロブスは怪訝な表情を隠さずガイウスの話を聞いている。

「大神官は、頭に牛みてぇな角が生えている上に、海を真っ二つに割ったりする魔導の力が使えるって話だ」

「お前、正気か? すかした調子でよくそんな与太話ができるな」

 一通りの説明をガイウスが終えると、レブロブスは大きく鼻を鳴らした。

「そんなにすげぇ力を持ってる奴が、ここから逃げ出さずに何年も牢屋の中で縮こまってる訳あるか! 自分が牢獄で過ごしやすくなるために看守共を騙してる、ただの悪賢いじじいに決まってら!」

 その時、聞き慣れない老人の笑い声が獄舎内にこだました。それはカロンのものに比べ、落ち着きと寛容さを含んでいた。

「お褒めいただき、光栄じゃよ」

「なっ! どこから話してやがる!?」

 レブロブスは鉄格子越しに廊下を見渡した。謎の声は再び彼らに語り掛ける。

「こんな牢屋など、出たければいつでも出られるんじゃが…。時々ここにやって来る、お主達のような活きのよい生け贄を観察するのが興味深くての、つい腰を据えてしまったわい」

「頭の中に声が直接響いてくるみたい…」

 出くわした怪異に、ディーナは知らず知らず心中を呟いた。彼女達の牢から声の主の居場所を見つけることはできなかったが、牢の者達を諭すその声は明瞭に伝わっていた。

「へぇ、噂をすれば影ってやつか。やんごとなき大神官様よ! その有り難い力で俺達を助けてはくれないか?」

 ガイウスが皮肉めいた口調で声に問い掛けると、声は屈託の無い笑い声と共に答えた。

「力には力の使いどころというものがある。悪いが、今はその時では無いのじゃ。それに今日のところは、お主達もそろそろ床に就いた方がよいのではないか? これ以上騒げば…そこで半死半生になっている哀れな看守が、いよいよ殺されそうで見るに耐えん。それともお主達は、弱い者虐めをいつまでも見物し続けるという高尚な趣味を持ち合わせておるのかね?」

 年の功だけあり、話術では声の主が一枚上手のようだった。

「嫌味しか言わねぇ偽善者にも、手品師のじじいにもうんざりだ。俺はもう寝る!」

 レブロブスは悪態をつくと早々に寝台へと身体を預け、腕を枕に瞼を閉じた。

 

 

 

 

 獄舎内に再び静寂が訪れた。夜が更けてもディーナは眠ることができず、寝台の上で膝を抱えていた。

 つい数日前まで、ディーナは側にいるゼロの安らかな寝顔を眺めながら、平穏な眠りに就いていたのだ。たとえ世界の仕組みが彼女の中で明らかになったと言っても、気持ちの整理ができるはずはなかった。

 獄舎の廊下で物音が聞こえたため、ディーナは寝台から降りて鉄格子から外の様子を窺った。すると、見張りをしていたピリポが先程受けた怪我の痛みに耐えかねてよろめき、片膝を立ててしゃがんでいる姿が見えた。

「大丈夫……?」

 恐る恐るディーナが声を掛けると、ピリポはぎょっとして顔を上げ、ディーナを見つめた。殴られた彼の右目は大きく腫れ上がり、まともにものが見えていないようだった。口元や頬には治りかけている古い痣があり、彼がこの牢獄で日常的に暴力を受けていることを物語っていた。

「私はディーナ。あっ、えっと…この林檎、食べる? さっきガイウスさんがくれたの。食べたらきっと元気が出るよ」

 ディーナは鉄格子の間から林檎を持った右腕を伸ばした。痛ましいピリポの姿を見ていると、彼のために何かをしたいという感情が湧いた。

「君は…変わった奴だね」

 ピリポは目の前に差し出された赤い実を眺めながら、ぽつりと言葉をこぼした。

「さっき、僕がみんなに虐められていたとき…君だけが僕を馬鹿にしなかった。それに今だってこんな…偽善と疑われてもおかしくない行為を平気でやってのける」

「虐められている人を見て、馬鹿にすることなんてできないよ! 殴られるのも、酷い言葉を浴びせられるのも、辛いもの…」

 ディーナは、虐げられた経験がある者だけが知る痛みを既にわかっていた。その痛みを知ることが、他者への共感となるか、更に弱い者を隷属させることへの野心になるかは、それを知る人間の意志次第であり、彼女は前者であった。

「それに今はね、あなたが悲しそうな顔をしているから、少しでも楽しいことを考えて欲しいって、ただ、そう思っただけ」

「…そんなこと言われたの、初めてだ」

 ピリポは、自らへ真っ直ぐに向けられた誠意に面食らっていたが、痛みに歪んでいた表情は幾らか和やかになっていた。そして身体を引き摺るようにしてディーナの牢屋の前へ向き直った。

「僕は、君とレブさんの会話を隠れながらずっと聞いていたんだ。君の御主人様は大罪人かもしれないけれど…物凄く勇気のある人だね。鬼みたいに恐い異端審問官の前で愛を口にしちゃうなんて…僕は考えただけで気が遠くなるよ…」

 ピリポは虚空を見つめながら俯いている。

「愛って本当にこの世にあるのかな? それって、発情期の思い違いや、相手を自分の言うとおりにさせたいって思う気持ちとは別の感情なのかな?」

「それは…」

 ディーナは、異端審問官達がゼロへの説得を試みた際に使っていた野卑な愛の言い換えを思い出し、口籠もった。

「親が子供を外敵から守ったりすることがそれに似た感情から来るものらしいんだけど、それだって、子供が死ねば自分の血を絶やしてしまうから、種の保存のため本能的に身体が動いてるだけなんだって。それに、僕の家族の場合は……ごめん、こんな話、つまらないよね」

「ううん。あなたのお話、聞かせて欲しい」

 ピリポは一瞬口をつぐんだが、彼の話を聴き漏らすまいとしているディーナの健気な瞳に触発され、胸のうちに抑圧されていた真情を吐露した。

「僕は生まれつき、身体が弱いんだ。だから本当なら弱者の罪に問われて捕まるところだったんだけど、僕の家は比較的裕福だったから、両親は周りの人達に賄賂を渡して、僕のことを異端審問会へ通報しないように取り計らってた。…七つの大罪を犯した人間が一族から出れば、その家は没落するから」

 ピリポの声は儚く、牢獄の暗闇の中へ吸い込まれていきそうだった。

「でも、僕が成長して、両親は僕の存在を隠し通すことができなくなったんだと思う。それで両親は、僕を世間から遠ざけるために、僕をこの地下牢の看守にしたんだ。仕方のないことだって納得したつもりだったけど…やっぱり何だか…悲しかった」

 もちろん今のディーナに、自分の家族についての記憶は微塵も残されていない。それでも、両親から見放されたと思っているピリポが、計り知れない絶望を抱えて生きていたと想像することは容易だった。

「だから、僕みたいに血を分けた親からも疎まれて迫害される人間だっているのに…白き羽に愛を口にする黒き羽がいるなんて、本当に驚いたんだ」

 そしてピリポは不均衡な両目でディーナを見据えた。

「ねぇ、ディーナ。一つだけ僕に教えて欲しい。君の御主人様は君に愛を告げた。レブさんはその愛を妄想だって言ってた。君は? 君は御主人様のことを、どう思っているの…?」

 その質問に、ディーナは自らの鼓動が速まることを感じた。それは、ゼロがディーナに愛を口にした瞬間から今に至るまで彼女の頭の中を巡り続けていた問いかけだった。

 ディーナはピリポからの問い、つまり自分の心に向き合うため呼吸を整え、言葉を紡ぎ始めた。

「ずっと考えてた。私がゼロに抱いてる感情はなんだろうって。あの人は記憶を失った私が目を覚ましてから、ずっと側にいてくれた。もしかしたら私は、卵から孵った雛が親鳥の跡をついて回るみたいに…保護されることを求めて彼に依存していただけなのかもしれない。記憶の無い私には生きていく術が無かったから、彼を利用していただけかもしれない…」

 ディーナは言葉に詰まり、俯いた。ピリポは静かにディーナを見守っている。

「でも、幸せだった。あの人は、私一人では一生得られなかった喜びを、たった一年間の中でくれたの……!」

 顔を上げたディーナの瞳から熱い涙が溢れた。

「どんな苦しい思いもして欲しくないの。私は側にいなくてもいいから、生きていて欲しい。ゼロの無事が確認できたら、私はどうなってもいい! だからもう一度だけ、会いたい……!」

 それがディーナの答えだった。彼女はその場に膝をつき、嗚咽した。

 ピリポはしばらくディーナを見つめていたが、おもむろに立ち上がったかと思うと、懐から鍵の束を取り出した。

 そしてディーナの牢の扉を開け、小声で彼女に呼び掛けた。

「早く、ここから出なよ!」

 ディーナは両頬に光の筋を残したまま、ピリポを唖然と見上げている。

「僕が君を牢獄の外まで連れて行くよ。この牢獄の看守は怠惰な人が多いから…こっそり行けば逃げ切れるはず」

「そんな…そんなことしたらあなたが殺されてしまう!」

 ディーナは立ち上がりピリポを制止したが、彼の決意は揺るがない。

「僕のことはいいんだ。僕は何の力も無い臆病者だから、皆になぶり殺されるのもきっと時間の問題だし…。この牢獄でも誰も僕のことを相手にしなかったのに、君だけが僕を元気づけようとしてくれて、そして、真剣に僕の話を聞いてくれた。君が生け贄になってしまったら僕は…後悔し続けると思うから」

 ピリポは自らの末路を憂えい、一瞬苦渋の色を浮かべたが、すぐにディーナに笑い掛けた。彼女と出会ってから、初めて見せる笑顔だった。

「僕にはまだ愛ってものがよくわからないけど…君の話を聞いて、羨ましいって思った。もしも僕がここで死んでしまったら…次は、君みたいな白き羽に生まれ変わりたい。健康な身体があって、それで、大好きな御主人様が現れて、その人も僕のことを大好きだって言ってくれたら、きっとそれは…泣いちゃうくらい幸せなんだろうな」

 ピリポは微笑んだまま、か細い手をディーナへ差し伸べる。

「君は…御主人様に会いに行かなくちゃ駄目だ。さぁ、行こう…!」

 その腕にも多くの傷跡があった。痣だけではなく、中には刃物による切り傷や火傷によるものもあった。

 ディーナの頬を再び涙が伝った。自らに羨望の眼差しを向けるこの少年は、傷だらけの小さな身体から無謀とも言える勇気を奮い起こし、身を挺して自分を救おうとしている。

「こんなに…ぼろぼろになって…。ひどい……!」

 ディーナが思わずピリポの手を取った途端のことだった。陽光や月明かりや、燭台の炎とも異質の眩い白い光がディーナから解き放され、二人を包み込んだ。同時に、何処からともなく突風が巻き起こり、二人の羽を吹き飛ばさんばかりの勢いで揺らした。開いていた牢屋の扉が石の壁に当たり、激しい音を立てる。光輝は衰える気配を見せず、目を灼かれそうになったディーナは瞼を閉じ、両手で目を覆った。そして光はディーナ達がいる地下内部に満ちていった。

 時を同じくして、ある独房内でローブに身を包んだ老人が立ち尽くしていた。

「まさか…! このような地の果てで、救世主の復活の瞬間に立ち会うことになろうとは……!」

 彼は神光に照らされながら、感嘆の声を上げた。

 

 

 

 

「おい、どうなってやがる! 爆薬でも落とされたのか!?」

 焦燥するレブロブスの声がディーナの耳に届いた。すると、光と突風は掻き消え、獄舎内には元の薄闇が戻った。

「何が起こったの…? ピリポ君、大丈夫!?」

 ディーナは瞼を開け、目の前で両手と両膝をつき倒れているピリポの側にしゃがみ込む。

「僕にもわからない…突然、君が光だして…」

 顔を上げたピリポを見て、ディーナは息を呑んだ。

「ピリポ君…顔の怪我が……!」

 ピリポの視野を狭めていた右目の腫れは完全に引いており、人懐こい犬のような二つの瞳がディーナの姿を捉えていた。口元や頬にあった痣も、影も形もない。

「ど、どうして…!? 身体がどこも痛くない…怪我が全部治ってる!」

 ピリポは無数の傷が刻まれていたはずの両腕を、自分のものではないかのように驚異の目で見つめている。

 彼に舞い降りた奇跡はそれだけでは無かった。

「ピ、ピリポ…お前! 気づいていないのか…!?」

 今まで感情の起伏を表に出していなかったガイウスが、余りの動揺に絶句していた。

「背中の羽の色が真っ白になっちまってるぞ!」

 ピリポの背中には、今にも空へ飛び上がれそうな程大きく広がった純白の鳥類の翼が生えていた。その白さは、ピリポの無垢な心をそのまま映し出しているかのようだった。

「ぼ、僕…本当に一度死んで、白き羽に生まれ変わっちゃったのかな…?」

 ピリポの周囲にいる者達は皆状況が飲み込めず呆然としている。

「何をしておるのじゃ! 早く逃げ出さんと、今の騒ぎを聞いて集まってくる看守共に捕まってしまうぞ!」

 ディーナ達の頭の中へ再び謎の声が語りかけ、脱出を急き立てた。ピリポは困惑したまま立ち上がる。

「訳がわからないよ…僕はどうすればいいの?」

「そんなこと決まってんだろが」

 牢の中のレブロブスは落ち着きを取り戻し、大胆にピリポへ言い放った。

「お前はこれから俺達と一緒に脱獄すんだよ! 理由もわからず白い羽に変わっちまったお前が、このままただで済むと思ってんのか! いいから早く、俺と偽善野郎の牢も開けろ! 騒ぎが知られた以上、お前とこの女だけじゃ逃げ切れねぇ!!」

「だけど…僕には……!」

 ディーナの脱獄のために命を賭すことができたピリポであったが、自分自身が犯罪者となり世界を敵に回すことについては戸惑いが残るようであった。

「…お前も俺と一緒にこいつの御主人様とやらの、邪悪な顔を拝みに行きたいとは思わねぇのか?」

 レブロブスはピリポに不敵な笑みを投げ掛けた。彼の思いもよらない発言にディーナとピリポは目を見開いた。

「お前、ディーナとか言ったな。俺は今も愛なんてこの世にはねぇと思ってる。だがお前は、黒い羽と暮らした時間を幸せだったと断言し、挙げ句にそいつのためなら自分はどうなっても構わないと泣きやがる。俺は…不思議とお前の気が狂ってるだけだとも思えねぇ。お前をそこまでさせるものが何なのか、知りたくなったんだよ」

 レブロブスの言葉に、ピリポの表情から迷いの色が消えた。

「気をつけよ! 看守共がやって来るぞ!」

 謎の声が警鐘を鳴らすと同時に、見覚えのある黒い羽の看守達がディーナ達の牢まで向かって来るのが見えた。ピリポを痛め付けていた三人の看守である。

 ピリポがレブロブスの牢を開けると、レブロブスは廊下へ躍り出て、獣のような雄叫びを上げた。彼の闘志に怯んだ一番手前の看守のみぞおちに巨大な拳を打ち込み、その顔面を石の柱に叩きつけた。地面に倒れ痙攣していた看守はすぐに動かなくなった。

「ピリポ、その剣をよこせ!」

 牢から解放されたガイウスはピリポが携えていた細身の剣を受け取ると、二つ名に恥じぬ敏捷な身のこなしで廊下を駆け抜けた。矢を番えようとしていた看守との間合いを一気に詰めたかと思うと、一太刀のもとに斬り伏せる。そのまま足を止めること無く、増援を呼ぼうと退却しかけた看守の喉元へ剣先を突き刺した。

「レブロブス。お前、さすがに脳味噌まで筋肉にはなってねぇようだな」

 ガイウスが剣の血を払いながらレブロブスを見遣った。

「わかりゃいいんだ! わかりゃあって…何だと、てめぇ!!」

「すごいなぁ…レブさんもガイさんも、人を殺すことを全く躊躇してないやぁ…」

 軽口を叩き合う二人を眺めながら、ピリポが間の抜けた声で彼らを称えている。

 ピリポの隣にいるディーナは黙ったまま、レブロブスが仕留めた看守の死体から広がる血溜まりを見つめていた。戦いの間、彼女は身動き一つ取ることができなかった。余りにも呆気なく命が奪われる瞬間が目に焼き付いた。

 しかし、これがディーナの選んだ道だった。ゼロに再会するために辿る道には、これから夥しい量の血が流れるという予感がした。

 彼女には覚悟と犠牲が必要だった。

「ピリポ! ぼーっとしてねぇでさっさと俺達を出口まで案内しやがれ!」

 レブロブスがピリポを呼びつける。

「う、うん! ディーナ、僕達も行こう」

 ピリポがレブロブス達の元へ駆け出し、ディーナもそれに続く。ピリポが弓使いの看守の死体を通り過ぎようとした時、彼は立ち止まり、死体の側に落ちていた弓を拾った。

「お前、弓なんか使えるのか?」

 ガイウスが意外そうに問い掛けると、ピリポは遠慮がちに答えた。

「ここに来る前、弟と一緒によく狩りに行ってたんだ。だから…」

「おいおい、兎や鹿を獲るのとは訳が違うんだぜ。本当に大丈夫かよ?」

 レブロブスが呆れ返り、ピリポはますます萎縮した。

「役に立つかわからないけど…僕、剣術とかはからきし駄目だから…丸腰でいるよりましだと思う…」

 そう言うと哀愁に満ちた表情で矢筒を背負った。

 

 

 

 

 ディーナ達が地下牢から地上へ続く階段を登ろうとした時、彼女達を呼び止める声があった。

「おーい、ついでにわしの牢も開けてもらえんか!」

「この声は…大神官さんの…」

 ディーナが立ち止まり辺りを見回した。

「こっちじゃ、こっち」

 その声の調子は、脱獄犯達の足止めをするにしては随分と呑気だった。

 ピリポがその声を頼りに該当する部屋を探し当て鍵を開けると、全身を漆黒のローブに包んだ人物が廊下へ姿を見せた。背中にはそのローブと同じ色の羽が生えている。

「すまんな、手間をかけた」

 顔を隠していたフードが脱がされると、澄み渡った湖面のように穏やかな瞳を持ち、口元に悠然と笑みを湛えた好々爺が現れた。そして何よりディーナ達の目を引いたのは、ガイウスの話にもあった、彼の両側頭部に生える二本の巻き角であった。

「わしの名はヨハネ。黒き羽の神官にして、ネクロマンサーの魔道士である」

「本物の魔導士だってんなら、お前の力の使いどころとやらはいつなんだ?」

 ガイウスが鋭い目つきでヨハネを問いただすと、彼は闊達な笑い声を上げた。

「いやはや、当然の疑問じゃな! 実はの、魔術を使うには触媒として生け贄の血液、つまり死体が必要なのじゃ。先刻は見栄を張ってはみたものの、文字どおり手も足も出ない状態じゃった! お主達が通り掛かってくれて幸運だったわい」

「こいつ、やっぱりただのボケじじいじゃねぇのか?」

 レブロブスが腕を組みながらいぶかしがった。

「細かいことを気にしてはいかん。今は脱出が先決じゃ!」

 ヨハネの鷹揚さにガイウスは小さく嘆息した。

「筋肉馬鹿とじいさんとガキ二人か…錚々たる顔触れだな」

 レブロブス、ガイウス、ピリポが階段を登り始め、ディーナも段差に足をかけようとすると、ヨハネの視線を強く感じ、思わず彼の方を振り向いた。

「あの、どうかしましたか?」

 ヨハネは無邪気ないたずらを考えた子どものように笑った。

「やはり…かなり邪悪な面構えをしておる」

 ディーナはきょとんとして目を瞬かせた。

 

 

 

 

 一行が牢獄内を進むと、警備をしていた数人の看守達の襲撃に遭ったが、先陣を切るレブロブスとガイウスによって皆悉く返り討ちとなった。看守達の中に戦い慣れている者は少ないようだった。

 ピリポ曰く、ゴルゴダの牢獄の看守は、財力のある身内がカロンに袖の下を握らせたことによって就任した者ばかりであり、世界の美徳の一つである怠惰を極めている彼らの士気は押し並べて低いという。

「この先が外に続く玄関ホールだよ。多分、そこにも看守達がいると思うけど…」

 ピリポの誘導に従い、ディーナ達は薄暗い通路を駆ける。すると彼女達の視界が開け、目の前に広間が出現した。壁に施された得体の知れない生物のレリーフと、地面の至る所に空いた窪みの中で燃え盛る業火がおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。窪みの真上には手枷の付いた鎖が伸び、地上には巻き上げ機が設置されている。炎は囚人を火責めにするためのもののようであった。

「ヨハネ様! お供を連れてお出かけですか!」

 広間にある巨大な扉を背に、槍を手にしたカロンと武装した二十人近くの看守がディーナ達を待ち構えていた。

 カロンは変わらず不気味な笑みを浮かべている。

「後生ですから、牢に戻ってはいただけませんか? あなた様を力尽くで従わせるようなことはしたくないのです」

「カロンよ、世話になった。牢獄暮らしは十分満喫したのでな。所用もできたので、ちょいと外出させてもらうよ」

 カロンの要求をヨハネは飄々とかわした。

「まぁ、出世欲の権化のようなお主が、金の生る木であるわしを簡単に見逃してくれるとは思わんが」

「よぉくわかってるじゃねぇか!」

 カロンの語調が突如として粗野になり、張り付いていた笑顔は憤怒の形相へと変わった。

「てめぇが牢屋にいるだけで、教皇庁から世話代として莫大な予算がもらえるんだ! むざむざ逃がしてたまるものか!」

 カロンは槍を掲げ、看守達に指示を出す。

「看守兵、ヨハネは生け捕りにしろ! 他の奴らは殺して構わん!」

 武器を構えた看守達が一斉にディーナ達に向かって走り出した。

「レブロブスにガイウスよ。わしが魔術を使うためには血の生け贄が必要だということはもう知っておるな? そうじゃな…あと五、六人ばかり殺してくれれば残りはわしが引き受けよう」

「あぁっ!? じじいの指図なんか聞いてられっか!」

「お前らはすっこんでろ!」

 二人はヨハネの話を歯牙にもかけず、看守達を迎え撃つために前進する。

「やれやれ、最近の若者は血気にはやるばかりでいかん」

「ヨハネさん…ぼ、僕はどうすればいいのかな…?」

 大仰に落胆した素振りを見せるヨハネに、ピリポが恐怖で顔を青ざめさせながら尋ねた。

「遠方から敵の意表を突き、仲間を助け勝利をもたらすのが射手の役目じゃ。そこの鎖を伝って高所に移れんか? あやつらを援護してやってくれ」

 ヨハネは壁の側にある巻き上げ機から天井に伸びている鎖を指した。巨大なレリーフの上縁は塀のような足場になっており、鎖を登れば乗り移ることができた。ピリポは不安げに鎖を見上げ、弱々しく頷いた。

「う、うん…やってみるよ…」

「無理、しないでね…」

 ディーナが鎖に手をかけたピリポの背を見守っていると、ヨハネがディーナへ避難を促した。

「ディーナ、お主は事が済むまで元来た通路で隠れておるのじゃ。術の詠唱中は無防備になるので、わしもお主を守れぬのでな」

「はい…ヨハネさんも気をつけて」

 ディーナは自らの歯痒さに顔をしかめたが、今の彼女はヨハネの言うとおり身を隠すことしかできなかった。

 レブロブス達と看守達の戦いは既に始まっている。看守の一人が棍棒を振りかざし、レブロブスを殴りつけた。

「効かねえなぁ…!」

 レブロブスは前腕で棍棒を受け止めながら、冷ややかに笑った。

「強さこそがこの世で唯一の真理だ。俺は強い奴しか生き残れない世界で、誰よりも力を求めて戦ってきた…! 囚人を痛め付けてふんぞり返ってるだけのお前らが、俺に敵う訳ねぇだろうが!!」

 もう一方の腕で看守を炎の中に殴り飛ばし、奪い取った棍棒で側にいた看守の頭部を粉砕した。

「いちいち吠えねぇと戦えねぇのか、この筋肉馬鹿は…」

 ガイウスは看守の斬撃を軽々と避けながら相手の背後を取り、その背中を斬り裂いた。そのまま身を屈め、後方から別の看守が水平に繰り出した凶刃を躱す。そして地面に突いた片腕を軸に身体を反転させ、その勢いで看守の足首を斬り落とした。看守は鼓膜を突き刺すような悲惨な叫び声を上げて倒れる。

「そうか…そこまでして邪神の生け贄となるよりも我が手にかかって死にたいか!」

 業を煮やしたカロンが槍を構えると、善戦している二人の元へ猛烈に突進した。二人はカロンの一撃を避けたが、その隙に看守達に取り囲まれ退路を断たれている。

「…さぁ、退くのじゃ、ディーナよ」

 ヨハネに急かされ、ディーナはレブロブスとガイウスを心配そうに見遣りながら後退した。

 すると、ディーナ達が通って来た通路の奥から広間に向かって来る人影が見えた。頭から血を流した看守である。レブロブス達が討ち取った者の中に、まだ息がある者がいたのだ。

 広間に足を踏み入れたその看守は怪我のせいで意識が朦朧としているのか、茫然と辺りを見回していた。しかし眼前にいるヨハネの姿を視野に入れた途端、瞳の中に憎悪を宿らせた。

「囚人ごときが…逆らいやがって……!」

 看守は剣を片手にヨハネに向かって突き進んだ。

「ヨハネさん!!」

 魔術の詠唱を始め、精神を統一しているヨハネにディーナの声は届かない。考える間もなくディーナはヨハネと看守の間に割り入り、ヨハネの背を守るように両手を広げ立ち塞がった。

 看守の剣がまさにディーナへ振り下ろされようとした時。

 風を切る音と共に一本の矢が看守の首を貫通した。看守は剣を取り落とし、そのまま床に倒れ伏した。

 ディーナは矢が飛んで来た方向を仰ぎ見た。

「あ、当たった…!?」

 矢の命中に誰よりも驚いていたのはその矢を放ったピリポ自身であった。

 鎖を登りきり高所に立ったピリポは、見事に気配を悟られぬまま敵を討った。彼は敵を撃破した感動の余韻に浸ることなくすかさず二の矢を番え、レブロブス達を取り囲んでいた看守の一人の背を射抜いた。

「やるじゃねぇか、ピリポ!」

 態勢を崩された看守達の隙を突いたガイウスが斬り込みをかけ、レブロブスと共に包囲を脱した。

「みなの者、よくやってくれた!」

 その時、詠唱を終えたヨハネの声が広間中に凛と響いた。

「血は満ちた…! 古より伝わる聖なる力をその身に受け、土へと還るがよい!」

 ヨハネの頭上に光輪が浮かび上がった。その形が球となって凝縮されると、白かった球の色が紫紺に濁り、数多の光弾となって看守達の身体に降り注ぎ爆発した。

 光弾は爆発だけではなく毒気にもよって彼らの身体を害した。生き残っていた看守達の皮膚は瞬く間にただれ、その肉は腐敗し、崩れ落ちた。

 獄長のカロンもその例外では無かった。

「ここから…逃げおおせたところで……貴様らに安住の地など…無い……!!」

 呪詛のような断末魔の叫びを上げて、カロンの身体は朽ち果てた。

「す、すげぇ…」

 レブロブスは目の前の汚泥の海を眺めて息を呑んだ。

 ヨハネは笑みを浮かべ泰然と佇んでいる。

「年寄りの話には耳を貸すものじゃ」

 

 

 

 

 牢獄の外に出て、ディーナは初めてゴルゴダの牢獄が山岳地帯に位置しており、社会から隔絶されたように薄寂しく建てられていたことを知った。脱獄に成功した一行は牢獄から十分に離れた崖の上で小休止することとし、そこで夜明けを迎えた。

 朝日が残雪のある山肌を輝かせ、眼前に限りなく広がる山稜には清涼な空気が流れ込んでいる。

「お主には悪いことをした」

 ヨハネがピリポに憐憫の情を以って語り掛けた。

「不測の事態だったとは言え、脱獄の手引きをさせた上に、かつての同僚を手にかけさせってしまったからのぅ」

 崖の上に立ち尽くし俯くピリポの頬は濡れていた。

「違うんだ」

 ピリポは瞳を潤ませたまま、手の甲で頬を拭った。

「健康な身体でいられることって…こんなに凄いことなんだね。それに僕は…弱虫なのにあんな風に戦うことができて…まだ、信じられなくて!」

「俺達の中に弱虫なんていねぇんじゃないか?」

 ピリポの言葉を、レブロブスがあっさりと打ち消した。

「そうだよ、ピリポ君は弱虫じゃない」

 ディーナがピリポに笑い掛ける。

「あなたは自分のことを顧みずに私を牢屋から逃そうとしてくれた。それから、私の命を救ってくれた。ピリポ君の勇気が、私をあの牢獄から脱出させてくれたんだよ。本当に、ありがとう!」

 ピリポはレブロブスとディーナを見つめながら、再び瞳から大粒の涙を溢した。

「義を見てせざるは勇無きなりってな。自分の中で正しいことだとわかっていながら、それを実践できない奴を弱虫と言うんだ」

 岩に腰掛けているガイウスは、見繕ったばかりの武器の手入れをしながら口を開いた。それはカロンから無断で頂戴した槍である。

「こんな言葉もあるぜ。恐れを知って―――」

「恐れを知って、しかもそれを恐れざる者こそ、真の勇者なり! 古くから伝わる邪教の教えではないか! わしも気に入っておるぞ」

 ガイウスの言葉にヨハネの朗らかな声が重なった。

 泣き止んだピリポは頬を濡らしたままヨハネの話に聴き入っており、セリフを奪われたガイウスは不服な顔でヨハネを睨み付けた。

「ガイの言うとおり、お主は既に勇気とは何かを知っておったから、それを実行することができたのじゃ。その勇気こそが、お主の中に眠っていた力を引き出したのかもしれん。自分に自信を持つことじゃ」

 レブロブスが愉快そうに隻眼を光らせた。

「おもしろくなってきたな! 脱走犯の俺達には、その内追っ手が差し向けられるはずだ。バラバラに逃げても戦力が分散して、何の得にもならねぇ。しばらくは一蓮托生と行こうじゃねぇか!」

「筋肉馬鹿の割に難しい言葉を知ってるな」

「ガイ、そろそろてめぇの舌を引っこ抜くぞ!」

 レブロブスとガイウスの間を流れる空気が牢獄内で出会った頃よりも柔らかくなっていることに気付き、ディーナは微笑ましさを感じた。異端審問官達が現れた時からずっと張り詰めていた緊張の糸が、初めて緩んだ瞬間だった。

「しっかし、これからどうするよ? お前の主人を探すと言っても、何の手がかりもねぇんだろう?」

「うん、ゼロが連れ去られている間、私は気を失ってしまっていたから…」

 当惑する様子のレブロブスの言葉にディーナは目を伏した。

「探す当てが無いと言うならば、お主達を案内したい場所がある」

 ヨハネがディーナを見つめながらある発案をした。

「わしが昔、統治していたリベイラの街じゃ。そこには古い知人もおるので、何かしらの力になってくれるかもしれん。幸い、ここから距離もそう遠くない」

「少なくともここに長居するよりはましじゃないか? そうと決まりゃあ、さっさと出発しようぜ」

 ガイウスが槍を仕舞い、岩から立ち上がった。

 男達は崖から背を向けて歩き始める。

 ディーナは出立の前に、崖の上から広がる壮観な光景を眺めていた。吹き抜ける風が彼女の髪と背中の白い羽を揺らす。

 この果てしない世界の何処かにいるゼロと再会すること。それは途方も無い願いであり、ゴルゴダの牢獄で囚われの身のままの彼女であれば、成し遂げることは不可能だった。

 しかし、牢獄で出会った者達の導きにより、彼女の可能性は切り開かれた。

 その可能性に賭けてディーナは旅立つ。ゼロにもう一度会い、伝えなければならない言葉があった。

「ディーナ!」

 先行するピリポがディーナを呼ぶ声がする。

 ディーナは仲間たちの方へ振り返り、歩き出した。




 主要登場人物が揃いだす章だったので、大変楽しく創作する事ができました。
 第三章以降は構想を練っている段階なので、更新頻度はかなり低くなると思いますが、お付き合いいただける場合は長い目で見ていただければ幸いです。
 第二章までお読みいただき、ありがとうございました。
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