BLACK/MATRIX REACT   作:suiru

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第四章 襲いくる郷愁

 

 

 黄昏の陽光が荒野を照らしていた。物寂しい光景が広がる荒野に、剣を構え対峙している二つの人影がある。その内の一つはディーナだった。

 剣を持つ彼女の手付きはたどたどしく、相手方から次々と繰り出される打撃を受けるだけで全神経を使い果たしていた。相手の勢いに呑まれじりじりと後ずさっていると、背後に流れている小川に足を取られた。小さな悲鳴と共に、浅瀬へ盛大に尻餅をつく。

「あいたた…」

「ディーナ、大丈夫?」

 二人の様子を眺めていたピリポが川辺へ駆けて行き、ディーナに手を差し伸べた。

「ありがとう、ピリポ君」

 ディーナは自らの醜態に苦笑しながらピリポの手を取り、立ち上がる。そして今まで剣を交えていた相手へ視線を移した。

「レブロブスさんも、稽古をつけてくれてありがとう」

「…ったく、調子が狂うぜ。素人の女に剣を教えたことなんざねぇからな。加減が難しいんだよ」

 レブロブスはげんなりした様子で、手にしている剣で肩を叩いている。二人が用いていたのは、稽古の為に拵えた木剣だった。

 次の目的地であるパンデモニウムの街を目指し旅を続けている一行は、その日の旅程を終えて野宿の支度をしていた。その合間を縫って、ディーナはレブロブスに剣術の指南を請うた。

「そんな俄稽古、やったって意味無いだろ」

 焚き火にくべる薪を割っているガイウスが口を挟む。

「鎧を着ちまえば、お前はまともに戦えるんだ。一から腕を磨く真似をしなくてもいいじゃねぇか」

「うん…そうかもしれないけど……」

 ディーナは小川から陸に上がり、濡れた上衣の裾を絞った。そして俯きながら神妙な顔つきで言葉を続ける。

「鎧の力は私の努力で手に入った訳じゃないから、その、何だかずるしてるみたいで…。一朝一夕にいかないのは分かってるけど、少しでもこの力に見合った強い戦士に近付きたいの」

「それはそれは、御立派なことで」

 ガイウスはからかい甲斐があると言いたげに、皮肉めいた笑みを浮かべている。

「まずはその及び腰をどうにかしないとな」

「は、はいっ!」

 ディーナは背筋を伸ばし、意気盛んに顔を上げた。

「殊勝な心掛けじゃよ。鎧の力を過信していては、鎧を着る者自身の成長には繋がらん」

 焚き火の側の岩に腰掛け、ディーナ達を見守っていたヨハネの声音は柔らかい。

「強さというものは、腕節の強さに限ったものではない。強靭な精神力を備えていることも、その者の優れた能力である。現に、お主は意志の力によって鎧の封印を解き放ったのじゃからな。その意気込みを忘れなければ、己の戦う力も自然と身に付くであろう」

「さぁさぁ、ルピルピちゃん特製シチューができあがりましたよーっ!」

 ルピルピが得意気に火にかけた鍋を掻き混ぜ、夕餉の時間を知らせる。鼻腔をくすぐる香りが鍋の周りへ広がった。

 

 

 

 

「あの、一つ気になってることがあるんだけど……」

 皆が焚き火を囲みながら食事を取っていると、ピリポが口を開いた。

「ディーナは今でも、白き羽なの?」

「私? えっと…」

 彼の隣に座っているディーナは椀から匙を動かしていた手を止め、返答に窮していた。

 羽を失った自分が世の中でどのように位置付けられるのかなど、想像だにしていなかった。

「今のお主は、白き羽でも黒き羽でも無い」

 事実を解き明かしたのはヨハネだった。

「言ってしまえばルピルピと同じ、邪道騎士と呼ばれる身分にあたる。白き羽と黒き羽の二項対立的な種族関係からは除外されたと考えればよい」

「じゃあ、奴隷階級じゃなくなったディーナなら、奴隷を連れていてもおかしくないよね?」

「別段、問題は無いと思うが…」

 ピリポの質問の意図を掴めず、ヨハネは小首を傾げる。

「ねぇ、僕をディーナの奴隷にしてくれないかな?」

 ピリポはディーナに向き直り、のどかな調子で願い求めた。

「えぇっ!?」

 ディーナは仰天し、椀を口につけていたレブロブスとガイウスは中身を吹き出した。

「何寝ぼけたことを吐かしてやがる!?」

 レブロブスはむせ返りながらピリポを凝視した。

「そんなことできないよ! ピリポ君と支配したりされたりする関係になんて、なりたくない!」

 ディーナが勢いよく首を横に振ると、ピリポは叱られた子犬のようにしゅんと俯く。

「そっかぁ…君が僕の御主人様になってくれたら、愛が本当にあるのかどうか、僕にもわかる気がしたんだけどな…」

 ピリポがディーナへの隷属を切望する動機は、自らの保護を求めて力のある他者へ頼ろうとする、悲観的な強迫観念によるものでは無いようだった。ディーナとゼロの間に培われた絆に憧憬し、それを得るための道を彼が考え得る限り自発的に模索した結果だった。

 だが、ピリポと自分が主従関係を結ぶこと自体が理不尽だとディーナは感じた。

「羽が無くなっただけで、ピリポ君と私が同じ人間であることに変わりは無いよ。あなたは私の大切な友達なの。だから、私達の立場に距離を置いたりしないでね…」

「友達…友達かぁ……!」

 ピリポは名付けられた称号の響きを不思議そうに口にしていたが、腑に落ちたのかその表情は晴れやかになった。

「さすがは大邪神の鎧の適合者ね! 愛だけじゃなく、他の七つの大罪である平等や友情までも軽々しく口にできちゃうんだから!」

「うむ、実に興味深い見解じゃ…」

 ディーナの弁がルピルピとヨハネを唸らせていた。

「ところで、ルピルピよ。お主がくれたこの地図なのだが」

 食事を済ませたヨハネは、大陸全土を網羅しているという羊皮紙の地図を広げた。

「どうやら粗悪品のようじゃ。魔法都市リニアの所在地が抜け落ちておる」

「そうでした。お師匠様は牢獄にいらっしゃった時間が長いから、ご存じないのですね…」

 ルピルピが浮かない顔つきで地図を覗き込み、言葉を続ける。

「リニアは、消滅したそうです。今から二年程前のことですわ」

「なっ、何じゃと!? 都市が丸ごと消え失せたとは、一体何があったと言うのじゃ!」

 ヨハネはひどく動揺している。

「その話なら聞いたことがある。火砕流のせいだとか、新型兵器の実験に失敗して大爆発が起こったせいだとか、いろんな憶測が飛び交ってたな」

 ガイウスが当時を振り返ると、ルピルピは頷いた。

「リニアが滅亡した原因はわからずじまい。都市の領域には今も有毒ガスが発生してるとかで、立ち入ることができないの。あの時は世界中大騒ぎだったわ…どこの街も壊滅したリニアの救援を行う程の余裕が無かったから、アンゲルス教団が早々に先遣隊を結成して対処したのよ。結局、生存者は見つからなかったみたいだけど…」

「なんと嘆かわしい…リニアは高名な学者達が集う、叡智の園であったというのに」

 うなだれるヨハネの姿は憂色に包まれていた。

 ヨハネ達の会話を虚心に聞いていると、ディーナの中にある感情が沸き起こった。初めにそれは、渚に佇む者の足首だけを濡らす波のように、穏やかに彼女の胸へと打ち寄せていた。意識を傾けると、その波は即座に荒々しくなり彼女を飲み込もうとした。この激情のうねりが何であるのか探り当てようとしても、言い表す言葉が見つからない。

「ディーナ? 僕が変なことを言ったせいで、気を悪くさせちゃった、かな…」

 溺れる意識を掬い上げたのは、ピリポの声だった。

「ううん! ご飯が美味しくて食べすぎちゃったから、眠くなっただけだよ。お皿、洗ってくるね」

 正気付いたディーナはピリポに微笑むと、身の回りの食器を手早く重ね、立ち上がった。

 

 

 

 

 荒野で過ごす夜の眠りから、ディーナは目覚めた。

 身を起こし、辺りを見回す。満月が空高く浮かんでいるため、夜明けは遠いようだった。

 枯れ草が時折風にそよぎ、焚き火が燃える音だけが聞こえる、静謐な夜だ。しかし、寝付こうとする気がすぐには起きなかった。夕餉の時間に感じたどよめきが、今も胸の中で残響を続けているようで、すっかり目が冴えてしまっていた。

「交代の時間には、まだ早いぜ」

 張り番のガイウスが、退屈そうに欠伸をしながら膝に頬杖を突いて座っている。

「あれ? レブロブスさんは?」

「見張りを代わってやったのに、風に当たるとか言ってふらふら何処かに消えやがった。筋肉馬鹿にも、物思いにふけりたい時があるらしい」

 ディーナの問い掛けに、ガイウスは火に薪をくべながら淡々と答えた。

 周囲に広がる夜陰の中へ目を凝らすと、程近い岩の上に黒い人影が見える。

「私、様子を見てくる」

 ディーナは角灯を手にして立ち上がり、他の仲間達の眠りを妨げないように抜き足で焚き火の側を離れようとした。

「得物は必ず持って行け」

 ガイウスに睨まれ、慌てて剣を背負った。

 荒野を進み、人影がレブロブスであると確信できる距離まで近付いた所で、ディーナは立ち止まった。

 レブロブスは岩の上に胡座を組み、黙想していた。角灯の仄かな灯りを受けただけでも、彼の豊麗な肉体から溢れ出る生命力を感知できる。だが彼の眉間には微かに皺が寄り、深い苦渋の色が浮かんでいるように見えた。その逞しさと懊悩は釣り合いが取れないまま彼に内在し、ある種の芸術的な魅力を醸し出している。

 ディーナが声を掛けることを忘れて立ち尽くしていると、彼女の存在に気付いたレブロブスは表情を和らげ、彼女を見た。

「眠れねぇのか?」

 ディーナは頷く。

「しばらく隣にいてもいい?」

「好きにしろ」

 レブロブスの返事には愛想が無かったが、彼女を煩わしがっているようでも無かった。

 ディーナがレブロブスの側にある岩に座ると早々に、彼はディーナに話し掛けた。

「お前、どういう気の変わりようだ? リベイラの神殿じゃ弱音を吐いてたくせに、随分と戦うことに前向きになったじゃねぇか」

「あの時、レブロブスさんが励ましてくれたお陰だよ。それとね…」

 ディーナは微笑を返し、間を置いてから言葉を続けた。

「私なりに考えたんだ。ユダさんを…初めて人を斬り付けたのは、凄く嫌な感触だった。できるなら、もう二度とあんなことしたくない」

 ディーナは渋面を作り、岩に立て掛けている自らの剣を見つめた。

「でも、私達はお尋ね者だし…それに、ゼロを助けるために対立する人達と、話し合いで解決できない場は起こると思う。そんな時、戦う力があっても皆の後ろに隠れたままなんて、もっと嫌。だから、今自分が持っている力を最大限に活かせるようにしたい」

 レブロブスは大口を開き、豪快な笑い声を上げた。

「お前にそう決意させたもんが、主人への愛ってか! 愛のためなら、自分の羽をむしり取ることも、殺し合いだってできるって訳だ! 見上げた根性じゃねぇか。この世にそんなもんが無かったとしても、お前は大した奴だよ!」

 些細な悩みなど吹き飛ばしてしまうような彼の気強い笑顔は、見ていて爽快だった。

「馬鹿真面目に愛の存在を信じ続けるお前が、正直、羨ましくなってきたぜ。俺は…未だに自由ってもんが、ちっともわからねぇままだ。なぁ、お前は自由って一体何だと思う?」

「自由…。うーん…ゴルゴダの牢獄にいた私達の逆で、牢屋に入れられずに身体を動かせること? それだと捕まっていない人は皆、自由の大罪を犯していることになっちゃうし…何だか頭がこんがらがってきたよ……」

 レブロブスとの問答に、ディーナは苦心しながら考えを巡らせる。

「自分のやりたいことが、誰にも邪魔されずにできることかな。だけど、それって…」

 ディーナが自らの答えに違和感を持つと、途端にレブロブスの表情が険しくなった。

「お前の言うことが本当なら、真っ先に裁かれるべきは、好き放題やってる黒い羽の奴らじゃねぇか! 白い羽をさんざこき使い、享楽三昧してるあいつらの、どこが自由じゃねぇって言うんだ!? 罪に値する自由って、何なんだよ…!?」

 レブロブスは苦しそうに俯いた。

「一瞬でもいいんだ…真の自由を手にすることができるなら、俺は死んだって構わない!」

 レブロブスの剣幕にディーナが圧倒されていると、彼は決まりが悪そうに薄く笑いを浮かべた。

「すまねぇ。因縁深い土地に戻ってきちまったせいで、ついカッとなっちまった」

「そっか、ガイウスさんが、レブロブスさんはパンデモニウムの剣闘士だったって話してたね。だから街の名前に聞き覚えがあったんだ…」

 命懸けの旅路を共にしている仲間達の過去を、ディーナは熟知していない。過去を失っている自分が、他人の過去を無理に詮索することについて気が咎めたからだ。

 レブロブスが自由を追い求める理由の中に、彼が負った痛みが潜んでいる気がした。それを癒そうなどとは甚だおこがましいが、何か自分にできることはないかと思った。

「レブロブスさんはどうして――」

「おい、お前ら」

 会話を遮られたディーナが振り向くと、ガイウスが腕を組みながら立っていた。冷然とした眼差しを二人に向けている。

「お喋りに夢中で気が付かなかったか? 隠れて俺達の様子を窺ってる奴らがいる」

 ディーナは緊張で身を竦ませたが、レブロブスは苦々しげにガイウスを睨み返した。

「わーってるよ! 二人だろ? 気配を隠し切れてねぇ。身構える程の奴らじゃねぇよ!」

「全然、気付けなかった……」

 ディーナは自らの危機意識の足りなさを恥じた。

「そこにいるのはわかってる! こそこそしてねぇで、出て来やがれ!」

 レブロブスは前方の岩に向かって怒声を浴びせた。ディーナは手にした剣の柄に手をかけ、彼の視線の先を注視する。

 岩陰から現れたのは、二人の白い羽の男達だった。するとその内の一人がレブロブスの元へと引き寄せられるかのようにふらふらと前へ進み出た。頭髪に白色が混じるその初老の男は、頬が痩け、憔悴しているようだった。

「レブ…! 本当に、レブなんだな……!」

 男の叫びには、欣喜の響きがあった。

 レブロブスの隻眼が見開かれる。

「お、お前っ! ダロムじゃねぇか!?」

 ダロムという男は糸が切れた傀儡のように、その場に膝を突いた。

 レブロブスはダロムの元へ駆け寄り、その肩に手を回し彼の身体を支えた。がっしりとしたレブロブスの腕の中で、ダロムの体躯はより一層貧弱に見える。

「知ってる奴なのか!?」

 ガイウスが不審がると、レブロブスはダロムを見つめたまま声を発した。

「こいつは…俺の古巣の闘技場で雑役夫として働いていた男だ。俺がガキの頃から、親代わりになって何かと面倒を見てくれていた」

 レブロブスの瞳には、旧知との再会の喜びと、その者が変わり果てた姿で目の前に現れたことへの当惑がある。

「ダロム、どうしてお前がこんな所にいるんだ!?」

「俺達は身体一つでパンデモニウムの街から逃げ出して来た。何日も碌に食べてなくて、行き倒れそうなんだ…。頼む、食料を分けてくれないか…?」

 ダロムは縋るような目つきでレブロブスに哀願した。

「わかった、とにかくこっちに来い!」

 そう言うと、レブロブスはためらわずに二人の放浪者を焚き火の側へと導いた。

 

 

 

 

「こんな所でレブに助けられるとはなぁ。お前はてっきり、ゴルゴダの牢獄で処刑されちまったもんだと思っていたよ」

 食事を与えられ飢餓状態を脱したダロムの顔つきには、理性が戻りつつあった。

 他の仲間達も目を覚まし、焚き火の近くに腰を下ろしているレブロブスとダロムの会話に耳を傾けている。

「ちょいといろいろあったのさ。俺達は脱獄して、パンデモニウムの街に向かっているところだ。それよりダロム、パンデモニウムで何があったんだ?」

 ダロムは意気消沈とした様子で視線を落としながら話し始めた。

「パンデモニウムに、マモンという高利貸しの男がいてな。荒稼ぎをしていたそいつはとうとう、金に物をいわせてこさえた傭兵団を使って街の領主を殺し、新しい領主になった。お前が捕まる少し前の話さ。領主にのし上がる程の才覚とその強欲さに、街の住民達は心酔しているんだが…」

 深い溜め息を吐いたダロムからは、この世の終わりでも告げるような悲愴感が漂っている。

「取り立てられる税の額が跳ね上がってなぁ。しかも、マモンに破格のみかじめ料を支払える店しか商売ができなくなって、物価も滅茶苦茶に上がった。街でまともに暮らしていけるのは、一部の金持ち連中だけになっちまったのさ! 俺達の主も、マモンに借りた金が返せなくて首を括っちまった。それで俺達は借金の形に剣奴の競り市にかけられそうになって、命辛辛街を飛び出して来たんだ。笑っちまうだろ、こんな老いぼれにまで剣闘士をやらせようなんて!」

「そんな領主、俺がぶっ殺してやる! ダロム、お前達も一緒に来いよ!」

 レブロブスは領主への憤りのために顔をしかめ、気炎を揚げた。しかし、ダロムは彼の誘いに対して諦観を持ちながら首を横に振った。

「いや…遠慮しておく。何だか、お前達は訳有りの一団みたいだな。俺達のような弱い奴らは、きっと邪魔になるだけだ。このままリベイラまで逃げ延びることができたら、どうにかして新しい主を見つけようと思う」

 俯いていたダロムは顔を上げ、レブロブスを気遣うような眼差しを向けた。

「気を付けろ。今のパンデモニウムには、金のためなら何でもやる暴徒とゴロツキ共しかいねぇ。それと…闘技場にあいつが戻って来たぞ……」

 ダロムの言葉に、レブロブスは一瞬、色を失った。

「あの野郎、生きていやがったのか……!」

 見る間に、レブロブスの形相が夜叉に取り憑かれたか如く変貌する瞬間をディーナは目にした。

「闘技場には近付くな。それじゃ世話になった、俺達はそろそろ行くよ」

 ダロムが立ち上がると、ヨハネは手頃な大きさの皮袋に食料を詰めて彼に手渡した。

「旅の無事を祈っておるよ」

「あんた、黒い羽のくせに風変わりな奴だなぁ! 有り難く貰っとくぜ」

 皮袋をしっかりと背に括り付け、ダロムはレブロブスに向き直った。

「レブ、最後にお前の顔を見られてよかった。競り市にかけられそうになった時、俺はつくづく生きてることに嫌気が差して、いっそ死んで楽になろうかと思った。だが、お前のことを思い出して、街を逃げ出す決心がついたんだ」

「俺のことを?」

「あの生き地獄のような闘技場の中で、お前には何が何でも生き抜いてやろうという気概があった。お前を見ていると、いつも胸がすく思いだったよ。こいつはいつか、どえらいことをやってのけると予感していた。だからお前が闘技場を脱走した時、やりやがった! と俺はほくそ笑んでいたのさ。お前はついに、自由ってもんを選び取ったんだ」

 レブロブスは苦笑いをしながら立ち上がった。

「何言ってんだよ。俺の脱走劇があっという間に終わったのはよく知ってるだろ。自由なんて、雲の上だぜ!」

 ダロムはそれ以上多くを語ろうとはせず、柔らかい微笑みを浮かべるだけだった。今の彼には、一度は死の誘いに身を委ねかけた者だとは微塵も感じさせない清々しさがあった。

「達者でな…レブ」

 ダロム達が消えて行った薄闇の奥を、レブロブスはしばらく名残惜しそうに眺めていた。

「お前らとの旅はここまでだ。俺には寄る所ができちまった」

 レブロブスの表情には確固たる決意が漲っている。

 ディーナは彼の側へ歩み寄り、じっとその巨体を見上げた。

「さっき話していた闘技場に向かうつもりなんだよね? 私も一緒に行く」

「馬鹿野郎! お前はマモンとかいうふざけた領主を問い詰めに行くんだろ!? 俺の用事に構ってる暇はねぇはずだ!」

 凄味を利かせるレブロブスに怯むこと無く、ディーナは凛と食い下がる。

「だってレブロブスさん、すごく思い詰めた顔してる…! 心配なの! それに闘技場に行くってことは、危険な戦いをするかもしれないんでしょう!?」

 二人が互いに譲らず睨み合っていると、ヨハネが一つ大きな咳払いをした。

「レブよ、お主がダロムと話している間に、もう一人の白い羽の男からこんな話を聞いた。パンデモニウムの住民は、週末に闘技場で開かれる賭事に必ず参加し、稼いだ金を領主に納めなければならない。領主は視察と称して度々闘技場を訪れ、一緒になって博打に興じているそうじゃ」

「今日はちょうど週末! 闘技場に行けば、守りが堅い領主の館に攻め込むよりも、簡単に領主に会えるかもしれない、というお考えなのですね!」

 ルピルピが嬉しそうに手を打った。

「目的地が同じなら、問題無いよね」

 レブロブスをまっすぐに見つめるディーナの顔を、光が輝かす。乳白色の空を鮮麗な黄金色に染め上げる、朝焼けの光だった。

 レブロブスは眩しげに目を細め、嘆息を漏らした。

「お前みたいな底抜けのお人好し、長生きできねぇぞ。もういい…付いて来るなら勝手にしやがれ」

 

 

 

 

 パンデモニウムの市街地と件の闘技場は、間に丘を一つ隔てた位置関係にある。一行の進行方向からは、市街地より手前に闘技場はあった。

 闘技場に辿り着き、ディーナは仰け反るような姿勢でその巨大な建造物を仰ぎ見た。堅固な石造りの壁が、城塞のように広大な敷地を円形に取り囲んでいる。壁の中では、観客達の喚声とおぼしき轟音が反響していた。

 ディーナ達が立っているのは、博打の参加者達が受付を済ませるための広場である。賭けで所持金を使い果たしたと地団駄を踏んで悔しがる者、試合の勝者となる剣闘士の予想紙を巧みな宣伝文句で売り込む者。広場には闘技場へ賑わいをもたらす人々が溢れている。

「僕、博打なんてやったことが無いけど…お祭りみたいで楽しそうだね」

 ピリポは広場の雰囲気に些か浮かれ、珍しそうに辺りを見回している。すると彼は、受付カウンターの隣に立てられている表示板に目を留めた。そこには試合に出場する剣闘士の名と、その者の勝利を当てた際に得られる配当金の倍率が書かれている。

「ピリポ、間違っても勝者投票券を買うなよ。ここの博打は、配当金からとんでもねぇ額の寺銭が差し引かれる。客は勝とうが負けようが大損する仕組みなんだ。特にお前なんか、いいカモにされるのが目に見えるぜ」

 レブロブスに釘を刺され、ピリポは肩を窄めた。

「そうなんだ…ちょっとだけ、やってみたかったなぁ…」

「てめぇら、客じゃねぇのか!? 冷やかしならとっとと失せろ、この貧乏人共!」

 カウンターにいる受付係の男が、レブロブス達の会話を聞き付けて罵り声を上げた。

「そうだ、俺達は客じゃねぇ! こんなくだらねぇことに、びた一文だって賭けられるか!」

 レブロブスは片手でカウンター机を強く叩き、受付係へ詰め寄った。

「俺は次の試合の出場選手としてここへ来た! こいつらは俺の介添えだ! さぁ、俺を選手控室に案内しろ!!」

 受付係はレブロブスを見るや否や、平静を失った。

「レ、レブロブス!? ど、どうしててめぇが生きてここにいやがる!? それに今日の大会はさっき予選が終わって出場選手は決まった――」

「特別枠で出場させるんだよ、この俺を! 最強の白き羽が舞い戻ったんだ…客寄せにゃあ十分だろうが! 早くしねぇとここでひと暴れして大会を中止させるぞ! 手始めにお前から締め殺してやろうか!?」

 レブロブスから放たれるのは、視線だけで相手を死なせることができるような禍々しい殺意だった。

 怯え切った受付係は、レブロブスの出場について闘技場支配人の了承を得る必要があると、その場から矢のような速さで支配人の元へ飛び出して行った。

「待って、一人で戦うつもりなの!?」

 ディーナがレブロブスの独断に非難の意を込めて問い掛けると、彼はきっぱりと言い放った。

「闘技場のルールは、一対一の個人戦だ。お前達の出る幕はねぇ。客席に紛れて、領主探しに集中してろ」

「言われなくてもそうするさ。こんな目立つ所で、脱獄囚の俺達が仲良く揃って戦うなんざ、愚の骨頂だ」

 ガイウスの口調には日頃と変わらぬ刺があった。

「死んだら墓石くらい建ててやる。気兼ね無く行ってこい」

「もー、素直に頑張れって言ってあげればいいじゃない!」

 ルピルピがガイウスに唇を尖らせていると、受付係がカウンターへ駆け戻った。

「レブロブス、出場の許可が下りたぞ! すぐに本選が始まるから、選手のお前は控室に急げ! わかってるだろうが、大会へのエントリーはもう取り消せねぇぞ。大会を制覇するか、ぶっ殺されるかのどっちかだ!」

「へいへい。そんじゃ、行ってくるわ」

 レブロブスは気晴らしの散歩にでも赴くような悠長な歩みで、受付係と共に闘技場内部へ進み始めた。

「私、いつでも戦えるようにしておく! だから絶対、無茶なことはしないで!」

 ディーナの必死の呼び掛けに、彼は背を向けたまま開いた片手を上げて、薄暗い通路の先へ姿を消した。

 

 

 

 

「御来場の皆様、お待たせいたしました! 闘技大会本選、第一回戦を開催いたします! 熾烈な予選を勝ち抜いた八名の中から、第二回戦へ進出する四名が決まりますが、ここで急遽、八人目の出場選手が交代の運びとなりました!」

 闘技場内の階段状になった観客席の最前列で、司会の男が拡声器を手に名調子を響かせる。

「飛び入り参加となったその選手の名は、ゴルゴダの煉獄から奇跡の生還を果たした最強の白き羽、レブロブス!!」

 観客達は予期せぬ展開に色めき立ち、沸き起こる喚声は大地を揺らすようだった。柄の悪い観客が、聞くに堪えない下品な言葉遣いで、レブロブスに声援を送っている。

 渦巻く熱気を気にも留めず、アリーナに立つレブロブスは空を見上げた。そびえ立つ闘技場の壁が、視界の中で紺碧の空を楕円形に縁取っている。囲われた空の中を、鷹か鷲か、大型の鳥が滑空していた。その鳥は闘技場の上空を一回、二回と旋回し、悠々と羽ばたきながら彼方へ飛び去った。

「そうだ…俺はいつもこの空を見ていた……」

 ゆっくりと頭を下げ、対戦相手を見据える。目の前に立ちはだかるのは、双剣を携える、線の細い若い白羽の男であった。

「この闘技場の戦士に、脱獄囚も異端者も関係無い! ただ我々を滾らせ、めくるめく死闘を見せてくれれば何でもいい! さぁ、決勝戦へ駒を進め、今大会王者、不発弾のゼファルへの挑戦権を獲得するのは誰なのか!?」

 司会が高らかに試合の開始を告げた。

 試合が始まってすぐ、レブロブスは相手の戦意が挫けそうになっていることに感付いた。我武者羅に振り回される二刀は空を切るばかりで、レブロブスに命中する気配は無い。剣を構える姿も隙だらけだった。

「てめぇっ、びびってんのか!? そんな弱腰でよくここまで来れたな! つまらねぇ戦いをしてると、客席から野次と一緒に矢でも飛んで来るぞ!」

 相手と距離を空けながら、レブロブスは声を荒げた。

「…お前のせいで、俺の計画は台無しだ……」

 獣が威嚇するような低い声が、双剣使いの男の口から漏れた。

「予選を通過した時、優勝の最有力候補は俺だった。闘技場の支配人達は、この大会に優勝すれば俺を剣闘士の身分から解放すると約束していたんだ! それなのに…お前が出場したせいで、支配人達の関心はお前に移った! お前とゼファルをぶつけた方が客が入ると…俺との約束は反故にされた!!」

 双剣使いは目を剥いて怒りを露にする。

「そんな約束、端からあいつらは守る気なんて無かったんだ! お前に発破をかけるための甘言だったんだよ! 少し考えりゃわかるだろう!?」

 レブロブスは双剣使いを弄んだ者達へ溢れ出る憤怒を、歯を食いしばって抑え込んだ。そして戦斧を振りかざし、彼との距離を一気に詰める。

 レブロブスが振り下ろした一撃を、双剣使いは恐れ慄きながら刃で受け止めた。レブロブスは斧の柄を握る両腕の力を加減している。

「おい、よく聞け!」

 声を潜めて双剣使いに鋭い眼差しを向ける。

「客席に俺の連れが紛れ込んでる。そいつらと騒ぎを起こしてこの場を混乱させれば、逃げ出せるはずだ。お前も力を貸せ!」

 そう言い終えた後、レブロブスは自分自身の言葉に耳を疑った。

 眼前にいる哀れな剣闘士を、自分が救いたいと思ったことに驚愕した。そして、知らぬ間に自分がディーナ達の力を心頼みにしていたという深意に気付かされた。弱肉強食という世界の原理の縮図であるこの闘技場で、自分は孤高に戦い抜いていた。そんな自分が他人の命を気に掛け、他人の力を頼る行為に及ぶなど、信じられなかった。

「……ふざけるな」

 双剣使いの瞳に希望の光が灯ることは無く、彼は忌々しげにレブロブスを睨み付けた。そして、渾身の力で彼の斧を撥ね除けた。

「ただの奴隷が束になったところで、何ができるってんだ! 金も権力も持ち合わせていない俺達がここから逃げ出したって、そこからどうやって生きていきゃいいんだ!?」

「逃げた後にいくらでも考えりゃいいじゃねぇか! 自由さえ手に入れれば、どうとでもなる!」

「自由だと!? そんな世迷い言じゃ、腹は膨れねぇ! 支配人達は、一生遊んで暮らせるだけの金も、女も、俺が望むものを全て与えてくれるはずだった! お前だって結局、食い扶持に困ってここに戻ったんだろう!?」

「違う! 俺は…ゼファルの野郎を殺すため、立ち寄っただけだ!」

 レブロブスは悲痛な面持ちで叫んだ。

「思い出せ! 調教師に死ぬ程殴られた夜を、憎くもねぇ相手をたたっ殺す試合を、お前だって今まで耐えてきたはずだ!! その辛抱強さを何故、ここを出て生きるために使おうとしない!? 助かる道があってもなお、お前は黒い羽共へ服従すると言うのか!?」

「うるせえぇっ! 俺を助けたいなら、黙って死にやがれっ!!」

 双剣使いは奇声を発し、レブロブスに斬り掛かる。

 説得を諦めたレブロブスは斧を振るい、彼を剣ごと叩き伏せた。双剣使いの身体と剣は両断され、地面に転がった。白い羽根が辺りに舞い上がり、地面に落ちて血を吸っている。

「畜生!!」

 顔を歪め、レブロブスは咆哮した。

「白い羽はどこまでも虐げられ、利用される…! 俺達が自由になるには…死ぬしかねぇってことなのかよ……!?」

「牢獄にいた間のブランクを感じさせない強力無比の一撃が、相手を屠りました! レブロブス、二回戦進出です!!」

 司会の熱烈なアナウンスに、レブロブスを囲む喚声の輪が一層激しくなる。

 レブロブスが双剣使いの死体を見下ろしながら立ち尽くしていると、数人の白い羽達がアリーナに姿を現した。彼らは慣れた手つきで地面の肉塊を回収し、その場を掃いている。

『お前はついに、自由ってもんを選び取ったんだ』

 ふと、ダロムの微笑みが蘇った。

「ダロムの奴、好い加減なことを言いやがって…。俺がいつ、自由を手にしたってんだ……」

 レブロブスは眉を顰めながら呟き、振り返ると、アリーナから選手控室に続く通路に向かって歩き始めた。

 

 

 

 

 ディーナはレブロブスを探して、闘技場内の通路を急ぎ足でさ迷っている。

 レブロブスは怒涛の勢いで闘技大会本選の二回戦と三回戦を勝ち進み、大会王者との決勝試合を残すばかりとなった。試合までの待機時間が始まってしばらく経っても、レブロブスはディーナ達が待つ選手控室へ戻ってこなかった。ディーナは控室に止まっていても気持ちが落ち着かず、彼と入れ違いになることも承知で部屋を出た。

 アリーナで戦うレブロブスの姿は、雄々しく、軍神のような高潔さがあった。しかし、戦斧を打ち振るう毎に彼の中には迷いが生じ、それに心を擦り減らしているかのように、ディーナには見えた。このままでは、この大会が終わった時、彼に息衝く尊さが失われてしまいそうな気がした。

 通路を闇雲に歩き回っていると、視界が開け、広間に辿り着いた。その広間は部屋の中央部が柵で囲まれており、さらにその柵の全周を取り囲むように長椅子が置かれている。

 広間にはただ一人、レブロブスが佇んでいた。戦いに赴く時とは打って変わった空虚な瞳で、柵の中を見つめている。

「レブロブスさん、ここは…?」

 ディーナはレブロブスの隣に立ち、広間の正体を問うた。

「ここは剣闘士となるべく連れてこられた奴隷達の競売場だ。俺も赤ん坊の頃にここで競りにかけられたと、ダロムに聞かされた」

 ディーナは顔を引きつらせ、広間を見渡した。

 レブロブスは吐き捨てるように言葉を続ける。

「白い羽だったお前にとっても、胸糞悪い場所だろう? 俺は何度もここを燃やしちまいたいと思った。だがそんなことをしたって、何も変わりゃしねぇ。競売場の位置が変わるだけで、剣闘奴隷がいなくなる訳じゃねぇんだ」

 そして彼は表情を曇らせ、か細い声を発する。

「生きてる間、俺達が自由になることも、無いのかもな……」

「やぁっとわかったか! 俺達剣闘士は見せ物として死ぬまで戦い続ける定めなんだよ!!」

 蔑みを含んだ男の声が広間に響いた。二人の背後に、薄笑いを浮かべた白い羽の男が立っていた。神経を逆撫でするその笑みが、首筋から頬にかけて刻まれた刺青の形を歪めている。

「しっかしよぉ、お前も本当に懲りない奴だよなぁ…!」

 男は込み上げる嘲笑を堪えることに苦労しているようだった。

「今はその女に慰めてもらってるのか? そこまでして自分の子孫を残したいのかよ!?」

「ゼファル!!」

 レブロブスの怒気が烈風の如く男に向かって猛り狂う。

「その減らず口、二度と叩けねぇようにしてやる!!」

「レブロブスさん、駄目!!」

 ゼファルと呼ばれた男に組み付こうとしたレブロブスの前に立ち、ディーナは彼を押し止めた。

「闘技場では、試合以外での暴力行為は禁止されてるんだよね? 発覚したら、処刑されるって聞いたよ…挑発に乗らないで!」

 レブロブスは立ち止まり、射るような視線をゼファルに飛ばしている。

「そうだぜぇ、俺達の決着は決勝戦の場で華々しくつけようや! 俺は今、その決勝戦のことで大事な話があって来たんだ」

 ゼファルはレブロブスの殺気に毛ほども動じること無く話し続ける。

「レブロブス! 噂によれば、お前の付き添いでここに来てる奴らは、腕に覚えがあるらしいな。闘技場の運営本部はド派手な殺し合いを御所望だ。そこでだ、決勝戦は五対五のチーム戦になった! お前を入れて五人、出場選手を決めろ! 俺も選りすぐりの猛者を揃えてお出迎えしてやるよ!」

「ふざけるのも大概にしろ! 他の奴らは関係ねぇ! そんな要求、呑めるか!!」

 目の色を変えて抗議するレブロブスに向かい、ゼファルは舌を出しておどけて見せた。

「ばーか! 要求じゃねぇ、主催者が下した決定事項なんだよ! 従わなければ、全員、問答無用で処刑されるだけだ! 安心しろ、乱戦の中だろうと、お前は俺がきっちり殺してやるからよぉ!!」

 ゼファルは卑しい笑い声を上げながら、競売場を立ち去った。残されたディーナとレブロブスを緊迫した沈黙が包む。

「あの野郎…許せねぇ……!」

 怒りに身を震わせるレブロブスを宥めるようにディーナは話し掛ける。

「私も一緒に戦うよ。いったん、控室に戻ろう?」

 レブロブスは拳を握りながら僅かに首を縦に振った。

 

 

 

 

「…すまんな。とんだ厄介事にお前達を巻き込んじまった」

 選手控室の椅子に腰掛けるレブロブスは、ゼファルとの応酬を経て、気力を消耗しているようだった。

「まったくだ。何が楽しくて、俺達がお前の喧嘩に肩入れしなきゃいけねぇんだ」

 部屋の壁に背を持たせ掛け、ガイウスが顔を顰めながら腕を組んでいる。

「試合に必要な人数は五人だ…。お前は出なくていい…」

 いつものように彼の嫌みへ嚙み付く素振りも見せず、レブロブスはうなだれた。

 ガイウスが腹立たしげに舌打ちをする。

「それができねぇから俺は機嫌が悪いんだ! そこの馬鹿女が、勝手に俺を選手としてエントリーしちまったんだよ!」

「酷いよルピルピさん…どうして僕をエントリーしちゃったの? 僕なんかより、ヨハネさんの方が絶対戦力になるのに……」

 ピリポは瞳を潤ませながらルピルピに抗しているが、当の本人はあっけらかんとしている。

「何言ってるのよ。こんなことくらいでお師匠様のお手を煩わせる訳にいかないでしょ! 心配しなくても、鎧を着た私とディーナがいればお茶の子さいさいよ! それに、致命傷以外の怪我なら私が魔法で回復してあげるから!」

「僕…あんなに強そうな人達と戦って致命傷を負わない自信が無いよ……」

「落ち着くのじゃ、ピリポ。いざとなれば、わしが客席から魔術を使って助太刀しよう」

 哀感を漂わせるピリポを励ますようにヨハネが声を掛けた。そして、彼の視線はピリポからレブロブスへと移される。

「して、レブよ。どうやらお主と闘技大会の王者ゼファルとの間には、浅からぬ縁があるようじゃな。無理にでも話してくれとは言わんが――」

 控室にいる者達の注目がレブロブスに集まる。レブロブスは俯いたまま、静かに口を開いた。

「あいつは俺の右目の光を奪い……俺の妻にあたる女を殺した」

 ディーナは息を呑んでレブロブスを見つめる。

「俺達剣闘士は、競走馬と同じだ。剣闘奴隷の飼い主である黒い羽共にとって、試合に勝ち続ける強い剣闘士を所有することが、権力の誇示を意味する。さらに奴らは、剣闘士の能力に生まれが影響すると、俺達の血統に甚くこだわってるのさ。種馬の務めとして、俺にも女があてがわれた。そして女は俺の子どもを身籠った」

 自らの過去を、レブロブスはまるで他人事のように抑揚なく話している。

「生まれてくる子どもが、俺と同じように虐待まがいの調教を受け、金持ちの道楽のためだけに殺し合いをさせられ、この闘技場の塀の中でのた打ち回りながら一生を終えるのかと思うと…憐れでしょうがなかった。それで俺は女を連れ、闘技場を脱走した。…結果はお前達の知るとおりだ」

 彼の話を聞きながらピリポは再び涙ぐんでおり、ガイウスは腕を組んだまま無表情に天井を見上げている。

「俺達が脱走したのは、俺がゼファルとの試合を目前に控えている時だった。戦闘狂の奴は、試合を放棄した俺が気に食わなかったらしい。奴は俺達の捜索隊に加わり、異様な執念で俺達を追い詰めやがった。女は奴に殺され、自由を口にした俺はゴルゴダの牢獄にしょっぴかれた」

 レブロブスがしばし口を閉ざし、控室は沈黙に浸った。そして彼は気を整えるように息を吐き、言葉を続ける。

「不運な女だったんだ…。よく知りもしねぇ男の子どもを孕まされた挙句、その男のせいで、自分の死期が早まっちまったんだからな。ゼファルに斬り裂かれ、事切れる寸前に俺を睨んでいたあいつの目が…忘れられねぇ。さぞかし俺が憎かっただろう……」

 遠い目をしているレブロブスの声が、微かにだが震えていた。

「牢獄で死ぬのは当然の報いだと思った。だがそこで…腹の底から愛なんかを信じている馬鹿に、俺は出会った」

 レブロブスは顔を上げ、その隻眼にディーナの姿を映した。ディーナは驚き、ただ呆然と視線を交わしている。

「お前を見てると、何だかな…俺ももう一回、馬鹿をやってもいいんじゃねぇかと思ったんだ。あの女と俺の子どもが終ぞ得ることができなかった自由ってやつをもう一度、追い求めてみようってな」

「がたいに似合わず、しおらしいことを言うじゃねぇか」

 ガイウスが堪え切れずにくっくっと笑い出した。

「お前の間抜けっぷりがよくわかって、面白かったぜ。その礼だ。次の試合、勝たせてやる」

「…頼むぜ、相棒」

 レブロブスが弱々しく皮肉混じりの笑みを湛えると、闘技場の衛兵が控室に現れ、ディーナ達にアリーナへの移動を命じた。

 

 

 

 

「今まで運がよくて生き残ってこれたけど…今日こそ死んじゃうかもしれないなぁ……」

 アリーナと繋がっている扉の前の通路で、矢筒を背負った暗い表情のピリポがしみじみと独り言ちた。

「運だけじゃなくて、ピリポ君自身が強いからここまで来れたんだよ。頑張ろう。レブロブスさんの力になって、生きてここを出よう」

 ピリポを力付けながら、ディーナは自らの戦う勇気も奮い起こした。そして身体の奥底から不思議な温もりの漲溢を感じたかと思うと、太陽の神殿で見たものと同じ白い光が全身から放たれた。光が収まると、ディーナは白銀の鎧に身を包んでいた。

「本当に、鎧が現れた…」

 ディーナは唖然としながら鎧を眺めたが、すぐに表情を引き締め、麻の紐を取り出し髪を後頭部で一つに結い上げた。

 扉が開かれ、通路に光が差し込む。アリーナに足を踏み入れたディーナ達を、ゼファルを含めた五人の白い羽の男達と、場内に割れんばかりに轟く観客達の喚声が待ち受けていた。

 司会は観客達の興奮を代弁するかのように声を弾ませている。

「ついにこの時がやってまいりました! 今回の試合は闘技大会史上初のチーム戦です! 王者のゼファル率いる歴戦の勇士達に、最強の白き羽であるレブロブス率いる挑戦者チームが挑みます! 相手チームの最後の一人の息の根を止めるまで、この試合は終わりません! それでは、驚天動地の闘技大会決勝戦、開始!!」

 ディーナは向かい合う剣闘士達の一人から、悪寒が走るような怪しい視線を感じた。

「女だ…いい女が、二人もいる……」

 その男は濁った沼のような虚ろな瞳で、舌なめずりをしながらディーナを見ている。

「あぁ、早く…! 斬り刻んで、色っぽい声で鳴かせてやりてぇ……!!」

 そう叫ぶと、男は剣を片手に、ディーナを目掛けて走り寄った。

 ディーナが剣を抜いて男を迎え撃とうとすると、目の前で強固な拳が男の顔にめり込んだ。男の身体は吹き飛び、アリーナに平然と佇んでいるゼファルの足元に倒れた。

「部下の躾がなってねぇぞ、ゼファル! 何が選りすぐりの猛者だ!」

 男を撃退したのは、レブロブスの握拳だった。燃え盛る闘魂をこめてゼファルを睨み付けている。

「どこがおかしい? 己の欲望に忠実な、最高のクズ共じゃねぇか!」

 ゼファルは足元で痙攣している男に一瞥もせず、競売場でも見せた挑発的な笑みを返している。

「俺はゼファルをぶちのめす…! 残りの奴らはお前達に任せた」

 レブロブスは戦斧を肩に担ぎ、ディーナ達の側を離れ単身ゼファルへ迫った。入れ替わるように、大金槌を持った巨漢がルピルピの方へ突進してくる。鎧の力の存在を知らない相手チームは、女であるディーナとルピルピを弱者と判断し、真っ先に標的にしているようだった。

「おいデブ。てめぇの相手は俺だ」

 大金槌の男の行く手をガイウスが遮る。男は攻撃目標を変えて、槌をガイウスへ撃ち下ろした。その一撃は彼を仕留めること無く、土煙を上げただけだった。

「遅い…剣奴のくせに肥え過ぎだな」

 身を躱したガイウスは、男に再び槌を振り被らせる隙も与えず、無防備な背中を槍で貫いた。

「なーんか、拍子抜け! レブがゼファルって人を倒しちゃったら、勝負ありじゃない!」

 ルピルピが物足りなさそうに小首を傾げ、鎬を削っているレブロブスとゼファルを見遣っている。

 壮絶な斬り合いだった。レブロブスの戦斧が、鍛え抜かれた筋肉によって目にも留まらぬ速さでゼファルへ打ち込まれている。ゼファルが使用している槍の柄はいくつもの棍棒の中に鎖を仕込んだ多節棍のようになっており、棍棒の一本一本が生きているかのように空中を這い回って、斧の斬撃を跳ね返していた。レブロブスの攻撃の僅かな隙を狙い、ゼファルがヌンチャクの要領で柄の部分を振るう。遠心力によって破壊力が増しているその打撃は、一度でも当たれば勝敗の決め手になることが明白だった。レブロブスは驚くべき反射神経で上体を後屈させ、凶器の猛撃を避ける。

「素晴らしいぞ、レブロブス! やはりお前の肉体は、戦い続けるためだけに創られた、至高のものだ! あの時は女房を庇いながらだったから、全力が出せなかったんだろう!?」

 攻撃の手を緩めること無く、ゼファルが喜色を浮かべている。

「この闘技場にいればお前の剣闘士としての名誉は揺るがないものになったというのに、なぜだ? なぜお前は、足手まといにしかならない女を連れて脱走するなんて馬鹿げた真似をしたんだ? 自分の優秀な遺伝子を引き継いだ子を、独り占めしたかったのかぁっ!?」

「俺は…否応なしに俺と関わらされたあの憐れな女と、生まれる前から碌でもねぇ生き方を課せられていた俺の子どもに……自由を、やりたかったんだ!!」

 レブロブスが真横に振り抜いた斧の斬撃を、ゼファルは空中で身体を回転させ躱し、彼との距離を取った。

「そうだった、そうだった! 血塗れの女房を抱きながら、お前は同じように喚いていたなぁ!」

 痛ましいレブロブスの叫びを、ゼファルは嘲笑う。

「だが、お前の望みは叶えられたじゃねぇか。死が俺達に自由をもたらす。奴隷である俺達が自由を手にするのは…道具としての役割を終えて、壊れる瞬間だけなんだよ!」

 歯を剥き出し、その目を爛々とさせ、ゼファルはレブロブスに相対している。

「お優しい俺が、お前にもとびきりの自由を与えてやる」

 ゼファルが片手を上げ、指を鳴らした。すると、レブロブスの側に倒れていた、彼に顔を潰された男が突如として起き上がり、彼を羽交い締めにした。

 レブロブスが男を振り解こうとした途端、爆音と爆煙が彼を覆い尽くした。

「レブロブスさん!?」

 ディーナが悲鳴を上げるように彼の名を呼ぶ。

 煙が風に飛ばされ様子が分かるようになると、レブロブスに絡み付いた男は影も形も無く、無数の肉片が地面に散らばっているだけだった。レブロブスは己と飛散した男の血に全身が染まり、その場に膝を突いて倒れた。

「あ、あんまりだ…! 仲間を爆弾にして、自爆させたんだ!」

 青ざめた顔のピリポを、ゼファルが鼻で笑う。

「仲間だぁっ!? こいつらは決勝を盛り上げるための、ただの癇癪玉みてぇなもんだ! 気をつけた方がいいぜぇ、俺が仕掛けた不発弾が、いつどこで爆発するかわからねぇからなぁ!!」

 ルピルピがレブロブスの元へと駆け寄り、戸惑いながら怪我の具合を確認する。

「助かるかわからないけど、治療するわ! 時間稼ぎ、お願い!」

 レブロブスの傍らに膝を折り、ルピルピは精神を統一して、魔術の詠唱を始めた。

「おい、泡を食ってないで戦え」

 動揺しているディーナの心を見透かし、ガイウスが戒める。

「この呪符が爆風で飛ばされて来た。恐らくさっき爆発した男に取り付けられていたものだ…。俺が殺したデブにも、針金で直接背中に縫い付けられていたのを見たから、これが起爆装置だろうな。残りの手下にも十中八九、付いてるだろう」

 血の付着した一枚の札をディーナに見せながら、ガイウスは隙を見せぬようにゼファルへ鋭い眼差しを向けている。

「見たところ、爆発の威力は、他の味方を巻き添えにしないためか、俺達を苦しませるためかは知らんが、多少抑えてある。相手に掴み掛かられないようにしながら、背後を狙って殺るぞ」

 ゼファルの策略にはまったレブロブスの姿に動揺すること無く、彼は冷徹に戦況を分析していた。

 ディーナは目を見開き、声を震わせる。

「それじゃあ、あの人達は…命を握られて、無理矢理戦わされているのかもしれない…!」

「舐めたこと言ってんじゃねぇ! 躊躇してたら俺達がお陀仏だぞ!」

 試合が始まってから今まで冷静だったガイウスの口振りに、苛立ちが籠もる。そのまま彼は、襲い掛かってきた剣闘士に応戦するため、ディーナの側を離れた。

 もう一人の剣闘士が、詠唱中のため身動きが取れないルピルピと瀕死のレブロブスを狙い、走り来るのが見える。ピリポが放った矢が、その剣闘士の片肺を確かに潰した。にも拘らず、その勢いは衰えない。

『戦う力があっても皆の後ろに隠れたままなんて、もっと嫌』

 敵への憐れみのために屈服し殺されるのか、仲間のために憐れむ敵へ死神の鎌を振るうのか。酷薄の選択が、ディーナの決意を試している。

「私は……!」

 己の剣が死を振り撒くようになることが恐ろしかった。だが、それよりも。

『この世にそんなもんが無かったとしても、お前は大した奴だよ』

 レブロブスの頼もしい笑顔が永遠に失われることの方が、怖かった。

 剣を強く握り直し、アリーナを疾走する。剣闘士はルピルピに向かって斬り掛かろうとしていた。

 彼が味わう苦痛を最小限に止めたい。そう祈りを込めてディーナが剣闘士の背後を通り過ぎると、剣闘士の首が胴体から離れ宙に舞っていた。

「なんて速さだ…!」

 自らの対戦相手を打ち破ったガイウスが、閃くような太刀筋で剣闘士の命を刈り取ったディーナの姿に目を見張っている。

 ルピルピとレブロブスを背にしながら、ディーナは剣を構え、ゼファルと対峙した。

「お前か…マモン様が言っていた、妙な力を持つ騎士というのは!」

 ゼファルは値踏みをするかのように念入りにディーナを見つめている。

「お前のように力を持つ者が、なぜわざわざ徒党を組んでいるんだ? そこに横たわっている無様な男を庇い立てして、何の益があるってんだよ!?」

「無様なんかじゃない!!」

 ディーナはゼファルを睨め上げ、叫んだ。

「レブロブスさんは黒い羽の人達の支配に屈しないで、奥さんとお子さんのために闘技場を脱出する選択をした! 二人が亡くなったのはレブロブスさんのせいじゃないのに…それを自分の責任として受け止めて、現実に立ち向かってる! あなたにこの人の生き方を笑う資格なんて、無い!!」

 その時、意識を失っていたレブロブスの隻眼がうっすらと開かれた。

「…選択…責任……?」

 始めは焦点が定まっていなかった彼の瞳にたちまち生気が蘇り、それは極限まで見開かれた。

「ちょっと! まだ動いちゃ駄目! あなた、死にかけてたのよ!?」

 治療を終え、うろたえるルピルピの制止を振り切り、レブロブスは力強く地面を踏み固めて立ち上がる。

 再起したレブロブスの表情には、何か重要なことを悟ったためか、高邁な重々しさがあった。

「ここを出ると決めた時…俺の中にあったもんは、自由を求める意志、それだけだった…。なんてこった…俺は既に自由だったんだ……!!」

 レブロブスはディーナの側へ近付き、労うように彼女の肩へ手を置いた。

「俺がヘマしたせいで面倒を掛けたな。もう、大丈夫だ」

 彼は端然とディーナの前へ進み出て、再びゼファルと向き合った。

 ゼファルはレブロブスの強靭さを迎え入れ、喜んでいるようだった。

「やけにすっきりした顔してるな。一度あの世で神のお恵みでも施されてきたか?」

「この闘技場じゃ、毎日多くの剣闘士が死んでいく…。神って奴は、俺みたいな極悪人まで救ってくれる程暇じゃねぇだろう。俺は自力で立ち直ったんだ…!」

 ゼファルが嘲笑を浮かべたまま槍を構え、レブロブスへ肉薄する。

「お前の言うとおり、俺は死ぬまで戦い続ける! だがそれは俺の自由のためだ! 闘技場の奴らとじゃねぇ…この糞ったれな世の中と、俺は戦い続けてやる!!」

 ゼファルが放った電光石火の棍を、レブロブスは避けること無く片手で掴み取り、彼の動きを一瞬封じた。その一瞬、ゼファルは硬直せざるを得なかった。爆発が起こる前のレブロブスには宿っていなかった胆力と威厳が、ゼファルへ本能的に危険を察知させた。それは恐らく、彼が生まれて初めて感じる恐怖であった。

 その気骨から繰り出される会心の刃が、ゼファルの胸に直撃する。彼は血しぶきを上げながら、乱れ散る棍と共に地面に倒れた。

 

 

 

 

「あーあ、終わっちまった……」

 アリーナに広がる血溜まりの中で仰向けになりながら、ゼファルは闘技場の空を眺めている。先程まで彼の中に巣食っていた狂気は消え失せ、穏やかな表情を見せていた。

 レブロブスは死にゆくゼファルを見送るかのように、沈んだ顔で彼の傍らに立っている。

「俺はいつも…このアリーナで勝ち続けるお前を見て、惚れ惚れしてたんだぜ。お前が持つ力への追求心は天賦の才だ。もっとお前と…お互い本気でやり合いたかったなぁ……!」

「きたねぇ手でこいつをはめた奴が、よく言うぜ」

 レブロブスの隣に立つガイウスが、冷ややかな眼差しをゼファルに向けた。

「レブロブス…俺には思うとおりにいかなかったことが二つある。一つはお前の女房のことだ。俺が捜索隊に加わって脱走したお前達を探していた時、俺は先にお前の女房を見つけた。俺は、この試合で使ったものと同じ呪符をその女に取り付けて、いったんお前の所に戻したんだよ」

「なんだと!? 貴様…!」

 激昂するレブロブスの反応を楽しむかのように薄笑いをしながら、ゼファルは話し続ける。

「呪符を取り付けた者は、取り付けられた者を意のままに操ることができる。守ろうとしていた自分の女に煮え湯を飲まされるという絶好のシチュエーションで、お前が死ぬのを見物してやろうと思ってなぁ…! だが、呪符の力を発動させても、お前の女房はお前を襲わなかった。それどころか、俺を巻き込んで自爆しようとしやがった! 慌てて殺しちまったから、あの時何が起こったのかはわからないままだ…」

 ゼファルから明かされた妻の死の真相によって、レブロブスは困惑している様子だった。

「そしてもう一つは…俺の人生、そのものさ。五体満足でいたけりゃ、俺の側からもうちっと離れな……!」

 ゼファルが胸をはだけると、彼の胸に血で汚れた札が縫い付けられているのが見えた。

「お前ら、下がれっ!!」

 レブロブスの咄嗟の掛け声に応じてディーナ達がその場から退いた直後、爆音と共にゼファルの身体が四散した。

「そんな…この人自身も誰かに操られていたの!?」

 爆発がもたらした煙に咳き込みながら、ルピルピが動揺している。

「ゼファル!! お前はいつから、誰に、操られていたんだ!?」

 レブロブスは顔を引きつらせ、ゼファルが倒れていた血の海に向かって叫んだが、それに答える者はもういなかった。

 大会王者が敗北したアリーナでディーナ達を包み込むのは、観客からの称賛の嵐ではなく、凶暴な不満と非難の声だった。ゼファルの勝利に賭け金を投じていた者達が逆上し、今にも客席を飛び出してアリーナで乱闘を始めそうな勢いだった。

「これって…かなりまずいんじゃないかな……!?」

 ピリポが怯えながら観客席を見渡している。

 すると、客席の至る所で見覚えのある光弾が炸裂し、観客達を襲った。客達は喚き叫びながら逃げ惑い、闘技場の様相は混沌一色となった。

「お主達、何をぼーっとしておる! ほれ、試合は終わったのじゃから撤退じゃよ!」

 ヨハネが猫のようにしなやかに身を翻し、客席とアリーナを隔てる柵を越えてディーナ達の元へ駆け寄った。客席に放たれた光弾は、闘技場からの突破口を開くためのヨハネの計らいだった。

 一行は闘技場の出口を目指してアリーナを走り出す。

「大会王者より、あのじいさんのやることの方がえげつねぇな…」

 アリーナを駆けながら、ガイウスが苦笑を漏らした。

 

 

十一

 

 

 混乱に乗じて闘技場を首尾よく脱出した一行は、その足でパンデモニウムの街へ続く丘を登り、頂上で小憩することとなった。

「レブロブスさん…身体の方は大丈夫?」

 力無くうなだれながら立ち尽くしているレブロブスに、ディーナが声を掛ける。彼は頷き、顔を上げた。

「お前と自由について話したよな。俺は…自由ってのは、人間をあらゆる柵から解放する翼のようなもんだと思っていた」

 レブロブスの尊厳を脅かしていた迷いは消えていた。

「そんな好都合な代物じゃねぇんだ。自由ってのは、重てぇな。だが…いいもんじゃねぇか……」

 彼は長きに渡る苦悩の末に見出した答えを噛み締める。

「お主は予てより、自由と放縦が同義では無いことを知っておった」

 ヨハネは満足気に微笑を湛えていた。

「そしてお主は自らの思考と経験から、一つの結論に行き着いた。即ち自由とは、外的要因に左右されず、自分自身の意志に基づいて生き方を決断し、その選択と行為から生じる重荷に耐えながら生きていく…この一連の主体性であると言うことじゃな。例えその考えがこの世界では罪深いと呼ばれようと…お主の精神は気高いものだと、わしは思うよ」

「それとね、私…ゼファルさんの話を聞いて、思ったの」

 ディーナがレブロブスを見据えて訴え掛ける。

「レブロブスさんの奥さんは呪符に意識を乗っ取られていたはずなのに、その力に抗いながらレブロブスさんを守ろうとしていたってことだよね。亡くなる直前、奥さんはレブロブスさんを恨んで睨み付けていたんじゃなくて…あなたに生きて欲しいって、必死に願いを…込めてたんじゃないかな……」

 束の間、レブロブスの瞳が揺れた。彼は丘の上から景色を眺めるかのように、ディーナ達に背を向ける。

「そんなこと…今となっちゃ知る由もねぇよ……」

 彼が立つ場所からは、激戦を繰り広げた闘技場の全容を眼下に望むことができた。

「懐かしむ思い出なんざ、一つもねぇ所だったが…お前達のおかげで、けじめを付けられた。ありがとよ」

「さぁ、そろそろ出発するとしよう。あいにく、闘技場では領主と思しき者は見つけられなかったからの。気を引き締めて、パンデモニウムの街へ参るぞ」

 しめやかな空気へ厚く別れを告げ、ヨハネが旅の再開を説き勧める。

 仲間達が丘を下り始めてからしばらく、ディーナは一人頂上に立ち止まっていた。

「懐かしむ…思い出……」

 レブロブスが発した言葉を繰り返し呟きながら、記憶をまさぐる。そして彼女は、ヨハネ達が魔法都市リニアについて話していた時に自分が感じた強い気持ちの正体を突き止めた。

 ディーナを襲った感情は、狂おしい程の郷愁だった。

 その都市の名になぜ惹かれるのか、自分とどのような関わりがあるのか、そこまでは思い出せない。途方も無い喪失感と遣る瀬無さだけが胸の内に広がっていく。

『記憶を取り戻すことが辛いなら、俺のために無理して思い出そうとしなくていいんだ。俺は今のお前とこの暮らしが続けばそれでいいと本気で思ってる』

 過去を取り戻せない不安に押し潰されそうになったディーナの心を、記憶に残るゼロの笑顔が支えた。光明を盛り返したディーナは、自らに言い聞かせる。

 今の自分にとって、帰るべき故郷はゼロと二人で暮らしたあの箱庭なのだ。今はただ、ゼロを見つける糸口を掴むため邁進するしかない。現在の自分の力ではどうしようもできない過去の記憶に囚われていては、ゼロに再会する道は切り拓けないのだ、と。

 ディーナは身に迫るその郷愁から逃れるように、仲間達の跡を追って急いで走り出した。




ここまでお読みいただきありがとうございました。
レブロブスへの愛ゆえに思っていたより時間と文字数がかかりました汗。「レブロブスが追い求めていた自由とは何だったのか」を書いてみたくて、自由について書かれている文献を読んでみたりと、この章の執筆は私自身の良い勉強の機会となりました…!
文章を書くスキルだけでなくて、生きてるうちに知識をもっといっぱい吸収せねば…日々精進ですね。

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