一
「父さんがまた、怒ってる……。母さんは…泣いてる……」
窓の無い牢屋のような仄暗い部屋の隅に、ピリポは蹲っている。階下から聞こえてくる両親の口論の声に背筋を凍らせ、思わず膝の中に顔を埋めた。
ピリポは既に、自分が夢の中にいることを知っていた。ゴルゴダの牢獄の看守になる前、実家で過ごしていた時の記憶を呼び起こす悪夢だった。今までに何度もうなされ、今回も最後まで同じ思いを味わわなければ目覚めることはできないだろうと諦めが付いていた。
夢の中の両親の諍いの原因が自身にあることもわかっていた。弱者の罪を背負う自分の存在を隠しながら暮らしている両親の元へ、近隣の住民が異端審問官への口止め料をせびりにやって来たのだ。
家の外壁に打ち付ける雨音が妙に生々しかった。その雨音に紛れ、誰かが階段を上る音がする。足音の大きさから、父親のものだと察知した。
足音はピリポの部屋の隣にある父親の書斎の前で止まり、間を置かずに部屋の扉が開く音がした。書斎には、両親が蓄えた全財産を保管している金庫がある。
父親が金庫を開けるためにダイヤルを回す音が響く度に、ピリポの胸は軋んだ。
「悔しいだろうな…一生懸命稼いだお金が、僕のせいで、どんどん減っていくんだから……」
膝を抱えている両腕に力が籠もる。
「僕が生きてても…父さんと母さんを苦しめるだけだ……」
足音はピリポの部屋の前を通過し、階下へと遠ざかっていった。
「でもまだ、決め付けたくない…僕が生きてる意味を……」
ピリポは顔を上げ、目の前の壁に立て掛けている一張の弓と矢筒を視界に入れる。それは弟から貰い受けたものだった。
ピリポの弟は両親の目を盗んでは、狩猟をするためにしばしば彼を近くの森へ連れ出した。弟から弓の手解きを受け、狩猟を続けていたある日、ピリポは見事な牡鹿を仕留めた。ピリポが無断で家を抜け出したことが発覚しないよう、その獲物は弟が一人で狩ったものとして両親に引き渡された。しかし、喜ぶ両親の姿を見た後、ピリポは初めて自らの行いが家族の笑顔へ繋がったと、自室で密かに感泣していたのだった。
「僕にはまだ…誰かのためにできることがあるって、信じたいんだ……!」
夢の中で自らが発した声により、ピリポは目を覚ました。頭を預けている枕が湿っている。寝台から上体を起こし、濡れた目元を拭うと、意識がはっきりとしてきた。
現在ピリポ達が休息している場所は、パンデモニウムの街の宿である。
上階にある部屋の窓に目を遣ると、空が白んでいた。ベランダへと続く扉を開けて外に出て、そこにいる先客と挨拶を交わす。
「おはよう、ピリポ君」
風になびく髪を片手で抑え、ディーナがにこやかにピリポへ振り返る。
「気持ちのいい朝だね」
ディーナは目を閉じ、大きく伸びをした。ピリポは頷き、朝日に照らし出されたパンデモニウムの街並みを彼女の隣でしばらく眺めていた。
ヨハネがディーナを鎧の適合者として選ばれた人間だと話していたように、ピリポにとっても彼女は何にも代え難い存在となっていた。ゴルゴダの牢獄で出会った時、ディーナの分け隔てない真心が、ピリポの中に眠っていた勇気を揺り起した。そして彼女がもたらした奇跡によって、彼は健全な肉体を持つ白き羽へと生まれ変わった。
ディーナへ溢れ出る敬意と感謝を、どうにか言葉にして伝えたかった。
「ディーナ、僕は――」
ピリポは不意に改まった表情でディーナに向き直った。
「君に出会えたお陰で、本当に…幸せだった……」
ピリポを見つめるディーナから笑みが消える。
「突然どうしたの……?」
「僕は皆の中で一番弱いし、この旅でいつ死んじゃってもおかしくないから…言いたいことは、言える時に言っておこうと思って……」
慌てて陽気な声を上げて、ピリポは自らの感傷を取り繕った。
「闘技場でも僕は何もできなかったし…死んじゃう前に、役立たずって捨てられちゃう方が早いかな……」
ディーナは沈み込んだ表情のまま俯いている。
「悲しくなるようなことを言わないで…。それに、必要以上に自分を貶めちゃうの、ピリポ君の悪い癖だよ……」
彼女につられ、ピリポも気を落とした。
よかれと思った言動が悉く裏目に出る自分の要領の悪さを恨む。両親に続いて、ディーナからも見限られたのではないかと、目の前が暗くなった。
「そんなピリポ君には……」
ディーナは顔を上げてキッとピリポを見た。なぜか両方の掌を彼に向け、全ての指を繰り返し曲げたり広げたりしている。
「お仕置き、だよ!!」
「わあわわわぁわ!?」
身体をくすぐられたピリポの絶叫が宿中に響き渡る。彼から手を離したディーナには、再び笑顔が弾けた。
「あのね…記憶を取り戻せなくて苦しんでいた時に、ゼロが『ありのままの自分でいい』って私に言ってくれたの。私の気持ちを楽にしてくれた、大事な言葉。この言葉を、ピリポ君にもあげる」
身をよじって息を切らしていたピリポは、食い入るようにディーナを見つめる。
「卑下する必要なんか無いよ。今の自分を大切にした上で、足りないと思うところを見つけたら…自分のためになる努力を続けて、自分らしく成長していけばいいんじゃないかな」
街を包む曙光と同じ、柔らかく何か希望を感じさせるディーナの微笑が、ピリポへ差し込んだ。
「ピリポ君は自分で思っている以上に素敵な人なんだよ。あなたの勇気にはたくさん助けられてきたし、私はピリポ君と一緒にいるだけでほんわかできるの。これって凄い才能だよ!」
「…ありがとう……」
この上ない喜びと面映ゆさが入り交じり、瞳から零れそうになるのを必死に堪える。ディーナに何度も濡れそぼった顔を見られるのはみっともないと思った。
「お前ら、朝っぱらからうるせぇぞ…。じゃれ合うなら余所でやれ……」
寝起きのガイウスが眠たげな目を浮かべてベランダへ顔を出した。
二
「ディーナ、聞いて聞いて! 完璧な作戦が閃いたわ!!」
起床したルピルピが溌剌とした様子で、宿の部屋で身支度をしているディーナへ声を掛けた。
「ルピルピちゃん、おはよう。作戦って…一体、何の?」
「領主のマモンから、教皇庁の場所について引き出す作戦に決まってるじゃない!」
ルピルピは不敵に笑っている。
「旅の興行者に成り済まして、マモンの屋敷に潜り込むの! そして宴の席を設けさせて、踊り子に変装した私とディーナがマモンに酌をする訳。お酒と私達の色気に酔い痴れたマモンは、口を滑らせるはず!」
「大胆過ぎじゃないかな…!?」
ディーナが困惑していると、レブロブスがからからと笑い声を上げた。
「大体よ、ディーナはともかく、お前の薄っぺらい胸と尻じゃ色気も何も――いってぇ! 何しやがる!? ぐっ!」
彼は顔を真っ赤にしたルピルピから、怒りの往復びんたに見舞われている。
「闘技場の一件もあって、我々は街の住民達に面が割れておる。身分を偽ってマモンに近付くのは無理があるのぅ」
ヨハネが苦笑しながら口を開いた。
そもそも、ディーナは脱獄犯である自分達が闘技場で多くの人に顔を見られているにも関わらず、辺りを憚らずに街を出歩いたり宿を利用したりしていいものかと気を揉んでいた。
だが、ディーナ達が闘技大会を制覇したことが、街の住民達へディーナ達の強さを見せ付ける結果になったというのがヨハネの持論である。力こそが全てであるこの世界において、追っ手も下手に手出しができないと悟っただろうから、臆せず堂々としていればよいと彼は豪語している。
「やはり、闇夜に乗じてマモンの館を襲撃するのが定石であろう。今宵にでも仕掛けるとするか…。このままこの街でのんびりしていては、宿賃だけで路銀が底を突いてしまうわい! まさか物価の上昇がここまで凄まじいとは」
「薄気味悪い街だ。ここの黒き羽共は、白き羽の俺達にまで媚びへつらって商いをしてやがる。プライドよりも金儲けが優先されてるんだな。法外な値段で物を売り付けてくるから、奴らの横暴に変わりはねぇが」
「スリや強盗も多発してるそうです。街の皆がお金を得ることに躍起になってる。お金は人の生活を潤すためにあるはずなのに…この街では人がお金のためにいるみたい……」
肩を落とすヨハネを見ながら、ガイウスとディーナが言った。
「パンデモニウムに限った話ではないかもしれん。黒き羽達は幾つもの社会階層に分かれて暮らしておる。そして各々が富と物質的成功を獲得するため、他者との競争に常に身を置いているのじゃ。栄華も零落も自分次第…己の手腕と立ち回りが全てを決める、この孤独な戦いから落伍した者は、野垂れ死ぬしかない。富を蓄積したり、物質的成功を収めたりすることが、自らの幸福という目的のためではなく、目的そのものになっておる。これが今の黒き羽達の社会なのじゃよ」
「この街にいた、レブさんの知り合いの御主人様も、借金のせいで自殺しちゃったんだよね。お金って…命よりも大事なのかな……?」
ヨハネの話を聞きながら目を伏せているピリポを、ディーナは気遣わしげに見ていた。
「…今夜動き出すなら、今のうちに買い出しを済ませておくね。ピリポ君と私で行ってくるよ」
「お前らだけで平気か? 美徳商人共に、有り金巻き上げられんなよ」
「大丈夫。任せて!」
ディーナは腫れた頬をさすっているレブロブスに向かって力強く頷き、ピリポを伴って宿の部屋を出た。
三
「とは言ってみたものの…」
パンデモニウムの一角にある商店の中で、ディーナとピリポは食料品の陳列棚を前に頭を抱えている。
ディーナは財布の中身と食料品の値札を何度も見直した後、嘆息を漏らした。
「どうしよう、これじゃあ全然足りない……」
「ヨハネさんならお店の人とうまく値下げ交渉をしてくれるかな。呼んでくる?」
二人が考えあぐねていたその時だった。
「あら、可愛らしいお客さん達だこと。お使いかしら?」
店の奥から、黒い羽の妙齢の女が現れた。頭にターバンを巻き、美々しい首飾りや指輪を身に付け、商人然とした当たりのいい笑みを湛えている。
その宝飾品の輝きを霞ませる程、女には華がある。自らの美貌を誇ってはいるが、それに嫌らしさはなく、品格のある自信が悠然と備わっている。
非の打ち所がない麗しさに魅せられ、ディーナはすっかり彼女に見惚れていた。
「いらっしゃい。何が必要なの?」
「わ、私達、旅をしていて、食料の補給のためにここへ来たんです。でも、持ち合わせが足りなくて……」
我に返ったディーナが申し訳なさそうに話を切り出すと、左右対称に上がっていた女の口角が下がり、今度はその艶っぽい唇が輪を描いた。
「まぁ、旅人さん? あなた達、若いのに苦労してるのねぇ。私にその旅の手助けをさせてちょうだい」
つかつかとディーナ達の元へ歩み寄った女は、棚にある食料品を次々と紙袋へ詰め込んでいく。
「今日はね、お客様感謝祭をやってるからお店の品物が全部半額なの。あなた達には大負けに負けて、更に値引きしちゃう! はい、どうぞ。お代はこれでいいわ」
女ははち切れんばかりに膨れた紙袋を二人の胸元にそれぞれ押し当てた。
ディーナは渡された勘定書を見て驚愕する。
「こんなただ同然の代金じゃ、大損しちゃうんじゃないですか!?」
「そんなこと、気にしないで! お客様は大善神様、よ。あなたが笑顔になってくれさえすれば、それが私の心の糧になるの」
思いも寄らぬ他人からの厚意に、ディーナは顔を綻ばせ、女に品物代を支払う。
「本当にありがとうございます。これで旅を続けられます…!」
「こんなに邪悪な黒き羽が、この街にいるなんて……」
ピリポは紙袋を抱えたまま、呆気に取られている。
「それじゃあ、帰り道に気を付けてね。あなた達が余りにも可愛いからって、誘拐されたりしませんように」
温かい眼差しを向けている女へ深々と頭を下げ、ディーナは踵を返した。そして先に店を出たピリポに続こうと、玄関扉の持ち手に手を掛けた。
「素敵な鎧ね」
女は確かにそう言った。
心臓が跳ね上がり、ディーナは即座に振り返ったが、女の姿は幻であったかのように忽然と消え失せていた。
四
ディーナ達を接客していた女は、店の勝手口から狭隘な路地裏へ移動していた。
女は微笑しながら、鼻唄交じりに頭のターバンを掴んだ。巻き付けられていた布が解かれ、頭頂部に生えている野性的な角が露わになる。
「お前の挙動は、一々理解に苦しむ……」
路地の薄暗がりの中で、男の低い声が響いた。そして女の前に現れたのは、黒曜石を磨き上げたような鎧を全身に纏う、背中に羽を持たない剣士だった。
「ルカ。なぜ商人の姿を装ってまで、奴らに近付いた? 顔を覚えられては、こちらの不利になるだけだろう」
顔面を覆い隠す兜から漏れ出る声によって、僅かに呆れている様子が窺える。
「なぜって? それはもちろん――」
ルカと呼ばれた女は相好を崩したまま、男を見遣る。
「あのキュートな鎧ちゃんを、じっくり眺めるためよ! あーん、もう! 近くで見たらますます震い付きたくなる可愛さだったわ!! 教皇庁にお持ち帰りしたいくらい!!」
「飯事遊びをしているだけで務まるとは、異端審問十字軍隊長はお気楽なものだな」
品を作り上機嫌なルカを、黒の剣士は冷淡にあしらった。その途端にルカの眼光は鋭くなり、常人には耐え難い威圧感が場を支配した。
「ファウスト…自分が教皇様のお気に入りだからって、あんまり図に乗るんじゃないわよ。立場上、私はあんたの上官なんだからね」
ファウストという剣士はルカの重圧に臆する色もなく、影のように佇んでいる。
「今私達に与えられている任務は、大邪神の鎧の適合者の監視とその戦闘能力の調査。私はね、自分の手駒の消費を最小限に抑えて任務を遂行する方法をちゃんと考えてるの」
「そのためにお前が闘技場で利用した拝金領主の奴隷共は、大した働きも見せぬまま奴らに返り討ちにされたようだが?」
「あれは戦力を出し惜しみしたマモンが悪いのよ! ほんっと、借金を取り立てることしか能がない男なんだから」
気色ばんだルカはファウストから視線を逸らす。
「彼、名誉挽回するって息巻いてたから、もう一度チャンスをあげようと思ってね。手柄を立てたいばかりに、今度は大邪神の鎧を着せた邪道騎士を切り札として投入するはず。鎧を着た者同士の戦いとなれば…貴重なデータが取れるでしょ」
「くだらん。資質を持たぬ者に大邪神の鎧を着せたところで、鎧に命を食われる激痛ですぐに使い物にならなくなる。俺はお前達に与する気はない。好きなようにあの女の力を測らせてもらう」
そう言い置いて、ファウストは薄暗がりの中へ同化するように消え去った。
「下等なおサルの分際で、偉そうに」
ルカは忌々しそうにファウストが消えた方向を睨んだ後、恍惚として笑顔を浮かべた。
「それにしても、鎧ちゃんのあの困った顔…そそられたわ…。もしマモン達に殺されちゃったら、首だけでも持って帰らなきゃ……」
五
「じゃあ、あの万屋のお姉さんは、ディーナが大邪神の鎧の持ち主だって知ってたの!?」
「うん…多分、聞き間違いじゃない」
商店から宿屋への帰路に就いたディーナとピリポの表情は険しい。
ディーナは商店の女に対して不思議な印象を抱いている。彼女が自分達に差し向けられた追っ手だとすれば、警戒心を持たれないように接近し瞬時に姿を消した彼女は相当の実力者なのだろうと思った。だが、自惚れではなく、彼女は自分と出会ったことを心から喜んでいたようにディーナは感じた。そしてディーナ自身も、彼女の美しい笑顔を見て安心感と懐かしさを得ていた。紅血の沼のように深い彼女の瞳が、少しだけゼロと似ている気がしたのだ。
「いつどこで敵が現れるのか、わからないね。注意しておかないと…」
「あとね、今の話とは別に気になってることがあって――」
隣を歩くピリポの横顔をディーナが見つめた。
「ピリポ君、パンデモニウムに着いてから元気がないように見えるの。今朝も様子がいつもと違ってたし、何か悩んでるんじゃないかな?」
ピリポは視線を落としてしばらく黙っていたが、やがて抑え気味の声で口を開いた。
「僕の実家がある村が、この街の近くなんだ。街がこんな風に変わってしまって、僕の家族の生活も苦しくなってるんじゃないかと思ったら、心配で……」
街中を進む二人の視界が急に暗くなる。リベイラの街でも目にした巨大な鎖が地上から空へと連なっており、街を見下ろしながら影を落としていた。
「それなら、この街を出た後にピリポ君の村に寄ろうよ。御家族に会いに行こう」
「…健康になった僕の身体を、父さんと母さんに見てほしい。だけど……」
再び日の当たる歩道を歩き出しても、彼は晴れない面持ちのままだった。
「実家にいる間、僕はずっと家族に迷惑を掛けていたんだ。父さんと母さんは払いたくもない口止め料を近所の人達に取られ続けて、弟のパルタは…弱者がいる家の子供だって、いじめられたこともあった」
「そんなの…! ピリポ君は悪くないよ!」
「やっと厄介払いができたって喜んでいるのに、僕が姿を見せたら、父さんと母さんはがっかりするよ。僕の家は、パルタが継ぐはずなんだ。僕なんかよりもっと頭がよくて、運動も得意なパルタがいれば、父さん達が困ることはないんだ」
「跡継ぎの子供がいれば、他の子供はどうなってもいいと思う親なんて…いちゃ駄目だよ。ピリポ君の御両親がそんな考え方をする人達だとは思えない」
ゴルゴダの牢獄で初めてピリポの境遇を聞いた時から、ディーナは違和感を覚えていた。本当にピリポの両親は体面を保つために金を使ったり、彼をゴルゴダの牢獄に送り出したりしたのだろうか、と。
ディーナは立ち止まりピリポに向かい合った。彼女を見つめ返すピリポの顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
「私は記憶を失っていて、両親がどこにいるのか、生きているのかもわからないから…。会いたい人がいて、その人に会えるチャンスがあるなら、自分の気持ちを伝えに行こうよ。そうした方が、きっと後悔しないと思う」
ピリポは口を引き結んだまま俯いている。
「だっ、誰かっ! そいつを捕まえてくれ! 財布をすられた!!」
二人の沈黙を、切羽詰まった男の声が破った。すると、目の前を若い黒羽の男が脱兎の勢いで通り過ぎ、細い路地裏へと姿を消した。若い男を追うように、息を切らしながら初老の黒羽の男がやって来て、精魂尽きた様子で地面に倒れ込んだ。
白昼堂々、公衆の面前で窃盗が行われたようだった。通行人達は足を止めて遠巻きに初老の男を眺めるだけで、彼を手助けしようとする者はいない。皆、盗まれる方が悪いと言わんばかりに嘲笑を浮かべている。
「私、さっきの人を追いかける! すぐ戻るね!」
ピリポが声を掛ける間もなくディーナの後姿は遠ざかり、若い男が消えた路地裏に吸い込まれていった。大邪神の鎧の力を持つディーナならば、鈍臭い自分がわざわざ助力しなくても、盗人の一人程度あっさり撃退できるとピリポは見込んでいた。ピリポは初老の男を助け起こそうと彼の側にしゃがんだ。
「おじさん、大丈夫?」
「ありがとな、坊主。助かるよ」
初老の男はピリポの片腕を手荒く掴み、薄気味悪い笑顔を見せた。
「お前らが噂どおりの大とんちき野郎で、本当に助かる」
男を傍観していた通行人達がピリポを取り囲み、その内の一人が手にした木の棒でピリポの頭を強く殴った。
六
「ピリポが攫われただぁっ!? あの間抜け、何やってんだか…」
レブロブスは宿屋の食堂で骨付き肉を豪快に頬張りながら、血相を変えて戻ったディーナの話を聞いている。
ディーナが盗人から財布を取り戻しピリポと別れた場所に戻ると、そこには買物をした商品が詰まった紙袋が転がっているだけだった。付近にピリポらしい人影は見当たらず、もしかしたら彼は先に宿屋に戻ったのではないかと一縷の望みに賭けて宿屋の部屋に踊り込んだが、そこにもピリポの姿はなかった。
「鎧のことを知ってたってんなら、店にいた女はアンゲルス教団の関係者に違いない。大方、後を尾けられたんだろう。お前らの隙だらけでおめでたい頭は、度を越えてるな」
レブロブスと同じ食卓に着いているガイウスの冷ややかな視線を受けながら、ディーナが苦悶に満ちた表情で頷く。
「私のせいだ。自分達の立場を、わきまえてなかった…。ただでさえ、白い羽が街の中で一人になることは危険だって、知っていたはずなのに…! ヨハネさん、ピリポ君が連れ去られた場所に心当たりはありませんか!?」
「ピリポ一人を狙ってかどわかしたということは、教団の者があやつを人質に取り、わしらを誘い出して一網打尽にしようと企んでいる、と考えるのが妥当かの。そのうち奴らの方から取引の場を提示してくるのではないか?」
「大変! 大変よ!! これを見て!!」
食堂に駆け込んだルピルピが、食卓の上に一枚の広報物を広げた。
「外でこれがばら撒かれてたんだけど…ほら! 『七つの大罪を犯した死刑囚達の脱獄を手引きし、逃亡中だった元看守を捕縛。領主マモンの屋敷内庭園にて、本日正午公開処刑を執行』ですって!」
「鎧の警護を任されてる領主にも当然、教団の息が掛かってるだろうな。俺達がピリポを助けに現れると踏んでる訳だ。放っておけ。自分の身も守れなかったあいつが悪いんだ」
容赦なく言い放つガイウスの話は、ディーナの耳に届いていなかった。紙面に刷られた処刑の二文字が浮かび上がり、彼女の気持ちを乱している。
『君に出会えたお陰で、本当に…幸せだった……』
今朝、聞いたばかりのピリポの声が蘇る。その言葉が今では、彼との永遠の別れを暗示していたかの如く、ディーナの胸を締め付けていた。
血なまぐさい旅を続ける中でディーナに一時の安らぎを与えているのは、無邪気に、それでいてどこか謙虚に微笑むピリポの姿だった。彼の存在に温められていた心が、自らの罪の意識と焦燥感で急速に冷たくなっていくのがわかった。
「正午まで、もう時間がない…。行かなきゃ。領主の館って、この街にあるお城みたいな建物のことだよね…!」
「待ちやがれ!!」
宿屋を飛び出そうとしたディーナを、レブロブスが呼び止めた。食卓に置かれた、中身を平らげた大量の皿の前に座ったまま、真顔で彼女を見据えている。
「食後の運動がてら、付き合ってやるよ。お前達には闘技場での借りがある。このままあいつを見殺しにしたら、さすがに後味が悪りぃからな」
すると、ヨハネが落ち着いた様子でゆっくりとディーナの元へ歩み寄った。
「わしも同行しよう。ひ弱で甘ったれな子犬のように見えて、思わぬところで勇ましさを発揮するあの若人を、わしは気に入っておる。ここで死なせるには、ちと惜しいと思うのじゃ」
「お師匠様が向かわれるのであればもちろん、私も参りますわ!」
「レブロブスさん、ヨハネさん、ルピルピちゃん…。ありがとう…!」
レブロブス達の言葉に深く感じ入り、ディーナは目頭が熱くなった。そしてヨハネは怪訝そうに顔を顰めているガイウスへ微笑む。
「さて、ガイよ。お主はどうする? お互い、戦力の分断は避けたいところじゃが」
「ここには後先考えない馬鹿しかいねぇのか…」
ガイウスは物憂げに嘆息した後、吐き捨てるように言葉を続けた。
「わかったよ! 付いてきゃいいんだろ!?」
苛つくガイウスを少しも意に介さず、ヨハネは朗らかな笑い声を上げた。
「結構、結構! 二百人斬りの大義賊殿に力を貸していただけるとは、頼もしい限りじゃ! どのみちマモンの屋敷には出向くつもりだったのじゃから、闇討ちを掛ける手間が省けたと、肯定的に捉えようではないか」
七
その屋敷を取り囲む物々しい鉄柵は、屋敷の主の用心深さと猜疑心の強さを体現しているかのようだった。堅牢な仕上げの門扉は、現在開け放されている。そこから領主の住まう豪邸へ続く広々とした庭園は整然と舗装された石畳に覆われ、異形の動物や黒い羽を持つ聖人達の石像が至る所で台座の上に鎮座している。
庭園にはパンデモニウムの住民達がひしめき合っている。彼らの好奇の目は、庭園の中央に組み立てられた処刑台に注がれていた。十数段の階段を上った先には木の杭が打ち込まれており、そこへ後ろ手に縛られたピリポが膝を突いている。
「ドブネズミ一匹の駆除のために、ここまで見物客が集まるとは! 金を持たない奴らは碌な娯楽を知らんからな。これしきのことで大喜びしてやがる」
ピリポの隣で居丈高に立つ、頭に巻き角を生やした恰幅のいい黒羽の中年男が、眼下の群衆を嘲笑っている。パンデモニウムの領主、マモンであった。
「なんだ、その反抗的な目つきは!? お前の最期の役目はなぁ、みっともなく大声で命乞いをして、残りの大罪人共をここにおびき寄せることなんだよ! だんまりを決め込んでちゃ、客も興ざめしちまうだろう?」
マモンは身を屈め、自らを睨めるピリポの顔をまじまじと見た。
「女みてぇな面をしやがって。お前が本当に女だったら、死ぬ前にいい思いをさせてやったんだが…生憎、俺に男色の気はないんでな。薄汚い白き羽の奴隷風情が俺達黒き羽に逆らうとどうなるか、これから思い知らせてやる」
「そんなに白き羽が憎いのなら、僕を好きにしなよ。殴られるのも蹴られるのも、僕は慣れてるから…!」
そしてピリポはマモンに訴え掛けるような目を向ける。
「でも、お願いだから僕の仲間には手を出さないで! あの人達は皆…僕の大切な恩人なんだ!」
「うるせぇっ! 邪教徒に洗脳されたクソガキが! 粋がるんじゃねぇ!!」
マモンが怒声を放ちながらピリポの頬を叩き打った。ピリポは歯を食いしばって痛みに耐えている。
「仲間だの恩義だの、非生産的で荒唐な概念が人を破滅させるんだ。そのお前の仲間とやらが情にほだされてここに現れりゃ、俺に殺されちまうんだからな! 人間を人間たらしめるのは、金! 金だけだ!! そこのお前! このガキを適当に痛め付けろ。こいつの悶え苦しむ声が、街に潜んでいる罰当たり共に聞こえるようにな!」
マモンは背後に控えている兵士に命令を下した。屋敷の庭園内に配置されている他の兵士達とは一線を画する色彩と装飾の鎧で全身を武装した、羽を持たない兵士である。兵士は無言のままピリポの前に進み出ると、鞘から剣を引き抜いた。
ピリポは自らの運命を受け入れたかの如く、静かに目を閉じて俯いた。しばらくしても何も起こらず、ピリポが目を開けて兵士を見上げると、彼の剣を持つ手が震えているのが見えた。素顔を隠す兜の隙間からは、荒い息遣いが聞こえてくる。
「貴様! 何ぼさっとしてるんだ! お前には特別に、大枚をはたいて手に入れた大邪神の鎧を着せてやってるんだぞ!?」
「この人も、ディーナと同じ…!?」
兵士を叱責するマモンの言葉にピリポは驚愕している。
「それだけじゃねぇ、お前自身も本来なら生涯有り付けないような額の報酬を受け取っているだろう! 払った金に見合った働きを――」
「取り込み中みたいだが、邪魔するぜ! 業突く張りのマモンさんよ!!」
威勢のいい男の声が、処刑台に群がる人々の喧騒すら突き抜けるように響いた。
「レ、レブさん! 助けに来て、くれたの…!?」
ピリポは身を乗り出し、声がした正面の人込みに目を凝らす。その中の一人が身に付けていたローブを脱ぎ捨てると、処刑台のマモンを射すくめているレブロブスが現れた。
彼の周囲にいる見物人達は、慌て慄きながら後ずさった。
「連れが世話になったな。とろくてお前の手に余るような奴だろう? 大人しく返してくれや」
「闘技場の覇者、レブロブスか! 貴様の悪名は聞き及んでいるぞ!」
マモンが不気味な笑みを浮かべながら声を張り上げる。
「剣奴の分際で、自分がやりたいことだけをやって生きていこうとするとは笑止千万よ! 貴様の首には、教皇庁により巨額の懸賞金が掛けられている! 害悪でしかない貴様の命を札束に変えて、俺がこの世の中のために役立ててやろう!!」
「おもしれぇ、やれるもんならやってみな!!」
戦斧を構えたレブロブスがそう言い終わらぬうちに、彼に斬り掛かった兵士が打ち倒されていた。
「じいさんとルピルピが有り難そうに話してた大邪神の鎧は、素質のある人間しか装備できないんだよな? こうもあっさり鎧を着てる奴に出くわすもんなのか?」
レブロブスから離れた人込みに紛れてマモンの話を聞いていたガイウスが頭を捻っている。
囮を買って出たレブロブスが兵士達を引き付けて場を攪乱させている間、他の者達がピリポを救出する手筈になっていた。
「私はリベイラでずっと鎧の研究をしてたわ。そこから比較的近いパンデモニウムでそんな人が現れたら、見逃すはずないと思うんだけど…」
落ち着かない様子のルピルピの隣で、ヨハネが哀れむような目で処刑台に立つ兵士を見据えている。
「あの者からは、ディーナが鎧を身に付けた時の邪悪な力を感じられん。真の鎧の主ではないのだろう。ああしている今も、鎧によって命を削られているはずじゃ」
「ま、そんなことはどうでもいいがな。思っていたより兵士の数が多い。俺は筋肉馬鹿に加勢する。無敵のディーナ様がいりゃ、こっちは平気だろ?」
「わ、私、頑張るね。ガイウスさんも気を付けて!」
ディーナの返事を待たず、ガイウスは器用に人込みを押し分けてその場を離れた。
ヨハネが錫杖を取り出し、表情を引き締める。
「あの邪道騎士の力がまがい物だとしても、気を抜いてはいかん。どれ、わしが処刑台までの道を拓こうではないか。とっておきの呪文を一発、唱えてやるかの」
「ありがとうございます。でも、なるべくヨハネさんの魔法に頼らないようにピリポ君を助け出します。ここにいる街の人達を、できる限り巻き込みたくないから…」
「大邪神の力を継ぐ者としての模範解答じゃのう! しかし、それはわしが魔術を控えるだけで済む話ではないようじゃ」
ヨハネの視線の先に広がる光景を前に、ディーナは愕然とする。
「そんな…! 兵士達が、街の人達まで襲い始めてる!?」
八
マモン邸の庭園内で、突如として殺戮は始まった。マモンに雇われた兵士達の野蛮な叫び声と、パンデモニウムの住民達の悲鳴が混ざり合う。屋敷の外へ避難するために門を目指して駆ける住民達の足元には、惨たらしく頭を真っ二つに割られ、肢体の一部を切断された遺体が既に幾つも倒れている。
幼い黒羽の男児とその母親が、兵士の一人に追われている。やがて男児の足がもつれ、地面に突っ伏した。兵士の凶刃が迫る中、母親が男児に駆け寄り、兵士に背を向けて男児を抱き起こした。
男児にとって、それが母親に触れた最初の体験だった。黒い羽達の世界では、彼らが美徳としている欲情に関する行為以外で人間が身体を触れ合わせる行為は禁じられている。必要以上の肉体的接触は、そこから生じる帰属意識や一体感が、七つの大罪である愛という錯覚に繋がる恐れがあると言われていた。震えている母親の腕に強く抱きすくめられ、男児は母親の体温を生まれて初めて感じていた。
振り下ろされた剣と母子の間に素早く入り込み、その刃を武器で食い止める者がいた。
「何してる!? 早く行け!!」
自分達を庇っているレブロブスを呆然と眺めていた母親は、一目散に逃げ出した。
母親に手を引かれながら振り向いた男児の瞳には、レブロブスの広く逞しい背中と、そこに生える純白の羽が映っていた。
「てめぇら、気が触れたのか!?」
猛々しく戦斧を振るい、目の前の兵士を斬り伏せたレブロブスは、自らを取り巻いている数人の兵士達に向かって叫んだ。
「民間人を守るのがお前らの仕事だろうが!! なぜ女子供まで好き好んで襲うんだ!?」
「おかしいのはてめぇの方だろう、邪教を信じ込んだ狂犬が」
兵士がレブロブスを蔑むような目つきで口を開いた。
「俺達はな、この街の利益にならない人間を排除しろとマモン様に命じられているんだ! 金を持ってなさそうな、みすぼらしい身なりの奴らは幾らでも殺していいと言われてるんだよ!」
「殺した貧乏人の数だけ俺達の給金が上がるのさ! マモン様に言われたとおり暴れるだけで金がもらえるんだ、こんなぼろい商売他にねぇぜ!」
「貴様ら…! 自分がどれだけ恐ろしいことをしでかしているか、気付かないのか!?」
次々と兵士達から飛び出した言い分に、レブロブスは絶句していた。
「てめぇらは、俺達白い羽のように生まれながらの奴隷なんかじゃねぇし…誰かに操られてる訳でもねぇ……。それなのにてめぇらは、金のために自ら意志も責任も捨て、権力者の言われるがままになって喜んでいる! なぜだ!? なぜお前達は自由に背を向けて、へらへら笑っていられるんだ!?」
吠えたけるレブロブスを小馬鹿にするように見ながら、兵士達は腹を抱えて笑っている。
その時、レブロブスの背後で兵士の断末魔の叫びが聞こえた。
「自分の頭じゃ何も考えられない盆暗共に…御高説を垂れるだけ時間の無駄さ」
レブロブスの背後から彼に斬りかかろうとした叫び声の主は血を吐きながら倒れ、その傍に立つ槍を手にしたガイウスが兵士達に冷たい目で微笑んでいる。
「こういう手合いは、四の五の言わずに斬り捨てるのが一番だ」
「珍しく気が合うじゃねぇか…! こいつらまとめて根性叩き直してやる!!」
並び立つレブロブスとガイウスはそれぞれ武器を持ち直し、眦を決して兵士達に相対する。
「早く! 逃げてください!!」
ディーナとヨハネ、ルピルピも、レブロブス達と同じく街の住民達を守りながらマモンの兵士達と戦っていた。
「どうしてこんなことを…!? 守るべきはずの街の人達を、なぜ領主のあなたが傷付けるの!?」
「そんなこともわからねぇのか! この社会を維持するためにはなぁ、人間をふるいに掛けて生きる価値のある奴をはっきりさせる必要があるんだよ!」
兵士と剣を交え憤るディーナを、マモンが処刑台から見下ろしながらせせら笑っている。
「人間、何をするにも金が要る。俺様のように金を稼ぐことができる奴ってのは、能力がある強者ってことだ。一方で、金を稼ぐ能力がない、七つの大罪である弱者を野放しにしておけばどうなる? そいつらを養うためのしわ寄せが、金持ち達に来ちまうだろう!? 税金を払わない無能共のために、なぜ俺の大事な金を使って街を整備し、奴らの暮らしを支えなければならない!? 働かざる者食うべからずとはよく言ったもんだ。金を稼げない奴は死ぬしかない。惰眠を貪っている弱者共に、俺は社会の厳しさを教えてやってるのさ!!」
「税金を払えない人が増えたのは、あなたが私腹を肥やすために街の人達へ重税を掛けるようになったからではないの!? それに、働きたくても思うようにできない事情を抱えた人達だっているはずなのに…そんな人達を問答無用で殺そうとするなんて、許せない!」
「知ったふうな口を利くなよ、小娘! 貴様には俺のような上に立つ者の労苦など、見当も付かんのだ! さぁて、ここにはレブロブスに加え、疾風のガイに、大魔導士のヨハネ…札付きの大悪党が雁首揃えてる訳だ。こいつらを全員殺せば、金がたんまり俺の懐に入る…笑いが止まらんなっ!! おっと、兵士達よ! 鎧を付けた女は二人とも生け捕りにしろ! 殺すよりも、鎧を引っぺがして客を取らせ続けた方が金になるからな!」
「あったま来ちゃう! 私達の美貌を売り物にしようだなんて!!」
剣を振るう手を休めることなく、ルピルピがマモンを見上げる。
「ピリポを助けるついでにあいつを張り倒してやりたいけど、兵士の数が多すぎて処刑台に近付けないわ…!」
「そろそろ、わしの出番じゃな」
兵士達から間合いを取って呪文を唱えていたヨハネが言った。
「領主マモンよ! 街の支配者の座に就いてもなお富を欲するお主の強欲さには敬服するが、ここまで人命を軽んじるのは見過ごせん! 無念を宿した亡者達の慟哭を聞くがよい!」
ヨハネの掛け声を合図に、倒れている死体が一斉に上体を起こした。そして死人達は身の毛もよだつような呻き声を上げ、両手を前に差し出しながら立ち上がった。
死人達は、恐怖に立ち竦んでいるマモンの兵士達へその両手を絡ませ、彼らの喉笛を嚙み千切り始めた。庭園内を満たしていた街の住民達の悲鳴が、兵士達のものへと塗り替えられていく。
兵士達に斬り付けられ、身体に弓矢が突き刺さっても、死人達は痛みを感じないのか、少しも怯むことはない。中には割れた頭から脳髄を垂れ流したまま、噛み付いた兵士の死肉を貪っている者もいた。
「これこそが、当代随一のネクロマンサーと名高いお師匠様の死霊魔術! 流石ですわ!!」
ルピルピが惚れ惚れとヨハネを見つめている。
「お、お前達! これしきのことで怖気付くなぁっ! おめおめと逃げ出そうものなら、俺がお前達を殺してやる! 死にたくなければ、化け物ごとあいつらを八つ裂きにしろ!!」
戦意をくじかれ、動きが鈍くなった兵士達に激怒しているマモン自身も、眼下に広がる蘇った死者の群れに恐れをなしているようだった。
「この機を逃すでないぞ、ディーナ!!」
気迫がこもったヨハネの声を耳にし、目の前で彷徨と捕食を繰り返す死人達に驚き立ち尽くしていたディーナは我に返った。その場から弾かれたように駆け出し、死人達に襲われている兵士達の間を掻い潜り一直線に処刑台を目指す。
「げぇっ!? もうここまで来やがった! おいっ、はやくあの小娘をぶっ殺せ!!」
処刑台の階段を駆け上がりピリポ達の元へ辿り着いたディーナを見たマモンは、邪道騎士を盾にするかのように後ろへ下がった。
ディーナは剣を構え、マモンと邪道騎士に対峙する。
「ピリポ君を、返して!!」
邪道騎士は弓に矢を番え、死人達を操っているヨハネを狙い撃とうとしていたが、即座に弓を剣に持ち替えディーナへと斬り掛かった。刃の速度と切れは凄まじいものであったが、ディーナは冷静にそれを刃で受け対抗した。大邪神の鎧によって強化された動体視力と膂力が、邪道騎士が振るう剣の軌道を読み、猛攻をしのぎ切っている。
二人が繰り広げる人間業とは思えない剣戟に気圧され、マモンは呆けたように口を開けて棒立ちになっている。
邪道騎士がディーナを斬り払おうと、大きく剣を振り抜いた際に生じた隙を彼女は見逃さなかった。
「ごめんなさい!」
邪道騎士の背後へ回り込んだディーナは、剣の柄頭で相手の後頭部をありったけの力で殴った。
体勢を崩した邪道騎士はそのまま床に倒れ、気を失ったようだった。仲間達からは甘いと非難されるとわかっていても、ピリポを傷付けることを躊躇していたように見えた邪道騎士の命を、ディーナは奪いたくなかった。
「俺が苦労して手に入れた大邪神の鎧が、こんな小娘に劣るというのかっ!?」
狼狽するマモンを余所目に、ディーナはピリポを拘束している縄を解こうとした。
「ディーナ、後ろ!!」
ピリポが叫ぶと同時に突き刺さるような悪寒が背筋を走り、ディーナはその場から飛び退いた。刃が一閃し、あわや彼女の身体を斬り裂くところだった。
「メタトロンの鎧に選ばれし者よ。ここにいる雑輩共が相手では、物足りないんじゃないか?」
「お前はルカ様が連れていた邪道騎士…確かファウストとかいったな! 何しに来やがった!? こいつらは俺の獲物だ、首を突っ込むな!!」
「無能な上司の世話ばかり焼いていてな。俺も退屈してたところだ。一つ、手合せ願おう」
さかんに怒鳴り声を上げるマモンには取り合いもせず、漆黒の剣士はディーナと向き合い、剣に付いた血を払っている。
その直後、兵士達を襲っていた死人達の足が止まり、折り重なって再び地面へ倒れていった。
「あやつまさか…! わしが動かしていた亡者達を全て破壊してからディーナの元へ行き着いたのか!」
ヨハネが動揺しながら庭園を一望している。死人達は一人残らず首を刎ねられ、断面から流れ出る血が石畳の目地を伝い赤い河となっていた。
ファウストを見据えながら、ディーナは纏わり付くような不快な汗が額から滲み出ていることを感じていた。一分の隙もない構えを取るファウストの強さからだけではなく、何か判然としない恐怖が頭をもたげた。
驚異的な瞬発力でディーナとの距離を詰めたファウストの一太刀をディーナは剣で受け止めたが、その重みに顔を歪める。間髪を容れずに叩き込まれる剣技は入神の域に達しており、先程戦っていた邪道騎士の比ではなかった。
剣と剣が火花を散らす度、ディーナの中で得体の知れない恐怖が増大していった。身体中を駆け巡る混沌とした感情が破裂し、叫び出しそうになる。
「拍子抜けだ。お前の剣は軽すぎる!」
剛力と神速を兼ね備えたファウストの一撃を受け、処刑台から弾き飛ばされたディーナの身体は庭園の石畳の上を転がった。
「あの剣士、何者だ!?」
完膚なきまでにディーナを叩きのめしたファウストを見ていたガイウスが険しい表情で叫ぶ。
「まずい、ディーナがやられる! さっさとこいつらを片付けるぞ!!」
戦斧を掲げ、行く手を阻む兵士達を威嚇しているレブロブス。彼らは死人の襲撃から生き延びたマモンの兵士達との戦いを続けていた。
二人がファウストの存在に気を取られた一瞬の間のことだった。目にも留まらぬ速さで飛来した黒い影がガイウスに直撃した。その影が振るった剣に吹き飛ばされたガイウスは受け身を取ったものの、巨大な石像の台座に背中を激しく打ち付けた。
ひび割れた台座に背を預け座り込んだまま、ガイウスは自らを窮地に追い込んだ影の正体を睨め上げている。
「大邪神の鎧を着た奴が…まだいやがったのか……!!」
そこに立つのは、処刑台の邪道騎士と配色は違えど、よく似た装飾や模様が施された鎧に身を包んだ兵士だった。とどめを刺すため、邪道騎士は深手を負い動けずにいるガイウスへ迫る。
「ガイ!!」
背中を見せている邪道騎士にレブロブスが戦斧を振り下ろす。並みの武装をした兵士相手ならば、身に付けた鎧ごと粉砕する程の威力を持った一撃を、大邪神の鎧は傷一つ刻まれることなく跳ね返した。反撃に出た邪道騎士が斬り掛かり、レブロブスは苦戦を強いられている。
「おのれぇっ! 秘蔵していたサリエルとウリエルの鎧を、貴様らごときに二つとも使うことになるとは! この鎧を譲り受けるために、俺がどれだけ教皇庁に金をつぎ込んだと思ってるんだ!!」
処刑台の上でマモンが怒り狂っている。
「まぁいい…中身をすげ替えれば、鎧は何度でも使える! 使い切りの呪符に比べりゃよっぽど経済的だ。おいっ、お前はいつまで寝てるんだこの役立たず!!」
邪道騎士と戦いながらマモンの話を聞いたレブロブスの顔色が瞬く間に驚きと怒りへ変わる。
「呪符だと!? 闘技場でゼファルを操っていたのは貴様なのか!? 答えろっ、マモン!!」
「捨て駒の名前なんか、一々覚えてる訳ねぇだろう!!」
足元で気を失っている邪道騎士を踏み付けながら、マモンがレブロブスへ当たり散らす。
「待てよ、そういえばお前が闘技場から脱走した時、俺は呪符を取り付けた剣奴を一人、お前の捜索隊に潜り込ませた…。そうだ! そいつの働きでお前は捕まり、手柄を立てた俺はこの街の前の領主に気に入られたんだった! おかげで俺は出世の道を突き進み、領主にまでのし上がることができたのさ! そのことに関しちゃ、お前に感謝しねぇとなぁ!!」
「よくわかった…。ゼファルを利用し、俺の妻と子を死に追いやったのは…貴様だったんだな……!!」
声を震わせたレブロブスは、優勢だった邪道騎士の剣を恐るべき力で押し返した。邪道騎士は宙に投げ出され、勢いよく地面に倒れた。
「貴様をそこから引きずり下ろす! 金で飾り立てた領主の椅子に座る貴様自身にどれだけの力があるのか…俺が見極めてやる!!」
周囲を圧倒する鋭い眼光を処刑台へ飛ばすレブロブスに、高笑いを響かせていたマモンは縮み上がった。
後ろに跳ね飛ばされた邪道騎士が上体を起こすと、レブロブスは再び視線を邪道騎士へと戻し身構えた。しかし、邪道騎士は取り落とした剣を掴もうとすらせず、うなだれたままその場に止まっている。
「…俺を…殺してくれ……」
「なっ、何!?」
邪道騎士が絞り出すような声を上げ、レブロブスは目を見開いた。
石畳の上にうつ伏せになっていたディーナは苦しそうに息を吐きながら身を起こした。処刑台から転落した際の損傷は大邪神の鎧が軽減していたが、ファウストと剣を交えた両腕は痺れ、心身共に困憊しきっている。
「純粋に強さがあった分、以前のお前の方がまだ好感が持てた。ここにいるのは、ただの抜け殻だな」
ファウストが処刑台の階段を静かに降り、ディーナへ近付く。
「やっぱり…! あなたは記憶を失う前の私を知っている!」
くずおれているディーナは顔を上げ、ファウストを凝視する。そしてファウストを見た時から感じていた恐怖が、失われた自らの記憶から来るものだと確信した。
「私もあなたに出会った気がする。でも、いつ、どこでなのかが思い出せない…。教えて! 私は一体、誰なの!?」
「本当に、知りたいのか?」
ディーナの叫びを、感情があるとは思えない程冷たいファウストの声が掻き消した。
「口先だけだ。お前は真実を知ることを恐れている。何も知らない者は何もできない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない……」
蒼白になっているディーナの顔を見下ろしながら、ファウストが剣の切っ先を彼女に向けた。
「力を持つ者の責務を果たさぬのならば、ここで死ね」
九
「みんな…! 僕が捕まったばっかりに……!」
死力を尽くして戦っている仲間達の姿を、ピリポは処刑台から暗澹とした表情で見ている。そして戦場と化した庭園内に積み重なっていく死体の山を目にし、胸が詰まるような悲しみに襲われた。
「くそったれ! こんなに兵士を失うことになるとはとんだ誤算だ! これじゃあ懸賞金が手に入っても大赤字じゃねぇか!!」
怒りにわなないているマモンは、処刑台の下でディーナと対峙しているファウストを苦々しげに睨みつけた。
「それだけじゃねぇ、このままだとあのファウストに手柄を横取りされちまう! あいつが邪教徒共を始末したところを見計らって、俺があいつを直々に葬ってやる!! そうすりゃ、金はみんな俺のものだ!!」
「ひど過ぎるよ! 街の人も、あなたの部下も、たくさん死んでしまった! それなのにあなたはお金のことしか気にしてない!!」
ピリポが悲痛な面持ちでマモンを見上げながら叫ぶ。
「当たり前だろう!? 俺が支配している街の住民と俺の金で雇われた兵士がどうなろうと、俺の勝手だ! 金のある奴が、全てを手にするんだよ!!」
「違う! 自分の命は、他の誰のものでもないよ…! 人の命を売り買いして、自分のことしか考えないあなたは…偉くも強くもない!!」
「このガキ…言わせておけば……!」
額に青筋を立ててマモンがピリポへ向き直った。
「ちょうどいい。ファウストを殺す前に、魔法の試し撃ちをしてくれるわ!」
マモンが片手を差し出すと、その掌の上に火の玉が現れた。
「貴様の邪な思想ごと、焼き払ってやる! 灰燼に帰せ!!」
灼熱の火の玉は一回り二回りと巨大化し、逃げ場のないピリポの身体を煌々と照らした。やがて火の玉は角を生やした鬼の生首のような形へと変形し、大きく開かれた口がピリポに食らいつこうと猛進した。
熱風が顔に打ち付け、息苦しさにピリポは少しの間顔を歪めたが、猛火が彼の身を焼くことはなかった。一人の兵士がピリポの目の前に立ち、背中でマモンの魔法を代わりに受け止めていた。それはディーナに敗れ、気を失っていた邪道騎士だった。
炎を凌いだ後、邪道騎士は床に捨て置かれていた弓と矢を拾い上げ、振り向きざまにその矢を放った。予想だにしない事態に面食らっていたマモンの頭を矢はかすめ、彼は足を滑らせ処刑台の下へ転落した。
邪道騎士はよろめきながら剣を手にすると、ピリポを杭に繋いでいた縄を断ち切った。そして邪道騎士は崩れ落ちるように座り込んで首を前に垂れると、そのまま動かなくなった。
マモンが放った火炎魔法の力が加わっても、大邪神の鎧には焦げ目の一つも見受けられなかった。しかし、鎧を着ている兵士の肉体は致命的な怪我を負ったようだった。座り込む邪道騎士の周りに血だまりが広がっていく。
「どうして…僕を庇ったりなんか……」
拘束を解かれたピリポは放心して立ち尽くし、邪道騎士を見つめている。
「…助けるのが遅くなって…ごめん……。兄ちゃん……」
消え入るような邪道騎士の声に、ピリポは耳を疑った。邪道騎士の傍らにしゃがみ込み、恐る恐る両手でその兜を取り外す。
「パルタ!? なんでお前がこんなところで…大邪神の鎧を着てるの!?」
兜の下から現れたのは、ピリポに似た少年の面差しだった。
「俺はもともとこの街の警備兵だった…」
レブロブスと刃を交えた邪道騎士は、戦う気力を完全に失った様子で彼に視線を向けた。
「病気にかかった女房のために薬代が必要になったが、俺の稼ぎではとても手の届かない額だった。借金の相談をしようにも、俺のような貧乏人の話を聞いてくれる奴なんかこの街にいない。それに借金が女房のためだとばれれば、俺は偽善者として異端審問会に通報されちまう。困り果てていた時、俺がこの鎧を着ることと引き換えに薬代を肩代わりしてやると、マモンが取引にやって来たんだ…」
邪道騎士から自嘲するような乾いた笑いが漏れる。
「取引に飛びついた俺はまんまと騙された。この鎧が装備した者に地獄の苦しみを与え、死ぬまで脱ぐことが許されない呪われた鎧だと気づいた時には後の祭りだ。マモンは…俺がろくな戦果を挙げず、痛みに耐えかねて自殺しようものなら、女房を売春宿に売り飛ばすと俺を脅した……!」
眉を顰めて邪道騎士の話を聞いているレブロブスに向かって、彼は救いを求めるように手を伸ばした。
「なぁ、俺は強かっただろう!? もう、十分戦っただろう!? 頼む、俺をこの苦しみから解放してくれ! 身体中の皮を剥ぎ取られ、火に炙られるように痛いんだ! 殺してくれ……!!」
その場からふらふらと歩き始めた邪道騎士はレブロブスの目の前で立ち止まると、兜を脱いだ。
レブロブスは戦斧の柄を強く握り直し、厳かな表情で邪道騎士の顔を見据える。
「ああ。お前は強かった。そして孤独な戦いの中で…お前は女房を守り抜いた」
苦痛に取り憑かれ青ざめている若い男の顔が和らぎ、レブロブスへ微笑んでいた。
レブロブスが戦斧を水平に振るうと、男の首が胴体から離れ地面に落下した。途端に胴体の切断面から赤い煙が立ち上ったかと思うと、男の遺体は白骨と化し、鎧と共に音を立てて石畳の上に転がった。まるで大邪神の鎧が血の一滴も残さず男を食らい尽くしたかのようだった。
「黒い羽共が欲望のために弱者を食い物にし…生き方を選ぶ意志すら奪うことが…善行だってのか……?」
散らばっている鎧と白骨に呆然と目を遣りながら、レブロブスが呟く。やがて彼の隻眼には、胸中渦巻く憤激が収斂した強い光が灯った。
「おかしいだろう!? 何もかもが狂ってやがる!!」
怒声を吐き歯噛みするレブロブスへ、マモンの兵士達が迫り来る。
「俺には、まだ足りねぇ…! このふざけた世界に喧嘩を吹っ掛けるだけの力が! 何者にも支配されない、強い力が!!」
「パルタ、待ってて! 傷を治せる仲間を連れて来るから…!」
立ち上がろうとしたピリポを、弟のパルタは弱々しく首を横に振って留めた。
「兄ちゃんに伝えなきゃいけないことがあるんだ。僕の話を聞いてほしい…」
ピリポは息を殺してパルタの言葉の続きを待った。
「父さんと母さんは…本当は兄ちゃんを手放したくなかったんだ。兄ちゃんをゴルゴダに送ったことを、今も後悔してる……」
「そんな!? 父さん達は、賄賂を支払わなくても済むようにしたくて、僕をゴルゴタの牢獄の看守にしたはずじゃ…!?」
「村の奴らが要求してくる金額がどんどん上がっていって、父さん達は金を使い果たしたんだ。それで仕方なく兄ちゃんをゴルゴダに送るのを決めたんだよ。金でしか兄ちゃんを守ることができなかったのに、それすらもできなくなって情けないって…父さん達は毎日泣いてた。それを見ているのが嫌で…僕は家を飛び出した……」
夥しい血を流しながらもパルタが真相を語ることができるのは、大邪神の鎧に込められた魔力のためか、肉体の限界を凌駕した彼の精神力によるものかはわからない。
「僕は兄ちゃんとは違う、一人でもなんでもできる人間なんだ。そう思ってパンデモニウムに来た。でも違った。僕は両親に保護されて思い上がっていただけの、子供だった。仕事が見つからなくて街をさまよっていた時、僕はマモン様に拾われ傭兵になったんだ」
血を吐き赤く染まったパルタの唇が震えている。
「マモン様の権力を笠に着て…僕は自分が偉くなったつもりでいた。マモン様の言い付けで税金を取り立てる相手に暴力を振るったり、他の傭兵達と一緒になってやりたい放題だった。おだてられていい気になって…利用されてることに気付かなかった。そして、命を捨てる覚悟で大邪神の鎧を着て邪教徒達と戦えば英雄になれるとマモン様に言われ…僕は何の疑いもせずにこの鎧を着てしまったんだ……」
「こんな物を着なくたって、お前は頭もよくて運動もできて…僕よりずっとずっと強かったのに……!」
「僕は…周りから弱者と呼ばれていた兄ちゃんが嫌いだったよ……。実家にいた頃、僕がどうして兄ちゃんを狩りに連れ出していたのかわかる? 僕は狩りの腕に自信があったから、兄ちゃんに見せつけてみじめな気持ちにさせてやろうと思ったんだ。身体の弱い兄ちゃんには、何もできないだろうと思って……」
俯くパルタの表情には、深い悔恨の念が刻まれていた。
「でも、兄ちゃんは逃げ出さなかった。下手くそでも弓を引き続けて、いつの間にか僕が仕留めたこともない大きな獲物を狩るようになった。そして…ここでマモン様に立ち向かった兄ちゃんを見てやっとわかったんだ。本当の強さを持っていたのは…兄ちゃんだったんだ……!」
ピリポの双眸から、小さな真珠のような涙がとめどなく転がり落ちる。
「僕は家の外に出ることを禁止されてた。だからお前が僕をこっそり森に連れて行ってくれたこと…本当に嬉しかったんだよ…! 弓を引き絞るお前はかっこよくて…僕はお前の兄ちゃんでいることが誇らしくて……! お前がどう思っていたとしても、一緒に森で過ごした時間は、僕の生きがいだった!!」
涙するピリポを鏡に写したかのように、顔を上げたパルタも頬を濡らす。
「やり直すことが…できたらな……。そしたら、誰かに言われたからとか、みんながそうしてるからとかじゃなくて…自分が信じた道を行くんだ……。兄ちゃん、一緒にケデロンの村に帰ろう……。もう誰も兄ちゃんのことを…弱者だなんて言わないよ……。だから…父さんと母さんと…みんなで…………」
「うん、一緒に帰ろう! だから、パルタ! 死んじゃ駄目だ!!」
鎧の継ぎ目から漏れ出した赤い煙が、ピリポの視界からパルタの全身を覆い隠した。そして煙が消え去ると、鎧と白骨を残してパルタは消滅していた。
「パルターーーーーーーッ!!」
泣き叫ぶピリポは鎧に埋もれている骨からパルタの頭骨を見つけ出し、震えながら胸の中にそっと包み込んだ。
「…命の価値を決めるのがお金だけだなんて……そんなの嘘だ!! だって命は…生きようとしていたパルタの命は、こんなに綺麗だったのに!!」
現実は、ピリポに弟の死を悼む時を満足に与えてはくれない。雇い主のマモンが倒れた今も、生き残った傭兵達は仲間達を攻め立てている。そしてファウストとの鍔迫り合いの末、ディーナは剣を弾き飛ばされ危機に瀕していた。
「パルタ、僕は強くなんかないよ。僕が本当に強ければ、お前は死ななかった」
泣くことを止め、目の前の鎧を見据えるピリポの瞳にも、レブロブスと同じ決意の光が満ちている。
「もう二度と、こんな思いはしたくないんだ! 強くなりたい! 大切な人を守れる力が欲しい!!」
ヨハネは兵士達と戦いながらも、レブロブスとピリポのただならぬ気配を感じ取った。
「レブ、ピリポ! 何をするつもりじゃ!?」
二人は背中に手を回し、自らの白き羽を握りしめている。
「羽を剥ぎ取り鎧を着るつもりか!? 早まるでない! お前達では無駄に命を散らすだけ――」
焦るヨハネが叫ぶ声を、二人が発する鮮烈な光が遮った。その光が収まった後、虚空に乱れ散る無数の白き羽根の中に、大邪神の鎧を身に付けた二人の姿があった。
驚きのあまり、ルピルピとヨハネは我を忘れている。
「さっきの光、太陽の神殿でディーナが鎧を着た時と同じだわ! それに、なんて禍々しい力なの!?」
「新たなる救世主の降臨…! よもや…あの二人までもが大邪神の鎧の適合者だったとは……!!」
高貴と威厳を帯びる黒の装甲に身を包み、紅蓮の炎を宿したような赤いマントをたなびかせ、雄叫びと共にレブロブスが戦斧を振るう。その勢いから生じた突風と業火が、レブロブスを取り囲んでいた兵士達を立ち所に飲み込み、骨すら残さず焼き尽くした。
すかさずヨハネの魔術によって追い討ちを掛けられ、総崩れとなるマモンの兵士達。
ピリポはパルタが使っていた弓と矢を手にして立ち上がり、勇ましくそれを引き絞った。放たれた矢は光を纏いながら放物線を描き、ディーナに斬り掛かろうとしたファウストを阻んだ。矢は流星が落下した跡のように石畳と地面を抉り、ファウストの眼前の地中に深々と突き刺さっている。
「それ以上ディーナに近付いたら、次は絶対に当てる!!」
涙に濡れた目をすがめ、ピリポは既に二の矢の狙いをファウストに定めている。黄褐色がかった落ち着きのあるオリーブ色の装甲と清々しい萌葱色のマントに身を固め威容を示すピリポに、かつてゴルゴダの牢獄で虐げられていた頃の惨めな面影は片鱗もない。
「時代が移り変わっても…お前達は何も変わらないな……」
自らに矢を向けているピリポを見上げながら、ファウストは平然と呟きをこぼした。
「いいだろう。お前達の信念とやらがどこまでこの世界に通用するか、せいぜい這いつくばって確かめてみるんだな。お前はもう少しまともに鎧の力を使えるようにしろ。このまま持ち腐れにする気ならば、必ず殺す」
ディーナに向き直ったファウストは捨て台詞を残してマントを翻すと、瞬時に姿を消し去った。
ピリポは安堵の溜め息を漏らし、構えていた弓をおろす。
敵兵を殲滅し、焦土と化した庭園一帯を眺めた後、振り向いたレブロブスが気前のいい笑顔をガイウスに見せた。
「どんなもんよ! 俺の強さに驚いて腰が抜けちまったか?」
石像の台座にもたれ掛かりぐったりと座り込んでいるガイウスは、悔しそうにレブロブスを睨みつけている。
「屈辱だ…お前に助けられるなんて! おまけに、お前とピリポの奴も伝説の勇者の仲間入りだって? 冗談きついぜ……」
「それだけ舌が回りゃあ、大丈夫そうだな。ほら、早くルピルピに治療してもらえ」
レブロブスに肩を借り、ガイウスはどうにか立ち上がった。
十
「ピリポ君!!」
「ディーナ!! 怪我はない!?」
処刑台の階段を降りたピリポの元へディーナは駆け寄り、涙を滲ませながら彼に向かい合った。
「ごめんなさい。私のせいで、あなたを危険な目に遭わせて…!」
「ディーナは少しも悪くないよ。油断してた僕がいけなかったんだ。助けに来てくれて、ありがとう」
ピリポは泣き腫らした目を落とし、顔を曇らせた。
「僕はこの鎧を…弟のパルタから受け継いだんだ。そしてパルタは本当のことを打ち明けてくれた。君の言うとおりだった。父さんも母さんも、僕のことをどうでもいいなんて、思ってなかった……」
「ゴルゴダでお前の身の上話が聞こえてきた時、妙だと思った」
ルピルピの回復魔法をその身に受けながら、ガイウスが言った。
「お前の両親が面子しか気にしていなかったのなら、お前を隠しながら育てるなんて回りくどいことはせずに、殺しちまえばよかったんだ。親の生殖能力が失われない限り、子はいくらでも代えが効くってのが黒き羽共の考えだからな。それをしなかったってことは、お前の両親も相当邪悪な奴らだったってことだ」
「ガイさんも僕の話を聞いて、いろいろ考えてくれてたんだね。僕は…自分が弱者だという不運に囚われて、周りのことが何も見えてなかったんだ……」
「…お前が惨めったらしい声で話してたのが嫌でも耳にこびり付いてただけだ。それよりディーナ、まだマモンの野郎に用があるだろ? 早くしねぇとレブがあいつをミンチにしちまうぜ。あいつはレブの嫁と子供の仇だったらしい」
ガイウスの言葉にディーナはハッとしてレブロブスを見遣った。
「さぁ、お前が自慢の金で揃えた兵士共はいなくなった!! どうするつもりだ!!」
処刑台の近くに倒れていたマモンの胸倉を掴み上げ、レブロブスが般若の形相で怒鳴り付けている。
「わ、わかった! お前達は強い! 自分の力量を顧みずお前達に戦いを挑んだ俺が馬鹿だった!」
マモンは脂汗を流しながら態度を一変させていた。
「お前達の強さを見込んでだ、俺の傭兵にならないか!? 一生遊んで暮らせるだけの金をやるぞ! 裏金を動かして、教団からもうまく匿ってやる! どうだ、悪い話じゃあないだろう!?」
「その金は、お前が街の人間の生活を踏み躙って得た金だろう!! そんなあぶく銭に俺達の目が眩むと思ったか!? どこまでも性根の腐った奴だ……今までの報いを受けやがれ!!」
「レブよ! 気持ちはわかるが、一旦抑えてくれ! こやつに教皇庁の場所を知っているか問わねばならん」
猛烈な殺意を込めて拳を振り上げたレブロブスをヨハネが制した。
「教皇庁? し、知っているぞ! 話すから、命だけは助けてくれ!! 教皇庁は…かっ……!!」
息を詰まらせたマモンの口がそれ以上話をすることはなかった。空を切った一本の短剣が彼の首を突き抜いたのだった。
口から血の泡を飛ばしもがき苦しんでいるマモンを前に、一同はただ当惑している。
「おしゃべりな男って、嫌いなのよねぇ。自分のことしか話さないから、うんざりしちゃう。そう思わない? ディーナちゃん」
短剣が飛んで来た方向から一個分隊程の神官兵達を引き連れて現れた女の姿に、ディーナとピリポは目を見張った。
「あなたは…!」
「万屋のお姉さん!? やっぱり、僕達の敵なの…?」
そこにいたのは商店で出会った例の赤い瞳を持つ女だった。今は商人の出で立ちではなく、胸元や太腿を露出した扇情的な衣装を身に纏っている。
「私の部下があなたに意地悪しちゃったみたいね。後でよく叱っておくわ」
女は小首を傾げ、艶めかしい笑みを浮かべてディーナを見つめている。
「でも、しょうがないわね。あなた達はとっても悪い子だから…ここで死んでもらわなきゃいけないの」
女のたおやかな人差し指が、ディーナ達に突き付けられた。
「私は異端審問十字軍隊長のルカ。邪教の信奉のみならず、大邪神の力を使って世界の崩壊を企てるあなた達には、アンゲルス教団総本山から直接の抹殺命令が下されたわ。教皇様の名において、我ら異端審問十字軍があなた達を処刑する」
「黙って聞いてりゃ、勝手なことばかり言いやがって…!」
身体の傷が癒えたガイウスが槍を構え、臨戦態勢に入る。
「ルカとやら、お主は何か誤解をしておるようじゃ。わしらは世界の崩壊など望んではおらぬ。話し合う場を設けてはもらえぬか?」
思い煩っている様子のヨハネの提案を、ルカは一笑に付す。
「問答無用よ、おじさま。それじゃ、あなた達が奪った大邪神の鎧もまとめて返してもらうわ!」
ルカの手振りに従い、神官兵達はディーナ達へと襲い掛かった。
十一
「なぁるほど…。これはちょっと面倒なことになったわ」
ディーナ達と異端審問十字軍との戦局を静観しながら、陣形の最奥に立つルカは独り言ちていた。
異端審問十字軍。世界の覇権を握るアンゲルス教団が誇る異端審問会の中で、類い稀なる武芸を有する神官兵を結集させた武力組織である。
盤石の強さを持つ神官兵達に、数で明らかに劣っているディーナ達は互角に渡り合っている。彼女達の動きは戦の素人集団とは思えない程統制が取れていた。
ルカの視点から、不利な戦況を打開する策を反射的に編み出し仲間達へ的確な指示を出しているヨハネの戦略家としての役割が大きいように思えた。更に彼自身も強力な魔術を用いて大砲の弾を飛ばすように神官兵達を蹴散らしている。
そして新たに大邪神の鎧を装備した二人のいずれも、闘技場での戦いの時と比べて格段に戦力が向上している。
極め付きの脅威は剣を手にしたディーナだ。繰り出される妙技は、先程まで彼女自身を追い詰めていたファウストのものと寸分違わなかった。僅かに剣を交えただけで、ディーナはアンゲルス教団一剣術の腕が立つファウストの技を写し取っていた。彼女に対峙した神官兵達は為す術もなく倒れていく。
「大邪神の鎧の力がここまでとは…。決着が付くのも時間の問題ね。直ちに総本山へ帰還し、より優れた抹殺部隊を編成しなければ」
転移の魔術を詠唱しその場から姿を消すまでの間、ルカは自らを囲う神官兵達の先で剣を振るっているディーナに熱い視線を送っていた。
「不思議ね。私好みの顔だから、首だけでも持って帰りたいとさっきまでは思っていたけれど…。それだけじゃあ満足できなさそうだわ。生きたままあなたを独り占めして、いじめ抜いてあげたくなってきちゃった。こんな気持ち、初めて……」
甘美な吐息のような呟きは、戦場の喧騒の中へ溶けていった。
「教皇って奴は随分と手荒な挨拶をしてくれるじゃねぇか! こうなりゃ何が何でも教皇庁の場所を突き止めて、こっちも相応の礼をしねぇとな」
「僕…鎧の力がなかったら…百回くらい死んでたと…思う……」
ディーナ達が異端審問十字軍との戦いに勝利を収めた後、マモン邸の庭園内。レブロブスは血気盛んに闘志をたぎらせ、ピリポは両手を膝に突いて息を切らしている。
「頭の女は戦いもしねぇで逃げやがった。…お前も毎日飽きねぇな……」
日記帳に噛り付いて執筆にいそしむルピルピを、ガイウスが憮然たる面持ちで眺めている。
「あの女、やーな感じ! ちょっと顔とスタイルがよくて胸が大きいからって、調子に乗ってるんだから! 今度会った時こそあの女に私達の強さを教え込んで、総本山の人達にも私達が正しいってことをわかってもらわなきゃ!」
仲間達の輪から外れ、むせ返るような血の匂いに包まれ変わり果てた庭園をディーナは見渡している。酸鼻を極める屍の中に、目を見開いたまま絶命しているマモンがいた。
「あとどれくらい、血を流せば……」
掴みかけたゼロ救出の糸口は脆くも潰え、ディーナの中には鬼胎だけが残った。ディーナの過去を知るファウストの言葉と失われた記憶が、得も言われぬ重圧となって伸し掛かる。
「ディーナ。僕はまだ実家には戻らないよ。早く君の御主人様を探しに行こう」
俯くディーナの背中をさするかのように、ピリポが声を掛けた。
「でも…ピリポ君の御両親は、きっとあなたに会いたいはずだよ」
不安そうにディーナが振り返ると、澄み切った瞳を彼女に向けて微笑むピリポがいた。
「僕は…父さんと母さんと…パルタが守ってくれたこの命に、胸を張って生きたいんだ。自分が決めたことを、逃げ出さずにやり遂げたい。父さんと母さんの所に帰るのは、この旅が終わってからじゃないといけないんだと思う」
日溜まりのような温もりを持つピリポの笑顔が、強張っているディーナの心を解きほぐしていった。
「ディーナにとって大切な人は、僕にとっても大切な人なんだ。だから早く、君に会わせてあげたい」
心に沁み渡るこの温かさは、ピリポの限りない勇気と慈悲なのだとディーナは気付く。
二人の会話を聞いていたレブロブスが冷やかしの口笛を吹いた。
「なーにいっちょ前に色気付いてやがるんだ? けどよ、何だか昨日よりお前の男っぷりが上がったみてぇだな…これも大邪神の鎧の力なのか?」
「お前の場合は鎧を着ててもそこらのヒキガエルに劣るがな」
「ガイ、てめぇはやっぱりいっぺんぶっ殺す!!」
レブロブスとガイウスの言い争いに束の間の安息を見出した一行は口元を綻ばせる。
「みんな、ありがとう…」
仲間達の顔を見つめながら、微笑を湛えたピリポは囁く。
「僕にも愛ってものが何なのか、少しだけ…わかったような気がするんだ……」
お読みいただきありがとうございます。久しぶりの更新です。
ルカが京都弁じゃない…(すっとぼけ)?私は1999年に発行された祭紀りゅーじさん著の『ブラックマトリクス』の世界観をとても参考にしております。巻末のプロデューサーとの対談でも「ゲーム中のルカのセリフを小説に反映させると恐ろしく読みづらくなりそう」というお話があったように、京都弁を知らない私は不自然な表現をしてしまうだろうと思って京都弁ルカは採用しませんでした。
次の章は暴食の街、カナンが舞台。ガイウス様メイン、正義がテーマの章です…わくわく。私なりに「正義とは悪とは」を解釈してから執筆を始めるので投稿はいつになるやら。のんびり楽しくやっていきたいです。