一
森の奥でルピルピが苦しそうに咳き込んでいる。木の幹に片手を突いて背中を丸め、肺の底で蠢く病魔を必死に抑え込もうとする。足元に生える草を濡らしているのは夜露ではなく、口を覆った指の隙間から滴る血だった。
悪魔の鎧は着実にルピルピの生命力を蝕んでいる。衰弱していく自分の姿を、彼女は仲間達に決して見られたくなかった。だからこの日も発作が起こることを悟るとすぐ、眠りに落ちた仲間達がいる野営地から離れて孤独な戦いに身を置いていた。
猛り狂っていた魔物はやがて鳴りを潜め、体内に仮初めの平穏が訪れる。呼吸を整えたルピルピは、俯いたまま小さな吐息を漏らした。
「発作の頻度が高くなってるな」
強い風が吹いた。不意を突かれて早鐘を打ち始めたルピルピの鼓動に同調するかのように、木々がざわめく。月を隠していた厚い雲が動き、その光が木立の間から現れた男の姿を照らし出した。
「女の子の秘密を覗き見するなんて、ガイはむっつりスケベだったのね。日記に書いとかなくっちゃ!」
口元に付いた血を拭い、ルピルピは努めて悠然と背後に立つガイウスへ言った。
「もう平気。ほら、早く戻りましょ」
「なぜお前はそこまでしてあのじいさんに尽くそうとするんだ」
鋭い眼差しと言葉がルピルピの背中に投げ掛けられる。
「お前の身体がそうなったのも、元はと言えばじいさんの野心のせいだ。お前はあいつにとって駒の一つに過ぎない。それでもお前は残りの時間をあいつのために費やすのか?」
「時間がないから…だからなおさらよ! 私の命を私が好きに使って何が悪いの!? 誰にも迷惑だって掛けてないわ!!」
振り返ったルピルピの瞳は悲しみと怒りに濁っていた。
「お師匠様は、初めて私の研究を認めてくれた人。私の知識は唯一無二だって…自分の悲願を達成するためには、私の力が欠かせないって…私を必要としてくれた。だから私はお師匠様に弟子入りして、この人の役に立つためだけに生きようって決めたわ。お師匠様が喜んでくれさえすれば、私は幸せなのよ! 私の身体なんて、もうどうでもいいの!!」
「なるほど、じいさんはそうやってお前の孤独に付け込んで懐柔したって訳か。さすがは徳のある大神官をやってただけあるな」
「ガイは黒き羽達の社会の中で、聖人として崇められるくらいモラルが高いわ。他人をこき下ろして、気に入らなければ殺して、自分だけがいつも正しいって顔してる」
ルピルピは声を震わせ、大理石の彫刻のようにつややかで表情の変化のないガイウスの顔を睨み付けた。
「でも私は…あなたが嫌い。あなたは血だらけだわ。死に一番近い臭いが染み付いてる……!」
そして足早にガイウスの側を通り過ぎた所で立ち止まった。
「あなたなんかに…私の気持ちがわかるはずないのよ……」
彼女は野営地の方向にある茂みへ消えた。
月の光は再び雲によって陰り、ガイウスは一人闇の中に取り残された。
二
「次の街は、まだかな? お腹が空いたよ…」
「締まりのねぇ奴だ。この間の威勢のよさはどこ行ったよ?」
森の中をとぼとぼと歩くピリポの隣で、レブロブスが呆れ返っている。
「だって…昨日の夜もレブさんが僕の分のおかずを食べちゃうんだもん……」
ピリポの恨み言をレブロブスは笑い飛ばす。
「ちんたら食ってるのが悪いんだよ! この世は素早い判断と行動ができる人間しか生き残れねぇからな」
「お前は飯を食う早さよりその鈍足をどうにかしろ。図体ばかりでかくて、戦う時も目障りだ」
「うっせぇ! ちょこまか動き回るだけが取り柄のお前と俺じゃ、格が違うんだっつーの!!」
睨み合うレブロブスとガイウスを見てやれやれと力なく笑った後、ヨハネがピリポへ言った。
「もう少しの辛抱じゃよ。この森を抜ければじきにカナンの街へ着く。聞くところによると、カナンは美食の都と評される程出される料理が美味であるそうじゃ」
期せずして新たな大邪神の鎧を手に入れ、パンデモニウムで異端審問十字軍との激闘を制した一行は、次の目的地であるカナンの街を目指して旅を続けていた。
「ルピルピちゃん」
仲間達の他愛ない会話を聞きながら、ディーナは下を向いて黙々と歩いているルピルピに声を掛けた。
「顔色が悪いよ。休憩しよう?」
「レブのいびきがうるさくってよく眠れなかっただけだから気にしないで。困っちゃうわ、睡眠不足は美容の天敵なのに」
顔を上げたルピルピにはいつもの明るさが戻っていたが、ディーナが感じた不安は消えなかった。
しばらく二人が黙って歩いていると、ルピルピが声を潜めて言った。
「ディーナは怖くなったりしない? 信じている愛が、やっぱりただの幻想かもしれないって…」
その目は必死に答えを求めている。
「一人が寂しいからとか、自分の地位を高めたいからとか、勝手な理由で誰かを求めている人ばっかり。お金を稼いだり外見を磨いたりしながら、お互いがお互いにとって都合のいい掘り出し物を探し合ってるだけ…。こんな虚しい世界で、本当の愛なんて見つけられる?」
「愛っていうのは…どこかで見つけ出すものじゃなくて、その人に備わってる力みたいなものだと思う」
「愛するためには能力が必要だって言うの?」
「うまく言えないんだけど…自分の中に愛が生まれるのかも、相手の心の中に愛が生まれるのかも、最初は何もわからない。何の確証もないのにそれを信じ続けることは、すごく大変で勇気がいる。それでも諦めないで不確かな未来に踏み込んで行く人に、愛する力が芽生えるんじゃないかな」
頭上から降り注ぐ柔らかい木漏れ日が、ディーナがゼロと過ごした日々を思い出させていた。
彼女が意識を取り戻してから初めて家の外をゼロと共に歩いた日。散策を始めて近くの森に差し掛かった時、木の根につまずいて転びかけたディーナをゼロが受け止めた。顔を見合わせ微笑んだ二人は、重なった手を繋いだまま森の中を進んだ。
その情景はただ眩しく、温かい。
「怪我を負っていつ目を覚ますかわからない状態だった私の看病を、ゼロはしてくれた。誰かを助けることが罪になるこの世界でずっと、たった一人で。ゼロがくれたものを疑ってしまったら…私は大切なことを失ってしまう気がする。だからゼロが信じているものを、私も信じてる」
「あなたの御主人様はあなたが必要だから愛を口にしたんじゃなくて…愛することができる人だからあなたを必要としたのね……」
「ルピルピちゃんが愛する人の心にも、愛が生まれてるといいな。ルピルピちゃんも愛することができる人だから」
何かに怯えているような表情をしていたルピルピは、その恐怖から解放されて穏やかな笑顔を浮かべた。
「やっぱりあなたは、大邪神の鎧を着るにふさわしい人なんだわ」
「見えたぞ。カナンの街じゃ」
森の出口へ辿り着き、ヨハネが仲間達へ声を掛けた。
視界を遮っていた木々がなくなると、リベイラとパンデモニウムの街にも存在していた、地上から天空へと斜めに伸びる巨大な鎖が一行の目に飛び込んだ。その鎖に縛り付けられているかのように、鎖の根元に街が広がっている。
三
「な、なんなんだよ、この街は!?」
街の様子を目にしたレブロブスは唖然としている。他の者達もその胸中は同じであった。
軒を並べているのは飲食店ばかり。店先から漂う珍しい調味料や香草の匂いに当てられ、ディーナは嗅覚だけでなく意識まで混濁しそうになる。
街のあちこちを見回すと、屋外に備え付けられたテーブルに寄り掛かっている肌色の小山がひしめき合っている。小山は肥え太った人間達だった。彼らは手掴みで料理を口に運び、皿に顔を突っ込んでなめ回し、最後の一瞬まで食事を堪能し尽くしている。知性や情緒、あらゆる人間性が食事をするためのエネルギーに変換されていた。そして彼らは満腹になると階段のように突き出た腹を揺すりながら所構わず寝転がり、安穏に満ちたいびきを響き渡らせている。
「街の人達は食べるのに夢中で私達に見向きもしないね。ああやってずっと食べることとと寝ることを繰り返してるのかな」
「どうやらこの街では、聖書の教えとして貴ばれている怠惰と暴食が厳格に遵守されておるようじゃ」
「みんな幸せそうな顔をしてるなぁ。お腹がいっぱいになってうとうとしてる時間は、僕も大好きだよ」
街の住民達に驚愕するディーナと感心しているヨハネの隣で、物欲しげに立つピリポが控えめに腹を鳴らした。
「要するにこの街の連中は悩まぬ豚だ」
ガイウスは心底から嫌悪感をあらわにし、黒い羽を生やした住民達を睨んでいる。
「目先の欲望を満たすだけで、自分を取り巻く社会や自身の生き方に何の疑問も持たない。こんな奴らに俺が劣っているだと…?」
「わぁっ、びっくりした! 私以外の白い羽の人を久しぶりに見たよー」
一行が声のした方を向くと、大きな籠を両手に提げている白い羽の少女が立っていた。
少女は人懐こい笑顔でガイウスに問い掛ける。
「こんにちは! あなたもバアル様に雇ってもらうためにここまで来たの?」
「バアル? 誰だそいつは」
「あれ? 知らないんだ。バアル様はこの街の領主様だよ! この街の人達はね、バアル様から毎日欠かさず私達の所に届けられる飛び切りの食事のお陰で幸福に暮らしてるの。食べ過ぎで太って自力で動けない人ばかりだから、私がこうやってみんなの所へ出前に行ってるんだ」
「ねぇ、どうしてあなた以外の白き羽の姿が見当たらないの?」
ルピルピが少女に尋ねると、少女は誇らしげに答えた。
「私以外の白い羽の人達はバアル様のお屋敷で働いてるからだよ。バアル様から食料を買うお金がなくなった黒き羽は自分の奴隷を差し出すの。それから、他の街から来た逃亡奴隷なんかもバアル様は受け入れて仕事を与えてあげてるんだって。お屋敷ではすごくいい待遇で働けるみたいで、誰もお屋敷から出たがらないんだ。お屋敷から帰ってきた人を見たことないもん」
「逃亡奴隷を匿う!? それが本当なら、その領主はとんだ偽善者だな!!」
レブロブスは疑わしげに少女の話を聞いている。
「でもバアル様は奴隷の私にも労いの言葉を掛けてくださるし、街のみんなに慕われてるよ! 私もバアル様のお屋敷で働きたいんだけど、私の御主人様は身の回りのことが何もできない人だから私を手放してくれないんだよねぇ。いっけない! 出前に遅れちゃう!!」
忙しなくその場から走り去る少女を見送ると、ヨハネが口を開いた。
「あの娘の話を信用するなら、バアルはユダやマモンとは一風変わった領主のようじゃ。あわよくば穏便にディーナの主人の情報を得られるかもしれん。わしらが教団と対立する中で、バアルが有力な後ろ盾となる望みすらある」
「けどよぉ、じいさん! 黒い羽共は何よりも保身に走る奴らだぜ? ましてや領主の座に就く権力者が進んで七つの大罪を犯すような真似をすると思うか?」
レブロブスの言葉にヨハネは考え込んでいる。
「お主の言い分も尤もじゃ。真偽の程はバアルと直接会って話をしてみなければわからんの」
「僕はさっきの人が言ってた飛び切りの食事っていうのが気になるよ。どんな御馳走なんだろう?」
ピリポが瞳を輝かせながら言った。
「それはもう、一度舌にのせれば人であることも忘れ食悦の虜となる絶品でございますよ」
「そうなんだ、食べてみたいなぁ……」
彼はその目をしばらく瞬かせた後、飛び上がった。
「おじさん、誰!?」
いつの間にか一同に紛れて黒羽の初老の男が佇んでいる。上品なスーツを着こなしている彼は、細いヒダの付いた白手袋をはめた左手を胸に当てて恭しく頭を下げた。
「申し遅れました。私めはこの街の領主であらせられるバアル様に仕える執事でございます。失礼とは存じますが、大魔道士ヨハネ様と大邪神の鎧を手にしたお連れの方々とお見受けいたします」
執事は頭を上げて優雅に微笑んだ。
「バアル様はあなた方とお目にかかりたいと申しております。食事の席を設けましたので、どうか屋敷までお越しいただけないでしょうか」
「早速仕掛けてきやがったな。どうする? 十中八九、罠だぜ」
顔を顰めているガイウスを見ながらヨハネが頷く。
「いずれにせよ領主には会わねばなるまい。多少の危険は承知のうえで参るとしよう。虎穴に入らずんば、じゃよ」
四
「いらっしゃいませ、どうぞごゆっくり」
執事に案内されバアルの屋敷に辿り着いたディーナ達を出迎えたのは、十数名の白い羽のメイド達だった。一行が通された広間の席に座ると、メイド達は湯気が立つ料理の皿や酒瓶を次々と食卓に置いていき、手際よく給仕をしている。
「白い羽の人達がここで働いてるのは本当なんだね。でも、みんなどことなくピリピリしてるような気がする…」
ディーナがメイド達を心配そうに見ているとルピルピが言った。
「緊張してるんじゃない? こんなに立派なお屋敷のメイドになれるなんて、白き羽にとっては普通じゃ考えられないことだもの!」
「おい、ここで働くことに何も不満はないのか?」
ガイウスが近くを通りかかったメイドの一人に声を掛けると、メイドはぴたりと立ち止まり硬い表情を崩した。
「もちろんございません。バアル様は卑しい私をこの屋敷に取り立ててくださった素晴らしいお方です。バアル様のおかげで私達は、食べられるのです」
「これ、ピリポ。むやみに料理に手を付けるでない。毒が盛られているやもしれん。美食を味わうのは、バアルにわしらへの害意がないとわかってからじゃ」
ヨハネに念を押されたピリポはしょんぼりと手に持っていた匙を食卓に戻し、お預けになった目の前の料理を見つめている。
ディーナも食卓に所狭しと並べられた皿の中身に目を移す。どれも箱庭での質素な生活や旅を続けている中では一度も見たことがない豪華な料理ばかりであったが、不思議と食欲が湧いてこなかった。
「ようこそお越しくださいました! 私がこの街を治めているバアル・ゼブルです」
広間の奥にある扉が開き、頭に巻き角を生やした黒羽の男が現れた。
「今日はコック長が腕に縒りを掛けて皆様への食事を用意しました。心行くまでお召し上がりください」
「この街の領主にしちゃあ中々の男前じゃねぇか! てっきり歩くチャーシューみたいな奴かと思ってたぜ」
紳士の出立ちに整った口髭を貯えているバアルの長身痩躯を見ながら、レブロブスが驚きの声を上げた。
「お招きいただき感謝するよ、バアル殿。せっかくじゃが、食事の前に尋ねたいことがある」
バアルが落ち着いた所作でディーナ達と同じ食卓に着くと、ヨハネが言った。
「アンゲルス教団に追われる身であるわしらを自らの屋敷に招き入れるとは、どういうつもりじゃな?」
「そう、大罪を犯しているあなた方は更に脱獄という罪を重ねた。そして教団に対抗する力を求め、リベイラとパンデモニウムの領主から大邪神の鎧を強奪したのです。そして今度は私が所持しているミカエルの鎧を狙い、この街を訪れた」
バアルの物言いに一同の顔は険しくなる。
すると、バアルの眼差しがディーナへ向けられた。
「しかしながら、大邪神の力を得た娘よ。それらが全てあなたが愛する主人に再会するためだと知った時、私は…胸を打たれました」
「えっ…!?」
ディーナはバアルの口から出た言葉に目を見張った。
「私も愛の存在を信じる者、教団からすればあなた方と同じ異端なのです。そして私は考えていました。これ以上血を流すことなく、あなた方と教団の確執を解くことはできないか、と。対話と強調により困難を乗り越える道を模索していたのです」
「既に教団とは対話を試みておる。じゃが、教団側は聞く耳を持たず、わしらは異端審問十字軍と戦うことになった」
ヨハネがもどかしそうに眉根を寄せた。
「当事者同士ではどうにもならない程、あなた方と教団の遺恨は深い。そこで私が調停者として名乗りを上げて会談を開くのです。政を司る立場上、私は各界の有力者と繋がりがあります。教団の上層部も例外ではありません。彼らを会談の場に招集し、条件付きですがあなた方を赦免することもできるでしょう」
「随分と大きく出たもんだ。で、その条件ってのは何なんだよ?」
レブロブスが隻眼を光らせバアルに問い掛ける。
「一つは、殺戮行為をただちに止めること」
「僕達だって好きで人を殺してた訳じゃないよ。街の領主や教団の人達が襲ってこなければ、あんなにたくさん死ななかった…」
ピリポは暗い面持ちで目を伏せた。
「そしてもう一つ、大邪神の鎧を保有している方が今後その力を世界平和のためだけに使用すると誓い、教団の管理下に置かれること。管理下と言いましても人身の自由や尊厳は保障されるよう先方に掛け合いますので、御安心ください」
バアルは力強くこんこんとディーナ達に言い聞かせ続ける。
「もちろん、教団側にはあなたの主人を解放することを約束させましょう。いかがですか、皆様。あなた方は確かにお強い。暴力で教団を屈服させることはできるかもしれない。しかし相手と完全に理解し合うことは絶対にできません。納得させるためには、言論の力が不可欠なのですよ!」
拳を掲げたバアルは仰々しく一同を見渡した。
「私は常に、正義と理性の執行者でありたい。本来対立する立場であるあなた方と私は、こうして一つのテーブルを囲んでいる。教団ともわかり合えるはずです。さぁ、共に人間の可能性に賭けてみようではありませんか!!」
「しかし、バアル殿。お主にそれだけの権限があるという確証を、わしらはまだ得ていない」
「それは私のことを信じていただくより他ありませんね」
ヨハネに疑いの目を向けられても、バアルは臆することなく毅然としている。
「私はなんとしてもこの大事を成し遂げたいのです。そしてゆくゆくは、争いと差別のない社会を打ち立てたい。黒き羽と白き羽が手を取り合って平等に暮らしていける社会です。手始めに私は、街の人々が私に差し出した白き羽の奴隷達を解放奴隷とし、実家に帰らせました。今この屋敷にいる者達にも、いずれ相応の報酬を持たせて暇を出そうと思っています」
「あ、愛や平等を口にするだけでなく、そこまで偽善を実行しているの!? 黒き羽がそんな大罪に手を染めるなんて!!」
「それはお互い様でしょう。あなた方もパンデモニウムの街で、兵士の襲撃から住民を守って戦っていたと伺っていますよ。やはり私達は志を共にする仲間なのです」
仰天しているルピルピへ向かってバアルはにこやかに語り掛けた。
「いいぜ、こいつの話に乗るかはお前が決めろよ」
ディーナを見ながら鋭い目つきのままでレブロブスが言った。
「仮にこいつが俺達の寝首を掻こうとしたなら、その時は教団共々蹴散らしちまえばいい」
「僕のことも気にしないで。僕の旅の目的は、君の御主人様を助け出すことだから。これ以上戦わずに君が御主人様に会える方法があるなら、それが一番だよ」
ピリポはディーナに向かって微笑む。
「お優しいあなたは今まで苦しんできたことでしょう。もうあなたの主人や仲間の命を危険に晒し、尊い人命を奪わなくともよいのですよ」
教え諭す伝道師の風格で構えるバアルを前にして、ディーナの脳裏に刻まれた数々の死が蘇った。
ヨハネの魔法を受け、泥のように身体が崩れていったゴルゴダの牢獄の看守達。自分が初めて振るった剣に切り裂かれたユダ。闘技場でその生首を宙に躍らせた剣闘士。マモン邸の庭園で積み上げられた死体の山と、とめどなく石畳を流れた血の河。
戦うことから逃げたくないと誓った。だが、敵と剣を交えその命を奪い取るたび、気持ちは底知れぬ淵へ傾いでいった。
「…会談を実現させたいです。あなたと協力して、アンゲルス教団と和平を結びたい」
ディーナはバアルを見据え、答えを出した。
「よかろう。黒き羽と白き羽が平等に暮らす社会…。そのような奇論を持ち出す黒き羽を、わしは初めて見た。バアル殿よ。わしも会談の場に赴き、お主のお手並み拝見といくぞ」
「それならば私も御一緒しますわ。この身が果てる日まで、私はお師匠様と共にいます」
「よくぞ御決断いただきました!!」
ヨハネとルピルピがディーナに追従し、バアルが喜色を浮かべたその時。
「お前は腹を据えたんじゃない。こいつに言いくるめられて楽な方に流れただけだ」
ガイウスの一言に、ディーナは胸を刺された。
彼女を睨むガイウスの瞳には明らかな侮蔑の念が宿り、更にその奥に微かな失望が潜んでいるようだった。
「お前ら揃いも揃って頭が腐ってやがる。こんな胡散臭い奴の話を真に受けるなんてな。正義なんて言葉を簡単に振りかざすような奴を、俺は信じない」
悪罵を吐き捨てガイウスは椅子から立ち上がった。
「どう転んでも、鎧を着てねぇ俺は部外者だろ? 俺は抜けるぜ。お前らは聡明な領主閣下と、好きなだけ馴れ合うがいいさ」
「ガイさん!!」
「よせ、ピリポ!!」
広間を出ていくガイウスを追い掛けようとしたピリポを、レブロブスが制した。
「ガイの言うことも間違っちゃいねぇ。俺達の勝手にあいつを付き合わせる謂れはねぇんだ」
「でも、ここまでずっと一緒に戦ってきたのに…。こんな形でお別れだなんて、何だか寂しいよ……」
俯くピリポの言葉と共に広間の扉が音を立てて閉まった。
「彼が私の理想について賛同していただけないのも、仕方がありませんね。彼は法に基づかず私的制裁によって、二百人もの黒き羽を殺害したというではありませんか。所詮は野蛮な快楽殺人者。血に飢えた獣と、会話が成立するはずないのです」
「ガイウスさんは、黒い羽の人達から奪った金品を貧しい人達へ分け与えていたと聞いています。人を殺すことを楽しんでいた訳ではありません」
ディーナはガイウスを貶された怒りに表情を強張らせてバアルへ言った。同時に、その冷笑的な発言から彼の一貫性が失われたような違和感を覚えた。
「まぁ、去った者のことをとやかく言うのは止めましょう。それでは皆様。準備が整うまでどうぞゆっくりおくつろぎください」
ディーナが見ていたバアルの笑顔が突如として二重になり、霞んでいった。すぐに部屋の景色全体が霧のようなものに覆われ、猛烈な目眩に襲われた。他の仲間達も同じようで、椅子に座ったまま不自然に身体を揺らしている。
しまった、と思った時には身体の自由が利かなくなり、食卓に突っ伏すと意識を失った。
五
屋敷の玄関ホールへ向かうためガイウスが廊下を歩いている。
「くそっ、どいつもこいつも……」
彼はいつになく冷静さを欠いていた。込み上げる苛立ちは、バアルの提案を無計画に受け入れたディーナ達の迂闊さからくるものであるはずだった。
しかしガイウスは抱えている怒りに本当の理由があることを本心では知っていた。その理由が結局は欠陥だらけの独善であるため、彼の尊大なプライドがそれを表に出すことを許さなかった。
ふと立ち止まると、屋敷の奥に迷い込んでいることに気が付いた。どんなに入り組んだ道であっても、一度歩けば普段の彼ならば間違えることはない。
注意が散漫になっている今の自分に余計腹が立ち、舌打ちをしながら来た道を引き返そうとした。
「人殺し!! 娘を返せ!!」
静まり返っていた廊下に、耳を覆いたくなる程悲痛な男の叫びが響いた。その叫びはガイウスを少なからず動揺させたのに留まらず、彼が記憶の奥底に仕舞い込んでいた忌まわしい一場面を揺り起こした。
「聞き捨てなりませんなぁ。我が主バアル様は、他の街から脱走してきたあなた方親子を、寛大な心でこの館に雇い入れたのですよ?」
叫んだ男に対して突き放した様子で取り合っている別の男の声が聞こえてきた。ガイウスは居ても立っても居られず、声のする方へ歩き出す。
「む、娘があんな殺され方をすると知っていたら、あの領主を頼ろうとはしなかった!! 見知らぬ土地にでも売り飛ばされた方がまだマシだったんだ!! 生きて…生き延びてさえくれれば、どこかに救いがあったかもしれないのにっ!!」
「救い? そんなものあるはずないでしょう。創世記戦争以前、我々黒き羽を誑かしていた汚らわしい白き羽の悪魔共は、我々に生涯その身を捧げることで罪を償い続ける定めを背負っている。その中でも、あなたの娘はバアル様の血肉となる最高の栄誉を授けられたというのに。その不遜な態度、目に余る!!」
ぎゃっ、という男の短い叫び声と物音がした後、廊下には再び静寂が訪れた。
男達の声を頼りに着いた突き当たりに、戸が半開きになっている部屋があった。室内の明かりが漏れて、薄暗い廊下を照らしている。
ガイウスは足音を立てずにその部屋へ近づき、戸の隙間から中を覗いた。部屋の光景に彼は目を見開き、思わず後ずさった。
そこでは彼が知る限り最悪の狂気と残酷が大鍋の中で煮込まれ、まな板の上で細切れにされ、それらがかつて味わったであろう恨みと苦痛がおぞましい悪臭となって部屋に充満している。
そして部屋の床に仰向けで倒れている白き羽の男と目が合った。男は殺気立った形相でガイウスに自らの無念と絶望を訴えている。胸には包丁が深々と突き刺さり、既に息絶えていた。
「あああぁぁぁッ!! なんっということでしょう!!」
死体の側に立っている黒い羽を生やした小太りの男が絶叫した。白いコックコートとコック帽子を血で汚しているその男は死体から包丁を引き抜き、部屋の外に立つガイウスに向き直った。
「私としたことが、生ごみの処理に手間取って客人を空腹のまま待たせてしまった!! コック長失格だ!! さぞ不愉快な思いをされたでしょう!? 堪りかねて厨房まで足をお運びになる程なのですから!!」
「厨房…!? 厨房だと!? この人間の解体現場のことを言ってるのか!?」
「大丈夫、すぐ食べられますよ!! どんな料理がお好みですかぁっ!?」
コック長は鋭い牛刀包丁を逆手持ちした腕を振り上げてガイウスに突進した。
ガイウスはその片腕を掴みコック長の関節を極めると、彼をうつ伏せの状態で床に叩き付けた。
「これがお前達が裏で重ねていた所業か!! 今までに何人殺りやがった!?」
コック長を拘束しながらガイウスが声を荒げる。
動きを封じられてもなお、コック長は活力に溢れた奇妙な笑顔を浮かべていた。
「今日は新鮮なレタスがたくさん入ったんですよ!! よく塩で揉んで置いたので、取り合わせてサラダにいたしますか!? それともフライにして差し上げましょうか!?」
「貴様、いい加減にしろ!!」
人の気配を感じたガイウスが顔を上げると、気付けば数名の黒羽のコック達が彼を取り囲んでいる。
ナイフを手にしている彼らは一斉にガイウスへ襲い掛かった。
コック長とコック達の屍の上に、ガイウスは息を切らして立っていた。その手には血に塗れた包丁が握られている。佩帯している槍だけでは狭い廊下での接近戦は不利だと判断し、コック長から奪った牛刀包丁一本で彼らを殲滅したのだった。
「くそぉ、くそっ、くそっ!!」
投げ捨てた包丁は壁にぶつかった後行く当てもなく床を滑り、血溜まりの中で止まった。
「どいつもこいつも俺の期待を裏切りやがって!!」
吐き出された強い感情は過去にもガイウスを打ちのめしたものだった。均衡を保てなくなった心に、幼き日々の幻影が忍び寄る。
六
白い羽の少年は毎日決まった時刻に母親の墓前を訪れる。水汲み、洗濯と家畜の世話、夕餉の材料の下ごしらえと、日課を済ませてから父親が仕事から帰ってくるまでの間である。
小高い丘に建てられた木の十字架の下に母親は眠っていた。少年が丘に辿り着いた時、太陽はちょうど墓の真後ろの地平線へと沈みかけており、十字架を中心に黄金の光が放射状に延びていた。実年齢にそぐわない凛々しさを備えているその少年は死者の魂や神について既に懐疑的であったが、その厳かな景色を眺めている時だけは母親の存在を近くに感じた。
少年は墓前に跪くと、摘んだばかりの花を供えてから瞳を閉じて祈りを捧げ始めた。
その日少年は家畜小屋からいなくなった一匹の豚を朝から探し回って疲れ果てていた。挙げ句豚は見つからなかった。父親は豚がいなくなったことについて自分を責めるだろうと思ったが、捜索を諦めて母親の許へと向かった。
物心が付く前に病死した母親との思い出はないに等しい。だが、その姿を頭の中で思い描こうとするだけで少年は満ち足りた気持ちになった。墓前での祈りの時間は、少年にとって唯一安らぎを得られる時間だった。
その平穏は突然頭上から身体に降りかかった生臭い液体によって破られた。
目を開けると全身を赤い粘液が伝っており、それは母親の墓にも跳ね返っていた。液体から放たれる錆のような臭いが吐き気を催す。
「よぉ、ガイ! お前も親父と一緒で血が大好物なんだろ? だから御馳走してやったんだぜ、残さず綺麗に舐めろ!!」
「豚には豚の血がお似合いだ!!」
血だらけのガイウスは立ち上がり、振り返った。
そこには彼と同じ年頃の白い羽の少年が二人立っている。その二人はガイウス一家の近所に住む黒き羽に仕える奴隷の兄弟だ。兄弟はヒステリックな笑い声を上げており、兄の方が手に持っていた空の桶を放り投げた。
ガイウスは家畜小屋からいなくなった豚の哀れな末路を悟った。
赤に染まった顔の中で見開かれた白い目だけが浮かび上がり、兄弟を睨み付けている。
「特権階級の奴らはいいよなぁ。死んだらこんな立派な墓まで建ててもらえてよ! 俺達の両親はお前のクソ親父に首を刎ねられて野晒しにされたまま、野犬と烏の餌になったんだ!!」
そう言って兄が墓前の花を踏み潰したのと、ガイウスの拳骨が兄の頬に命中したのはほとんど同時だった。
「父さんを愚弄するな!! 父さんは掟に従って公平に罪人を裁いてるんだ!!」
憤りに震える声は思春期の変化を迎えておらず高く澄んでいた。
「デタラメ言いやがって!!」
すかさず弟がガイウスに掴み掛かる。
「お前の親父が斬り落としてるのは白き羽の首だけだ!! お前の親父は黒き羽と取り引きして、罪を犯した白き羽を惨たらしく処刑する見返りに、自分達一家を奴隷の身分から解放させたんだ!! 裏切り者!!」
「違う、父さんは剣の腕を買われてこの国の秩序を守る執行官に選ばれたんだ!! そんな卑怯なことはしてない!!」
「縛られてる死刑囚を殺すのに、強さなんか関係あるもんかっ!!」
怯んでいた兄も取っ組み合いに加わり、ガイウスと兄弟は泥臭い喧嘩になった。
「俺達の両親は…大人が働く時間を増やす代わりに俺達の負担を減らしてくれと主人に願い出た…! それが偽善の罪になったんだ。畜生…同じ七つの大罪なら子供の俺を…弱者の俺を殺せばよかったじゃねぇか……!!」
拳を振り上げる兄は涙を滲ませている。
「父ちゃんと母ちゃんを返せ!! 返せよ!!」
血を吸ったような夕暮れの空に兄弟の号哭が虚しく響いていた。
七
厨房と呼ばれていた場所を後にしたガイウスは屋敷の広間へ再び乗り込んだ。
食卓にはバアルだけが座っており、執事に酒を注がせている。
「おやおや! 今頃戻っても、あなたにふるまう食事は残っていませんよ」
バアルは何食わぬ様子で酒の入ったグラスを口に運ぶ。
「他の奴らをどこにやった!?」
「皆様はお腹がいっぱいになったようなので、別室でお休みになられています。彼らの眠りを妨げないよう、どうか御静粛に」
ガイウスは顔色を変えながら槍を構え、バアルに対峙した。
「何が正義だ…何が理性だ…! イカれた人食い野郎!! お前が解放したと言っていた奴隷達も全員、料理の材料にしちまってるんだろう!?」
「何をそんなに御立腹なさっているのです? あなたの真の仲間である私の、何がお気に召さないのですか?」
立ち上がったバアルは愉快げに目を細めてガイウスに近づく。
「この世界には二種類の人間しかいない。強い力を持つ者と持たない者。殺す者と殺される者。命を支配し破壊する力を得ることで、人は圧倒的な高みに立てる。多くの黒き羽を望んで抹殺したあなたは、私と同じ全能者ではないですか! あぁ、なんと芳しい血の匂い!!」
「貴様と俺を一緒にするな!!」
憤怒の直中にあっても、ガイウスは背後に回り込んだ執事の不審な動きを見逃さなかった。
執事が懐から彼に向かって投げた数本のナイフを薙ぎ払うと、手斧を取り出し斬り掛かってきたバアルを間合いに入られる前に槍で突き通す。崩れ落ちるバアルから奪った斧を即座に振りかぶり力を込めて投擲すると、放たれた高速回転の斧は執事の脳天を直撃し薪の如く割った。
ガイウスは足元に倒れているバアルへ視線を戻す。彼を突いた時の感触が、羽毛の枕を突き刺したかのようで余りにも手応えがなく不可解だった。
「あの奸賊共は皆…バアル様の養分となる……」
ガイウスを見上げるバアルの口から弱々しい笑い声が漏れた。
「そして更なる力を得たバアル様は…より多くの弱者や白き羽の悪魔共を殺し、浄化された世界をお造りになられるのだ! 私の命も、その輝かしき楽園のための礎…。偉大なる死よ、万歳……!!」
事切れたバアルの全身が黒く変色すると、拳大程の塊になって分裂した。その一つ一つの正体は黒い羽を生やした生物の死骸だった。
(コウモリ!? こいつは替え玉だったのか…本物のバアルはどこにいやがる!?)
ガイウスは屋敷内を歩いていた時の周囲の様子を思い浮かべる。重厚な紫檀の床材やシルクの絨毯が一面に広がる洋館の片隅に、地下へと続く石造りの階段があった。
秘匿された凶悪を見抜く野生的な勘だけが、彼の足を動かした。
八
「もうこれ以上俺達の犠牲にならなくていいんだ! こんな所、抜け出そう…!」
暗闇の中で耳にした声を、ディーナが聞き間違えるはずはなかった。
「俺達のことを誰も知らない土地で、二人だけで暮らすのもそう悪くはない。俺は見てのとおりの世間知らずだから、楽させてやれる自信はねぇけど…。お前に教わりながら少しずつ覚えていくよ。俺達なら何とかできそうな気がしないか?」
懐かしいゼロの声に心が震えたが、その言葉は聞き覚えのないものだった。
「あなたのお陰で一瞬でも…美しい夢を見ることができました」
それに答えるディーナ自身の声はゼロへの感謝と敬意を含んだ前向きな感情が変わらずあるものの、他人行儀でどこか厭世的ですらある。
「ですが、あなたと私を繋ぎ止めていたのはこの首輪だけ。主人と奴隷の関係を越えて私達が生きていける場所など、どこにもないのです。どうか私のことは忘れてください」
「ディーナ!!」
「私は…を……捨てることが……」
二人の会話はどんどん遠ざかる。状況は理解できぬまま、胸にどうにもならない悲しみが広がっていく。
目を覚ましたディーナが跳ね起きると、彼女の顔を覗き込んでいたピリポと頭同士が衝突した。
「ピリポ君!? 大丈夫!?」
ディーナの石頭をぶつけられたピリポはしばらく身悶えした後、目に涙を浮かべながら彼女に向き直った。
「元気そうでよかった…。君だけ目を覚まさないでひどくうなされてたから、心配してたんだ」
「ここは…?」
辺りを見回すと、他の仲間達の姿と自分達を捕らえている鉄格子が目に入った。
「ざまぁねぇな…また牢屋にぶち込まれるとはよ!」
石の床に座り込むレブロブスが歯がみしている。
ヨハネは大きな溜め息を吐いた。
「してやられたわい。恐らく会食の場に催眠効果のあるガスでも撒かれたのであろう」
「私達を眠らせてわざわざ牢屋に運んだりしてるんだから、あの嘘吐き領主はすぐに私達を殺すつもりじゃないみたいね。隙を見て脱出しなくっちゃ!」
ルピルピの言葉に頷き、ディーナが立ち上がる。
「鎧の力で鉄格子が壊せないか、やってみる」
「それならとっくに試してるぜ」
レブロブスが冷めた目で言った後、ディーナは意識を集中させても大邪神の鎧が出現しないことに困惑した。
「理由はわからないけど、ここでは鎧の力もヨハネさんの魔法も使えないんだ。眠ってる間に、武器も取り上げられちゃったし…」
ピリポが落胆しながら言った。
「そんな…!」
ディーナは鉄格子の側まで近付き、牢屋の外の様子を見た。
先程までバアルと話していた煌びやかな広間とかけ離れた、日の光の届かない寒々しい洞穴のような地下空間である。
床に散在する血の染みは古いものもまだ新しいものもある。さらにはおどろおどろしい突起の付いた棍棒や槍等の武器が転がり、磔台や拘束具付きの針だらけの椅子、ギロチンがいくつも置かれていた。
「ここは、拷問部屋? あそこにあるのは…大邪神の鎧…!?」
拷問部屋が醸す邪気を払うかのような清浄な白い光が部屋の中央に浮かんでいる。光を放つのは、台座に設置されている一領の鎧だった。太陽の神殿でも目にしたように、頑丈に鎖が巻き付けられている。
「いい眺めでしょう? ここは自慢のコレクションルームですよ!」
地上へと繋がる扉が開き、黒い羽の男が白い羽のメイドを引き連れ現れた。男は牢屋に向かう階段を降りながら眼下のディーナ達を嘲笑う。
「やってくれるじゃねぇか!! って、誰だお前? …その声、まさか…バアルの野郎なのか!?」
レブロブスは口を開けたまま唖然としている。
牢屋の前に立つのは、声こそ同じであるものの、広間にいた細身のバアルとは似ても似つかない肥満の大男であった。
「食堂であなた方の相手をしていたのは、私が作った只の影ですよ。私は大事なお昼休み中だったのでね」
すると、階段の上にいたメイドがよろめき階段を転がり落ちた。
バアルの足元で止まり倒れたまま微動だにしないメイドを見たルピルピが悲鳴を上げる。
「どうなってるの!? あのメイド…干からびたミイラみたいだわ!!」
土気色になっているメイドの全身は萎び、歯や爪は剥がれ落ち、眼窩から今にも目玉が飛び出しそうになっていた。
「面倒な奴に捕まった。バアルの正体は、人間を餌とするヴャンパイヤじゃ」
ヨハネが渋面を浮かべる。
「生き血を啜った人間を同じ吸血鬼へと変貌させ、面妖な術を操ると言われておる。わしらの力が封じられたのも奴の術のせいであろう」
「御賢察のとおり。皆様には特別に、偉大な私の力の一端を教えて差し上げましょう」
バアルは勝ち誇った顔で話し続ける。
「私は創世記戦争で神々が使用していたという兵器に興味を持っていました。そして苦心の末、その技術の一つを復活させることに成功したのです!」
そして興奮状態のまま視線を上に向けた。
「これは私の魔力と生贄達の血によって作り上げた結晶! 結晶が生み出す結界はあなた方がいる牢屋を囲んでおり、その中ではいかなる呪力も無効化される! これで私は安心してあなた方をじっくり料理することができるのですよ!!」
高い天井から真紅の結晶体が照明のように鎖によって吊り下げられ、妖しい光を放っている。
締まりのない肥大した腹を揺すりながら、バアルがげらげらと笑った。
「あなた方ごと大邪神の鎧を取り込めば、私の魔力はさらに強大なものとなる…アンゲルス教団の教皇すら及ばなくなるだろう! 私は不死者の王としてこの世界に君臨するのだ!!」
「そ、それって僕達を食べちゃうってこと? 僕は痩せっぽちだから食べてもそんなに美味しくないよ…」
ピリポが恐ろしさに震え上がっていたその時。
「そうはさせるか!!」
義憤に駆られた男の叫びがバアルの高笑いを遮った。
ディーナは驚き、階段の上に現れた男を鉄格子の間から見上げる。
「ガイウスさん……!」
「バアル!! 貴様は…貴様だけは、刺し違えてでもこの手で殺す!!」
「あなたも愚かな人ですねぇ。あのままこの屋敷を出て行けばよかったものを」
振り向いたバアルは憫笑しながらガイウスを見ていた。
「ここに来るまで見張りの兵士達を全て倒した向こう見ずな勢いには、敬意を表しますがね。なんとまぁ、お可哀想に! そんなボロ雑巾のようになってしまっては、せっかくの色男が台無しじゃないですか!!」
ガイウスの頬や腕には切り傷と裂傷が走り、切れ目の入った服の端々は赤く染まっている。
しかし彼の瞳の光は薄らぐことなく、バアルを討ち果たすという使命に燃えていた。
「私と戦いたいと言うならば受けて立ちましょう。ですがその前に、忠実で勇敢な私の下部達があなたに挑むようですよ!!」
バアルがそう言った後に部屋の暗がりから現れガイウスを取り囲んだのは、兵士ではなく食堂で接客をしていた数人のメイド達である。
怯えた様子で鞭を握りしめている彼女達を前に、ガイウスは狼狽した。
「許して! あなたを殺さないと、私の子供が…バアル様に食べられてしまう……!!」
最初に口を開いたのは、屋敷で働くことに何の不満もないと笑顔でガイウスに答えたメイドだった。
「私も家族を人質にとられているんです! お願いです、私のために死んでください!!」
「まだ死にたくない…。離れ離れにされたお父さんに会いたい…!!」
他のメイド達も挙って胸の内を吐露する。
鞭を手にしてガイウスに立ち向かうメイド達に、彼は父親の姿を見た。処刑台で剣を振り上げていた父親の姿を。
彼の中で燃え上がっていた憎しみと怒りが、静かな悲しみへと翻った。
ガイウスは槍を構えていた手を下ろし、俯く。
メイドの一人がガイウスに鞭を打った。素人の鞭を避けられないはずはないが、彼はそれをしなかった。
間髪を入れずに何本もの鞭がガイウスを襲う。それでも彼はその場から動かずに歯を食いしばってただ、耐えていた。
「何してんだ、ガイ!! 戦わねぇならとっとと逃げろ!! こんな所で無駄死にする気か!?」
「そうよ!! こんなの…見てられないわ……!!」
レブロブスとルピルピが叫ぶ。
「どうしたんです? 急に大人しくなってしまいましたね。そんな小娘共を捻り潰すことなど、あなたなら造作もないでしょう? いつものように殺しの支配を楽しめばいいじゃないですか!!」
メイド達の血が流れることを待ち望んでいるかのように、バアルは歓喜の表情を漲らせていた。
「認めよう、バアル。俺は貴様と同じ、薄汚れた人殺しだ…!」
痛みに顔を歪めてガイウスは膝を突いた。
彼の無残な姿を目にして非情になりきれないメイド達は、鞭を打つ手を止めて立ち竦んでいる。
「白き羽を虫ケラのように扱っていた、傲慢な黒き羽を殺し続けたのは…単なる復讐だった。奪われたものを奪い返そうと…奴らをいくら殺しても、俺が望んだものは決して手に入らなかった」
やり場のない思いを抱えながら、ガイウスは小さく息を吐いた。
「そしてこれは…俺のくだらない自己満足さ。大切な者のために命を懸けるお前達を、俺は傷付けたくない」
メイド達を見つめるガイウスの言葉に偽りはなかった。
「殺すなら殺せ。お前達が一日でも長く生きられるならば、それでいい」
その眼差しは彼女達の命を慈しみ、強く抱擁していた。
「できない……」
そう呟く母親のメイドの頬を涙が伝う。
「私達は間違ってるわ! この人を殺しては駄目!!」
鞭を投げ捨て、メイドはガイウスを庇うように他のメイド達の前に立ち塞がった。
「こんなにむごい仕打ちを受けてもこの人は…私達の身を案じている。この人は私達をバアル様から解放してくれる、唯一の希望よ!!」
ガイウスは呆然と彼女の背中を見上げている。
やがて他のメイド達も握っていた鞭を落とし、さめざめと泣き始めた。
「見苦しい傷の舐め合いは、そこまでにしていただきましょう」
興醒めと言わんばかりに、バアルが鼻を鳴らす。
「過ちを犯すはずもない。お前達は既に、意志など失った私の人形なのだから!!」
そして彼は瞳を閉じて詠唱を始めた。
「美しき恐怖を伴い、冥界の血河を渡りて、大神サタンに捧げし暗黒のその命、真紅の死者となりて今こそ、その黄泉の力を示せ!!」
メイド達は金切り声を上げて苦しみ出す。
「どうした!?」
ガイウスは足に力を込めやっとの思いで立ち上がった。
目の前に立つメイドの背中からめきめきと骨が軋むような音が聞こえると、白い鳥類の羽が瞬時に黒いコウモリの羽へと生え変わった。
ゆっくりと振り返ったメイドの顔は土のように変色し、白目を剥いて、開かれた口からは鋭い歯が覗いている。
「やはりあの娘達もバアルに血を吸われ、吸血鬼と化しておったか…」
ヨハネがメイド達を見ながら口惜しそうに言った。
「聞くのだ、ガイよ! 彼女らは二度と元の人間には戻れん! 憐れと思うならば、今すぐに殺してやるのじゃ!!」
「そうだ、殺せ。私は若い女が臓物をぶち撒けて死ぬのを見るのが大好きなんだ! もっと私を楽しませろ!!」
バアルは腹を揺すりながら大笑いしている。
変わり果てた姿のメイド達は、呻き声を上げながらガイウスに迫る。
「…やめろ……」
声を震わせ、ガイウスは爪が食い込む程拳を握った。
「やめろ……!」
燻っていた信念の火種は熱情の風に煽られ、自らをも破滅させかねない火炎となって爆ぜた。
「こいつらの命を、弄ぶな!!」
地下空間内の最奥から巻き起こった突風が、メイド達を薙ぎ倒していく。
ガイウスが風が吹いた方向を階段の上から覗き込むと、大邪神の鎧が放っていた光が輝きを増し、地下全体を照らしていた。
「大邪神の鎧がガイの思いに呼応しておる…! あやつも鎧の適合者なのか!?」
鎧の光に目を眩ませながらヨハネが叫ぶ。
ガイウスだけがまじろぎもせず鎧を凝視していた。その表情には一切の迷いも恐怖もない。
「彼女らを救うことができるなら…呪われた鎧だろうが何だろうが着てやる……!!」
ガイウスは背中の羽を力強く掴む。
「だから早く、俺に力をよこせ!!」
白い羽が背中から引き剥がされると同時に、鎧を封印していた鎖がひとりでに千切れた。
そして光が収まると、台座に置かれていた鎧は余すところなくガイウスの身に装着されていた。
見る者の心を吸い込むような深い夜空を思わせる濃紺の装甲とマントに、白銀の肩当や鉄靴を格調高くかつ機能的に設えているその鎧を纏った彼の姿は崇高そのものだった。それは峻烈と美を併せ持つ戦士だった。
ガイウスは立っていた階段の最上段から天馬の如く飛躍する。彼が目指した先は、常人では届くはずがない高さに吊るされている真紅の結晶体である。天井と結晶体を繋いでいた鎖を槍の一振りで断ち切り、そのままディーナ達がいる牢屋の前へ苦もなく静かに着地した。
結晶体が地面へ落下し粉々に砕け散ると牢屋内で爆発が起こり、鉄格子が吹き飛んだ。
「よっしゃあ! こっから巻き返すぜ!! 料理されるのはてめぇだ、バアル!!」
「すごいよ、ガイさん! 助けてくれてありがとう!!」
土煙の中から、鎧に身を包んだレブロブスとピリポが現れる。結界の力が失われ、ヨハネの魔法によって鉄格子を破壊した彼らは無事に牢屋から脱出できたのだった。
「私の!! 私の魔力結晶がっ!! あ、ありえない……!! なぜ貴様がミカエルの鎧を着ているのだ!?」
取り乱しているバアルはすぐに彼らに背を向けて逃げるように走り出した。
「あいつらを生きたまま食ってやりたかったが、仕方ない…! お前達、出てこい!! あの邪教徒共を片付けろ!!」
地下室の暗闇に潜んでいた黒い羽の兵士と魔術師達が、バアルと入れ替わりに一行の前に立ちはだかる。
「くっ…!」
ガイウスは先程までの傷が癒えておらず体勢を崩した。その隙を突いて兵士が斬り掛かる。
だが、刃が届く前に鎧を着たディーナが兵士を殴り飛ばした。手には拷問用の棍棒が握られている。
「余計な真似を……」
ディーナを睨み、ガイウスが呻くように言った。
「助けはいらねぇ。お前らが捕まったままだとやりにくいから結界を壊したんだ。腰抜け共は引っ込んでろ」
「引っ込まない」
ガイウスをまっすぐに見つめ、ディーナが首を横に振る。
彼女の顔と純白の鎧には、返り血が薔薇の花弁のように広がっていた。
「私は大切な選択を間違えた。失敗した分を取り返さなきゃいけない。だから、これ以上みんなに怪我をさせずにあの人を倒す。ゼロの居場所も聞き出す」
ガイウスはしばらく彼女と視線を交わした後、敵兵達の後ろに身を隠しながら立っているバアルを見据えた。
「…俺の邪魔だけはするな」
彼の瞳に再び戦意が満ちる。
戦う力を取り戻した一行の快進撃は目覚ましかった。
倒した敵から奪った剣を手に、ディーナとレブロブスが次々と兵士達を斬り伏せる。
ヨハネが呼び寄せた毒の霧に退路を断たれた魔術師達は、ピリポが放つ矢の格好の的となった。
「こんなはずでは……!!」
自軍の敗色が濃くなると、バアルは出口の扉に向かって階段を駆け上がった。
跳躍したガイウスは戦場の兵士達の頭上を飛び越え、扉の前へと降り立つ。
「自分の言葉には責任を持った方がいいぜ、バアルさんよ。俺との勝負を受けて立ってもらおうか」
「黙れぇっ!! 低劣な白き羽が、私を見下ろすな!!」
階段の途中で立ち往生しているバアルは、怒りに身体を震わせ、顔を火照らせながら怒鳴った。
「お前達は世の中の道理というものをまるで理解していない!! 詰まるところ正しさとは、世論なのだ!! この街の住民は皆、私が与える食事に満足しながら生活している。私を受け入れ、私を賞賛している!! その私を倒せばこの街がどれだけ大きな損害を被ることになるか、なぜわからない!?」
「真実を隠され、判断力を奪われた民の声に正しさなどない!! お前が死ねばこの街の奴らも少しは目が覚めるだろう!!」
バアルが放つ魔法の光弾を躱しながら、ガイウスは彼との距離を詰めていく。
「お前には本当に生きている人間に向き合うだけの器量がないのさ!! 批難されることを恐れているから、力と恐怖で他人を押さえ付けようとする!! お前が築いた街は虚栄心とナルシシズムの塊だ!!」
「ごちゃごちゃと口先だけの正義を並べ立ておって!! 大邪神の鎧を着て、自ら神にでもなったつもりか!?」
「正義を語るつもりも、神になったつもりもない。白き羽を虐げ殺すことが優越性の証明だと考えているお前のやり方が気に入らねぇ…! それだけだ!!」
バアルの手前でガイウスの槍の穂先が雷光のように閃いたかと思うと、次の瞬間にバアルは胸を貫かれていた。
槍を胸に受けたまま巨体は宙を舞い、階段の下へ転落した。
「またもや奇跡が起こりおった…。わしらの旅路は、大邪神達の魂に導かれておるかのようじゃ……」
バアルを討ったガイウスの姿を見上げ、ヨハネがしんみりと呟いた。
九
「おい、しっかりしろ!!」
残りの兵士達を掃討した後、ガイウスは倒れているメイドの一人を抱き抱えた。
ガイウスが大邪神の鎧を着た後、光を浴びたメイド達の背中の羽は再び白い鳥類のものへと変化し、肌は血色のよさを取り戻し、顔貌もすっかり元通りになっている。
「大丈夫、気を失ってるだけよ」
二人の側に駆け寄り、身を屈めたルピルピがメイドの様子を見て言った。
「ガイ…この前はひどいことを言ってごめんなさい」
俯くルピルピは表情を曇らせ言葉を続ける。
「私だって、あなたのことを何もわかってなかった。あなたがこんな…温かい心を持ってるなんて気付かなかった」
「俺も言い過ぎた。だからチャラでいいだろ」
「私ね、日記に毎日みんなのことを書いてるの。ガイのこともいっぱい書いてるわ」
「何が書かれてるか堪ったもんじゃねぇな」
ガイウスは苦笑し、ルピルピも微笑む。
「でも、今まで書いてたことは自分の思い込みばっかりだったってわかった。私、もっともっとみんなのことを知りたい」
顔を上げたルピルピは、ガイウスを包み込むような柔らかい笑顔を見せた。
「残された時間を、あなたのためにも使いたい」
彼は何も言わずその命の輝きを見つめていた。
「私が…負ける……? この野蛮な邪教徒共に……!?」
地面に横たわるバアルはうわ言のように自問を繰り返している。
「バアルよ。お主は不確実で未知の可能性を秘めている人間の生に恐怖しているのであろう。だから生を破壊する力を渇望し、死という確実性に心を奪われた。その結果、街の住民達をゾンビのように、屋敷のメイド達を吸血鬼に変えて支配した」
バアルの傍らに立つヨハネが厳かな表情で言った。
「ガイは違う。こやつは血を流し続けた腕でそれでも弱者を抱き締めることができたのだ。見返りを求めぬガイの信念には生命への讃歌があった。お主はその光に敗れたのじゃ」
「信念? そんなものは…お為ごかしだ! 殺戮を続けるために、自分達を正当化しているだけだ……!!」
血を吐くバアルの不気味な笑い声が地下空間内に響く。
「しかし、見れば見る程哀れだ…大邪神の鎧を着る娘よ……。お前がどんなに命懸けで教団と戦おうとも、愛する御主人様とやらに会うことは…できないのだからな……!!」
「それはどういうこと!?」
ディーナが顔を引き攣らせて叫んだ。
「お前達が探し求めている我らが総本山は、この地上のどこにも存在しない! 絶望の中でもがき苦しみ、死ぬがいい……!!」
一行を嘲笑う声は尻窄まりになり、バアルは息絶えた。
「元気を出して。今のは、僕達を困らせるための嘘かもしれないから……」
バアルの死体の横で立ち尽くすディーナに、ピリポがそっと声を掛けた。
彼女は弱々しく頷く。
「主人探しの方は振り出しに戻ってしまった。気を取り直して次の街に行くしかあるまい。ここからとなると…べギルドじゃな。そこでも領主に当たれば、何かしら情報を得られるはずじゃ」
ヨハネの提案に反対する者はいなかった。
「それならさっさとここを出よう。俺は一秒でも長くこの街の空気を吸いたくねぇんだ」
「なぁ、ガイ! さっき言ってた、お前が望んだものってのはよ―――」
レブロブスが言い終わらぬうちにガイウスは地下室を出ていた。
十
ディーナ達がカナンの街を出立したその日の夜。
ガイウスは野営地から離れた平原にある切り株に一人腰掛け、夜風に当たっていた。
背中の羽を失った身体は軽く感じられる。だが、胸の中には未だに整理できない感情が重く沈んでいた。
「得意のお人好しを発揮しに来たのか?」
ガイウスは振り向かずに背後に立つ人物へ言った。それは紙袋を抱えたディーナだった。
ディーナはガイウスの隣まで歩き、恐る恐る口を開いた。
「カナンの街では結局何も食べられなかったから、お腹が空いてるんじゃないかと思って…。ガイウスさんが加工されたものは食べちゃ駄目だって言ってたから、出発する前にこれを買ったの」
そして紙袋の中身を取り出し、ガイウスに差し出した。
「ゴルゴダの牢獄で初めて会った時、林檎をくれたよね。そんなに昔のことじゃないのに、何だか懐かしくなっちゃった」
受け取った林檎をしばらく黙って見ていると、ガイウスは唐突に言った。
「力なき正義は無効であり、正義なき力は圧制である」
「え?」
「俺の親父が死ぬ直前に言い残した言葉だ。死刑執行人の親父は何人も罪人を殺したが、その全てが白き羽だった」
ガイウスが浮かべる切なさに引き寄せられるように、ディーナは彼の隣にある切り株に座った。
「親父が白き羽の処刑を任されていたのは、支配される者同士の結束を防ぎ、矛先が支配者に向かないようにするための黒き羽の巧妙なやり口だったのさ。子供の頃の俺は気付けなかった。周りの白き羽が俺達家族を裏切り者と罵っても、親父は何も言い返さなかった。俺はそれが悔しくてしょうがなかった」
「お父さんは正しいことをしていると、信じてたんだよね」
「親父は処刑する相手が死ぬべき人間ではないとわかっていた。それでも処刑を続けたのは、断れば自分だけでなく俺の命が危うくなったからだろう。正義なき刃を振い続けた親父は苦しんでいた。そして、死んで楽になることを選んじまった」
手にした林檎を上に放りながら、ガイウスはいつもと同じ冷静さで話し続ける。
「ある朝、親父はおふくろの墓前で死んでいた。顔もわからなくなるくらいメチャクチャに殴られてな。墓参りに来たところを、処刑した白き羽の遺族に襲われたんだ。剣の達人だった親父がそいつらを退けられない訳なかったが、剣を抜いた形跡はなかった。親父は抵抗せず、遺族の憎しみを受け止めて死んだ。親父の亡骸を埋めながらその時の俺は誓った。自分の正しさを主張することから逃げ出した親父の代わりに、俺が絶対の正義を見つけてやると」
高く放った林檎を掴んだ手に力がこもる。
「太陽の神殿で大邪神の鎧を着たお前の姿は、俺にとって完璧だった。悪を断罪する力を持った穢れなき正義…。お前に付いて行けば俺の望みも叶う気がしたんだ。だからバアルのような奴の申し出を飲んだお前を許せなかった」
「私は、そんなすごいものじゃないよ。間違えてばかり…今日だって、ガイウスさんが助けに来てくれなかったら取り返しのつかないことになってた」
「そう、お前も俺と同じ人間だ。俺が勝手に理想を押し付けて、勝手に幻滅したんだ。いい迷惑だよな」
自嘲するように薄く笑った後、ガイウスは表情を引き締めた。
「絶対的正義、生まれつきの悪…そんなもんはねぇ。俺達の前には岐路が続くだけだ。それは常に、俺達の行動が理性や尊厳に反してはいないかと問い掛けてくる。過ちに気付き自分の力で流れを変えることができる奴もいる。だが、誤った選択を続ければ大抵そいつの心は頑なになる。そこに至るまで費やしたエネルギーと時間を無駄にした事実を認められなくなる。そしてより正しい選択をする力を失っていく」
「じゃあ、白い羽を支配している黒い羽の人達は、分かれ道を間違え続けた結果なのかな」
「奴らは既に行動を選ぶ努力も自由も手放してる。真偽の定かでない神話によってこの現実が裏打ちされていると思い込み、客観性と合理的判断が欠如した不当な力を行使してるのさ」
「でも…絶対の悪もないならば、私達はやり直すことができるはずだよね。白い羽と黒い羽も共存できるって信じたい。ゼロやヨハネさんのように、白い羽を差別しないで手を差し伸べてくれる黒い羽の人もいるから」
「あのじいさんは本心じゃ何を考えてるか全くわからんがな」
ガイウスの瞳の中には新たな決意が生まれていた。
「決めたぜ。俺は教皇にこの歪んだ世界を善しとしている真意を問いに行く。それまで生き延びるために、これからもお前達の力を利用させてもらう」
「よかった。ガイウスさんと旅を続けることができて嬉しい」
安心して微笑むディーナを一瞥し、ガイウスは呆れたように言った。
「やっぱりお前は気に障る奴だな」
「えっ」
「どこまでも甘くて、愚直で、口を開けば虫唾が走る綺麗事ばかりだ」
手厳しい言葉の弾雨にディーナは身を縮める。
「だが―――」
わずかの間彼女が目にしたのは、今までの何よりも気さくで魅力的なガイウスの笑みだった。
「お前の誠意は俺の信頼に値する」
ディーナが驚嘆を隠せず瞬きをしていた頃には、ガイウスは元の調子で林檎を齧っていた。
こそばゆい気持ちと共に紙袋から取り出した林檎を思い切り頬張ったディーナは、夜空に散りばめられている星々の光を見上げた。
作品の執筆を始めて第四章に差し掛かった頃から大事な参考文献となったのは、ドイツの精神分析家・社会心理学者エーリッヒ・フロムの著書です。『愛するということ』、『自由からの逃走』、『悪について』を読みました。第六章のガイウスは『悪について』でフロムが取り上げた『聖ジュリアン伝』のジュリアンがモデルです。
偉大なフロムの思想・フロムが伝えたいことを私が完璧に理解できるはずもないのですが、「人間ってどうしようもない時はほんとどうしようもないけど、自分の経験や思考や感情を大切にしていけば、愛や平等(理にかなった信念)に基づいた社会をちゃんと打ち立てられるんだよ」という、フロムが抱く人間への可能性と希望を強く感じました。その理にかなった信念のために戦ったのが、ブラックマトリクスの主人公達なのではないか、そして世界が敵になっても自分の愛を貫いた御主人様はフロムが言う「愛するということは、何の保証もないのに行動を起こすこと。こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分を委ねること。愛とは信念の行為。愛は能動」を体現していたのではないかと思い、「ブラックマトリクス、奥が深い!!」と一人でテンション爆上がりでした笑。
いきなり自分語りをしたのは、今回の更新が最後の投稿になる可能性もあり、ブラマトの魅力を熱く語れる機会がもうないかもと思ったからです。でもブラマト熱は全然冷めてませんし、こんな話を書きたいという意欲もまだまだあります。次の章はやっとマルコ君の登場ですし…!エーリッヒ・フロムの数々の歴史的名著に出会うきっかけもくれたブラックマトリクスというゲームには感謝しかないです。フライトプランさん、ありがとうございます。
ここまで作品をお読みいただいた方には心より感謝申し上げます。オレは、数少ない読者様のことを・・くっ!愛しているんだぁつ!!(ゼロ様張りの公開告白)
またお会いできる日を願っております。