ウマ娘—Dreams continue!— 作:流星の民(恒南茜)
「1:59:05、悪くないペースだ。ただ——」
「詰め切るにはまだ、でしょ? ……ドゥラメンテちゃん」
ベンチに座り込んですぐ、手渡されたスポーツドリンク。僅かに残された灯りの中で恐る恐る栓を開け、一気に飲み干してから一息吐く。
それがすとんと胃に臥したのを覚えた頃。
私は隣——ドゥラメンテちゃんの方へ、視線を向けた。
「……こんなに遅くまで付き合ってもらってごめんね? もう、眠いでしょ?」
「……別に。今の私にできることは、誰かを見て追い続けることだけ、だから——せめて、それだけはやらなきゃいけなかったんだ。むしろ、いい機会だった」
ドゥラメンテちゃんが視線を落とした先、ベンチに立てかけられた松葉杖、未だ足に巻かれたギプス。
三ヶ月前、宝塚記念で骨折した日からずっと——自分を縛っているそれを一瞥して、彼女はため息を吐く。
病院で聞いた慟哭。走れないまま過ごす時間の長さ。
口でこそ私を気遣ってくれてはいるけれど、もしも隣で走れたらって。
今すぐにでも駆け出したいって。
伏せられたまま、私を捉えない瞳はきっとそんな感情を孕んでいたんだと思う。
「……ねえ、ドゥラメンテちゃん」
「……どうした。もう一周するのか?」
「ううん、そういうことじゃなくて」
弾みをつけてベンチから立ち上がった途端、その瞳が私に向けられる。
視線と視線は触れ合わないまま、それは僅かに逸らされていた。
ずっと、そうだ。
『もう一度』
退院した後、待っていたリハビリ期間は長いものだった。
走るためだって。そうずっと口にしていても、その距離は長すぎた。
昔みたいに、瞳の奥に輝きを灯したまま、彼女が私を捉えることはもうほとんどない。
だから、なんだと思う。
「私、なるから」
「何に?」
「秋の天皇賞に勝って、ドゥラメンテちゃんに並ぶ。それで——サトノクラウンは、一緒に走りたいウマ娘だって」
──その言葉が、口をついて出たのは。
皐月賞、ダービー、去年の天皇賞、宝塚記念。
今度こそ、じゃない。
ゴールへの距離が遠かった日、近かった日。どれもありありとその瞬間を思い出せる。
たとえその景色に一着が混ざっていなくても、全部かけがえのないものだったことは確かだ。
刻んてきた蹄跡は決して褪せないもの。
そう信じていることには違いない。
だからこそだ。
私はまだ、それを残してきた自分を──サトノクラウンを信じていられる。
「——あなたに、そう思わせてみせる」
見開かれた瞳。
触れ合った視線。
幾ばくかの静寂を経て。
「……ああ、楽しみにしてる」
けれど、すぐに視線を逸らすと、ドゥラメンテちゃんは薄く微笑んで見せた。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
擦れた芝が、目に付く。
ゲート内、最後の娘が入ろうとするまでの間、爪先だけが焦れたように跡を残していた。
『全ウマ娘、ゲートインが完了しました——』
視線を落としたまま、その音を聞いて。
竦んだ脚から目を逸らすため、顔を上げた瞬間だった。
——ガコンッ!
『天皇賞・秋、今、スタートしました!』
押されるままに一歩、踏み出す。
芝は柔らかい。踏み締めた脚を包んでは押し返してくれる。最初から伸びた脚は思いの外、私を前へと進ませた。
左隣の子が少しだけ出遅れたのを尻目に、さらにその隣から一人、飛び出してきた背中が進路を塞ぐ。
それでも直線はほんの僅か、最初のコーナーが迫っている以上、内側に入り込む機会は今しかない。
——なのに。
右か、左か。どう抜けるか、なんて。
よぎった迷いが僅かに脚を止める。その直後だった。
「っ」
さっきまで並んでいた娘が一人、私と前の娘との間に押し入ってきた。
コーナーを抜けて直線、ずっと前に聳える登り坂。
最内は取られ、バ群の中、息が詰まる。
——それでも。
先頭との距離は大したものじゃない。まだ、縦に広がってもいなければ、脚だって十分に溜められている。
ただ、落としたものばかり、敗北の要因になりそうなものばかり、気にしすぎているだけだ。勝利を掴むためのきっかけなら、まだ残っている。
足元だけを見ていても、始まらない——聳える坂を前にして、私は顔を上げた。
◆ ◆ ◆
「……ドゥラメンテ先輩、レース、もうすぐ中盤ですっ」
その声で、はっと我に帰った。
沸き立つような歓声、実況、スタンド席は決して穏やかではないものだったはずなのに、いつから視線を落としてしまったのだろう。
「……ああ、すまない」
呼んでくれたキタサンに軽く会釈をしつつ、ギプスから視線を剥がし、再びターフを向く。
「クラウンさんのペース、少し——」
「——遅い、かもな」
練習の時に測った時よりも、彼女のペースは僅かに遅い。
バ群に飲まれて、進路を塞がれて。
あれじゃ走りづらい、彼女も足元ばかり気にしているように見える。
——もし、あれが私ならどうしただろう。
いつからか、物思いに耽ることが多くなってきた。
駆ける、自分の脚でターフを踏み締め、どこまでも駆けていく。
その瞬間は既に過去のものになってしまったのだ、と。もう一度、と走ることを決意したのに、そんな風に考えていた節は間違いなくあった。
何回だって、ターフに戻ってこられるわけじゃない。
サイレンススズカ、トウカイテイオー、前例はある。けれど、それはきっと奇跡にも近しいもので。
この三ヶ月、ちっとも走れていないという現状、私の身にもそれが訪れるという確信は、薄いもの、で——。
『——5番手サトノクラウン追走、まもなく坂に差し掛かります』
その時、捉えた。
ずっと遠い。表情まではわからない、けれど。
クラウンが顔を上げたその瞬間が、はっきりと映った。
——サトノクラウンは一緒に走りたいウマ娘だって、あなたにそう思わせてみせる。
そうだ。
走っている最中に、思索に耽る暇なんてあったか。
自分にないものを顧みたか。
......いや。
きっと、あの一瞬一瞬の中にそんな時間はなかった。
ただ、脚を前に出す。脈打つ心臓に身を委ねて、遠い遠い景色を見る。
それが、たまらなく好きなんだ。
私が——ドゥラメンテが見るべき景色は、こんなものじゃない。足元なんか見てたって何も変わらない。
今、クラウンが見ているもの——願いの向こうに、それは——。
◆ ◆ ◆
『四コーナー曲がって直線コースに入ります——』
坂の先、コーナー、最終直線。
先団、一気に横に膨れ上がる。
四方八方、足音に遮られて実況も歓声も、全てが途切れた。
踏み締めた大地が、大きく揺れる。
ドクン、と一際強く刻まれた心音、口の端から漏れた熱気、首筋を伝った汗。
途方もなく長い一瞬、鮮明になった感覚。
伸ばす。勢いのままに——蹴り上げる。
『追い込んでくるモーリス、悠然と差を縮め——』
一瞬、視界が開けた。
前に出て、実況が、歓声が、鼓膜を突いて——次の瞬間だった。
「っ」
隣を、影が追い越していった。
それでも、まだだ、食いつける——追い越せる。
脚に力を込める、離す、もがく。
一人、また一人と私の先を行く。
「———ッ———!」
口の端から抜ける息、霞んだ視界。
途端、脚の力が抜けそうになるのを、食いしばって堪えて。
脚を、ただ前へ前へと叩きつけるようにして振り下ろす。
勝ちたい? 負けない?
ううん、それだけじゃない。
私が今、欲しいのは——。
——“これほどまでに強いのか、ドゥラメンテ!“
一人、横から飛び出た娘が私を追い越していく。
……いや、私だけじゃない。何人も追い越して先頭へ躍り出て、一気に背中は遠ざかる。
「——ああ——ああッ——!」
上下する身体、ただ揺れる景色。きっと、ほとんど前に進めていなくて。
対して、彼女にとってゴールは目の前だ。
もうあと数瞬でレースは終わってしまう。
それでも、届かない——なんて、絶対に言わない。
私は、ここに立ち続けているんだから。
今度はゴールで、
◇ ◇ ◇
「……ドゥラメンテちゃん?」
レースが終わってしばらく。
控え室で待っていた時、不意に響いたノック音、向こう側にいたのはドゥラメンテちゃんだった。
「……お疲れ、さま……その……今回は……」
幾度かの瞬きと共に、彼女の瞳は逸らされる。
14着、それが結果だ。多分、彼女なりに気を遣ってくれていたんだと思う。
悔しくないわけがない。
ゴール後、食い縛っていた歯を解いた時、不意に込み上げてくるものがあった。
その感覚が、私にとっての結果でもあったんだと思う。
皐月賞が終わったあと、ステージに立つドゥラメンテちゃんを前にして噛み締めた感情と同じだ。
その時だけじゃない、ダービーの時だって——何回だって、味わってきた。
全部、鮮明に感覚として残っている。
それでも。
「……残念じゃ、ないよ」
ドゥラメンテちゃんの瞳が私に向けられる。
「また一歩、前に進めたから——」
その距離はまだ遠いかもしれない。
どれだけ縮まったかなんて、物理的には捉えられない。
それに、次があるとも限らない。故障なんて、十分に起こりうることだ。
だからこそ、だからこそ——俯いている暇なんてない。
「何回だって、私は走り続けるよ。あなたと立つために」
その時、瞳が私を真っ直ぐに射抜いた。
それは私を映したまま、もう逸らされない。
菊花賞の前、骨折の後で見た、濡れた瞳。
宝塚記念の後、彼女が私を遠ざけた時に見た、うつろな瞳。
そのどれでもない。
「……ああ、わかった」
勝利。再起。
お互い見たものはきっと、違うもので。
「私も顔を上げる。……クラウン、追いかけるよ」
それでも一緒に、私たちは頷いた。
きっと、願いの先。
その景色に夢を託して。