ウマ娘—Dreams continue!—   作:流星の民(恒南茜)

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第29R 願いの先で

「1:59:05、悪くないペースだ。ただ——」

「詰め切るにはまだ、でしょ? ……ドゥラメンテちゃん」

 

ベンチに座り込んですぐ、手渡されたスポーツドリンク。僅かに残された灯りの中で恐る恐る栓を開け、一気に飲み干してから一息吐く。

それがすとんと胃に臥したのを覚えた頃。

私は隣——ドゥラメンテちゃんの方へ、視線を向けた。

 

「……こんなに遅くまで付き合ってもらってごめんね? もう、眠いでしょ?」

「……別に。今の私にできることは、誰かを見て追い続けることだけ、だから——せめて、それだけはやらなきゃいけなかったんだ。むしろ、いい機会だった」

 

ドゥラメンテちゃんが視線を落とした先、ベンチに立てかけられた松葉杖、未だ足に巻かれたギプス。

三ヶ月前、宝塚記念で骨折した日からずっと——自分を縛っているそれを一瞥して、彼女はため息を吐く。

病院で聞いた慟哭。走れないまま過ごす時間の長さ。

口でこそ私を気遣ってくれてはいるけれど、もしも隣で走れたらって。

今すぐにでも駆け出したいって。

伏せられたまま、私を捉えない瞳はきっとそんな感情を孕んでいたんだと思う。

 

「……ねえ、ドゥラメンテちゃん」

「……どうした。もう一周するのか?」

「ううん、そういうことじゃなくて」

 

弾みをつけてベンチから立ち上がった途端、その瞳が私に向けられる。

視線と視線は触れ合わないまま、それは僅かに逸らされていた。

ずっと、そうだ。

 

『もう一度』

 

退院した後、待っていたリハビリ期間は長いものだった。

走るためだって。そうずっと口にしていても、その距離は長すぎた。

昔みたいに、瞳の奥に輝きを灯したまま、彼女が私を捉えることはもうほとんどない。

だから、なんだと思う。

 

「私、なるから」

「何に?」

「秋の天皇賞に勝って、ドゥラメンテちゃんに並ぶ。それで——サトノクラウンは、一緒に走りたいウマ娘だって」

 

──その言葉が、口をついて出たのは。

 

皐月賞、ダービー、去年の天皇賞、宝塚記念。

今度こそ、じゃない。

ゴールへの距離が遠かった日、近かった日。どれもありありとその瞬間を思い出せる。

たとえその景色に一着が混ざっていなくても、全部かけがえのないものだったことは確かだ。

刻んてきた蹄跡は決して褪せないもの。

そう信じていることには違いない。

 

だからこそだ。

私はまだ、それを残してきた自分を──サトノクラウンを信じていられる。

 

「——あなたに、そう思わせてみせる」

 

見開かれた瞳。

触れ合った視線。

幾ばくかの静寂を経て。

 

「……ああ、楽しみにしてる」

 

けれど、すぐに視線を逸らすと、ドゥラメンテちゃんは薄く微笑んで見せた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

擦れた芝が、目に付く。

ゲート内、最後の娘が入ろうとするまでの間、爪先だけが焦れたように跡を残していた。

 

『全ウマ娘、ゲートインが完了しました——』

 

視線を落としたまま、その音を聞いて。

竦んだ脚から目を逸らすため、顔を上げた瞬間だった。

 

——ガコンッ!

 

『天皇賞・秋、今、スタートしました!』

 

押されるままに一歩、踏み出す。

芝は柔らかい。踏み締めた脚を包んでは押し返してくれる。最初から伸びた脚は思いの外、私を前へと進ませた。

左隣の子が少しだけ出遅れたのを尻目に、さらにその隣から一人、飛び出してきた背中が進路を塞ぐ。

それでも直線はほんの僅か、最初のコーナーが迫っている以上、内側に入り込む機会は今しかない。

 

——なのに。

 

右か、左か。どう抜けるか、なんて。

よぎった迷いが僅かに脚を止める。その直後だった。

 

「っ」

 

さっきまで並んでいた娘が一人、私と前の娘との間に押し入ってきた。

コーナーを抜けて直線、ずっと前に聳える登り坂。

最内は取られ、バ群の中、息が詰まる。

 

——それでも。

 

先頭との距離は大したものじゃない。まだ、縦に広がってもいなければ、脚だって十分に溜められている。

ただ、落としたものばかり、敗北の要因になりそうなものばかり、気にしすぎているだけだ。勝利を掴むためのきっかけなら、まだ残っている。

足元だけを見ていても、始まらない——聳える坂を前にして、私は顔を上げた。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

「……ドゥラメンテ先輩、レース、もうすぐ中盤ですっ」

 

その声で、はっと我に帰った。

沸き立つような歓声、実況、スタンド席は決して穏やかではないものだったはずなのに、いつから視線を落としてしまったのだろう。

 

「……ああ、すまない」

 

呼んでくれたキタサンに軽く会釈をしつつ、ギプスから視線を剥がし、再びターフを向く。

 

「クラウンさんのペース、少し——」

「——遅い、かもな」

 

練習の時に測った時よりも、彼女のペースは僅かに遅い。

バ群に飲まれて、進路を塞がれて。

あれじゃ走りづらい、彼女も足元ばかり気にしているように見える。

 

——もし、あれが私ならどうしただろう。

 

いつからか、物思いに耽ることが多くなってきた。

駆ける、自分の脚でターフを踏み締め、どこまでも駆けていく。

その瞬間は既に過去のものになってしまったのだ、と。もう一度、と走ることを決意したのに、そんな風に考えていた節は間違いなくあった。

何回だって、ターフに戻ってこられるわけじゃない。

サイレンススズカ、トウカイテイオー、前例はある。けれど、それはきっと奇跡にも近しいもので。

この三ヶ月、ちっとも走れていないという現状、私の身にもそれが訪れるという確信は、薄いもの、で——。

 

『——5番手サトノクラウン追走、まもなく坂に差し掛かります』

 

その時、捉えた。

ずっと遠い。表情まではわからない、けれど。

クラウンが顔を上げたその瞬間が、はっきりと映った。

 

——サトノクラウンは一緒に走りたいウマ娘だって、あなたにそう思わせてみせる。

 

そうだ。

走っている最中に、思索に耽る暇なんてあったか。

自分にないものを顧みたか。

 

......いや。

きっと、あの一瞬一瞬の中にそんな時間はなかった。

ただ、脚を前に出す。脈打つ心臓に身を委ねて、遠い遠い景色を見る。

それが、たまらなく好きなんだ。

 

私が——ドゥラメンテが見るべき景色は、こんなものじゃない。足元なんか見てたって何も変わらない。

 

今、クラウンが見ているもの——願いの向こうに、それは——。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

『四コーナー曲がって直線コースに入ります——』

 

坂の先、コーナー、最終直線。

先団、一気に横に膨れ上がる。

四方八方、足音に遮られて実況も歓声も、全てが途切れた。

 

踏み締めた大地が、大きく揺れる。

ドクン、と一際強く刻まれた心音、口の端から漏れた熱気、首筋を伝った汗。

途方もなく長い一瞬、鮮明になった感覚。

 

伸ばす。勢いのままに——蹴り上げる。

 

『追い込んでくるモーリス、悠然と差を縮め——』

 

一瞬、視界が開けた。

前に出て、実況が、歓声が、鼓膜を突いて——次の瞬間だった。

 

「っ」

 

隣を、影が追い越していった。

それでも、まだだ、食いつける——追い越せる。

脚に力を込める、離す、もがく。

 

一人、また一人と私の先を行く。

 

「———ッ———!」

 

口の端から抜ける息、霞んだ視界。

途端、脚の力が抜けそうになるのを、食いしばって堪えて。

脚を、ただ前へ前へと叩きつけるようにして振り下ろす。

 

勝ちたい? 負けない?

ううん、それだけじゃない。

私が今、欲しいのは——。

 

 

——“これほどまでに強いのか、ドゥラメンテ!“

 

 

一人、横から飛び出た娘が私を追い越していく。

……いや、私だけじゃない。何人も追い越して先頭へ躍り出て、一気に背中は遠ざかる。

 

 

「——ああ——ああッ——!」

 

 

上下する身体、ただ揺れる景色。きっと、ほとんど前に進めていなくて。

対して、彼女にとってゴールは目の前だ。

もうあと数瞬でレースは終わってしまう。

 

それでも、届かない——なんて、絶対に言わない。

 

私は、ここに立ち続けているんだから。

 

今度はゴールで、()()を待つんだから。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「……ドゥラメンテちゃん?」

 

レースが終わってしばらく。

控え室で待っていた時、不意に響いたノック音、向こう側にいたのはドゥラメンテちゃんだった。

 

「……お疲れ、さま……その……今回は……」

 

幾度かの瞬きと共に、彼女の瞳は逸らされる。

14着、それが結果だ。多分、彼女なりに気を遣ってくれていたんだと思う。

悔しくないわけがない。

ゴール後、食い縛っていた歯を解いた時、不意に込み上げてくるものがあった。

その感覚が、私にとっての結果でもあったんだと思う。

 

皐月賞が終わったあと、ステージに立つドゥラメンテちゃんを前にして噛み締めた感情と同じだ。

その時だけじゃない、ダービーの時だって——何回だって、味わってきた。

全部、鮮明に感覚として残っている。

それでも。

 

「……残念じゃ、ないよ」

 

ドゥラメンテちゃんの瞳が私に向けられる。

 

「また一歩、前に進めたから——」

 

その距離はまだ遠いかもしれない。

どれだけ縮まったかなんて、物理的には捉えられない。

それに、次があるとも限らない。故障なんて、十分に起こりうることだ。

だからこそ、だからこそ——俯いている暇なんてない。

 

「何回だって、私は走り続けるよ。あなたと立つために」

 

その時、瞳が私を真っ直ぐに射抜いた。

それは私を映したまま、もう逸らされない。

菊花賞の前、骨折の後で見た、濡れた瞳。

宝塚記念の後、彼女が私を遠ざけた時に見た、うつろな瞳。

 

そのどれでもない。

 

「……ああ、わかった」

 

勝利。再起。

お互い見たものはきっと、違うもので。

 

「私も顔を上げる。……クラウン、追いかけるよ」

 

それでも一緒に、私たちは頷いた。

 

きっと、願いの先。

その景色に夢を託して。

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