ひと月の後、ひと
われら如何に悩み苦しまん。
君よ、かの広き海、君とわれを分け隔てつつ
ティトゥス、ベレニスと相会わずして
日々は明け、日々は暮れなん……
ジャン・ラシーヌ「ベレニス」
◆
惣流・アスカ・ラングレーは今年で十五歳になる。両脚がほとんど動かない。ごくたまに外に出る時は、いつも車椅子が欠かせない。
近所の噂では、あの「人類補完計画発動失敗事件」に彼女が関わっているという。曰く、彼女はエヴァンゲリオン弐号機のパイロットで、サードインパクト時に重傷を負って、身体が不自由になったのだ、と。
その真偽はともかく、彼女には介助者が必要で、毎日のように碇シンジという同い年の青年が彼女の家に通っていた。
「アスカ、今日はどこに出かける?」
「別にどこにも行きたくない」
「でも毎日、家の中で過ごしてばかりじゃ」
「それでいいよ……わざわざ、外でしたいこと、見たいことがあるわけじゃない。もうアタシの人生は終わったんだ」
「アスカ……」
シンジは痛ましそうに目を瞑った。
「でも良いことが二つあった。一つはアンタに負い目を負わせたこと。アンタはアタシに一生尽くすしかない」
「……うん、僕は一生アスカのそばにいるよ。僕はアスカのものだ」
面を伏せてそれを肯定するシンジに、アスカは嬉しそうに笑ったが、どこか寂しそうな笑いだった。ずっと欲してきたシンジが自分の手に入ったが、それはシンジに愛されてのことではなく、アスカの怪我に責任を感じての事だ。彼がもう少し早く彼女を助けに来ていれば、彼女は助けられた。シンジはそう思っている。そして、彼女の負った傷はもう生涯治ることはない。ということは、もうシンジの愛を手に入れる可能性もない。シンジからは同情と責任感だけで造られた、愛に似た紛い物を貰って、生きていく事になる。
─でもそれの何が悪い?
─愛なんてそもそも嘘っぱちだ。そんなものが本当にあるのなら、シンジはちゃんとアタシを助けに来てくれた。アタシの両脚が単なる萎えた棒きれになることも無かった。
「もう一つは、男の味を知ったこと。こんなナリでもセックスって出来るんだね」
それもアスカがシンジにねだって手に入れたものだ。今のアスカはシンジに何でもねだる事が出来る。シンジは何だってアスカに与えてくれる。とても哀しそうな顔をして。アスカは両脚の自由を失って、その代わりに、シンジの愛以外の全てを手に入れる事が出来たのだ。
だったらもう外に出る必要なんかない。家の中でもシンジとお喋りは出来る。髪を撫でてもらい、キスをし、抱きしめあって、セックスをする事が出来る。今はまだ、ねだっていないが、同棲やプロポーズをねだればシンジはそれを与えてくれるだろう。別に欲しくもないが、子供をねだれば子供だって。シンジはアスカにはもう逆らえない。二度と頭が上がらない。
(はは、欲しいものを手に入れる方法なんて簡単だったんだ)
いちどきにシンジに全てをねだることはしない。大きなおねだりは、誕生日やあのサードインパクトの日付にねだることにした。そうすれば、よりシンジの贖罪意識を煽ることが出来るから。シンジに罪を自覚させ、アスカから二度と離れさせないようにする事が出来るから。いくら、シンジが量産型との戦いでアスカを見殺しに出来るような酷薄な男でも、もう二度と、脚の萎えた哀れな女を見捨てる事は出来ない。その事を適切なタイミングで常に思い起こさせてやる。
初めてのセックスだって、12月4日、誕生日のプレゼントとしてねだってやった。アスカが、もう他に男を手に入れる術がないこと、アスカの周りにはシンジしか男がいないこと、女として生まれたからには男を知ってみたいこと、その事を哀れっぽく切々と訴えればイチコロだった。シンジへの愛を告白する必要さえなかった。
(チョロいもんよ。バカシンジの操り方なんて)
その初体験の味は、痛くて苦かった。でも、数回ねだっているうちに、アスカはおずおずと、しかし、着実にその快感に嵌まった。愛の代替物として、充分な代物だと思った。
特に事後に、彼の胸の中でシンジの男の体臭を嗅ぐのが好きだった。シンジの身体も性的技量も未熟だが、体臭は男のものだった。だから、安心した。自分のような人間でも、それを手に入れられることに奇妙な安堵と自信を持った。
◆
そもそも、アスカがシンジの負い目を利用して様々な要求を押し付ける事を思い付いたのは、ある小説の一節がきっかけだった。その頃、自分の身体を襲った思いもかけない不運にアスカは鬱ぎ込み、毎日訪ねてくるシンジにも会わず終いの日々が続いていた。アスカは見舞い客から女性向けの小説などを差し入れられており、気鬱なままにその中の一冊に手を伸ばしたのだった。
フランソワーズ・サガン─「一年ののち」
フランスの有名な女性作家の小説だった。最初は時間潰しの為に読み始めただけだった。しかし、戦後フランス人のやや退廃的な男女関係の錯綜を描く作中で、ある女性が言う。
『困るのよ、私正常な人間だけが好きなんですもの』
男色者、すなわち同性愛者について言及された台詞で、現代人の感覚ではどぎつい、差別的かつ攻撃的な台詞のようにも感じられる。障害者となったばかりのアスカにも予期せぬ不意打ちで、肺腑を刺されるような感覚が身を貫いた。
(ま、世の中の人間、本音はたいていそんなものかもね。アタシだって、健常者だった頃には……)
まさか差別的な偏見に囚われていた訳でもないが、かつてのアスカの視線の中では障害者は透明な存在だった。実感を持って存在する他者ではなくて、同情すべき概念としての存在……いつだって、そういう傲慢さや過ちに気付くのは、自分が同じ立場に置かれるようになってからなのだろう。人類には単体化による補完が必要だという過激な意見にも一分の理はある。
(ならば、たぶん、アタシももうシンジからは愛しては貰えない)
シンジが差別的なのではない。そうではなくて、アスカのことを贖罪と同情で見る事になれば、その大きすぎる感情が、他の愛だの恋だのを全て圧倒してしまう事が明らかだったからだ。
もうシンジと恋は出来ない。
その事に気付いたら、脚がもう二度と動かないと知った時と同じように涙がポロポロと零れ落ちてきた。それはもう何度目か分からない、シンジへの失恋だと思った。
(なんであんな冴えないの相手にこんな想いを何度も何度もしなくちゃならないのよッ……ちくしょうちくしょう……)
あまりにも腹が立ったので、ずっと拒絶していたシンジに翌日から会うことにした。与えてもらえなかった愛への未練を諦めたら、シンジに会うことへの抵抗感が無くなった。期待がなければ畏れも不安もない。
シンジはとても喜んでいた。作り笑いみたいな明るさを貼り付けた顔にまた腹が立った。アタシの脚が動かなくなって嬉しい?アンタに贖罪するチャンスが沢山出来て嬉しい?アスカはそう聞いて見たかったが、少し考えて止めた。シンジはそれを聞いたらもう二度と来ないかも知れない。そんなのイヤだ。
代わりに、河川敷の原っぱで四つ葉のクローバーを百個探してくるようにシンジに命令した。幸運の象徴である四つ葉のクローバーを百集めると奇跡が起こる。脚が動くようになるかも知れない、そういうさっき思い付いた出鱈目を貼り付けて。
夜中までシンジは帰って来なかった。ようやく帰ってきたシンジは顔が泥で汚れていた。日が落ちてからも地面に顔を擦り付けるようにして探していたのだろう。だが、四つ葉のクローバーは七十個ちょっとしか集まらなかった。だから奇跡は起こらない。集まったって、奇跡なんか起こらないけど。
「ごめん、百個は無理だった。でも明日も探すから」
「もういいわよ」
「でも」
「百集めようが、二百集めようが、もうアタシの脚は動かない。奇跡なんて有り得ないから。今日のはシンジへのちょっとした意地悪。八つ当たり」
「……アスカ」
シンジが泣きそうな顔をしていた。無駄足を踏まされた事ではなく、アタシが未来に何の希望も抱いていない事が伝わったからだろう。それが全部、自分の責任だと思えるから、シンジには何処にも逃げ場はない。アタシがそういう風に誘導している。
「怒った?そう、わざとシンジに無駄なことをさせてみたんだ」
「怒らないよ。無駄なことでも八つ当たりでも何でもいい。僕にアスカの為に何かさせて」
「……あーあ、そういうの、サードインパクトの前からして欲しかった。アタシの脚が棒きれになる前にね」
シンジはしばらく黙り込んだ。青い顔をして、自分の襟元を掴み、自分の罪を改めて告白するような口調で言った。
「……アスカが僕に消えてほしいなら消えるし、死んで欲しいなら自殺、してもいいよ……」
「何それ」
「……別に怖くない。いつでも死にたいと思ってる」
「じゃあアタシと一緒に死んでよ」
「え?」
「死にたいのはアタシも同じ。台所からナイフ持ってきて」
シンジが意を決して、台所に向かい、ギロリと光るキッチンナイフを几帳面にお盆の上に載せて戻ってきた。
「十五歳の少年少女、心中か。事故による障害を悲観して、なんて新聞とかに書かれるのかしらね」
「あの、アスカ……先にアスカが僕を刺してくれる?」
「アタシが、シンジを?」
「僕にはアスカを刺すなんて出来ないよ」
じっとお盆の上に置かれたナイフを見つめると、命を奪える鈍い光の怪しさに引き込まれそうになる。
アタシはシンジを殺したいのだろうか?シンジの命を奪いたいのだろうか?シンジを二度と物言わぬ、肉片へと変えてしまいたいのだろうか?生命は殺してしまったら、もう二度と戻らない。どこかが気に入らないからって、作り直す事は出来ないのだ。
「は。バカバカしい。冗談で言っただけよ。ナイフ戻しておいて」
「……うん」
「アンタも勝手に死のうと思ったりしたらダメよ。手下がいないと、アタシも生活が不便でしょうがない。こんな身体になっちゃったんだから」
その話はその場で終わった。まあ、人間、どんなに苦しくても簡単には死ねない。シンジの事をどんなに恨んでいても、別れようとは思わないのも同じだ。刹那的な食や性の快感があれば、人間は不自由や苦しみを束の間忘れられる。でも、束の間だけだ。苦しみは必ず戻ってくる。
しかし、シンジに何でも言うことを聞かせられるというのが分かったのは、収穫だった。ある意味では奇跡みたいな力だ。他人を意のままに操れるのだから。
◆
アタシは時々思う。現実とは逆に、シンジの身体が不自由になり、アタシがその世話をしてやってる未来だったらどうなのだろう。アタシは甲斐甲斐しく世話を焼き、その事に案外幸福感を感じてしまうのではないだろうか。シンジの不幸が、アタシの幸福に繋がる。そういう事例は結構あるような気がする。だったら、今のアタシの不幸が、シンジの幸福に繋がるのだろうか。
とてもそうは思えない。
シンジはいつもつらそうな顔をしている。
(もっと気楽になればいい。アタシの痛みなど見ない振りして、都合のいい愛玩物が手に入ったとでも考えればいいのに)
シンジにそう言ってやろうとして、やめた。シンジがそんな考えが出来る人間なら、初めから好きにならない。頑固で意気地がなくて自虐的だが、今のアタシの境遇を喜べる人間な訳がない。
アタシは何なら、乱歩の「芋虫」のように、四肢を欠損したシンジを愛する事にも喜びを感じられるかも知れない。シンジがダメであればあるほど、アタシは優越感や庇護欲を感じられる。そのぐらい、アタシのシンジへの想いは歪んでいる。けれど、シンジはそういった面では、遥かに健全であり、普通だった。その平凡さが好きだったのだ。彼の凡庸さこそ、上へ上へとせき立てられるように競い、争い、生きてきた自分には、手に届かないものとして、憧れ、惹かれたのだ。
(つまりは、アタシが居なくなれば、シンジは幸せになれる、のか……)
シンジが帰ってしまえば、キッチンのナイフにはもう手が届かない。一人では死ぬことさえ出来ないのだ。アタシにはそれが良いことなのか、悪いことなのかさえ、分からなかった。