ひととせの後 あるいはアスカと虎と魚たち   作:しゅとるむ

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前編は「第一話 もう恋は出来ない」に改題しました。


第二話 ラムレーズン

「アスカ……あーん」

「あーん」

 

 寝そべるアスカを背後から抱えながら、シンジは口元にラムレーズンのカップアイスを掬ったスプーンを運んでやる。両脚とは違って、別に両手が動かせない訳でもないのに、アスカは単にシンジに甘えている。上下ともに下着姿の半裸のまま、シンジに背中を預け、目許を少し紅くしている。

 

 最近はこういう戯れが多い。自分の想い、シンジの想い、それらが行き着く先、不安な未来、そういうものをあえて正面から考えないようにして、シンジには負債を払わせるように自分を甘えさせる事を要求する。シンジはもちろん、文句一つ言うことはない。

 

 シンジが口元に運ぶ手の動きに合わせ、アスカが小さな口を開けてスプーンを口に入れ、舌の上で冷たい甘味を溶かす。

 

 そのうち、口の中に入るはずだったアイスのひとかけが零れ落ち、アスカの剥き出しのへその近くに落ちる。

 

 慌てて、タオルを探すシンジの腕をつかみ、アスカは首を横に振った。

 

「そのまま、舐めて」

「えっ」

 

 何を言っているのか分からずシンジは狼狽する。

 

「早くしないと。……もうおへその中まで垂れてる」

 

 確かにアスカの体温で溶け出したアイスが、そうなっている。慌てて、アスカの身体の下から身を起こし、くびれた腰の辺りに顔を近づける。

 

「あの……本当に、舐めるの?」

「おへその中まで、ね」

 

 アスカの形のいい窪みに、薄紫色の小さな池が出来ている。シンジはそれをずずっと音を立てて吸い立てる。

 

「舌も入れて……」

「う、うん」 

「んんッ、んんっ………」

 

 シンジが舌でアスカのへその中をくじると、くすぐったさと怪しい刺激に、アスカが身を捩る。その度に上がる悩ましいアスカの声に、シンジは惑乱される。舐めているのはへそなのに、何だかいやらしい気分になる。

 

「お……終わった?」

「うん……」

 

 シンジはハンカチを取り出して口の周りを拭うと、静かに頷いた。アスカのへその穴が、シンジの唾液でテカテカと光っている。綺麗に舐められたへそには汚れ一つなく、どこか卑猥だった。

 

 アスカは頬を上気させて言った。

 

「そしたら、舌、もっと身体の下の方に這わせて行って」

「な、なにを……」

「分かるでしょ。もう動かないアタシの脚と脚の付け根。……ちゃんと感覚の残ってる部分」

「いや、そこは……だって……」

「舐めるのイヤ?今さら、初めてでもないでしょ」

「太陽だってまだ高いのに……」

 

 時間なんて関係ない。あの日から未来が描けなくなったアスカの時間は止まったままなのだ。

 

「食欲の次は、性欲。まさか哀れなアタシの要求を無碍にするシンジではない、わよね?」

 

 そんな要求の突き付け方が、二人の未来にとって建設的な筈がないのに、アスカはそう言ってしまう。

 

「わかった……」

 

 シンジの舌先が少しずつ下腹部に向けて下がっていく。

 

 先ほどへそで味わった快美な感覚が、アスカの空隙……他者で埋められる事を欲する虚ろにそれ以上の期待感を持たせる。シンジがくじる舌先がどれほどの快楽を与えてくれるだろうかと期待する。それが、自然に熱と潤みを帯びさせる。シンジにとっても、期待は同様だ。こちらも熱と硬さを漲り始めている。二人がきょう、結ばれる時間が近づいている……

 

 

 アスカはハッと目を覚ます。周囲はすっかり暗くなっている。布団に横たわり、背中に汗が張り付いたような感覚とシンジの体温と息遣いがある。セックスをした後、そのまま寝てしまったらしい。

 

 若さがあらゆる歯止めを押し流してしまった結果、四回もしてしまったので、身体は心地よい疲労感と性的な満足感に包まれていた。

 

「アタシ、寝てた?」

「うん……けっこう長く寝てた。……もしかして、夜、あまり眠れてないの……」

 

 シンジは髪を撫でてくれる。ずっと起きていてくれたのか。

 

「そうね……毎晩のように悪い夢を見るから。量産型エヴァにいたぶられて、脚がもう二度と動かなくなる夢。夢から醒めると、ああ、夢で良かったって思うんだ。……でも、脚は動かない。そこだけ現実だから、一度目が覚めたら、悔しくて、もう眠れない……」

 

 アスカはずっと自分の両脚に目を落としている。

 

「アスカ……本当にごめん」

 

 シンジが悔しそうに、目を伏せた。

 

 ─べつに謝罪とかどうでもいい。シンジに何度謝られたって、脚が元通りになるわけじゃない。でも、あの悪夢については、もしかしたらまだ……。

 

「今晩は泊まってくれない?」

「え?僕が……それって」

 

 これまで何度もセックスはしている。しかしシンジが夜に泊まっていったことはなかった。無意識に引いていた線をまた一つ越える事になる。

 

「別にエッチがしたいわけじゃない。昼間十分したし。ただ、アタシを抱っこして……一緒に寝てほしい。もしかしたらそれで悪い夢を見なくなるかも知れない」

「だって、僕が元凶なんだよ!アスカがこんな目に遭ってるのは全部僕のせいなのに……」

 

 そんな僕と一緒にいたら、アスカが余計に苦しむ、シンジはそう思ってるのだろう。

 

(でも、アタシの悪夢は、シンジがあの戦いで一緒に居てくれなかったから。アタシをシンジが助けてくれなかったから。でも、もし今晩、一緒に居られたのなら……)

 

 それにシンジに贖罪のため、これからも一緒に居させるのなら、やがてシンジを事実上の夫として、何十年も共に寝ることになる。悪夢が癒えるどころか悪化するようなら、流石にそんな関係は保たないだろう……だからこれはある種の賭けになるのかもしれない。

 

「ダメ元でやってみたいのよ。それに悪夢が酷くなったって、布団の中から蹴り出すような事はしないから安心して。これっぽっちもアタシの脚は動かないんだから」

「っ……」

 

 そういうアスカの自虐的な軽口がシンジの胸には一々堪える。しかしそれに耐えるのもシンジにとっては義務の一つだ。

 

「拒否権、ないと思うけど?」

「……分かってる」

 

 

 二人で同じ天井を眺めている。身を寄せ合って、見つめ合えば鼻息もこそばゆい距離で、しかしアスカは不機嫌そうに、シンジは悲しそうな顔をして。それでも、アスカの左手とシンジの右手が二人の布団の境目でしっかりと指と指を絡め合い、繋がれている。

 

「あーあ、アンタがちゃんと助けに来てくれてたら、今頃は恋人として、こうやって寝てたのかも知れないのに」

「……」

「シンちゃんとラブラブな恋人になりたかったなぁ」

 

 冗談めかした言葉は、叶わなかった夢への悔恨と少しばかりの甘えを含み、シンジがそれに反応して抱きしめてくれることへの期待も僅かにある。「大丈夫、今からでもなれるよ」と。

 しかし、シンジの反応はそうはならない。

 

「……ごめん、アスカ。アスカの望んでた幸せをあげられなくて」

 

 シンジの声に嗚咽が混じる。涙声で悔やみ嘆く言葉には前向きなものは一つもない。

 

「……でも、どうせ僕には無理だよ。僕はいつもアスカを傷付ける。アスカは、僕と知り合わなければ良かったんだ……」

 

 アスカはシンジの繰り言や後悔の言葉を左から右に聞き流した。

 

(こいつの言葉、邪魔だな……)

 

 女とキスして、女とセックスして、女の横に寝ていても、少しも快活に、能動的になれないシンジ。過去ばかり見て、贖罪に拘り、未来を見ないシンジ。アスカにとって、シンジから愛されるという妄想に、シンジ自身の言葉ほど邪魔なものはない。

 

 なんならずっと黙っていて欲しい。

 

 そうか。別にシンジの言葉なんて聞き流していればいいんだ。命令して愛の言葉を囁かせて、そういう言葉にだけ耳を傾ければいい。アタシに向き合わない、ちゃんとしてないシンジの存在なんか無視していればいい。

 

 黙ってアタシの欲しい、キスとセックスだけくれれば良いんだ。恋人だと思いこませてくれればいいし、将来にわたっては相思相愛の仲良し夫婦だと錯覚させてくれればいい。未来なんてもうアタシにはないけれど、シンジの身体は隣にある。もうアタシを傷付け続ける現実は要らない。

 

 そういえば、サガンの「一年ののち」でも、ヒロインのジョゼに一方通行に懸想するベルナールは、自分がジョゼに愛されていると誤解して、彼女を抱くのだった。ジョゼもあえてその誤解を訂正しようとしない。男は真の幸福を得、女は偽りの恋物語を演じていた。

 

 そんな風に、大人の男と女の関係では、相手に勝手に自分の想いを重ねて、交わることもあるのだろう。

 

 ……だったら、アタシがそれと同じことをシンジに対して行っていけないはずがない。

 

 現実やアタシから逃げてるのはシンジなんだから。アタシがちょっと逃避することぐらい許されない筈がないのよ。

 

 だって、アタシの脚はもう二度と動かないんだよ?そして、シンジとの恋だって叶わない。現実を少しだけ歪めて夢見る事ぐらい、アタシに留保された当然の権利じゃない。

 

 ……だからシンジの言葉をアスカは無視する。

 

 繰り返されるシンジの泣き言、改悛、懺悔、後悔。みんな空虚で中身がなく、うざったいだけなのだ。

 

 頃合いを見て、アスカはにっこりと笑った。

 

「シンジ。お話はもう終わった?」

「え?」

「そういうお話はアタシ、ぜんぜん興味ないの。それより、キスでもしよっか」

「キス?……アスカがしたいなら」

 

 ─戸惑いながら、また男らしくない回答。いっつも受け身。アタシ任せ。精神的にマグロ。本当に腹が立つ。こいつがこんなだからアタシの脚は……。でもまあ、このぐらいならシンジ風味の味付けとして許せなくもない。多少は根暗でダメで情けないところがないとアタシの欲しいシンジにはならない。要するにアタシはどうしようもなくこのダメ男が好きなのだ。忌々しい……。

 

「じゃ、して。舌もちゃんと絡めてね」

「うん……」

 

 アスカは目を瞑り、シンジは顔を近づける。唇を重ね、シンジがそっと舌を入れてくる。アスカはそれを自分の舌で迎え撃つ。舌と舌で、本体の人間同士が嫉妬する程にうんと仲良くしてやる。唾液を絡め合い、互いの親密さを、舌が、持ち主にアピールする。

 

 ─アスカ、あんたシンジと仲良く出来ないんだよね。でも、アタシたちは舌同士だから、遠慮なく仲良くするのよ。お生憎様……

 

 そう、言わんばかりに……

 

 ─こんなキスがファーストキスの時に出来ていたら、アタシとシンジの間に起こるあらゆる悲劇が未然に防げていたのかも知れない。でも、アタシたちの本当のファーストキスは未熟なだけで、却って、お互いを傷付けあっただけのものだった。だから─

 

 だから、今、アタシの脚は永遠に萎えているのだ。

 

 

 その夜、シンジに抱きしめられながら、やっぱりアタシは夢を見た。しかしいつもの夢とは違った。サードインパクトの時ではなく、もっと昔の夢だ。

 

 シンジと初めて会った場所。船の上。本当に冴えない男の子だった。エヴァの操縦だけが生きがいのアタシにとって初めてのライバルと言える存在だった。そんなシンジに対抗心を剥き出しにして、アタシの華麗な操縦を見せつけてやろうと、一緒に弐号機に乗った。シンジは勝手に操縦に手を出してきて、でもその結果、アタシたちは二人で力を合わせて使徒と戦った。戦いにはもちろん勝って、最高のシンクロ率を叩き出した。

 

 それからアタシたちは同居して、二人で二点同時加重の使徒迎撃戦の訓練をした。食事から歯磨きまで生活のあらゆる場面で息をピッタリ合わせて、アタシたちはまるでふたごのように振る舞っていた。たぶん、あの頃にはもうシンジの事を意識していた。夜中にかまをかけ、寝所を共にし、お互いの寂しさを分け合った。だからもういつかは結ばれるんだと心のどこかで思っていた。

 

 そんな風にどこか安心し慢心してたからか、アタシたちの関係はむしろその後、グズグズと進まず、結局は、命を救われようと、キスをしようとどうにもならなかったのだ。アタシたちはどうしようもなく子供で、お互いの気持ちの伝え方も、あるいはお互いの気持ちの有り様さえもよくわからなかったんだ。

 

 シンジ、シンジ。

 

 アタシはアンタを恨んでいるけど、それはアンタがアタシの恋人のように振る舞ってくれなかったことを恨んでいたんだよね。恋人のように守って欲しかったんだ。

 

 別にアタシたちは恋人でもなんでもなかったのに。

 

 だから、アタシの恨みはきっと逆恨みなんだ。

 

 でもね、アタシはこの夢の中でシンジを思い出しながら、シンジのこと、やっぱりいつかは結ばれる恋人のように感じていたんだよ……それはとても幸せな気持ちだったんだ。

 

 アタシは幸せだったんだよ。

 

 

 目が覚めても、夢の中の幸福感はまだ持続していた。理由は明らかだ。まぶたを開いたアタシの目の前に朝日に照らし出されたシンジがいる。 

 

 そうだ。アタシは脚の自由を喪い、同情と贖罪だけに囚われたシンジに女として愛される希望を喪い、全てを喪ったように思えたけど、まだ奪われていないものがあった。それはシンジ自身だ……。シンジは一生、アタシのそばにいると言ってくれた。それは贖罪なのかも知れないけど、紛うことない希望でもある。灰色であることが約束されたアタシの未来において、シンジと共に生きられる事だけがアタシの希望なんだ!……神様はアタシにとって、一番大切なものだけは奪わないで残してくれたんだ。

 

「おはよう……アスカ」

 

 目覚めたアタシを見て、十五歳になった少年は、おずおずと、しかしシンジなりの努力を見せて笑いかけようとしてくれている。本当は他人が怖くてたまらないくせに。自分が不具にしてしまった女であるアタシのことなんか一番怖くてたまらないくせに。

 でも、アタシにはその頑張りが愛おしかった。

 

─シンジ、頑張ってるね、ありがとう。アタシに微笑もうとしてくれて。

 

 アタシは寝そべったまま、シンジに手を差し伸べる。シンジがアタシを引き起こそうと身体を屈めるが、アタシは首を横に振る。そうじゃない。シンジは何かに気付いたように恐る恐る、アタシの手に顔を近づけてくる。そう、それでいい。アタシはそっとシンジの頬に手を当てる。赤い海の浜辺でもそうしたように。

 

 シンジがつっと涙を流す。

 

「ごめん、ごめんよ、アスカ!……僕が弱虫だったから……」

 

 アタシはまた首を横に振る。

 

─いいんだよ、シンジ。いいんだ。

 

 アタシはシンジを憎みたい訳じゃない。シンジがアタシに微笑もうと努力してくれるなら、アタシはシンジに優しさをあげたい。

 

 両頬を濡らし、顔をクシャクシャにしているシンジ。

 

 冴えない顔は相変わらずだけど、アタシにとってはやっぱり特別な男の子の顔だ。

 

 そして今、アタシもシンジと同じ表情をしているに違いない。だって、両の目から溢れる熱い液体が止まらないのだから……。

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