Fate/Kaleid Schmetterling   作:ひでぶ

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幕間 間桐桜

 昔日、その少女は幸福な部類の人間だった。厳格だが優しい父と、貞淑で穏やかな母。そして明るく、才気に溢れた憧れの姉に囲まれた、幸せであると表現しても問題ないであろう少女。彼女はただ、父の大きな手で撫でられ、母のぬくもりに抱かれ、姉と共に駆け回る日々を送っていた。そんな緩やかでやさしく、穏やかに流れていくだけの時間が崩れ去るなどということを彼女は微塵も予想していなかった。いや、そうではない。まだ幼かった少女にとってはこの閉じた平穏な時以外のモノが流れる世界があるということを知る由もなかったのである。

 

 ところがある日を境に、その少女の固定観念は砂の城同然に、脆く、容易く崩れ去る。突然だった。少女の知らない、知らなかった世界から全く理解のできないモノが現れて少女を引き取ると言い出したのだ。そして、それを父は拒まなかった。母は目を伏せるだけで言葉を挟まなかった。ならば、当時年端もいかなかった少女や、彼女と同じく幼かった姉にいかほどのことが出来ようか。その時の彼女たちには、大人たちを止められる程の発言力も知恵もなかったである。少女の姉にできることは、家を出るその日に愚図る妹に自身の宝物であったリボンを渡すことくらいであった。

 

 そうして、少女の日常は崩壊する。引き取られたその日には、少女は修練と言う名の名目で蟲の犇く地下室に放りこまれた。どうやら少女には魔術という異能を扱う才能が有ったようで、彼女の引き取り手である祖父はそれを目的にしていたようだ。身体の中も外も見境なく蟲に蹂躙され、少女は泣き叫んだ。父に、母に、姉に、助けを求めて絶叫を迸らせた。だが。そんな少女の姿を、口元を歪ませ、嘲笑を浮かべて地下室の入口から見下ろす祖父の姿を目にした時、彼女の心は感じるということを拒絶した。少女を引き取ったモノが、彼女の苦痛にこれ以上もないほどの愉悦を覚えていることが嫌と言う程に理解できてしまったからだ。

 

 結局、父も、母も、姉も少女を助けに来ることはなかった。心を凍らせたまま来る日も来る日も蟲に凌辱され続ける日々。かつて、優しいものでしかできていなかったはずの少女の無垢な世界は、既に穢れ、荒みきっていた。少女の中で祖父は抗いがたい絶対の存在へと変貌し、父、母、姉は、かつてそうであっただけの他人となり果てた。許容量を遥かに超える環境の激変に、少女の心は鈍り、現状に疑問を抱くことすらない。希望を持つ、ということすら少女は思い浮かべることが出来ていなかった。そうでもしなければ、とてもではないが耐えられなかったのだ。

 

 そんな中、海外に留学していた義兄が帰郷を果たす。プライドが高く、魔道の名家出身であることを鼻にかけながらも魔術の才能がない義兄。彼は、己こそが家を継ぐべき当主となる存在であることを疑っていなかった。その絶対の自信が、養子であった少女への優越感と憐れみを持たせたのだろう。義兄の少女に対する人当たりは決して悪いものではなかった。だが、少女は義兄が当主にはなれないということを知っていた。当然である、引き取られた時から彼女は魔導の後継者として修練を受けさせられてきたのだから。加えて、彼の魔道に対する憧れと言う感情に理解も共感も出来なかった。それが、後々悔恨を生むことになる。

 

 それとほぼ同時期に、少女に転機が訪れる。少女が中学生に上がったころ、彼女はある少年の姿を目にする。中学校の校庭で、決して届くはずもない高さの高跳びに何度も挑み続ける少年の姿を目にしたのだ。内心でその少年が挫けること望みながらも、少女はその目を釘づけにされていた。不可思議だった。養子にもらわれてからというもの、少女は他者に対する関心というものをまるで失っていたのだから。それでもその時確かに、届かない物に諦めることなく挑み続けるその姿に少女は心を動かされたのだ。

 

 その後、少女は奇妙な縁に恵まれる。義兄を通じて、その少年と面識を持つことになったのである。長らく他者との触れ合いを拒んできた少女は、その少年とどう接して良いのかわからなかった。うつむいて、蚊の鳴くようなぼそぼそとした調子であいさつしたことを覚えている。

 

 それでも、その少年は少女にとても良くしてくれた。また、彼の保護者を自称する女性の明るさには、とても救われたと今でも少女は思う。笑うという行為そのものを忘れていた彼女に、それがどれだけ幸福で温かいものであるかを思い出させてくれたのだ。その頃は全くしたことがなかった料理も、その少年に教えてもらうことで上達した。彼の家に通い、共に台所に立ち、三人で食卓を囲み、たわいのない会話に花を咲かせる。そんな、とっくに手に入らなくなったと思っていたものを彼らは与えてくれたのだ。少年たちとの日々は少女にとって唯一の陽だまりとなっていったのである。たとえその背後で、祖父に蟲蔵入りの修練を強いられていたとしても。

 

 だが、良い事ばかりでもなかった。義兄が、少女こそが家門を継ぐ後継者である、ということを知ってしまったのである。その時に、少女は謝ってしまった。魔道の後継者となることを誇るのではなく、へりくだってしまったこと。それが、魔道の家に生まれたことを誇りにしていた兄には耐えられなかったのだろう。逆上した義兄は少女の暴力を振るい、組み敷いた。それでも。それでも、少年の家に明日も行ける。そう考えるだけで、耐えていけたのだ。

 

 だというのに、その日常に介入してくるものが現れた。かつて、少女の姉だった人物。鮮烈で、美しく気高い立ち振る舞い。かつて憧れ、汚れてしまった少女ではもう手の届くことのない輝きをもったその人物は、彼女が数年間かけて培ってきた立ち位置にいともたやすく介入してきたのである。それにとどまらず、少年は姉に…。

 

 妬ましい。

 妬ましい、妬ましい。

 妬ましい、妬ましい、妬ましい、妬ましい、妬ましい。

 妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい。

 

 養子に出されなかった姉が妬ましい。苦行を強いられなかった姉が妬ましい。穢れを知ることのなかった姉が妬ましい。少年と共にある姉が妬ましい。少年に笑いかけられる姉が妬ましい。少年と触れ合える姉が妬ましい――!

 

 一度は、それでもかまわないと。そう少女も思った。少年は少女が家に通ってくることを拒まなかったし、義兄がある事件で大怪我を負って以降、少女を気遣うようになったからである。加えて、姉ならば危ういところのあった少年を間違いなく幸せにしてくれることを確信できてしまった、ということもあった。だからこそ、祖父にそのことを揶揄されようと。少年と少女が仲睦まじくしていようと。納得できていたのだ。

 

 だが、ある時を境に聞に少女は内に囁きかけてくる声を聞いた。

 

 本当に良いのか。

 お前が責め、苛まれていた時、あの娘は何をしていた。

 お前が助けを求め咽び泣いていた時、あの娘は何をしていた。

 汚れもせず、友人に恵まれ、才色兼備で常に完璧。

 今の今までお前と関わろうとしなかったあの娘に。

 奪われてもよいのか。

 あの男に、お前はどれだけ尽くしてきた。

 あの娘に、お前の希望を奪う権利があるのか。

 

 繰り返されるその囁きに、少女は初め抗った。幻聴であると、自身に言い聞かせた。だが、それでも。

 

 毎日。

 毎日毎日。

 毎日毎日毎日毎日。

 

 気を抜けば幾度となく聞こえてくるその声に、少女は僅かずつであるが同調している自分がいることに気づいてしまう。少しずつ、少しずつ。僅かにひびの入った氷山が、自身を取り巻く気温の変化によって亀裂を広げていくように。そして、一度崩壊が始まってしまえば、それは止める術などありはしなかった。

 

 だから、少女は。間桐桜は、奪いとることにしたのだ。その笑みは、その声は、そのぬくもりは、自身にこそ与えられるべきものであったことを。横合いからしゃしゃり出てかっさらっていった泥棒猫に、思い知らせてやる。

 

 だから、早く。

 早く早く。

 早く早く早く。

 

 吸収されろ。糧になれ。あの鮮やかで。綺麗で。強くて。完璧な姉を打ち倒すために。その為に屈辱をこらえて未だ祖父に従っているのだから。

 

 もはや強迫観念に等しいそれに突き動かされながら、桜は影を操る。

 だが、深緑を纏う悪魔はそれを容易くかいくぐり、赤黒い岩山は歯牙にもかけようとしない。圧倒的なまでの力の差だった。桜の“虫”は触れるだけで勝ちをゆるぎないものにできるはずだというのに、かすらせることすら叶わない。両者ともに手負いであるにもかかわらず、である。これでは、両者が消耗するのを待ってから万全を期して出てきた意味がない。

 

 何故。何故とどかない。“虫”が想いの強さを反映するというのなら。彼女は誰よりも。何よりも強くなれると確信している。事実、この数か月の間、自身に抗しえた虫憑きなど存在しなかった。羽虫も同然だった。はたけば散る、その程度の存在ばかりだった。祖父があの二つは特別である、などと語っていた様な気もするがそんなことはどうでもいい。アレが上質な養分であるということ、それだけが重要なことなのだ。それなのに。

 

 胸を暴れまわる激痛に悶える。分身とはいえ、かなりの力を注いで形成した影絵を完全に打ち破られた反動は想像を絶する。だが何よりも。注ぎ込んだ夢が。捧げた想いが、写真が虫食いになって欠けていくかのように思い出せなっていくこと。その代わりに虚無感が内側を満たしていくこの感覚が。心を貪られていくこの感覚こそが何よりも苦痛だった。

 

 それでも、と自身を奮い立たせて桜は再度分身を作り上げる。こちらも痛手を負ったが、既に獲物は二つ共に満身創痍。出力こそ落ちたが、特性が無くなったわけではない。触れさえすれば勝てる彼女の方が優勢だろう。手数で圧倒すれば、獲れる。そう確信した桜が影を振るわんとしたその時、

 忌まわしいその声が脳内を這い回り、余りのおぞましさに覚醒を余儀なくされた。

 




 彼女がいろいろ振り切れているのは、虫憑きになりたての時の暴走時に特環局員を欠落者にしてしまったことも大きい。あれで大分歯止めが効かなくなったといえます。他にも、能力的な理由があるのですが、それはまた後話で。
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