Fate/Kaleid Schmetterling 作:ひでぶ
戦いの後、言葉少なに冬木市に戻ってきた凛と士郎は、疲労困憊の身体を癒すために早々に別れて帰路に着いた。今後について話し合うのは日を改めてからでいいだろう、という両者の意見の結果である。だが、日を改めた結果として、既にその日から一週間が過ぎ去ろうとしていた。
その原因として挙げられるのは、のちのち接触すると告げてからまるっきり音沙汰のない“遠坂凛”のことだろう。元々、彼女との接触が士郎に事情を説明しようと考えたきっかけである。“凛”の話を聞いてこの奇妙奇天烈な現状の解明を行い、解決のめどが立つならば士郎に並行世界の知識を含めた解説をする、というのが凛の当初の予定であった。それに、物証として凛が並行世界の住人であると問答無用で分からせることのできる存在がいれば解説もやりやすいと考えたのも一因である。
ところが、待てども待てども“凛”からのアプローチはない。あの戦い以降、“凛”の“虫”もなりを潜めており、姿を見せない。これでは今事情を話しても、憶測だらけになってしまうことに加えて、物証なしの信憑性が無いモノになってしまう。あのお人よしの衛宮士郎ならばそれでも信じてくれるかもしれないが、できるなら憶測で説明はしたくなかった。だからこそ凛は士郎との打ち合わせを、情報を整理しているから待ってほしい、と先送りにしてきたのだ。だが、そろそろそれも限界だろう。卒業式が近づいてきている今、早急に今後について話し合う必要がある。
そんなこんなで夕食を食べ終えた現在、凛は衛宮邸離れに間借りしている部屋のベッドに腰掛け、思案しているのである。だが、なかなかうまく言いくるめられそうな妙案が浮かんでこず、己の尻尾を追いかける猫のようにくるくると堂々巡りを繰り返す思考を断ち切るように、ベッドに大の字に倒れこむ。
「だめかぁ。やっぱり今“遠坂凛”が分かっている範囲での説明をすることが一番無難よねぇ」
といっても、“遠坂凛”は肝心の臓硯、桜周りの情報を知っていないだろうと思われるので、凛が話そうと思っていた大部分が喋れなくなってしまう訳だが。つまり、今の士郎でも推測できるような事しか説明できない。それではここまで、情報を整理したいから、と引き伸ばしてきたことがあまりにも滑稽だ。
しかし、そこで深く説明しようと思うと並行世界の知識を話さなければならないという問題が表出してくる。と、そこまで考えて凛はまた自身が思考のループに陥っていることに気が付いて憮然とする。
「……やめたやめた」
かぶりを振った凛は寝返りをうった。マットレスがそれに合わせて包み込むようにやさしく形を変え、身体を沈み込ませていく。疲れや悩みがそのまま溶けていきそうな柔らかさ。それが予想以上に心地よくなり、凛は再度寝返りをうった。
「あ、なにこれ。ちょっと楽しい」
一転二転。三転四転。やわらかい生地をこねる延べ棒の気分で、凛は身体を捻り続ける。それをしばらく繰り返していると、自分がこねているのか、こねられているのかわからなくなってくるフィット感。
「“私”の奴、随分いいベッド使ってるじゃない」
大きさはともかく寝心地だけなら、ともすれば遠坂邸のモノより上なのではないだろうか。やはりというか、なんというか。“遠坂凛”の衛宮邸に対する馴染みぶりを凛は再認識した。だが、許そう。この感覚、まさにヘブン。と、凛が生地捏ねを再開した、その時だった。
「いや、あの。遠坂、さん?」
「へ?」
間の抜けた声が凛の口から零れ落ちる。思考、動作共に硬直。
不器用そうでありながら実直で、どこか上ずったこの声は。
「え、ええ衛宮君っ!?」
跳ねかえるようにベッドから飛び起きて、恐る恐る首を入口に向ける。するとそこには、ドアを半開きにしてこわばった表情を浮かべる衛宮士郎の姿が。
「いや、その。ノックしても反応がないから、何かあったのかと。取り込み中だったのなら……」
「衛宮君」
凛自身が驚くほどに恐ろしく落ち着いた声で士郎に呼びかける。
既に退出しようとしていたのだろう士郎はびくりと肩を跳ねさせると、ぎこちない、平静さを取り繕うとした表情で凛を覗ってくる。
「な、なんでしょうか、トオサカサン」
「こっちに来なさい」
「いや、その」
「いいから、こっちに来なさい」
「はい……」
うなだれた様子で士郎はとぼとぼと歩み寄ってくる。それは死刑囚が名前を読み上げられ、絞首台に向かって行く姿に似ていた。
「忘れろぉ! このっ! こうすれば消えるのか! こうか! こうかぁ!」
「うわっ! やめろ遠坂っ! 見てない! 俺は何も見ていない! だから、殴るな、え、ちょガンドはやめっ!」
「その、すみませんでした」
ベッドに腰掛ける凛に対し、士郎は床の上に正座の体勢で頭を下げていた。
どことなく、理不尽であると凛自身も理解していたが、どうにもこれは理屈ではない。仕方のない事なのだ、と彼女は自分自身を納得させる。
「分かればよろしい。ノックに反応がなかったからと言って女の子の部屋に勝手に侵入するのは許されない行為よ」
「ああ、うん。すまない」
それは十分理解してた筈なんだけどなぁ、などと小声で呟いている士郎。
聞こえていないとでも思っているのだろうか。この様子では、“遠坂凛”も気苦労が絶えない事だろう、と凛は同情する。
「それで、用があってここに来たんでしょ?いや、言わなくても大体分かってるけど」
大方、今後についてのことだろう。今の今までそれについて考えていたのだから、いやでもそれが予想できた。
とはいえ、どうするか。
やはり、“遠坂凛”が今までの期間で知りえただろう知識を解説する、ということが最も無難なところではあるのだ。だが、それで本当に意味があるのか、疑問である。本当のところ、ただ、自分の都合を隠していたいだけなのではないか、という考えが凛の脳裏をよぎる。
そもそも、“凛”と今後接触できる可能性がなくなったわけではない。並行世界の存在とはいえ“遠坂凛”だ。口約束とはいえそれを反故にするような人格ではないだろう。ならば、先に自身が考えられる限りの説明を行っておいてもいいのではないだろうか。第一、いい加減騙すのは性に合わない、と言うのが凛の本音である。まあ、この結論は士郎の予期せぬ突入によって半ばやけくそになっていることは否めないが。
黙考する凛に、士郎は先ほどまでと打って変わって表情を引き締めて凛を見据えていた。
「そんなに睨まなくてもちゃんと話すわよ。長くなるだろうから座りなさい」
凛は自身の右前方、扉側の壁際に置かれたクラシック調の机の側にある、それとおそろいの椅子を手で指し示す。彼は硬い表情のままそれに従い椅子に座った。それを見届けた後、凛は軽く息を吸い込むと、口火を切った。
「それじゃあ、率直に聞くわ。衛宮君、貴方は私が誰だと思う?」
凛の問いかけに、士郎は一瞬眉根を寄せたものの、答えた。
「だれって遠坂凛だろ。記憶が不確かなところがあるけど、お前は間違いなく遠坂凛じゃないのか」
「そうね、私は遠坂凛よ」
「そうって。なんでわざわざそんなことを聞くんだ?お前は遠坂なんだろ?ならそんなこと聞く必要がないじゃないか」
「別に深い意味はないわ。ただ、簡単に私を“遠坂凛”と断定しておくのはよろしくない」
凛はベッドの棚から伊達メガネを取り上げてかける。説明するときこれを掛けるとなぜだか気分が入るからだ。
「いい?お人よしのあなたに言っても無駄だろうけど、疑わしいものを簡単に信用するのは命とりよ。これから私が話す事もあくまで一つの情報としてあなたの頭の中で処理しなさい。感情や感覚で物事を判断するものじゃないわ」
「む。そうか、善処する。でもほんとに俺たちを騙そうとしてるやつはこんなこと言わないんじゃないか」
「まあ、そうね。私はこれからネタばらしするわけだし。ただ、さっきの言葉は心に留めといて」
念を押すように付け加えた後、凛は続ける。
「いい、私は遠坂凛であって“遠坂凛”ではないわ」
士郎は言葉の意味が分からないというように目を瞬かせた。
まあ、それも当然ではある。彼女とて同じ状況であったなら同様の反応を返していただろう。彼は腕を組み、怪訝そうに問いかけてくる。
「遠坂凛であって“遠坂凛”ではない?どういう意味だ」
「そのままの意味よ。私は私だけど“私”ではない」
「だからそれが分からないんだ」
もどかしそうに言って士郎は表情を険しくする。
「遠坂、頼むから分かるようにいってくれ」
「そうね。衛宮君、並行世界って知ってる?」
突拍子もない凛の言葉に彼は憮然とした様子で眉を吊り上げた。
「並行世界って。SFとかであるやつだろ。あの時こうしていたらっていう選択枝があって、それを選んでいた世界があったら、とかいう感じの」
「そう。そういったIFの世界。それが並行世界よ。そして私は、この世界とは異なった並行世界から来た遠坂凛ってわけ」
「む、ひょっとしてからかってるのか? 遠坂」
凛としては至って真面目に話しているつもりだったが、士郎はそうは思わなかったらしい。拗ねたように目を眇めて口をとがらせている。
しかし、これは困った。今のを告げることはそれなりに覚悟がいったのだが、どうやらこの世界の士郎は第二魔法の事を知らないらしい。すこし説明の手間が増えそうだ。
「衛宮君」
呼びかけて、凛は生徒に教えを説く教師のように人差し指をピンと立てて見せる。
「魔法はわかる?」
「む。それくらいわかるさ。現代科学では扱う事の出来ない神秘。根源に到達するための手段だろ」
むくれたまま士郎は答える。まあ、正解としておこう、と凛は微笑する。
「なら魔法はいくつあるのかしら?」
「たしか五つだったと思うぞ」
「ご名答。その二つ目、第二魔法は何をあつかってるか。今までの会話の流れから考えてみて」
「まさか、並行世界に関係しているのか?」
はっとしたように士郎は腕組みを解いた。そしてまさかというようにこちらを見る。
「そうよ。並行世界の運営が第二魔法ね。でも残念。私は魔法はつかえない」
両手を少し持ち上げて、凛は肩をすくめて見せる。すると、解せないという風に士郎は首をかしげた。
「それだと辻褄が合わないぞ。魔法以外では行う事が出来ないものだからこそ、それは魔法なんだろ」
「ええ、たしかに魔法は使えないわ。でも、もどきなら使えないこともない」
「もどきって。一体どういうことだ? それに結局もどきじゃ意味がないと思うぞ」
「そうね」
訳が分からないという風に頬をかく士郎に、凛は同意をしめす。それは事実に他ならないのだから。ただでさえ、もどきのもどきである宝石剣のミニチュアでは並行世界の移動など行えるはずもない。
「でも、何らかの要因でもどきが真作にせまったっていうのが私の見解よ」
「その要因って一体何なんだ?」
「それについては私の憶測に過ぎないんだけど」
凛は躊躇するように口をつぐむ。ここから先は本当に凛の想像だ。
今まで得られた情報を元に彼女なりに推測してみた結果を述べる事しかできない。それでもいいか、と凛は目で問いかけると、士郎は迷うことなく頷いた。
それを受けて、凛は座っている膝に肘を乗せ、頬杖を突いた。
「とりあえず、貴方は“私”の“虫”の能力が宝石の性質を現すということだけは知っていたわよね?」
「ああ」
「なら、そこから想像できるもう一つの能力がこの珍事の鍵を握っていると私は考えているわ」
「もう一つ?」
疑問を浮かべる士郎に、その通り、と凛は物憂げに肯定を示す。
「私の家系に伝わる大師父からの課題でね、宝石剣っていう物を再現しろってやつがあるのよ。この宝石剣はその名の通り、柄から頭身まですべて宝石で出来ている贅沢な代物でね。その用途は、人が通れない程度の大きさの並行世界につながる“穴”を作ることを可能にする第二魔法の限定礼装な訳」
「それは、すごいな。でも、すべて宝石で、ってまさか」
「そ。そのまさかよ。私の考えっていうのは、あの“虫”は組成する宝石の配分を弄ることで宝石剣と同等の効果を示す事が出来るんじゃないかってのが私の持論。私が“かっこう”に捕えられたあの日、魅車に見せられた監視カメラの映像で使われていた力は士郎も知らなかったでしょ?」
まあ、だからと言って並行世界に人間大の物体を飛ばせる理由にはならない訳だが。
それには士郎も気が付いているようで、しかつめらしく顔をしかめながら唸った。
「でも、人が通れないくらいの小さい“穴”しか作れないんだろ?それじゃどうやったって」
「無理ね。それ単体の能力では、人間はおろか精神すら通れない」
所詮は魔法の一端を限定的に再現するための礼装の能力を真似ただけの代物。並行世界への移動という完全な魔法そのものには届かない。と言うよりも、“虫”などというよくわからない異能が魔法の一端に手をかけていると予想するだけでも業腹だというのに、魔法そのものの力を行使しているなどと考えたくもない。
「ま、それはあくまで単体だけなら、って話だけど」
「どういうことだ?」
「簡単な話でね。一つで足りないなら余所から持ってこればいい。魔術師としての常識でしょ」
まあ、魔法の限定礼装を余所から持ってくる、なんてことは普通に考えれば不可能なのだが。問題は、第二魔法がそれを可能にしてしまう法則を内包しているということ。無限に連なる並行世界に干渉できるこの規格外は、もし宝石剣を用いて全く同時間に互いの世界を観測しようとしている世界があったら、という事象すらあり得ることにしてしまう。
要するに、と凛は語を継いだ。
「“虫”の能力で覗いた先の世界で、同じように宝石剣を使ってこちらの世界を観測してる人物がいたら、互いの世界の結びつきは一つの礼装で行っている時より当然強固になると思わない?」
「つまり、どういうことなんだ?」
「言ってみればね、あの日、私が“かっこう”に捕えられる少し前、この世界の“遠坂凛”が“虫”を使って私の世界を覗いていた時に、私も宝石剣のミニチュアを使ってこの世界を覗いていたってことよ」
「よくわからないけど、それって本当に起こりうるのか? 恐ろしいぐらいに確率の低いコトな気がするぞ」
士郎は困惑したように唸り、頬をかいた。
はっきり言ってあり得ない、と凛も彼に同意したいところだった。ところが、残念なことにこれに関しては監視カメラの映像に会った時間帯と凛の実験の時間帯が丸かぶりだった上に、現実に凛が転移しているという問題もあって確定的なのである。
そもそも、あくまで魔法もどきである宝石剣のミニチュアを真作に近づけるには、あらかじめお互いの世界を覗きあっていて世界同士のつながりが強まっている、という条件にしないとかなり厳しいのだ。
「正直言ってね、それでもまだ足りないくらいなのよ。だから、ダメ押しの要素が必要になってくるわ」
「まだ何かあるのか?」
士郎は呆れたような声を上げる。
まあ、ここまででも十分出鱈目な話であったのだから当然ではあるが、と凛は苦笑する。しかし、このダメ押しの要素は今までのモノとは少し訳が違う。正直いって本来、魔術師としては公言するのは憚られるような事なのだが、説明には不可欠な要素なので渋々凛はそれを口にする。
「そのダメ押しだけどね、私の実験ミスなのよ」
「へ?」
目を点にして士郎は問い返してくる。その返答は全く予想していなかったと言わんばかりの間抜け面である。
こんな反応をされると、凛としては逆に恥ずかしくなってくる。ごまかすために彼女はつんと鼻を怒らせて顔をそむけた。
「だから、私が実験でミスして宝石剣のミニチュアを炸裂させちゃったのよ。限定的といっても魔法で出来た歪みが解放されるワケだからもう“何でもあり”な状態になってもおかしくない状況が出来上がるわ。これが、世界同士のつながりが強まってる場所の起点で起こったら“穴”が強引に押し広げられる可能性だってあり得ると思わない?」
「それは、確かにそうかもしれないな……」
気圧されたように士郎は口ごもる。
だが、正味な話、凛はこれでもまだ人が通り抜けられるほどの穴が出来上がるとは思えなかった。そこで思い起こされるのが、“凛”の言葉なのだ。そういうのは自分の身体でやってくれ、という彼女の放った言葉の内容からして、馬鹿正直に自分の身体でこちらの世界に来たとは考えづらい。だから、凛の意見としては、
「…私はね、今のこの状態が精神のみこの世界の“凛”と入れ替わった状態なんじゃないかって考えてるのよ。私は歪みの炸裂を直に受けているから、精神が肉体から弾きだされていてもおかしくはないわ。そして、その精神が“穴”に呑まれた後、こちらの世界の私の肉体に入り込んだ。肉体が直接移動するのは正真正銘の魔法になるけど、これならぎりぎり“魔法の域”って程度に収まるからありえない事でもなくなるしね」
これはあくまでも“凛”の発した言葉を根底に置き、その上で人間が通れるくらいの“穴”を作り出すよりは、精神体が通り抜けられるくらいの“穴”を作り出す事の方がまだあり得るという理屈で考えたことに過ぎない。完全に急造の理論だったが、案の定、士郎は理屈を必死に噛み砕いて理解しようとしているようだ。目じりに厳しい皺が寄っている。
「精神のみって、つまり体は俺の知ってる遠坂の物で、今中に入ってるのは別の世界の遠坂、つまりお前ってことなのか?」
「そういうことよ」
「でも、あくまでもミスして余波を受けたのはお前だけなんだろ? こっちの世界の遠坂は一体どういう理屈で体から飛び出して、お前の世界に飛んだんだ?」
まあ、説明ではそこに疑問を持つのは当然だろう。
といっても、凛もそこの理屈がうまく導き出せていなかった。ピンとくるような理屈が今一つ思い浮かばないのである。無理やりこじつけていくなら、理由づけできないでもないのだが、と苦りきった心境で返答する。
「正直、そこはよくわかっていないのよ。あり得る可能性としては、覗いていた“穴”から歪みの炸裂の余波を受けた、って線が堅いんだろうけど正直これはないと私は思ってる」
「……そうなのか。俺は第二魔法の事はてんで素人だから、そこの道に詳しいお前の意見より上等な考えなんて浮かばないし、助けになれそうもないな」
やるせない、と言った様子で士郎は歯噛みしている。
やはりというべきか、この男、骨身にしみたお人よしぶりである。彼の恋人である“遠坂凛”のいるべき場所を突然奪い取ったに等しい凛の言葉に親身になって知恵を絞ろうとするその姿は、そう表現するほかない。
凛とて故意で行ったわけではないが、もう少し憤りをあらわにしてもいいところなのではないだろうか。いや、士郎なら多少無理のある説明でも信用し、助けになってくれるだろう、と凛自身考えてはいたことであった。とはいえ、実際にそれを目の当たりにすると何とも言えない気分が湧き上がってくる。
その士郎当人は、ふと思いついたように凛に疑問を投げかけてきた。
「なあ、中身が入れ替わった状態だっていうのに、なんでこの前“虫”が出てこれたんだ? お前が、“虫”の出し方が分からない、っていってたのはそもそも“虫”を出す事なんてできなかったからじゃないのか?」
「それは……」
凛は返答に窮して、言葉に詰まる。
あの時の“虫”の出現に関しては、凛の意思は全く無関係のところで行われた物なのである。どちらかと言うと、凛の方が“遠坂凛”に問いただしたい事項なのであった。
それにしても、よくよく考えてみればあの時の“凛”からの念話は、彼女の精神が並行世界に飛んでいるという仮定が正しいことにすると、世界線を越えて行われていたことになる。そんなことを、果たして独力で行えるものだろうか。そこではたと思い至る。並行世界に精神移動したというよりは、“凛”は自身の“虫”の中に転移したと考える方が、よほど自然な考え方ではないだろうか、と。
『馬鹿な事考えないでちょうだい』
「は?」
凛は本日二度目の間抜けた声を上げる。
彼女の声と全く同質のそれ。だが、彼女の意思とは別のところで発される思念。さながら、凛の思考を読み取っているかのようなその態度。それは、つい最近聞いたような。
『なに呆けてんのよ。しばらく休んだらまた接触するって伝えてあったじゃない。ってか、いくらなんでも人を勝手に“虫”扱いするのはやめてほしいわね』
再び声。透き通るようなソプラノの響きであるが、今のそれは加虐心に満ちている。その言葉の内容や、拡声の魔術を通したような自身の声そのものを発する相手は一人だけである。
『“遠坂凛”。覗き見って趣味が悪いと思わない?』
『あら、“自分”のことを観察することに良い悪いがあるのかしらね』
いくらか皮肉気な声色で“凛”が応対する。
しかし、以前は緊迫した状況であったためまるで気にも留めていなかったが、彼女の些細な態度が、どうにも鼻にかかった。おそらくこれは究極の同族嫌悪のようなモノだろう。並行世界の存在とはいえ自身とほとんど同じ存在なのだ。本能的に忌避するのは仕方がないかもしれない。士郎と赤い外套の騎士も互いにこんな感覚を覚えていたのだろうか。
士郎から見れば、唐突に不機嫌になったようにしか見えないだろう凛に、彼は口元をひきつらせながらもおずおずと声をかけてくる。
「あの、遠坂さん?」
「ごめん士郎。少し考えさせて、もう少しで説明できると思うから」
有無を言わせぬ調子で士郎をおしこめると、再び凛は“凛”に意識を戻す。
彼女に対して良い感情を抱けないことは確かではある。だが、個人的感情に流されている場合でもない、とその感情を押し殺して凛は思念を飛ばした。
『…とりあえず、私の考えが違うってことの説明をして頂戴。衛宮君にもね』
『割合“私”も分別あるのね。まあいいわ、ちょっと待って。“コレ”、狭苦しいのよ』
窮屈そうに息を漏らす気配と共に、凛の髪の中から小さな赤い光点がゆらゆらと宙に漂い出した。思わず身を起こした凛の顔の正面、四半間ほどの位置にその光は停滞する。それは夜空に浮かぶ星を一つ、持ってきたかのように美しい緋の輝きを放っていた。
呆然とそれに見入っているのも一瞬、それが徐々に体積を増していっていることに気付く。赤い光点だったものが巨大な“虫”を形作っていく。桜との戦いのときに現れた“凛”の“虫”である。
当然、突然現れたソレの姿に、士郎が裏返った声を上げた。
「なっ、これは一体……!」
『っと。ま、お互い視点が定まらないのもアレだったし、これで話しやすいでしょう』
すっきりしたからか、幾分か“凛”の口調が和らいでいる。一方の士郎は困惑もあらわに”虫”に視線を釘付けにされていた。
だがしかし、狭苦しい、とはどういうことなのか。その言い分だと、やはり“虫”の中に入っているかのように聞こえる。
凛の疑問を察したのか、“凛”はどこかふてくされた様子で思念を飛ばしてくる。
『そんなわけないでしょ。これはあくまでも意識を繋げるための中継器よ。電話の子機みたいなもの。小さいと出力するのが大変だから大きくしただけよ』
『ならいいけど。でも意識を繋げるってことは、やっぱりあの時の言葉はそういうことなわけ?』
『まあ、さすがに分かるか。その通りよ、私自身はこの世界にはいない。そこにいる貴女と中身が入れ替わる形で世界を移動したから。で、士郎に私の声を聞かせたいのなら、貴方がパスを開いて彼に繋げてくれないとこちらからはどうにもできない訳なんだけど。私のパスは私の身体《貴女》にしか通って無いもの』
“凛”はどこか投げやりな調子で言い募る。
やはり、癪に障る言い方である。だが、それ以上に凛を動揺させたのは、
『ちょ、ちょっと! アンタ、パスを繋げって、そ、それは!』
パスとは、魔術的な繋がり、因果線のことだ。契約とも言い換えていいかもしれない。身近なものでは使い魔とのパスが挙げられ、魔力によって存在を維持する彼らは主人からの魔力供給が無いと生きられない。その魔力供給を、空間的な隔てを無視して可能にする物がパスである。他にも、視覚を共有することや、思念による会話を可能にするなど利便性の高いものであるため、魔術師同士でパスをつなぐ者も存在する。
だが、問題はその繋ぎ方であり、間接的に言えば体液交換。直接的に言うならば、性交ということで、それはつまり士郎と。
せわしなく思考が展開し、目を回している凛に、”凛”は憮然とした調子で思念を走らせていた。
『なに慌ててんのよ。その身体は元々私のモノなのよ? 士郎とのパスなんてとっくに通ってるわ。私が言ってるのは、それを開けてちょうだいってコト』
『な、なんだ、そういうこと。ええ、分かってたわよそれくらいっ。いや、わかりたくないけどっ』
顔が茹で上げられたかのように熱くなるのを感じながら、凛はしどろもどろに言葉を紡ぐ。
凛自身でも言っている内容が支離滅裂であると理解できるのだから、第三者である“凛”は言うに及ばずだろう。
『へぇ。まあ、ある程度予想はついてたけど、随分初心なのね。貴女』
”凛”の思念に愉悦が混じる。どこか勝ち誇った響きのこもるソレに、凛は屈辱と羞恥に
頭が真っ白になった。あまりのことに、顔から火が出そうな程熱がこもる。そのまま溶けていきそうだ。
当然、それは”凛”との会話を聞けていない士郎には凛がひとりでに青くなったり赤くなったりしているように映るわけで。
「遠坂? どうしたんだよ、さっきから。”虫”のせいか? 具合悪いなら…」
士郎の声色は心底こちらを案じている響きを持っていた。状況を理解していないが故の行動とはいえ、凛にとってはその気遣いすら追い打ちのように感じる。とてもではないが目を合わせられない。
分かっていた。この世界の”凛”と士郎が恋人のような関係だろうということは、凛には容易に予想が出来ていた。だが、その先のことまでは今まで考えないようにしてきていたのだ。だというのに、それをあっという間に目の前に突き付けられてしまい、彼女の頭のなかはしっちゃかめっちゃかな状態だった。
とはいえ、ここで逆上しては完全にピエロになってしまう。それだけは避けねばならない。と屈辱を飲み込んで、凛は自身の身体に意識を向ける。士郎とのパスは意識すればすぐに見つかった。それを、蛇口をひねるように開いていく。
すると、”凛”はつまらなそうに鼻を鳴らした。
『ふーん。意外と冷静に対応するのね』
「っ!?」
おそらく、パスを開いた影響だろう。唐突に脳内に”凛”の声が響き渡ったらしく、士郎が肩を跳ねさせている。しかし、そんな士郎の様子にお構いなく、”凛”は砕けた調子で士郎に思念を飛ばしていた。
『久しぶりね、衛宮君。元気そうでよかったわ』
「久しぶりって遠坂。何言ってるんだよ。ずっとこうして喋ってたじゃないか」
本格的に痛いものを見るかのような目で士郎は凛を見る。とはいえ、まあこれは当然の対応だろう。”凛”も遠坂凛に他ならない以上、念話による声質も凛と全く同一だ。彼には”凛”と凛の声を聞き分ける術などないのだから仕様のないことだった。
しかし、どこか落胆したような調子で”凛”はつぶやく。
『やっぱりわからないか。ま、この状況じゃ朴念仁もへったくれもないかもしれないけどさ』
『なんでアンタがセンチ入ってるのよ。分かってもらえなかったからってへこむとか、アンタこそ乙女じゃない』
ようやく、冷静さを取り戻してきた頭で、凛はくだらない、とばかりに言い放つ。
が、そこまで言って後悔する。とっさに先ほどの意趣返しをしてしまったが、これでは今まで不快感をこらえてきた意味がない。自身のうっかりに、凛は頭を抱えたくなる。
だが、そんな凛の内心を裏切り、”凛”はあっさりと彼女の言葉に肯定の意を示した。
『そうかもしれないわね。でも、二か月ちかくも逢っていなかったから、乙女になるのも仕方ないと思わない?』
『あーあーあー。ご馳走様でした。恥ずかしいからやめてちょうだい』
先ほど危惧していた自身が馬鹿らしいとばかりに凛はかぶりを振った。
どうやら、自身とは全く縁がないと思っていた馬鹿ップルというモノに、平行世界の存在とはいえなってしまっているのを目にしてしまった凛は、こみあげてくる胸やけと頭痛をこらえるように顔を両手で覆った。
『……遠坂、さっきから一人でなにをやってるんだ』
ぼけた老人でも見るような表情でこちら見ている士郎に、凛は意識を向け、あえて声をだして告げる。
「なによ、その目は。いい? 別に私はふざけているわけじゃない。さっき話していたでしょ。元々ここの世界にいた遠坂凛。そいつが、どうやってか知らないけどコンタクトをとって来てるのよ」
「ここにいた遠坂が、遠坂にコンタクトをとって?ああ、頭がこんがらがってくる」
ぼやくようにくちばしると、彼は頭をふった。
この状況を一発で理解しろというのは酷かもしれないが、凛としても残念な目で見られ続けるのはたまらないのでさっさと理解してほしい。
頭を振って取りあえず雑念をはらったのか、彼は頬をかきながら凛を見やる。
「ええと、つまりさっきから頭の中で喋ってた方のどっちかが俺の知っている遠坂ってことでいいのか?」
「ええ、その解釈で間違いないわ」
「でも、遠坂……。ああもう、ややこしいな。元々この世界にいた遠坂は、お前の言う通りなら並行世界に飛んでるはずなんだろ? どうやってこんなことが出来てるんだ?」
ああ、それは凛も問いただしたい所だった。と言うよりも、そのあたりの考察をしていたところに”凛”が現れたのである。そのせいでうやむやになっていたが、本人がいるのだ、ちょうどいい、と凛は鋭く目を細めて“虫”を睨み、思念を飛ばした。
『聞いた通りだけど、一体どうやってこっちに接触できたっていうの?見たところこの“虫”の能力っぽいけど』
今回の事故の一因を担っているだろうこの“虫”が、第二魔法に関連する力を持っているだろうことは推測できる。しかし、だ。だからといって世界を超えての念話などそれこそ本当に魔法使いでもないかぎりは不可能な事象である。それを得体のしれない異能に実際に行われてしまっては、魔術師として認めがたいものがある。どうあっても、その原理を聞きださないと気が済まない。
しかし、“凛”の声は至って冷静なままに言葉を紡いだ。
『別に、貴方の期待しているような力は使ってないわよ。これは単に“虫”の特性を利用しただけの話。こちらの世界に“虫”が置き去りにされていたからパスをたどったにすぎないの。割合手間がかかったけどね』
『……確かに、“虫”は使い魔と似て非なるような存在だからパスが通っていると考えてもおかしくはないわね』
赤く輝く“虫”の本質を推し量るように、じろりと凛は眺めた。
確かに、魔術師どうしのパスや、術者の体の一部を使って作られたような上等な使い魔なら、それを経由して遠方の相手との念話くらいは、まあできるだろう。だが、と凛は続ける。
『それでも世界を超えて念話できる理由にはならないわ。世界線が変わった時点でパスなんて切れていて当然でしょうし』
『普通の使い魔ならね。確かに、宿主から夢を食らって存在する“虫”は使い魔と似て非なる存在だけど、その主体性も存在も大きく異なるわ。貴女は“虫”についての深い知識がないだろうから教えておくけど、“虫”のあり方はね、そもそも使い魔なんかとは次元が違うのよ』
そう語る“凛”の思念には、どこか忌避するような響きがこもっていた。彼女の感情の揺らぎを示すかのように、“虫”の輝きに陰りがさす。
それは、“虫”というモノの本質についての持論を語っていた時に、土師圭吾が醸し出していた空気と似通っていた。そこで凛は土師の言っていたことを思い出す。そう、“凛”は魔術師的な視点で自身の“虫”を研究する機会があったはずなのだ。“凛”がいつごろ虫憑きになったかは知らないが、それなりの期間、“虫”について調べる時間があったはずである。ともすれば、間桐臓硯に匹敵するほどに。
ならば、その“凛”の言う“虫”と使い魔の違いとはなんなのか。興味が沸かないはずもない。喉の奥が乾いていくような感覚を覚えながら、凛は問うた。
『違うって、一体何が?』
『よく考えれば分かる事よ。使い魔ってものは魔術師の体の一部を使って作るものだけど、“虫”は一部なんて次元じゃないって話』
つらつらと述べ立てる“凛”は一拍置くと、声を落として思念を走らせる。
『“虫”っていうのは宿主の精神、または魂の大半をつかってできているのよ。魔術的に言うなら夢という心象風景、心を具現化した固有結界。もしくは魂を形にするって程でもないけど、それに似たナニカね』
あまりにも荒唐無稽な話に凛は絶句してしまう。
なにせ、馬鹿げているのだ。固有結界。自らの心象風景によって現実を侵食し、世界を塗り替える魔術。魔法に最も近い魔術とされるそれは、魔術師の到達点の一つであり、奥義であるといわれる。“始まりの三匹”は、魔術回路すら持たない人間にすらそんなものを具象化させる力を持たせられるというのか。魔術師として、こんな馬鹿げたことを認めたくはなかった。
極めつけは、魂を形にする、という事。言葉にするのは簡単だが、一体どうすればそんなことができるのか。答えは簡単である。魔法だ。第三魔法、“天の杯”。その法は魂の物質化を顕す。かの聖杯戦争は、元々この第三法を求めて行われた物なのだ。“虫”が、それほどの物とは思えない。あくまで似ているだけだろう、と凛は自身に言い聞かせる。
なぜなら、それが真実であるというのなら、“虫”が聖杯の代替品足り得るという妄言が、現実のものとなってしまう。間桐臓硯の願望をかなえるのに、これ以上ない代物足りえてしまうからだ。そんなことが、あり得るはずもない。
だが、“虫”が本当にそういったものなら、念話は、おそらくできる。魂のつながりというものはパスなどとは比べるまでもなく強靭だ。世界が違っていても、魂のつながりをたどることが出来るおかしくはないぐらいに。最難関の世界線を超えるという点をクリアできているならば、世界線が違う場所との交信もさして難しいものではない。
愕然とする凛を余所に、掠れた調子の思念で士郎が尋ねる。
『それは、本当なのか?』
『残念ながらね。記憶のプロテクトが甘い士郎には話してなかったけど、これは私が長年自分の”虫”と向き合って出した結論よ』
気まずそうに苦笑する気配を伴い、”凛”は肯定した。
だまりこむ凛と士郎に、彼女はさらに続ける。
『すこし説明すると、“虫”が神秘の塊なのに魔力を放っていないのは、その方向性が内に籠る物だからよ。固有結界は心象風景の具現。それに近い性質を持つ“虫”はそれ自体内側に独立した固有の法則を内包し、それを仕切る境界として身体を形作っている訳。この境界は特別強固で、外側からの弱い精神的、概念的干渉を弾く。宿主に生半可な魔術が効かないのは、半身たる“虫”に内面が引きずられているからね』
まるで何のこともない、と言うかのように告げる“凛”。
その内容はやはりとんでもない。魔術師ならば頑として否定したくなるような内容だ。ただ、その分析は、短い期間で凛が得てきた知識で反論できるような内容ではない。
彼女とて、自身の魔術が虫憑きに弾かれたのは体験済みだ。そして、“虫”自体が神秘の塊であるということは、“凛”の“虫”の力が証明している。自身の身体を切り離す事で、内に籠った神秘を内包した宝石を産み出す力。こちらも、凛は既に直に目撃しているのだから。
“凛”はダメ押しとばかりに語気を強めた。
『欠落者って知ってるかしら? “虫”を殺された虫憑きがなるものなんだけど』
欠落者については、士郎から聞かされていたため凛も一応は知っていた。
だが、その言葉を聞いたとき、凛の中に抗いがたいまでの戦慄が走り抜けた。中空で強風にもまれる木の葉のようにぐらぐらと脳髄を揺さぶられるような衝撃。
黙りこくったままの凛を気にした風でもなく、“凛”の思念はよどみなく言葉を滑らせていく。
『“虫”を殺されるってことは精神、または魂の大半を殺されたに等しい状態なのよ。そんな状態では人はとてもではないけど正常ではいられない。要するに廃人になる。他者の命令を受ける以外では、たとえ自分が死ぬ危機であろうと動かない生ける屍にね。それが欠落者よ。これで“虫”が精神の大半でできている事に少しは信憑性ができたでしょ』
「そんな、ことが…」
うつむく凛から掠れた声がこぼれる。思念にして飛ばすのを忘れるほどに、凛は狼狽していた。
別段、彼女は“凛”の言葉を信用していない訳ではない。むしろ、信用できると判断したからこそ、ここまでのショックを受けているのである。
“虫”の方に凛は視線を戻す。すると、“凛”が小さく嘆息する気配がした。
『こればっかりは納得してもらうしかないわ。まあ、私も最初はカルチャーショックみたいなものを受けたからしょうがないんだろうけど。それに私の“虫”の能力は貴女からしたら今の話の比ではないものだしね』
『……こんなこと、魔術師なら認めたくないのも無理はないと思うでしょうに。まあ、いいわ。それは置いといてようやく本題って訳ね』
頭を抱えて蹲りたくなるのをこらえて何とか返した凛に、“凛”は鈴を鳴らすような声で笑う。
『その通り。それじゃ、この珍事の種明かしと行きましょうか。でも、この一件は私の“虫”なくしては起こりえない事態だったことは、なんとなくは予想できてるんじゃない?』
“凛”の言葉通り、確かに凛は彼女の“虫”も事故の一因だと考えてはいる。
かといって、あの“虫”が第二魔法を使える、などという可能性はあり得ない。第二魔法は宝石翁のみのモノであるし、使えるならこんな状態からとっくにおさらばできている筈だからだ。
だが、あの“虫”の能力は確実に第二魔法に関係するモノであることはもはや自明の理である。並行世界に関する事件の一端を担う以上、それは第二魔法に関係するモノでなければ魔法の定義が揺るぎかねない。
故に、士郎にも語った通り、この事態と“虫”の特性から推測できるアレの力の妥協点を提唱するしかなかった。
『宝石の性質を顕すというその“虫”の特性からして、宝石剣の真似事なんじゃないかとは睨んでいるけど』
『ま、浅からずとも遠からず、ってところかな。残念ながらそこまで便利な力じゃないのよ』
ホント、中途半端な力、と“凛”は鼻を鳴らす。
どうやら、彼女は自身の“虫”の力が気に食わないらしい。ぶっきらぼうな調子で“凛”は口走る。
『能力としての使い道は、はっきり言ってかなり限定的で応用が利かないわ。言ってしまえば、並行世界への精神跳躍ってとこ。信じられないなら実演できるけど』
「っ……!」
答えは、凛の予想した通り第二魔法に関係する類のモノだった。それは十分覚悟していたのだが、小さい呻き声が漏れる。認めたくないという心が抵抗している。
しかし、ここで食って掛かっても仕方がない、と感情論をおしこめて疑問を投じた。
『応用が利かないとはいえ、魔法に指をかけるような能力じゃない。何だってそんなに不満そうなのよ』
『別に、何のこともないわ。魂とか、心象風景の具現って言ったらもう一人の自分みたいなものじゃない。それが、“魔法に指をかける止まり”だったのが気に食わないだけ』
自分の限界を見せつけられてるみたいでね、と“凛”は不愉快そうに吐き捨てた。
しかし、その意見は凛にも共感できるものであった。確かに、凛が“凛”の立場であっても同じような感情を抱いただろうと思えるのである。そこはさすがに並行世界の、と頭に付くとはいえ同一人物なだけのことはある。こうして会話している中で初めて、凛は“凛”に好感が持てそうだと感じた。
一方、“凛”はまだ不満を言い足りないのか、続けてせかせかと言い募る。
『それにね。話を戻すけど、あくまで精神跳躍だから貴女が思っているほど大層なものではないわ。本当にそれしかできない能力。応用も効かない。ただ、平行世界をリアルに感じ取ることが出来るだけ。能力は“虫”に意識を取り込ませてからの発動になるから宝石剣の真似事は不可能よ。ま、それでも一応魔法もどきではあるんだけど、』
なるほど、並行世界に精神を飛ばす。それ単一で聞くとなると宝石剣の上位交換のように感じるが、能力の性質上、発動中の“凛”本体に意識はないらしい。それでは、確かに応用も効かない。十分大きな制約である。だか、彼女の言うとおり魔法もどきであるには変わりないため、理解しているが、納得したくない。という凛のジレンマに変化はないが。
『でも今回はそのもどきの能力があだになったわ。精神跳躍なんて中途半端な能力だからこんなやっかいな事態になったのよ。そうよ、あの日のことよ』
“凛”が忌々しげに大きく息を吐く気配がした。
もはや愚痴のようになっている“凛”の吐露は止まる気配を見せない。しかも、その調子のままでこの状況の核心部を語るつもりのようだ。我が事ながら聞いていて妙な気分になってくるのを抑えて、凛は相槌を打つ。
それをゴーサインと捉えたのか、彼女はぽつぽつと語り始める。
『あの日、私は工房で“虫”の能力を使って精神跳躍を行ったのよ。そこで選んだ世界がたまたまあなたの世界だったわけ。精神跳躍を終えた直後に突然歪みの嵐が押し寄せてきて、意識が飛んだわ。そして気が付いていたら、私の体とのつながりが消えていたのよ。精神が依り代もなしに世界を漂ってはいられないのは知ってるでしょ。だから、かろうじて自分の精神と波長の合う空の肉体を見つけて入った。これが私の体験した事の顛末よ』
そこで一つ大きく息を吐くと、“凛”は言葉を切った。
聞き終わったその時、凛の疑問は大部分氷解されていた。正に、謎はすべて解けた、というところである。先ほどまでの“凛”の持論の穴は、彼女の意見をすり合わせる事で大部分埋めることが出来るのだ。
まあ、それはさておいて、“凛”の言い分を分かりやすくまとめると、つまり、
『貴女は私の世界に“虫”の力をつかって精神跳躍して、ちょうどその時に私の起こした実験事故に巻き込まれた、と。そういう事?』
凛と“凛”。二人の事件当日の行動を組み合わせてみるとこうなる。
まず、事件当日の深夜、凛は並行世界を覗くための実験をしていた。それと並行して“凛”が“虫”の能力を使って凛の世界に精神跳躍を行う。正に“凛”が並行世界に精神体で降り立ったちょうどその時に、凛がミスして実験事故を起こした。それに“凛”は巻き込まれたということになる。こちらの世界のホテルの部屋が荒れていなかったのは、あくまで彼女がこちらのミスに巻き込まれた形だからだろう。そして、もちろん実験を行っていた凛はミスによる“歪み”の炸裂の直撃を受けていた。
加えて、その時は片方が予めからこっちの世界に精神跳躍している状態だった。そうだとすると、覗きあっているだけ状態と仮定していた時よりも世界同士のつながりは、むしろこちらのケースの方が強いものになっているだろう。そこに宝石剣のミニチュアの破裂だ。お互いの世界に、精神が通れるくらいの穴が開いても全く不思議ではない。加えて、凛はその余波を間近で受けている。精神がちょっと散歩に出てしまうこともあるだろう。そしてその散歩先には波長の合う空の体が有った。意識が不明瞭な凛の精神は波長に惹かれるままにその体に入り込む。これによって帰るべき体をなくした“凛”は、空いている凛の体に入ることを余儀なくされた。こうして、お互いの体の入れ替わりが完了する。
そして、この世界に残ったままだった己の“虫”とのパスを“私”が辿って接触を試み、今に至る、とみていいだろう。
『そういうこと。簡単に言えば、お互いの精神が相手の世界に飛び、片方が空いている相手の体をうめてしまった。だから自分の体に戻れなくなった方が仕方なく違う身体に入った、ってところね』
あー、ややこしい。と、“凛”はげんなりとした思念を送ってくる。
しかし、次の瞬間には自嘲と揶揄の混じった言葉が飛んでくることになった。
『それにしても、驚いたわよ。宝石剣をミニチュアとはいえ作り出して、それを使っているにもかかわらず実験に失敗しているものね。どこの世界でも、ここ一番に弱いのが私の宿命なのかしら』
ストレートな発言が胸に突き刺さる。正直、ソレに関しては凛に言い訳できる余地もない。実験して失敗しているのはほかならぬ凛であり、“凛”の言い分からして彼女は巻き込まれたにすぎないのだから。
なら、筋を通すのが通りだろう。
『……ごめんなさい。謝らないといけないわね。私のミスに巻き込んだこと、心からお詫び申し上げます』
本人が相手ではないが、“虫”に向けて凛は頭を下げる。成り行きを見守っていた士郎が、驚きに息をのむ気配がした。だが、はっきり言って今回の事態はほとんど“凛”の責任である以上こうするのは当然だ。
なにより、向こうの世界の惨状は、想像するに余りある。宝石剣を炸裂させてしまった遠坂邸内部はだいぶ壮絶なコトになっていたはずだ。下手をすれば封印指定を食らいかねないレベルの歪みを発生させているだろう。
“虫”をこちらに残してあり、その気になればすぐにでも接触できただろう“凛”の接触が此処まで遅れていたのは、おそらくそれの後始末に追われていたからに違いない。
それも含めて、自分の不始末の処理すら押し付けたであろう相手に、魔道の家門の一当主として頭を下げなければいけないのだ。
頭を下げる凛に対して、“凛”は心底辟易した様子で深々と嘆息した。
『ホントよ。勘弁してほしいわ。目を覚ました瞬間から面白空間の内部で、時間軸も狂ってるわ、脱出しようにも手持ちに宝石が無いわ、ひどいのなんの。桜たちに助けてもらってようやく脱出できたと思ったら、今度は事後処理のためにロンドンに飛ぶことになるし。いま私がどこにいると思う? “時計塔”留学のために貴女の借りてるアパートなのよ?』
語っているうちに、その当時のことを思い出しているのか、思念に憔悴が混ざっている。
ああ、聞いている凛ですら頭が痛くなるような内容だ。それを押し付けられた彼女からすれば完全にとばっちりである。
ところが、続けて“凛”発された思念は、先ほどとは打って変わって穏やかな響きだった。
『―――でも、正直得難い経験になったわ。私はこんな異能を持っているから、間違っても時計塔には行けない。並行世界なんて、精神でしか見たことがなかった場所を体験している上に、一瞬だったけど宝石剣のミニチュアも目にすることが出来た。なにより、桜が幸せそうだったわ』
その思念には、噛み締めるかのような響きがあった。一瞬の羨望と諦観。正と負に彩られ、儚い刹那のきらめきを刻み込んでいるかのような独白。
しかし、それも一瞬。すぐに調子を取り戻した“凛”は何でもないかのように思念を発した。
『そういうことだから、そこまで気にすることでもないわ。謝ってほしかったのは、確かだけどね。大体ね、“虫”なんてインチキ使ってたこっちにだって非があるわ。それに貴女だって、今まで私の代わりに特環や桜の相手をしていたんでしょ、それでおあいこよ』
『そういう問題じゃないのよ。不始末を起こした以上、私は遠坂の当主として謝意を示さなければいけないの』
これはけじめというものだ。本来ならそれ相応の物を納めたりする必要があるのだが、存在する世界が違うためそれは不可能であるし、同一存在である以上凛が持っている物は“凛”も持っている。いや、事態が事態ゆえにそんなもので済むことでもないが。しかし、なにができる状況という訳でもない。それ故に頭を下げるしかないのだ。“凛”も遠坂凛であるならわかることだろうに。
頑なな凛の態度に、“凛”は数瞬黙り込んだものの、呆れたように言葉を紡いだ。
『もういいわよ。過ぎたことなんだから。これからの事を考えましょ。第一、同一存在なんだからあんたの不始末は私の不始末よ。これは、それだけのこと』
反論と許さないとばかりに言い放ち、“凛”はさらに思念を走らせる。
『わかったなら顔上げなさい。個人の感情はさておいても、これから私たち、それなりに協力していかなきゃいけないんだし。パートナーにへりくだられるとモチベーションがさがるもの』
『……そうね。私が貴女でも、きっとそう思うわ』
“凛”の厚意に感謝しつつ、凛は顔を上げる。
「ふふっ」
『あはは』
知らぬ間に、笑みがこぼれていた。それは、“凛”も同様だったようだ。目に映る宝石の体をもつ“虫”が温かい緋の色を灯す。
同一存在という点で不快感を覚えるのは変わらないが、こうして譲歩しあえるのならあまり衝突しなくて済むのかもしれない。
「あー、ちょっといいか。結局のところどういう顛末なんだ、これは。要するに、お前の実験のミスにこっちの世界の“遠坂”が巻き込まれてこうなったってことでいいのか?」
笑いあう遠坂凛二人に対して、居心地が悪そうにおずおずと士郎が声を上げた。
途中から、凛と二人で納得し合うだけの状態になってしまっていたため、士郎にはかなり窮屈な場だったかもしれない。それでも、話はしっかり聞いていた様でではあるが。
なら、彼に対してもやらねばならない事が凛にはある。
「その解釈で間違いないわ。これは完全に私のミスよ。だから、貴方にも謝らないといけないわね。今まで騙していてごめんさない」
「騙してって……。別に、これはそういうことじゃないだろ。事故だったんだし、遠坂は“遠坂”なんだし……。ああ、なんかわからなくなってくるな」
がりがりと頭を掻きむしり、士郎は言葉を選ぼうとしている。
だが、結局いいものが見つからなかったのか、視線を逸らしながらぼやく。
「とにかく、もう終わったことだろ。それで当人同士、納得がいってるみたいだし、“遠坂”の言うとおりこれからについて話し合おう」
「そうね。ありがとう、士郎」
凛の口から自然と感謝の言葉が漏れていた。士郎がきょとんとした表情をするのを見て、顔が熱くなるのを感じた彼女は目を逸らす。それを見て何を感じたのか“凛”気配がいじめっ子のそれに変わる。
『ホント、なんていうか変な感じね。自分の同一存在が士郎相手に赤くなってるとこ見るのって』
「なっ。赤くなんか……!」
思わず眦を上げて、凛は“虫”を睨む。しかし、それに乗じて顔がさらに火照っていくのが分かってうつむいた。
くすくすと笑う気配がする。
『拗ねない拗ねない。魔術では先に行かれてるみたいだからね。こっちくらいでは勝ってないと』
「こっちってどっちよ」
『冗談よ。聞き流してちょうだい』
楽しそうに笑う“凛”に、凛は鼻を鳴らして顔をそむけた。
やはり、こういうところは好きになれそうもない。人をいじるのは楽しいが、やられるのは良いものではないことがよくわかる。Sは打たれ弱いとはよくいったものだ。自分自身が相手でそんなことを学ぶとは凛も思ってもみなかったが。
だが、むきになっても面白が事が目に見えているので、凛はだんまりを決め込んだ。
「よくわからないけど、話を戻していいか? せっかく“遠坂”と接触できたんだから話すことはまだあるだろ?」
不穏な気配を感じ取ったのか、はたまたはただの朴念仁か、“私”が何かを念じる前に士郎が沈黙を破る。このとき、彼女が士郎に感謝したのは言うまでもない。
今度は口には出さなかったが。
口惜しそうな“凛”の思念が響く。
『残念。面白くなりそうだったのに』
「そうやって人をいじって遊ぶの、よくないぞ」
士郎が“凛”をたしなめる。うん、全くだ。その思考自体が自分へのブーメランの如く自身に返ってくるモノでもあるのだが、それは捨て置こう。とはいえ、“凛”が遠坂凛である以上、それをやめることはないだろうな、と凛は深いため息をついた。
『とりあえず、今までのことについて私から説明するから、それから、この先どうするかについて考えましょうか』
『なるほどね。この前臓硯と桜に接触している時点で驚いてはいたけど、なかなか上出来じゃない。私がやりたかったことはある程度やってれたみたいね。流石は同一人物、思考回路は似通ってるわ』
説明を聞き終わった“凛”は満足げにうんうんとつぶやいている。
だが、逆に士郎は不満そうな声を上げていた。
『それだよ、遠坂。お前がやりたかったことってなんなんだ?』
『そっか。士郎には話していなかったんだっけ。知ってるといろいろ顔に出そうだし、プロテクト甘いしで精神干渉系の“虫”や、“虫”狙いの魔術師に記憶抜かれるかもしれないって』
まあ、“凛”のその危惧は分からないでもない。士郎は魔術に対する耐性が弱いため、簡単に情報を引き出されてしまう可能性があるのだ。士郎もそれを理解してはいるのだろう。
しかし、散々な言われようであるには変わりなく、むくれた調子で彼はぼやく。
『……悪かったな。半人前で』
『ほら、機嫌直しなさいよ。今からちゃんと説明してあげるから』
それを微笑ましげに受け流した“凛”は、真面目な調子で語を継いだ。
『ま、粗方予想が出来てるんだろうけど、私は各地を回ってる途中で桜に関連する情報の周りがおかしいことに気付いたのよ。だからそれを探るために特環に近づきたかった訳。でも、も向こうにも立場ってモノがある。一応魔術師でもある私には手は出しづらいでしょうからね。だから、私は一介の虫憑きとして捕獲されようと画策したのよ。わざと痕跡を残して足跡を追わせて、最後に一番強い“虫”の力を使うことで向こうの感知に引っかかろうとした』
『っていうことは、あの日にあんな場所で平行世界の観測を行ったのは…』
凛の言葉に、“凛”は肯定を示す。
『そう、特環を釣りだすためにやったのよ。それがこんなことになるとは思わなかったけど。それはさておいて、もし特環と接触できていたなら、交渉して特環の立場を獲得する予定だった。虫憑きでありながら協会に属しているという自分自身の危うい立場は理解していたから。でもこれで均衡を持たせられるでしょ。そうやって気兼ねなく“虫”の力を行使できるようにした上で、平行して内部調査。そのあとは得た情報を元に桜に接触するって予定だったわ』
要するに、貴方たちがやった事とほとんど同じことをやろうとしていたって訳。と“凛”は締めくくった。
これで今までのことについての確認は終わったわけだが。
『なら、今後は土師圭吾と合流するってところに異論はある?』
『ないわ。アレは切れる男だし、今後桜と接触するのに役に立つことには間違いないから』
『てことは、桜架市にいくことはほぼ確定だな』
思案顔で士郎が頷く。
凛もその意見に異論はない。ならば、その先。目下“凛たち”にとって最大の問題についての話し合いを行う事になるのだろう。
凛はおもむろにその話題を投げかけた。
『じゃあ、その先。私達がどうやって元に戻るかについて考えましょうか。ま、実をいうと“私”と接触できたことで明確に元に戻るビジョンが見えてきてるけど』
『あら、奇遇ね。私も同意見よ。確かに元の世界に戻る構想自体はもう出来上がっているわ』
『同一存在なだけあって、やっぱり考えることは同じか。じゃあやっぱり来た時と同じようなことをするわけね』
凛は伊達メガネを人差し指で押し上げる。凛は、おそらく“凛”にも、お互いのどちらかが魔法を修得するまで待つという悠長な考えは毛頭ない。せっかく事態のからくりがとけたのだ。それを利用しない手はなかった。
だが、士郎には理解しがたかったようで、疑問符を浮かべていた。
『なんだ?元に戻る方法が分かったのか?』
『ええ。一応目途はたったわ』
凛は静かに首肯する。
しかし、本来なら今回の事態は偶然に偶然が重なった奇跡のような事件である。普通なら狙ってできる事ではない。ところが、だ。今回に限ってはできるのである。それの鍵となる“虫”に凛は目をやった。
『いい?“虫”のレイラインによって、お互いの世界線の位置情報を把握する手段があるわよね。そこで、実演可能っていう“虫”の能力を使って私が自身の世界に飛ぶのよ。そこで“凛”に今回と同様の事を行ってもらえばいい。それか、精神が通れるくらいの穴を作って、体を空けておいてくれるだけもかまわないわ。そうすれば、私は元の体に戻ることが出来るし、彼女も作った穴を通って、元の体に戻ればいいって訳』
『なら、』
と口を開いた士郎の言葉をさえぎり、凛は肩をすくめた。
『ああ、だめよ。実行するには“凛”が宝石剣を作る必要があるもの。私は向こうにほとんどお金を残してないから、製作費をためるには確実に年単位かかるのよね。当分先の話になるわ』
『そうなのか…』
肩透かしを食らった様子で、士郎の思念には力が無い。
とはいえ、と凛は続ける。
『でもま、時間がかかるのは仕方ないわ。戻れるだけマシよね』
本来ならこの状況で無限に連なる並行世界から元の世界を見つけ出し、そこに戻ることなど不可能なことなのだ。手段があるだけでもありがたい。
それは“凛”も同様なようで、
『ええ。それじゃあ、私が宝石剣を作り上げるまでは私の代わりをよろしく頼むわよ?』
『やっぱりそうなるか』
まあ、すぐには戻れない以上この状態が続くのは必定なわけで、“凛”の言葉は至極妥当である。凛としてはあちらの世界の士郎と桜の問題を丸投げしなければならない事が不満ではあった。本来、彼らの面倒を見るのは自身の役目であり、他者に譲るようなモノではないのだから。が、それは向こうも同じだろう。“凛”とて、自らの手で桜の目を覚まさせたいと考えている筈なのだ。である以上、よけいな感傷を込めるのは無粋である。
だからこそ、告げる言葉も最小限にとどめることにした。
『分かったわ。そっちもよろしくね』
『オーケー。任せて』
短いやり取り。気負いを感じさせない飄然とした返答。
だが、それで十分。短い誓約の言葉でもって、互いの荷物を預け合った。
一拍置き、“凛”は何事もなかったかのように言葉を繋げた。
『ついでに、せっかくだから私は時計塔を堪能させてもらおうかしら。こっちではいけないことが分かっているんだし。それくらいの役得はあっていいわよね』
“凛”の抑えきれない興奮が、言葉の節々から熱として伝わってくる。
まあ、半ば諦めていたのであろう時計塔への留学が体験できるのだから、興奮するのも無理はないだろう。
だが、一つだけ言っておきたいことが凛にはあった。
『ええ。ただ、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。こいつにだけは負けないでちょうだい』
『? まあ、心に留めておくわ』
怪訝そうな様子で“凛”は同意を示す。
だが、彼女も遠坂凛であるのならば、会った瞬間にその意味を理解するだろう。アレと遠坂凛は不倶戴天の敵同士であることを。
それをまだ知らぬ“凛”は、どこか気だるげな思念を送ってくる。
『ごめん……。これ結構疲れるのよね。そろそろお開きにしてもらっても構わない?』
『ああ、そっか。念話とはいえ世界線を越えてやってたら魔力の消耗も桁が違うのか。ええ構わないわ』
『それじゃあ、また用があったらその“虫”を使ってパスをたどって頂戴。私から用があるときもそうするから。でも興味本位に“虫”の力は使わないで。夢を食われるのは私なんだから、必要な時だけにしておいて』
欠伸を噛み殺したような声で、念を押すように“凛”は告げる。
前回といい今回といい、どうにもしまりがない終わり方である。と、凛が気を抜きかけた時、
『あと、士郎に手を出したら殺すから。おわすれなく』
なんてことを残して“凛”はパスを切っていた。
反論すらも許さない鮮やかな引き際である。
縮んだ“虫”が頼りなさげにゆらゆらと凛の髪の中に戻っていく。
気まずい沈黙が流れる中、耐えかねたように士郎がそれを破った。
「その、俺、風呂沸かしてくるな」
「え、ええ。お願いするわ」
ぎくしゃくした空気のままで別れる。
士郎が去っていた後、凛は大きく息を吸い込んで枕に顔をうずめると、
「だれが士郎なんかに手を出すもんですかぁ!」
くぐもった声が部屋中に響き渡った。
一部は以上となります。一部の目的は、凛と”凛”の問題の解決のメドを立てる事と、伏線張りがメインだったのでこんな形の終りになってしまいました。
”虫”についての設定はだいぶ練ったつもりなんですが、なかなかどうしてトンデモになりました。夢と欠落者、そして”不死”というキーワードや一号指定達の強さからこんな感じになりました。
負けず劣らず、”凛”の”虫”も出鱈目な能力です。今回の珍事は、すべてこいつがきっかけですね。平行世界の移動の理屈は、納得できていただけるものになっていたでしょうか…。不安です。
しかしながら、次話からは二部となるのですが、全て書き上がってからの投稿になるのでいつになるのやら。実をいうとこの一部、書き上げるのに一年チョイかかっているという。ものすごい遅筆ぶりですね。