Fate/Kaleid Schmetterling 作:ひでぶ
世界が赤かった。
空も、大地も、あらゆるものが。まるで世界というものが、その色素そのものであるかのような光景。大きな火事があったのだ。その時まで日々を営む場であった街は、既にない。木々も家屋も人々も、みんな物言わぬ黒い塊になっていた。
赤い大地を進んでいく。吸い込む空気も熱くて、歩む大地も熱くて、目に飛び込んでくる光景すら熱かった。溶岩に変わってしまったような血液が内側で暴れ狂っている。足が熔けたガラスみたいに地面にへばりついているようで、一歩進むことすら億劫だ。
熱い。まるで、レンジに入れられた生卵みたい。身体はもう、破裂寸前で。彼の魂が解放を求めるように
嘆き、悲鳴、恐怖、苦痛、絶望、それら見た赤い炎がぱちぱちと手を叩いて喜んでいる。
ただ、前へ。この子だけは助けておくれ、と懇願する声から目を背けて。ここから出してくれ、と焼き窯のようになった家屋から迸る絶叫に耳を塞いで。ひたすらに前に踏み出した。どうせ自分では助けられない。どの道みんな何をしても死ぬのだから、手出しをしても意味がないと。ただ、自分が助かりたかったが為に。全てを黙殺した。
彼らに対して、謝ろうとは思わなかった。謝ることが、自分の心が楽になるための逃げ道だと分かっていたからそれだけは決してしなかった。
こっちにおいで、と朱い陽炎が手招きする。
それは始まりの光。全てを産んだ始原の炎。それは、地表を洗い流してく浄化の具現だ。その抱擁に例外はない。抱いたものを一人にはさせぬ。皆一つに。仲間はずれは悲しすぎるというように、皆同じものに還していく。
こっちに来い、と黒い灰燼が足を引く。
それは終末の澱。淀み溜まった黒色の沼。抜け駆けなんて許さない。お前だけ助かるなんて許さない。俺たちがこんなにも熱くて苦しいのだから、お前も同じであって然るべきだ、と絡みついてくる。
誘うように、咎めるように。この平等な世界においてお前は異質だと。赤と黒が染み込んでくる。
それらを跳ね除けて、歩み続けた。
跳ね除けたからには、絶対に生きないといけないと感じた。為す術もなく皆が一つになって行く中で一人だけ足並みを乱したのだから、せめてそれを貫かねばならないと思ったのだ。
そうして、一人だけ助かった。助かってしまった。
みんなが助けを願っていた。あの地獄で、それを願わなかった人間など存在しないだろう。無情にも焼き払われていく願い。その中で、ただ一人だけ、それを救い上げられた。あれだけの嘆願、哀訴を踏みにじって進んだ彼だけが、助かった。
苦しんで死んでいった人々が大勢いた。
彼らの葬儀の場で、それを悼み咽び泣く人々も大勢見た。
なら、叶えられなかった彼らの分の願いを、背負って行かねばならない。
そうしなければ、顔を上げて生きてなどいられなかった。故に彼は自身を救いだした養父の後を追い、あの時救えなかった者達のために、誰かを救う正義の味方に憧れた。
だというのに、
「私は、今までたくさん我慢してきました……! 遠坂の家を出てから、私は耐える事しかできなかった! あの家で、私はただの実験動物だった! 魔術を教えられたことなんてない! ただ、体に虫を埋め込まれて、魔力をむさぼられて、なくなったら体を蝕まれる! どうすることも出来なかった! 誰も助けてくれなかった! だから、ただじっと耐えて……! 耐えて、耐えて! でも死ぬ勇気もなかった……!」
こんな嘆きを、またしても彼は見過ごした。
家族同然だった。顔を合わせない日の方が稀だった。毎朝、どっちが朝食の支度をするか張り合っていた。彼女は自宅から通っているのに、時たま彼が起きるより早く家に顔を出して朝餉の支度を整えていたこともあった。食事を共にして、くだらない話題で笑い合った。学校に行き、帰宅してから再び卓を囲んで夕食をとる。そんな日々を共に送っていたのだ。
「……ねえ、先輩。知っていますか? 私と遠坂先輩は姉妹なんですよ? 本当は私、遠坂桜だったんです。……ねえ、先輩。知っていますか? 私が魔術師で、ライダーの本当のマスターだったこと。……ねえ、先輩。知っていますか? 私が間桐の家で何をされてきたか。間桐の家で私は毎日、魔術の修練という題目で蟲の犇く地下室に放りこまれて、おじい様の気が済むまで凌辱されてきたんですよ? 汚れてるんです、私。心も体も。……ねえ、先輩。知っていますか? 私、貴方の事が好きなんですよ? ずっと、ずっと前から」
それでも、気づけなかった。知らなかった。深く考えたこともなかった。
結局、それを知ったのは取り返しがつかないところまで来てからだ。なんていう偽善だろう。あれだけ誓いを立てておきながらこの有り様。こんなことで何が正義の味方だ、笑わせる。身近な人間一人救えない人間に何が出来るというのだ。
そもそも、どうやって彼女を救うというのか。
現状、接触することはおろか、その居場所すらつかめていないというのに。第一、彼の実力では彼女にはまるで届かない。裏で糸を引く老獪な魔術師にも、手が出ない。力が、決定的に足りていない。
そうだ、力が要る。正義の味方であれるだけの力が。
だからこそ――――――――――――――!
――――――何か、嫌な夢を見ていた気がする。まあ、大方十年程前に被災した、冬木大火災の夢でも見たのだろう。こんなことは別段、珍しいこともない。頻度こそ減ってきているが、数年前なら魘されていることの方が多かったくらいなのだ。
ともあれ、数日足らずの束の間の休日は過ぎ去った。“あさぎ”による訓練が再び始まる。例の通り東中央支部の訓練室に呼び出された士郎と凛は、入口伝いにある、扉から僅かに離れた壁に背を預けて指導者たる少女の到着を待っていた。
もう間もなく指定された刻限。マイペースなように見えて割合時間を厳守する“あさぎ”にしてはやや遅れ気味と言える。何か入用のモノがあって、それを準備することに手間取っているのだろうか。とはいえ、以前行われた砲丸飛ばし訓練の際の彼女は、事前に準備を整えた上で不遜な顔で待ち構えていたことが記憶に新しい。そう考えると、どうにも物を揃えるのに苦心している訳でもなさそうである。
手持無沙汰にそんな意味のない詮索を重ねていた士郎の耳朶を叩く声がした。
「ふむ、遅れてすまないねー。少々所要があって、ソレに手間取っていた」
訓練室の入口からゆったりとした足取りでカッパの少女、“あさぎ”が現れた。彼女はにへら、と力の抜けた笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってくる。彼女に対して、凛が訝るように眉を顰めて尋ねた。
「所要? なにそれ、聞いてないけど」
「ん? ああ、キミたちには説明してなかったか。実は少しばかり生徒を追加することになったのだよー」
士郎たちの正面で立ち止まり、お気楽な調子で告げる“あさぎ”。唐突にも程があるその宣告に士郎は唖然とする。生徒を追加する、という事は指導する局員が増えるという事か。しかし相も変わらず緊張感が全くない様子だが、その肝心の生徒と言うのは一体誰なのか。
その問いを投げるより前に、“あさぎ”が訓練室の入口に視線を投げた。
「ふむ、そう言っている間に来たようだね」
彼女の視線を追って、士郎もまた訓練室の入口に目をやった。
すると丁度、東中央支部の黒い外套を纏った人影が二つ、訓練室に足を踏み入れてくるところだった。
一人は髪を短く刈り込んだ、背が高く屈強な体格をしている少年。もう一人は長い黒髪を二つに結んだ少女である。少女の方はおそらく“みんみん”だろう。火種五号指定であるという話からこの支部の中でも腕利きの存在と言える人物だ。少年の方も姿は見たことがある。確か、“兜”と呼ばれている局員の筈である。
“あさぎ”の弾んだ声が士郎の耳に届く。
「キミたちの訓練に際して、まず特殊型の虫憑きとの相対の仕方をボクという対戦相手で試験的に行っただろう? それで、どうせなら他のタイプの虫憑きの相手もさせてみようと思ったのさ。幸いここにはすべてのタイプ、そこそこに強力な虫憑きがそろっているからね」
まあ、“あさぎ”のその理屈は分からないでもない。模擬戦の相手は手ごわく、豊富であるほどいい経験となるからだ。だが、それがなぜ“みんみん”と“兜”を指導する理由になるのかが分からない。疑念を抱く士郎に、彼女は飄然と続けた。
「でも、ただ訓練に参加してもらうだけだとつまらないからね。せっかくの東中央支部の主戦力だ。いっそ、鍛えてみるのもありかな、と思ったわけだよ」
「ちょっと、その言い方だとアタシたちはおまけってコト?」
棘のある声を上げて“みんみん”が“あさぎ”を睨みながらこちらに歩み寄ってくる。その後ろには、厳然と口元を引き結んだ“兜”が重々しい足取りで追従している。それに“あさぎ”は軽く首を竦めて見せる。
「ああ、言い方が悪かったかな。訓練を引き受ける以上、そこに手抜きも貴賤もない。キミたちの実力はしっかり伸ばして見せるさ」
「それなら文句はない。お前の手腕は聞いているからな」
低い、鷹揚とした声色で“兜”が言った。
そこに、十代特有の足もとが宙に浮いているかのような不安定さは見られない。泰然と、揺らぐことのない真っ直ぐな立ち姿は年輪を重ねた大樹のようだ。もとより朴訥な人柄なのだろうが、それにしてもやけに大人びた人物のようだ。
「なによ、澄ましちゃってさー。……まあいいわ。土師さんも頼みにしている、その手腕って奴を見せてらうから」
“兜”とは対照的に“みんみん”はやたらと挑戦的に微笑んで見せている。
何故だかはわからないが、彼女は“あさぎ”に対して敵対心を抱いているらしい。その言い分からして土師に重宝されているのが気に食わないのだろうか。
ところが“あさぎ”はまるでそんなことはまるで頓着した様子もなく、人を食ったような笑みを浮かべる。
「ご期待には添えようと思う。まあ、その分キミたちには頑張ってもらう事にはなるけどねー」
緩い調子で“あさぎ”は言葉を切った。かと思うと、怪訝そうに形のいい眉を吊り上げ、士郎に目を向ける。
「しかし、妙な波動をかんじるなー。いや、乱れと言ったところか。士郎、最近何か変わったことはなかったかな?」
「変わったこと?」
探るような視線に晒されて、落ち着かない気持ちになりながらも士郎は過去を思い返す。
が、特段思い当たる節もない。休暇中も少々物騒な邂逅があった程度だ。それ以外は何の変哲もない日常であったと記憶している。
思索を切り上げ、士郎はその旨を伝える。
「――――いや、特に変わったことはなかったように思うぞ」
「ふむ、まあ日常的に虫憑きと触れ合っているキミだ。多少の乱れがあってもおかしくはないか」
珍しく思案顔で呟く“あさぎ”。
“あさぎ”の言う波動とは、おそらく彼女が持つ感知能力が関係しているのだろう。虫憑きが能力を使うと磁場が乱れるらしく、それを彼女はレーダーのように知覚できるという。
が、虫憑きでない士郎の波動が乱れるとはどういう事か。考えられるとすれば“虫”と本質を同じくする“あの魔術”の鍛錬によるものとしか思えないのだが。どうにも腑に落ちない。そこのところが彼女も引っ掛かっていたのだろう。
気を取り直すように、“あさぎ”はもはやお馴染みな力の抜ける笑みを浮かべた。
「何、気にしないでくれたまえー。個人的に気にかかっただけだよ」
「そうか? ならいいけどさ」
すっきりしない心境が現れたのか、歯切れが悪い答え方になった。
茶化すように彼にひらひらと手を振った“あさぎ”は、彼女を中心にしてそれぞれ集まった四人の局員を見渡す。
「よし、全員そろったところで訓練を開始しよう。ところで、キミたちは既に顔見知りかな?」
「“みんみん”の方とは一回、ここに来たころに話したってくらいかな。もう一人は見かけたことがあるって程度」
小さく首を竦めた凛が答える。
すると“あさぎ”はふむ、と軽く頷いて見せ、
「なら“兜”とキミたちは初対面か。彼は分離型の虫憑きで火種六号指定だ」
手で体格のいい少年を指し示しながら紹介してみせる。次いで士郎と凛を指し示して彼女は続けた。
「“兜”、こっちは“紅紋”とその協力者の士郎だ。無指定だが、ボクの生徒になる」
「“兜”だ。しばらくの間、よろしく頼む」
神妙に紹介を聞いていた“兜”が、低い声で一礼した。
短く簡潔で、どこかかっちりとした挨拶である。そこに彼の気性が現れているのだろう。質実剛健という言葉が似合いそうな人物だとは思っていたが、どうやらその印象に違わぬ人物らしい。今頃冬木で頭を丸めているのだろう彼の友人を思わせるしかつめらしい雰囲気に懐かしさを覚える。
“兜”に手を差し出して、士郎は告げた。
「ああ、よろしく頼む。俺は士郎、衛宮士郎だ。今のところコードネームみたいなのはないから好きに呼んでくれ」
「じゃあ衛宮と呼ばせてもらおう」
伸ばした士郎の手を、手袋の上からでも容易に分かるほどに節くれだち、ごつごつとした大きな手が握りこんだ。
手を放した“兜”はしかし、解せないと言った面持ちで疑問を投げてきた。
「だがな、衛宮。コードネームがないとはどういう事だ? “あさぎ”は協力者と言っていたが……」
まあ、それは当然の疑問だろう。特環の局員は入局する際に必ずコードネームを与えられる。政府組織とはいえ、半ば軍隊に近い体裁をとる特環の局員には通信や作戦行動の際に情報漏えいによる不都合を抑えるためにも暗号名は必須である。そんな中、コードネームがないと言われれば疑念を抱くのは当然と言えた。
「ああ、それは私が説明するわ」
やおら口を開いた凛が、間に割って入る。
こういった説明は彼女の方が上手いのは間違いないので、任せておけばいいだろう。一歩、“兜”に歩み寄った凛が、たおやかに手を差し伸べて握手を求めた。
「私は“紅紋”。よろしくね、“兜”」
「よろしく頼む。で、“紅紋”。訳を説明すると言ったが、どういう事だ?」
当惑した様子で握手に応じ、尋ねた“兜”に凛はつらつらと述べ立てた。
「彼のコードネームが無いのは、簡単に言えば彼が正式な局員じゃないから。士郎は虫憑きじゃないのよ。あくまで私一個人の協力者ってワケ。立場は無指定の局員と同程度のモノを与えられているけど」
「虫憑きじゃない? 驚いたな。新人局員二人の内、まさかその片割れが一般人とは思わなかった。これはまた、物好きもいたものだ」
目じりにしわを寄せ、“兜”は言葉を選ぶように返答した。そこにはありありと驚嘆の色が見て取れる。彼の何か奇異なものを見るような、もしくは呆れるように眇められた目が士郎を捉えた。とはいえ、それが真っ当な反応だろう。これまでの虫憑きたちの反応が軽すぎたため忘れがちであるが、元来虫憑きに対する一般人の対応から考えて士郎は異常である。
世間から化け物扱いされ疎んじられている虫憑きの彼からすれば、自分たちに物怖じせずに接してくる一般人は異様に映るだろう。もっとも、士郎もまた魔術師という世の摂理の外にある存在の一人だ。異能の力や、神秘の行使とはもとより卑近な位置にいる。そういった面から、彼らの言うような“一般人”という価値観に収まる訳ではないのだが。
「そ。物好きも物好きよ。といっても私とは昔馴染みだし、その辺りの経緯から異常なモノに対して慣れてしまってるってのもあるんでしょうけどね」
「そうか。まあ、そうでなければワン……。“あさぎ”の訓練には耐えられんだろうな」
“兜”がワン、と言いかけた刹那、異様な悪寒が走った気もするが士郎の勘違いだろう。
平静を装った風で続ける“兜”の額に、玉の汗が浮かんでいるのも気のせいだと思いたい。
「ともかく、衛宮との縁は大切にすると良い。虫憑きと知っていてなお、怖がることなく俺たちのような奴らと付き合ってくれる奴は珍しい」
「ま、そのつもりよ。でもアンタ、生真面目に見えて意外と羽目外すタイプ?」
「いや、何。悪気はない。“かっこう”のソレが移ってしまってな。気にするな」
居心地悪そうに目を逸らし、はぐらかすように捲し立てた“兜”は話題をうち切ろうとする。
しかし、そういった“面白そうな”話を凛がやめたがるわけもなく、食い下がっている。ところがそれを、間延びした、だというのに嫌に威圧的に感じられる声がさえぎった。
「そこまでにしたまえー。訓練が始められないじゃないか。最も、強引に打ち切ってほしいなら話は別だよ?」
「俺はまだ死にたくない。この話はやめよう、“紅紋”」
目頭を抑え、沈痛な面持ちで呻く“兜”。
凛は不満げだったが、しぶしぶな様子で引き下がった。そうなるように仕向けた“あさぎ”は、澄ました顔で切り出す。
「さて、全員基本的な情報くらいは分かち合ったところで訓練を始めるとしようかー。今回は別段特別なメニューはないよ。“紅紋”と士郎組、“兜”と“みんみん”組で模擬戦をしてもらう」
「模擬戦? でも彼女たちって無指定なんでしょー? 一人は虫憑きですらないし。大丈夫なの?」
“みんみん”は胡散臭そうに士郎と凛を交互に見比べて、懐疑の念を露わにする。
懸念を抱くのも無理はない。“みんみん”は五号指定、“兜”は六号指定だ。共に号指定中位。そもそも号指定される虫憑き自体が少ない現状、特別強力と言って差し支えない虫憑きたちである。並みの虫憑きなど容易くあしらってしまえる強さを持っているのだろう。それが表向きはるか格下の無指定虫憑きに、異能すらない一般人と戦えと言われているのだから戸惑うのは当然だ。
だが、“あさぎ”は人を食ったようににやりと口端を吊り上げ、挑発的に鼻を鳴らして見せた。
「やってみれば分かる事だよー。なに、この一ヶ月間遊んでいたわけじゃない。むしろ、手を抜いて痛い目に遭うのはキミたちの方だと言っておこう」
「ふーん、一月でそこまで鍛え上げられたっていうの? 随分と自信があるんだー。いいじゃん、そこまでいうならやってあげる」
“みんみん”は冷笑を浮かべ、挑発的な目で“あさぎ”から士郎、凛を見比べた。
どうやら“あさぎ”の発言が癪に障ったようだ。おちゃらけているように見えて、彼女はどうにもプライドが高い性分らしい。五号指定の彼女からすれば、一月程度訓練を積んだだけの無指定の虫憑きと一般人に痛い目に遭わされる、と言われるのは侮辱に他ならないのだろう。
それとも、もっと単純な理由が原因か。“みんみん”は土師圭吾に信頼されている“あさぎ”に対抗心を燃やしているように思える。やきもち、と言えばかわいいものだが一応訓練なのだから私情を混ぜられるのは複雑な心境だ。炊きつけた本人である“あさぎ”は“みんみん”の様子に気をよくしたように、頷きながら言い立てる。
「うんうん、良い調子だ。手を抜かれてはお互いのためにならない。“兜”もそういうことで構わないね?」
「……俺に異存はない。今の上官はお前だからな。お前が衛宮たちに俺と“みんみん”の相手が出来ると判断したのならそれに従おう」
そう、“兜”は静かに首肯した。
訓練内容に不安がないワケではないのだろう。ただ、訓練とはいえ仕事である。仕事である以上、そこに私情を挟む口ではないと見える。“みんみん”とは対照的な姿勢だ。命令とあれば諾々と従い、それを遂行する軍人のような性質が覗えた。
「よろしい。なら始めようか」
「私達にいいかどうか確認はしないのね。慣れたからいいけど」
凛がどこか投げやりな調子で嘆息してみせる。
とはいえ“あさぎ”に関わってきた時から、彼女が真っ当に士郎たちの許可を覗ってきたことなどないに等しい。凛の言葉通り、慣れてしまっている。
“あさぎ”もそれを承知なのか、忌憚なく肯定の意志を見せた。
「もちろん。キミたちはただ、この訓練を乗り越えればいいのだよー。では、二組に分かれて散りたまえー」
「そ。じゃあ行きましょうか、衛宮君。せいぜい頑張るとしましょう」
「理不尽な気もするけど、了解だ」
承諾し、士郎は凛と共に歩きだす。
渋り気味の言葉とは裏腹に、士郎の内心は高ぶっていた。なにせ分離型号指定の虫憑きと戦闘経験が持てるいい機会である。今日の経験は今後の成長のための絶好の叩き台になるだろう。なればこそ是非もない。今の自身が号指定中位クラス相手にどこまで戦えるか、ということも確かめたくはあった。
訓練室の中央、西側に凛と士郎が、東側に“兜”と“みんみん”が十間ほどの空間を挟んで向かい合う。既に装備は整えた。矢立を背負い、外套の革帯に短刀を結わえている。黒檀の長弓には弦を張って肩掛けにした。凛は気負った様子もなく、士郎の左手側数歩の位置に自然体で佇んでいる。
その場から離れた、部屋の北中央奥の壁に“あさぎ”が背を預けている。彼女は軽薄な笑みを浮かべ、彼らの様子を見守っていた。
「さて、いつでもいいわよ。こっちは」
余裕のつもりか。士郎の対面遠方で大きく伸びをしながら、お気楽な口調で“みんみん”が告げてくる。口元には微笑。なんだかんだで士郎たちを侮っているようだ。素直なのは結構な事だが、感情がむき出し過ぎるように思えた。
対照的に黙して語らない“兜”は、士郎から見てその左隣だ。彼の斜向かい十一間程度の位置。腕を組み、足を肩幅に広げて泰然と屹立したまま開幕を待っていた。彼には全く緩んだ気配がない。士郎たちの様子に油断なく目を光らせている。
しかし、明確な開始の合図がないのは困り物だった。こちらから火蓋を切るのがベストだが、向こうが“虫”すら見せていない現状で飛び込んでいくのは愚策に思える。かといって待ちに入るのも違うだろう。向こうの方が戦闘者として格が上なのは想像に難くない。先手を譲ってペースを握られると勝機は薄い。そもそも、遠慮してお行儀よく始めなければいけないという理由もない。
向こうがいつでもいいというのなら、と士郎は弓に手を掛けた。
「――――っふッ!」
切り裂くような鋭利な風切り音。
瞬時に肩掛けした弓を構えての速射である。精度こそ悪いが、余裕綽々な相手の不意を突くには十分だろう。
真っ直ぐ伸びる銀光は、目を見開いて硬直する“みんみん”の右肩を貫かんとし、
「油断するな、“みんみん”」
その前に突如として現れた、異形の巨影に阻まれた。
強烈な圧迫感を放つ岩塊のような巨躯が身じろぐ。黒光りする堅牢な甲殻で鎧ったずんぐりとした身体。その頭部から伸びる砲塔のような五つの雄々しい角。重厚感あふれる太い四対の足を踏み鳴らす様は、戦車がキャタピラを回転させて旋回する姿のようだ。“ゴホンヅノカブト”と呼ばれる昆虫によく似た、とてつもなく大きな“虫”である。その、もはや兵器と言って差し支えない凶悪なフォルムをした“虫”の主たる少年が窘めるように語を継いだ。
「さっそく痛い目を見ることになっていたぞ」
まるで動じた様子もない“兜”。
彼が弓矢に反応するだろうということは士郎も分かっていた。開戦前の様子から抜け目のないタイプであることは明らかだったからだ。だからこそ弓を射たのだが、これは予想以上に手ごわそうである。彼の“虫”は見たところ分離型のお手本のような容貌だ。堅く、重く、大きいという、ある種その強みを突き詰めた存在。その分、分離型の欠点も直に現れるだろうが模擬戦の相手としてこの上ない相手だろう。
「なによー! 今のでアタシを責めるのはちょっとおかしくない?」
憤慨した様子の声が、“兜”の小山のような“虫”の向こう側から届く。
それをどこまでも落ち着いた様子で“兜”が言い含める。
「いつでもいいと言ったのはお前だ。文句を言える筋合いじゃない」
「あっそ。言ってなさい、この頭でっかち! でもいいじゃん、やってやろうじゃない……!」
癇癪を起したような、“みんみん”の喚き声が聞こえる。
“兜”の“虫”の裏側から、その上空数メートル程度の位置に一抱えほどもある暗褐色の蝉のような何かが舞い上がった。四つの複眼に六枚の翅。明らかに昆虫の規格から外れている姿だ。凶悪に顎を噛み鳴らし、鬨の声を上げるように翅を擦りあわせて怪音を放っている。アレが彼女の“虫”なのだろう。
分離型にしては小型で、典型からは外れた“虫”のようだ。その分、手の内が読みづらい。とはいえ少なくとも“兜”の“虫”よりは明らかに小回りが利き、装甲は薄そうだ。怪音を上げている翅の様子からして何か特殊な能力を持っているだろうことは推測できる。
しかし、いい具合にトサカに来ているようだ。やはり感情の制御が出来ていない。号指定では“兜”より上手の筈だが、彼女の方が御しやすそうである。ともあれ、これで士郎たちを舐め切っていた“みんみん”も全力で潰しにかかってくるはずだ。
凛のどこか他人事のような、しかし愉快気に喉を鳴らす声がする。
「アンタ、意外と過激にいったわね。ちょっと驚いた」
「油断されたまま相手されても困る。“あさぎ”もいってたけど訓練にならないからな。それにあのくらいで獲られるなら号指定なんて受けてないだろ」
淡々と軽口に応じつつも弓を肩掛けに戻して、士郎は短刀を抜き放つ。
瞬時に魔力を通わせ、堅固な敵の喉元に突き立て得る牙へと変貌させた。調子は悪くない。身体に高ぶる熱を残していながら、心は凪いでいる。冷たく燃える青い炎のような闘志が瞳に覗く。
状況は遭遇戦に近い。二対二、限定された空間で遮蔽物障害物なし、真正面から小細工無用のチーム戦。個の戦力の差はあちらが上と想定。一見、この条件なら連携をとって事に当たるのが好ましいように思える。
だが、こちらが連携できる状況ということは、向こうも同じように連携してくることを考えねばならない。その上で考えるなら、まず“みんみん”は激情家だ。あまりチームプレイに向いている性格には見えない。通常ならこの時点で向こうの連携は破綻していると言っていい。
だとしても、だ。
その分、“兜”が冷静に周囲を俯瞰できる洞察力を持っている。号指定の序列的にも性格的にも、彼がフォローに回る役回りとなるだろう。しかしそれで十分、彼らは攻守に別れた連携を展開できる、と士郎は読んだ。
共闘する本人たちの心境は士郎には分からない。それでもあの二人は好対照の性格、“虫”の性能の差異が上手く嵌りそうな事が危惧される。小型で小回りが利くだろう“虫”を持つ、激情家の“みんみん”。大型で耐久性に富むと思われる“虫”を宿す、沈着冷静な“兜”。この二人なら性格的にも能力的にもごく自然に、オフェンスに“みんみん”、ディフェンスに“兜”という形になる可能性が高い。
その隊形で混戦になると大柄な“兜”の“虫”を盾にされ、こちらの連携を大きく阻害されることは目に見えている。この上飛行能力をもった“みんみん”の“虫”に頭上を抑えられると釘づけにされて下手に動けなくなるだろう。厄介な事この上ない。
検分を終えた士郎は冷厳に眼前の
「分断して闘おう。見たとこ“兜”の甲殻は俺じゃ抜きづらい。“みんみん”は抑えるから任せたぞ」
それが士郎の導き出した結論だった。まずは一対一の状況に持ち込み、その上でどちらかが敵の片側を抑えているうちにもう片側を制圧。最後に二対一の状況に持ち込むのがセオリーとなるだろう。個の戦力が劣っていると考えるならある程度策を練る必要はあるが、まとめて潰されるよりはマシだ。となると最低限、相方が戦っているうちは単独で持ちこたえられるようにしなければならない。
組み合わせに関しては単純に相性の問題だ。今の士郎の装備で“兜”の相手は骨が折れる。一応、刀身に強化を掛けた雹桜と鵠紅ならば“兜”の装甲板の如き甲殻の上からでもある程度の傷を作ることは可能だろう。だが、あの鈍感そうな巨体が相手ではせいぜい薄皮一枚切り裂く程度にしかならない。その程度ではこけおどしにもなりはしない。蚊に刺されたようなモノだ。用いる武装が貧弱な弓矢ならば尚更である。
ならば関節を狙うのが適当となる。が、鈍くて硬いあの“虫”だ。肉を切らせて骨を断つという構えで来られると止めようがない。狡からい小細工など力と重量で潰されるだけだ。布陣を容易く乱されてしまう。彼一人なら構わなかったが、チーム戦でそれは致命的と言えた。想定外の外野からの攻撃を軽減するために組んだ役割分担をぶち壊されては勝機がない。
一方、“みんみん”の“虫”ならばどこを狙っても士郎の攻撃は通るだろう。それだけで無闇な突撃への抑止力になる。空を飛べるという機動力も、宿主というウィークポイントがある限りそう自由にできまい。少なくとも彼が立っているうちは、無闇に戦況をかき乱されることを防げるはずだ。問題は火種五号の“みんみん”を彼一人で抑えられるか、ということだがそこは腕の見せ所となるだろう。
「やっぱそうなるか。ま、任せなさい」
若干げんなりした苦い表情で“兜”の“虫”を眺めつつも、確かな声で凛が請け合う。
既にその傍らには、鮮やかな紅の輝きを放つ蝶々が現出している。“兜”の足止めは、あの巨重に任せた耐久と突撃に拮抗できる火力が必須となる。士郎にはその火力がないが、大魔術を表向き“虫”の能力として行使できる凛ならば条件を満たしている。最も、凛の火力でも“兜”の“虫”は難敵のはずだ。それでも信頼には信頼で答えてくれる彼女に頬が緩みそうになる。
それを噛み殺して、士郎は気勢を放った。
「いくぞッ!」
硬質な床を靴底で蹴りつける。
様子見はない。初速から全開で、二つの人影が地を滑るように駆けていく。迎え撃つは槍衾のような五つの凶器を向ける巨獣。岩礁のような甲殻が擦れ合い、威嚇するように軋みを上げる。紅い眼光が煌めき、巨大な鍵爪が床をひしゃげて食い込んだ。
近づいてくるその姿が、徐々に巨大になっていく。その巨重と威風は流石に昆虫の王者と同じ姿をとるだけはある。さながら小銃を手に要塞を攻略しに向かう一兵卒の心境だ。これでまだ六号指定だというのだから恐れ入る。生唾を飲み込み、踏みとどまりそうになる足に鞭うって士郎はさらに加速した。
刹那、視界の中で“虫”の姿が膨張する。
床を抉りながら、咆哮を上げて突貫するカブトムシが猛り狂う。士郎と並走する凛が真っ向からそれを見据え、“虫”から零れ落ちた宝石を握りこんだ。
「派手にいくわよ!
向かい来る“虫”に威勢よく投げ放たれた宝石が煌めく。
同時に、眼前に溢れだした紅蓮の大火が雪崩のようにカブトムシを呑み込んだ。あまりの熱量に視界が歪み、咽こみそうになる。流石に圧巻の破壊力である。乱舞する劫火に巻かれれば、真っ当な生き物なら灰も残るまい。彼自身が期待した事だが、遠慮の欠片もなく同僚にランクAの大魔術を行使するその姿勢は頼もしくも恐ろしい。
とはいえ、これで片が付くほど甘い相手ではないだろう。
焦熱の海を踏破し、“虫”はいまだ健在。カブトムシは、黒い煙の尾を引きながらも勢いは落としていない。甲殻のあちこちが焦げてはいるが、あれほどの魔術の直撃を受けていながら多少煤ける程度とは恐れ入る。どうにも士郎の目算以上に“兜”の鎧は分厚いようだ。
互いに弾かれるようにして左右に散開する凛と士郎。その間を、轟風を纏った黒い巨影が切り裂いていく。速度も予想以上。特環の装備に魔力による強化を施していようと、マトモに直撃すれば一昼夜は再起不能が確実だろう。当たり所が悪ければ即死もあり得る。
「――――これは、予想以上に厄介そうね……!」
悪態をつきながらも凛の口元は楽しげだ。
あの様子なら、やってやれないことはないのだろう。地鳴りを立てて戦艦の如く回頭し、再度突撃をかけんとするカブトムシに自ら躍り掛かっていく。なら当初の予定通り“兜”の相手は凛に任せよう。士郎の相手は、
「ッ――!」
視界の上を掠めた物陰を捉え、士郎は咄嗟に転がって身を躱す。
ほぼ同時に、間近で凄まじい衝突音。床を伝って受け身をとった彼を殴りつけるような衝撃が襲う。地雷でも炸裂したかのようだ。すぐさま身を起こして短刀を構えた先に、強化素材の床に頭部をめり込ませ、陥没させている“みんみん”の“虫”の姿があった。士郎の頭上から急降下しての体当たりだろうか。原理は単純だが、馬鹿にならない威力である。起き上がりを狙うより前に、セミは体勢を立て直して飛び立った。
「さっきは随分な挨拶をされたし、今度はこっちの番って感じかな」
背後から投げかけられた声に振り向く士郎。
かつかつと軽快な足音を立てて、傍らに滞空する“虫”を従えた“みんみん”が歩み寄ってくる。恍惚に微笑む姿からして、ここから行うであろう報復行為に酔っているようだ。既に彼女に油断はないだろう。が、それと同時に己の勝利を疑ってもいないようだ。大した自信家である。いや、それとも傷つけられたプライドを取り戻すために向かってきたという所か。
といっても、それは士郎にとってむしろ好都合。向こうから的を絞ってくれるなら是非もない。これなら凛が“兜”を抑えてくれさえすれば簡単に分断できるだろう。
彼我の距離は四間ほど。おそらくお互いに射程に入っている範囲と言える間合い。
腰を低く落とす。床を踏みしめる脚が張りつめる。既に体は温まった。全開でアクセルをぶん回したかのごとく魔力は景気よく回っている。敵は目前。さあ、クラッチを跳ね上げよう。
「――――ッらぁあッ!」
迸る雄叫び。
風を切り裂き、士郎は一つの弾丸と化す。
踏み出した足は一歩で三間もの距離を詰めた。肝をつぶした様子でのけ反る“みんみん”の顔が目前に迫る。まずは定石通り。分離型のウィークポイントたる宿主に狙いを定めた。刃を峰に返し、首筋目掛けて横薙ぎに振るわれる右手の短刀、雹桜。その一刀は舞い散る桜の花弁の如く鮮やかに、若葉より零れた水滴が地を濡らすより速やかに、彼女の意識を刈り取らんとする。
だが、主の危機を“虫”が黙って見過ごすはずもない。
銅鐸を打つような硬質な手ごたえ。手の内に染み込むように痺れが走る。振りぬくつもりで一閃した短刀が半ばで止められている。何のことはない。“みんみん”と士郎の間に割って入った異形の怪物が、蝉の姿らしからぬ凶悪な口器でがっちりと雹桜の刀身を咥えこんで受け止めていたのである。その隙に、“みんみん”は後方へ離脱を図っていた。
「このッ……!」
“虫”を叩き落さんと左手の鵠紅が唸りを上げる。
しかし短刀にすっぽんのように齧り付いて離さない蝉を打つより早く、ソレは背の六枚の羽根を広げた。瞬間、放たれる怪音波。強烈な音の波濤が士郎を飲み込み、浸透してくる。共鳴するように骨が悲鳴を上げ、脳をかき回されるような激痛が走る。さながら彼自身が巨大なスピーカーになってしまったようだ。たまらず“虫”を振り払って飛び退る。
たたらを踏み、肩で息をしながら、士郎は片耳を抑える。残響のように頭に残った鈍痛に顔を歪めながらも、“みんみん”の“虫”からは目を離さない。いまだに強烈な騒音こそ響いてはいるが、音波の有効射程は七間程度といったところか。振り払った後に追ってこないということは音波を放っている内は大きく行動できないようだ。危ないところだった。あれ以上音波の中に留まっていたら内部から盛大に破裂していたに違いない。
あの怪音波は音の振動波を圧縮した衝撃波などといったモノではない。音の共振。物理的な破壊ではなく、物体の限界を超えた振動を与えて自壊させる死の独唱。それが、あの“虫”の能力か。速効性はないが、対象の防御能力を無視できる。それどころか対象が堅ければ堅いほど破壊しやすい能力と言えるだろう。堅いということは同時に柔軟性の欠如を表すと言えるからだ。それを示すように、“みんみん”の“虫”の正面。強化素材の床が放射状に罅割れている。
「うっそ、間近でアレを喰らってまだ立ってるなんてアンタほんとに人間?」
“虫”を鳴きやませた“みんみん”の驚嘆する声が耳に舞い込む。
その声も先の音波のせいか耳がイカレて不安定に聞こえる。平衡感覚も怪しい。関節も軋んでいて、体の感覚がおぼつかない。これなら真っ当な物理攻撃を受けた方が万倍マシだった。この分だとしばらくは精密な弓による射撃は不可能だ。音波射程外からの攻撃が封じられてしまった。感覚が戻るまでは白兵戦も攻勢に出るのは控えた方がいいかもしれない。
ふらつく士郎に、高速で回転し、砲弾のように飛来する蝉。
回避する余裕はない。かといって強化素材の内壁を歪ませる一撃を正面から受けるのは危険だ。単発とはいえ、“あさぎ”がお気楽に飛ばしてきた鉄球とは勝手が違う。少なくとも、足元すら確かでない現状では踏ん張りが効かない。受け流してやり過ごすのが最適だろう。射角に対して双刀を斜に構え、衝撃を流すためにいつでも右に飛べる体勢を整える。
ところが、
「なっ……! ぐぅっ――!」
流しきれずに、盛大に後方に吹き飛ばされる。
受け流しを選択した事が誤りという訳ではない。ただ、士郎の身体が自身の想定していた体勢よりもズレて構えていた事が原因だ。やはり音波を受けた影響で肉体と思考の間に齟齬が生じてしまっている。
視界がめまぐるしく回転する。落下した際に背中を強打し、息が詰まった。胸の中に焼けるような痛みが広がる。それでも、床を転がることで何とか衝撃を殺す事だけには成功した。視界が霞む。あの衝撃で剣を手放さなかったのは僥倖だ。咽こみながらもかろうじて身体を起こす士郎に、“みんみん”が呆れたような調子で言う。
「二度目。まぐれじゃないってワケ。最初の飛び込みの速さと言い、頑丈さと言いちょっとおかしいんじゃない?」
確かにおかしくなっている。こんな有様ではなぶり殺しだ。片翅が捥がれても尚、両翅がそろっている時と同じように飛ぼうとする蝉の如く無様に地を転がりまわっている様と似ている。身体の感覚の回復を待っている様では遅い。片翅がないならないなりにやりようがある。錯誤した感覚に、思考を合わせていくだけだ。
もし士郎が身体能力、己の感性に従うのみで戦えるような、所謂天才という人物であったなら。感覚を狂わされた時点で敗北が決まっていたかもしれない。感性、肉体が優れている者は、その分長所に頼りやすくなる。元々優れたセンスを持つからこそ、あえて持たざる者がそれを補うために積み上げる戦闘論理、技術に頼る必要性が薄いのだ。天才にとって、技術はあくまでも己が才を十全に発揮させるためのモノでしかない。結果、武技の中軸としていた肉体の感覚が鈍るとそれに合わせて積み上げた技術や論理も活きなくなってしまう。
だが、士郎は違う。彼に才能などない。身体能力は凡庸。魔術もからきし。センスもない。長所と言えば多少目がいい事と、危機にあってもそれなりの集中力と冷静さを保てるという事くらいだ。だから、彼は己の肉体や感性に頼ろうとはしなかった。ないと分かっている物に縋るほど、彼はおめでたい考え方はしていない。センスがないというのなら、それを補えるもので代用するのみ。輝かしい才に対して、どこまでも持たざる者の業である技術と思考で追い縋る追走者なのだ。
その彼にとって、肉体はあくまでも積み上げた戦闘論理、技術を実践するための器に過ぎない。最低限、戦闘に耐えうるレベルであってくれればそれでいいという位のモノ。その身体に多少の異常が出たところで、元より身体能力と感性の優劣を覆すために磨いた技術だ。多少、運動性能が低下しようと誤差の範疇で済むのである。
もはや風前の灯に見えるだろう士郎にとどめを刺すべく、“みんみん”が己の“虫”に号令を送る。
「でも次はないわ! 終わりよ!」
猛る旋風を伴い、“虫”が襲いくる。
士郎は目を剥いてその姿を捉えつつも、己が身体に全神経を集中させる。先の一幕で微細な動作に対しては身体の動きが鈍いことは分かっている。ならばここから先を考えて最低限、全力で回避に費やせばどうなるかということを理解する必要があった。
避け損なう訳にはいかない。まともに受ければもう、立ち上がることは絶望的だ。最悪死ぬだろう。訓練で死ぬなどという間抜けな最期はごめんである。故に過剰なまでに全身に魔力を巡らせ、転がるように真横に跳んだ。
「――――ァッ……!」
結果として回避は成功。“虫”は轟音を残して、何もない空間を抉っていっただけである。ただし、言うことを聞かない身体は予想の二割増し勢いよく床を蹴ってくれたようだ。受け身をとってなお衝撃を殺しきれなかった。即座に跳ね起きた士郎は顔をしかめる。だとしても“虫”の攻撃を受け損なった時よりもはるかに軽度なダメージだろう。大した問題ではない。
「避けたの!? もうフラフラの癖に……!」
忌々しいとばかりに“みんみん”が毒づく。
空中で弧を描くように旋回した“虫”が勢いを増して舞い戻ってくる。その姿は追尾ミサイル弾さながらだ。迫る強烈な羽音。大気を震わせる重低音が聞くものを威圧する。それをしっかと目に収め、士郎は再び剣を構えた。
身体の調子はおおよそ把握した。精密な動作ではやや愚鈍に、瞬発的な動作では多少過剰に反応する。それさえ理解できれば十分。感覚と実際の肉体の動作のズレも計算済みだ。多少の誤差はその都度修正してみせる。
再び受け流す構えをとった士郎に吸い込まれるように、“みんみん”の“虫”が突き刺さった。
だが、今度はふきとばない。肩が跳ね、短刀が押し返されようとも、体幹を射角から逃がすように重心移動をしたため背後に押し流されることはなかった。そうして、二刀の鍔元近く。刀身の側面に食らいつくように激突したソレは、刃先を左後方に流すように構えた短刀に上滑りし、回転軸を逸らされた結果あさっての方向に吹き飛んで行った。
「え、ちょっ、冗談でしょ!?」
泡を食ったように“みんみん”が裏返った声を上げる。
が、そんなものを気にしている余裕などない。最小限の動作で攻撃をいなす事が出来たということは、すぐさま次の動作に移れることを意味する。ノータイムで体勢を整えた士郎は、即座に護衛のいない“みんみん”に向かって突進した。やはり“虫”よりも宿主に気絶してもらう方が難易度は低い。
といっても、そうは問屋が卸さない。消えていた筈の羽音が頭上で猛っているのを察知し、士郎の全身が総毛立った。
「ちっ……!」
知らず舌打ちが漏れる。勢いを殺さずに受け流され、遥か後方に吹っ飛んで行った筈の蝉が狙い澄ましたように上空から隕石のような勢いで降ってきたのである。間一髪、身を捻って躱す事は出来たものの身が冷える思いだ。おそらく、あの“虫”は士郎を仕留めそこなった後勢いに任せて急上昇、とんぼ返りの要領で舞い戻ってきたのだろう。
鈍い激突音。“虫”にノミのように叩き潰された空気が暴発して拡散した。その強烈な余波から剣を交差して身をかばう。どれほどの勢いでぶつかればああなるというのか。またしても、“虫”が突っ込んだ個所は大きくひしゃげてしまっている。一瞬、修理費が心配である、などと場違いな考えが浮かんだがそれどころではない。やはり単純な破壊力だけならば相当なものだ。力勝負では敵いそうにない。
士郎は床に埋まりかけた“虫”から視線を逸らさず、全速で後方に跳ぶ。明らかに隙だらけだ。本来なら、着地後の硬直を狙うべきなのだろう。だが、これまでの“虫”の行動からして、
「――ぁくッ…………!」
やはり共振波を放ってきた。耳を劈く不快な騒音に顔をしかめる。とはいえ、射程からは既に脱している為、ただ不快なだけで済んでいる。もし隙に付け込んで踏み込んでいたならば、今頃はアレの餌食だっただろう。“みんみん”の“虫”は動けないからと言って、アレを放てない訳ではない。むしろ硬直している時が、アレを放つ絶好の好機なのだ。突進後の隙をフォローするにはもってこいの能力、使ってこない筈はないという読みは正しかった。
「何アレ、読んでいたってワケ? そんなコトッ!」
“虫”の向こう側から柳眉を逆立て、“みんみん”はいきり立ったように睨みつけてくる。
簡単に叩き伏せられると思っていた相手がやたらしぶといという事実にいたくご立腹のようだ。まあ、冷静に考えて士郎と彼女の能力差は甚だ深刻だ。単純な攻撃能力だけで見ると勝負にならないくらい両者の間には開きがある。攻撃範囲、破壊力、特殊性。どれをとっても今の士郎が勝ち得る物はない。
それに、今の彼女に油断はなかったはずだ。手抜きなどしていないだろう。それなりに本気で潰しにかかってきている。となれば能力差で考えて、間違いなく“みんみん”の勝利は揺るがない。それは素人目に見ても分かる事だろう。
だというのにいまだに獲物である士郎は健在。互いの能力差を客観的に理解しているが故に、“みんみん”はそれが許容できないと言ったところか。開戦時に持っていた遊びの色が彼女の瞳から消えている。ここからは油断も慢心もない、正真正銘全力でくるようだ。
音波を収めた蝉が、唸りを上げて撃ち出される。その速度はこれまでで最速。痺れを切らしたのかもはや何振り構わない様子だ。乱気流を纏い、凄まじい勢いで空を穿つソレに舌を巻く。結果、双剣で受けた衝撃はこれまでとは段違いだった。きっかり計算通り、刀身の狙った位置に着弾させたはずだというのに、上半身ごと持って行かれそうになる。
「――――――ァ!」
かろうじて以前と同じ要領で受け流したが、強烈な羽ばたきと回転によって空気が弾かれ衝撃波が生じていた。“虫”が飛び去っていくまで、頭蓋を殴りつけるような爆音に見舞われた聴覚が完全に用をなさなくなる。本格的に大砲じみてきたな、と乾いた笑いが込み上げそうになった。それでも、まだ流せる。多少よろけた程度だ。大事はない。
ところが、体勢を整えようとしたその時には既に切り返してこちらに向かってくる“虫”の姿があった。流石に血の気が引く気配がする。旋回性能まで上がっているとは恐れ入った。少しばかり相手の能力の上限を見誤っていたようだ。
縦横無尽。左右、前後、上空。あらゆる方角から“虫”が殴りつけるように襲ってくる。弄ばれてよたよたと踊る身体。衝撃の方は、まだいい。魔力を通した肉体はそれなりに頑強だし、感覚が馬鹿になっている状態では痛覚も鈍っているのだ。身体さえ動いてくれれば、まだしばらくは持ちこたえられる。アレは威力こそ申し分ないが、軌道が単純かつ直線的で受け流すこと自体は難しくない。ただ速くて、強い。それだけである。
だが、“虫”が行き過ぎる度に脳みそを揺さぶっていく衝撃波に思考を乱される事。それがその内大きなミスにつながると解り切っていた。戦闘において思考と判断を下すための時間は貴重だ。瞬間の判断の誤りが致命傷につながる。その瞬間の判断を狂わされそうになるあたり、厄介なことこの上ない。このままでは遠からず押し切られてしまう。
「なんで倒れないかなー。いい加減しつこいんですけど……!」
“みんみん”が不快感をあらわに吐き捨て、粘り続ける士郎を眺めている。その顔には汗が浮かんでおり、相応に消耗はしているらしい。順調に“出来上がって”きているようだ。それが直線的で、勢い任せな攻撃という形に現れている。あの攻撃を受け流せているのはひとえに“みんみん”の頭に血が上っているおかげでもある。焦りと怒りで周りが見えなくなるのも時間の問題か。といってもこのままではこちらが倒れるのが先だろうが。
遠方からは広大な訓練室を揺るがす振動が足元に幾度も届いてくる。凛は随分と大味な戦い方をしているようだ。まあ状況は此方と似たり寄ったりだろう。凛の火力でも巨大で堅牢な“兜”の“虫”相手ではじり貧となること不可避の筈だ。
まあそろそろ頃合いか、と幾度目かの蝉の突撃を受け流しながら士郎は凛に思念を飛ばした。