Fate/Kaleid Schmetterling 作:ひでぶ
幾度かの攻防を超えて尚、遠坂凛はどうにも目の前に立ちふさがる石巌の如き“虫”を攻略できずにいた。“みんみん”と“兜”を分断するという士郎の作戦に乗ったのはいい。分断して戦うという方針に異論はなかったし、割り当てもそうなるだろうと分かっていた。それでも、士郎程ではないとはいえ凛も決して“兜”との相性がいいとは言えない。布陣を乱されないように抑える事は出来るが、決定打を与えるにはかなりの時間がかかる。つくづく骨が折れる相手だ。
「――――ふッ!」
苛立ちをぶつけるように鋭く投擲された
逆巻き、うねり、周囲の大気を貪り喰う螺旋の大蛇が咆哮した。気圧が乱れて、耳の感覚がおかしくなる。鎌首をもたげた蟒蛇は、象すら一飲みにできそうな巨大な咢を広げて“虫”に食らいつかんと飛び掛かった。
真っ向からそれと対峙する“兜”の“虫”。その身体が張りつめていく。猛々しく突き出される五つの大槍。まるで臆した様子はない。むしろ自ら挑みかかるように“虫”はその渦中へと踏み出した。
分厚い城門すら紙細工のように引きちぎり、正面から食い破るだろう激流。だがカブトムシはそれを正面から受け止めていた。強烈な炸裂音と共に竜巻が“虫”に切り裂かれて拡散し、あらぬ方向へと流れていく。呆れるほどの馬力と頑強さだ。多少踏ん張りが効かずに押し流されてはいるものの、きっちり原型を留めていられる時点で凄まじい。
「ほんっと、嫌になるわね……!」
一応、単純な攻撃性能、という点で見れば凛は”兜“をいくらか上回っている。“兜”の“虫”は典型的な分離型のソレだ。頑強かつ巨大な肉体にモノを言わせた質量と膂力による暴力。確かに、それ自体は強力であると言える。とはいえ、それはあくまでも単純な物理的攻撃に過ぎない。いくら巨大とはいえ、攻撃範囲や威力は“虫”の物質的干渉力の内に収まる。
一方、凛の場合は何でもありだ。五大元素使いの器用さは伊達ではない。火、風、水、地、空すべての魔術属性を操ることが出来るが故に、発動できる魔術の種別と能力の豊富さは他の追随を許さない。それら全てを宝石に宿るランクA以上の魔力を用いて、大魔術という形で行使できるのだから質の面でも突出している。威力に関しても家屋を数件吹っ飛ばす規模になるのだから申し分ないだろう。加えて用いる宝石を相乗すればそれは更に跳ね上がるのだ。
当然、“兜”の“虫”と言えど無防備な状態で直撃すればひとたまりもないはずだ。いくら“虫”が頑強であるとはいえ、限界がある。魔術に込められた福次効果も無視は出来まい。もっとも、これは直撃させることが出来れば、という話である。
“虫”とて木偶の棒ではない。自衛もすれば、回避もする。時に突進して突き破り、時に巨大な角を打ち振るって魔術を大幅に軽減させてしまう。結果として貴重な宝石を消費して発動する大魔術は装甲の表面を削る程度の働きしかできなくなるのである。福次効果も、元々高い霊格を持つ“虫”の対魔力によって軽減された状態では大して効力を見込めなかった。
事実、魔術による大嵐を耐え忍んでやり過ごした“虫”が、好機とばかりに地鳴りと共に肉迫する。
「……ッ」
強化した肉体の身体能力にモノを言わせて横っ飛びし、凛はそれを躱した。
大質量が通り抜けた際に巻き起こった突風にあおられて体勢を崩しかけるが、なんとか持ちこたえる。その視線の先には護衛のいなくなった“兜”の姿がある。それまで彼は自身の“虫”を盾にしながら上手く立ち回っていたが、今は完全にがら空きだ。彼女は宿主である“兜”に人差し指を突きつける。虚空を打つ銃声にも似た射撃音と共に、幾筋もの黒い弾丸が空を駆けた。
ところがそれは“兜”にかすりもしない。大柄な体格とは裏腹に、身軽な動きで撹乱しつつ弾丸の間を縫うように走り抜けていく。一朝一夕で身に付く動きではない。間違いなく分離型である己の弱点を熟知した上で、それを克服せんと訓練を積んでいるのだろう。
一応、射撃攻撃という物は距離が離れるとそれだけで著しく精度が落ちる物だ。ガンド撃ちとてそれは変わらない。元々有効射程は拳銃とあまり大差ないのだ。といってもいくら凛の狙いが甘いとはいえ、全弾回避されるとは思いもしなかった。絶好の機会を逃したことに臍を噛む。
瞬間、背後にのしかかる圧迫感。身を切る悪寒に我に返った凛は、全力でその場を離脱する。間を置かず、つい先ほどまで凛が立っていたその場をカブトムシの長大な角が貫き、薙ぎ払っていた。角がかき乱した気流に髪が暴れる。危うく挽肉にされるところである。
「――――あ、くぅぅう……! ホント、あの大きさでこの速さとか詐欺よ、詐欺ッ」
悪態が口をついて出た。
“虫”が戻ってくるのが速すぎる。慣性の法則やら何やらを無視して強引に転回してきているのではと思わせる程の機動性だ。実際そうであったとしても驚かない。
そう、凛が“兜”を相手にする上での最大の誤算が彼の“虫”の敏捷性である。巨体であるが故に鈍重であると侮った事が誤りだった。中距離からの魔術が通用しにくい事が分かった凛は一度、近距離から最大化力をお見舞いしようと試みた。ところが、その目論見は上手くはいかなかったのである。あの“虫”は決してノロマではない。最大速度だけでなく、瞬発力も備えていたのだ。一応、巨体であるが故に死角こそ多いが、回り込むことは容易ではなかった。
角を振り乱し、暴れ狂うその姿は闘牛顔負けである。まずスケールが違う。頭部を出鱈目に振り回すだけでも半円で半径五メートル程度の空間は叩き潰せる。たとえそれを掻い潜ったとしても、絶えず身を震わせる巨体に潰される危険が常に伴った。更には、石柱のような多脚の樹海を抜けねばならない。正に全身兵器。“兜”の“虫”は通常の対人技能で攻略できる規模を超えている。
それでも、“あさぎ”に格闘訓練を受けた凛ならば突破できないまでもなかったのだ。そのまま宝石を叩きこむこともできただろう。ただし難点があった。それは、接近しすぎてしまうということ。多くの攻撃を掻い潜って足の内側にまで到達し、そこで魔術を行使したとしよう。そこまでいけば当然妨害はない。“虫”の身体に直に大威力をぶつけることが出来る。
問題はそこからだ。“兜”の“虫”は巨躯であり、“虫”である以上相応の霊格があるため対魔力を備えている。ランクAの魔術ともなれば突破することは簡単だが、それでも対魔力が無くなる訳ではない。すなわち、巨体の全身に魔術がいきわたるまでに対魔力でそれなりの抵抗がされることが予想できる。元々堅固な“虫”が相手なため、わりと大きい威力のロスだ。それでも、行動不能にまで追い込むことは可能だろう。
だが、完全に行動を停止させるまでにラグが出来てしまう。“虫”にとって凛はハエのようなものだ。魔術発動で硬直している彼女等、身じろぎひとつで潰すことが出来る。“虫”が愚鈍ならば離脱も叶ったが、アレ相手にそうはいかないだろう。結局、相手を行動不能にする対価に命を捨てることになるのだ。これでは全く意味がない。実戦ですら馬鹿馬鹿しくなる戦術だというのに、訓練でとなると余計に失笑モノである。
既に宝石は五つほど消費した。内四つは予めストックしてあった分の宝石だ。それももう後一つで底を尽きる。となると“虫”を頼るしかない。凛はこの訓練で“虫”から作り出す宝石は四つまでと決めている。“凛”の負担を考えれば、そうホイホイと“虫”に頼るわけにはいかないからだ。すなわち後四つの宝石でどうにかこの場を切り抜けなければならない。
嫌に緩慢に凛に向き直ったカブトムシの刃物のような眼光が彼女を貫いた。
「さあ、どうやって料理しましょうか。あのデカブツ」
顎を伝っていく冷や汗をぬぐい、努めて軽い口調で凛は呟く。
真っ向勝負を続けるだけでは焼け石に水だ。火力で勝っている以上、弾数が無制限であればその内倒すことも出来るだろうが制限を掛けた今回はそういう訳にもいかない。自分で決めたことを曲げるのは彼女の信条に反する。
それでも、もしこれが
別に倒せなくともいい。これが訓練ということもあるが、実戦であったとしても最低限長時間行動不能にできれば実質勝ちだ。残る“みんみん”を二人懸りで叩いた後に、どうとでもできる。とはいうものの、これこそまさに言うは易いが行うは難し。動きを封じる手はなくはないが、それを残り四回の機会の内に為せるかどうかが問題だった。
いや、為せるか。などと言った弱気では届かないだろう。為す。残り四つの宝石で、勝負を決めて見せる。勢い込んでポケットの中の宝石を握りこんだその時。予期しなかった思念が凛の頭に流れ込んだ。
『遠坂、作戦がある。細かい調整はこっちでやるから、“兜”の“虫”を部屋の中央付近に誘導してくれ』
『へ? 作戦? ってちょッ――――!?』
決意に水を差すような提案に出鼻をくじかれ、思わず足を縺れさせかける。
刹那。それを見逃さなかった“兜”の“虫”が、狙い澄ましたように驀進を開始した。目に見えて巨大になっていく五本の角。身体を締め付けてくる圧迫感にすくみそうになる。押し寄せてくる壁のようなソレは、今にも閉じられんとする
負けるものか、と気力で歯を噛み締め、敵を睨み上げる。握りしめていた宝石を眼前に翳す。
「――――Azure zu reinigen《照らせ、守護の紺碧よ》……!」
瞬時に視界を覆う、澄み渡った水晶の如き守護の盾。
尊厳、崇高を担うラピスラズリによる魔術障壁である。この宝石はその特性上他者の冒涜を許さぬ高貴なる聖域を作り出す。青の浄化を併せ持つ為、こと防衛において飛び抜けた効力を発揮するのだ。仕切られた空間は神秘を纏わぬモノにとって、もはや疑似的な不可侵領域と化すといっていい。純粋な硬度のみでは、あの猛進を受け切れない。となるとやはり概念的な防御力を上乗せする他なかった。
大空間を揺るがす両者激突の余波。
清浄なる聖域に、粗暴な巨獣が無遠慮に踏み入らんとする。
決して揺るがぬはずの優美な盾に、荒々しく凶器が突き刺さった。大きく跳ね上がり、後退する障壁。滑らかな表面に白いひび割れが迷走し、ぎしぎしと苦悶の呻きを上げる。凛の顔に僅かに狼狽の色が差した。
なんて馬鹿力。驚きを通り越して呆れ返る。いくら“虫”が神秘を纏っているとはいえ、外敵干渉を撥ね退ける概念を宿した盾を貫通しかねない程とは。これなら確かに、ランクAの魔術が大幅に減退させられるのも頷ける。もしかすると“兜”の“虫”は単純な物理的破壊力だけなら高位号指定に匹敵するかもしれない。この上に何か強力な特殊な能力を宿されていたら詰んでいただろう。
今にも崩れそうな盾を放棄して、凛はその場からすばやく脱出する。
楔を失い脆くなった盾を粉砕した“虫”はしかし、大きく勢いを殺されて彼女を捉えることは適わなかった。
その姿をしり目に、凛は駆け出した。
いずれにせよ、このままではいたちごっこだ。ならば策があるという士郎の言葉に乗るべきだろう。気取られぬよう、距離をとると見せかけて大きく迂回しながら部屋中央に誘導していく算段を組み立てていく。
そこに、やや切迫した様子の声が頭に響いた。
『遠坂、無事か……!?』
『ええ、なんとかね。とりあえず、今から誘導を開始するけどこっちはそれで手一杯。タイミングを合わせるって言葉は信じていいわね?』
『ああ、やって見せるさ。ッ……!』
士郎の思念にも余裕はない。
痛みを噛み殺すような声色をしている。相応に苦戦しているのだろう。だが彼の返答に迷いはなかった。それはこの先にある勝利を確かに見据えているからか。
一拍置き、かろうじて持ち直した様子の音声が発される。
『――とりあえず用件はそれだけだ。任せるぞ』
『任せなさい。やられっぱなしは性に合わないの、私』
不敵に言い放つ凛。
大体にして、士郎は他人を頼るということがそうそうない。
彼は自分で出来ること、やらねばいけないことを一人で背負いこもうとする悪癖がある。一応、人命が関わらないかぎりは、できない事はやらないし断わったりできることは知っている。それでも相手から提案されないかぎりは、他者に頼ることを一歩遠慮している節がある。その彼が信頼して任せてくれたのだ。やり遂げてやりたいと思うのが人情だろう。
『ありがとう、遠坂。互いに最善を尽くそう』
士郎が心なしか柔らかい口調で謝意を告げ、念話を終えた。
不器用だが、最大限の真心が籠っている。何故だかそれだけで奮い立てる気がしてきた。追い立ててくる重圧。それに目を向けながら、強固な意志でもって凛は啖呵を切る。
「――――さあ、来なさいデカブツ! 丸焼きにしてやるわ!」
凛との念話を切った士郎は、もはや何度目か分からない蝉の突進を捌きながら徐々に部屋中央に向かって後退を始めていく。あくまでも威力に押されて踏みとどまれなかった風を装いつつだ。といっても酷使し続けた身体は現実に悲鳴を上げている。が、動くのだからまだ問題ないだろう。
足元も不確かな様子でよろめいて後退していく士郎。それだけでみんみん”は獲物が音を上げたと勘違いしてくれたようだ。彼女のプライドが高い事が幸いした。彼の変化に何の疑問も抱いていない。現に意気揚揚と追撃をかけてきている。それにとどまらず、正面からの攻撃で彼が吹っ飛んでいく事に気をよくしたのか、攻撃のルートも前方周辺に集まりつつあった。おかげで幾分、対応が楽になっている。“兜”ではこうはいかなかっただろう。
「ッァぐ……!」
瀑布のような連撃に揉まれながらも着実に後ろに下がっていく。
凛とは念話こそ切ったが、パスの回線は開いたままにしてある。それで自身と彼女との距離感はある程度把握できた。念を押して、時たまあえて大げさに弾き飛ばされることで随時背後の空間を確認していく。凛も上手くやっているようだ。東西に綺麗に分断された戦線が近づきつつある。士郎は位置関係の把握に平行して、後何撃受ければ中央部に到達できるか計算を行っていく。
結論として後五度。自然な速度で中央部に辿り着くにはそれだけの攻防が必要だった。凛もそれなりに持ちこたえているがこの分だと、彼女の方がやや早く中央線を越えるだろう。流石にそうなると冷静な“兜”の目はごまかしきれない。中央付近まではまだ互いに分断されていると言える状況だが、そこを過ぎればもう混戦と言って差し支えない状況になるからだ。
しかもタイミングよく士郎と“みんみん”も後退してきていると来た。これまで確固撃破の体勢を保ってきた士郎と凛の動きからすれば明らかに不自然だと思うはずだ。いや、もしかすると既に感づいているかもしれない。となると、多少強引にでもこの機会にまとめて轢き潰すのを狙っていると考えた方がいいだろう。
それでも、やるしかない。このまま受けに回っていては、真綿で首を絞められるように緩やかに負けに近づいていくだけだ。ならば可能性が低かろうが少しでも勝ちの目がある方策を選ぶべきだろう。“兜”がこちらも潰しに来るというのならそれを踏まえた上で動くだけの事。タイミングは此方で測ると凛に大見得を切った以上はそれくらいやって見せねばならない。
士郎は漏れそうになる弱音を噛み殺し、強気な笑みでそれを上塗りした。
「……やっぱり、“あさぎ”と比べるとまだまだだな。これじゃあ土師も“あさぎ”を重宝する訳だ」
士郎はこれ見よがしに小馬鹿にするように鼻を鳴らしてみせた。彼女の性格上、追い詰めている筈の相手から挑発されればまず間違いなく嚇怒を露わにしてくるはずだ。この上、“みんみん”は“あさぎ”に執着しているようだった。いや、“あさぎ”というよりは土師の評価に固執している。なので今回はそれを利用させてもらう。
どう見ても強がりだが、今は口八丁でもなんでもいい。付け入る隙を作り続ける必要があった。彼女に冷静になられたら“この作戦”は終わりだ。どうせなら一気に周囲が目に入らなくなる程度に怒っていてもらおう。が、この挑発。どうやら士郎が思っていた以上に効果は覿面のようだった。
“みんみん”の表情から色が消える。一瞬にしてのっぺりとした人形のような面持ちに変化していた。大時化の前に来る、一時の凪のようなその間隙。少々やり過ぎたか、と士郎が後悔するより早く、
「くっ……!」
容赦なく撃ち込まれる“虫”の砲弾。
感覚と思考の天秤を崩しかねない暴力の狂騒。一撃、二撃と懸命にそれを逸らし、受ける振りをして大きく飛ばされていく。そこまでは狙い通りに運んでいた。弾道は完全に読めていたので不可能なことではなかった。だというのに、三撃目。
「――――――――ッぎ、ァ……!」
流し損ねた。
ソレは些細な判断の狂い。ここに来て度重なる爆音と衝撃による感覚の麻痺の弊害が表面化した結果だった。刀身での防御を打ち抜いて、胸部が爆撃めいた凶弾の炸裂に見舞われる。胸から背中を一直線に駆け抜ける稲妻。目から火が出る。居眠りをこいていた痛覚が思い出したかのように暴れ出す程痛烈な目覚ましだ。熱い何かがこみあげてきて、唇を割って零れていく。
遠くへ消えていくそれを見送りながら、士郎はぼろ屑のように床を転がっていく。この一発で二撃分以上は飛ばされただろうか。頭の中は水門が決壊したかのごとく痛覚の洪水に浸っている。痛みしか感じない。もう今までのような冷静な思考は困難だろう。思考も視界も真っ赤になって、ひたすらに頭に割れんばかりの警鐘が鳴っている。横たわった体は川原に打ち上げられた残骸みたいなモノで、起き上がれば崩れるのではとすら思えた。
いや、むしろよくここまで持ちこたえたというべきか。あれだけ打ちのめされて尚、粘れていたことこそが異常である。あの攻防は判断を誤れば死に直結する、極限状態の綱渡りのようなモノだったと士郎は十分に理解していた。だからミスをした以上この状態は当然の帰結なのだ。
所詮は訓練、このまま倒れていればわざわざ止めを刺してくることはないはずだ。ならば、伏して震えていればいい。もし懲りずに起き上がればそれが最後。“みんみん”は怒りに任せて今度こそ士郎の身体を砕くだろう。
――――それでも、まだ動く。
幸か不幸か。投げ出された手足はまだ、手足としての機能を失っていない。捻じれてもいなければ、折れてもいない。剣も未練がましく握られている。なら、まだやれる。痛みなど堪えればいい。身体が動くのなら、いかようにもやりようはある。
普通なら訓練にそこまで必死になることもない、と思う所なのかもしれない。だが、それは逃げだ。訓練だからと言ってこのまま倒れているような奴が、実戦で立ち上がれる筈もない。強敵を下す前に、まずは弱い己を打倒せずしてなんとする。立ち上がれるなら、歯を食いしばって立ち上がる。剣が握れるなら、腕が折れてでも振りかざす。戦意が折れぬ限り、負けていない。
咥内の血を嚥下し、痙攣し動かす事も億劫な手足に活を入れて身を起こす。
脚はもはや軟体動物のそれのように情けなく、がくがく揺れて真っ当に力も入らない。血が巡る度に、全身に杭を打ち込まれているかのような痛みが走る。呼吸も、真空を吸っているみたいだった。手ごたえがあまりない。呼吸器系がいかれているのかもしれない。その中で唯一、痛みで潰されているにせよ、共振波で乱れていた真っ当な感覚が戻っているということが救いだった。
「まだ立つの? 訓練だし、そのまま寝てれば見逃してあげたのに」
どう見ても死に体の士郎を“みんみん”は酷薄な目で一瞥し、嘲笑した。
それでも士郎は彼女の目を睨み据え、決して視線を逸らさない。まだ負けていない、と。挑みかかるその眼差し。それは何よりも凛の信頼を裏切り、倒れたまま見逃されようとする己の弱さを射殺さんとするモノだ。その行動が何か彼女の琴線にふれたのか、敵意が殺意に切り替わる。
彼女の傍らに舞い降りた”虫”が翅を展開し、
「――――アイツみたいでムカツク。潰れちゃえ」
抑揚の無い命令の下、撃ち放たれる“虫”の砲丸。
合わせるように、士郎は離脱を図る。だが弱り切った身体では当然、避けきれる訳もない。元々、蝉の方が跳び退る士郎の何百倍も速いのだ。そんな中、士郎の目指すところはただ一つ。五撃目で彼が到達するはずだったポイントだ。三、四回目の分と少しは先の突貫で吹き飛ばされた時に既に超えている。故にそこまではあともう一歩という所だった。
彼の右後方にはパスから伝わる感覚が凛、そして聴覚が部屋を震撼させる暴虐の主が近づきつつあることを知らせている。タイムロスのせいもあって、やはり凛達の方が一足早いようだ。そしてこのままだと士郎がポイントに付くより早く蝉が彼を穿つだろう。
嫌に、時間の流れが緩やかに感じられる。
足が思うように動かないのがもどかしい。十全の状態ならば、紙一重の差で一足早く士郎がポイントに到達できただろうに、今は水の中を進んでいるようだ。痛みで体が各関節からバラバラになってしまいそうだ。バランスを崩して転がりそうになるのを堪えて床を蹴る。
到底間に合わない。タイミングがかみ合わない。それではだめだ。この一瞬、この作戦が上手くいかなければ全て終わる。となると、凛に言って見せたように強引に合わせられる状況を作り出すしかない。
「――――――――」
既に目前に詰め寄った蝉から目を離し、視線を右後ろに流す。
士郎から約十数メートル程度の距離に大気を掘り進むように突撃する“虫”の巨影。その進路の先に蝶々が零した宝石を掴み取り、華奢な身体で立ち向かわんとする凛の姿があった。状況は混戦寸前だ。もし“虫”が瀕死覚悟で強引に凛の魔術を突破したならば、そのまま彼女を踏みつぶして角を振るうだけで近場にいる士郎も薙ぎ払えるだろう。“兜”なら間違いなくそれを狙ってくるに違いない。
作戦はとっくに狂っている。
位置取りもいいとは言えない。
それでも、今やれる全力は尽くすべきだ。
神経を研ぎ澄ませる。痛みも、疲労も、焦燥も、よけいなものはすべて切り落とす。己を一つの意志で染め上げろ。幾度も繰り返してきた自己の制御、難しいことはないはずだ。必要な物は、ただ当てるという意志のみ。結果は後からついてくる。狙うは、“虫”の右前脚の第二関節。右腕を水平に振りかぶり、
「はぁあっ……!!」
振り抜いた。
半円を描き、滑るように飛翔する雹桜。
その成果を見届けることはない。短刀を放つのと同時に、士郎は左腕の鵠紅で蝉を受け流しにかかる。鵠紅の剣先が雹桜を見送るような位置に向けて構えられた。
これは博打だ。離脱し続けた挙句、投擲を行った為に体勢は劣悪。無論、剣は一本のみ。その目は後方に流れ、蝉の姿を収めてすらいない。無謀極まりない暴挙である。何もかもがぶっつけ本番。成功確率すらオーバーヒートした頭では算出出来ていない。むしろ、出来ていないからこそこんな策を強行したのか。
それでも、直前まで目に焼き付けておいた“虫”の姿と、“みんみん”の直情的な性格から読める、ソレが着弾するであろう軌道の予測を士郎は信じた。無謀であろうと、勝てる確率が高い選択をする。なにも出来ずに後悔して終わりたくはない。
「ご、ぁぎィ――――!」
士郎が目線を戻すより先に、殴りつける衝撃。
ソレは彼の読みと寸分たがわず短刀の根元に訪れていた。この時ばかりは士郎も自身を称賛したくなる。しかし問題はここからだった。左腕が負荷に耐えかねて暴れる。もとより反り返った上半身では、とてもではないがこの勢いを受け切れない。足も棒のようでまるで用をなさない。
分かり切った事だったが、完全に受け流すことなどできはしないだろう。泥で造った滑走台でシャトルを送り出そうとしているようなモノである。間違いなく、重量と加圧に耐えかねて泥のレールは崩壊する。
――――それがどうした。
崩壊しようがなんだろうが、彼からすれば一度でいいからレールの役割を果たせれば万事解決である。盛大に吹き飛んでやろう。ただしその代り、意地でも蝉には狙った座標に飛んでもらう。
「っぁぁぁぁあああああああああああああ!!!!」
吐き出される絶叫。
再三胸で爆発する砲弾に士郎の視界が真っ赤に染まった。
肋骨が逝ったかもしれない。特環のコートを着ていなければ内臓も全滅だっただろう。それは右腕の短刀代わりに胸板で刀身を支え、決してズレないように構えたせいだ。とはいえその成果もあって、景気よく刃の礫条の上を“虫”が滑っていく。
その先には突進する最中、右前足に異物が突き刺さり、つんのめって盛大に横転したカブトムシの姿がある。余すことなく全力をつぎ込んだ蝉の砲弾はその勢いを全く削がれることなく、起き上がろうともがく“虫”の背面に突き刺さった。
大地震が起こったような振動が訓練室を揺すった。
遠方で遠雷のような苦悶の唸りが上がっている。多少経緯にずれはあったが、事は成った。宙を舞い、床に叩き付けられて起き上がることもままならない士郎は、それでも唇の片側が持ち上げる。
士郎でも凛でも“兜”の甲殻を正面から突破することは難しい。ならば、突破する可能性を持つ第三者にやってもらおうと考えたのがこの作戦だった。幸い、“みんみん”は激情家で見境をなくさせることは容易かった。故にこの作戦は初め、中央まで両者を引き付けさせた後、勢い余らせた“みんみん”の攻撃をかわして“兜”に命中させるという物だった。
比較的安全に事を進めるつもりだったのだが、どうにもうまくいかないモノである。“兜”を仕留めることは出来たが彼もこの様だ。まあ、あの様子では“みんみん”も無事ではあるまい。視線だけ動かしてその結末を見届ける。案の定、ノックアウトされたカブトムシとソレに埋まって動けなくなった蝉が一緒くたになって氷づけにされていた。死んではいないだろうが、完全に行動不能だ。凛が上手くやってくれたようである。
残すは宿主二名。勝負あった。
安心した所為か、一気に瞼が重くなる。
訓練だというのに少しやりすぎたかもしれない。後悔はしていないが、凛に説教される事請け合いだろう。そんなことを考えながら、甘美な睡魔の声に誘われて士郎は眠りに堕ちて行った。
結局、士郎が目を覚ましたのは翌日の朝で、特環の治療室の中であった。
起きた瞬間から凛の小言が始まり、耳を痛くした。
しかし自身はそれなりに重傷だったと思っていたのだが、ある程度調子が戻っていた事に彼は驚いた。それは凛曰く彼女の治療魔術と、遠征してきていたという治癒能力者のおかげであるらしい。反省もかねてその日の一昼夜は安静にしていろと言いつけられベッドでおとなしくしていることになった。が、見舞いに来た“あさぎ”は昨日の訓練の結果にいたくご満悦のようで、
『うむ、訓練は実戦のように、実戦は訓練のように。よくわかっているではないかー。多少“行き過ぎた”面があるコトも否めないが、ボクはキミのその精神性を評価するよー』
などと愉快そうに喉を鳴らしていた。
その目に僅かに怪しげな光が宿っていたように感じたが、彼の気のせいだと思いたい。
ともあれこの調子なら翌日からは訓練に参加できそうで何よりである。号指定中堅相手に訓練で一本取ったからと言って自惚れてはいられない。あんな作戦は二度目には通用しないことは分かり切っている。地力でも拮抗できるように日々練磨をしなければいけないというのに、いつまでも寝たきりではいられないのだ。より強くならねばならない。そう、ならなければいけないのだ。
さて、この話を読んで、
”兜”と”みんみん”の”虫”強過ぎね? と思った方々、彼らは強いんです汗
一号指定がぶっ飛び過ぎているだけで号指定中位も大概なんです。
少なくとも、能力に制限かけている士郎と凛が真っ当にやって勝てる相手ではない。
とはいえこれでも強くなってるんですよ、士郎と凛。地力がだいぶ上がってきております。それでもまだ焦っている士郎。この二話の間、結構突飛な行動に磨きがかかっている彼ですが理由があるのであしからず。今後に期待してください。