Fate/Kaleid Schmetterling   作:ひでぶ

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第十話 共鳴

 個性的なメンバーと終日訓練漬けのまま五月も半ばを過ぎた。実に刺激的な毎日を送っていたのだが、休息も訓練の内であるとする“あさぎ”の方針よって恒例の休日がやってきた。週半ばの水曜日。たまの休みだ、有効に使わねばなるまい。

 

 しかし、最近はどうにも夢見が悪い。内容自体は覚えていないが、朝目覚める度胸をかきむしりたくなるような不快感を覚えるようになっていた。また火災の夢だろうか。ここ数年はそこまでぶり返す事もなかったのだが、どうにも近頃はひどい。そういった事情もあって、穏やかな時間という物は貴重な発散の機会となる。

 

 その意味合いもかねて、士郎は朝、この広い洋館の掃除に努めていた。まあ、青少年のストレス発散法としてはどうかと思うが、身辺がきれいになると気持ちまで爽やかになれるのは確かな事だ。第一、訓練に明け暮れていると大がかりな作業やごみの整理が出来ない以上、仕様のない事でもある。

 

 その際、生活用品の残数を確認した士郎は愕然とした。食材に関しても、朝食をとる際に冷蔵庫の中を確認して肩を落とす羽目になった。昼食の分はどうにかなりそうだったが、夕食分には圧倒的に足りていない。

 

「という訳で買い物に行こうと思う」

「これまた突然ね、アンタ」

 

 中央棟二階ラウンジのソファに身を沈めてテレビを見ていた凛が、ものぐさに目を細めて戸口に立つ士郎に視線を投げてくる。そんな顔をされても、士郎としては渋り顔で頬を描くしかない。

 

「突然も何も、訓練ばかりで普段は買い物に行く余裕が無いんだから仕方ないだろ。ってことで昼までには帰ってくるから留守は頼むぞ」

「ちょっと待ちなさいよ、私も行くわ。別に買い物が嫌なわけじゃないから。脈絡もなく買い物行くって言われて戸惑っただけ」

 

 ぼやきながら凛が腰を上げる。

 センターテーブルの上のテレビのリモコンを手に取ってテレビの電源を落とすと、彼女はさっとこちらに向き直った。気を遣ってくれたのだろうか。だとすれば気にすることもないのだが。

 

「無理に付き合わなくてもいいんだぞ? テレビ見てたんだろ?」

「だから、買い物が嫌なわけじゃないの。テレビだって暇だから見てただけだし。私だって日用品に入用なものくらいはあるから」

「入用のモノ? 生活用品や食材は今朝ある程度見ておいたから俺が買ってくるぞ?」

 

 それの確認もかねて彼は午前中の掃除をしていたのだから買うべきものは頭に入っている。

 しかし凛の方は若干頬を赤らめ、どこか険のある表情で士郎を睨んだ。

 

「……あのね。化粧品とか、下着とか、そう言ったモノまで士郎が買ってきてくれるの?」

「あー、いや、その。すまなかった」

 

 声が尻すぼみに小さくなっていくのを感じながら謝罪する士郎。

 どうにも、こういった事には疎い。というよりも慣れない。彼としてももう少し気を利かせられるようにはなりたいとは思うのだが、こういった機敏は相変わらずわからないままだった。

 大きくため息をついた凛が、足早に歩み寄ってくる。

 

「とにかく、行くならさっさと行きましょう。ここでこうしていても仕方ないでしょ」

 

 すれ違いざまに告げながら、凛はラウンジの戸口をくぐっていく。

 買い物に行くと切り出しははずの士郎が慌ててその後を追う事になった。

 

 

 買い物の行き場所は定まっている。桜架市の中央駅前のデパートだ。一応、駅の西側には広大な商店街が広がってはいる。しかしその広さ故に、日用品やらなんやら食材やらを揃えようとなると店舗間の間をそれなりに歩くことになる。その為、掘り出し物や逸品物を見つけに行くことや遊びに行くには最適の場ではあるものの、純粋な買い物には向かない。かといってそこよりさらに西にあるショッピングモールに行くのも遠すぎる。その点、駅前デパートは小規模ながらも必要なものがコンスタントにまとまっているのが魅力である。

 

「士郎も随分この街になれたわね。最初は買い物するための場所を選ぶのにも時間がかかっていたのに」

「そりゃ、ひと月も暮らしていれば慣れるさ。第一、買い物の効率を良くできれば時間が浮くし、労力や心労も和らぐからな。生活の知恵だろう」

 

 士郎とて伊達に幼い頃から家事炊事すべて一人でこなしてきたわけではない。

 いつまでも買う場所を見定められないような自炊初心者とはわけが違う。

 

 士郎の返答に凛はそれもそうか、とあっさり納得を示す。

 

「アンタほど主夫根性しみついてる男も稀だしね。慣れてなかったら逆に怖いわ」

「そこはかとなく馬鹿にされてるような気がするな」

「訳ないでしょ。呆れてるのよ」

「遠坂、お前な……」

 

 士郎は思わず口元を引きつらせる。

 肩が落ちそうになるのを堪えながら歩道を歩いていく。駅近くは繁華街に近い。人や車の往来が多い上にカチカチの地面や建物ばかりである。熱が籠りやすい環境が出来上がっていた。五月も半ば、照りつける陽光が眩しい。春初頭の守り包み込むような陽気から、自立を促すかのごとく急き立てるような日差しに代わりつつある。それでもまだ湿度が低いのが救いどころなのか、汗はかいていない。

 

 既に目前には桜架市の中央駅が見える。目的地のデパートは駅の北側にある。その為、南側からやってきた士郎たちは駅の広場を横断していくのが近道だ。数段の石階段を上って広場に足を踏み入れる。

 

 駅の広場は人で賑わっている。水曜日とはいえ昼前なのだから昼食を求めて出歩く人が多いのだろう。活気があって当然とはいえる。そんな広場を通り抜ける最中、士郎は一際目を惹く人物が駅の構内からこちらに向かってくるのを見つけた。

 

「あれ、あの子って……」

 

 目を凝らしてよく観察する。

 徐々に近づいてくるのは、どこかの高校の制服、ブレザー姿の少女である。その隣には同じく制服姿の、顔に絆創膏を貼った黒髪の少年。その制服自体はたまに見かける事があるので、この地域のどこかにある高校の生徒なのだろう。問題は彼女たちがどこの生徒であるかではない。二人の高校生の内、少女の方に士郎は見覚えがあったのだ。

 

 肩にかかる程度まで伸ばした赤みがかった黒髪に、小顔を引き立てる若干釣り眼気味の大きな黒目。線が細く、すらりとした体型をしていながら、弱弱しさを全く感じない颯爽とした足取り。その鮮やかさは見間違えることもない。数週間前に不慣れな商店街で道に迷っていた士郎を案内してくれた少女である。

 

 まあ、彼女は覚えていないかもしれないが、アレはそれなりに印象に残っている出来事だった。できればお礼がしたいところではあるが、もし向こうが覚えていなければ知らない男にナンパをされたことも同然になる。迷惑をかけることになる上、連れがいるようだ。士郎にも今は凛がいる。少し心残りだが、このまま気が付かなかったふりをして通り過ぎた方が吉だろう。ところがそう考えた矢先、少し凝視が過ぎたのか。視線を上げた少女と目がばっちり合ってしまった。

 

「――あっ」

 

 声が漏れる。それは少女も同様のようだ。毅然とした彼女には似つかわしくなく、間抜けにぽかんと口を開けて士郎を見返してくる。

 とはいえそれも一瞬。ぱっと顔を輝かせた少女は、隣で困惑する少年を余所に真っ直ぐこちらに向かってくる。その様子からして、どうやら少女はばっちり士郎のことを覚えてくれていたようだ。それ自体は嬉しいのだが、流石に疑問に思ったのか、凛が訝しげに士郎の顔を覗き込んできた。

 

「ちょっと、なんかあの子。ものすごい良い笑顔でこっちにむかってくるんだけど。ひょっとして知り合い?」

「あー、知り合いと言うかなんというか。道案内をしてもらった事がある」

「道案内?」

 

 小首をかしげる凛の問いに答えようとしたが、その前に間近までやってきていた少女の声に遮られた。

 

「こんにちは。すごい偶然ね、お兄さん」

「ああ、そうだな。まさか本当にまた会うことになるとは思わなかった」

 

 隣の凛から向けられる不穏な視線に耐えつつ、士郎は頷いた。

 しかし漠然ともう一度会えるかもしれないとは思っていたが、そんなものは大抵思っているだけで終わる物だ。だというのにまさか本当に実現することがあるとは。

 少女はまごついた様子の士郎に屈託のない笑顔を浮かべた。

 

「そう? 私はあの時からまた会えるんじゃないかって思ってたわ」

「そりゃまた、とんでもない預言者だな。でもまだ昼前だぞ? 高校生が何で平日のこんな時間に駅にいるんだ?」

「今日はテストだったから、学校は早く終わったの。それが思わぬ収穫だったわ」

 

 活き活きとした声色で少女は語る。実ににぎやかで華々しい。

 が、どうにも時たま突き刺さってくる凛の視線が痛くなってきたので士郎は切り出した。

 

「遠坂。彼女はこの前ショッピングモールに買い物しに行く途中、商店街で迷っていた俺に道案内してくれた子だ。名前は……。聞いてなかったなそういえば」

 

 今更ながらに士郎は自身の間抜けっぷりを思い出してうなだれそうになる。

 申し訳ない心境になりつつも少女に改めて名前を聞くことにした。

 

「少し遅い気もするけど、名前はなんていうんだ?」

「立花利菜。桜架東高校の一年生になります。よければ覚えてくださると嬉しいです」

 

 少女、利菜が優雅に一礼した。

 先ほどまでの気さくな姿とは変わって楚々とした振る舞いである。だというのに、無理をしている印象は一切受けない。堂に入ったその所作は深窓の令嬢のようだ。この場が社交界の場であっても気にならないのではと思わせるほど自然体。どうにもつかめない少女である。

 とはいえ、自己紹介されたからにはし返さなければ無礼だろう。

 

「俺は衛宮士郎。こっちは遠坂凛だ」

「よろしく。その節は衛宮君が世話になったみたいですね。ありがとう」

 

 士郎に手で示された凛が淡く微笑みながら会釈した。

 流石に遠坂凛。初対面の人間に対する猫被り、もとい優等生ぶりは健在か。簡潔な言葉の内容だが、それが逆に余裕のある雰囲気を醸し出す。なんというか、仄かに香る艶のようなモノがある。利菜の方も年の割には大人びているが、まだ少女性が強い。瑞々しく甘みがあるが、それ以外はまだ薄いといったところか。

 そんな、やけに親父臭い方向にそれていった雑念を士郎は軽く頭を振って打ち切った。

 

「いえ、大したことはしてません。気にしないでください」

 

 利菜ははにかむように言った。

 次いで、彼女は士郎を仰ぎ見ると、一瞬考え込むような仕草をとった。

 

「それで、えーっと。士郎さんでいい? それとも衛宮さん?」

「ん? あー、そうだな。呼びやすい方でいいぞ」

 

 どうやら呼び方に悩んでいたようだ。年下の少女にさんを付けて呼ばれることなどあまりなかったため、士郎はどうにもくすぐったい気持ちになる。だがお構いなしといった様子で、利菜は悪戯っぽく目を細めた。

 

「じゃあ士郎さんで。そちらの方は凛さん、と呼んでも構いませんか?」

「お好きなように。あまり堅苦しくしてもなんだしね」

 

 首肯した凛に、利菜がありがとうございます、と告げている。

 まあ、この流れからして今度は彼が呼び方を尋ねた方がいいのだろう。

 

「俺たちはなんて呼べばいいんだ? 立花でいいのか?」

「好きに呼んでくれていいわ。こっちは年下なんだし」

「まあ、それもそうか。じゃあ立花で」

 

 利菜自身は好きに呼べ、とはいう物のやはりいきなり下の名前で呼ぶのはマナー違反だろう。第一、凛を呼ぶときと同様にこの少女を下の名前で呼んでいる彼自身のイメージがわいてこないのが問題だ。

 一方、凛は優等生ぶりを崩さないままに告げた。

 

「私は立花さんって呼ばせてもらうわ」

「む、凛さん。それじゃあ堅苦しいんじゃないですか?」

「そうかしら、こういうのは形式じゃなくて中身だと思うけど」

 

 不満そうな利菜に、凛が髪を掻き上げた。

 とはいえ、堅苦しいのもなんだし、と凛自身が語ったこともあって強く反論する気も起きなかったのか。軽く肩を竦めた彼女は代替案を出した。

 

「ま、いいわ。貴女相手だとそこまで気を遣う必要なさそうな気がするし、利菜って呼ばせてもらおうかしら」

 

 途端に砕けた調子になり始めた凛に、士郎は僅かに目を見開いた。

 まさか、凛が初対面に近い人物にこうもあっさりと地を出すとは。魔術師や虫憑きといった外れた者が相手の場合を別にすれば、そうそうみられることではない。驚くべきはその直感か。一度利菜と接してある程度その人柄が分かっている士郎から見て、彼女たちは似通っている部分がある。凛にはそれがなんとなく感じ取れたのだろう。

 ところが利菜はその様子にさして驚いた風もなく笑いかけた。

 

「よかった。隠し事をされているみたいで少し気になって。せっかくの機会だもの、どうせならちゃんとお話ししたくて」

 

 どうやら、勘が鋭いのは凛だけではなかったらしい。

 恐ろしいまでの察しの良さに士郎は舌を巻く。これが“女の勘”と言う物なのだろうか。聖杯戦争の折、かつて彼に付き従ってくれた少女騎士も未来予知じみた直感をもっていた。女性のフィーリング力の高さには毎度驚かされるばかりである。

 

 凛は目を瞬かせて利菜に問い返した。

 

「私と?」

「ええ。士郎さんが前私に聞こうとしていたことも気になりますし。次会った時にちゃんと答えるって約束しましたからね」

 

 どこか意味深な表情で利菜は士郎の顔を覗ってくる。

 確かに、別れ際にそんなようなことを言っていた覚えがある。あの後買い物やら何やらいろいろあったために少しばかり曖昧ではあるが。そこまで考えて、彼もまた少女に約束を取り付けていたことを思い出す。それを口にしようとした時、

 

「なあ、立花さん。俺、帰っていいか?」

 

 という声が割って入った。

 声の方向に士郎と凛、そして利菜の三人が目を向ける。すると、利菜から半歩ほど後ろに下がった位置に肩身が狭そうな。それでいてどこかへそを曲げているようにも見える少年の姿があった。話し込みすぎて忘れていたが、利菜と共に駅の構内から出てきた高校生である。

 

 同年代の中でも身長は平均ぐらいだろう。髪は黒色で、長すぎも短すぎもせず、パーマをかけている訳でもなければ、整髪料の類で整えている様子もない。顔つきもやや童顔なくらいで、これといった特徴はない。目につくものは頬にはった絆創膏くらいか。着飾って髪を整えればまた印象も違うのだろうが、現段階では普通と言う言葉がとても似合う人物だ。利菜とは好対照なタイプである。

 

 だが利菜はにべにもなく少年の意見を却下する。

 

「ダメよ、薬屋」

「なんでだよ」

 

 端的に、実にめんどくさそうな顔で薬屋と呼ばれた少年が問う。

 揃って駅の構内から出てきたことから仲の良い友人なのかとも思ったが、どうにもそんな様子でもない。この分だと利菜に絡まれていただけなのだろうか。

 

 しかしこの少年、中々律儀な性質のようだ。本当に帰りたがっているのは表情や声色で一目瞭然だった。だというのに、黙って帰らずに一言声を掛けたことから彼の心根がうかがえる。わざわざ呼びかけなければ利菜に引きとめられることもなかっただろうに。

 

「一度アンタに聞いてみたいことがあるのよ。付き合いなさい」

「付き合えって、おかしいだろ。その人たちと俺は何の接点もないんだし、迷惑に決まってるじゃんか」

 

 苦々しい表情で、薬屋はもっともらしい意見を言う。

 とはいえ、士郎と利菜にはそう大きな接点があるわけではない。凛に至っては無いに等しい。利菜との接点に関して言えば同じ高校に所属している彼の方がはるかに強いと言える。ここから考えて、むしろ邪魔なのは士郎たちの方の筈だ。まあ、こんなことは少年をほっぽり出して利菜と会話にふけってしまった以上、今さらな気もするが。

 とりあえず、これ以上広場で押し問答しても仕方がないだろう、と士郎は先ほど遮られた言葉を告げるために口をはさんだ。

 

「そういえば、前食事をおごるって話をしたよな。立花と、薬屋だっけ。昼食はとったか?」

「まだ。午前中に学校が終わったから帰ってから食べるつもりだったわ」

 

 士郎が言わんとしていることが分かったのか、利菜は花が咲いたような笑みを浮かべた。薬屋の方も渋々と言った様子だが答える。

 

「……俺もまだ食べてはいませんが」

「俺たちもまだなんだが、今からどうだ? 二人の分は出すから、話ならそこでまとめてすればいい」

 

 ある程度落としどころにできるのでは、と思える提案をする。

 凛が隣で大きなため息をつく気配がした。が、次会った時に前回の礼をすると士郎は決めていたのだ。こんな偶然がまたある可能性が低い以上、ここで恩人に不義理はしたくないと彼は思う。

 

 士郎の提案を受けて、利菜が声を弾ませた。

 

「私は大丈夫。薬屋もいいわよね」

「は? いや、俺は……」

「いいから、他人の好意は受け取っとくモノよ。で、場所はどうするの?」

 

 講義の声を上げようとする薬屋をまるで顧みず、利菜は尋ねてくる。

 どうにも既視感を覚えるその光景に、士郎は微笑ましい気分になりつつも返す。

 

「まだ越してきたばかりで美味しい店はまだあまり知らないんだ。地元になじんだ立花のチョイスにまかせていいか」

「本当? この近くにデザートが美味しい喫茶店があるのよね。案内するからついてきて」

「っておい、こらっ! 離せって!」

 

 喚く薬屋の袖をつかみ、嬉々とした様子で利菜は彼を引っ張っていく。

 その花々に囲まれた蝶々のような活き活きとした有り様からして、薬屋と言う少年と彼女はそれなりに相性がいいように思える。思いつめた様子で彼氏を作る気は無い、と語っていた利菜の姿が思い起こされるが、彼と接している時はソレが杞憂に思える程の天真爛漫さだ。

 

 先を行く二人に遅れまい、と士郎は足を踏み出そうとして、動く気配のない凛に目を向けた。

 視界に収まった凛は、お茶くみする猫でも見たかのような奇妙な顔をしていた。が、すぐにとてつもなく底意地の悪い笑みに染まる。その視線の先には薬屋がいた。おおかた、彼の振り回されっぷりをみて新しいおもちゃが出来たとでも考えているのだろう。

 

 それは士郎自身がいつも体験している立場なだけあり、少しばかり薬屋に同情を覚える。とはいえ、気にしたところでこのあかいあくまを止められる訳でもない。適度にフォローを入れる事しかできないだろう、と半ば諦観を覚えつつ士郎は利菜と薬屋の後を追った。

 

 

 

 利菜に案内された喫茶店は、駅からさほど離れていない大通りから一本内側に入った場所にあった。木造の一軒家の店舗で、ロッジのような小洒落た趣の店である。店の入り口の横手には踊り場で出来たカフェテラスが張り出しており、日に当たりながら優雅に午後の紅茶で喉を潤す幾人かの客の姿があった。一見するとかなり高級志向の店に見える。

 

 店内も落ち着いた雰囲気であり、正面には通路があってその左手には木製のカウンター席が、右手側にはテーブル席が並んでいる。鼻孔をくすぐる芳しいコーヒーの香りとジャズ調の音楽が上手い具合にアクセントを加えていた。平日の昼時なだけあってそれなりに客の入りは多いようだ。とはいえ、待たされるほど混んでもいなかった。

 

 しかし、どうにも変な縁があるのか。カウンター席の奥の丸椅子に見覚えのあるカソック姿の女性が腰かけているのが見えた。そういえばこの近くに教会があった、ということを士郎は思い出す。代行者とはいえ人間だ。休憩がてら午後のコーヒーでも飲みに来ているのだろうか。

 

 シスターと顔を合わせるのも気まずい為、人数も多いしカウンターでは話しづらいだろうとウェイターにテーブル席に案内してもらった。小粋な四角い木造のテーブルの両脇に、同じく二組ずつ椅子が置かれている。外のテラスに面したその席の左手奥側に薬屋が詰めて座り、その横に利菜が腰掛ける。士郎は右手側の奥、凛がその横に。それぞれが腰を落ち着けて、渡されたメニューに目を通す。

 

「へえ……。外観とか店内の様子を見た時は高いのかと思ったけど、そういう訳でもないんだな」

「そりゃあね。高校生でもそれなりに楽しめるお値段ってのが、ココのいいところなのよ」

 

 利菜が得意げに胸を張る。

 一応、三人分を支払うことになる士郎にとっては、値段が安いという事はありがたい。奢ると大見得を切ったにもかかわらずお金が足りなくなっては格好がつかない。まあ、今日は大目に買い物をするつもりではあったのでそれなりの額を持ってきてはいるが、それでもだ。財布に優しいということは主夫の友である。

 

 メニューをめくる士郎の対面では、薬屋が口元を引きつらせて凛からの視線を躱していた。

 

「……なんですか?」

「なんだかんだ貴方も断り切れなかったのね、と思って。まんざらでもないんじゃない?」

「そんな訳ないじゃないですか。強引に連れてこられたのは遠坂さんも見ていたと思いますけど」

 

 非難するように目を細め、薬屋がくちばしる。

 どこか敬遠するような響きがあるのは士郎の聞き間違いではあるまい。薬屋は凛が苦手なようだ。しかし凛にそういう態度は逆効果のように思えるのだが。

 

「そう? 本当に嫌なら断れると思うけどね。私ならそうするし、貴方もそれが出来るタイプだと思うけど?」

「そんなのは思い違いだ。みんなが遠坂さんみたいに強い人間じゃないってことを覚えておいた方がいいですよ……」

 

 ものぐさな表情で薬屋が詰る。

 しかし彼も中々に辛辣なことを言う。が、それもまた一理はあるだろう。凛のように克己心に溢れた芯のある自我を持ち、後ろを振り返らずに進んでいけるタイプは稀だ。特に、窮地や絶望の淵に在って尚強く在れる人間はそういない。

 

 第一、みんながみんな彼女のような人間だったら、三世紀ほど今より文明が発達したような革新と流動の世界になっているか、ちょっとしたきっかけで喧嘩して大戦争に発展した挙句文明が滅んでしまっていそうだ。

 

 凛は露程も気にした風もなく、その意見を肯定する。

 

「そりゃあね。それにみんながみんな私みたいな世界って、そんなのはつまらないわ」

「それには私も同意かな。みんな同じなのは彩に欠けますもんね。弱い人間がいたっていいんですよ。みんなで支え合って行けばいいんだから」

 

 その利菜の言葉は何の気なしに紡がれたのだろう。

 助け合いの精神。困っている士郎に利菜は迷わずに声を掛けてきた。お節介でお人よしなこの少女らしい考え方である。士郎としてもその意見には賛成だ。ただこの意見であっても、みんながみんなそういう考えも持っている人間である訳ではない、という定義が当てはまってしまう。それが士郎には物悲しいと思えるところでもある。

 

 それに誰かが反応する前に、メニューから顔を上げた利菜が問いかけてくる。

 

「私は注文決まったけど、みんな決まった?」

「……俺は決まったな」

「私も」

「俺もだ」

 

 士郎、凛、薬屋がそれぞれの形で返答する。

 よし、と頷いた利菜がテーブルに置いてあったベルを振ってウェイターを呼び付けた。

 

 

 各々が注文したのち、その品が届くまでの間は手持無沙汰になる。

 結果として時間つぶしに雑談をすることになるのだが、

 

「それで、結局凛さんが前言っていた、士郎さんの彼女さんなんですよね?」

「やっぱそれを聞いてくるか。まあ、そうなるのかな」

 

 面と向かって認めるのはいろいろ恥ずかしかったので、士郎は明後日の方を向いて頷いた。利菜がさらに笑みを深めていくのが分かる。毎度思っているのだが、どうして女性というものは色恋沙汰がすきなのだろうか。他人の恋愛など見ていても面白くもないと彼は思うのだが。

 その時、背筋を悪寒がなぞっていくのを士郎は感じた。

 

「前言っていたって、衛宮君。一体彼女に何を話したのかしら」

「いや、大したことは話してない。何も悪いことなんていってないぞ、俺」

 

 表面上はにこやかな凛に、士郎はたじろぎながらも諫めようとする。

 事実、凛の陰口を言った覚えなどないのだが、迫力に押されて呂律が回らない。実に無念である。このままでは無実のままにあえなく撃沈することになるだろう。が、今回は助け舟が出たようだ。

 

「士郎さんは本当に悪いことはいってませんよ。私が彼女さんはどんな人って聞いたら、とても鮮やかな人だって、嬉しそうにそう言っただけです」

「ぶっ……!」

 

 咽こんだ。救援だと思っていた船からまさかの誤射。彼自分が直接伝えるよりも遥かにダメージの大きい形で堂々とぶちかまされた。そこはもう少し、当たり障りのない言葉に変えてくれてもよかったのではないかと士郎は恨み言を言いたくなる。なぜなら、いじめっ子の凛にその言い方は不味いのだ。馬の前にニンジンをぶら下げるようなモノだろう。

 

 ところが、咽こみから回復して僅かに視線を上げた先には。悪意に満ちた微笑を送ってくる莉奈の姿があった。つまるところ、確信犯である。誤射ですらないとは絶句モノだ。似ているとは思ったが、利菜と言う少女は遠坂凛の同類だと士郎は確信する。

 

「へえ。鮮やか、ねえ……。“私”のことをそういう風に思っててくれたんだ」

 

 凛の顔が獲物を弄ぶ猫のソレに変貌する。

 薄く切り開かれた口元から漏れる吐息が、嗜虐的な青い目が彼を絡め取る。眩暈がした。わざとらしく“私”と強調するあたり性質が悪い。“凛”に報告でもされてしまっては、目も当てられない。二人がかりでおもちゃにしてくること間違いなしである。

 

 いや、それでなくとも今は利菜がいる。この状況で白旗を掲げてしまっては旗を奪い取られた挙句、身ぐるみ全てはがされて丸裸にされてしまう。本能で黙ったままは不味いと考えたのか。士郎の口は勝手に動いて言葉を紡ぐ。

 

「……そりゃあな。その、なんていうか。俺も女だったらお前みたいな奴に成りたいと思ったんじゃないか、とか。いや、そもそもお前は目に残るやつで。高校の時も、初めはだな。あんな完璧な奴がいるのか、と思ったし、それより後もなんだかんだで人が良くてだな。それでいて、いつも堂々としてるもんだから」

 

 しどろもどろの言葉は、実に要領を得ない。

 彼としては、降参するのは癪だったために致し方なく語っているだけだ。だがこれはむしろ自分から墓穴を掘っていっているような気がしてならない。なぜなら、凛はさして堪えた風でもなく、むしろ笑みは凶悪になっていくばかりであったからだ。加えて、利菜が実に愉快そうににやけているため、精神的にきついモノがあった。

 

 彼は恋愛というモノが得手ではない。“凛”に散々言われたことだが、己に向けられる感情の機微に疎いことが原因だろう。挙句彼自身、己の恋愛感情を自認するのにかなり時間がかかったような人間だ。曰く、朴念仁という奴らしい。彼としては普通に褒めたつもりの言葉でも相手には違って聞こえるようだ。といっても、恋愛感情を自覚した後は、それまで普通に言えていた言葉を妙に毛恥ずかしく感じることがある。今の状況が正にそれである。

 

 回し車にのったハムスターのように思考が前進しない。頭の中がミキサーにかけられたようにてんてこ舞いだ。頭が煮立って、理性を踊り食いしている。救いの手はないのかと視線を走らせたが、薬屋は我関せずといった様子で目を合わせようとしない。結果として、投げやりになった士郎は気炎を上げ、

 

「ああっ! とにかくッ!! そういう所が俺はすぅ……!!」

 

 踏みとどまった。すんでのところで言葉に急ブレーキをかけて、レバーをバックギアに叩き込んでアクセルを踏み砕いた。残った言葉のブレーキ音の残響すら噛み殺した。死んでも外に出すまいと、士郎は口を一文字に引き結ぶ。どうかしていた。今発しようとした言葉が危険である事は彼でもわかった。危なく一生モノの弱みが握られるところだった。そうとも、衛宮士郎は自分を制御することが得意なのだ。凛曰く常に仏頂面。感情はそう簡単に揺らがない。

 

「俺はす? その後は何かしら?」

 

 目じりに涙すら溜めて、肩を震わせている凛。

 それで容易く揺らいだ。心底勘弁してほしいと彼は思う。傷口を切り開いて塩を塗るのは神父の役目である。いや、それも少し違うような気がするが、そういうことにしておこう。とにかくこの失態には触れてほしくない。

 狼狽を露わにする士郎に、こらえきれなかったのか凛が盛大に噴き出した。

 

「っふ、あはははははっ! ごめん、からかいすぎたわ。ふっ、ふふ……! でも、まさかあんなにてんやわんやになるなんて思わなくて」

「あのな、遠坂。別に家とかでならいいけど、こういう所でからかうのはやめてくれ」

 

 未だ顔が熱いのを自認しながら、士郎は呻く。

 とんだ恥を晒したものだ。さっきは心が揺らぎ過ぎた。間違いなく修行不足である。ほぼ毎日訓練をしているにも関わらず、いまだ凛には容易に心を揺さぶられるのは嬉しいのか、悲しいのか。

 

 しかし、凛と一緒になって爆笑でもしているのかと思った利菜の方は、眩しいモノを見るように目を細めて彼と凛のやり取りを眺めていた。

 

「本当に仲がいいんだ。うらやましい」

「……今のやり取りを見て、仲がいいとかうらやましいって感想が出てくるのはおかしいと思うぞ、俺」

 

 半ばいじけていた士郎は、力のない声で呻く。

 散々弄られたことを羨ましがられるのは、士郎としては微妙な心境にならざるを得ない。一応、若干の照れ隠しが入っていないとは言えなくもないのだが。

 

 とはいえそもそも、恋愛の形と言うのは人それぞれだ。一応、凛の中身が若干異なってはいるものの、士郎と彼女の関係性はこの形で上手くかみ合っていると彼自身認めるところではある。だが、その関係を他人の恋愛にそのまま流用しても上手く型にはまる者は少ないだろう。まあ、逆に考えれば士郎と凛の関係性を羨む利菜はその数少ない者の一人と言えるのかもしれない。

 

「そういうものなの?」

「そういう事にしておいてくれ」

 

 首を竦めて、投げやりに士郎は応える。

 この分だと、利菜の相手となる男は苦労しそうだ。一応その苦労の数倍分、楽しさも味わえるかもしれないが。士郎は対面の席に座る薬屋を盗み見る。彼と利菜は、相性自体は悪くないように思うのでひょっとしたらひょっとするかもしれない。しかし、視線に気づいた薬屋は怪訝そうに眉を顰めるだけだ。

 

 そこに丁度ウェイターが料理を運んできた為、会話もそこそこに食事と相成った。

 士郎と薬屋はボリューム満点のカツサンドにアイスコーヒー。凛はサラダサンドに紅茶、利菜はミックスサンドとアイスオーレの組み合わせだ。後に女性陣はデザートを追加注文していた。その際、利菜が頼んだブルーベリーのワッフルに食欲をそそられることになり、普段は和菓子派である士郎も思わず注文することになった。

 

 結論としては、食事、ドリンク、デザート共に満足のいく内容だった。地元民である利菜が奨めてくるだけのことはある。定期的に通いたくなる味をしている。大通りから外れた位置にあってもある程度の賑わいがあるのは常連客が多いからなのだろうか。

 

 時刻は午後十二時十五分を回ったころだ。粗方、注文の品を食べ終えた四人は二杯目の飲み物を注文し、再び会話に興じ始める。

 

「なんだかんだ、薬屋も二杯目を頼んでんじゃない」

「どうせ帰れないなら、その分の元を取りたくなるのは当然だろ」

 

 冷やかすような利菜に対して、薬屋が嘆息する。

 強引に連れてこられた身としては、至極当然の考え方だ。

 

「現金な奴ねー。ま、いいか」

 

 一つ大きく息を吐いて、利菜は士郎に目を向けた。

 

「雑談ばっかになっちゃったけど、そろそろ士郎さんが前に聞きたがっていたことを教えてくれない?」

 

 そういえば、この集まりはもともとそう言う目的があったことを士郎は思い出す。

 とはいえ、士郎の質問はこの場では答えにくい内容なのではないだろうか。特に同級生の薬屋がいる前では毛恥ずかしさが残るはずだ。士郎としては、前回の恩を返せたことである程度は満足している。利菜の個人的なことを突っ込んで聞くのはまた今度でもいいかもしれない、と士郎は茶を濁す事にした。

 

「んー。まあ、そんなとりたてるまでもないような事だから気にしなくてもいいぞ」

「あ、ずるい。自分はもう約束を守れたからって私の約束を破らせるつもりなの?」

「いや、そう言うつもりはないぞ、俺」

「ならいいじゃない。遠慮はいらないわ」

 

 そう言われてしまっては、士郎としても立つ瀬がない。

 むくれっ面をした利菜の頑固そうな様子からして、説き伏せるのは難しそうだ。若干の躊躇が残るものの、しぶしぶ重い口を開いた。

 

「……いや、この前さ。立花はやりたいことがあるから他のことにかまけてられないって言ってただろ。それはなんなのかなって思ったんだ」

「半分くらいは予想してたけど、やっぱそれか」

 

 などと、利菜は一人納得するようにうなずいている。しかし唐突に、他の三人を見回たすと彼女は問いかけてきた。

 

「ねえ、みんなに夢ってある?」

「なんだ? 突然」

 

 意図がつかめずに士郎は困惑して問い返す。凛は静観に努め、薬屋は押し黙っていた。それに構わずに彼女は、

 

「私にはあるわ」

 

 そう、きっぱりと言い切った。それは余人の立ち入る隙がないほどにあまりにも真っ直ぐな、真っ直ぐすぎる声だった。それまでの年相応の少女としての振る舞いとは一線を画する、高邁な指導者の如き威風がある。

 その店内の雑音をものともしない強く、よく通る声のまま彼女は言葉を繋いだ。

 

「苦しんでいる人たちがいるの。この世界が生きづらいって。幸せになるための椅子が埋ってしまってるって。私の夢はそういう人たちに居場所を作ってあげるコト」

 

 すっぱりと言い切ると、彼女は薄く微笑んだ。

 それが、訳もなく危ういように感じた。利菜は強い。その祈りも、間違いなく高潔なものだ。以前会話したときに感じた違和感。あの時、やりたいこととやらなければいけないことは同じと語っていた少女に感じた、何かを諦めているような感覚はやはり錯覚なのだろうか。自身の夢を語る利菜は、それを疑ってはいないようには見える。

 

 やはり、あんなものは錯覚かもしれない。とりあえず今はそれよりも士郎の不安を煽る物があった。それはその強さだ。己の夢を憚ることなく口にできる揺るぎ無い個我。自身の夢にしたがって行動する利菜のおおらかな笑みは、他者に安心感を与えるにちがいない。

 

 だが、それは、穏やかに寄せては返す大海を見て、郷愁と安らぎを覚える事と同じようなものだ。雄大で美しいそれは、すべてを包み込むような温かさに満ちている。それこそ他者を、彼女と言う海なしでは生きられぬ魚に変えてしまうと思わせる程に。

 

 語っていて恥ずかしくなったのか、利菜は照れ隠しのように言葉を付け加える。

 

「私がやりたいことはコレ。昔からそうなんだけど、困ってる人が直感でわかるの。それが放っておけなくて。無視したら後味悪いじゃない? まあ、単純に自分が後悔したくないからやってるって事になるのかな。お節介かもしれないけどね」

 

 自分が後悔したくないからそうするという彼女の言葉。その動機はらしいといえばらしいのかもしれない。凛と同質の世話焼き体質のようなものだ。そこに歪さは見られなかった。彼女は衛宮士郎とは異なる、自身を省みる事の出来る人間だと、彼には思えた。だが、彼の胸の内に淀んだ不安は消えてくれない。

 

 印象などと言う曖昧なもので人を決めつけられはしないだろう。だが、利菜の強さは人を魅せすぎるように思えるのだ。

 

 それをうまく表現できる言葉が選べずに士郎は唇を噛んだ。その間に、利菜は少し頬を赤くしながら薬屋の顔を覗っていた。が、途中で痺れを切らしたように若干捨て鉢な調子で彼に問いかけた。

 

「ねえ、薬屋。私だけ話すのもなんか不公平だから、アンタの夢も聞かせてよ」

「へ?」

 

 まさか自分に飛び火してくるとは思わなかったのか。薬屋は上ずった声を上げる。

 それに僅かに視線を泳がせた利菜は、作ったようなつっけんどんな態度で噛みついた。

 

「へ? じゃないわよ。何かないの?」

「何かって……。立花さん、聞き方ってモノがあるだろ」

「いいじゃない、教えなさいよケチ」

 

 拗ねたように利菜が唇を尖らせる。

 やはり彼女は、薬屋が相手となると途端に年相応の少女のような姿になる。しかし、ここまで食い下がる訳は店に入る前に言っていた薬屋に聞きたかったことと関係しているのだろうか。

 

「……まあ、いいけどさ。俺は夢なんて大層なものは持ってないよ。立花さんみたいな立派な考え方もない」

「なによそれ。別に言い方の問題よ。夢でも、祈りでも、目的でも、希望でも、目標でもいいわ。どれか一個くらいあるでしょ」

「言い方の問題、か」

 

 困ったように薬屋は言葉を濁す。

 まあ、会ったばかりの人間が二人もいる状況でそんな踏み込んだことは話しにくいという気持ちは分かる。ところが軽く首を振った後、彼は語を継いだ。

 

「夢とか、そう言ったモノとは少し違うけど、まあこうあったらいいなってモノでいいなら」

「この際なんでもいいわよ」

「じゃあ一つだけ。……深い意味はないんだ。ただ、世界が居心地のいい場所であればいいな、とは思ってるよ。立花さんみたいに行動する気は無いけどさ」

「なんていうか、アンタらしい緩い回答ね。でも何、薬屋って現状に不満があるの?」

 

 気のない調子で利菜が尋ねる。

 とはいえ、横目で薬屋を盗み見ているため好奇心が隠せていない。薬屋は視線に気づいた様子もなく、穏やかに言葉を紡ぐ。

 

「別に不満はないし、困ってもいないよ。だから行動はしないし、勝手に世界が変わる事にも期待はしていないかな。大体、自分にとって本当に居心地のいい場所っていうのは他人が作った物じゃないと俺は思うから」

「じゃあ、なんだっていうのよ」

 

 利菜の声に棘が籠る。

 困っている人の居場所を作りたい、と言う彼女にとって薬屋の考え方は認めがたいものがあるのだろう。ところが、薬屋は苦笑しながら曖昧な調子で答える。

 

「さあ、そこのところは俺もよくわからない。ただ、そう思っただけだからな」

「なによそれ。結局ただの口先だけのモノじゃない」

「だから夢とかそんな大したものじゃないって言っただろ。漠然とそう思ってるだけなんだからそんなに期待されても俺が困る」

 

 ご機嫌斜めの利菜に、薬屋は億劫そうに顔をしかめてそう言った。

 しかし上手く煙に巻いてはいるが、本当は彼なりの理屈があるのかもしれない。利菜の質問に答えるときの彼は、ある程度自分の信念に則っていたように見えたのだ。言い争うのが目に見えているからあえて茶を濁したのだろうか。

 

「……そうね。何でもいいから言って、って言ったのは私だったし責めたのは謝るわ」

 

 バツが悪そうに利菜はぼやく。

 こういう、自分の非を認められるところは美徳であるのだろう。

 

「でも、自分で居場所を作りたくたって作れない人もいるのよ。ここに入った時、アンタが自分で言ってたでしょ。みんながみんな強いわけじゃない。そういう人たちは誰かが助けるしかないわ」

 

 自らに言い聞かせるように利菜は独白する。

 そう、人には確かに、自分ではどうにでもできない事態に直面することはある。かつての士郎自身がその立場にあった人間だからこそ、ソレはよく理解できるのだ。

 

 十にも満たない子供が火の海の中を歩き続けた原初の光景。ただ息をすることすら苦しかった、赤い赤い世界の記憶が彼にはある。大人も子供も、男も女も。分け隔てなく同じものに還していった大火の中で、彼一人だけが生き残った。いや、助け出された。あの時、養父に見つけて貰えていなかったら彼も間違いなく死んでいただろう。

 

 だれもが、あの時救いを求めていた。理不尽に奪われる自分の、そして大切な者の命にどうか救いあれ、と。だが、それは果たされることはなかった。思いはむなしく虚空を掴むのみで、多くの無念と怨嗟を抱いて消えて行ったのだ。

 

 そんな彼らに対して、誰が己の力のみであの地獄を生き抜いてみろと言えるのか。

 

 彼が生き残ったのは、ただ運が良かったからだ。たまたま、一番長くあの日の海の中で動けていて。それを、偶然生き残りを探していた人物が見つけただけだった。求められている強さが違うとはいえ、助けられることが悪いなどとは士郎には口が裂けても言えはしない。

 

 すると、そこまで成り行きを見守っていた凛がおもむろに口火を切った。

 

「利菜。こんなことは心の贅肉だろうけどとりあえず言っておくわ」

「凛さん?」

「別に私は貴女の方針に文句はつけるつもりはない。なんだかんだ、私も似たようなところはあるから。第一、貴女自身がお節介だって分かってやってることに口出ししても仕方ないし。だから、これは貴女が行動する上での忠告よ」

 

 言いながらも、凛は頭痛を堪えるような微妙な面持ちをしている。

 あれは単純に自分自身の行動に呆れているのだろうか。自分自身の得にならない事が分かっているのに世話を焼いてしまうとき、凛は大抵憮然とした表情をしている。

 

「私はね、貴女とは違ってある程度割り切ってるのよ。確かに、困ってる人間を助けないのは後味が悪いってことは理解できる。でも、私のソレはあくまでも身の回りで起きている事だけに留まるわ」

 

 捲し立てるように凛は口走る。

 持論を展開する彼女は、続けて淀みない口調で述べ立てる。

 

「対して、貴女の救いたい相手っていうのは多すぎる。幸福の椅子から転げ落ちる人間なんて腐るほどいるわ。まあ、それを救いたいって言うのは間違いじゃない。でも、貴女の方針だとキリが無いのよ。一人救ってはまた次へ。救い終わったらまた別の人を。身が休まる暇もない」

 

 僅かに凛の物言いたげな目が士郎に向けられ、彼は居心地が悪くなって頬を描く。

 とはいえ、彼女が言いたいことも分かる。性格の近しい凛と利菜の間にある大きな違いは、その目的の差異にある。凛はお人よしではあるが人助けを人生の行動目的に据えている訳ではない。だからこそ、彼女が助ける範囲の人間はある程度絞られてくる。能動的ではなく、あくまでも受動的に。身の回りのことで目について、放置したら後味が悪いから助ける、という事が多い。

 

 それに比べて、利菜は能動的だ。自分から困っている人間を探し、手伝う事を指針と定めている。だからこそ、救う対象に際限がない。利菜は士郎とは異なって自身を省みないほど壊れている訳でもないだろうが、それでも負担はかなりのモノになるはずだ。

 

 利菜に視線を戻して、凛はさらに口を動かす。

 

「しかも、貴女の夢ってただ命を救うなんてものじゃないでしょ。みんなの居場所をつくる。それは助けた人たちを背負っていくってコトよ。貴女がいくら自分を気遣おうと、ケアが追いつかなくなってくる。結果として潰れるわ」

 

 凛の言葉に、士郎は自身の危惧を理解する。

 

 そう、それこそ士郎が感じた利菜の強さと夢に対して返ってくる不安の種だ。

 利菜という海は何者でも受け入れる。たとえそれが自身を汚す存在であろうとも。だが包み込まれている方は、海の事情は気にも留めまい。広大な海が、自分程度の異物で揺らぐはずもないと思い込んで甘えるだけだ。そうさせるだけの強さが利菜にはあると思い込む。

 

 だが、海とて無限ではない。汚染は僅かずつであろうと進んでいく。利菜がいくら自浄作用で自らを癒そうとしても、取り込んだモノが多くなればなるほどそれが間に合わなくなっていく。そしていつか、汚染は限界を迎えるという最悪の結末が待っているように感じたのだ。

 

「だから、やるならみんなでやりなさい。助けた奴にもそれを貸しにして、荷物を背負わせて一緒に歩くの。薬屋も言ってたけど、自分の居場所づくりを他人任せにしても意味ないでしょうに。居場所が欲しいのなら、人に頼ってばかりいないで自分でも立って見せなさいよってね」

 

 勢いのままに言い切って、凛は鼻を鳴らした。

 彼女の言葉は、何のことはないことだった。人を助けたならその分助けてもらえ、と言うだけのモノである。一人で背負えない程の荷物を抱え込むのではなく。重いならみんなで分け合えばいい。それは、初めの方に利菜自身が口走っていた助け合いの精神を示しただけに過ぎない。

 

 だが、それがこれ以上もないほど利菜が持つ危うさに対する回答のように思えた。先ほどまで曇っていた士郎の胸の中が晴れていく。心なしか、頬も緩んでいるように感じた。凛が苦手な様子であった薬屋ですら、感心したような眼差しを送っている。

 

 しかし、どうにも煮え切らないのか利菜はまだ戸惑ったように目を伏せ、

 

「荷物を、背負わせる? でも、やっぱり背負えないような人だって……」

「だから、貸しにするのよ。とりあえずそいつが一人で解決できそうにないあたりまでは、貴女が解決してやればいい。でも、ある程度落ち着いた後にその貸しを返してもらえっていってんのよ。私が言いたいのはつまりね、ただ甘えさせたままってのはどうなのってコト」

 

 カップを口元に運んで紅茶を啜った後、大きく嘆息する凛。

 カップを置いた彼女は顔の横で人差し指をピンと立てて、言い含めるように語を継いだ。

 

「いい? 無償の救いなんて、自分にも相手にもまるで得にならないのよ。確かに、その時だけはいいのかもしれない。でも、貴女の夢の場合はその後があるでしょう。関係性がずっと助ける側と助けられる側のままじゃ、依存を生むだけだわ。

 助けられっぱなしで甘えきって堕落した奴と、助け過ぎで擦り切れて摩耗した奴しか残らない。要するに過保護なのよ。老人に対する介護士じゃあるまいし、もう少し相手の成長を期待してあげなさい。それとも、貴女自身が相手の居場所になってあげるつもりなの?」

 

 それなら何も言わないけど、と凛は言葉を切る。

 凛の物言いは厳しい。内容が内容だけに、士郎にも突き刺さる物がある。助け過ぎて擦り切れてしまった人間を、彼自身が一番よく知っているのだから。しかしながら、コレが凛なりの優しさなのだと士郎は知っている。

 利菜の表情は翳ったままだ。思いつめたように机の上のカップの中身を見つめている。その唇から、告解するような声がこぼれた。

 

「どうなんでしょう、私自身少しわからなくて。……でも確かに一方通行はよくなかったかもしれません」

「わからない、ねえ……。思った以上に重傷くさいけど、まあこれ以上私に言えることはないし。それさえ分かってれば最悪は避けれるんじゃない?」

 

 あっさりと告げる凛。

 散々引き伸ばした割には引き際がいい。利菜も一瞬呆気にとられたように目を丸くしていたが、一拍置いて苦笑する。

 

「凛さんはすごいですね。士郎さんが鮮やかだって言ってた理由が分かった気がします」

「あのね、褒めても何も出ないわよ」

 

 そう言う割に凛の耳が赤い。

 褒められること自体には慣れていそうなものなのだが、意外に耐性がついていないのが彼女の面白いところか。

 そこに、ふと思い出したかのように利菜が手を叩いた。

 

「そう言えば凛さんと士郎さんにも夢はあるんですか? ここに越してきた理由とかにも関係があったりします?」

「夢ねえ……。ま、“私”ならちょっと放っておけない馬鹿がいるから、そいつを問答無用で幸せにしてやる。みたいな感じかしらね」

 

 艶やかに微笑み、士郎に流し目を送ってくる凛。

 実に危ない。危うく火傷するところである。あの視線には電子レンジみたいにマイクロ波でも宿っているのではなかろうか。しかし、中身が違うというのに何故こうも“凛”が言いそうなことを憚ることなく口にできるのだろうか。まあ、ほぼ同一人物なのだがたまにそれを忘れそうになる時がある。

 話題が話題だけに利菜は身を乗り出さんばかりの勢いで問いかけた。

 

「それってまさか」

「さあ? 想像にお任せするわ」

 

 言葉に反して、思わせぶりな視線を投げてくるのをやめてほしいと士郎は頭を抱えたくなる。

 これは確信犯である。手の施しようもない。なんだって彼は今日、こんなにも弄られているのだろうか。

 

「そうですか。でも素敵な夢ですね、楽しそうだし」

 

 利菜もまた、わかってますよ、とでも言いたげな生ぬるい目を向けてくる。凛とそろって含み笑いをしている姿はこの上もなく悪趣味だ。やはりこの少女の彼氏となる人間は、必ず苦労すると士郎は予言できる。その当人たる利菜が続けて言う。

 

「凛さんはこう言ってますけど」

 

 先ほどまでとは一転して、利菜は真摯に士郎を見据えた。

 

「士郎さんはどう?」

 

 凛の、そして薬屋の目が士郎に集まる。

 その切り替えの早さは素晴らしいと褒めたい所ではある。だが、逆にまじめな調子にされると口が重くなる気がした。

 

「……俺の夢、か」

 

 衛宮士郎には夢がある。正義の味方になるという夢。子供の時にだれもが夢に描き、しかしその大半が現実と向き合って諦めることになるだろうそれを、彼はいまだに持ち続けている。

 

 とはいえ、あなたの夢はなんですか、などという言葉を日常会話で聞くことはほとんどないだろう。それ故に、いざ面と向かって聞かれると答えることに少し戸惑いが生じる。今日のような日は人生に一度あるか無いかと言うくらい珍しい事態のような気がした。

 

 それでも、利菜は自身の夢を聞いても決して笑わないだろうという確信が、彼にはあった。その為、まごついたのは一瞬だけだった。彼女の瞳を見つめてゆっくりとそれを告げる。

 

「俺はね、正義の味方になりたいんだ」

 

 沈黙が降りる。

 薬屋は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。凛の方は、若干複雑そうな面持ちである。“凛”ならば半分呆れ交じりに苦笑していそうなものなのだが。しかし思えば、凛の前で明確に夢を語ったのは初めてかもしれない。

 そして三人の内、残った最後の一人である利菜は、

 

「――いい夢だね」

 

 そう呟いて、彼女はやわらかく微笑んだ。まるで朝焼けのような笑顔だった。

 

「私たちは似ているのかもね。困っている人を助けたいっていう事はおんなじだもの」

「そうかもしれないな」

 

 大衆のために闘う正義の味方と、困っている人のために尽くす少女。性格はさておいて、方針自体は確かに似ていないこともない、と彼は同意した。

 

「でもこれで少し納得かな。凛さんが私にあそこまで言ってくれたのは、多分普段から士郎さんみたいな人を見ていたからなんじゃないですか?」

 

 しみじみと零す利菜。

 凛ははぐらかすようにそっぽを向いた。図星なのだろうか。といっても、士郎ですらどことなく彼女の強さに不安を感じたほどだ。並行世界とはいえ、衛宮士郎とそれなりに付き合ってきた凛である。その手の、“他者のために在りたいと願う人間”に対する観察眼は磨かれているのだろう。

 

 そんな凛に対して利菜は軽く微笑むと、士郎に向き直る。彼女は顔の前に一本指を立てて口を開いた。

 

「じゃあ、今日はアドバイス受けてばかりの私から一つお節介を。人を助けるのはいいことだけど、凛さんのこともしっかりと守ってあげてね?」

 

 その言葉に、士郎は息をのむ。正義の味方とは、大衆の味方である。基本的には一個人の味方をすることができない。なぜなら、一個人の味方をすることは時に大衆を切り捨てる覚悟が必要だからだ。

 そして、彼は正義の味方を目指していながら、遠坂凛という一個人を側に置いている。その矛盾。彼女はこの短い問答で衛宮士郎のそれを見抜いていたのだ。

 

 もし凛と大衆を天秤にかけなければならなくなった時に、彼はどうするのだろうか。ああ、数を見れば大衆を優先すべきなのは当然だ。だがそれは。それを行ってしまったら、衛宮士郎は人ではなくなってしまう気がする。故にこそ、と士郎は意を決して告げる。

 

「―――そうだな。両方助けられなきゃ、正義の味方失格だ」

 

 福音のように、遠くで鐘の音が鳴っている。

 心を揺さぶる音色。実に嫌なタイミングである。教会のモノに祝われるなどという事は、過去の出来事の経験から士郎にとっては縁起が悪い事のように思えてしまう。アレの音色に中てられると、よけいな虚飾を振い落されて心をむき出しにされているような錯覚を覚えるのだ。無論、錯覚である以上はそんなものは気の持ちようでどうとでもなる、と解っているのだが。

 

 それでも不快感はある。頭の中にどす黒い何かがたまって重くなり、支えきれなくなりそうになる。本当に教会とは相性が悪い。知らず眉間に寄った皺を何とか伸ばす。その甲斐あってか、利菜は士郎の異変に特に気づいた様子もなく口を動かしている。

 

「よろしい。じゃあ、そろそろ行きましょうか。結構長居しちゃったし、士郎さんたちも本当は二人でお出かけする途中だったんでしょ?」

 

 ゆったりとした動作で席を立ち、利菜が大きく伸びをする。

 店内に掛けられた時計の針は、もう間もなく午後一時を指そうとしていた。確かにこれ以上ここにいても店に迷惑をかけてしまう。

 

「それじゃあ、お勘定するか。薬屋と立花の分は俺が出しておくから、先に出ていてくれ」

 

 士郎はすっかり重くなった腰を持ち上げて、そう告げた。

 すると薬屋は律儀に頭を下げて礼を言い、利菜ははしゃいだ様子で頷いた。二人が店を出て行く姿を尻目に、ウェイターを呼びつけて勘定を済ませる。その間、何故か凛が物言いたげな視線を送ってきていたが、何とか黙殺した。大方、かさんだ食事代に不満があるのだろう。

 代金を無事支払終えた士郎は凛と共に店外に出る。その二人を、店の前で待っていた利菜が一歩前に進みでて出迎えた。

 

「うん、楽しかったわ。士郎さん、凛さん。付き合っていただいてありがとうございました」

「こっちも楽しかったよ。それに今回は前の礼だから気にしないでくれ」

 

 余りかしこまられてもこまる、と士郎はかぶりを振った。その彼の隣で腕を組んだ凛が口走る。

 

「まあ、こっちも丁度昼は食べてなかったしね。夢について話すなんてことそうそうないからそういう意味でも楽しめたわ」

「そう言ってもらえると嬉しいです」

 

 たおやかに一礼する利菜。

 やはり絵になる少女だと士郎は思う。何気ない所作の節々が額縁やフェイルターの中に納まっていてもいいくらい決まって見えるのだ。その在り方について不安こそ抱いたが、こんな少女に助けられたなら救われた気分になるのは間違いないだろう。それだけでも間違いなく士郎よりは人助けの才能があるのだから、どうか焦らないでゆっくりやって行って欲しかった。

 

 そこに、

 

「なあ、立花さん。俺にはなにかないのか?」

 

 薬屋がひねた声を上げた。

 彼はほとんど無理やり付き合わされたも同然なのだから、何か一言欲しいと思うのは当然だろう。しかし、先ほどまでの大人びた姿はどこへやら。利菜はつんと鼻を怒らせた。

 

「アンタは別にいいのよっ」

「あーそう。なら聞きたかったことって?」

「え、それは……」

 

 一瞬、利菜が喉を詰まらせる。

 所在なさげにふらつく視線が空を踊り、どこかやけくそ気味に彼女は唸った。

 

「ああ、もうそれもいいのっ!」

「立花さん、滅茶苦茶だな……」

「いいから、帰るわよっ。それじゃあ士郎さん、凛さん。またどこかで見かけたら声掛けますね。そっちも見かけたら声掛けてくださいよ」

 

 絶対ですよ、なんて付け加えながら利菜は強引に薬屋を引っ張っていく。

 またしても既視感を覚えるその光景に士郎は胸が温かくなるのを感じながら、二人が雑踏の中に消えていくのを見送った。

 

 利菜たちと別れた後、買い物を無事終えた士郎が帰路に就こうと提案すると、凛は寄るところが出来たので先に帰るように、と言いつけて日の落ちていく街の中に戻っていった。そう言った経緯もあり、一人洋館に戻ってきた士郎は、荷物を整理したのち夕食を準備しておくことにした。

 

 初めは士郎も着いて行こうと提案した。ところが、夕食までには戻れるくらいの些事だから、と同行を撥ね退けられてしまったのだ。まあ、あの凛をどうにかできるモノなどそうそう存在しないとは思うが、この前のハルキヨの件もあるので油断はできない。とはいえ、そもそも士郎が同行を申し出たのは、利菜たちと別れる手前あたりから彼女がどうにも思いつめたような顔つきを見せており、それが気がかりだったということが理由の大部分を占める。

 

 初めは勝手に奢りを決行して、切迫している財布事情をさらに圧迫した所為からかとも思ったが、そうでもないようだ。買い物の最中の凛は特段むくれている訳でも不機嫌であるという訳もなかった。というよりもアレは機嫌が悪いなどと言った単純なモノではなく、もっと何かを危惧しているかのような、そういった様子だったように士郎には思えた。

 

 利菜と薬屋について思うところがあったのだろうか。いや、おそらくそれも違う。確かに凛はあの二人を気にはかけていたものの、それは危惧や懸念といったモノとは別ベクトルのモノであったように思われる。第一、あの二人に関してのことだったのなら凛の性格上、悠長に士郎の買い物に付き合うことなく行動に移していたはずだ。

 

 ならば何が凛を思いわずらわせていたというのか。答えは出ない。聞いたところで同伴を断った以上、彼女が士郎に訳を話すとも思えない。いずれにせよ、凛が話さないというのならそこにはある程度の理由があるのだろう。ならば無理に聞き出す必要もない。単なる思い過ごしの可能性もあるのだから。

 

 そう結論付けた士郎は思考を頭の隅に押しやって、食材の準備に取り掛かった。

 

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