Fate/Kaleid Schmetterling 作:ひでぶ
特環の護送車によって冬木市にまで戻ってきた二人は、遠坂邸のラウンジにて談合をとることとなった。
凛と士郎は、上質な真紅のカーペットの上に置かれたシックな木製のセンターテーブルを挟んで向かい合い、黒い革張りのソファに腰掛けて紅茶を啜っていた。
「―――それで、記憶がないっていうのは本当なのか、遠坂」
「どういう意味よ、それ」
言葉の意味を図りかね、カップをテーブルに置いた凛は士郎に問い返す。すると、彼はもどかしそうに頬をかいた。
「そのままだよ。本当に記憶がないのか?お前の事だから、何か考えがあって記憶をなくしたふりをしているとかそういう……」
そう言って、士郎が期待と不安が入り混じった視線を凛に向ける。だが彼女は既に、今の自身の状態を士郎には黙して通すことに決めていた。
この件に関して彼女にも思うところがあったのである。並行世界への移行が起きえた理由は凛にもわからない。ただ、転移が起こっているのなら自身の実験ミスが関与している可能性が高いのだ。
五つある魔法は、それぞれにつき一人しか使えない。宝石翁が健在である以上、“虫”がいかなる存在であれ、“凛”が魔法を行使できる筈もない。ならば、何らかの条件が重なって、あくまでも魔法の一端が偶発的に発言したとしか考えられない。そのイレギュラー要素に、彼女が行っていた第二魔法関連の実験ミスが当てはまらない筈もなかった。他でもない並行世界の運営を行う魔法の一端を扱った実験なのだから。
現状“遠坂凛”は行方が知れない。この状態が記憶の改竄の結果であったのならば杞憂であるのだが、それの可能性が低いと考えられる以上、最悪世界からの修正を受けてしまった可能性がある。その責任の一端は間違いなく凛にもあるのだ。それ故に、彼女はこの事件のほとぼりが冷めるまでは、この世界歪めてしまった者の責任として“遠坂凛”の役割を肩代わりしようと決めていた。
これは心の贅肉であると彼女は思う。論理的に考えるならば、早急にこの事件の原因を解明し、元の世界に戻るための方策を練るべきなのだ。元の世界にはまだ目を離すことなど到底できないような危なっかしい連中を残してきてしまっている。一刻も早く元の世界に戻り、彼女たちを見守りたいという心があるのも間違いではない。だが、彼女の心根はそれを許さない。自分の失態のつけは自分で払うのが当然である、という事が彼女の流儀である。
第一、この状態を放置するというのは、この件を引き起こした一端を担う人物としてあまりにも無責任なのだ。この世界の抱える事情はかなり切迫している。凛が元の世界に戻っても問題ないような状態であるならよかったのだが、この世界はそうではない。“遠坂凛”の役割を担うべき人間が必要なのである。なればこそ、すべてを説明し、必要ならば罰を受けるのは凛と“遠坂凛”が正しい位置に戻るめどが立った時にするべきだ。その如何によっては帰れないかもしれないが、ツケを払うとはそういう事だろう。
その内心をおくびにも出さず、凛はきっぱりと言い捨てる。
「残念ながら、貴方が期待しているような芝居はうってないわ」
「ってことは本当に記憶が飛んでいるのか……」
士郎の表情が翳る。肩を落としたその姿に、凛の胸が僅かに痛む。
彼は絞り出すように語を紡ぐ。
「すまない、遠坂。俺が強ければ“かっこう”にだって……」
「なにあやまってんのよ、衛宮君。今回は私が不甲斐なかっただけよ。貴方に責任はないわ」
そう凛はそういってぴしゃりと士郎の言葉をさえぎった。それに士郎が反論する前に彼女は続ける。
「とりあえず記憶に関しては、多分虫憑き関係の事は全部消えてると思う。他のところとなるとちょっと自分ではわからないわ。ひょっとしたら記憶に混乱があるかもしれない。申し訳ないけれど、少し世話を掛けるかもしれない」
「謝る事じゃないだろ、こんなこと。いくらでも頼ってくれ。何にしても、やっぱり虫憑き関係の記憶はないのか。でも俺の事は覚えてる、となると一体どこまで忘れているのかわからないな。魔術師の遠坂の記憶に干渉して消すなんてことができる虫憑きがざらにいるとは思えない。けど随分都合よく記憶が飛んでいそうだから、記憶を消された可能性も考えた方がいいと思うぞ」
腕を組み、しかつめらしい顔で士郎は言った。
「そうね、可能性がないわけではないわ」
凛は軽く頷いて同意を示す。その後、彼女はすこしからかうように目を細めた。
「でも、衛宮君がついていてくれるんでしょ?」
「それは、そうだけどさ……」
士郎は虚を突かれたようにたじろいだ。目じりが小刻みに震えているその姿に、凛は僅かばかり溜飲を下げた。
もう少しからかおうか、と凛が口を開こうとしたとき、士郎は凛に語を継がせるまい、とばかりに語を繋いだ。
「でも、あくまでこれは可能性の範囲だ。遠坂なら、何か考えがあって自分の記憶を問題ない範囲で消したってことも考えられるしな」
「……衛宮君、それは私の事買いかぶりすぎよ」
「そんなことないぞ。実際、お前はすごいやつだと俺は思ってる」
「……っ。まったくこの朴念仁……」
内心の動揺を押さえつつ、凛は嘆息した。すこしからかったと思えばこれである。しかも本人は悪意を持っていないというところが余計にたちが悪い。そんな、真顔で人を褒めちぎることのできるこの男には、この言葉がよく似合うと凛は思う。
しかし、士郎は気に入らなかったようで口をとがらせる。
「む、朴念仁っていわれるのは心外だな、遠坂。本当の事を言っただけだぞ」
「……知らぬは本人ばかりなり、か…。まあいいわ。とにかく、これからの事を考えましょう。記憶がないにもかかわらず、勝手に特環と組むなんて言い出しちゃったしね」
「それは……。あそこではああするしかなかったと俺は思う」
士郎は難しそうに眉間にしわを寄せてそうこぼした。それを受けた凛は苦笑いを浮かべる。
「変にフォローしなくていいわ。まあ、あの時のあなたじゃないけど、魅車はそれが狙いだったのかもしれないしね」
そう言いつつも、凛自身はあの選択が間違っているとは思わなかった。記憶のあるなしに関わらずあれが最善だっただろうとは思う。
ただ、魅車は油断がならない。あれは毒を持った花のようなものだ。外見は美しく、見る者を虜にする。ただ、それに惹かれて近寄るモノに、それと気づかせないままに毒を注ぎ込むのだ。そして、それを注ぎ込まれた者が自身の体の変調に気づいた時にはすでに手遅れになっているという致命的な毒をもつ花。
できるなら関わり合いを持ちたくない人種だった。
「過ぎたことは仕方ないだろ。今あるもので何とかしていくしかない」
「それもそうね。とりあえず情報が欲しいわ。いろいろと分からない事が多いもの」
「そうか。分からない事があるなら聞いてくれ。俺が分かる範囲でなら答える」
士郎が真摯なまなざしで凛を見据え、居住まいを正した。その視線を受け止めつつ、凛は思案する。今までの態度からして、少なくとも士郎は虫憑きについての情報は所持していそうだった。故に聞きたいことは多いものの、とりあえずは基礎を押さえるべきだろうと彼女は判断する。
「じゃあ、基本的なところだけれど、虫憑きって一体なに? 協会が警戒する規模の組織で動けるぐらいに数がいるみたいだけれど、あんなものがどうやって出てきたわけ?」
「虫憑きについてか。正直、俺もそこまで詳しいことは分からない。でも出現し始めたのは、ここ、十数年程度の事らしい。虫憑きを作り出すのは始まりの三匹と呼ばれる原虫指定の三体。こいつらに、“夢”を食われた者が虫憑きになるって話だ」
「始まりの三匹? 大体夢を食うって何よ。夢魔か何かなの、それ」
率直な感想を彼女は漏らす。ただ、夢を食らった相手に虫などという異能を植え付ける夢魔など凛は聞いたことがない。その性質はどちらかというと吸血鬼のそれに近いように感じる。
その凛の意見に士郎はかぶりを振った。
「夢魔なんてものではないと思うぞ、あれは。なにしろ、あいつらが食う夢は普通の夢魔が食らう夢とはそもそもモノが違う。あれは寝ている時にみる夢じゃなくて、憧れ、志す方の夢を食らうんだ。狙う相手も十代の多感な時期の人間ばかりだしな」
「なるほどね、確かに夢魔とは毛色が違うわ。もっと別の何かね、それ。十代を狙うのは夢を持っている子が多いからかしら。っていうことは今いる虫憑きはほとんど十代から二十代なのか。でも始まりの三匹なんてものがなぜ生まれたかが分からないわね」
夢を食った相手に異能を与える。そんな埒外の怪物が三匹も生まれた理由、それが全く思い浮かばない。自然発生にしては三匹と数が中途半端である。かといって人為的な手を使ってそんな怪物を作り出せるのか。作り出せたとして、協会や教会の目をどのようにいしてかいくぐったのか。疑問点が多すぎた。
しかし、それは士郎も同様のようで、
「それは俺もわからない。奴らは本当に突然現れたみたいなんだ。それも三匹とも日本でほぼ同時期に。日本国外に出ていっている気配もない。まあ、だからこそ虫憑きの情報が都市伝説程度にしか広まってないんだろうけどな」
「まあ、情報隠ぺいには特環も一枚かんでいるでしょうけどね。なんにしてもきな臭いわね。始まりの三匹っていうのがどういう行動原理で動いているのかはわからないけれど、どうして十数年も日本国内にとどまっているのかしら」
「何らかのメリットでもあるってことか? でも、奴らの行動原理は単純だと思う。少なくとも、始まりの三匹のうち一匹、“大喰い”に関しては食欲のみで動いていると考えていいんじゃないか。なにせ現存する虫憑きの半数以上が“大喰い”に虫憑きにされた人だっていうからな」
「ならなおさら国外に出ていない理由が分からなくなるわね。こんな極東の狭い島国にとどまるよりも大陸に進出した方が食欲を満たせるでしょうに。やっぱりここに留まるメリットでもあるのかしら。もっともそんなことを考える知性があるかはわからないけど」
そんな取り留めもない思考を凛はこぼす。しかし、そんな言葉にも士郎は何か思うところがあるのか、口惜しそうに目を伏せた。
「――知性ならあるぞ。やつらは自身の欲求を満たすためならかなり狡猾に動いてくるからな。特に“浸父”だ。こいつは……」
その先を続けようとして、不意に思いつめたように眉間にしわを寄せると士郎はそこで口をつぐんでしまった。
「士郎?」
不審に思って凛は士郎に声をかける。すると彼は我に返ったように顔を上げた。
「! ……いや、すまない。少しぼけっとしてたか」
「――その“浸父”ってやつが何かしたわけ?」
ほとんど確信を持って彼女はその問いを投げる。彼がここまで歯切れが悪くなるのは珍しい。何らかの因縁があったことは間違いない。
しかし、それをはぐらかすように士郎は目を逸らした。
「……ああ。いや、この話はあとにしよう。今は情報整理が先だろう」
「……そう。まあいいわ。話を戻すけど、いま“大喰い”“浸父”と来たけれど後一匹はどんな奴なの?」
「最後の一匹ことはあまりわかっていないらしい。どうにも姿を目にした人間がいないって話だ。こいつに虫憑きにされた本人すら、一体だれに虫憑きにされたのか分からないってなっているらしいからな。しかもこいつは出現頻度が恐ろしく低い上に、虫憑きにされた奴は数える程度しかいないらしい。あらゆる面で情報不足なんだ。だから名前も“三匹目”なんてことになってる」
「なにそれ、ちょっとした怪談ね。誰にも見られたことのない原虫か。ありそうなのは擬態能力ってとこかしら。狙った相手の身近な人物に化けて近づいて、気づかれないように夢を食う。見られたことがないんじゃなくて、見られても相手に原虫だと認識されない姿をとるからわからない」
聞いた話から凛は簡単な推測を述べた。士郎はそれに難しそうな顔で同意する。
「意外とそれ、当たってそうだな。本当に人に化ける能力があるならその都度姿を変えているだろうから変な噂も立たないだろう。それに、もし身近の人間に化けた状態で夢を食われたのなら、虫憑きにされた人は身内をかばうために喋らなかったっていうのもあるかもしれない」
「ま、こんな推測してもしょうがないわ。結局確かめてみないとわからないしね。そういえば、いつの間にか原虫の話になっていたわね。まあ、私が話の腰をおっちゃったからなんだけど。という訳で申し訳ないけど、次は普通の虫憑きについてご教授願える?」
原虫に予想以上に興味を惹かれてしまい、知的好奇心の赴くままに質問してしまっていたことを自省しつつ、凛は話題を修正した。
それを大して気にした様子もなく、士郎は首肯する。
「ああ、問題ないぞ。まず原虫指定が三匹いるという話をしていたけど、この三匹のどれに夢を食われたかで虫憑きの型が分かれるんだ。“大喰い”に夢を食われた人の“虫”は宿主から独立し、実体を持った姿を持つ。“浸父”の場合も宿主から独立しているけど、実体のない“虫”になる。“三匹目”の場合は宿主と“虫”が文字通り一体化することで虫憑きとしての力をふるうタイプになるんだ。こういう特長からそれぞれ分離型、特殊型、同化型って呼ばれてる」
「なるほどね。魅車が私は分離型って言っていたわね。あとあの“かっこう”は同化型だとも。そういえば同化型は数が少ないって話だったけれど、私たちは結構レアな体験をしたのかしら」
「そうだな、“かっこう”以外の同化型なら珍しいと言えたんだろうけど、あいつは少し有名すぎるな」
その言葉に、凛は大して動揺しなかった。ただ、そうだろうな、という漠然とした予想が確信に変わっただけだった。
「となると、やっぱり強いのかアイツ。魅車に対しても態度が大きかったし。しかもその言い方だと虫憑きの中でもかなり上位に位置してるみたいね」
「ああ、その通りだ」
士郎は頷いた。そこから一拍置いて彼は続ける。
「虫憑きには階級みたいなものがあるんだ。その前置きとして話すけど、虫憑きはまず能力の希少さとか、強さとかでランクを分けられるようになってる。戦闘能力に優れている者は火種、特殊な能力を持つ者が異種、その他の理由で重要性、秘匿事項を持つような能力を持つ者が秘種、みたいな具合で大まかな振り分けがあるんだ。次に能力のランク付けがある。号指定って言って、一から十号まであるんだけど、数字が小さいほど能力が優れていると考えてくれていい。それじゃ話を戻すけど、“かっこう”の階級は火種一号。要するにあいつが、最強の虫憑きってことを意味してる」
「火種一号……。そういえばそんなこと言ってたわね、あいつ。でもまあ、そんなことだろうとは思ったわ。あいつが“虫”を行使したときの威圧感は尋常じゃなかったし。逃げられるって考えが一分も浮かんでこなかったもの。まるでサーヴァントとでも向き合ってるみたいだった」
そう言って、彼女は過去に想いを馳せる。
サーヴァント。それは聖杯戦争と呼ばれる、選ばれた七人の魔術師が無色の願望器をかけて殺し合うという荒唐無稽な戦いにおいて呼び出され、使役された、かつて活躍していた英雄たちの事を指し示す。その中には神話において登場する英雄なども該当し、その力は当然の様に人智を凌駕する。
かつて、凛もその戦争に参加し、英霊、すなわちサーヴァントと相対している。その彼女の目から見ても、“かっこう”の“虫”との同化状態は彼らに迫るほどの存在感を放っていた。
そんな彼女の意見に、士郎は顎に手を当てて唸る。
「あー、多分それぐらい強いんじゃないか? 昔、一号指定の虫憑き一人に特環が半壊させられたことがあるらしいからな。しかもその虫憑きを倒したのが“かっこう”って聞いたぞ」
その言葉に、凛は思わず口元を引きつらせる。強いとは思っていたが、そんな彼女の予想すら“かっこう”は斜め上にすっ飛んで行った。
「げっ、そんなにやばかったのかあいつ。ほんとにサーヴァント並みね、それ。こりゃ協会も教会もうかつに動けないわけだ。組織力があるだけじゃなくて個としての戦闘能力も高いんじゃ、なにかボロが出るまでにらみ合うしかないもの。そうじゃなきゃ虫憑きを一網打尽にするどころか逆に返り討ちにされる可能性すらあるわけだし」
「……まあ、そういうわけで今この国はすごく込み入ってると思う。確かに今はにらみ合いで止まってるけど、いつ戦争になってもおかしくないぐらいだ。だから、あの時の遠坂の判断は多分正しいと思う。どの道俺たちだけじゃ無理だっていうのは間違いじゃないしな」
「そういってくれるとありがたいわ」
「そうだな。選択は誤ってないと思う。協会に虫憑きだという事が割れていても、組織に所属した遠坂には下手に手出しできない筈だしな」
その台詞は、士郎が自身を納得させるために声に出しているように凛は感じた。
「それにしても俺がお前に虫憑きの事を教えることになるなんてな。今話した知識はほとんどお前の入れ知恵だったんだぞ、元々は」
むず痒そうな、奥歯に何か挟まっているかのような表情で士郎がぼやく。凛はその姿に愉快そうに笑みを浮かべた。
「あら、立場逆転ってとこかしら。ま、たまには私の立場を味わってみたら?」
「ぐ、相変わらず歯に衣着せぬ物言いだな、遠坂」
「冗談よ。……まあ、何にしても闇雲に行動してもしょうがないし、ここからは明確な目的をもって動いた方がいいわね。まえの私たちは何を目的にしていたワケ?」
今後の指標にするために凛はそれを問う。すると、士郎は表情を硬くした。
「……原虫の殲滅だ。あいつらがいなければ虫憑きは生まれないからな。元を断たないと話にならない。それに何の罪もない子供が巻き込まれていくのは防げる。言い忘れていたけど、虫憑きは無償であの力をふるっている訳じゃない。虫を使うたびに精神を削られていくんだ。最後には虫に精神を食い尽くされて死ぬ。それだけじゃない。虫を殺されれば自我を失って廃人同然の欠落者になるんだぞ。こんな理不尽を断ち切るためにも、あいつらは倒さないといけないだろ」
この言葉からもわかる通り、衛宮士郎という男は、他者からすればおおよそ考えられないくらいのお人よしである。困っている人が見捨てられず、たびたび手を貸すような人間だ。その実、凛と士郎が通う穂群原学園内において、器具の修理や掃除の手伝いをする士郎の姿が毎日の様に見られた。それ故に穂群原のブラウニーなる呼称が定着するほどである。
この性質は、人の命がかかわってくるとさらに加速する。それこそ自身を顧みなくなるほどに。ここでは割愛するが、彼女の妹もその常軌を逸した、いっそ壊れていると言ってもいいほどのお人よしぶりに救われたようなモノであった。いや、原虫の殲滅を優先するこの士郎と彼女の知る“士郎”とでは僅かに物事の優先順位が違うようにも感じたが、お人よしであるという根本の人間性は同様のようだ。
だが“遠坂凛”は違う。彼女はそこまでの余分は持っていない。自分のすべきことはどれほどそれが困難であろうと完遂しようとするし、完遂してきた。だが、それはあくまで自分のすべきこと、できることのみに限られる。だからこそ、自身の関与しないことまでやろうとする余分は持ち合わせていない。それ故に凛と彼の志は方向性こそ同じであれ同一になるはずはないのだ。
並行世界でもブレのないその人の好さにあきれつつも、だからこそ感じられた士郎の言葉の中にある違和感を凛は指摘する。
「……全く、あんたは。でもそれはあんたの目標じゃないの? 協力はするだろうけど、私自身は多分そんな大層な目標は掲げてないだろうし」
「ああ、目標はこれだけじゃないからな。それでも、一つ目の目標もちゃんと俺とお前の目標だよ。ちゃんと理由がある」
そう告げた士郎は、どこか浮かない面持ちのままでさらに言葉を紡ぐ。
「遠坂、さっきの“浸父”についての質問に答えるぞ。……桜は、桜は“浸父”に虫憑きにされた。おそらく夢を歪められて……! そのせいで桜は錯乱して学校で生徒を襲ったんだ。学校には特環の監視班の奴らもいた。でも歯が立たずに返り討ちだ。暴れ終わった桜は姿を消しちまった。……だから、二つ目の目標は桜を連れ戻すことだ」
告解するかのような彼のその言葉に、凛の身体が硬直する。僅かに思考が、記憶が錯綜する。
桜。自身の、たった一人の妹。桜が虫憑き。化け物として追われる桜。それを、守ると誓った士郎。だというのに、再び虫憑きという怪異に。なぜ。憤り、悲しみ、憐れみ、怒り。それらの感情がまとめて思考のミキサーに放り込まれてどれがどれだかわからなくなる程、かきまぜられる。ここが並行世界である、という認識に一瞬ブレが出来るほどに。
混乱した意識はそのまま、口をついて出ることになった。
「ちょっと、それ、どういうこと? あの子が虫憑きって……。夢を歪めるってなによ」
「“浸父”は自分好みに夢を歪めてから食らおうとするんだ。自ら狡猾に動き回って、ねらった相手の精神をむしばむような幻聴とかを聞かせるらしい。最終的に、精神的に参った相手に付け込んで、絶望させたところを、食らう」
平坦な調子で述べる士郎の表情は、口調とは裏腹に歪んでいた。その姿は自らに鞭をうつ殉教者のようであった。
一方、凛は唇を噛んでいた。混乱した意識を落ち着けようと、彼女は軽く頭を振る。この士郎は凛の知る“士郎”ではない。桜も同様である。並行世界の彼らと、自身の知っている彼らを混同するなど愚か者にも程がある。
ただ、並行世界においても彼女の妹は“こんな仕打ち”をうけているという事実に、凛は煮え切らない思いを抱かざるを得なかった。
「……すまない、遠坂。俺は、なにも出来なかった」
そんな彼女に何を思ったのか、士郎はソファから立ち上がり、深く頭を下げていた。その姿を見てようやく、凛は我に返った。
「……いいえ。こっちこそごめんなさい。少し呆けてた…。ちょっと頭を冷やしてくるわ」
かるく笑み浮かべ、凛は席をたった。うまく笑えていたか、彼女には自信が持てなかった。
桜ですが、この世界はムシウタの世界観が融合したUBWルート後となっており、彼女の問題はまるで解決されていませんでした。それでも、鋼のメンタルを持つ桜はそう簡単に暗黒面に落ちるわけもないのですが、それは次話と一部の後半で補足してあります。それでも、本当に壊れるかどうかわからないと思わせるは桜のすごいところですが。