Fate/Kaleid Schmetterling 作:ひでぶ
基本、この一部は凛の視点で綴られていく形式となっていますが、今回は士郎の視点でお送りします。といっても、過去回想の場面で、ですが。
「――遠坂……」
凛が出て行った扉の向こうを、士郎はしばらくの間見つめていた。
凛に虫憑きに関する記憶がない。その時点で、士郎はこの事態を危惧するべきだったのだ。桜が虫憑きになっているという事実を説明することになるであろうことを。だが、彼がそのことに気が付いたのは“神父”について説明する段階になってからだった。
士郎が告げた事実に対して、彼女が浮かべた表情は憤り、怒り、悲しみ、それらがないまぜになったかのような表情だった。そして、それは衛宮士郎に対する、しかるべき罰である。数年も共に過ごしておきながら桜の事情に気付きもしなかった自身に対する罰。
だが、それ以上にはっきりと罵倒してほしかったのかもしれない、と彼は思う。記憶を失う前の凛は、気丈に振舞い士郎にあたることはなかった。だが、記憶のない凛ならば自分を罰してくれるのではないか、と思ったのだ。とはいえ、そうされて本当に楽になるのは自身だけである、と彼は理解しているのだが。本当に、こんな自分が心底汚いと士郎は自嘲する。
だが、彼女はそれをしなかった。自分には不釣り合いな高潔性である。
「ほんと、すごいよ。遠坂は」
士郎はそう一人ごちた。そして、その日を彼は思い返す。彼にとって家族同然であり、彼女にとっては家族そのものであった少女が変貌したその日を。
それが訪れた日。その日の朝はさわやかな秋晴れの陽気が学校を包んでおり、異変の気配をまるで感じさせなかった。どこにでもある、普段と何も変わらない授業風景。のどかな空気のまま時間は進んでいき、三限目の授業がおわって小放課となっていた。
硬い椅子にくぎ付けにされていた生徒たちは、水を得た魚のように各々のやりたいことを行い始める。そんな中、特にすることもなかったため、士郎は自分の席について周囲の会話を聞きながら過ごしていた。
教室内で談笑するクラスメイトたち。ふざけあっている者がいれば、愚痴っている者もいる、対して勉強にいそしむ者もいる。その普通すぎるその日常風景が、士郎にはとても尊いものに思えた。
その平穏は、荒野の中にただ一輪だけ咲いている、何の変哲もない野花のようなものだと彼は思う。この国は、多分とてつもなく恵まれている。戦争とは縁遠い。だから平和という物がありふれたものに感じてしまう。それこそ雑草として刈り取られる野花のように。だが、世界規模で見てみればこの平穏がいかに尊いものかがわかるのだ。世界は争いに満ちている。争っていないところが珍しいと感じるくらいに。
この花が安易に踏み荒らされないように守るような人間になる、と彼は幼い頃に決めていた。そんなことができるのか、などという事は問題ではない。ならないといけないのだ、と。その思いは、いまも変わっていない。むしろ、あの“戦争”を通してその思いが強くなったとさえいえる。だからこそ、最近の彼は胸に忸怩たる思いをわだかまらせていた。その胸のつかえは、ある超常的生命体に起因するものだ。
―――"虫"。昆虫の姿によく似たそれは、思春期の少年少女に取り憑き超常の力を与えるという。憑かれた者は、"虫"を行使できる代わりに自身の夢を食われ、食い尽くされると死ぬとされる。そして、その"虫"に取り憑かれた人間を虫憑きと呼ぶといった噂が、巷ではまことしやかにささやかれていた。
これがただの噂ならば、笑い話として放っておけたのだ。実際、彼はつい最近までそれをただの噂だとしか思っていなかった。ところが、これはただの噂ではなかった。虫憑きは実在するのである。彼は実際に、その姿を何度も目にしてきた。それどころか、彼にとって非常に身近な人物が虫憑きであるのだ。
“彼女”は強い、と彼は思う。虫憑きであることに何ら引け目を感じていない。むしろ、手に入れた力を有効に利用したいとすら考えている。だが、すべての人間が彼女のように強いわけではないのだ。
人は自分の理解の及ばないモノをおそれ、迫害する。虫憑きは、まさしく理解の及ばないモノそのものだ。それまで一般人だった者も虫憑きとなった瞬間に、たったそれだけで周囲の目は一変するだろう。偏見、恐怖、嫌悪、侮蔑といった感情にその人間のまわりは塗り固められる。その上で、いわれのない暴力、誹謗中傷に虐げられて心を病むだろう。
いや、現実はそれだけにとどまらない。特別環境保全事務局。彼らに捕獲されてこき使われるか、“虫”を殺されて自我のない欠落者となるか、という残酷な二択の現実が待ち受けている。幸運にもこれを切り抜けられたものですら、“虫”によって精神を食い尽くされて死ぬ、という未来が待っている。
こんな現実が、今のこの国にはある。それが士郎には我慢ならなかった。そもそも、虫憑きは何の前触れもなく突然“虫”に取り憑かれるという訳ではない。始まりの三匹という原虫指定に夢を食われることで、人は虫憑きになるのだ。ただ、何かを夢見ただけで現れ、望みもしない力を与え、人生を狂わせて何食わぬ顔で去っていく。この悪魔のような化け物を、必ず倒さなければいけない。
士郎がそんなことを考えている時だった。ひび割れた金属がぶつかり合うような不協和音が響く。頭の中で直接鳴っているようなその音は、いいしれない不快感を彼に催した。
何だ? この音は。湧き上がる不快感に、士郎は顔をしかめる。その表情を瞬時に消し、周りに視線を飛ばす。
周囲に変わった様子はない。いたって普通の教室風景のままである。
錯覚か、と彼は首を捻る。だが、彼の胸にはまだ確かにぬぐいきれない不快感が漂っている。これは、錯覚などではない。
やはり確認しに行くべきか、と士郎は席から立ち上がる。すると丁度その時、視界の隅に映った教室の出入口の向こう側から、彼の信頼する相棒がこちらに向かって視線を送ってきていることに気付いた。
頼もしさに思わず頬が緩みそうになるのを引き締めると、彼はするりと教室を抜け出した。
廊下に出ると張りつめた面持ちを浮かべた遠坂凛が彼を出迎えた。
「さすがに今のには、鈍い衛宮君でも気がつくか。……虫憑きどうしのいざこざなら特環の局員に任せておきたいけれど、今回はそうもいかないわ。私達も動くわよ」
「ああ。でも今のは何なんだ? 虫憑き同士の争いじゃないにしても、特環の名前が出てくるってことは、やっぱり虫憑きがらみの事なんだろ」
士郎の問いかけに凛は表情を険しくする。
「あれは多分“浸父”の力の発動の影響じゃないかと私は睨んでるわ。ひび割れた鐘の音、あれは“浸父”の教会発動の特徴と一致する。つまり、この学校で虫憑きが生まれようとしているのよ。この私の目と鼻の先でね……! とにかく、手分けして動くわよ」
その言葉を受けた瞬間、士郎は息をのむ。始まりの三匹、“原虫”の一つ、“浸父”。虫憑きを生む元凶の一体がすぐそばに来ている。
それを理解した瞬間に、士郎は逸る心をおして告げる。
「俺はこの階と屋上を見てくる。上からグラウンドも見渡してみるから、遠坂おまえは下を頼む。見つけたらパスを通して連絡してくれ!」
言うが早いか、士郎は駆け出した。その背中に、凛の声が投げかけられる。
「ええ、それじゃあ気をつけなさいよ……!」
談笑で賑わう生徒たちの間を駆け抜けながら士郎は周囲に視線を飛ばす。だが、目に見える異変は感知できない。
そんな士郎の様子を不審に思ったのか、訝しげな様子で彼の知人が声をかけてくる。
「どうした? 衛宮。随分と血相変えてさ。遠坂でも怒らせたのか?」
「いや、そういう訳じゃない。でも悪い美綴、今は取り込んでるんだ」
士郎は軽く手を合わせてそう言うと、声をかけてきた女生徒の横をすり抜けた。
虫憑きが生まれる。それは不幸になる人間が増えるのとほぼイコールとなる事柄だ。見過ごすわけにはいかない。そして、“浸父”。元凶の内の一つと接触できる機会をみすみす逃したくはない。
前のめりになっていく心に合わせて、士郎は歩みを進める。そうして、屋上へと上がる階段の踊り場へと差し掛かった士郎は、引っ掛かるものを感じた。
静かすぎるのである。まだ温かい今の季節の放課中の屋上は、多少の賑わいがあってもおかしくない筈だ。だというのに、今のここは不自然なほど静かだった。
気を引き締めて士郎が階段に足を掛けたその時、背筋を切り裂くような悪寒が彼を襲った。
「っ!」
次いで、眩暈。意識が混濁する。夜に塗り替わる黄昏の空の様に、意識が黒く塗りつぶされそうになる。足元がおぼつかなくなり、士郎は壁に手をついてもたれかかった。
そのまま、倒れてしまいそうになる体を何とか押しとどめ、目を閉じまいと見開く。そうして、彼の目に映ったモノは、
「っ! なんだこれ……! 影……?」
生き物のようにうごめく、黒く薄っぺらい蛭のような幾多もの触手の姿だった。
「っ!」
それがなんであるか理解する前に、士郎は後ろに跳んでいた。そして、その判断が正解であったことを悟る。彼が跳んだ次の瞬間には、先ほどまで彼が立っていたその場所に黒い触手が殺到している姿があった。
「――投影、開始っ!」
それをしっかりと目にとらえたまま、脳内で撃鉄を下すイメージを作る。発した言葉は自己暗示の呪文。自己を変革し、体の中にある二十七の魔術回路を起動するための始動キー。これを紡ぐという事はすなわち、魔術の行使をするということを意味する。魔術は秘匿するべきものであるが、今回はそうも言っていられない。
使用する魔術は投影魔術。自身のイメージを魔力で練り上げ形を成す魔術である。
これによって、先ほどまで無手であった士郎の両の手には、一本ずつ無骨な短剣が握られていた。
「魔術じゃないな、これ」
目の前で鎌首をもたげている黒い触手を士郎は睨み据える。それと同時に、ラインを通じて凛にアラートを発した。これで凛もすぐにここに駆けつけるだろう。
平行して、目の前の怪異の分析を行う。最初に彼が感じた背筋が切り裂かれるような悪寒は、おそらくこれに中てられたからだろう。となれば精神に干渉するような能力を持っていると見ていいはずだ。
しかし、一番の問題は眼前の物は魔力を発していないということだ。これほどのしっかりと形をもった怪異ならば魔力を発していている筈である。
だが、士郎は魔力を発しない怪異を知っている。コレがそれであるというのなら、
「もう成っているのか……? いやそれよりも、これは暴走しているのか!」
そう苦々しく士郎がこぼしたその瞬間、黒い触手が一斉に彼に向かって襲い掛かる。空を切り裂いて走る数条の黒い矢は、猛然と彼の身体を貫こうとし、
「っあぁ!」
裂帛の気合いと共に振るわれた白刃に、そのこと如くが叩き落された。
間髪入れずに、士郎は前に向かって飛び出す。触手の間を縫って駆けるその姿は、岩礁の間を華麗に泳ぎ抜ける肉食魚を彷彿とさせる。
影の触手は階段の上から伸びてきていた。つまり、この影の触手の操り手は屋上にいるという事だ。
体勢を立て直した触手が背後から迫るが、士郎は身をかわし、あるいは短剣をもってしてそれを捌いた。触手の速度はさほど大したものでもない。威力も十分叩き落せる範囲であるため、それらはあまり苦にならない。とはいえど、触れられればまた眩暈に襲われることは必定であり、そのときに一斉に襲われればひとたまりもない。
影の追撃を逃れ、士郎は階段を上り切る。しかし、彼の予想とは異なり、その先にある屋上へと続いた鉄製の扉は閉じられたままだった。加えて、影の触手は、あろうことか扉から生えていた。いや、扉などまるでないかのように透かして侵入してきている。
直接触れるのは不味いと考えた士郎は、魔力を通して強化された腕力をもって短剣を振るい、生えていた影ごと、扉を切り倒す。
倒れた扉を踏み越え、屋上に出る。するとすぐ近くに、倒れ伏している生徒の姿を見つけ、両手の短剣をかき消して士郎は駆け寄った。
「これは……。くそっしっかりしろっ!」
助け起こして軽く頬を叩くと、生徒がかすかにうめき声を漏らす。
「中てられているだけか……?」
大事ではなさそうな様子に、士郎は軽く胸をなでおろして視線を上げたその瞬間、思考が凍った。
「―――――嘘、だろ」
かろうじて士郎の口から零れたのはそんな言葉だった。彼の視線の先、灰色のタイルを敷き詰めた屋上の、ちょうど中央に位置する場所に影の触手の主が立っていた。
長い髪を風になびかせ、先ほど彼が見たモノより数段濃い禍々しい影の触手を周囲にはべらせた女生徒の後ろ姿。それは、
「……さく、ら?」
士郎のよく知る人物だった。たとえ後姿であろうと見間違えるはずもない。彼女は彼にとって家族、妹のような存在なのだから。間桐桜。ある事情で数年前から衛宮家の家事を手伝いに来てくれている友人の妹。その彼女の変貌ぶりに、彼は虚脱状態に陥っていた。
そんな彼の存在に気が付いたのか、彼女はひどく緩慢な動作で振り向いた。
「――ああ、先輩。やっぱり来てくれたんですね」
そう言って、彼女は天女のように微笑んだ。見る者を慈愛で包むその笑みは、もともと見る者に母性を感じさせる美貌を持つ桜が浮かべると、彼女の周囲に漂う影すらも天女の衣のレースに見えるほどである。
だが、その笑みに士郎は理由もわからずに戦慄していた。彼女の笑みは相変わらず、見る者を癒すような温かさと柔らかさを持っている。だが、違う。彼の知る桜の笑みと、今の彼女が浮かべる笑みは全く異なっている。
我も返った彼はおそらくその変質の原因であろう、“ソレ”から目を離さないように見据えつつ、叫ぶ。
「っ。桜、“虫”を鎮めるんだ。このままじゃ、取り返しがつかなくなる!」
「? おかしな先輩。私、いまとてもいい気分なんです。なのに、どうしてやめる必要があるっていうんです?」
本当にわからない、というように彼女は首をかしげた。それに同意するように彼女の周囲の影がざわめく。一瞬、その影の姿が巨大な“ジャコウアゲハ”と呼ばれる蝶の姿を形作ったように見えた。
「桜、おまえ……!」
「ほんと、霧が晴れたみたい。今は自分が何をしたいのか、どうすればいいのかがはっきりわかるんです」
恍惚とした表情で、桜はため息をつくように告げる。
しかし士郎は桜の言わんとしている事が分からず、顔を歪めて訴えかける。
「なに言ってるんだよ、桜。頼む、"虫"をおさめてくれ! もうすぐ特環の奴らがここに来る……!」
未成年者が多く通う穂群原学園は、虫憑きが発生する可能性が高い。当然、それを未然に、あるいは発生してから対処できるようにこの学校にも特環からの監視員がいる。
彼らにこの現場を押さえられては、桜は特環に追われる身となることは確実だった。そんなことが許せるはずもない。
「特環? ああ、コートを着た人の事ですか?それなら邪魔だったんでそこで休んでもらっていますよ?」
桜は口元をゆがませて目でその場を指し示す。警戒しつつ士郎がその場に目をやると、屋上の端にあるフェンス付近に特環の外套を纏った人物がうつぶせで倒れている姿が映った。どうやら遅かったようだ。
視力を強化してみたところ、息はあるようなので彼は僅か安堵する。
「……桜。さっきやりたいことがはっきりわかるっていったけど、それはなんだ? 俺ができる事なら俺がやる。だから"虫"をおさめてくれ…!」
「……先輩じゃできませんよ。私自身でやらないと意味がないことなんです」
そう言って、桜はクスリと笑う。と、ちょうどその時、屋上の入口から階段を駆け上がってくるけたたましい音が響いてきた。
「っ! ……桜!?」
屋上に駆け込んできた凛が驚愕もあらわに叫ぶ。対して、桜は悠然と笑みを浮かべてその声を受け止めた。
「――やっと来てくれましたね、“姉さん”?」
「ねえ、さん……? 桜、なにを……」
言葉の意味を図りかねた士郎は、思わず問い返す。だが、それに桜が答える前に彼の隣に並んだ凛が割って入った。
「……桜、"虫"を収めなさい。“それ”は、感情任せに振り回していいものじゃない。言いたいことがあるなら聞いてあげるけど、まず落ち着きなさい」
「そうやっていつも高いところから物をいって。いったい私の何のつもりなんですか? 私の気持ちも知らないで……!」
桜が悲痛な声色で呻いた。その表情は髪で影になって士郎たちからはうかがえない。
ただ、士郎は桜がこんな声を上げるところを見るの初めてだった。ところが、凛はそんな桜の糾弾を受けてもなお、真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「確かにあんたの気持ちは分からないわ。だから、“それ”を抜きにして話しましょうって言ってるのよ。あんたの目的は見たところ私みたいだし、他の人間を巻き込む必要はないでしょう?」
「たのむ、桜……」
士郎は二人の事情が呑み込めない自分自身に内心歯噛みしながらも、かすれた声で嘆願する。
「優しいですね、先輩は。誰にでもそう……。だから特定の誰かに入れ込むことなんてないと思っていたのに……!」
桜から吐き出される言葉はもはや呪詛のようだった。背を丸め、血走った目で彼女は凛を睨んでいる。かみしめた唇からは一筋の血が流れ落ちていた。
士郎には彼女がなぜここまでの憎しみを凛に向けているのかが分からない。
「おおかた見当はついてたけど、つまるところは嫉妬なのね。それで、得たばかりの力に勇んで闇雲に力をふるってるワケ。八つ当たりもいい加減にしなさい。もう一度言うけれど、“それ”は軽はずみに振り回していいものじゃないわ」
凛の口調は平坦だった。表情も能面を張り付けたかのように何の感情も読み取れない。
「嫉妬? 知った風なことを言わないで……! 私は、今までたくさん我慢してきました……! 遠坂の家を出てから、私は耐える事しかできなかった! あの家で、私はただの実験動物だった! 魔術を教えられたことなんてない! ただ、体に蟲を埋め込まれて、魔力をむさぼられて、なくなったら体を蝕まれる! どうすることも出来なかった! 誰も助けてくれなかった! だから、ただじっと耐えて……! 耐えて、耐えて! でも死ぬ勇気もなかった……! そんな中で私がやっと見つけた光だったのに……! 突然現れて、全部自分のモノにしてしまった……! ふざけないでよっ!」
凛の言葉に、桜はついに髪を振り乱して喚いた。そして、その言葉は士郎を雷に撃たれたかのように固まらせる。
すると、血を吐くかのようなその慟哭に呼応するように影がうごめき、しなる幾重もの刃と化して士郎たちに牙をむく。
それにようやく我に返った士郎はしかし、回避行動が間に合わない事を悟る。瞬間、彼は肩幅に足を開いてしっかりと踏みしめた。そして、既に目前まで迫りくる影を睥睨する。
「投影、開始っ!」
影の濃度が先ほどまでとは段違いである。おそらく階段で使った短剣では弾くことは不可能だ。迷っている暇はない。こちらも相応の物を用意する必要がある。それ故に彼が作り上げたモノは、
「っつぁ!」
向かいくる影を、手にした陰陽の双剣、干将・莫耶でもって打ち払うべく振るう。
物質化した奇跡と称される宝具。それに匹敵する名剣二振りは確かな出ごたえを持ってそれをなしとげた。
ただ、その法外な武装を作り出した代償は、
「は、ぁずっ!」
体内で何かが弾けていくような激痛を持って贖われる。
宝具。存在そのものが神秘であり、かつて英雄が振るったその身の半身ともいえる武装。それは単一で埒外の奇跡を引き起こし、時に英雄自身より階梯が上にある精霊などですら打ち倒す事が可能と称される“貴き幻想”。
本来、それは魔術で作り出せるような代物ではない。士郎は自身の特異性によってそれを可能としているものの、実戦でそれの投影を行う事自体が久方ぶりであったため魔術回路が悲鳴を上げていた。
剣を取り落しそうになる手をきつく握りしめ、彼は安否を確かめるために凛に声をかける。
「遠坂、平気か」
「ええ、大丈夫。それより士郎、投影は自重しなさいって言ってるでしょ」
傷一つない様子の凛はこちらに視線を向けることなく、士郎をとがめる。士郎の投影魔術は特殊であり、おいそれと使用していいものではないと凛から常々言われていたのである。
「いやその、すまない……」
「ま、いいわ。命には代えられないし。でもあんまり呆けてると死ぬわよ?」
士郎は返す言葉もなく閉口する。確かにさっきのは危なかった。だが、桜の独白にはそうさせるだけの衝撃があった。士郎としてはいまだに耳に入れた情報の半分も消化できていない。ただ、それが幸いしたのか、体の硬直が解けるのが早かった。そうでなければ本当に影の餌食になっていただろう。
しかし、分からないのは、凛は桜の独白の意味を士郎よりも正確に理解しているはずなのだ。にも拘らず、彼女は平然としている事が彼には分らなかった。
「――っ! 見せつけて……! 一体、どんな気分ですか。私の欲しいものを全部持っている、その気持ちは。最初、私は諦めようとおもったんですよ……? 先輩は幸せそうだったし、兄さんも落ち着いたから。こういう事もありなのかなって。このまま、緩やかにいきていくのもいいかって。でもあの“声”がいったんです。“思い出せ”って。そうしたらもう抑えていたモノがあふれていくのを止められませんでした。だから、もう我慢するのをやめたんです。我慢しても結局溢れてしまうなら、我慢なんてしなくてもいいじゃないですか……!」
最後の方の桜の声は、ほとんど悲鳴のようだった。みしり、と士郎の奥歯がきしみを上げる。それでもなお、桜に対して何もしてやれなかった自分自身と、“浸父”への憤りは収まらない。奥歯など、いっそ砕けてしまえばいい、と彼は思った。
「……ねえ、先輩。知っていますか? 私と遠坂先輩は姉妹なんですよ? 本当は私、遠坂桜だったんです。……ねえ、先輩。知っていますか? 私が魔術師で、ライダーの本当のマスターだったこと。…ねえ、先輩。知っていますか? 私が間桐の家で何をされてきたか。間桐の家で私は毎日、魔術の修練という題目で蟲の犇く地下室に放りこまれて、おじい様の気が済むまで凌辱されてきたんですよ? 汚れてるんです、私。心も体も。……ねえ、先輩。知っていますか? 私、貴方の事が好きなんですよ? ずっと、ずっと前から」
まるで、本を我が子に読み聞かせるかのように優しく、いとおしげに桜は言葉を紡いだ。ただ、その内容のあまりの痛々しさとの落差は、軽く狂気を感じさせるものがある。
だがそれでも、士郎はその言葉に思わず手に持った短剣で自身を貫きたくなる衝動を覚える。
これほどまでの、常人ならば心が壊れていて当然の状況を生きてきてなお、衛宮邸の中ではあれほど明るくあった桜。ずっと自身に想いを向けていた桜。数年以上家族同然の付き合いをしてきながら、それらの事実に毛ほども感づくことのなかった自分自身を、彼は切り裂いてしまいたくなった。
だが、それは逃避だ。衛宮士郎は、この現実と向き合っていく必要がある。気づいてやれなかったものとしての責任をとる必要がある。
「でも、先輩は姉さんが好き。それは分かっています。それでもいいんです。姉さんがいなくなればいいんだから。私は、もう我慢しないって決めました。欲しいものは絶対に手に入れる……! 邪魔する者は許さない……!」
それまでの穏やかな調子から一変、沼の様に底の見えない憎悪に燃える瞳を彼女は士郎の背後にいる凛に向けられる。
「……そう、いいわ。かかってらっしゃい。今のあなたにできる物ならね……!」
凛はその敵意を真っ向から受け止めていた。いつの間にか士郎の横に並び立ち、力強く言い放つ。それが癇に障ったのか、桜の目がつりあがる。
「今の私を甘く見ない方がいいですよ……!」
「遠坂……! たきつけてどうするんだ!」
完全に桜は臨戦態勢に入っている。戦闘は避けられない。だが、躊躇している彼を、凛は叱咤した。
「今のあの子に、生半可な言葉が通じるわけないでしょ! 話ならあとでいくらでもすればいい。今は、ひっぱたいて目を覚まさせるべきよ!」
「起きなさいっ!」
桜が手を振り上げる。さながら、吹奏楽の指揮者の様に。合わせて、影の楽団が立ち上がり、お辞儀をするようにしなる。
「来るわよ……! 士郎、構えなさい!」
凛が懐から宝石を取り出して構える。一瞬、歯噛みしたものの、同じように士郎は干将・莫耶を握りなおした。
立ち上った影はにらみ合う両者のちょうど中間地点で寄り集まり、一つの形を成していく。みるみる影が広がっていき、巨大な蝶々の姿を作り上げていた。
「なんだ、あれ……! 冗談だろっ…!」
その規模の大きさに士郎はうろたえる。
次の瞬間、全長20メートルにも届くかというその蝶々の両翼が飴細工のように歪む。すると、それが弾けて幾本にも枝分かれし、帯状となった影が薬玉の中身をぶちまけるかのように二人に向かって降り注いだ。
彼はその光景に目をむいた。量、質ともに前放たれた時とは桁が違っている。先ほどの物が小銃による連射だとすれば、今回の物は焼夷弾を用いた絨毯爆撃である。
回避する余裕はない。この掃射は凛と士郎を中心に半径10メートル規模を薙ぎ払いかねない範囲攻撃である。凛は大丈夫だろう。彼女は強い。この程度の攻撃ならば個人で対処できるはずだ。ただ、彼の場合魔力を通し強化した身体能力でも、ここから離脱することは難しい。となると防ぐしかないという事になる。
今彼の手にある干将・莫耶は、かつて屋敷を数件吹き飛ばすほどの大魔術、その掃射を弾き、受け切ったほどの強度があることを確認している。この夫婦剣ならばこの攻撃を苦にもするまい。
ただ、その時この剣を振るっていたのは衛宮士郎ではなく、人の身を凌駕した存在であるサーヴァントである。かの英雄であるからこそ、あの魔術掃射を剣技のみで受け切ることが可能であったのであって、あくまでも人の身である士郎にはそのような芸当はできない。
彼はあくまでも剣をまねて作り出しているにすぎないのだから。故に、この剣ではこの攻撃に対処することが出来ない。だが、剣で防ぎきることが出来ないならば、防ぎきることのできる盾を用意するのみ。
覚悟を決め、彼は頭上に迫る影の群れをしかと睨み据えた。すると、その瞬間を狙っていたかのように影が軌道を変える。
「っ!?」
いや、軌道が変わったのではない。枝分かれしていた影の帯が、再び一つにより合わさり、分厚い影の槍を形作ったのである。その上、それは士郎を無視し凛を狙って一直線に伸びていく。
「遠坂っ!」
焦燥に駆られ彼は声を上げるが、もう遅い。盾を作り出す位置の軌道修正も間に合わない。思えば、桜の怒りの矛先は一貫して凛に向けられていたことを思い出す。姉妹であると告げた桜。それに否を唱えなかった凛。彼女たちの事情は知れない。だが、桜が凛に対して強い執着を持っていることは明らかだった。
今の状況など、もっと早くに感づいていてしかるべきだったのである。士郎は己の馬鹿さ加減に呆れ返る。
そして神殿の石柱の如く太い影の束が凛を飲み込もうとし、
「―――
その時には既に、凛の姿はそこにはなかった。轟音を上げて床に突き刺さった影の槍と放った声を置き去りにして、凛は桜に向かって水面を走るアメンボのように右へ左へ撹乱しながら滑るようにかけていく。
「逃がさない!」
だが、桜はその姿をしっかりと捉えていたようだ。叱咤するように虫に指示を飛ばす。
すると、床につき刺さっていた影が瞬時に解け、元の巨大な翼を形作る。そこから間髪入れずに影でできた巨大な蝶々そのものが凛に向かって落ちていく。
「遠坂っ!」
それを目にした士郎は、自身もまた桜のもとに走りながら凛に警戒を呼び掛ける。
全長20メートルに達するだろう巨大な影の蝶々は、さながら夜の色をした天蓋が落ちてくるがごとき威容を覚えさせる。
「来なさい!」
だが、凛は立ち止まらない。上に僅か視線を投げたばかりでその歩みは一瞬たりとも緩まない。
そうして、迫る巨影が凛を押しつぶさんとした時、コイントスをするような気軽さで数粒の宝石が上空に放たれた。
「
解放を告げるその言霊により、放たれた宝石はその真価を発揮する。宙を舞う個々の宝石がそれぞれに異なる三色の輝きを放ち、その碧、紅、黄の波動が混ざり合う。
すると、それらは影の蝶々すら飲み込みかねない程の黒色を産み出し、ブラックホールさながらの強烈な引力でもって蝶々を挽き潰す。
「なっ!」
桜の声色が驚愕に染まる。だが、凛の攻撃はそこでは止まらない。凛の左肩付近の中空に美しい宝石で形作られた蝶々が現れ、その翼の一部が欠け落ちる。それを彼女は掴み取り、
「まだよっ!
一撃目で潰し損ね、進路をさえぎっている影の残骸を輝く宝石の光が塗りつぶした。
「そんなっ!」
苦悶の表情を浮かべ桜が叫ぶ。そんな彼女の目前に、凛は自身の魔術を目くらましにして既に迫っていた。
「ふっ!」
短く息を吐き、凛から繰り出される掌底。唸りをあげて顎を狙って放たれたそれは、命中すれば確実に意識を刈り取る速度、重さを誇る。
桜は突然目の前に現れたかのように感じた凛に対し、悲鳴をあげ、頭を抱えて屈んでしまう。しかし、それが幸か不幸か、顎を狙った打撃を紙一重で躱す事を可能にした。
回心の一撃を躱され、踏込の勢いを殺しきれずに、凛は桜の横をすり抜けてしまう。彼女の追撃は間に合うまい。
その悪運に凛と士郎はともに舌を巻く。
「今度はそう上手くいきませんよ……! 姉さんが虫憑きという事は、私にとって都合のいいことですからね!」
身体を起こしながら、桜が凛を肩ごしに睨む。
「そう。それより、後ろ。危ないわよ」
凛は軽い調子で言って、肩をすくめた。それに一瞬、桜の動きが止まる。
「え?」
「桜ぁっ!」
その隙を、士郎は逃さなかった。凛が激しく魔術を行使して闘っている事を隠れ蓑にして、彼もまた桜を捕える好機をうかがっていたのだ。
士郎は桜の背後から躍り出ると、両手に持った夫婦剣をかなぐり捨てる。
「っ! 先輩……!」
振り返った桜の目が皿のように見開かれる。そんな彼女を彼は、正面から引き倒した。そのまま逃げられないようにがっちりと肩を押さえつけ、マウントポジションをとる。
水を打ったかのように静まりかえる屋上の空気を、士郎の声が震わせた。
「桜、聞いてくれ……! 俺は、お前が間桐で受けてきたっていう仕打ちも、遠坂と姉妹だっていう事もしらなかったし、気づいてさえいなかった……。お前の気持ちにも……。だから、お前の悩みの深さもわからなかった。俺が口を挟まなくても、お前は大丈夫だとおもいこんでいた……!」
「っ……!」
桜は、何かをこらえるように喉を詰まらせ、士郎から視線を逸らす。それでも士郎は、すがりつくように、懺悔するように言葉を絞り出す。
「今からでも、やり直せないのか。もう手遅れなのか……?」
「……無理ですよ、先輩。こぼれた水は器には戻りません。ほら、こんな化け物になってしまった。今さら、どうしろっていうんですか? それに、どの道もう、今迄みたいに我慢なんてできないんです……!」
桜の慟哭は、鋭い刃となって士郎の心を裂く。実際、精神を犯す彼女の虫に触れ、裂かれているのかもしれない。心が、沼に沈んでいく死骸の様に冷たく、硬くなっていく。それでも、士郎はそれを上回る激情をもって振り払う。
「っそんなことは関係ない! 桜は桜だろ! 間桐の家が何かしてくるっていうなら、俺と遠坂が守ってやる……! 特環が捕獲しに来ても同じことだ! お前に指一本触れさせるかってんだ! わがままが言いたいなら言えばいいだろ! 俺ができる範囲でなら聞いてやる! 溜めこむ必要なんてない!」
「……それなら、私と付き合ってください、先輩。あの人と別れてください……! 私は、先輩がいればそれでいいんです!」
それは、胸襟を開く、などという次元のものではなかった。自分の胸の内を錆びた刃物で抉り出すかのように痛々しい叫びに、士郎は言葉に詰まる。
「――桜、それは……」
「できない、ですか? それじゃあ意味がないんです。私、もう決めたんですよ。手に入れるって」
そう桜がつぶやいた瞬間、士郎は胸の内をむしばんでいたモノが膨れ上がるのを感じた。
「士郎っ! 離れなさい!」
それまで沈黙を守っていた凛がせっぱつまったような声で叫ぶ。その声に、彼は慌てて桜から飛び退いた。
「よけられちゃいました。とりあえず先輩だけでも捕まえておこうかと思ったんですけど、仕方ないですね」
身体から影の触手を立ち上らせた桜が幽鬼のように起き上がる。その姿を、彼は沈痛な面持ちで見つめる。
「桜、ダメなのか」
「はい、先輩」
「桜、虫憑きが化け物だって諦めるのは勝手だけどね。私だって虫憑きよ。第一、本当にそんな方法で士郎が納得すると思っているの?」
声の主の方を彼が見やると、凛は推し量るように桜を見つめている。桜は挑みかかるようにそれを受け止めていた。
「……私は姉さんとは違うんです。何でもできるわけじゃない。それに、納得なんて求めていません。私が、そうさせるんです」
「そ。いいわ。でもね、桜。こいつを力で屈服させられると思ったら大間違いよ、これだけは言っといてあげる」
そう誇らしげに凛は胸を張った。突然の凛の言葉に、士郎はどこかこそばゆい気持ちになる。それを受けた桜は凛を射殺さんばかりに睨んだのち、かつてと変わらない朗らかな笑みを浮かべて告げる。
「さようなら、姉さん。そして先輩。今回は引きます。この力をもっと使いこなせるようになったら、その時はまた会いに来ますね」
足元の陰に沈み込むようにして桜が去り、ただただ穏やかな秋晴れの空が広がる屋上のただなかに、士郎と凛は二人ぽつりと取り残される。
「……くそっ! 桜、俺は……!」
士郎はただただ己の愚かさに打ちのめされていた。みんなを救いたいと願いながらも、彼のすぐそばで最も助けを求めていた彼女の事情に気が付くことがかなわなかった己が恨めしい。
頭上に広がる雲一つない青空を見上げ、彼は血が出るほど強く拳を握りこむ。
そんな彼の耳に、静かな、押し殺したような声が届く。
「行きましょう、衛宮君。もうすぐ特環の応援が来るわ」
その声の主の方に士郎が目を向けると、倒れ伏していた局員のゴーグルを凛破壊しているところだった。あのゴーグルには録画機能があるからそれを破壊するためだろう。
彼女は彼を軽く一瞥してから屋上の出入口に向かって足を向ける。その一瞬見えた凛の表情が、僅かに翳っていたことを士郎は見逃さなかった。
「くそっ……!」
どうにもならない感情だけを吐き出して彼はそれに続く。
その日の午後の授業は、特環の介入によって休講と相成った。
凛と士郎は何事もなかったかのように一生徒を装い、授業の代わりに行われることとなった特環の事情聴取をやり過ごした。
その帰り道、日が暮れなずむ街並みの中を歩きながら、二人はお互いに言葉を交わしていた。
「……なあ、遠坂。俺は大馬鹿だ。あんなに近くにいたっていうのに、俺はあいつがあそこまで追い詰められていたなんて思わなかった。家にいるとき、あいつはいつも楽しそうにしていたんだ。間桐の家に、虐げられていたっていうのに……!」
「それは私も同罪よ。あの子と直接かかわることは間桐との盟約で禁じられていたから遠巻きに様子を見る事しかできなかった。でも、あなたの家に通うようになってから桜は本当に明るくなったから少し楽観していたのよ。それに間桐の家にも慣れて、楽しみもあるように感じたから、気にはかけていたけどそれ以上に詮索はしなかった。それがまさか、あの子をここまで追い詰めていたとは思わなかったもの」
「なんで気づいてやれなかったんだ……!? 俺は、一体……!」
士郎の言葉は返答を求めて放っていた物ではなかった。ただ、自問自答する己の内側の思弁が、外側に漏れてきていたのである。凛は凛で思案にふけりながら返答していた。
「間桐臓硯……。何にしても、まずはこいつを問い詰めるしかないわ。それに、“浸父”。こいつがいなければ桜はあそこまでやぶれかぶれにはならなかったでしょう」
「遠坂……! 俺は始まりの三匹を倒す!こいつらは倒さなきゃいけない……!」
「奇遇ね。私も同意見よ。今回の落とし前は絶対につけさせるわ。この私に喧嘩を売ったことを後悔させてやる」
各々に決意を固め、立ち止まった彼らが見上げたのは見るからに物々しい雰囲気を醸し出す、大きな洋館の姿であった。間桐邸。間桐桜と士郎の友人である、間桐慎二。そして件の古老、間桐の実質的当主であるという間桐臓硯が住まう日陰の館である。500年を優に超える魔道の歴史を積み上げた名門、マキリ。その工房がそこにはあった。
彼らがここを訪れた理由はほかでもない、桜についての話を聞くためである。桜の魔術的教育を行える人間は、今の間桐には間桐臓硯という五百年を生きる老魔術師しか存在しないというのが凛の言である。そいつから桜の言葉の真偽、その如何を確かめ、場合によっては実力行使もいとわない構えで、殴り込みを決行する形となった。
まだ日が沈む前であるというにも拘わらず、この洋館だけが見えないヴェールに包まれているかのようにぼんやりと薄暗い。周囲は高く黒い鉄柵に囲まれており、それの向こう側には洋館を隠すかのように灌木がいくつもそびえている。
門も通ろうとする者を威圧するような硬質さを感じさせ、それは毒虫が持つ特徴的な警戒色のようだと士郎は思う。
それを二人は押し開き、中に踏み入っていく。踏みしめていく芝生が茂る地面は、朝露に濡れた後のように湿っぽく、足にまとわりつくような嫌な感覚がする。庭の外縁沿いに生えた灌木や、背の高い樹木は絡み合うように濃い影を作り出し、おとぎ話にある魔女の森のように、そこに得体のしれない何かが潜んでいるかのような錯覚を与える。
それらを歯牙にもかけず玄関口にまでたどり着いた士郎と凛は、木製の重厚な扉の前で立ち止まる。
士郎が呼び鈴をおしてしばらく待機してみたものの反応がない。
凛は扉を睨みながら、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「へえ……。居留守でもしようっていうの? いい度胸じゃない。でもお生憎様。そんなものを許す程、今の私は穏やかじゃないのよね!」
そう言い放つや否や、凛は士郎を押しのけると、飛び退りながら宝石を投げ放つ。何らかの魔術障壁でもあったのだろうか、一瞬扉の前の空間が水面のように歪み波紋を生んだものの、それを容易く凛の宝石は突き破り、扉を完膚なきまでに破壊した。
少し前の士郎なら、友人とその妹の家に対してこんな暴挙を起こすことなど考えもしなかったのだが、今の彼はその様子を冷めた様子で眺めていた。
思っていたよりも手ごたえがなかったことに違和感を覚えたのか、破壊された入口に彼女は眉をひそめていたものの、すぐに気を取り直したのか洋館の中に入っていった。士郎もそれに倣う。
結論からして、桜の自宅、間桐邸の中身はもぬけの殻であった。“話”を聞こうとしていた間桐臓硯の姿は影の形もない。それどころか、魔術師が自身の拠点とする“工房”。自身の研究を積み上げるべき場所にすら彼女たちが容易く侵入することが出来たことからしておかしいのである。
魔術師とは自身の研究成果を身内以外に開示することなどあり得ないからだ。いや、その点で見るなら間桐の工房は、工房と呼べるものであったのか。洞窟の内部ように湿った広い石造りの地下室の中を汚物のような虫が数匹、死に体で這い回っている程度の物だった。そこで何が行われていたは想像すらもしたくはない。
工房らしきものがあの場以外見当たらなかった以上、あそこで桜の“修練”が行われていたのだろう。拒否権すら与えられずに、ただ奴隷のように。それを行ったであろう間桐臓硯を見つけ出し、問い詰めたかったがそれはかなわないようだ。
ただ、アレが魔術師の工房であるなどと言ったら凛は激高するだろう、と士郎は心底そう思った。
そうして屋内をくまなく見て回ったのち、彼らはダイニングスペースのソファに腰を落ち着けていた。
「なあ、これって一体どういう事だ?」
「さあね。察知して逃げたのか。私用があって出ているのか。でも、あそこの様子からしてだいぶ前に引き払ってることも考えられるわね。何にしてもあの吸血鬼がこの館から外に出ている時点できな臭いわ」
胡乱気な様子で室内を見回して凛が口元を引き結んだ。室内の調度品は、そのどれもが格調高く、古風なヨーロッパ製の物ばかりである。内装も凛が形容した吸血鬼が住まう館にふさわしい。だが、いずれにしても、もうここで得られるものはあまりなさそうである。
以前訪れた時は、この間桐邸はもう少し居心地がよかったように感じていた。だが、今は一刻も早く立ち去りたいと思う程に士郎はここの空気に嫌悪感を催していた。それに耐えかね、彼が帰路に着こうと提案し立ち上がろうとしたその時、能天気にもこのダイニングに姿を現した人間がいた。
「ごきげんよう、間桐君。お邪魔してるわよ」
「はあ!? なんだ、お前ら! そりゃ邪魔だろうさ! 扉が吹っ飛んでたから何事かと思えば、何してんだよ、お前ら!」
凛に声を掛けられた穂群原学園の制服を着た男子生徒は、ぎょっと目をむいて部屋の入口の方に飛び退った。青みがかった癖の強い黒髪に、気位の高そうな整った顔立ちが特徴の、中肉中背くらいの体格をした彼は衛宮士郎の友人であり、桜の兄でもある間桐慎二である。
士郎は、口元を引きつらせてメトロノームのようにせわしなく凛と彼を交互に見つめる慎二に声を低くして尋ねた。
「慎二。お前は間桐臓硯がどこにいるかわかるか?」
「訊いても無駄よ。慎二はあくまでも一般人。多少、魔術の知識があったところでそれは変わらないわ。この家の本質までは知らないでしょうよ。仮に知っていたとしても、臓硯がこいつに行先を告げているとは思えない」
凛はつまらなそうにそう告げて、肩をすくめた。
「人の質問に答えたらどうだい……! 人の家にずけずけ上り込んだあげく、こっち質問は無視して自分の都合を優先なんてさ? 随分大層なご身分だね」
士郎と凛の態度に目元を吊り上げた慎二の声が色めき立つ。それにたいして、凛はどこまでも平静な面持ちのまま問い返す。
「……まあ、いいわ。もう一回訊くけど間桐臓硯はどこ?」
凛の雰囲気に威圧されたのか、慎二は納得いかないというように頬をひきつらせながらも答える。
「……あの妖怪に一体何の用があるのさ。間桐と遠坂は相互不可侵の協定が結ばれてるはずだろう? それを破ってまであの爺に用があるのか」
「ええ。そんなことも言っていられなくなってね。そっちの監督不行き届きのせいで桜に取り返しのつかない事が起こってるのよ」
「桜? あいつが一体どうしたっていうのさ。拾い食いでもして腹を壊したのかい?」
慎二は鼻を鳴らして、どこか馬鹿にしたような口調で言った。それを特に気に留めた様子もなく士郎は問いかける。
「慎二、お前も虫憑きってモノくらい知ってるだろ」
「おいおい、まさかあの桜が夢に焦がれて虫憑きになりました、とでもいう気か?」
ありえない、というようにかぶりを振って慎二は失笑している。だが、凛はそんなふざけた調子の彼に表情を険しくし、対照的に士郎の表情は陰りを見せる。
慎二は空気の悪さを悟ったのか、怪訝そうに眼を細めた。
「おいおい、衛宮。なんだよ、その顔は」
「慎二。わるいけれど、あんたのおちゃらけに付き合っていられる程、暇じゃないの」
凛は冷たく言って、慎二を底冷えするようなアイスブルーの目でねめつける。すると、慎二の顔色が冬の川にでも入ってきたかのように真っ青になる。
今の視線に呪いでも込めたのではないか、と士郎に勘ぐらせるぐらいのめまぐるしい変化だった。
それでも慎二は強がるように腕を組み、歪んだ笑みを浮かべる。
「……ああ、そうかい。あの爺なら、最近は見かけないね。いなくなる前はやたらと機嫌がよくて気味が悪かったよ」
「機嫌がよかった?」
「ああ、背筋が寒くなる程度にはね」
「これは匂うわね。なんにしても、ここにはいない。それが分かれば十分よ。騒がせたわね」
そう言うと、凛はソファから立ち上がり、軽く片手を挙げてダイニングの出口に向かって歩いていく。士郎もそれに続いた。
「……あの爺が桜を虫憑きにする手引きをしたって、お前らは考えているのか?」
入口に向かう際、すれ違う形になった慎二が今までの軽薄さを薄めて尋ねてきた。それに凛と士郎は立ち止まり、肩ごしに慎二を振り返る。
「分からないわよ。でもその可能性は大いにあり得るでしょうね。聖杯を逃したあの男が、何をトチ狂うか分かったものではないし。それも含めて確かめに来たのよ」
「まてよ、結局桜はどうなったんだ」
凛の言葉に対し、慎二はこちらを見ないまま問う。
「さあ、少なくともここには戻ってこないと思うわよ」
「桜の奴……。飯を作るやつがいなくなったじゃないか。……お前ら、あいつをどうするつもりなんだ」
相変わらず慎二はこちらを振り向かない。ただ、その声色がどこか片意地を張っていることが士郎にはよくわかった。間桐慎二は、昔こそ桜とぎくしゃくしていた時期があったものの、最近はごく普通の兄妹くらいの仲にまで持ち直していたはずだ。気位の高い彼なりに桜が心配なのだろう。
それを見ぬいた士郎はきっぱりと言い放つ。
「決まってるだろ。目を覚まさせて、連れ帰る」
「……なら、手早く頼むよ。いないといないで面倒だからね」
「素直に心配だと言えばいいじゃないか」
慎二は照れ隠しのつもりなのか、小さく舌打ちする。ただ、次に紡がれた言葉は一転、真面目な調子を含んでいた。
「……お前らが桜をここに連れて帰ってきたら話がある」
「話?」
「ああ。お前らも含めてだ。今決めた」
そう告げる慎二の声は、どこかこわばっていながらも強い意志を感じさせる響きがあった。士郎は今まで彼の声がこんな色を持ったこところに巡り合った事がなかった。間桐慎二は、いつもシニカルでプライドが高く、素直ではない人間だったのだ。義理堅さを影で働かせることはあったものの、それが表に出ることはついぞなかった。
そんな慎二の変化を肌で感じた士郎は思わず瞠目する。固まった彼に代わって、凛が思わせぶりな慎二の言葉に凛が聞き返す。
「なによ、その話って」
「いっただろ。桜が帰ってきてから話す。用件は済んだだろ、もういけよ」
「……そうする。またな、慎二」
慎二の意を汲んだ士郎は頷くと、凛を促して部屋を後にした。結局、慎二は最後まで振り返らなかった。
間桐邸から帰路につく最中、もうすでに街灯と月明かりのみが頼りの街道を歩きながら、士郎は口を開く。
「連れ戻す理由が、一つ増えたな」
「……関係ないわね。私は私の思うままに動くだけよ」
凛はつっけんどんに返す。ただ、彼女もまた、取り戻す意思を強めたのだろうことを感じ取り、士郎は苦笑する。
「そうだな。行こう、遠坂」
そうして、すっかり夜のとばりが落ちた街並みの中を二人は歩いていった。
そうして、意識は舞い戻る。過去を振り返った士郎は、自身の志を確かめる。強く、剣を打つように想いをこめて。ロして、打ち付けられたそれから火花が散り、口から零れた。
「必ず、見つけ出してやる……!」
しかし、士郎は描写が難しい。fateキャラの中でもトップクラスに好きなキャラなんですが、人間的感情を持ちながらも誓いに縛られた歪み、というのは表現ししづらいですね。それでも、その歪みを抱いた自身であっても、描いた理想が借り物でも、それが間違っていないからと突っ走ってくれる士郎は何か胸に来るものを抱かせてくれます。
桜に関しては、まだ掘り下げや理由づけが浅い段階なので、のちにまた説明が出てきます。原作との違いは、行きつくとこまで行ってしまっている黒桜と違って、こっちは異能を持って開き直っている状態だということか。