メイクデビュー当日。
私はパドックでのお披露目を終えて、地下バ道を通りレースコースへと向かっていた。今日の私は7枠13番。ほとんどのウマ娘たちは既にターフを踏みしめているはずだ。……誰もが初めてとなる、実戦のターフを。
顔を上げる。すると15メートル離れた先の突き当たりの壁際に、私のトレーナーさんが立っていた。よっ、と軽い調子で手を振っている。
「パドックを見たぞ。観客の前に出ても緊張していなさそうでちょっと安心した」
「メインレースまでまだ時間がありますから、そこまで人は多くなかったので問題ありませんよ。それに私はさほど注目されていませんから」
「5番人気だったことを気にしてるのか? そんなのはレースの結果で覆してやればいいだけさ」
「その通りですね」
トレーナーさんが胸に付けているトレーナーバッジに触れる。先刻までいた控え室でも時折同じ仕草をしていた。別段おかしな動きではないが妙に気になってしまう。
私がじっと観察していると、彼は瞬きして尋ねてくる。
「ど、どうかしたか? 変なものでも付いてたか?」
「いえ……、何も問題ありません。いつも通り身嗜みは綺麗にできています」
「そうか……」
ならいいんだが、とトレーナーさんはほっと息を吐く。
おそらくトレーナーさんは私の緊張を解しにきたんだろうが、レース前に長々と話す時間的余裕はない。故に私は端的に不安はないことを伝えようと思った。
私はトレーナーさんの前を通り過ぎ、ターフへと繋がる出入口を背に向けて告げる。
「トレーナーさん。――私の走り、ちゃんと見ていてください」
「……ああ! 頑張ってこい!」
トレーナーさんはそう言って元気よく私の背を押してくれた。
地下バ道を抜け、ターフに脚を一歩踏み入れるとそれだけで気持ちがグッと引き締まるのが分かる。トレセン学園のレースコースとは違う、本番特有の空気感がそうさせるのだろうか。
夜更けに降った雨はしつこく芝に水滴を付けている。軽くつま先でそれを蹴飛ばすと、芝からキラキラと眩い滴を散らした。雨を吸った独特の香りがターフに充満している。――五感全てでターフに立っていることを改めて私は実感した。
私はトレセン学園とは違う芝の感覚に慣れようと、発バ機のところまで軽く走る。若干地面がぬかるんでいるかもしれないと危惧していたが、どうやらその心配はせずに済みそうだった。これなら練習通りの戦略で戦える。
発バ機の入り口前に到着し、私は深く息を吸い込み、お腹に力を入れながらフッと息を吐き出す。そして競争相手となるウマ娘たちを見つめる。
「…………っ!」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。緊張感、という表現すら生易しいと思えるほどの雰囲気。私の人生経験の中でこれほど張り詰めた空気感を味わったことはなかった。
混じりけのない純粋な真剣勝負の場。そうと認識した途端、少ない観客の声は耳に入らなくなった。そしていつの間にか私はゲートインしていて、今まさに最後のウマ娘がゲートに収まろうとしているのが横目に入った。
まずい、と思ったのと同時にガコン! とゲートが開いた。スタートダッシュの準備が整っていなかった私は、当然他より遅れてスタートを切ることになる。
……大丈夫、落ち着いて。予定とは違うけどまだ巻き返すことはできる。
私は外側から快足を飛ばして真ん中付近に身体を置きながらレースを進める。少し内側に入りスタミナ消費を抑える。
向こう正面を抜け第3コーナーへ、そして間もなく第4コーナーというところ。私はそろそろ加速していこう、と首を振って抜け道を探る。
「道が、ない……!?」
前方はウマ娘たちが壁となって割って入れそうな隙間は見当たらない。それならば大外へと1度抜け出して、と思ったが外からぐんぐんと伸びてきた追い込みウマ娘に塞がれる。――どちらかの道が開くまでこのままの位置にいるしかなかった。
第4コーナーを曲がり終える直前で左サイドの空間が開いた。私は前方ルートを確保できる位置まで身体をスライドさせ、溜めていた末脚を解放した。
1人、2人と競争相手を抜き去っていく。「ムリぃー!」と抜いたウマ娘が声を上げた。
――しかし肝心の先頭集団に追いつけない。スパートをかけるのが遅れてしまったせいだ。トレーナーさんが太鼓判を押してくれた私の末脚でさえ、届かない物理的距離。1つ前にいたウマ娘をギリギリ差し切ることが限界だった。
ゴール板を横切った時には既に1着らしきウマ娘が渾身のガッツポーズを掲げているのが目に入った。その他のウマ娘も悔しさはあれどやり切った風な感情が滲んでいる。
けれど私は違っていた。練習してきたことの半分も実行できず、脚もまだ余力を残している。全てを出し切れなかった消化不良感が体内に蓄積していた。
ふと掲示板に目をやる。5着までのウマ娘たちを載せるそこに私の番号は載っていなかった。私の1つ前にゴールしたウマ娘が5着……つまり、私は6着だったということ。
まばらな拍手が観客席からターフまで届けられる。その中で1つだけ、力いっぱい手を打ち叩いていると思しきものが聞こえた。――私のトレーナーさんが、ほど近い場所から私だけに向けて懸命に称賛を送ってくれていた。
「……っ」
思わず彼に向かって頭を下げる。単なる謝罪ではなく、見ていられなかったのだ。彼の瞳に映った私がどれほど情けない姿を見せていたのか、想像することが怖くて、怖くて。見ててくださいとお願いしたのは私なのに……。
風が吹いた。芝が微かに揺れた。夏を物語るような、熱を帯びた不快な風だった。
レース描写はやっぱり難しいですね……。全然思い描いていたものが書けない。
もっと熱い文章が書きたいのですが淡々としたものになってしまいました。
バトル漫画特有の戦いながらの会話は、レース中となるとできないですしなかなか慣れません。物語の山であるダービーに向けて精進していかないと……。