「明日に備えて早く寝ようと思ったが、つい皐月賞のことを考えてしまって落ち着かず、なかなか寝付けない。外で軽く身体を動かせば思考が晴れて睡魔もやってくる。ここの公園は程よく自然もあってなお良いだろう――といったところでしょうか」
「だ、大正解……」
何故そこまで読むことができるのか。彼女相手に半端な隠し事は意味を為さないな。
やれやれといった風に彼女は肩を竦める。
「食べられるときにしっかり食べて、睡眠を取れるときにしっかり寝る。休みが少ないお仕事なんですから、これらをないがしろにしてはいけませんよ?」
「はい……仰る通りです…………。帰って頑張って寝ます……」
「――とはいえ、」
ごほん、とエイシンフラッシュは咳払いをして頷く。
「眠れない夜というのもあるでしょう。私も星の少ない夜空を見上げるのに飽きてきたところでして……、せっかくなのでちょっとだけ話し相手になってくれませんか?」
「へ……?」
「いえ別に、無理にとは言いませんよ? 眠たくなってきたのなら途中で話を打ち切ってくださって構いませんし。行く当てもなくフラフラするくらいならと思っただけですので」
普段より微かに早口気味の彼女の申し出に、特に断る理由も見当たらなかった俺はそれを承諾して近くのベンチへと2人して腰かけた。
途中に自販機で買ったホットココアをエイシンフラッシュへと手渡す。就寝前に飲むといいって何かの本で読んだ覚えがあったのだ。
俺はペットボトルの蓋を開けて、啜るようにホットココアを一口飲む。夜になると少し冷え込むな……。エイシンフラッシュは両手にペットボトルを持ち暖を取っているところを見ると、やはり寒く感じているのかもしれない。
俺は上着を脱いで彼女へと半ば押し付ける形で受け渡す。
「ほら。よかったら使ってくれ。サイズはちょっと大きいと思うけど」
「……それでしたらお言葉に甘えて。ありがとうございます」
彼女はおずおずといった様子で上着に袖を通す。やっぱりサイズが合っていないようで、わりと袖余りしている状態だった。
弥生賞前の体調不良があって以降、俺は彼女の体調面の管理に一際気を遣うようになった。どれだけ万全の調整をしたとしても、体調不良になれば積み重ねてきたもの全てが無駄になる。それほど悔しいことはないと感じたからだ。
ベンチに座ってからしばらく沈黙が続く。何か話さないと、という配慮めいたものはなく、この沈黙すらも不思議と楽しめるようになっていた。それは彼女も同じのようで、無理に話を切り出すようなことはもはやなかった。
「ふぅ……」
となると案の定、直近の不安要素についつい思考が寄ってしまう。明日の皐月賞に向けてやり残したことはないか。全出走バの脚質を踏まえた上での作戦に穴はないのか。土壇場になっても心が据わらない。
俺が落ち着かない吐息を漏らしていると、エイシンフラッシュはしょうがないといった感じで口を開く。
「若干強張った表情と止めどないため息……。察するに不安を抱えているように見受けられます」
「ああ、悪い……」
担当ウマ娘に気を遣わせるなんてトレーナー失格ものだな……。なるべく彼女の前では隠そうとしているのだが、普段よりプライベートな時間というのもあって気が緩んでいるみたいだ。
否定したところで誤魔化し切れるとは思えない。悪手かもしれないが、ここはあえて腹の底を打ち明けることにした。
「そうだな。情けない話だけど、初のG1レースっていうことで正直不安な気持ちでいっぱいだよ。キミはどうだ?」
「今更慌てたところでどうしようもありませんし、後は研鑽してきたことを発揮するだけですので」
「キミの言う通りだ。相変わらず冷静みたいでよかったよ」
「冷静……そう見えますか?」
彼女は何か言いたげな瞳を俺に向けてくる。そう見えるか、と問われたら彼女は冷静が服を着て歩いているようなウマ娘だと思っているけど、問いかけるということは彼女自身そう思っていないということなのか。
もう少し深く考えてみると、ヴィクトリーピザに対抗心を燃やしたり無茶な自主トレを敢行するような一面も持っている。エイシンフラッシュが訂正したいのもそういうことなんだろう。
「なるほど、言われてみればキミは意外と向こう見ずな一面を持っているのかも。まぁだけどキミは自分を律することができるし、憂慮しがちな俺が反面教師になってるんじゃないかって思うくらいだよ、ははは」
「…………、」
俺の回答に対し彼女は僅かに落胆したのか、そっとため息を吐いた。なんで?
どうも答えがお気に召さなかったご様子。うむむ、担当ウマ娘の心情を汲み取れないとは俺もまだまだだなぁ。
俺が首を傾げていると、エイシンフラッシュは一度腰を上げて座り直す仕草を見せた。そして心なしか照れた風に髪先を触った。
「そんな反面教師の貴方ですが……、感謝していることの方が遥かに多いんですよ?」
「……?」
「日頃のトレーニングはもちろんですが、融通の利かない私に合わせてメニューやレース情報をデータ化したり、この間の契約外の看病のような献身を私は決して忘れません。トレーナーさんがここまで尽くしてくれるとは思ってもみませんでしたから」
「かなり大仰に捉えてるみたいだけれど、俺なんてまだまだ未熟者だよ。それがトレーナーとしての最低限の役目なんだから」
褒めてもらえるのは光栄だが、本当に特別なことは何一つしていない。トレーナーの存在意義は担当ウマ娘に尽くすこと。凡庸な俺にはそれを徹底するくらいしかできないから、過剰に褒められるとむず痒く感じてしまう。
強めの夜風が吹いた。冷たさを帯びたそれが肌を撫でると身が震えた。スマホを確認すると時刻は午前1時前になっていた。お互いにそろそろ睡眠を取らねば本格的に明日に支障が出かねない。
俺は立ち上がり大きく伸びをする。
「そろそろ戻ろうか。フラッシュと話せて気持ちが和らいだよ、ありがとう」
「……そうですか。それならよかったです」
その後、エイシンフラッシュを栗東寮の前まで送り届けて、俺も自宅へと引き上げるのであった。
トレーナーさんの姿が見えなくなるのを確認して、私はふっと肩の力を抜いた。
「大事なレースを前にし、なかなか寝付けないというのは私も同じだと言うのに……」
彼とまったく同じ理由で、尋ねられることもなかったので打ち明けることはなかったけれど。トレーナーさんは私を過剰評価している節がある。彼は私を冷静と評したが、こうしてレース前夜に昂って眠れないこともあるのに。
「眠れずに仕方なく散歩していることを何故言い当てられたか……。その理由が相手も同じ気持ちだったから、なんて簡単なことに気付かないとは確かに未熟者ですね」
私はトレーナーさんから借り受けたままの上着を羽織り直した。ウマ娘の敏感な嗅覚により、微かに彼の匂いが鼻孔をくすぐる。
ファルコンさんが以前ポツリと漏らしていた言葉をふと思い出す。今になってファルコンさんの気持ちに共感できた。
「もう少しくらいは機微に鋭くなってほしいものですね。……にぶトレーナーさん」
次回は皐月賞当日になります。
ファル子の「にぶトレーナー」は破壊力ありすぎてヤバいです。デジたんみたいに昇天しそうになりました。フラッシュは同室なのでその言葉を借りたという流れです。