モブウマ娘 ドリームダービー -走れ!バイトアルヒクマ- 作:浅木原忍
「ちょっとちょっとクマっち、いくらなんでも飛ばしすぎ!」
身を乗り出したコンプが柵から落ちそうになって、慌ててエチュードが身体を支える。私は双眼鏡から一度目を離して、祈るような気持ちで握りしめた。
1000メートル、58秒0。オークスとしてどころではない、府中2400ではあり得ないほどの超ハイペースだ。ヒクマとジャラジャラが競り合っての逃げ。しかも上位人気ふたりとあって無視もしきれなかったか、先行勢も59秒台前半で通過していく。中団、10番手前後に控えたエレガンジェネラルまでは12、3バ身、このあたりで通過は60秒前後。例年のオークスなら先頭の通過タイムである。おそらく出走ウマ娘の担当トレーナーのほとんどが頭を抱えているはずだ。もちろん私も。
ジャラジャラの前に蓋をして、1000メートル60秒台後半から61秒台でのミドルからスロー逃げに持ち込みたかった。だが、ジャラジャラが強引に前に行かず、ヒクマに並んで逆に競り掛けるレースをしてくるなんて――。掛かってしまったヒクマは責められない。想定していなかった私のミスだ。
絶望的な気分で再び双眼鏡に目を当てる。――そのとき。
レンズの中のヒクマの表情から、不意にすっと力が抜けた。力んで上がっていた首が下がる。そして――隣を走っていたジャラジャラが、すーっと前に出た。
『おっとここでジャラジャラが前に出ます、先頭ジャラジャラ、1バ身リード、バイトアルヒクマは2番手に下げました』
「ヒクマ――」
ジャラジャラが上がったのではない。ヒクマが力尽きたのでもない。意識的に緩めて下げたのだ。ヒクマが冷静さを取り戻した。折り合いがついて、オーバーペースを緩めて、ジャラジャラの後ろに下げた。そのままジャラジャラを風よけにするように真後ろへ。
ぞくり、と私は両腕に鳥肌が立つのを感じた。当初の作戦は破綻した。ジャラジャラに完全にしてやられて、掛かってオーバーペースになって、完全にテンパってもおかしくないこの状況で――今できる最高の位置取りを確保したのだ。自分から。おそらく考えてのことではなく、本能的に。天性の直感で。
なんて子だ。この状況でもヒクマはレースを捨ててない。勝てると信じて、勝つために走っている。――それなのに、私が絶望してどうするんだ!
「がんばれっ、そうだヒクマ、それでいいっ、がんばれえええええっ!」
私にできるのは、あとはもう、観客席からそう叫ぶことだけだった。
「クマっち!」
「ヒクマちゃん……!」
コンプとエチュードの祈りにも似た声。そして、レースは3コーナーへ向かう。
* * *
ジャラジャラの1000メートル通過は、おそらく59秒前後、バイトアルヒクマが競り掛けてハイペースになったとしても58秒5まで。自分はそれを中団から、10バ身の圏内、1000メートル60秒5から61秒のペースで追えば勝てる。
――それが、エレガンジェネラルが事前にトレーナーと立てた想定だった。
常識的に考えて、オークスを1000メートル58秒0で逃げるなんて、自殺行為もいいところだ。いくらハイペース消耗戦が信条の彼女でも、自分が完全に潰れるペースで走っては元も子もない。そこまで破滅的な逃げを仕掛けて自滅してくれるならむしろ好都合。そう思っていた。
3コーナーに差し掛かったとき、それが慢心だったことを、ジェネラルは思い知らされていた。――直線勝負? それでは間に合わない!
既に1000メートル通過で、想定より脚を使わされてしまっている。まして前を行った3番手集団はもうアップアップだ。垂れてきた先行勢が邪魔になりかねない。――もうここで前に行くしかない。
『おおっとエレガンジェネラル! エレガンジェネラル上がっていきます!』
ジェネラルは顎が上がり始めた先行集団を横目に、外を捲るように上がっていく。
――認めましょう。ジャラジャラさん、私は貴方を侮っていた。
桜花賞の勝利で、自分とトレーナーの想定は、万全だと、完璧だと慢心した。
――だけど、それでも!
私が最強であることを証明する。トレーナーが託してくれたその夢のために。
絶対に、こんなところで負けるわけには――いかないんです。
私と貴方の、勝利への執念――どっちが上か、今ここで、勝負です!
顔を上げ、エレガンジェネラルは芝を蹴立ててコーナーを曲がっていく。
* * *
――うわっ、ジェネラルさんもう仕掛けた! 早すぎない?
エレガンジェネラルが3コーナーから上がっていくのを見て、エンコーダーは狼狽する。どうしよう。こっちも上がる? でも、前はごちゃごちゃしてるし、コーナーで外に持ち出したら膨らんじゃって大ロスになるし――。
――ううっ、いや、ここは我慢! 我慢のしどころ!
じっくり後ろからペースを守れ。トレーナーの言葉を噛みしめて、エンコーダーはジェネラルを見送ってじっと内に構えた。
どうせ欲をかくような立場ではないのだ。内で我慢して、前が壁になっちゃったらそこまで。ダメでもともと、経済コースに隙間ができるのをお祈り! いい動画だって、見て貰えるかどうかは運とタイミング次第なのだ。チャンスを待つ!
中団バ群の中に、エンコーダーは息を潜めたまま、4コーナーを曲がっていく。
* * *
『さあ直線に入りましたオークス、先頭はジャラジャラ、2バ身のリード、2番手バイトアルヒクマ、そして外からエレガンジェネラル! エレガンジェネラルが追い込んできた! 内からバイトアルヒクマ! バイトアルヒクマが迫る! ジャラジャラ逃げる! 残り400、坂を上る!』
直線入口で、2番手につけていたバイトアルヒクマが仕掛けた。
府中のどよめく二の脚ロングスパート。先頭で逃げるジャラジャラに内から迫る。
そして外からは、エレガンジェネラルが捲って上がってくる。
坂を上り切る。残り300。
バイトアルヒクマが、ジャラジャラに再び並んだ。
その4、5バ身後ろから、エレガンジェネラルが猛然と迫る。
そのとき、レースを見ていた大半の者が思った。
ジャラジャラはここまで。途中で折り合いをつけたバイトアルヒクマが、力尽きたジャラジャラをかわすが、それを中団で我慢したエレガンジェネラルが大外から差し切る。
これはエレガンジェネラルのダブルティアラだ――と。
* * *
エレガンジェネラルを倒す。この1ヶ月、それだけを考えてきた。
府中2400、あいつの末脚をハイペース逃げですり潰す。ただそれだけが目標だった。それ以外のことなんて何も目に入っていなかった。
――たぶんそのままだったら、飛ばしすぎて自滅していた。
そんな自分の横っ面をはたいて、目を覚まさせたのは、あいつだった。
見覚えのある芦毛が、スタート直後に自分の前を塞ごうとしてきた。
最内の1枠1番。全力逃げ一択の枠順。スタートから先頭で走ることしか考えてなかったあたしは、その芦毛の横顔で、完全に目が覚めた。
あいつだ。あのクマだ。――そう、思い出した。こいつの覚えにくい名前――。
敵はジェネラルだけじゃない。こいつも全力であたしを潰しに来た。
あたしが倒すべき相手は――他の17人全員だ。
強い奴だけじゃない。視界にも入ってなかった奴だっている。
だけどそいつらも全員――あたしを倒しに来ている。
勝つために、このレースに出てきているのだ。
そのことに気付いた瞬間、ぱっと視界が開けた気がした。
ふつふつと湧き上がる興奮に、全身が震えるほどに奮い立った。
――ちくしょう、あたしはバカだったよ!
あたしを熱くさせてくれるのは、ジェネだけじゃない。
どんな相手だろうと、あたしに挑んで来る限りは、全てがすり潰すべき――ライバルだ。
なあ、そうだろう。――バイトアルヒクマ!
いいぜ。あたしを潰そうってんなら、その勝負乗った。
塞げるもんなら、あたしの前を塞いでみせやがれ!
そうして、あの芦毛の隣に並んだ。あいつもそれに釣られてペースを上げた。問答無用、無謀なまでの超ハイペース。ぞくぞくと昂ぶる。こうだ。これがあたしのレースだ。ついてこれるもんならついてきやがれ、全員すり潰してやる!
その勢いでブッ飛ばし、向こう正面でバイトアルヒクマが下げて後ろについた。ちらりと後ろを振り返ると、バイトアルヒクマは決意と闘志を秘めた目で見つめ返してきた。
――こいつ、潰される気ゼロだ。
この後に及んで、番手からあたしを差し切る気でいやがる。
ますます昂ぶる。これだよ、あたしが欲しかったのは、こういうライバルだよ!
なあ、ジェネ。――お前だけじゃねえんだ。中団でもたもたしてたら、置いていくぜ。
あたしはなんたって、超ハイペースで突っ切る褐色の弾丸なんだからよ!
さあ、いくぜ、バイトアルヒクマ、エレガンジェネラル!
差し切れるもんなら、差し切ってみろ。
逃げはするけど、隠れはしねえ。
最強は、この、ジャラジャラ様だ。
* * *
残り200。
後ろを突き放すように、ひとりのウマ娘がぐっと力強く伸びた。
弾丸のように。ただ真っ直ぐに。府中の直線を撃ち抜くように。
――その顔に、獰猛な笑みを浮かべて。
『ジャラジャラ逃げる、ジャラジャラ逃げる、食い下がるバイトアルヒクマ、大外エレガンジェネラル、最内からはエンコーダー! エンコーダーが突っ込んで来る!』
残り100。
内で粘っていたバイトアルヒクマの顎が――上がった。
力尽きたその芦毛を、外からエレガンジェネラルがかわしていき、背後からバ群の隙間を縫って猛然と追い込んできたエンコーダーが迫る。
そして、その前を、ジャラジャラが弾丸のように駆け抜けていく。
『外からジェネラル、外からジェネラル、しかしジャラジャラだ! ジャラジャラだ! エレガンジェネラルこれは届かない!』
残り50。
もはや逆転しようのない決定的な差を前に、エレガンジェネラルが目を閉じた。
府中の大観衆の、地鳴りのような歓声の中を。
先頭でゴール板を駆け抜けていくのは――褐色の弾丸。
『ジャラジャラだ! ジャラジャラだーっ! 逃げ切った! 逃げ切った! 府中2400逃げ切ったのはジャラジャラだ! これがジャラジャラだ! 女王の座は譲らない! エレガンジェネラルには絶対に負けられない! ジャラジャラです!』
そして、掲示板に、タイムが表示された瞬間。
府中の歓声は、どよめきに変わる。
『――2分22秒2! スーパーレコード!』